2012-05-09 幻想の標語
2
生物たちは、様々な種の共生を可能にする調和のしくみを内蔵した生態系という
ひとつのシステムの中でそれぞれの種を維持するために生きているという生物観
3
果てしない競争と闘いの場
4
それぞれの種のひとつひとつの個体が自分の子孫を殖やそうと生存条件が整った場所のシェアを争う場
5
人間が生存し、生活していくためには、自然を破壊することも致し方ないという論理
200字要約
一般的にいえば、「自然と人間の共生」という標語には「自然にやさしく」という価値観が含まれている。しかし、人間は人間で自らの生存のため、そして快適な生活のため自然を破壊せざるを得ないし、自然は自然で子孫を増やすため個体同士の生存競争に勝っていかなければならない。このような人間のロジックと自然のロジックがせめぎ合う場、人里こそが自然と人間の共生を実現したところなのではないだろうか。
100字
自然と人間の共生は、両者がそれぞれの論理を主張し、せめぎあいながら一定の妥協点に到達することで達成される。というのは、共生は両者の相互扶助により達成されるものではなく、互いが自己の利益を追求した結果の均衡点として生じるものだからである。
2012-05-06
練習1
多くの子供たちが個人スポーツを好みそれに参加している。僕もどちらかと言えば、チームスポーツよりは個人スポーツの方が性に合っている。おそらく生き方そのものが個人主義的だからだろう。しかし、教育という観点からみると、チームスポーツには重要な意義がある。なぜなら、それには人間社会をロールプレイさせるような機能があるからだ。以下、両スポーツの相違点について考察する。
第一に、チームスポーツには、個人スポーツにはない役割分担があるということだ。サッカーを例にとると、フォワードにはゴールを決める役割、ディフェンダーには敵の攻撃を阻む役割、そしてゴールキーパーには、シュートを止め、失点を防ぐ役割がある。そして役割があるということは同時に他人に対して責任があるということでもある。絶好の機会にシュートを決められなかったフォワードはチームから責められても仕方がない。これは個人スポーツであるボクシングにはないことだ。
第二に、チームスポーツには、個人スポーツにはないシナジー効果が発生する。例えば、ボクシングでは他人に足を引っ張られる恐れがないかわりに、自分の力以上のものをだすことは出来ない。これに対し、サッカーでは他人のミスで足を引っ張られる恐れがある代わりに自分の力以上のものを出せる可能性がある。チームが適切な連携を実現することによって、一+一が三になる可能性があるということだ。これをシナジー効果ということがある。
第三に、チームスポーツは個人スポーツよりも戦略性が強いということだ。例えば、バスケットボールの場合、プレイヤーが個人である水泳よりも作戦が複雑になるだろう。フォーメーションはどうするか、どの位置に誰を置くか、相手のキープレイヤーをどうやってマークするか、など考慮すべき要素が多数存在するため、ゲーム性が強い。水泳などは作戦よりはプレイヤーの力と力のぶつかり合いという側面が強いだろう。
このように、チームスポーツと個人スポーツの間には以上のような3つの違いが出てくる。そして僕は、チームスポーツが子供に与える教育効果は計り知れないと思う。なぜなら、社会に出るということは役割を与えられるということであり、仕事をするということは、シナジーを追求していくということであり、経済活動は戦略性の強いゲームだからである。それはなぜか。人間は社会の中にしか存在しない動物だからである。
242p
「君が住んでる地域に新しく大規模な大学ができるらしい」―この情報を耳にしたとき、あなたはどういうことを思うだろうか。もしそれが僕の住む地域にできるとしたら、僕は積極的に賛成を表明したいと思う。なぜなら、それによって、地域の経済が活性化し、文化が活性化し、それによって人間が活性化すると考えられるからだ。
大学が地域経済を活性化させる、と聞くと奇妙に思われるかもしれない。確かに大学など出来たところで、ただ人や建物が混雑するだけのようにも思われる。
