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2004-08-31 岡倉研究、ついにメジャーに?+α

先日、関西のK大学の院生から連絡をもらったのだが、その人はなんと岡倉由三郎と英語教育研究をしているとのことだった。日本の旧植民地における諸問題を研究されているK大学のK先生の指導を受けている人である。とうとうこういうテーマ研究する人が出てきたなあ。なんだか妙な気分である。この方の仕事を読んで、私もまた勉強しなおそうと思う。

台風16号、北海道に上陸 16:27 台風16号、北海道に上陸を含むブックマーク 台風16号、北海道に上陸のブックマークコメント

・・・とはいえ、どうやら道央方面に行ったようで、今帯広では雨が止んでいる。

(私費)柄谷行人『ネーションと美学』(定本柄谷行人第4巻)、岩波書店、2004年 16:23 (私費)柄谷行人『ネーションと美学』(定本柄谷行人第4巻)、岩波書店、2004年を含むブックマーク (私費)柄谷行人『ネーションと美学』(定本柄谷行人第4巻)、岩波書店、2004年のブックマークコメント

いままで読んできた諸論文がまとめられているので便利。山城むつみ『文学プログラム』を再読しながら、読むことにしよう。

Thomas Healey, "Review Essay: Terry Eagleton, _Sweet Violence: The Idea of the Tragic_ (Oxford: Blackwell, 2002) " 16:40 Thomas Healey, "Review Essay: Terry Eagleton, _Sweet Violence: The Idea of the Tragic_ (Oxford: Blackwell, 2002) "を含むブックマーク Thomas Healey, "Review Essay: Terry Eagleton, _Sweet Violence: The Idea of the Tragic_ (Oxford: Blackwell, 2002) "のブックマークコメント

『Textual Practice』(18:2, Summer 2004)を見ていると、こんな書評があった。イーグルトンの悲劇論は、どうも"pharmakos"を念頭においたものらしい。お世話になった加藤行夫先生の『悲劇とはなにか』をもう一度読んでみようか。

60000ヒット 16:41 60000ヒットを含むブックマーク 60000ヒットのブックマークコメント

みなさん、ありがとうございます。

2004-08-27 コプチェク読書メモ3

〈英文学〉への不撓不屈の愛(w 12:42 〈英文学〉への不撓不屈の愛(wを含むブックマーク 〈英文学〉への不撓不屈の愛(wのブックマークコメント

最後の時まで、つまり必ずアンティゴネーを崩壊させることになる行為がもたらす重大な帰結の時まで持続する彼女の固執性、不撓不屈は、近代的前進への帰依または自己分裂としてのクレオンの固着性と対照的である。この対照によって気づくのは、「欲望のリアルにしたがって行為すること」と、自己本位に行為すること、つまり自己の連続性を保つために行為することとの違いである。固着性の原理は、ラカンによって次のように分節化されている。「労働を続けなさい。労働を停止しないように。・・・・・・欲望についてはまた出直しなさい。欲望は待たせておきなさい」。ここにおいて〈労働〉は、終わることなく続く──あるいは待ち続ける──かぎり、行為とは異なる。(『〈女〉なんて・・・』、pp.71-2)

「不撓不屈」って、やっぱり貴乃花を思い出して、笑うべきなんだろうな。

ラカンが論じているように、もしもクレオンが、限界を知らない主権権力を代表し、「すべての善を果てしなく」探し求めるとするならば、それは、彼の超自我が、純粋な満足ないしは到達不可能な目標を措定する前提として、世界に対して外的な限界を設定しているからである。この外的限界のせいで、クレオンのすべての努力、すべての満足は不完全で空虚なものになり、彼は決して到達できない目標に向かって空しく生き長らえることになる。死という限界を超えてポリュネイケスを追い立てるクレオンは、死を超えて、明らかに果てしなく、超過昏睡coma passeという(少なくとも原理的には)無限に延長可能な状態にまで主体を追い立てる近代科学を予示している。剥き出しにされた兄の亡骸をアンティゴネーが覆うとき、彼女は、クレオンが縛りつけられている裸の生存状況から自分自身を引き上げているのだ。(同上、pp.74-5)

なんだか自分のことを言われているようで鬱だ・・・。不撓不屈で、英文学します(w

2004-08-26 コプチェク読書メモ2

『わたしの欲望を読みなさい』(青土社、1998年) 12:25 『わたしの欲望を読みなさい』(青土社、1998年)を含むブックマーク 『わたしの欲望を読みなさい』(青土社、1998年)のブックマークコメント

