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2002-01-25 ラーメンライスと岡倉由三郎

[]ラーメンライスと岡倉由三郎 20:54 ラーメンライスと岡倉由三郎を含むブックマーク ラーメンライスと岡倉由三郎のブックマークコメント

先ほど、ラーメンと小ライスを食べながら、岡倉由三郎のことを考えた。

岡倉という人は意外なくらい〈周辺〉〈混成〉〈差異〉という事態に出会っている人だが、同時にそれらと対照的な〈中央〉〈純粋〉〈同一性〉を立ち上げた人だった。私は拙論でこのプロセスの一側面を論じた。

が、すでに西成彦さんは『ラフカディオ・ハーンの耳』の中で、『古事記研究第一人者として権力側に立っていた文献学者バジル・ホールチェンバレンと、被差別職能集団に伝わっていた「大黒舞」の韻文を英語の韻文に移し変えようとする文学者ラフカディオ・ハーンの間で、「大黒舞」のテキスト英語に逐語訳したのが岡倉由三郎であったことを書きとめている。

ラフカディオ・ハーンの耳 (同時代ライブラリー (340))

ラフカディオ・ハーンの耳 (同時代ライブラリー (340))

もちろん、西さんが注目するのは、〈文献学者チェンバレンと〈文学者〉ハーンの対立であり、こと「大黒舞」についてはチェンバレンの蔑視に有効な反撃ができなかった1892年当時のハーンと、そこから「耳なし芳一」へと踏み出したハーンについてであり、岡倉は単なる脇役でしかない。しかし、「大黒舞」の韻文を英語の韻文に置き換えることができず、逐語訳をやるしかなかった岡倉が、後年〈差異〉よりは〈同一性〉を重要視する英文学を立ち上げることになったことを考えると、この時の翻訳作業は意外に重要であると思われてならない。

もう一点。これは1920年頃だと思うが、市河三喜と一緒に『英文学叢書』の編集をやっていた頃、彼が力をいれて編集していたのが"Ballads"である。さすがはかつて東北方言朝鮮語、琉球語を研究した岡倉、バラッドという地方色豊かな芸能にも関心があったのかと納得してしまいそうになるが、しかし、本当に岡倉は〈地方〉なるものに関心があったのか、あるいはその関心とは一体どのようなものだったのか、これは考える必要がある。だいたい岡倉は標準語を作り上げるためには方言を撲滅しなければならないと公言していた時期もあったのであるから。

とかなんとか、これまで読んできた岡倉関係文献の内容を思い出しながら飯を食っていると、どうもこれは岡倉論の補遺紀要にでも書いておかなきゃだめかと思われてきた。

2002-01-16 レヴィジオン

[]レヴィジオン 20:36 レヴィジオンを含むブックマーク レヴィジオンのブックマークコメント

東京から帰ってきてから、なぜか首の淋巴腺が腫れ気味で、咳が出る。風邪か?とにかく体重増えすぎ、不摂生しまくり、さすがにヤバイな。

昨晩は栗原幸夫編『レヴィジオン〔再審〕第2輯 超克と抵抗』(社会評論社、1999年)をざっと読む。(じっくりねちねち読む時間がないのが残念。)

超克と抵抗 (レヴィジオン 再審)

超克と抵抗 (レヴィジオン 再審)

座談会「総力戦と抵抗の可能性――戦時変革あるいは生産力理論をめぐって」(小倉利丸・崎山正毅・米谷匡史・栗原幸夫)を興味深く読んだ。一言で言えば、この座談会は、山之内靖を中心とするグループ(という言い方でいいのか)による『総力戦と現代化』『ナショナリティーの脱構築』に対する応答である。それは「国民国家的編成」を前提とした議論であって、ここには「帝国的編成」(例えば中国や朝鮮)という視点が欠けているという崎山や米谷の問題提起はなるほどと思った。私は、最初柏書房の二冊本を読んだ時、抵抗すらも併呑してしまう「戦時体制」というものがあった、だからこそ「(ナショナリティーの)脱構築」を考える必要があるのだというこの二巻本のストーリーを受け入れた記憶があるので、なるほど崎山・米谷の視点は“レヴィジオン”だなあと納得したのである。

ところで、私がある意味驚いたのは、「読者の問題、あるいはテクストの権力とでも言うべき問題」(65)にこだわる小倉の議論である。「補論∧法について」での小倉の整理はこうだ。知識人は時代に応答し、テキストを生み出す。東亜共同体論、生産力理論、転向後の平野義太郎の仕事、京都学派のテキスト、等々。こうしたテキストが戦時期にどのような意味を持っていたのかを考えるとき、当時の現実の政治過程を視野に入れながら、それとテキストとの異動を分析するという方法がある。これはこれで有効である。しかし、と小倉は続ける。