しかし、大学が出来るということは、その近くに住む人が増えるということでもある。まず、学生がその近辺にすむだろう。教員もその近辺に済むだろう。職員もそうするかもしれない。そうするとその地域にある飲食店や娯楽施設などには人がたくさんくるようになり、地域の経済が活性化する可能性がある。
また、大学が文化を活性化させる、というのはすんなりと納得できることだろう。大学の図書館は自治体が運営するものより蔵書が豊富で、面積も広いのが通常である。また、大学が出来れば、文化祭や講演会などの文化的資源へのアクセス可能性が高まることは容易に想像される。
経済が活性化すれば、人間の労働意欲が増してくるし、文化が活性化すれば、人間の学習意欲も増してくる。その結果、個々の人間が活性化し、人間関係も活性化し、また、社会も活性化していくという好循環を迎えることができる。
以上のように、大学の建設は、地域経済を活性化させ、文化を活性化させ、その結果、人間を活性化させる。このような理由から、僕は大学の建設を歓迎したいと思う。
2012-03-16
閉じた空間から誰かを愛するということ
わたしたちは、それぞれ孤立しながら言葉の世界で戯れている。どういうことだろうか。なぜわたしたちは孤立してしまったのだろうか。そして言葉の世界で戯れているとはどういうことなのだろうか。このことについて「よむ」という言葉の移り変わりから考えてみたい。
「よむ」という言葉の意味は、音読から黙読へと変化した。以前は、声に出して人に聞かせるものを意味していたが、今は一人で黙って読むものに変わったのだ。これは、人間が集団的存在から孤独な存在へと移り変わっていった歴史と対応している。こうして、人々は孤立を深めていく。
また、「よむ」という行為の対象は、自然現象から人為的な文字へと変化した。その結果、「よむ」という行為は大衆化し、その半面文字が神聖化していった。ここから文字は読めるが現実を理解しない人たちあらわれる。そしてついには、現実から遊離した文字が氾濫するようになるのである。
このようにして、私たちは、孤立し、現実から遊離した言葉と戯れるようになった。しかし、そこには他者がいない。だから、人間は無気力になる。なぜなら、何かを欲しがる他者がいなければ人は欲望を持てないからだ。他者の欲望を欲望する人間は他者なくして欲望を持ち得ないということだ。
そして、無気力になった人間の思考は死へ向かう。死に至るまでの生は、もはや気が遠くなるような長さの刑期となる。その先には死しかないのか?そうではないはずだ。そしてわたしたちは何かになることができる。だって、何かになるということは、誰かを愛するということだろう?
セグメント情報
セグメント情報
注記事項
企業集団を法的観点ではなく
改正後
連結・個別ともに必要な中浮き事項
ただし
連結FS作成会社は個別不要
前
事業の種類別
所在地別
海外売上高
比較可能性重視
定型的
後
意思決定
マネジメントアプローチ
セグメントの切り方
経営上の意思決定
業績評価
管理をしている区分に基づいて
セグメントわける
意思決定との関連性を重視
事業セグメントを識別
調整
事業
最高経営意思決定機関
が意思決定や業績評価に使う
分離された財務情報
量的基準
10%
売上高、利益、資産
どれかひとつでも全体の10%以上
なってれば重要
報告セグになる
満たしていない
第一次選好漏れ
外部顧客への売上合計
>連結PL売上高x75%
その他行き
そうじゃない場合
外部顧客への売上の多い順に75%満たすまで
みたすまで追加
報告セグ
その他
報告セグメントの決定
問題31
何をセグメント利益とするか
自由
売上
利益
どれかいっこでも10%以上
ACG
75%基準
f事業加わる
終わり
何をカイジするのか
絶対開示
利益と資産
意思決定に使ってる利益
日本の事業部制
事業部に負債を持たせない
利益センター
P A B
S A B
psは法的
ABは経済的区分
外部顧客への売上高
セグメント内の内部売上高
セグメント勘の売上高
セグメント間の売上
個別上は現れない
開示
外部
