俺たちの奴隷がこんなに有能なわけがない (上)
京都
日本でも有数の大都市であるその街は、全国規模で進むグローバリゼーションの波にも、高層ビルが立ち並ぶ急速な都市化にも、その風情を汚されることはない。
その趣深い街並みは千数百年に渡る日本の歴史を凝縮したように貴重な寺社を点在させ、年中多数の観光客で溢れかえっている。
外国人は日本独特のその雰囲気を肺へ吸い込み全身で味わい、日本人は今や忘れ去られようとしている己の大和魂を再び喚起されずにはいられない。
そんな人類の宝といっても過言でもないこの街は、全国レベルでも相当な上位にランクされる国立・私立大学をいくつも有しており、また日本第2の都市といわれる大阪と密接につながっているために、両都市の間では主に通勤・通学を理由に数えきれない人の移動が行われている。
この男もまたその例にもれず、来る日も来る日も京都〜大阪間を行き来する学生であった。
窓に映る見慣れた風景、いつも通りの電車アナウンス、周りの迷惑も気に留めず大声でわめく女子高生。
目に映るもの、肌に触れるものすべてが精神を逆撫でし苛立ってしまう、そしてそんな状況を一向に打開できない自分の無力さを嘆く。
普段ならこんなふうにうんざりしながら家路へと向かう彼であったが、この日だけは違った。
「何かが変わるかもしれない、いや、ここから変わらなければいけない。」
期待と決意
‘もしかしたら…’という不安はあった。
しかし、
「いや、俺は今が底辺なんだ。何が起きてもこれ以上落ちることはないじゃないか。」
マイナスを知りつくしたこの男だからできる至上のプラス思考。
男は吹っ切れた。
その瞬間、数時間前に自らに降りかかった思わぬ出来事を、やっと喜びとして受け入れることができた。
男の眼の色が変わった。
汚れた茶色はもう似合わない。
男の名はフナコシコウキ。
2年前の春、彼は晴れて京都の有名大学に合格、無事に入学することができた。
中学・高校と厳格な校風の学校へと通い詰め、貴重な思春期の毎日を勉強に全て費やした彼だからこそ、その成果が形となったことは何事にも代えがたい喜びだった。
あるいは、その拘束された日々から脱却できたこと自体がこの喜びの源なのかもしれない。
彼はその喜びをかみしめた。
『心が躍る』という言葉が、その時の彼にピッタリの形容だっただろう。
本当に体がバラバラになってしまうんじゃないかというほどの解放感。
何か新しいことを始めたい、抑圧し続けてきた青春を今こそ取り戻したい。
勉学に努めてきた新入生の誰もが思うようなありきたりの願望を、彼も抱いた。
「人生というのは絶頂期が最も危うい。上ばかりを見上げ、真下にある落とし穴にすら気付かない。」
どこかの詩人が言うにしたって言い古されたフレーズだ。
彼はここで大きな選択ミスを犯した。
いうなれば人生の分岐点。
もしこれがRPGのストーリーか何かなら、きっと誰だって事前に一度メモリーデータにセーブする作業を怠らないはずだ。
彼はとある野球のサークルに入った。
なぜ野球だったのかは彼自身だってわからない。
単なるその場の思いつきだったかもしれないし、たまたまその時野球に興味があったからかもしれない。
もしかしたら、前世がメジャーリーガーだったなんてこともあるかもしれない。
そのチームに入った理由だって大したものはなかった。
偶然一番最初に見つけた新歓用のビラがそうだっただけのことだ。
「野球…。自分にもできるだろうか…。」
彼は自らの人生を歩み始めた。
自分の歩いているその道が、鬼すら逃げ出す真の地獄へ続いているとも知らずに…
意外にも彼のサークル人生の滑り出しは順調だった。
彼の運動神経は誉められたものではなく、当然野球の技術も見るに堪えないものだった。
だが、その野球サークルは当時まだ弱小チームであり、それゆえ彼のような初心者も心おきなく試合に参加することができた。
そして何より、親友と呼べる2人の友達ができた。
1人は、少し身の丈が高く比較的ガッシリした体型でいつも整っていない短髪が髪形の男。
飛びだした両目が特徴で名をミツイといった。
フナコシは、最初は彼を「変な顔の馴れ馴れしい男」としか認識していなかったが、彼の自分に対する親密な態度がなぜか心地よかった。
もう1人は、小柄で目つきが悪く何を考えているかわからない男だった。
いつでも高圧的な態度で接してくるその男の名はニシオカといった。
フナコシは、最初は彼を「傲慢で高飛車なチビ」としか認識していなかったが、彼の高圧的な態度の裏に見え隠れする情の熱さが好きだった。
3人はすぐに打ちとけ、同じサークルの1回生の中でも飛び抜けて仲が良くなった。
時に「あいつはゲイ」なんて揶揄されることもあったりなかったり…。
とにかく彼らは最高の仲間だったのである。
しかし、彼らの関係に変化が現れだすのに、そう時間はかからなかった。
いつしか対等であった3人の立場はただの主従関係になり、フナコシはまるで2人の召使であるかのような扱いを受けるようになった。
原因は本人の思わぬところであった。
野球の後、3人で晩御飯を食べるのが彼らのルーティーンだ。
しかし、唯一自宅から通学しているフナコシはどうしても残りの2人よりも先に家路に着くことになってしまう。
