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2013-09-08 ゲキハロ「我らジャンヌ」で語る百年戦争

[][]システムで見る百年戦争 10:27 システムで見る百年戦争を含むブックマーク

ゲキハロ「我らジャンヌ」ネタです。

割と歴史を知ってるシナリオで、「フランス軍は野戦でイングランド軍に勝てないから、立ち上がる勇気が無かった」てな設定がありました。

実際はジャンヌ・ダルク生存時に野戦で勝利し、自信をつけてはいましたが。

この辺の話を書いてみます。

 

 

 

フランスは、王が軍の召集を呼びかけると、各地の貴族が自弁で傭兵を集め、自分が将軍となって集結します。

また、小領主である騎士は、自らとその郎党で自費参戦します。

日本の鎌倉幕府みたいなものです。

 

一方イングランドは、爵位を持たない貴族の下の身分から豪農身分までが戦力の中心で、彼等から供出された部隊は長期の訓練を積み、扱いが難しい長弓(ロングボウ)で戦いました。

日本で言えば織田信長の軍が近いでしょうか。

 

両者激突の際、名目的な司令官である国王の下、それぞれの判断で騎馬突撃を図るフランス軍に対し、訓練十分で司令官の命令に従うイングランド長弓部隊は、高所から矢の雨を降らせます。

フランスにはボウガンがありましたが、こいつは一分に一発が限度。

6倍以上の発射速度にはかないません。

また、「ナショナルジオグラフィック」の実験でも、プレートメールを打ち抜く威力が実証されたイングランドの長弓は、的が大きい騎馬の部隊を壊滅させていきました。

イングランド騎兵は、戦いが始まるとすぐに下馬して戦います。

(日本の騎馬武者も一緒)

射撃戦でフランスは不利でした。

 

そして、接近戦主体、名誉の戦を望むフランス軍は、恩賞判定が微妙でした。

戦後、いつも誰が手柄を立てたかで揉め、それが不服で参陣拒否する貴族もいました。

イングランド軍は給料が明確で、手当についても規定がしっかりしていたので、そういう揉め事からは無縁でした。

制度、戦法で勝ってるイングランドがフランスを早期に打倒出来なかったのは、占領政策で良くなかったからです。

百年戦争初期のエドワード黒太子の騎行戦術は、フランス軍を撃破しまくり、現地調達しまくり(本国からの補給は望めない)、フランス国土を疲弊させまくりました。

どんなに勝っても、反イングランド感情が増え続け、戦争終結に至りませんでした。

これと疫病(ペスト)が重なり、戦争は長期化しました。

 

イングランドは占領政策はダメダメでしたが、それより上位の政治は上手でした。

元々フランス貴族ノルマンディー公爵が、海を渡ってイングランドを征服、ノルマンディー公爵兼イングランド国王というのがイングランドの立ち位置です。

これに結婚による相続で、アキテーヌ公爵(フランス南西部)という身分も追加されています。

フランス貴族ノルマンディー公爵兼アキテーヌ公爵は、他のフランス貴族と婚姻政策で土地相続したり、同盟したり、フランス内での立場を強めたりしました。

これに対し、カペー王家の下ではノルマンディー公と同格であったヴァロア家は、同格だった他の貴族にあまり上から物を言えずにいました。

王家を支える貴族たちも、元は同格で、故に「あいつの下になれるか」みたいな意識がありました。

大きく問題になったのは、アルマニャック派とブルゴーニュ派の対立です。

どちらもフランスを守るという意味では同志でしたが、主導権争いの末にブルゴーニュ公爵が暗殺され、後を継いだブルゴーニュ公がイングランド王(アキテーヌ公)を真のフランス国王とし、自らは自領のブルゴーニュとフランドル(ベネルクス一帯)をもってフランスから半独立のブルゴーニュ公国となりました。

この時、ヴァロア王家に国王はいず、王太子であるシャルルは「王妃が不倫の末に産んだ子」と言われ、「私生児シャルル」なんて呼ばれてカリスマゼロの状態でした。

(王家の下半身がだらし無いのは仕様で、だからジャンヌ・ダルクもシャルルの妹説がある。これはゲキハロでも出ていた設定)