他方で、知識人の問題は、単に著者としての知識人が時代と向き合いながらテキストを生み出すというところが問題の終着点なのではなく、むしろそこが問題の出発点なのだと思う。つまり、彼らのテキストは、どれだけの読者に受容されたのか。また、その読者とは誰なのか。そしてまた、その読者たちはこの知識人たちのテキストをどのように理解したのか、ということである。(66)

小倉が例として紹介するのは、転向左翼、平野義太郎の仕事についてである。彼の仕事は「民族政治学」についてであれ大東亜共栄圏賛美であれ、その眼目はあくまで西欧列強からのアジアの解放であり、それ以外の(マルクス主義者としては)余計な部分は偽装転向のための方便だった。そして、彼の読者はそれをわかって読み、メッセージを受け取っていたのだ。ここには抵抗の可能性があった・・・という議論が成立するのかどうかを小倉は問うている。そのため重要なのは、おそらく、

誰が読者なのかを巡る問題である。書かれたものがどのような媒体に掲載されたのか、また、書かれたものだけでなく講演や講義などのように直接聴衆に接しながら知識人としての活動も行っていたとしたら、その聴衆とは誰なのか、ということである。そのとき、読者となる人々は、はたしてこれらのテキストを偽装転向テキストと読むといったことが可能だったのか、ということである。こうした問題にこたえるためには、テキストの解釈を読者による解釈というメタレヴェルでも検証しつつ、同時にメディア分析も行うという二重の課題をこなすことが必要になる。このような読者の分析を通じて、書かれたテキストの社会的な意味知識人の社会的な機能がはじめて明らかになると思う。先の平野に関しては、多分まだこうした研究はされていないのではないかと思う。(67)

なるほど。私は〈英文学〉で似たようなことをやっているということになるのか。戦時中沈黙を余儀なくされた英文学者の「偽装転向」。検閲を逃れて出版され、しかし日本帝国主義を批判するようなテキストとして読むことを読者にひそかに要求するようなテキストを生み出し、その要求にこたえる読者。

ただ、この「抵抗する読者」(ジュディス・フェタリーの名著!)という議論をすると、正直話が大きくなり、リサーチも大変だ。今の私ができるのは、戦時中英文学者が、国策迎合的なメディア状況の中で、しかし反国策的なメッセージを読者に伝えてしまうようなテキストを生み出すことができたのかどうか、この点までだろう。

2002-01-13 まとめられない・・・[2006年3月13日]

[]まとめられない・・・ 20:33 まとめられない・・・を含むブックマーク まとめられない・・・のブックマークコメント

名古屋大学院生広瀬正浩の論文、「ネイティヴ・スピーカーのいない英会話――戦時・戦後連続と「アメリカンスクール」」、『名古屋大学国語国文学』、88、2001年を読み始めている。というか、今日会議がどかどか入っているのと、恥ずかしながら小島信夫アメリカンスクール」を読んでいないので、熟読するのは来週になりそう。それでも、私にとって興味深い論考であることは間違いない。例えば、酒井直樹『死産される日本語日本人』(新曜社1996年)をふまえた山口誠「メディアの編成、知の編成――初期方法における「英語」と「国語」の節合過程と二つの「共通語」の政治学」(『思想2001年2月)に触れつつ、「アメリカンスクール」(1954年)という小説に、戦後の日本において英語力を要請された〈日本人〉の誕生を読み取る磯田光一に対する反論はこうだ。

英会話という場には、話者が自身の規範とする英語の記号体系の動揺を自覚する、話者にとっては暴力的な経験が潜んでいるのだが、その暴力性を問題にできない「戦後」論者らは、英会話における日本人発話者の記号体系を絶対化してしまう戦時中英語感の構築の想像力を継承することになる。(7) 

この「暴力性」を回避しようとする試みは、戦時中戦後に限らず、山口誠『英語講座の誕生』(講談社メチエ、2001年)や拙論翻訳と翻案――岡倉由三郎について」(2001)によれば、すでに1900年頃に始まったことである。岡倉と、そして市河。

たしかにこの「暴力性」(いろいろ言い換えることができると思う)を、英文学者や英語教育者はもてあまし、忘却してきた。それは当然で、日本において英語を読み話すという無茶苦茶、その「暴力性」を諄々と学生に説きながら、(酒井直樹の言葉を借りれば)「対―形象化の図式」を通じて見出された「分割不可能な統一鯛」として構想された「国民」を立ち上げるのは無理というものだろう。

