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2009-01-18

ヒットラー真実ホロコーストの真実

西岡昌紀氏が「『ガス室』の真実」第一章を阿修羅に投稿されたと、反ロスチャイルド同盟掲示板で見た。

それに関連していくつか関連記事を紹介します。

●「日本人が知らない恐るべき真実」より

ホロコーストはなかった!?

12月11日から2日間、テヘランでナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)について検証する国際会議が開かれましたね。

さて、1995年、雑誌『マルコポーロ』(文藝春秋社)にアウシュヴィッツガス室に疑問を投げかける記事が載りました。

この記事に米国のユダヤ人組織シモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)」が抗議し、『マルコポーロ』は廃刊となります。

この事件の経緯は『日本に圧力をかけるシオニスト組織「SWC」』を参照していただきたいのですが、問題となった記事「戦後世界史最大のタブーナチ『ガス室』はなかった」をご紹介させていただこうと思います。

オーストリアやドイツなどの欧州諸国では、今尚、ホロコーストを疑問視するだけで犯罪になります。しかし、疑問視するだけで犯罪ということ自体がどう考えても異常でしょう。(^^)

私の知る限り、西岡氏の記事に誤りはないと思います。

このホロコーストを口実に、イスラエルの建国が正当化され、ユダヤ人は悲劇の民として擁護され、もしユダヤ批判をすれば「ネオナチ」「反ユダヤ」として弾圧される。

「ホロコーストは、シオニストが国際社会権力を持つために使っている神話である」というアハマディネジャド大統領(イラン)の指摘は的を得ていると思います。

戦後世界史最大のタブー。ナチ「ガス室」はなかった。

                text by Masanori Nishioka

一月二十七日、アウシュヴィッツ収容所は「解放」五十周年を迎える。だが、ここには戦後史最大のタブーが秘められている。

実は「ホロコースト」=ナチスによるユダヤ人虐殺説には、今、大きな疑問が投げかけられ始めているのだ。

ユダヤ人が悲惨な死を遂げたことは、間違いない。しかし、ガス室で、計画的に殺されたという話には証拠が少ない。

戦後、西側に属した収容所にはすべてガス室が存在しなかったことが証明された。あったとされるのは東側の収容所のみ。

しかも、ガス室は密閉機能に欠け、使用されたガスは科学者の目から見ると、とても大量殺人には使用できぬものであった。

実は、欧米では、この種の疑問が、ジャーナリズムを賑わしている。当のユダヤ人学者さえ、疑問を呈しているのだ。

なぜ、日本のマスコミだけが、この問題を書かないのか。若手の医師が、個人で調べあげた驚愕の新史実!

獣をいけにえとして捧げ、火で焼くというユダヤ教儀式を「ホロコースト」と言った。これが転じて、「ナチスのユダヤ人虐殺」を意味するようになったのは、ナチスドイツがアウシュヴィッツなどの強制収容所にガス室を作り、毒ガスを使って計画的に虐殺、さらにそれを焼いた――という恐ろしい話とイメージが重なったからだ。

ところが、このホロコーストが作り話だったという説が、今、欧米で野火のように広がりはじめている。

戦後五十年近くもの間、語られてきたこの「毒ガス虐殺」が作り話だといわれて、驚かない人はいないだろう。私自身、この話を六年前に英文で読んだ時には、驚天動地の思いをしたものである。

私は一医師にすぎないが、ふとした機会に、この論争を知り、欧米での各種の文献を読み漁るようになった。そして、今では次のような確信に達している。

まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい。

それから『シンドラーのリスト』も一旦忘れてほしい。

「ホロコースト」は、作り話だった。アウシュヴィッツにも他のどの収容所にも処刑用ガス室などは存在しなかった。現在、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所跡で公開されている「ガス室」なるものは、戦後ポーランドの共産主義政権か、または同国を支配し続けたソ連が捏造した物である。アウシュヴィッツでもどこでも、第二次大戦中のドイツ占領地域で、「ガス室」による「ユダヤ人大量虐殺」などは一度も行なわれていなかったのだ。

こう断言する理由は後述するが、その前に二つのことを言っておきたい。まず、第一に私は、第二次世界大戦中にドイツが採ったユダヤ人政策を弁護するつもりは全くないということである。たとえ「ガス室による大量虐殺」が行なわれていなかったとしても、ドイツが罪のないユダヤ人を苦しめたことは明白な歴史的事実である。私はその事実を否定する者ではないことをここで明白にしておく。

第二は、近年、アメリカやヨーロッパで、「ホロコースト」の内容に疑問を抱く人々が急速に増えつつあるのに、日本の新聞、テレビが、そのことを報道せず、結果的にはそのことを日本人の目から隠しているという事実である。最近は、論争を断片的に伝える報道もでてきたが、そうした報道は、「ホロコースト」に疑問を投げかける者は皆「ネオナチ」か「極右」であるかのような「解説」を加えている。事実は全く違う。「ホロコースト」に疑問を投げかける人々の中には政治的には明白に反ナチスの立場を取る知識人やユダヤ人さえ多数含まれているのだ。

例えば、プリンストン大学のアーノ・メーヤー教授子供の頃ナチスの迫害を受けアメリカにわたったユダヤ人の一人で、日本でも有名なきわめて権威ある歴史家である。彼は「ガス室」の存在そのものまでは否定しない「穏健な」論者だが、それでもユダヤ人の大多数は「ガス室」で殺されたのではないという「驚くべき」主張をしている。このことは一九八九年六月十五日号のニューズウィーク日本版でも取り上げられている。

また、同じくユダヤ系アメリカ人のもっと若い世代に属するデイヴィッド・コウルというビデオ作家がいる。彼は、ユダヤ人であるにもかかわらず、「ガス室によるユダヤ人虐殺」は作り話だと、はっきり主張しているのである。「ネオナチ」の中にも「ホロコースト幻説」を取り上げる人間はいるだろうが、ユダヤ人の中にも「ホロコースト」はなかったと主張する人間が現われていることは注目に値する。

とにかく、まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい。それから、『シンドラーのリスト』も一旦忘れて頂きたい。映画は、歴史ではないのだから。

そこで皆さんにまず、何が真実であったのかを先に言ってしまおう。欧米の幾多の研究を一口に要約し結論を述べ、証拠はあとから示そう。そうした方が、皆さんにとって後の話が理解しやすくなると思うからである。

1.ナチスがその政策においてユダヤ人に不当な差別を加え、様々な圧迫を加えたことは紛れもない事実である。そして、アメリカとの戦争に突入した後、ドイツ本国及びドイツの支配下に置かれたヨーロッパ諸国ではユダヤ人に対する圧迫が強まり、ユダヤ人を強制収容所に収容する政策が全ヨーロッパ的規模で開始された。この点について、従来の説明は大筋で正しい。

2.しかし、ヒトラー及びナチスの指導部は、収用したユダヤ人達の「絶滅」を計画したことなど一度もなかった。ナチス指導部が計画したことは、強制収容所に収容したユダヤ人達を戦後、ソ連領内などの「東方地域」に強制移住させることであった。彼らはこのユダヤ人強制移住計画をユダヤ人問題の「最終的解決(Endlo"ung)」と名付け、東部戦線でソ連を打倒した後、実行するつもりでいた。

3.ナチスドイツが、アウシュヴィッツなど、ポーランド領内に建設した強制収容所は、戦後ドイツがソ連を打倒、占領した後に実行する「最終的解決」のためのユダヤ人強制移住計画の準備施設であった。すなわち、ナチスドイツは、アウシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の収容所に収容したユダヤ人達を戦争中は労働力として利用し、戦後、ドイツがソ連に勝利した暁には、ソ連領内ほかの「東方地域」に強制移住させる計画であった。従って、この計画とは両立し得ない「ユダヤ人絶滅」などをドイツ政府が計画、実行したことは、一度もなかった。

4.ところが、ソ連戦線でドイツが敗退した結果、「ユダヤ人強制移住計画」は頓挫する。そして、戦争末期の混乱の結果、ユダヤ人達がいた収容所の衛生状態が悪化し、チフス等の疾病の爆発的発生が起きた。その結果、多くの罪のないユダヤ人達が収容所内で死亡した。

