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ピリオド・アプローチについて

ベートーヴェンの話も書かないで、パイヤール室内管弦楽団ヘンデル「水上の音楽」を聴いている。格調の高い演奏。毅然とした発音から始まり、その音がフワーッと消えゆくまでの真っ直ぐさ、人が弾いているとはとても思えない。絶妙のバランスで、華やかに音楽は続いて続いて。素敵な時間です。

この演奏はいわゆるピリオド・アプローチなのだろうか? 指揮のジャン=フランソワ・パイヤールは、確かフランス・バロックの研究者ではなかったか? もしかすると何らかの研究の成果がここに響いてるのかも知れないけど、そういう作られた感じはしない。とても自然に音楽が流れていくもの。自然に体に染み込んでいくもの。それにオーケストラのこの整理され具合は、皆が目指す音楽を噛み砕けていればこそ生み出せたのだと思うが、どうだろうか。

僕は、俄か仕込みのピリオド・アプローチが信用できないのです。そこに表現はあるのかと問いたい。例えばラトル、例えばハーディング、例えば金聖響さん、僕は彼らのピリオド・アプローチな演奏に全く共感できないのだよな。ピリオド・アプローチについて喜々として語る彼らには、「こんなのやってみましたいかがでっしゃろ」式なおどけた態度が見えないか? 本気じゃない気がするがどうだ? そうすることが得だからやっているだけではないか?

僕がそう思うようになったのは、ハーディングの指揮する「ドン・ジョヴァンニ」を聴いてからだ。アバドの巨匠然とした演奏と比較して、「フレッシュだ」だの「新しい風を吹き込んだ」だのの大絶賛。そしてハーディングのインタビュー、確かこんな感じ。

ドン・ジョヴァンニの序曲は二拍子なのです。フルトヴェングラーのようなテンポでは二拍子は表現できません。だから私は序奏で本来のテンポを提示したかったのです」

これを聞いて僕は呆れました。二拍子を表現する術は、テンポでしかないのか? 違うだろう。二拍子が聞こえなくなり、四拍子に聞こえるようになる、テンポの境目があるのか? 違うだろう。

始まる場所と向かう場所と、通る場所と止まる場所、そして伸び縮み。そういったコントラストが拍節感を生むのだと思っていた。例えば、ブラームス交響曲第1番の第1楽章冒頭、拍子は二拍子系の6/8拍子だ。ティンパニが叩き続ける6つの音を、一緒になって振ることはできる。振る指揮者も居る。部分的に三拍子が聞こえることもある。だけど、ブラームスのこのスコアは二拍子の大きなフレーズ感を求めているのではないか? まあ、ブラームスは白い音符を書きたく無かっただけかも知れないが・・・。

と言うことだ(どういうことだ?)。拍子がテンポ感を表すわけでは、絶対にない。拍子を表現したり、聴かせたりする知恵は、テンポ以外にも絶対にある。楽譜から何を読み取ろうが演奏者の自由だが、あまりにも短絡的な判断を、然も凄いことに気付いたように興奮して話すハーディングは、見ていて痛々しかった。もちろん、他にも色々なことを試してはいるだろう。僕が知らないところでも画期的なことを実現できているのかも知れない。だが、自分の狙いをアピールして、演奏会に足を運んでもらって、新しい音楽との出会いに誘うためのインタビューで話す内容としては、あまりにも底が浅い・・・。

その程度の感覚のピリオド・アプローチなど要らないのだ。音楽の新しい姿を構築するためのアイデアと、人を説得できる裏付けと、そして作品への愛が無ければ。マンロウの命を削るような激烈さ、ブリュッヘンの生命力に満ちた息遣い、ノリントンがコツコツとやっていたベートーヴェン、それらに比べれば今流行のピリオド・アプローチは、どうだろう。だいたい楽員への意識の徹底度が低い。ブリュッヘンを見る楽員の彼を尊敬し切った目、ノリントンの指揮を見る楽員の嬉しげな目。ハーディングを、金聖響さんを、そんな目で見る楽員は居るだろうか。そりゃ、何人かは居るだろうが、かなり冷めた表情をしてる楽員多いもの。

そこで戻るのだが、中途半端なピリオド・アプローチで新しぶっている音楽を聴くよりも、パイヤールを聴くほうが感動が深い。消してしまうには惜し過ぎる。惜し過ぎる。

ああ、無関係にミュンヒンガーの録音が欲しいです。