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2018-03-17 スペンダーについて(2)(*結局occasionalな原爆詩を書いている)

[]スペンダーについて(2)(*結局occasionalな原爆詩を書いている) 23:37 スペンダーについて(2)(*結局occasionalな原爆詩を書いている)を含むブックマーク スペンダーについて(2)(*結局occasionalな原爆詩を書いている)のブックマークコメント

今手元に資料がないので、明日(以降)研究室できちんと資料引用して書き直す…かもしれないけど。まずはブレインストーミング的に書いておく。

1958年5月のスペンダー広島公演で彼は日本の原爆詩(特に『死の灰詩集』を意識していたはず)はjournalisticでoccasionalなものではないのか疑っている、オーディエンス意見を聞きたいと言っていたのだけれども、実際にはエリオット荒地」第3部の「火の説教」における、16世紀エドマンド・スペンサーによる王侯貴族の豪遊を讃える詩と、常時に耽る20世紀の男女の情事を対比させ、エリオット流「過去現在関係づけ」の重要性を聴衆に強調したのだった。

さて、そこで大原三八雄などが「過去現在の結びつけを語るスペンダー&エリオットもいいけど、未来のことも考えなきゃ」と文章化しているのだけれど、実は1953年のスペンダーThe Creative Elementで「原爆詩は未来のことを考えなくてはいけない」(大意)を書いていて、とはいえどうしたら良いのかについては明言していない。単純に、未来に向けての言葉を見つけられなかったのだろうと、今は想像している私。

ここから今日の本題。1954年安藤一郎から『死の灰詩集』の英訳を2、3読まされて、これは悪くないと言った(と安藤は書いている)が、1958年5月公演で日本の原爆・水爆詩を、journalisticでoccasioanlだと言って、少なくとも褒めていなかったスペンダーについては、私(齋藤)は昨年12月の原文研究会で発表した。

その後調べていたのですが、この公演のあとに朝日新聞に「広島の再建」(朝日のデータベースでは「スペンダー」では引っかからないので、スペンダーの他の著作付録からその存在発見したのでした)という非常に短い詩を寄稿していたのでした。

訳と解説安藤一郎。内容は、『死の灰詩集』に堀口大學寄稿した「灰の水曜日」(福田陸太郎英訳タイトルAsh Wednesdayで、これは1954年にスペンダーが読んだ可能性がある)には遠く及ばないと思う。これは第五福竜丸他の漁船に降りかかった「死の灰」を、キリスト者にとって重要Ash Wednesdayに重ねて(重ねたのは福田陸太郎だが)、それによってどう考えてもこの作品エリオットの同名タイトルの詩と比較して読むように工夫した詩になっているのだから福田のファインプレー?を考慮しても、堀口&福田はこの作品戦略的に書いていると詩だと思う。

で、スペンダーの「再建の広島」なのだが…。青い空があって、原爆ドームがあって、私はあの悲劇に想いを馳せる見たいな(スペンダーはV1やV1IIロケットによる爆撃を目撃してはいから空襲悲劇についての想いはあると思う)、これこそ新聞社にお願いされてさらさらっと書いたoccasionalな詩なんじゃないの?というようなもの安藤も詩自体を褒められず、「『死の灰詩集』について記事を書いて、それに日本の詩人が反応して論争になったが(これは野坂さんが『事典』でお書きになっている)、ともあれ広島にきたスペンダーは原爆詩を書いたのだ。これはよかった。その出来はいいかどうかは別なのだが」と言い訳じみたことを書いている。

というわけで、スペンダーはアメリカの文化政策のエージェントだ、冷戦戦士だとか言われますが、そしてそれは否定できないのですけれど、どこかでフランク・カーモードが書いていたように(記憶するが)、スペンダーは自分がどういう立場でどういう仕事をしているのかについては無頓着だったという。この人の行動自体がoccasioalということになるんじゃないだろうか。ひょっとすると、アメリカは彼のその無頓着さというか軽さというか旅行・講演好きというところを、冷戦期に重宝したのではないかと、ふと思ったのであった。エリオットは日本の大学20箇所で講演しまくるとかしなかったですからねえ。スペンダーはこの強行軍をこなしたとのことで、これはちょっとすごいと思う。こういう講演録、全部まとまったものがないかどうか、ただいま調べ中です。