5.戦後、それらの収容所で病死したユダヤ人らの死体を撮影した連合軍は、そうした病死者達の死体を「ガス室」の犠牲者であるかのように発表した。

読者の多くは、こんな話をすぐには信じられないに違いない。当然である。すぐに信じられる方がどうかしている。私も最初は信じることが出来なかった。読者と同様、私も物心ついてから、あの恐ろしい「アウシュヴィッツのガス室」についてくりかえし教えられ、聞かされてきた者の一人であって、あるきっかけから真実を知るまでは、「ガス室による大量虐殺」を疑ったことなど、ただの一度もなかったのである。

しかし、ある機会から「ホロコースト」について実は論争が存在することを知った私は、この論争に関する文献を買いまくり、読みまくった後、「ホロコースト」が作り話であるという確信に至ったのである。

「ホロコースト」に疑問を投じる人々は、自分達のことを「ホロコースト・リビジョニスト(Holocaust revisionist)」、すなわち「ホロコースト見直し論者」と呼んでいる筆者は、一医師であり歴史学を専攻したわけでは全くないが、六年前(一九八九年)に、ふとした機会に彼らの存在と研究を知り、その後、複数の大学教授に手紙などを書いて意見を求めてみた。その結果、有名な国立大学教授を含めた日本の学者たちがそれらホロコースト・リビ ジョニストたちの主張を全く論破出来ないことを知り、日本のアカデミズムのあり方に疑問を抱かずにはいられなくなったのである。

また、英字紙マイニチ・デイリーニュースの投書欄で一九九三年五月に大論争をやったことがあるが、その時もリビジョニズムの正しさを確信する経験をしている。

気の早い読者は、「ホロコースト・リビジョニスト」達は、「ネオナチ」かそれに似た人間だと思うかもしれない。実際、「ネオナチ」の中にも「ホロコースト」の虚構を強調するグループはいる。だが、「ホロコースト・リビジョニスト」の中には、明らかに反ナチスの立場を取る個人やユダヤ人も多数含まれているのであって、「ホロコースト・リビジョニスト」を「ネオナチ」や「反ユダヤ」などという枠でくくることは余りに事実と懸け離れている。

その反証として最も明らかなものは、最初の「ホロコースト・リビジョニスト」とも呼べる歴史家が、フランスのポール・ラッシニエ(Paul Rassinier)という大学教授で、彼が、戦争中、フランスのレジスタンス運動に参加して、戦後、そのレジスタンス活動の故にフランス政府から勲章まで授与された人物だったという事実ではないだろうか?

このラッシニエという学者は、元は地理学者で、左翼思想の持ち主だったため、反ナチスのレジスタンス運動に参加したのであるが、そのレジスタンス活動の故に、ナチス占領下のフランスでゲシュタポに捕らえられ、強制収容所に入れられたという人物なのである。

ラッシニエは、ドイツ西部の収容所に収容され、戦争末期には、そこでチフスにかかるという苦難まで味わっている。

そのラッシニエが、「ホロコースト・リビジョニズム(見直し論)」の「開祖」となった理由は、単純である。ラッシニエは、戦争中、反ナチス活動の故にドイツ西部の複数の強制収容所に入れられていたのであるが、彼は、それらの収容所の何処でも「ガス室」など見たことはなかったのである。

ところが、戦後、ニュールンベルク裁判や欧米のマスメディアが、戦争中ラッシニエが収容されていたドイツ国内の収容所に「ガス室」が存在し、多くの人々が殺されたと言い始めたためにラッシニエは驚き、彼自身の左翼という政治的立場とは別に、「ドイツの強制収容所にガス室などなかった」と、声を大にして主張し始めたのであった。

しかし、フランスのマスコミは、ラッシニエがレジスタンス活動家として、ドイツの収容所を実際に目撃した人物であったにもかかわらず、彼を非難し、その証言を無視した。

ラッシニエは、その後もこのことについて語り続け、さらには学者として、ナチスの収容所政策全体を調査、研究し続けるが、その主張を無視されたまま、一九六七年に死去している。しかし、彼に触発されたフランスの知識人の間から、もちろん「ネオナチ」等とは全く無関係に、「ガス室はあったのか?」という疑問が上がり始めるのである。

このように、学術研究としての「ホロコースト否定論(または見直し論)」は、第二次大戦後、ドイツではなくフランスで誕生したものなのだが、「ガス室による大量虐殺」に疑問を投げかけた最初の歴史家が、いわゆる「ネオナチ」などではなく、フランスの左翼知識人で、戦争中レジスタンスに参加してナチの弾圧まで受けた人物であったという事実は重要である。

そして興味深いことには、この最初の「ホロコースト否定論者」ラッシニエの個人的体験の中に、後年、「ホロコースト」論争の焦点となるいくつかの問題が、集約されていたのである。

そのひとつは、ラッシニエが収容されたのが、アウシュヴィッツやマイダネックなどのポーランド領内のナチス強制収容所ではなく、ドイツ国内に作られた強制収容所であったという点である。これは、極めて重要なことであった。

どういうことかというと、ナチスドイツが大戦中ヨーロッパに建設した強制収容所のうち、ドイツ本国に作られた強制収容所については、戦後十五年経った一九六〇年に、「公式見解」に驚くべき変更が加えられているのである。これは少しややこしい話なので、じっくり説明しよう。

今日、「ホロコースト」に関するいわゆる「定説」は、以下のようになる。

〈ナチスドイツは戦争中、ドイツ本国及び、占領したポーランドなどに大小多くの収容所を建設し、ユダヤ人や政治犯ジプシーなどを収容した。それらの収容所には二種類があった。一つは、ユダヤ人などを単に収容し、労働を行なわせただけの収容所であったが、もう一種類は「絶滅収容所」で、そこにはあの恐ろしい「ガス室」があって、人々は強制労働をさせられただけでなく、「ガス室」によって計画的に殺されていた。アウシュヴィッツ収容所は、この後者の代表である。ナチスが、自国ドイツの領土内に作ったのは、前者の「ガス室」のない収容所だけで、「ガス室」を持った「絶滅収容所」は、占領したポーランド領内だけに作られ、そこで六百万人のユダヤ人が、計画的に殺された……〉

読者に知って頂きたいことは、戦時中から戦争直後にかけて、アメリカやイギリスが報道操作を行なっていたという事実である。

ところが、この「定説」は、戦争直後に連合軍が発表した話とは違うのである。

戦争直後、ドイツを占領した連合軍は、アウシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の収容所ばかりか、ドイツ本国の収容所にも「ガス室」があったと主張していた。

つまり、戦争直後には、今の「定説」とは違うことを主張していたわけで、「定説」の内容は、変わっているのである。

例えば、ミュンヘン郊外にダッハウ(Dachau)収容所という収容所があった。戦争末期にこの収容所を解放したアメリカ軍は、ここで大量殺人用の「ガス室」を発見したと発表して、一枚の写真を公開した。それは、黒い鉄の扉の前に一人のアメリカ兵が立って、その扉を見つめている写真である。その扉の上には、ドイツ語で、Vorsicht! Gas! Lebe-nsgefahr! Nicht o"ffnen!(注意! ガス!生命の危険! 開けるな!)という警告が書かれ、白いドクロのマークも描かれている。

その写真にアメリカ軍が加えた説明(キャプション)がどんなものだったか。

「死体焼却炉の側という便利な場所に作られたガス室が、アメリカ第七軍の兵士によって調べられているところ。これらの部屋は、忌まわしいダッハウ収容所で、被収容者を殺すためにナチの衛兵たちが使っていたもの」

ドクロのマークが描かれた鉄の扉に Gas!という文字が見える写真を見せられ、その写真にこんな「解説」を付けられたのでは、ダ ッハウには大量殺人用の「ガス室」があったという発表が「真実」として受けとめられたのは当然である。実際、アメリカが発表したこの写真や生存者の「目撃証言」により、戦争直後には、世界中がダッハウに「ガス室」があり、その「ガス室」で戦争中多くのユダヤ人が殺されたと信じていた時があったのである。