ところで、私は、日本語英語が出会う接触領域における「暴力性」には興味を引かれる。広瀬が注で言及している岡野八代「暴力・ことば・世界について」(『現代思想2000年2月)――未読、とっとと読まなきゃ――で展開されている(のであろう)議論は決して無視できない(だろう)が、しかしすでに「暴力」よって蹂躙されてしまっている場所では、その「暴力」の結果生まれたものをなんとか使えるものにしていく試みがあるはずであり、それを肯定したいのである。これ、「暴力」を例えば「クレオリテ」と書き換えれば問題ないのだろうか。でも、「クレオリテ」は「暴力」の産物、それをなんとか肯定しようという試みだったのではないか。

と、こんなことを書いていると、小樽商科大学英語部在籍中、友人Mがスピーチで「ジャプリッシュで、いいじゃない?」と訴えていたのを想いだす。

2002-01-09 『日本文学盛衰史』 

[]『日本文学盛衰史』  20:30 『日本文学盛衰史』 を含むブックマーク 『日本文学盛衰史』 のブックマークコメント

新年おめでとうございます。

今日は本当は札幌にいるはずだったが、大雪&寒波で四〇年もののヴィンテージ官舎が破壊されていないかと心配、昨晩帰省した。官舎は無事だったので、明日は予定通り東京・筑波での「研修」に出発する。

今年の「正月の本」は高橋源一郎 『日本文学盛衰史』 (講談社2001年)だった。最初から最後まで三回熟読、これほどまでに果敢に日本文学へ挑戦する作家を得た日本文学者幸せだ。

日本文学盛衰史 (講談社文庫)

日本文学盛衰史 (講談社文庫)

ただ、私は、正直なところ、この優れた日本文学への応援歌――これすら読まない国文科の学生が多数派なのだろうなあ――それ自体よりも、むしろ巨大な可能性を秘めた存在として記述されている二葉亭四迷長谷川辰之助のことが気になってしょうがない。

「二葉亭は、日本文学誕生に力を貸し、その誕生に必要なあらゆる武器を単独で作りあげながら、同時に、彼が用意した武器によって文学が「離陸」した後、それが変質するであろうことを予期していた。・・・二葉亭にとって「自由な散文」とは、目に見える世界との決別、それを否定するための武器でなければならなかった。なぜなら、文学は、目に見える世界を否定するために存在しているからであった。だが、一度生まれた文学は、そして「自由な散文」は、やがて目に見える世界の側に移行していくのではないか。もし文学が絶えざる否定であるなら、そんな困難な立場作家は耐えることができるのであろうか。二葉亭が吐き捨てるようにいった如く「文学者といふものは文学の最大の敵」なのではないか。そのことに気づいた時、二葉亭は文学を捨てねばならなかった。いや、彼は「文学者」であることから「下り」ねばならなかった。」(「我々はどこから来たのか、そして、どこへ行くのか 廖pp.230-231)

ただし、このように二葉亭の仕事に日本文学への最初にして最高の批評を読み取る高橋源一郎は、啄木や花袋、漱石、鴎外を扱うようには二葉亭を扱っていない。テリー・イーグルトンが『文学とは何か』においてマルクス主義フェミニズムについては紹介しつつ葬り去るという扱いを避けたことを思い出す。

2002-01-08 『文学部をめぐる病』評

[]『文学部をめぐる病』評 20:47 『文学部をめぐる病』評を含むブックマーク 『文学部をめぐる病』評のブックマークコメント

昨日、しばらくぶりに『噂の真相』(2001年11月号)に連載中の井家上隆幸ジャーナル読書日記」を読んでいたら、高田里惠子文学部をめぐる病――教養主義・ナチス旧制高校』(2001年)についてこう書いてあった。

戦前ドイツ語教師たちのドイツ文学受容のさまを、教養主義・ナチス旧制高校の“三題噺”で炙り出せば〈二流〉の男たちの悔しさ・怨念・悲哀・出世欲・自覚なき体制順応の構造がうかびあがる。うん、西尾幹二はその正嫡子であるかと納得。(p.124) 

なるほどなあ。高田さんは「西尾幹二」という固有名は出していないけれど、さもありなん、だ。

文学部をめぐる病い?教養主義・ナチス・旧制高校

文学部をめぐる病い?教養主義・ナチス・旧制高校