2018-03-15 備忘録:スペンダーについて(1)(*原爆への言及)

[]備忘録:スペンダーについて(1)(*原爆への言及14:51 備忘録:スペンダーについて(1)(*原爆への言及)を含むブックマーク 備忘録:スペンダーについて(1)(*原爆への言及)のブックマークコメント

スペンダー「結語 新しい正統」『夢・絶望・正統 創造的要素 第二部』(原著1953年筑摩書房1957年)、174頁〜175頁より引用第一部、第二部を通して、原爆について明確に触れている箇所はここだけ、のはず。なお、旧字体漢字は適宜なおしてある。

近代世界前例のないほど専門化されているが、専門化された知識は、いくつかの不快極まる経験を産み出し、それが誰も彼もの意識のなかへ忍び入った。例えば原子爆弾は前代未聞の爆発物であるが、その理由は、それが甚大な物質的破壊をもたらしたことよりもむしろ、誰も彼もの頭のまんなかで炸裂したことにある。それが吹き上げた灰の巨塔が崩れ去ったとき、それと同時に次のような思想、すなわち、この世には異常な内的経験を持つ人びとがいて、その経験が他に伝えられさえすれば、誰でももっぱらその経験理解に努めたいと望む人に巨大な価値創造してやれるのだという思想も、またほとんど消え失せてしまったのである。われわれの頭の全構造のどこかよく分からない一点で、現代人の意識は、万人ひとしく与る破壊のなかへ溶かしこまれ、各人の脳味噌の上に文明死滅の弔詩が書きつけられたのである

 今や単独者の夢は破壊してしまったのだから未来の文学は、もっと万人の参与する、もっと孤立的でない神話を基盤としてうち立てられなければならないように思われる。

 むろんこのことは、今日見られる正統キリスト教的諸観念への復帰を正当づける一つの理由である。しかし、新しい正当の作家たちは、そのような生の基盤の上に文学を築くためにほとんど何もしていない。エリオットの詩は、生と生者よりもむしろ死者に集中しているし、オーデンは、彼自身オーデン宗の読者に、信仰を持てと説得するような、予兆宗教経験の処方制作に大童になっている様子だ。(以下略

スペンダーは、1958年5月の広島講演で語っていないこと、例えば原爆のような巨大な破壊の後の「未来の文学」のことなどは、この1953年の本ですでに語っている。なお、1958年講演ではエリオット重要性をずいぶん強調していたけれども、この本ではエリオットでは不十分と書いている。イブリン・ウォーやグレアム・グリーンでもダメ、と。じゃあどうするの、ということになるのだが、結論がどうも竜頭蛇尾というかなんというか…。これはまた後日アップする(予定)。

2018-03-09 父の思い出(3)

[]父の思い出(3) 11:27 父の思い出(3)を含むブックマーク 父の思い出(3)のブックマークコメント

今日明日有給をとったので、今朝はのんびり朝風呂(いつもは朝6時に風呂に入っているーー私は朝風呂派)に入った後、ブログなどを書いていたのだが、そうすると「軍艦島コンシェルジュから明日午後の軍艦島周遊についてリマインダーが届き、そうだあれは炭鉱なんだ(当たり前)、明日の午後に行くんだなと考えていると、父と夕張炭鉱の思い出話をちょっと書いておくタイミングではあるなと思った次第。

親父が生まれたのが1936年夕張北高に入学したのが1951年4月だと思う(が資料がない)。夕張北高で3年を過ごし、なぜかMIT学問をする欲望を掻き立てられ((1)で書いた)、しかし現実アメリカ留学など到底無理なので、北海道大学に進学する資金新聞配達で稼ぎながら(家計を助けるためにやっていたらしいが、進学費用も貯めていたという)勉強し、進学に金のかからない教育機関、例えば気象大学校(とはいえここが現在の「気象大学校」になったのは1962年から、親父が言っていたのはおそらく中央気象台研修所(1951年設立)→気象庁研修所(1956年設立)のことだと思うが)なら北大に行くより金もからず、山岳部員としては願ったり叶ったり選択肢だったこともあり、ここに行くことも考えつつ、卒業を迎えたようだ。ある時親父が「富士山測候所で暮らしたいなあ」と言っていたのを覚えている。