制度的に、王の呼びかけに傭兵を引き連れた貴族が参集するフランスのシステムで、トップがこんな状態ではまともに軍が集まりはしません。

こうしてパリも奪われ、アルマニャック派の本拠地オルレアンも包囲されていた、これがジャンヌ・ダルク登場直前の状態でした。

 

 

 

「神の声を聞いた」少女の登場は、信心深い当時は有効でした。

実際に彼女が何度もイングランド軍やブルゴーニュ軍を破ると、彼女を慕って将軍(貴族や傭兵隊長)たちが集結しました。

ジル・ド・レやラ・イルなどです。

 

一方フランスには別の勝利の立役者も現れました。

イングランド貴族としてはリッチモンド伯、フランス名ではリッシュモン伯という人物です。

まあ昔は、時と状況でどっちに仕えているか、両方に仕えていても不思議はないって話でして。

フランスに仕えていたリッシュモン伯は、常備軍設立を提案します。

常備軍を持つには財政的に、貴族にも課税しないとなりません。

彼は貴族連中から嫌われました。

また、シャルルからしても、いつ裏切るか分からないのに、常備軍という即応性の高い国内最強軍を預ける気になれず、リッシュモン元帥はフランス国軍最高指導者でありながら、宮廷にも招かれず、各地を転戦していました。

 

ジャンヌ・ダルク

「リッシュモン元帥に私心は有りません。彼はひたすらフランスへの忠誠を尽くしています」

と言い続け、ウザがられてました。

この2人が揃って戦うのは随分後になります。

2人揃って戦ったパテーの戦いでは、フランス軍は巧妙にイングランドの側面をつき、長弓部隊が布陣を終える前に攻撃、またジャンヌ・ダルクは得意の火力集中をして、野戦で初めてイングランド軍を撃破しました。

イングランド軍のジョン・ファストルフは自軍の火力集中を提案していましたが、間違った情報を信じたジョン・タルボット(ゲキハロではフリートウッドのモデルじゃないかな?)に無視され、ジョン・タルボットは捕虜になり、逃げ延びたジョン・ファストルフはガーター勲章を剥奪されました。

 

こうして野戦でもイングランドに勝てるようになったフランス軍ですが、内部のごたごたは続きます。

ブルゴーニュ公と関係修復したいシャルルにとって、主戦派のジャンヌ・ダルクは邪魔者になりました。

彼女から実戦の補佐役を外し、リッシュモン元帥とも分かちました。

彼女はブルゴーニュ公の捕虜になるも、シャルルは身代金を出さず、代わりに身代金を出したイングランドに身柄を渡されます。

ジル・ド・レやラ・イルら、彼女と共に戦った将軍たちが奪還の戦いを仕掛けますが、ぶっちゃけシャルルにしたら、自分ではなくジャンヌに忠誠を誓ってるこいつらも気に入らない。

王に次ぐカリスマだったジャンヌは火炙りにされて消えました。

ジャンヌ傘下の将軍で、この時のシャルルのやり様を怒り、イングランドに寝返った者もいた)

 

一方リッシュモン元帥ですが、何度も会っている内に、ついにシャルルは「彼に私心は無い」と認めました。

ついにフランスの軍制改革が始まり、貴族に課税し、その金で国王直属の常備軍が生まれました。

百年戦争を通じて「封建領主の力は弱まり、国王絶対君主制になった」とあるのは、直前まで貴族に頼りっぱなしだったフランス国王が、土壇場で常備軍保有という「貴族を弱め、自らを強める」改革を行ったからです。