の終章「性と理性の安楽死」のラストにちゃんとこう書いてあった。

ラカンはこう説明している。「・・・超自我(“享楽せよ!”という命令)は去勢の相関物であり、これは〈他者〉の享楽、〈他者〉の身体の享楽は無限(無限遠点)においてしか約束されていないとわれわれが認めていることを明示する飾りであり徴なのである。」

しかし、限界あるいは例外をめぐるこの論理が、力学的アンチノミー、男性主体、超自我といったものを規定しているということをわれわれが証明するやいなや、一つの問題が生じる、というか、一見したところでは生じるように見える。超自我を発達させるには構造的に〔本来的に〕不向きであり、したがって倫理に関して放縦に陥りやすいと女性を規定する悪名高い主張があるが、われわれがこうした主張を支持しているように見えてしまうのである。これを否定するには、われわれは今のところ次の点を示唆する程度のことしかできない。それは、倫理の領野を理論化する試みはあまりにも長い間、例外あるいは限界をめぐる、この特殊な超自我論理によってなされてきた、ということである。今や、包含あるいは無制限を原則とする倫理、すなわち女性に固有の倫理を創造するために思考すべきときである。超自我に関する別の論理があらたに展開されなければならない。(pp.292-3)

ここから『〈女〉なんて・・・』の序章にいくのか。納得。

2004-08-25 レイ・チョウ他を読んで

Rey Chow, "The Old/New Questions of Comparison in Literary Studies: A Post-European Perspective," _ELH_, 71:2, Summer 2004 15:11 Rey Chow, "The Old/New Questions of Comparison in Literary Studies: A Post-European Perspective," _ELH_, 71:2, Summer 2004を含むブックマーク Rey Chow, "The Old/New Questions of Comparison in Literary Studies: A Post-European Perspective," _ELH_, 71:2, Summer 2004のブックマークコメント

レイ・チョウの論文は、スピヴァック『ある学問の死』を読んだ人ならそれほど難しくもない(というかスピヴァックの方が難しい)。そもそも「比較」文学というときに、今までは"Europe and Its Others"(→ちなみに、これはレイ・チョウは明言していないが、1984年にエセックス大学で出た有名な論集のタイトルである)という"Europe"の存在(そして優越)が前提されていて、これは地政学的というか〈空間的〉spatialityな比較可能性にとらわれている一方で、例えば酒井直樹他のポストコロニアルな理論家、は"Post-European Culture and the West"というパラダイムを提出しているのであり、この場合は空間的というよりも〈時−空間的〉temporarlityな問題、歴史の記憶を刻みこんだパラダイムなのである、あるいはそうでありうるという。(レイ・チョウは明言していないが、これはデリダ、ド・マンからバーバの問題系であるだろう。)で、レイ・チョウはこう結論する。"other possibilities of supplementarity, other semiotic conjunctions mediated by different temporal dynamics, can come to the fore." (p.307) で、私もこの提言には勇気づけられるのである。そうでなくっちゃ。

ところが、これに対するジョンズ・ホプキンス大学研究者たち(Simon During, Frances Ferguson, Jonathan Goldberg, Michael Moon)のレスポンスが、なんというか、とてもなさけないというか、驚くほど保守的でびっくりした。例によって、「精読」するのが私たちの仕事だから、他の言語文化文学まで手が回らない、レイ・チョウの結論は現状では無理、等々。おいおい、あんたたちの国では、例えばテレサ・ハッキョン・チャ『ディクテ』があるだろうよ、彼女の実践を自分の「研究」で実践する根性も気合いもないのかよ!とちょっと憤慨してしまった。そして、デリダに倣ってスピヴァックが提唱する「テレイオポイエーシス」を元にした「精読」の可能性にもまともに向き合っていない。がっかり。

なんでこんなことを書くかというと、私はICLA@香港で、日本語、北京語、広東語朝鮮語英語フランス語が交錯する「場」を経験したのであるからだ。この「場」は消え去ることはないだろう。そして、ついでに書いておけば、ジョンズ・ホプキンズはどうか知らないが、今時の若いアメリカ人研究者で東アジアの言葉を読めるヤツもかなりいる。楽天的過ぎるかもしれないが、レイ・チョウやスピヴァックの夢想するような「何か」は過去に存在したし、すでに存在しているし、将来も出てくるだろうという予感がある、いわゆる「精読」をおろそかにしないで。(スピヴァックは例えば「地域研究」と共同して「できる」し「やるべきだ」と言っている)。