ところが、後から明らかになったことは、その写真の黒い扉は、確かに「ガス室」の扉ではあったが、人間を殺すためのガス室などではなく、シラミなどで汚染された衣服を消毒するためのガス室だったという人を食ったような事実であった。すなわち、戦争末期のドイツ強制収容所では、衛生状態が著しく悪化し、発疹チフスなどの発生が大問題となっていた。その対策として、DDTを持たない当時のドイツ軍当局は、サイクロンB(Zyklon B)という青酸系殺虫剤を使って、ユダヤ人をはじめとする被収容者達の衣服の消毒を行なっていたのである〔このことについては、Arthur Butz著 "THE HOAX OF THE 20TH CENTURY"(published by the Institute for Historical Review,1976)など、幾つかの本が書かれている〕。

ドイツでサイクロンBという青酸系殺虫剤が生産、販売され、殺虫作業などに広く使用されていたことは、秘密でも何でもないが、ドイツがこのサイクロンBを大量殺人目的に転用、六百万人ものユダヤ人を殺したというのが、「定説」の主張するところなのである。

サイクロンBを使って、人間を大量に殺すことが到底不可能であることは後から説明するが、ここで読者に知って頂きたいことは、戦時中から戦争直後にかけて、アメリカやイギリスがこのような報道操作を行なっていたという、あまり知られていない事実である。

読者は、湾岸戦争中にイラクの原油放出のせいだといって世界中に放映された、あの油まみれの水鳥を記憶しているだろうか? あの水鳥は「イラクの原油放出」などとは関係がなく、何者かが、プロパガンダの目的でウソの注釈(キャプション)を加えて流した「ヤラセ映像」であったことが明らかになっているのだが、この種の報道操作は、湾岸戦争の水鳥が最初ではなかったのである(木村愛二著『湾岸報道に偽りあり』汐文社刊、一九九二年、参照)。第二次世界大戦中、メディアに対して厳重な検閲を実施していたのは、日本やドイツだけではなかった。アメリカも、新聞、雑誌、ラジオ、そして映画などに厳重な検閲を行なっていた。ダッハウで撮影されたこのトリック写真は、そのような検閲があればこそ可能だったのである。

「ダッハウのガス室」だけではない。ドイツを西から攻略したアメリカ、イギリス連合軍は、ドイツ西部で強制収容所を解放した際、いくつもの「ガス室」を「発見」した筈だったのである。彼らは、そう発表し、戦後しばらくは、そう語っていたのである。それなのにそれを彼ら自身が今日全く語らなくなったのは一体何故なのだろうか?

それは、一九六〇年八月二十六日のことである。当時、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)政府の第二次世界大戦や「ホロコースト」に関するスポークスマン的地位にあった歴史学者、マーティン・ブロサット博士(Dr.Martin Broszat)が、突如として、ナチが大戦中「ガス室」を作ったのはドイツ軍に占領されたポーランドだけで、ドイツ本国に「ガス室」はなかったという意味の声明を発表したのである(Die Zeit, 1960.8.26)。

ブロサット博士は、ミュンヘンの現代史研究所という西ドイツ政府の機関で所長の立場 にあった人物だが、この研究所は、これまで「ガス室」の存在を「証明」するために実に多くの発表を行なっており、西ドイツ政府の歴史に関する見解を代弁する団体とみなされている。その現代史研究所の所長、ブロサット博士が、突然、昨日までは「真実」とされていたダッハウやブーヒェンヴァルトなど、ドイツ本国の収容所における「ガス室」の存在を否定したのである。

その日を境として、「ホロコースト」に関する「真実」は「改訂」され、昨日まで「存在した」と主張されていた「ダッハウのガス室」や「ブーヒェンヴァルトのガス室」は、実は存在しなかった、という話に変更された。

しかも、ブロサット博士は、その声明の中で、このような「真実の変更」がなされた理由を一言も説明していないのである。

こうして、今日我々に教えられる「定説」が「公認」されたのであるが、これは、考えてみればドイツ本国に関する限り、ラッシニエの主張をそのまま認めたものに他ならない。

ブロサット博士が、この声明を出した後、ナチの「ガス室」は、ポーランドのみに作られた、という「定説」が世界で定着し、一九七五年には、「ナチ・ハンター」として有名なユダヤ系活動家、サイモン・ヴィーゼンタール氏までが、ドイツ本国に限っては、「ガス室」がなかったことを認める発言をしている。

戦争直後には、「ブーヒェンヴァルトのガス室」を目撃したという「証言」があった。「ダッハウのガス室」を目撃したという「証言」もあった。これらの「証言」は、ニュールンベルク裁判にも提出されていたのだが、こうした「証言」が本当であったなら、「定説」を支持する人々は、何故、ダッハウやブーヒェンヴァルトに「ガス室」があったという彼らの主張を取り下げたのだろうか? 答えは、一つしかない。

彼らが発表した「証拠」や「証言」の中に本物は一つもなかったのである。恐ろしいが、これが真実なのである。

注目して頂きたいのは、この書き変え以降も、「ガス室があった」とされる収容所はすべて東側、つまり共産圏に存在し、ジャーナリストの自由な調査が不可能な地域であったという事実だ。

「ダッハウのガス室」だけではない。例えば、ある作家は、アウシュヴィッツ及びブーヒェンヴァルトの強制収容所に入れられていたという体験の持ち主であるが、その著作の中で、自分がアウシュヴィッツで目撃したという情景を書いている。彼は、その中で何を見たと書いていただろうか?

驚かないで頂きたい。その作家は、「ガス室」のことなど一言も書いていないのである。かわりに子供や赤ん坊が炎の中に投げ込まれるのを見たと書いていたのである。一九五八年の著作の中で、「火炎による大量殺人」の光景をありありと描写していたのである。いうまでもなく、今日、アウシュヴィッツで火あぶりが行なわれていたと主張する歴史家はいない。とすると、この作家が「目撃」した光景は、一体何だったのだろうか?

アウシュヴィッツで、人間が生きたまま火に投げ込まれるのを見たと書いていたこの作家は、一九八六年にノーベル平和賞を授与されている。ちなみに、「ホロコースト」という言葉は、前述した通り、いけにえの動物を火にあぶるユダヤ教の儀式に由来するが、この儀式名が「ナチスのユダヤ人大虐殺」を意味するものとして使われだしたのは、このように戦後まもない時期には、「ナチスは、ユダヤ人を生きたまま火に投げ込んで殺した」という話が語られていたことに由来している。

今日、アウシュヴィッツのユダヤ人が「ガス室」ではなく、「火」に投げ込まれて殺された、と主張する歴史家はいないのだが……。

このように、「ホロコースト」に関しては、「間違い」とか「見間違い」では、到底説明し得ない内容の書き換えがくりかえされてきた。そして、もっと重要なことは、そのようないい加減な「証言」だけに「ホロコースト」の内容が依拠していると言うことなのである。つまり、「ホロコースト」には、「証言」以外に何も物証がないのである。

そう言うと、読者は驚くかもしれない。

「アウシュヴィッツには、ガス室が展示されているじゃないか」とか、「あの靴の山は何なんだ」「あの髪の毛は何なんだ」等々、読者が当惑する顔が私には目に浮かぶ。私もそう思っていた。しかし、ああした「物証」は何ら物証ではない。ただ、それらに付けられた「解説」だけが、それらの物品を「物証」のように見せているのである。

例えばここに靴の山があったとして、一体その靴の山だけで、どうして靴の持ち主たちが「ガス室」に入れられ、殺された、と証明できるのだろうか? 髪の毛も同じである。

こんなたとえは不謹慎かもしれないが、私が、靴や髪を沢山集めてテレビ局に赴き、「隣の人が浴室をガス室に改造して、人を殺していた」と言ったら、テレビは私の言ったことをニュースとして報道するだろうか? ただし、死体は何処にもないので、私は、「灰になる まで焼却したのだ」と言う。

これが、「ホロコースト」である。この話と「ホロコースト」の違いは、靴の山や髪の山を「発見した」と言ったのが私ではなくソ連軍であったことだけである。仮りに私が靴や髪を見せても、それだけでその持ち主が「ガス室」の死者だったと鵜呑みにする人はいないだろうが、同じことをソ連がポーランドでやったら、世界中が信じたのである。何故、信じたかと言えば、世界中のマスメディアが、それを伝えたからである。何故ソ連の発表をアメリカをはじめとする世界のマスメディアが何の検証もせずに報じてきたのかは、 ここでは論じない。