そして常備軍を持てる財政は、ジャンヌ・ダルク

「卑怯な!この騎士道精神も解せぬ魔女め」

と言われながらも勝ち続けた『火力の集中』という戦法も充実させました。

ジャンヌは、将軍たちに頼み込んで大砲を集中させました。

リッシュモンは、最初から大砲を一箇所に集め、『砲兵』を作りました。

さらに銃も充実させ、イングランドの長弓よりも長射程で威力のあるハードウェアを手にしました。

さらにシャルルは、念願だったブルゴーニュ公との和睦にも成功しました。

こうしてフランス軍の反撃が始まり、ジャンヌ・ダルク死後5年、1436年(ゲキハロの舞台設定)にはパリも奪還しました。

 

しかしイングランドもいまだ強く、人質交換で釈放されたジョン・タルボットはパリに逆撃をかけたり、ノルマンディー各地でリッシュモンやラ・イルの部隊を撃破しました。

しかし、ここでイングランドの占領政策のまずさが出ます。

元々の領土であるノルマンディーやアキテーヌでも軍事中心の政治をした結果、各地に反イングランド戦線が発生(ゲキハロでのメス自由解放軍のモデル)、イングランドは次第にカレーの町に追い込まれていきます。

 

やがてイングランドは撤退し、フランスからイングランドの土地は消滅しました。

独立国ブルゴーニュ公国はその後も続きましたが、その騎士中心の突撃戦術が、大砲と長槍中心のスイス傭兵によって破られ、シャルル突進公を失った後は、フランドルハプスブルク家に、ブルゴーニュはフランスに相続され、フランスは今の形になりました。

 

 

 

システムって面で見ると、当初はイングランドが先進的で、フランスはグダグダの極みでした。

イングランドは最初から最後まで占領政策の失敗が尾を引きました。

フランスは最後の最後でイングランドを軍制的に上回り、進化しなかったイングランドを大陸から追い払いました。

イングランドが国内の改革をし、国王絶対君主制になるのは、百年戦争後に起きた内戦・薔薇戦争後になります。

 

軍の集め方等で、ジャンヌ・ダルクのそれは旧時代のもので、カリスマたる彼女が失われたら機能しないものでした。

しかしジャンヌは、先進的なリッシュモン元帥のやり方を、神の声でも聞いたのか、国王にうるさいくらい奨めています。

ジャンヌ・ダルクは、武芸はさっぱり、人を殺したくないから旗持って突っ込んでいくしか能が無い兵隊でしたが、そのせいか騎士道精神からは無縁の「あそこに人がいるなら、大砲集中して撃ち込んだら良い」という考えをしています。

卑怯とか言っても、イングランドは大砲でなく弓矢で同じことやってますしね。

この火力集中戦法は、やがて常備軍における火力集中運用としてリッシュモン元帥に取り入れられます。

こうして騎士という身分は衰退し、軍事システムからは外れていくことになります。

(話は逸れますが、マルタ騎士団みたいに、自ら改革して銃や大砲を使って生き延びた騎士もいた)

 

システムから見た百年戦争でした。

古い記事に失礼します。古い記事に失礼します。 2016/04/23 00:25 日本の騎馬武者は戦闘においてわざわざ下馬しません。
特に鎌倉時代(含平安末期)であればほぼ例外なく騎馬武者は騎乗したまま戦います。
(例を上げれば「蒙古襲来絵詞」「平治物語絵巻」等々でも彼らが騎乗したまま戦っていたことが確認できます)

鎌倉時代では騎馬武者は和弓による集団騎射を行いながら接近、その後、当時流行の”長く分厚く反りの強い”太刀による「馬上打ち物」に入ります。
郎党あるいは徒歩(かち)と呼ばれる雑用&歩兵は騎馬武者同士の突進の後ろを遅れて追走し、両者激突後、味方騎馬武者たちの「打ち物」をサポートします。
具体的には味方の騎馬武者が、馬上打ち物に集中できるように死角をカバーしたり、
敵の騎馬武者を薙刀、鉤手により馬から引きずり下ろしタコ殴りにしたりするわけです(このあたりの描写も当時の資料では定番です)。

「騎馬武者は下馬して戦った」というのは
わりと歴史に関心のある人でもころっと騙されてしまっている人も多い「デマ」ですね

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