そういえば、レイ・チョウは香港出身だった。彼女はあの地の混沌の中から出てきた人であった。ジョンズ・ホプキンズ大学の人たちも「香港」を体験すべきではないのかなあ。

toshimtoshim 2004/08/25 23:03 ははは、わたしは読んでないけど、Englishの教授陣ってそんなものでしょう。思うに、レイ・チョウは相当喧嘩ごしでつっかけたので、ファーガスンたちもむくれたか意地になったかしたんだと思いますが。

齋藤@帯広齋藤@帯広 2004/08/26 09:41 いや、よくよく考えてみると、どうして『ELH』みたいなEnglishの作品論を掲載する雑誌にレイ・チョウの論文が掲載されて、それに対してEnglishの人たちがレスポンスしているのか、ちょっとよく分かりませんね。これがCritical Inquiryとかならなんとなく納得できるのですが。なんかの企画ですかね。

2004-08-24 コプチェク読書メモ このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

ジェイムソン掲示板で昨日の柄谷&コプチェクネタに触れられていたのにちょと驚き。

確かに序章は難しいなあ。昔、訳者の一人toshimさんが_Read My Desire_面白いぞと言っていたのに、さらにもう一人の訳者N氏がジジェクを訳しているのに、今まですっとばしていたツケだなあと思うが、とにかく改めて勉強しようと思う。夏休みだし。

序章のラッセルの話、あれは342頁の訳註(1)が本文よりもはるかに分かりやすい。ヒッチコックをネタにした本文の方がわからない。で、ラッセルのネタが要するに「女性性」を勘案しない安易な全体性あるいは普遍を批判するために使われているのだと勝手に判断して、そこから先にすすもうと思うが、しかしバディウがわからない(バディウの論文を読んだ方がいいのかもしれない)。で、わかりにくいので、これもひとまず棚上げしておいて、やはり柄谷=萱野から絡もうと思う。

柄谷インタビューの昇華→超自我ネタについては、コプチェク16頁で「女性性と倫理の関係」について「超自我が道徳の判断の基準であるとしばしば誤解されていたことである」というところと関連して、ああ、柄谷=萱野の議論には「女性性」の話は確かにないな、と思う。つまり、「女性性と倫理の関係」について考えなくていいのであれば、柄谷=萱野の議論である意味十分なのだが、しかしコプチェクはそれではイカンという立場なのだと一応理解しておく。

私は、「あとがき」にならって、Read My Desireの最終章を読んで、コプチェク14頁の「女性から構成される全体や「すべて」というものは存在しない」(タイトルはここのあたりをジョン・レノンと絡めたんだろう)から導きだされる「倫理」の可能性について、一度その輪郭くらいはつかんでから、もう一度「序章」を読もうと思う。

ちなみに、toshimさんオススメの第二章のクローズアップ論は比較的分かりやすくて、なんというか、読んでいてほっとした。

2004-08-23 駒苫万歳&昇華→超自我

駒大苫小牧、全国制覇! 15:49 駒大苫小牧、全国制覇!を含むブックマーク 駒大苫小牧、全国制覇!のブックマークコメント

正直、私が生きているうちに、北海道の高校球児が夏の甲子園で優勝する姿を見ることはないだろうと思っていた。もちろん、最近はかつてのように出ると負け、ではなかったが、──私は高校修学旅行の時、甲子園に行って、桑田&清原のPL学園と駒沢岩見沢(だったと思う)の試合を見て、岩見沢が20点くらい取られてボロボロになったのを目撃している──それにしてもせいぜいベスト8とかベスト4程度だろうと思っていた。それがなあ・・・。

今、書いていて思い出したのだが、私が高校生の時、修学旅行電車で函館まで行き、青函連絡船に乗り、そこから急行八甲田か何かを乗り継いで、京都まで行ったのだった。あれは、疲れた。飛行機の運賃がとても高かったのだ。当時の南北北海道代表は飛行機だったのか、フェリーだったのか知らないが、今より移動は時間的にも資金的にも大変だったんじゃないかと想像する。それがこの20年の間に、青函トンネルの開通、飛行機運賃の値下げ等々で、だいぶ「内地」に行くのがラクになった。このことは、北海道のチームがそこそこ甲子園で勝てるようになったこととまるっきり無縁ではないような気がする。