しかし、気が付いて欲しいことは、このように証拠能力のない「物証」も、マスメディアが伝えると、「物証」のように思われてしまうということである。それが、「ホロコースト」を支えるものなのである。

では、「ガス室」はどうかということになるが、これも物証ではない。今日の「定説」によれば、ナチスドイツは、自国ドイツ領内には「ガス室」を作らなかったが、占領したポーランドに「ガス室」を作り、六百万人のユダヤ人を計画的に殺した、と説明されている。

だから、「ガス室」の実物がポーランドに実在しなければならないが、まず第一に、今日のポーランド領内でその「ガス室」として展示されているものがある場所は二カ所しかない。一つは、アウシュヴィッツであり、もう一つはマイダネックという場所だ。あとの「ガス室」は、「存在したが、戦争末期にドイツが証拠隠滅の目的で破壊し、なくなった」と説明されている。

「破壊され、なくなったガス室」がどうして実在したといえるのかといえば、またしても「証言」なのである

「ガス室」の「実物」とされるものはアウシュヴィッツとマイダネックにしかないのだが、実はそれら「ガス室」というコメント付きでポーランド当局が展示している部屋は、処刑用ガス室に必要な構造、特徴を全く備えていないのである。

例えば、今日アウシュヴィッツに展示されているあの有名な「ガス室」は、半地下式の「ガス室」で、すぐ隣に四つの焼却炉を持つ「焼却室」が併設されている。というよりも、そのような半地下室をポーランドの共産主義政権が、戦後「ガス室」として展示してきたのである。この部屋が仮りに説明されている通り、殺人用ガス室だったと仮定してみよう。

すると、まず、この「ガス室」には窓がないことに気付く。窓というより、窓を取付ける穴が何処にも開けられていないのである。

窓そのものは、処刑用ガス室にとって必要とはいえないが、窓を取付ける穴が一つもないということは、換気扇を付ける場所がないということである。

処刑用ガス室においては、一回処刑が終わるたびに換気をしなければならない。換気をしなければ、次の犠牲者たちを「シャワーだ」とだまして「ガス室」に入れることは出来ないのだから、これはガス室にとって必要欠くべからざる機能なのである。

しかし、そのために必要な換気扇を付ける場所が、アウシュヴィッツの「ガス室」にはない。アウシュヴィッツの「ガス室」で使用されたことになっている「毒ガス」は青酸ガスだが、青酸ガスの物理的性質の一つに、壁や天井に吸着しやすいというやっかいな性質があり、例えば倉庫などで青酸ガスによる殺虫作業を行なった場合、自然の通風では、殺虫作業後の換気に二十時間前後を要したとされている。

とすれば、アウシュヴィッツの「あの部屋」が「ガス室」だった場合、換気扇がないのだから、出入り口または天井の小穴(そこから青酸ガスが投げ込まれたことになっている)から換気したとして、一日に一回しか「ガス室」での処刑は行なえなかった筈である(何という非効率的な「民族絶滅」だろうか?)。

その上、アウシュヴィッツの「ガス室」には、処刑用ガス室の設計において常に要求される高い機密性がなく、青酸ガスで内部を充満させた場合、外部に青酸ガスが漏れるのは必至であると、アメリカのガス室専門家ロイヒターは指摘している(彼のレポート"THE LEUCHTE REPORT" は一九八九年ロンドンで出版)。つまり、外にいるドイツ兵が青酸中毒になってしまうのである。

サイクロンBの成分であるシアン化水素自体は確かに猛毒だが、使用に際し、長時間の加熱を必要とする。つまり、長時間の加熱を行なわなければ「毒ガス」それ自体が発生しないのだが、それは、サイクロンBが、もともとそのような方法で使用する殺虫剤だったからに他ならない。ただ缶を開ければ、青酸ガスが発生するようなものではないのである。

ここは、非常に重要な点なので分かりやすく説明しよう。DDTを持たなかった第二次世界大戦中のドイツ軍は、このサイクロンBを殺虫剤として使用していたが、問題は、「ホロコースト」があったと主張する人々が、この殺虫剤サイクロンBが「ガス室」で使われたと主張していることにある。つまり、彼らは、ドイツが殺虫剤サイクロンBを大量殺人用に転用し、アウシュヴィッツなどの「ガス室」で使用したと、戦後一貫して主張し続けているのである。

これは、「ホロコースト」という物語の核心部分であるが、実は、物理的、化学的、医学的に不可能なことなのである。

サイクロンBは、缶に入っている。「ホロコースト」を扱ったテレビドラマや映画では、この缶をドイツ兵が開け、「ガス室」の屋根に取付けられた穴から放り込むと、直ちに缶の中から「毒ガス」が出て、ドイツ兵の足下の地下式「ガス室」にいる人々が「毒ガス」に悶え苦しみ、死んで行くという場面が描かれているが、これは絶対にあり得ない。サイクロンBの缶の中身はシアン化水素(HCN)、すなわち青酸ガスが吸着したチョークパルプのかけらなのである。青酸ガス(HCN)を発生させるには、それらの(青酸ガスを吸着した)チョークやパルプをヒーターで長時間加熱しなければならないのだ。これを燻蒸という。

戦後、連合軍が押収したドイツ政府公文書の中に、「ユダヤ人絶滅」を命令した文書は一枚もなかったのである。

アウシュヴィッツ等の強制収容所では、戦争末期に発疹チフスなどの感染症が多発し、それらの病原体を媒介するシラミの駆除が大問題になっていた。こうしたシラミが、被収容者の衣服に付着することが多かったため、 ドイツ軍当局は、被収容者の衣服をサイクロンBによって燻蒸、消毒していた。

もっとも十分な効果は得らず、ある資料によれば、サイクロンBによる燻蒸では、蛾を殺すのにも二十四時間が必要だったという。この程度の殺虫剤をドイツは大量殺人用の毒ガスに転用したということになっているのだが、蛾を殺すのに二十四時間もかかった殺虫剤で、人間を数十分以内に殺せたのだろうか?

このサイクロンBが、アウシュヴィッツなどの「ガス室」で「大量殺人」に使用されたという主張は、「ホロコースト」の中心的「教義」である。しかし、その根拠も、実は、「証言」しかないのだ。その「証言」の中で、最も重要なものは、アウシュヴィッツ収容所の所長ルドルフ・ヘスのもので、「自白」の調書や、処刑される前に書いたとされる「回想録」がある。

しかし、これらの文書は、イギリス軍やポーランド当局が一方的に発表したもので、ヘスが本当に述べたという証拠は何もない。

(このルドルフ・ヘスは、戦後イギリス軍に捕らえられ、イギリス当局の取り調べを受けた後、ポーランドに引き渡され、ポーランドで処刑された人物で、戦時中英国に渡った大物のヘスとは別人)

アウシュヴィッツ収容所の所長(司令官)だったルドルフ・ヘスが書いたとされる文書が重視される理由は、ヘスこそが、アウシュヴィッツ収容所でサイクロンBによる大量殺人を立案した人物だとされているからだ。しかし、これらの文書を読むと、科学的には絶対あり得ないことが沢山書かれている。

例えば、ポーランドでヘスが書いたとされる「回想録」の中にこんな描写がある。「ガス室」でユダヤ人達が死んだ後、ドイツ兵達が「ガス室」に入り、ユダヤ人達の死体を外に搬出する様子の描写なのだが、ドイツ兵達は物を食べたり、タバコを吸ったりしながら黙々と死体を運び出したと述べられている。

しかし、これは絶対に嘘である。「物を食べながら」ということは、ガスマスクを付けずに処刑直後のガス室に入ったことを意味する。

サイクロンBで人間を殺せるかどうかの議論は棚上げして、仮りに殺せたとしよう。とすれば、処刑が終わった「ガス室」内部は、人間の致死量を超える濃度の青酸ガスが充満している筈である。そこにガスマスクを付けずに入ったというのだろうか? そして、「タバコを吸いながら」という描写はどうだろうか? 青酸ガス(シアン化水素)は、水素化合物、即ち爆発性の気体なのだ。

さらに言えば、「ガス室」のシャワーから青酸ガスが噴霧されたというよく知られた話も全く馬鹿げている。

青酸ガスは、空気より軽いのである。その青酸ガス(シアン化水素)をガス室の屋根の穴から缶ごと投下し、シャワーを経由してその下にいるユダヤ人達を殺したという話が、広く信じられているが、空気より軽い青酸ガスが、「ガス室」の天井からその下のユダヤ人達へと、上から下へ拡散するだろうか?