セグメント間
セグメント情報の測定は意思決定機関に
報告される金額
それぞれの企業が重要視してる数字を開示
合計と連結FSとの差額が調整
報告セグに含まれない事業セグ
その他
甲乙幷に集約
たさないとわからない
事業セグメントへの情報
通常
連結つくる
調整額差額でもとめられない
売上高、仕入れ
外部
内
間
区分
単純合計
必要な調整
甲事業のセグ
2012-03-15
レベ 管理 4回 1
非度外視法と度外視法の比較
非度外視法の必要性
総合原価計算における部門別計算の扱い
間接費配賦
個別
複数
単純総合
一種類
間接費配賦でてこない
概念はあるし配賦されている
なぜ直接労務費を工程に集計する必要があるのか
当然
総合原価計算においては、
工程=しかかりひん
なので製品原価の計算を行う
だから
直接費の集計も行う
個別
指図書別に計算
直接費は指図書に直下できる
あえて部門に集計する必要ない
部門はしかかりひんをかねてない
総合
工程別に計算
直接費も集計
工程はしかかりひんをかねている
問2
度外視法を取る限り、仕損減損の発生態様を計算結果に反映させることはできない。
どのみち無視するから。
平均発生
加工換算量単位あたりで等しい
減損進捗=加工費の進捗
減損にとっての換算量=加工換算量
両者
実材料単位あたりで等しい
減損の発生点を通過したものは発生割合100%
減損にとっての換算量は実材料と等しい
非度外視法を採用する意義
FS作成
なし
確かに
正確な計算
しかし
殆ど差がない
また
正確でもない
管理
あり
減損を明示
ロス削減のモチベアップ
問4
ロスを物量と金額で可視化
負の製品コストとして評価
モチベアップ
ロスの削減
環境負荷の低減
原価低減
分離計算する
非度外視
正常なものは良品の原価に参入
期間損益計算
MFCA
明確に区別
より可視化
よりモチベ喚起
管理
2012-03-14
レベ答 12回 2
予算スラック
参加型予算の問題点
なぜスラックが生じるのか
予算管理にどのような影響を与えるか
どう解消したらいいのか
参加機会ない
スラックなし
ただし
動機づけに問題
厳しすぎる目標設定によってやる気を削ぐ可能性
管理者に予算への参加機会あり
動機づけ効果
自分で目標設定
やりがい、責任感
ただし
予算スラックのおそれ
収益の過小計上
費用の過大計上
どうするか
折衷型
参加させつつ
動機づけを損なわない範囲で
協議によってスラックの解消
収益スラック
予算として設定された収益
最適な達成可能収益
原価スラック
予算スラック形成の意図
全社利益に与えた影響
業績評価を有利にしたかった
目標を低くすればよかった
収益スラック
原価スラック
計画機能のみならず統制機能を喪失
事前、期中、事後
統制とは目標達成を可能にするための活動
大前提
正しい目標設定が必要
折衷型
ゼロベース予算
ゼロからなぜ必要なのか考える
レベ管理 12回 1
単一
複数
実際
正常
実際
標準
最悪
単一実際
単一正常
複数正常
原価加算契約
単位あたりの総原価に利益を足して価格にする
全部原価計算の枠内
固定費の配賦を伴う
直接
固定費配賦しない
単一、複数基準
問題にならない
1単一基準の問題点
切削部は前月と同じく36000kwh
にもかかわらず
当月は900000円多く配布された
なぜか
実際配布率が25大きくなったから
なぜか
仕上げ部における動力消費が減少
分母が小さくなり、その結果
固定費率の増加
2実際配賦の問題点
予算差異が配賦率に混入
変動比率の増加
1+2により実際配布率が増加
よって
切削部の配布率は同じが配布額が増加
問2
実際配布率が前月より大きくなったのは、変動比率と固定比率が上昇したためである。変動比率が上昇したのは、実際発生額の増加により不利な予算差異が発生したからである。また、固定比率が上昇したのは、固定費予算が一定なのに対して、仕上げ部の動力消費量が減少したためである。
↓
正常配賦を採用すべき
単一正常
動力消費量の減少分は操業度差異として把握される
不利な予算差異はそれとして把握される
解決?