この「塵」のような少しの時間差が、3か月、4か月という時を経て「山」と化した。
フナコシの帰宅後も、ミツイとニシオカは2人で様々なことについて語り合った。
そして2人の絆は、何人(なんぴと)たりとも覆せぬまでの屈強なものとなったのである。
そう…、フナコシとの絆など、到底及ばぬほどに。
そうなってからのフナコシの凋落ぶりは熾烈を極めた。
「ジュース買ってこい」「代わりに授業出とけ」
こんなものは日常茶飯事。
「バッティング練習するからお前球拾いな、一生。」
「パンキョーのレポート、俺の代わりに書け。不合格やったら殺す。」
あまりに理不尽な要求。
もはやフナコシには2人の顔が人間のそれとは思えなかった。
なにか邪悪な、古来から人々はこんな奴らを悪魔と呼んできたのではないだろうかと思うほどの残虐性。
それもそのはずだ。
由緒正しき私立高校で厳格な学生生活を営んできたフナコシに対し、
玉石混交の公立高校出身のニシオカはその秀でた知力で、周りの自分より劣った者よりどうやって上に立つか、つまりは「王たる資格」を身につけており、
京都でも上位に位置する進学校を生き抜いてきたミツイは、周囲の優秀な人材を巧みに扱う「優れた人心把握術」を身につけていた。
どうやったら一番効果的な嫌がらせなのかをミツイが考え、圧倒的な支配力でニシオカがそれを施行する。
考えうる限りで最悪の組み合わせだった。
フナコシは考えた。
どうやったらこの呪縛から逃れられるのか。
どうやったらこの2人を鎮められるのか。
しかしそれは叶わぬ夢だった。
彼ら2人の成長性は、フナコシの対処力をはるかに上回っていた。
それはまるで土砂降りの雨のよう。
いくらフナコシが雨漏りを修繕したところで、結局はまた違うどこかから雨水がしたたり落ちてくる。
それどこか雨脚は激しさを増すばかり
いつのまにかニシオカの権能であった「支配力」をミツイが身につけ
ミツイの権能である「読心力」をニシオカが身につけ
彼らは2人1組である必要すらなくなった。
地獄の地獄のそのまた地獄…
日の光は届かず、生命の息吹すら存在しない。
いつのまにか彼は「汚物」と呼ばれるようになった…。
再び京都に春が訪れた。
また今年も、希望に満ちた大学新入生たちがこの地へ舞い降りる。
かつて、同じように光を浴びていた男の姿はもうなかった。
いまだ薄暗い暗闇をさまよっていた。
いや、正確にはそれも間違いだろう。
彼はもはや自分の居場所が暗闇であることすらわからなかった。
突然停電した部屋の中でも、桿体細胞の働きにより徐々に視界を取り戻すように、この男も自らの境遇を受け入れていた。
もちろん辛苦がなくなったわけではない。
酷い扱いを受ければ尊厳は傷つくし、時には身体的にも痛みを伴う。
だが、どうしようもなかった。
これまでに何度もこの処遇から抜け出そうとした。
そのたびに奴らは悪魔と化し、それを阻止した。
脱獄に失敗し続けて、その度に刑期が伸びるのならば、もう諦めたほうがいい。
どんなバカな受刑者にだってわかることだった。
フナコシがそのことを最も痛感したのが後輩の存在だった。
「先輩という立場ならば、ひょっとすると…」
そんな淡い期待は見事に裏切られた。
「なんでこんな下手くそが試合出てるんスか?へっへっへ。」
「フナコシさんって汚物にふさわしい風格ですよね。あんたから盗むもんなんて何もありませんわ。」
「試合中にフナコシさんがベンチに座ってるとムカつくんで、後ろで立っててください。来年もそうしててくださいね。」
まぁ、しょうがないか。
これが彼の率直な感想だった。
もはや抵抗する気力など持ち合わせていなかった。
人間としての矜持すら失っていた。
ところが、転機は突如として訪れた。
この奈落の底から這い上がるチャンスを与えたのは
他の誰でもない、ミツイとニシオカの二人だった。
フナコシを地獄へ突き落した張本人であるこの2人。
約2年にわたる歳月により、感覚がマヒしたのは何もフナコシだけではなかった。
この2人も、現在の状況が当たり前となってしまい、新たな刺激がほしかった。
ニシオカ「もしさぁ、フナコシがめっちゃおもろいブログ書いたら、1年共もお前のこと見直すかも知れんで。」
ミツイ「そりゃええなぁ。千載一遇のチャンスってやつや。」
てめぇらの悪事を棚に上げて「妙案を思いついてやったぞ」といわんばかりの2人に、吐き気を催す悪を感じるフナコシ。
「無理やって、俺はお前らみたいに文才もないし、面白くもないから。バカにされる材料が増えるだけ…」
頭で考えた文章を、脳の電気信号が運動神経へ、次いで口の筋肉へと伝達する。
しかし、フナコシの口は動かなかった。
自分の意志とは裏腹に声が出せない。
息がつまるように苦しい。
同時にある想いが彼の頭を駆け巡っていた。
「もう、後輩にまでバカにされるのはゴメンだ。」
「一度でいいからみんなに賞賛されてみたい。」
それは幼い少年がプロ野球選手になりたい、と願うように儚く脆い望みだった。
だが、人は儚く脆いものにこそすべてを投げ出して賭けてみたいと思う生き物だ。
数秒の沈黙の後、フナコシは口を開いた。
「俺、やってみる。」