インタビュー柄谷行人資本・国家・宗教・ネーション」(聞き手:萱野稔人)、『現代思想』2004年8月号 16:23 インタビュー:柄谷行人「資本・国家・宗教・ネーション」(聞き手:萱野稔人)、『現代思想』2004年8月号を含むブックマーク インタビュー:柄谷行人「資本・国家・宗教・ネーション」(聞き手:萱野稔人)、『現代思想』2004年8月号のブックマークコメント

現代思想』特集「いまなぜ国家か」の柄谷インタビューを読む。格別の驚きはないのだが、一つ興味深い点が。途中に、圧倒的な暴力に対抗する一つの手としてガンジーの非−暴力の話が出てきて、これはマスコミを使って暴力的な相手に圧倒される様子を宣伝する等の手段を使うことで有効性を持ち得る、例えばアラブ諸国は全面的に軍備を放棄すればよいのでは等々の議論がある。すると、聞き手の萱野が次のように絡む。「−−柄谷さんは『ネーションと美学』の中でカントフロイトを論じつつ、攻撃欲動がいかに実際の暴力に向かわずに、ある意味で昇華されるかという議論を展開されていますが、それもまた非暴力の実践にかかわるものとして提起されているのでしょうか。」(42−3)これに対して柄谷は「そうですね。国家がいわば超自我をもつようにすることですね。主権を制限するのはそういう超自我です。」と答え、そのあと、日本国憲法第9条やベトナム戦争の経験をこうした「超自我」として捉えている。(43)

お、と思ったのは、萱野が紹介するところの「昇華」の話で、何故かというと、今ジョアン・コプチェク『〈女〉なんていないと想像してごらん−−倫理と昇華』(河出書房新社)を読んでいるからなのである。で、コプチェクははっきりと「超自我」に寄る倫理を否定している。そうか、柄谷を念頭に置いて、コプチェクを読めばいいのか、と思ったりしている。

柄谷の話に戻ると、彼は普遍宗教の話をしていて、圧倒的な暴力あるいはグローバリゼーションへの対抗手段としては宗教をまず思考しなければならないと言っていて、これは柄谷語に慣れた者には目新しくはないのだが、ここで考えるべきは文学の問題で、例えばイーグルトンは宗教の衰退→文学の誕生というシナリオを画いている訳だが、このシナリオは宗教あるいは原理主義が今持ち得ている喚起力を持ち得ないだろうということを確認する必要がある。それはとてもありがたいことで、文学原理主義のような力を持ったら恐い。じゃあ、文学なんかやめて宗教勉強しようか、ということになるのか。そうとも言えるけれど、文学を先ほどの昇華→超自我のようなものとして捉えることはできないのかなと思ったりする。コプチェクを読みながら、そして柄谷を読みながら、私自身は「英文学」(というか、英語日本語の間を往還しながらテキスト=コンテキストを読むこと)というものがある種の昇華→超自我のようなものだと自分は漠然と考えていたなあと思うのである。

わけがわからなくなってきたので、またあとで。

柳瀬@実家柳瀬@実家 2004/08/23 22:56 博多で東北大の人たち(「近代の夢と知性」の)と九大で研究会をやってきました。北海道出身者は大喜びで一人の携帯には「祝杯せよ」(何で命令?)とのメールが入ったそうです(PLと駒大岩見沢の試合は29−4くらいだったような)。それと瀬古の無念(私と同郷で中学の先輩)以来20年越しに伊勢にマラソン金メダルがやってきました。

齋藤@帯広齋藤@帯広 2004/08/24 10:28 北海道新聞は一面と最終面ぶち抜きで取り上げていました。一般紙では初めてみましたよ。北海道は祭りでしたなあ。

齋藤@帯広齋藤@帯広 2004/08/24 11:55 道新渾身の誌面wでも嬉しいなあ。
http://upjo.com/up2/html/DSCF0007.html

2004-08-21 大学院を目指す人へ このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

このHPは「大学院を目指す人」にとって、一読の価値があると思う。

http://www.nanzan-u.ac.jp/~urakami/in.html

自分自身のことを考えてみると・・・なんだろうな、よくわからないが、20代の半ばには、「研究者」になれるという予感はあった。ただし、この「予感」は、やはり今考えると、相当な努力に裏打ちされていたとは思う。例えば、小樽商大にいるときは、一人でアウエルバッハ『ミメーシス』を読んでいたので、ゼミでは浮いていた。筑波大の修士課程から博士課程に移るとき、試験の前には、教官の論文を20年分読み、試験問題の分析をやるのは当たり前、フランス語カミュ『シジュフォスの神話』をかなり暗記するくらいはやった。博士課程に入ってからは、自分の20代を全て英文学に捧げることになった。テレビを見ていても、飯を食っているときでも、論文テーマについて考えていたと思う。