もう一つ、読者を驚かせることを言おう。

ヒトラーは、「ユダヤ人絶滅」など、一度も命令していなかったのである。

プロパガンダとして流布された「ガス室」の話が、検証されぬまま「歴史」に転化したのが「ホロコースト」

連合軍は、戦後ドイツで大量のドイツ政府公文書を押収した。それによって、戦争中ドイツ政府が何を検討し、何を命令していたかが明らかになるからだが、その押収されたドイツ公文書の量は、アメリカ軍が押収したものだけでも千百トンに及んでいる。

ところが、戦後、連合軍が押収したそれらのドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書は一枚もなかったのである。実際、連合国は、ニュールンベルク裁判において、ドイツの指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した証拠となる文書を提出していない。

これに対しては、「ナチが証拠を隠滅したから文書が残らなかったのだ」とか、「ユダヤ人絶滅計画は極秘事項だったので、命令は全て口頭でなされたのだ」とかいう反論が予想されるが、そうした主張は、あくまでも「仮説」でしかない。事実としてそのような文書は、今日まで一枚も発見されていない。

もし証拠となる命令文書はあったが隠滅されたとか、命令が口頭でなされたとか主張するなら、その証拠を提示するべきである。実際、アメリカにはこのような主張をする人々がおり、それなりの「証言」や談話の記録、会議録、手紙などを引用する人すらいるが、結論から言うと、彼らが引用するそれらのものは、全く「証拠」になるようなものではない。

具体的には、ニュールンベルク裁判におけるハンス・レマースの証言、ハインリヒ・ヒムラーが一九四三年十月四日に行なったとされる談話の筆記録、ヴァンゼー会議という会議の記録、ゲーリングが一九四一年七月三十一日に書いた手紙、ベッカーという軍人サインがあるソ連発表の手紙等々であるが、これらの文書は、しばしばそれらの反論者たちによって「ユダヤ人絶滅を命令、記録したドイツ文書」として引用されるものの、よく読むと、全くそんな文書ではないのである。

それどころか、ドイツ政府が計画した「ユダヤ人問題の最終的解決」なるものの内容が、実はユダヤ人の「絶滅」等ではなく、ユダヤ人の強制移住であったことを明快に示す文書が、押収されたドイツの公文書の中に多数発見されている。

それらの文書は、ポーランドに作られたアウシュヴィッツ収容所等へのユダヤ人移送が、ドイツ政府にとっては「一時的措置」でしかなかったことを明快に述べている。そればかりか、当時のドイツ指導部が、その「一時的措置」の後には、収容したユダヤ人達を「東方地域」に移送する計画であったことをはっきりと述べてもいるのである。

これは、アウシュヴィッツをはじめとする収容所の建設目的が、これまで言われてきたような「ユダヤ民族の絶滅」ではなく、「東方地域への移送」であったことの動かぬ証拠である。これこそが、ナチスドイツが計画した「ユダヤ人問題の最終的解決」という用語の本当の意味だったのである。

くどいようだが、私は、強制移住ならよいなどと言っているのではない。私は、このようなナチスの差別的政策を支持、正当化するつもりは毛頭ない。私が問題にしていることは、「歴史家」や「ジャーナリスト」たちが戦後語り続けてきた「歴史」が、余りにも事実と懸け離れたものだったということなのである。彼らは、誰かがそれを指摘することを「ナチスの弁護」というのだろうか。

アウシュヴィッツに収容された一人にマリア・ファンヘルヴァーデン(Maria Vanher-waarden)という女性がいる。全く無名の人ではあるが、この人が一九八八年の三月に、カナダのトロントで述べた証言は極めて興味深いものである。

彼女は、一九四二年にアウシュヴィッツ及びそこに隣接するビルケナウ強制収容所に収容されたのであるが、列車で移送される途中、同乗したジプシーの女性から、アウシュヴィッツに着いたら、彼女たちは皆「ガス室」によって殺されてしまうのだという話を聞かされた。当然、彼女は、ジプシーが語ったその話に恐怖を抱いた。

興味深いのは、その後である。彼女の証言によると、アウシュヴィッツに到着すると、彼女たちは服を脱ぐよう命令された。そして、窓のないコンクリートの部屋に入れられ、シャワーを浴びるよう言われたという。ここで、彼女たちの恐怖は頂点に達した。列車の中でジプシーの女性から「ガス室」で殺されるという話を聞かされていたからである。ところが、彼女の頭上のシャワーから出てきたものは、「ガス」ではなく、水だったのである。

読者は、この証言をどう思うであろうか?このような証言は、他にもいろいろあるのだが、戦後半世紀もの間、何故か、こういう証言は「ガス室」が存在したと主張する人々によって徹底的に無視されてきたのである。証言は、証言でしかない。しかし、一つの事柄について対立する証言がある時、物証も検証せずに、一方の「証言」だけを取り上げ、他方を検討すらしないというやり方が、正当なものといえるであろうか?

このファンヘルヴァーデンという女性の証言で興味深いことは、彼女の証言に出てくるジプシーの女性が、何処で「ガス室」の噂を聞いたかという問題である。それを確かめる方法はないが、それに関連して、アメリカの歴史家マーク・ウェーバーは、戦争中、連合軍が、ラジオやビラによってドイツ占領下のヨーロッパに対してこの「ガス室」の噂を意図的に流布させていたことを『アウシュビッツ神話と真実』の中で指摘している。

すなわち、戦争中の心理作戦としてのプロパガンダの一つに、この「ガス室」の話が織り込まれていたのである。そのようにして流布された戦争中の「ガス室」の話が、戦後検証されぬまま「歴史」に転化してしまったのが「ホロコースト」に他ならない。

アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で戦争末期にチフスが発生し、多くの死者を出したことは、明白な事実である。このことについては「ホロコースト」があったとする人々も異論を唱えてはいない。

ナチスが建設したユダヤ人収容所で衛生業務に当たったドイツ軍軍医による記録、ドイツ西部で解放直後の強制収容所の衛生状態を観察したアメリカ、イギリスの医師たちによる報告などは、一致して、戦争末期から戦争直後にかけての強制収容所でのチフスの発生のひどさを詳細に記録しており、このことについては論争の余地はないものと思われる(J・E・ゴードンなど)。

問題は、ドイツがそのような状況にどのように対応したかであるが、ドイツ軍当局は、ユダヤ人を戦時下の労働力として温存したか ったのであり、意図的に衛生状態を悪化させたと考えさせる証拠は見つからない。

例えば、ドイツ政府の中でユダヤ人問題を総括する立場にあったハインリヒ・ヒムラーは、チフス等の病気によるユダヤ人の死亡が多いことに神経をとがらせ、収容所の管理者たちに対し、もっと死亡率を低下させよという命令を出してすらいる。例えば、一九四二年十二月二十八日の日付けで強制収容所の統括司令部がアウシュヴィッツ収容所に送った命令書には、こう書かれている。

「収容所の医師達は、これまで以上に被収容者の栄養状態を観察し、関係者と連携して改善策を収容所司令官に提出しなければならない」

これは、ヒムラー自身の言葉ではないが、この命令書はヒムラーの次のような言葉を引用しているのだ。

「死亡率は、絶対に低下させなければならない」

この命令は、言われているような「民族皆殺し」と両立する命令であろうか?

