法文の平易化の限界

法文を平易化すべきということは、何も疑いもなく言われていることである。しかし、長尾龍一氏は、「法的言語と日常言語」『法学ことはじめ』において「法律用語を一定限度以上易しくすることは原理上不可能で、法令平易化論者を充分満足させることはできないと思う。耳慣れない言葉を使って庶民に嫌われることは、法律家の宿命なのである」と述べている。この論文は、4つの項目に分けられているが、大別すると、その理由として挙げられているのは、次の2つの事項である。

  1. 法文を平易化すべきという主張は、法的言語を日常用語に近づけよという主張である。しかし、日常言語は、具体的な事象を前提として、当事者の間で交わされるものであるのに対し、法的言語は、具体的な事象を超えて考えられるあらゆる場合についての適合性を考慮して用いられるものである。
  2. 法文は、ちょっとした言葉の変更とともに、適用範囲がどんどん変わっていくため、適当な言葉を選ぶことが重要となる。そして、その言葉自体は日常言語の中から選ぶのだが、立法目的からみて過不足のない適当な日常用語が見つからない場合は、広すぎる用語を一旦用いて、それに但し書きや例外規定をたくさん付ける。それによって、「法的悪文」と言われるものができてしまうのである。

1は、日常用語は、当事者がその関係性に応じて暗黙の前提としていることを省略して会話を進めることを前提としているため、その前提としている周辺部分は特に定義する必要がないが、法的言語は、不特定多数の者を対象とするものであるため、そもそも法的言語と日常言語は違うものであるということである。
2は、立法目的から適切な言葉が必ず存在するものではないので、法文が分かりにくいものとなることも仕方がないということであろう。
そして、この論文は、総括的に次のように述べる。

規範とは、状況をさまざまに分類し、各状況に応じてとるべき行動を定める原則であり、法もまたその一種である。法の技術性の一つの側面は、言葉によって状況を分類する技術たるところにある。すなわち、立法目的に沿って過不足なく、権利義務の要件をなすべき状況を定式化しうるような言葉を見出すことが法技術の重要な要素の一つといえよう。
(中略)
もとより、法の技術性は、言葉の技術の側面に尽きるものではない。法は、この言葉の技術を通じて、秩序や制度を形成する営みであり、その意味では、法はまた秩序と制度を構築する技術でもある。
(中略)
法律用語もまた、幾百万の人々の権利義務、幸不幸、否、生涯と運命という電荷を帯びており、微小な修正によって、時に多数の人々の人生を破滅させうる鋭い武器でもある。したがって、無知な人々が「法律家の言葉いじり」として軽蔑する作業は、権利闘争の地場の中で行われる厳粛で深刻な営みである。このような電荷を帯びた法的言語を日常言語に還元し、解消することは、不可能である。

しかし、このようなことを言うことができるのは、あくまでもできる限り適切な言葉を使った上でのことであって、少なくても正確に書けていない文章を、「これが法文なのだ」とは言ってはならないのだろう。