本来複数基準で採用すべき
確かに切削部の配布額を一定にすることは出来たが
操業度差異は動力部にとって管理不能
単一基準正常配賦
用役消費量基準で配賦
操業度差異が発生
しかし動力部には管理不能
よって正常配布率は複数基準のもので採用すべき
問3
複数基準の元で正常配布率を採用すべきなのは、単一基準正常配賦の場合発生する操業度差異が動力部にとって管理不能だからである。単一基準正常配賦の場合、固定費は用役消費量で配布するため、予算額と配賦額の差額である操業度差異が発生する。これに対し、複数基準正常配布の場合、固定費は用役提供能力で配布するため、管理不能な操業度さいは発生しない。よって、責任会計の観点からは複数基準の下で正常配賦を採用すべきである。
固定費を能力で配布する論拠は何か
補助部門固定費=用役提供能力の維持費=キャパシティコスト
維持費は提供能力の規模に依存する
提供能力の規模は消費能力の規模によって規定
関係部門の消費能力を基準として配布すべき
問4
補助部門固定費は用役提供能力の維持費である。その維持費は用役提供能力の規模に依存する。そしてその規模は用役消費能力の規模に依存する。したがって、補助部門固定費は、用役消費能力基準で配布すべきである。
能力一定
固定費率なし
操業度差異発生しない
もう一つ問題
実際動力消費量
補助部門の能率の良否が変動費の中に混入
各関係部門においては管理不能
標準動力消費量を掛けるべき
問5
実際動力消費量を用いた計算では問題が残る。すなわち、関係部門にとって管理不能な補助部門の能率の良否が変動費額に混入する。この問題点を克服するためには、標準動力消費量を用いた計算により、能率差異を排除することが考えられる。これにより、責任会計上望ましい処理を行うことができる。
単一実際
問題1
消費量で配賦
他部門の消費量の影響うける
複数基準
問題2
実際発生額配賦
原価管理活動の良否が混入
予算差異
正常配布率
問題3
能率の良否の影響
能率差異
標準原価計算
出口 10回 A 名人論
?構造
1妙観
刀をどれくらいの程度研ぎ澄ますかについての勘
2じせつかんどう
為手が最初の一声をはなつ時期についての勘
3芸が芸であるために
芸を芸にするためには、言葉に出来ないような絶妙な勘を働かせることが必要である。
じせつかんどうにも刀のにぶさにも言葉にできない絶妙の勘や呼吸がある。
4名人とは何か
世阿弥によれば、名人は芸達者であるのみならず、芸に不可欠な勘や呼吸を体得している人のことである。
?設問
1結局、言葉では、事柄の本質、こつのすべてを伝えきることができないということ。
言葉は、事柄の本質そのものを伝えきることができない不完全な伝達手段であるということ。
3言外の妙味とは
ア言葉に出来ない勘や呼吸の絶妙さ
言葉で言い表せない微妙な味わい
ィじせつかんどうにも刀のにぶさにも言葉にできない絶妙の勘や呼吸がある。
言葉でうまく説明できない
勘で会得するしかない
◎
4世阿弥のいう名人とは芸達者であるのみならず、芸に不可欠な勘や呼吸を体得している人のことである。
芸達者
じせつかんどうを会得
(生まれつきの才能)
名声がありその名を大切にする人
50点
?要約
名人が芸達者である、ということは言うまでもないことであろう。だが、それだけで必ず名人といえるかといえばそういうわけではない。名人といえるためには、芸を芸たらしめるに不可欠な勘や呼吸を体得していることが必要だからだ。
例えば彫刻家の妙観は、自分が使う刀の切れ味を少しだけ鈍くしていたという。研ぎすぎでもなく、鈍すぎでもない、そのような刀の鈍さは言葉ではなんとも言い表せないものだろう。そしてその絶妙な点を捉えるためには芸における勘を体得している必要がある。
もうひとつ例をあげよう。世阿弥の言葉に時節感動というものがある。それは、演能において、為手が最初に放つ一声を放つ時機をつかむことだ。これにとっての絶好の時機は言葉で言い表すことができない。そしてこの時機を的確に捉えるには、芸における勘を体得していなければならない。
妙観にも世阿弥にも共通するこのような勘の体得こそは芸を芸たらしめるために必要不可欠なものである。それはつまり名人の条件なのだ。これを体得したものこそが名人としての名声を獲得できる。決して芸達者であれば名人というわけではないのである。