当時のドイツ指導部がこのような命令を出したのは、ユダヤ人達が労働力として貴重だったからだろう。それが別に「人道的理由」で出されたものだとは思わない。

しかし、こうした生の資料(一次資料)から気付くことは、ナチスの政策自体は非道であったにせよ、我々が『シンドラーのリスト』などから与えられてきた強制収容所のイメージは、歴史的事実とは懸け離れたものだということである。一例を挙げるなら、『シンドラーのリスト』の中で、ゲートという収容所の司令官が、朝、ベランダから面白半分にユダヤ人を銃で撃ち殺すショッキングな場面があるが、これは絶対にウソである。

何故なら、当時の強制収容所では、確かにユダヤ人等の被収容者が体罰を加えられることはあったが、それには事前に書類を提出して許可を得ることが義務づけられていたからである。その書類は、ベルリンにまで送らなければならなかったし、もし、この手続きを無視すれば、そのドイツ兵は、軍紀違反で厳罰に処せられたのである。

このことは、戦後西ドイツで法務官吏を勤めたヴィルヘルム・シュテークリッヒ(Wilhelm Sta"glich)が自著 "AUSCHWITZ:A Jude Looks at the Evidence"の中で述べているし、アメリカの歴史家セオドア・オキーフェ(Theodore O'keefe)なども述べている。中には、死刑に処せられたドイツ人すらいる。

お分かりだろうか? ナチスの政策そのものは不当であったにせよ、そのドイツにおいて、ユダヤ人などを虐待したという理由で死刑に処せられたドイツ人がいたのである。

「ユダヤ民族の絶滅」がドイツの目標であったなら、何故そんな厳罰に処する必要があったのだろうか?

ナチスドイツがユダヤ系市民に対して行なった様々な差別政策や弾圧は、民主主義の原則に対する明白な挑戦であり、その最終局面としての強制移住計画は、私自身を含めて、誰もが不当と言わざるを得ないものである。

しかし、だからといって、ドイツがやっていないことまでやったと強弁することは間違っているし、そのことで、戦後生まれの若いドイツ人が罪人扱いされることも、こうした事実を検証しようとする言論を政府が抑圧することも明らかに間違ったことである。

詳しく述べることが出来なかったが、六百万人という犠牲者数にも全く根拠がない。そもそも、ドイツが最も占領地域を広げた時ですら、そこにいたユダヤ人の数は、四百万人もいなかったという指摘もある。

最後に、一言言っておきたい。

アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で生命を落としたユダヤ人達の運命は、悲惨である。彼らは、その意志に反して各地の収容所に移送され、戦争末期の混乱の中でチフス等の疾病によって生命を落としていった。

その運命の悲惨さは、日本軍によって苦しめられた中国の民衆や、原爆の犠牲者と同様、現代に生きる我々が、忘れることを許されない今世紀最大の悲劇の一つである。現代の世界に生きる我々は、それを忘れる権利を持たない。しかし、そうであるからこそ、真実は明らかにされなければならないし、虚構を語ることは許されないのである。

この記事をアウシュヴィッツその他の地で露と消えたユダヤ人の霊前に捧げたい。

<ホロコーストとは、ホロコースト論争とは?>

ヒットラーは本当に“狂人”だったのか?

引き続き『Rothschild Money Trust』の中から興味深い記事をご紹介します。繰り返しますが、本書は1940年米国人によって米国で出版されたものです。著者がどのような人物であったのかはプロフィールが書いていないのでわかりませんが、前回ご紹介したように真珠湾攻撃による日米開戦を予測的中させたり、頻繁に連邦議会議事録を引用していることからみて、政治や国際情勢に精通してることは間違いないと思われます。(日頃から精読していないと的確な引用はできませんし、多少政治に興味がある程度なら議事録を精読したりしないでしょうから。)

著者はアイソレーショニスト*1であり、反ユダヤを標榜しているので、必然的に親ヒットラー的な記述が多くみられますが、当時まだ参戦していない、つまり第三国である米国からの視点なので、わりと客観的にヨーロッパ戦線の情勢を描写していると思います。

現在では“極悪人”とか“悪魔”とか“狂人”というレッテルを貼られているヒットラーですが、彼は本当に“狂人”だったのでしょうか?狂人だとすれば、なぜ質実剛健で優秀とされるドイツ国民に熱烈に支持されたのでしょう?世界情勢を違った角度から見ると、ヒットラーの見方も変わるかもしれません。

第一次世界大戦の結果、ドイツ皇帝は退位し、宰相ベートマン・ホルヴェークは辞職した。しかしラーテナウや他のユダヤ人たちはそのままだった。戦争によってドイツはユダヤ人支配の君主国から、ユダヤ人支配の民主主義国へと変わっただけだ。たしかに民主主義国になって、この国を支配するユダヤ人の顔ぶれは一新したが、彼らはやはり、あのおなじみのロスチャイルドの影響下にあり、ロスチャイルドの理想を理想とし、ロスチャイルドの計画に従っていた。

彼らが最初にとった行動は、ドイツの通貨・ドイツマルクの価値を下落させることであった。彼らは何十億ものマルクを発行し、マルクの価値がなくなるまで発行し続けた。彼らは膨大な額のマルクを高い割引率でアメリカをはじめとする諸外国に売り、売った後でマルクを無価値なものにした。彼らは無価値のマルクで世界中の民衆から本物の金を巻き上げたのだ。彼らはドイツの土地、建物、工場など値段の高いときに買い、そして、その代金を価値のなくなったマルクで支払った。ところがこの激しいインフレが静まり、しかも財産をただ同然で獲得し終えてから、このまさしく同じ顔ぶれの悪辣なユダヤ人勢力は、ドーズ委員会を通じてドイツ国立銀行を再建し、金本位制を復活させ、デフレ政策に切り換えたのである。

このようにしてユダヤ人はドイツ国民を圧迫し、困窮に陥れながら自分たちはいい思いをしてきた。

アドルフ・ヒットラーが推測したところによると、ユダヤ人はドイツの全財産の少なくない部分を占めていたという。なんとドイツの全人口の1%にも満たないこの異人種が、この国の大きい割合(8割)の富を所有していた。ひどいことに、これらの財産は彼らがアメリカの富を盗み取ってきたのと同じように、通貨制度を操作して盗み取ったものなのだ。ヒットラーが今までかくも忍耐強く耐えてきたとは驚くべきことだ。

ウィルソン大統領はかの有名な14ヵ条を、ドイツをはじめとする世界各国に休戦交渉の共通基盤として宣言した。これはもしドイツが降伏すれば、ドイツ政府もドイツ国民も不利益を被らないということをほぼ保証するものだった。休戦条約は皇帝によって正式に受諾され、これによって休戦が宣言され、ひきつづいてベルサイユ講和条約が結ばれた。

ドイツは、降伏して武装解除をし無力になると、今度はユダヤ人の手にゆだねられ、解体され、無力化された。第二次世界大戦が始まる数ヵ月前にアドルフ・ヒットラーはラジオ演説で、ドイツ軍を降伏させるためウィルソン大統領がおこなった14ヵ条の約束のことに触れ、アメリカ政府によって暗に保証されていたこの約束が踏みにじられたこと、ドイツ帝国が解体されたこと、支払い不可能な高額の賠償金が課せられたこと、ドイツ政府のユダヤ人内閣が戦後国民を大不況に陥れたことなどを数え上げ、次のように述べている。

「寄生虫ユダヤ人は、一方ではこの国を情け容赦なく略奪し、この国を惨めな状態に陥れておきながら、もう一方では、惨めな国になってしまったこの国の国民を扇動してきた。わが国の困窮状態が、ユダヤ民族が唯一目指しているものにふさわしいほどになったので、増大している失業者の群れの中に、ボルシェビキ革命にふさわしい人材を彼らが養成するのは可能となった。

政治秩序の崩壊と、無責任なユダヤ人の報道機関によって起こされた人心の混乱は、かつてないほどの強い衝撃を経済生活に引き起こし、その結果困窮者は増大し、政府転覆を図るボルシェビキ思想がますます受け入れやすくなる土壌ができあがった。ユダヤ世界政府革命軍は、失業者群を呼び集めて、ついに700万人近くになった」

ヒットラーの演説は、野心をもち、武力をちらつかせるほら吹き屋の演説ではない。これは戦争を憎む、真面目で、思慮深い男が使命感に燃えて行なった演説である。

彼は戦争挑発者について次のように述べている。

「『屈辱的な融和政策はもうごめんだ』という叫びが、現在、世界中に響き渡っているが、この叫び声は、戦争挑発者にとって平和解決は最も命取りの解決方法だという事実を世界にふれまわっているだけだ。彼らは血が流されても平気である。もちろん彼ら自身の血ではない。これら挑発者たちは弾丸飛び交う戦地には姿を現わさず、もっぱら金儲けのできる場所にいる。血を流すのは名もない兵士たちなのだ。」