でも、努力だけではどうにもならないとも強く感じる。例えば、私は学振(DC2)が無ければ留学はできなかったと思う。また、現在の職場も、たまたまネット公募を見つけて応募したのであって、誰かに紹介されたのでもない(ちなみに帯広に決まるまでは13連敗だった)。「研究人生」を送ることがひとまずできているという意味においては、私はラッキーだったと断言できる。

OooooooooooooooOoooooooooooooo 2004/08/22 07:31 お世話になりました。ばいばい♪

2004-08-18 校費

クリストファー・ノリス『ポール・ド・マン──脱構築と美学イデオロギー批判』時実早苗訳、法政大学出版局、2004年 14:53 クリストファー・ノリス『ポール・ド・マン──脱構築と美学イデオロギー批判』時実早苗訳、法政大学出版局、2004年を含むブックマーク クリストファー・ノリス『ポール・ド・マン──脱構築と美学イデオロギー批判』時実早苗訳、法政大学出版局、2004年のブックマークコメント

これは読まねば、といいつつ、コプチェク『女なんていないと想像してごらん』(河出書房新社)をまだ読み切れていない私。

2004-08-17 米軍ヘリ墜落事故 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

沖縄国際大学キャンパス普天間基地の大型ヘリが墜落したこと、そしてその後の事態の推移について見ていくと、やはり沖縄と米軍との厳しい関係を思ってしまう。やはり沖縄はアメリカの軍事基地なのだ。この事件が気になるのは、私の後輩が働いているからということもあるのだが、すぐ近くに自衛隊の基地がある私の職場でもこのような事態が起こらないとは限らないことにあらためて気が付いたからでもある(窓の外には自衛隊のヘリや哨戒機が煩雑に飛んでいる)。畜大の側にあるのは米軍ではなく自衛隊だが、道東に米軍がやってくる可能性が高いことを考えると、ある種の「覚悟」をしなければならないと思う。

沖縄国際大学の抗議文

http://www.okiu.ac.jp/info4.html

川口@福岡川口@福岡 2004/08/17 20:50 ちょうど沖縄に行ってました。15日夕方には現場も道路向かいの学生アパートの上から見てきました。佐野さんのページに簡単な小文、載せています。

柳瀬@実家柳瀬@実家 2004/08/17 21:48 沖縄国際大と聞いて川口君のことを心配していました。
日本は「沖縄化」していることを隠蔽しているということでしょうね。
それと世界で動いている「事件」と「私たち」が無縁ではないということでしょう。イラク、台湾、沖縄。

齋藤@帯広齋藤@帯広 2004/08/18 14:50 川口さん、柳瀬さん、反応ありがとうございました。一応参考までに以下のページを。http://www.asyura2.com/0406/war56/msg/429.html

porqueporque 2004/08/20 23:27 うちでも多数写真を掲載してます。特に本土メディアではほとんど報じられてないので、事件の実態を知る上でもぜひ見ていただきたいです。

齋藤@帯広齋藤@帯広 2004/08/21 23:16 porqueさん、ありがとうございます。ブログ、私のHPの表紙でも紹介させていただきます。

2004-08-16 ICLA@香港

ICLA@香港 11:41 ICLA@香港を含むブックマーク ICLA@香港のブックマークコメント

8月8日から8月15日まで、香港理工大学で開催された、ICLAから帰ってきました。私は11日までしか参加できなかったのですが、私たちのセッションへの参加者もゼロではなく、それなりの応答もあったので、まあよしとするか、という気持ちです。ただ、あまりにもパネルやワークショップの数が多すぎて、全体的に散漫な大会ではありました。もっと集中して議論したかったとは思います。まあこれは「大会」の性質上やむを得ないのでしょう。発表自体については、何というか、気鋭の若手が気合いで発表する、という感じではなかったです、私の見聞きした範囲では。あえていうなら、「翻訳」を問題化した発表に面白いものがあったかなとは思います。

ともあれ、大きな仕事が一つ終わったという気持ちが強いです。

次回は2007年、リオデジャネイロで開催されるそうです。

http://www.ln.edu.hk/eng/staff/eoyang/icla/icla_menu.html