アドルフ・ヒットラーは演説で、ポーランドに向けて率直明快に、もとドイツ領であったダンツィヒとポーランド回廊はもらわねばならないが、以前ドイツ領であったシュレジアは要求しないと述べている。彼らはさらに、世界平和のため以前ドイツ領であったアルザスに関する条約をフランスと結んだことを述べ、その条約を遵守すると演説している。

ヒットラーはポーランドと交渉を開始し、これらの領土を話し合いによってドイツに返還させようとした。交渉の最中にポーランド在住のドイツ人虐殺事件が起こったが、それにもかかわらずヒットラーはこの条約を締結するためユダヤ人のポーランド外相ベックとの会見の約束をしたが、ベックはこの約束を守らなかった。彼は約束を守るどころか、ロンドンのダウニング街(首相官邸のある所)へ出向き、英国首相に助言を求めた。ヒットラーはポーランドの反乱を押さえるために軍隊を送り、その結果、英国とフランスがドイツに宣戦を布告した。かくして第二次世界大戦は始まったのである。

ポーランドを征服した後、ヒットラーはベルサイユ条約でドイツから奪われた領土以外は、アルザスを例外として要求しないという条件をつけて、連合軍およびその他の国々に和平を再度提案した。今回のこの提案と彼の最初の提案との違いは、今回はベルサイユ条約で英国に与えられた植民地をドイツに返還するよう要求していることである。この申し出に対する回答は、ヒットラー政府と取引する気はない、ヒットラーとヒットラー主義(反ユダヤ主義と同義)は潰してしまわなければならないというものであった。

古くからの戦略にならって、英国は海上封鎖をして敵を兵糧攻めにする戦略をとった。英国は、大英帝国がその大半をつくった国際法を自ら犯して、ドイツの輸出入を封鎖した。ドイツはこれに対して潜水艦空軍で対処し、飢えるのは「反対側」の英国という皮肉な結果となった。

今までのところドイツは文明国の戦争規則に従って戦争をしてきている。英国の予想を裏切って、その秀でた空軍力を利用して行なう毒ガス攻撃はせず、英国の指揮官を一人も殺そうとはしていない。英国の船が沈められたときも、英国の兵士や船員を保護し、移送してきた。ノルウェーの港に停泊しているアルトマルク号にはこういった捕虜が多数乗っていた。チャーチルの命令で英国の巡洋艦がノルウェーの中立を踏みにじり、ノルウェーの港に停泊しているアルトマルク号を攻撃し、数人の無抵抗で丸腰の船員を撃って、これら捕虜を助け出した。ドイツはこれら捕虜たちの船が沈められたとき、彼らを見殺しにすることもできたのに。

非武装のアルトマルク号を英国が卑劣にも攻撃した事件は、英米のユダヤ人報道機関から英国の大勝利として大喝采を浴びた。

ドイツがユダヤ人の市民権を剥奪し罰金を科すと、すぐにアメリカは大使を「相談」のためドイツから呼び戻した。しかし大使はまだアメリカにいる。なんと時間のかかる相談だろう。これは戦争行為にほかならない。なぜなら通常、大使引き上げは宣戦布告に先立つ第一ステップだからだ。しかしヒットラーは、アメリカではまったく戦争の態勢が整っていないにもかかわらず、彼がアメリカとの戦争を望んでいないという明白な理由で、このアメリカの挑戦に乗らなかった。

ミュンヘン条約はユダヤ国際機関にとってもフランクリン・D・ルーズベルトにとっても残念ながら当てはずれだった。ルーズベルトは怒りをあらわにして、ドイツからの輸入品に25%の関税をかけ、ニューヨークの銀行に預金されていたドイツ国立銀行の金を差し押さえた。これらの行為は明らかな戦争行為であるが、ヒットラーは落ち着いて堂々と対処した。彼はアメリカから大使を引き上げ、アメリカのドイツへの輸出品に同様の関税を課しただけだった。もし彼がアメリカとの戦争を望んでいるのであれば、彼には戦争を始める大義名分がある。

ユダヤ系新聞が述べているように、もしもヒットラー氏が血に飢えた野心家の悪漢であるなら、彼はわれわれに宣戦布告するであろう。しかも、われわれの準備や武器が整わない今の間にそうするであろう。わが国が工業活動を加速し、消耗した戦備を補給できるまで、二年も三年も待ちはしないであろう。彼はそんな悠長なことをするほど無分別ではない。彼は、自分の準備が整い、われわれがまだ不備ないま宣戦するであろう。

ヒットラー氏についていかなる見解を抱こうと、われわれは次のことを認めねばならない。すなわち、彼はこの戦争に余儀なく引き込まれたこと。彼はベルサイユ条約によって不当にドイツから奪われた領土をドイツに返還することを基準として、和睦する用意があったこと。さらに彼は、文明国戦争のルールに従って戦争を遂行したことである。

現大戦はヒットラー主義(反ユダヤ主義)とユダヤ帝国主義との間の死闘である。連合国側が戦争を行なう目的は、ポーランドやチェコスロバキアやその他の国の回復ではない。

彼らの主要目的はヒットラーとドイツを倒し、金本位制を守ることである。なぜならヒットラーもドイツも共に反ユダヤであり、金本位制を通してユダヤ人はすべての国の経済を動かせるからだ。

ヒットラーが金本位制を廃止したその日からドイツは繁栄に向かい、失業もなくなった。ドイツは金を持たずに戦争を行なっており、ユダヤ人からカネを借りなくとも戦争はできるということを世界に示した。


参考までに、不可解な死を遂げたトルーマン政権時代の米国防長官ジェームズ・フォレスタル氏の日記から重要な証言を引用しておきましょう。

1945年12月27日、ジョー・ケネディー(第二次世界大戦直前にルーズベルト政権の英国大使であった)と今日ゴルフをした。彼に1938年以降のルーズベルトとネヴィル・チェンバレンとの会話について尋ねた。1938年におけるチェンバレンの立場は、「英国は何ら戦うべき目的がなかったし、ヒットラーと戦う危険を侵すことはできなかった」というものであったと彼は言った。ケネディーの見方によれば「ブリット(当時の米国フランス大使)が1939年の夏にドイツはポーランドに対決させねばならぬと執拗にルーズベルトを焚き付けなければ、戦争は起こり得なかった」フランスも英国もワシントンからの絶え間のない要求がなかったならば、ポーランドを戦争のきっかけとはしなかったであろう。ブリットはルーズベルトに「ドイツは戦う気がない」といっていたが、自分(ケネディ)は「彼らは戦うし、そうなれば全欧州を席巻するだろう」といった。チェンバレンは「米国と世界のユダヤ人が英国を戦争に追い込んだ」といった。

ここでは「ワシントンからの絶え間のない要求」とありますが、ワシントンに絶え間のない要求をしていたのはウォール街でしょう。

このような背景を知って、ヒットラーの『我が闘争』を読むと、彼の主張は正当なものではなかったのか?もちろん暴力を肯定するわけではありませんが、現在に伝えられるヒットラー像は、戦勝者によってつくられた“虚像”ではなかったのか?という疑問が生じてきます。

「この憎悪に満ちた世界の動きを陰で操っている者はどこにいるのだ。誰がこの狂気を作り出したのだ。この狂気を全部ロシアに移植し、他の国々にもはびこらせようとしているのは誰だ。この疑問に対する答えを知れば、われわれの反ユダヤ政策とわれわれの妥協なきユダヤとの戦いの本当の意味がわかるであろう。なぜならボルシェビキの国際組織インターナショナルは、実際にはユダヤの国際組織にほかならないからだ。

マルクス主義を考え出したのはユダヤ人である。マルクス主義を媒介にして世界革命を起こそうと何十年も前から画策してきたのはユダヤ人である。世界中の国々のマルクス主義組織の党首は、現在すべてユダヤ人である。国家も民族も国も持たない流浪の民にしかこのような悪魔の思想は宿りえない。悪霊に取り憑かれた者のみが、この革命を行なえるのだ。」ヨゼフ・ゲッペルス1935年ドイツ労働者党での演説)


『アウシュヴィッツの争点』より

『アウシュヴィッツの嘘』の内容をなぜ正確に報道しないのか

「六〇〇万人の神話」の出発点は「見さげはてた即物的課題」か?

・・・・・・

朝日新聞の特集記事「問われる戦後補償、下」(93・11・14)によると、1993年現在で、

1949年以来イスラエルがドイツからうけとった金額は、904億9300万マルク[1994年現在の交換レートで約5兆7904億5200万円]に達している。

協定の期限の西暦2000年までの支払い予定の残額は317億6500万マルクで、あわせて1222億6500万マルク[おなじく約7兆8249億6000万円]になる。そのほとんどはイスラエル、ユダヤ人組織、ユダヤ人個人向けである。

・・・・・・

「600万人の神話」は、まず最初に「しかるべき死体の数」として提示され、

ドイツからの賠償金の配分獲得に役立ったのだ。


●ヒトラーとは何もの?

なんちゃってアセンションを斬る!より転記

ヒトラーとそのナチ第三帝国には多くの謎がある。いくつか挙げて見る。

 第一次世界大戦で敗れたドイツは、巨額の賠償金を連合国に支払うため経済は破綻していた。軍備も禁止されていたし、軍備に回す予算があろうはずがなかった。それがあれよという間にヒットラーが政権をとると巨大な軍事国家に早変わりして、ヨーロッパを侵略していった。いったいどこからそのカネは捻出できたのか。ただのチンピラ集団でしかなかったナチ党が、あっという間に政権を奪取し得たわけは何か、どこに資金があったのか。

 ドイツ軍は西部戦線で怒濤の進撃をしてフランスを降伏させ、イギリス軍をダンケルクに追いつめてみせたが、手をこまねくだけで英軍30万が本土に引き上げるのを許した。英本土にはたった1個師団しかいなかったのに、とうとうドイツ軍はイギリス本土に侵攻しなかった。

 連合軍によるノルマンディー上陸作戦は、映画「史上最大の作戦」に描かれたように、最悪の天候のなかに強行された。連合軍がノルマンディーに橋頭堡を確保するまで、ヒトラーは睡眠薬を飲んで爆睡しており虎の子のドイツ機甲師団が連合軍を撃破できるチャンスをみすみす失った。

 ヒトラーは東部戦線(ソ連との戦線)や西部戦線でドイツ軍が敗退し続けているというのに、戦争よりユダヤ人を強制収容所に送るほうを優先し、軍事物資が前線に送られなかった。そんなアホな指揮官があろうか?

 などなど、さまざまな疑問が戦史家を悩ませている。

 ヒトラー自身も実はベルリンで自殺していなくて、逃亡したという説が根強く残る。

 ご存知の方もいるだろうが、ヒットラーの90歳(?)の写真(生き延びたという説)が載っているサイトがある。まあちょっと怪しい写真だが、「似ている!」と思わず言いたくなる写真ではある。

http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/hitargentine.htm

 そんな数あるヒトラーとナチに関する「WHY?」のなかで、当時世界一の原子物理学の水準にあったドイツで、原爆開発がなぜ唐突に中止になったかの謎を追ったのが、鬼塚英昭氏の『原爆の秘密(国外編)』(成甲書房)である。この本については「ABCCと放射能予防薬開発の闇」(12月23日付)で紹介した。

 この本に暴露されているヒトラーの出自を紹介してみたい。

 というのもラインクラフト氏がコメントのなかで「ハイル ヒットラー!」と書いてこられたからである。私のブログを読んで「ユダヤを絶滅させようとしたナチスやアドルフ・ヒトラーは正しいと思います」と言われては、困るのだ。私はヒトラーを礼賛しない。端的に言えば、ヒトラーの資金源は、ロスチャイルドや系列のユダヤ資本家だった。ナチスは、ロスチャイルドによって、シオニズムの実現のために作られたユダヤ機関なのである。ナチをソ連や米英と戦わせて、ユダヤ国際金融資本やユダヤ軍産複合体が儲けるという目的があったのであって、どれほど殺されたかは闇のなかではあるが、罪もないユダヤ人を殺すように命令したのは直接にはヒトラーであっただろうが、実際はユダヤ国際金融資本あるいはイルミナティなのである。

 まず『原爆の秘密(国外編)』にはこうある。

 「彼(アドルフ・ヒトラー)の祖母はロスチャイルド男爵の邸でメイドをしていた。グラッツにはロスチャイルドの邸宅があった。そこに、アンセルム・ソロモン・ロスチャイルド男爵が住んでいた。ヒトラーの祖母はそこでロスチャイルドの子供を身ごもった。」

 これは米国諜報機関OSS(CIAの前身)の極秘文書で、ウォルター・ランガーという人が『ヒトラーの心』という本に書いているそうだ。もう一冊鬼塚氏は取り上げている。ヒットラーに財政援助を続けたフリッツ・ティッセンが1941年に著した『私はヒトラーに金をやった』という本のなかで「ヒトラーは嫡出ではないけれどもロスチャイルドの一族として伝えられている。ヒトラーの祖母はロスチャイルドの館で家政婦をしていた。そこで彼女は身ごもった」と書いている。

 さらに鬼塚氏は、1932年、在ベルリンのアメリカ大使がワシントンに送った報告書から独裁者ヒトラー誕生のドラマを紹介する。

 「大量の資金が導入された選挙キャンペーンが行なわれています。30万人から40万人に近い私的な軍隊を維持するための資金はナチを財政的に支援する銀行家たちが提供したものです。憲法を遵守するドイツ共和国政府はこのナチの私的軍隊が唱える“国家の自由”を防ごうと動きだしました。ハンブルグ・アメリカン・ラインがドイツ政府に反対するプロパガンダに金を投入しています。ヒトラーの力に対抗する一時的な試みも効果がありません。ヒトラーに反対する数千の人々がナチのブラウンのシャツを着た私兵たちに射殺されたり、脅迫されています。」

 ハンブルグ・アメリカン・ラインとは、ドイツのユダヤ財閥の最高位に位置するマックス・ウォーバーグとアメリカのハリマン財閥が共同経営する、当時世界一の汽船会社だ。

 要するに、ロスチャイルドの血をひくヒトラーを独裁者に育て、戦争を起こさせ、ユダヤ人を迫害すべく、ユダヤ系の財閥が企図したのである。日本の天皇や財閥、軍人らも、ユダヤ金融資本の手の内にあったのである。鬼塚氏がいうとおり、あの戦争はすべて八百長であった。前線にかり出された兵隊も、空襲にさらされた市民も、みんなユダヤ国際金融資本とその一族郎党が金儲けをするために犠牲になったのである。第一次世界大戦も同じである。

 だからヒトラーは戦争を起こすために創られた独裁者だったのであり、適当に暴れてユダヤ人を殺したあとは、自ら敗戦に導いた男なのであった。だから用済みになったあとは、口封じのために殺されたかもしれないが、あるいは貢献度ナンバーワンとしてアルゼンチンにでも逃亡させて表舞台から姿は消したけれど、生きながらえた可能性は大いにあると思われる。

 鬼塚氏が一番焦点を当てているのは、ベルギー領コンゴの問題であった。ベルギーはナチドイツに開戦早々に蹂躙され、長く占領されてずいぶんベルギー人は殺されるのだが、ヒトラーはベルギーに君臨するユダヤ系王室と金融家たちにはいっさい手を触れなかった。

 戦争に勝ったのだから、ベルギーの持つ資産を奪えばいいじゃないか、と思うのに、肝心の王室や金融家の資産は召し上げないのだ。おかしいでしょ?

 ベルギー王室と金融家どもは植民地のベルギー領コンゴに産出するウランをヒトラーの了解のうえでアメリカに売るのである。それがやがて広島・長崎に落とされる原爆の材料になった。

 詳しくはぜひ鬼塚英昭氏の『原爆の秘密(国外編)』をお読みいただきたい。日本の官許歴史教科書が、「つくる会」の教科書も含めていかにデタラメかよくわかる。歴史教科書で教えることは、すべてユダヤの陰謀を隠し、ウソの歴史を民衆に信じさせるものである。

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