これは親父から直接聞いたわけではなく、母親や叔母たちからの断片的情報から想像するしかないのだが、親父はとにかく夕張から炭鉱から離れたかったのだと思う。これは一度、はっきり言っていたのを私は記憶しているのだが、「坑内に入るのは怖くてとてもできない。自分絶対に無理」だったという。熱いし、万力で木や鉄を締め付けるような音がすごいのだそうだ。事故が起これば、爆死か、メタンガスで窒息死か、溺死ーー消火のために坑内に水を入れることはあった。実際、1981年夕張新鉱の事故では坑内に水を入れている(ウィキペディアなのでアレなのだが、「事故発生から6日目の10月21日、会社は59名の安否不明者に生存可能性はないと判断し、同日に行われた家族への説明会で当時の社長林千明ら幹部は注水への同意要請不明者の家族は「命をよこせというのか」と激怒したが、林は「お命を頂戴いたします」と発言。翌22日には幹部らが不明者宅を戸別訪問し、この日までに全家族から同意書を取り付けた」という記述があって、これは『注水、ついに開始』北海道新聞1981年10月23日付夕刊、1面)(縮刷版857ページ)というソースに基づいて書いてあるし、これは私自身も記憶がある)ーーという無茶苦茶危険職場は、親父にとっては嫌だっただろうとも想像する。親父の父親、鉱夫頭だった私の祖父のように、こういう危険職場で「侠気をみせる」という発想は親父にはなかったのだろうと思う。

親父には鉱夫頭だった父親への反感があったと思う。鉱夫頭は鉱夫の陣頭指揮をとる鬼軍曹、要するに大変な嫌われ役である。また、この父親(つまり祖父だが)11人の子供を作っておいて、母親(つまり祖母)に非常に重い負担をかけ、さらにはひどい貧乏生活をさせていたのだから、当然かもしれない。(この鉱夫頭だった祖父については書くこともあるかもしれないが、親父以上に情報がない…。)

ともあれ、親父は1954年春に夕張北高を卒業し、北大に進学するはずになっていた…。これは実際に受験したのか、それとも受験準備をきっちりしていたという意味なのかわからないのだが、ともあれ北大に行くあてがあったという。ところが、ある日、帰宅すると、母親から「お前は拓銀就職が決まったから、そこでお世話になって、妹達の面倒もみて欲しい」といきなり言われたのだそうだ。このエピソードはなんども言っていたのを私は記憶している。親父の兄2人はすでに夕張を離れており、ここで親父も夕張を離れてしまうと家計無茶苦茶になる…ということだったようだ。妹たちの面倒もみろ、と。それは親父の責任ではないと思うのだが、そうせざるを得ないくらい貧乏だったということなのだろう。

さすがに親父も絶句して、泣いたりわめいたり(かなり激しい感情の人だったと、今は思う)相当すったもんだがあったようだが、結局「北海道拓殖銀行」に務めることになった。近所からは「鉱夫頭のせがれが拓銀に入るなんて出世したもんだ」とほめられたようだが、学問への道を断たれ、夕張近辺の支店で働きつつ、実家に金を入れ、妹たちが高校卒業するまで面倒を見る生活が始まったわけで、うれしくもなんともなかったという。結局、学問世界とは縁が切れて、まだしばらくは夕張から炭鉱から、縁は切れなかったということになる。

その親父が、羽幌支店で、羽幌炭鉱の閉山に伴う支店撤退の「しんがり」をつとめさせられたこと、それがいわば拓銀での出世の一つのきっかけになったことは、また書くことがあるかもしれない。

2018-03-08 父の思い出(2)

[]父の思い出(2) 09:24 父の思い出(2)を含むブックマーク 父の思い出(2)のブックマークコメント

3月8日の早朝に、全然眠れないままにツイートしたものをこちらに転載しておきます。

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藤井光Hikaru Fujii @fujiihikaru

メリアム・ウェブスター英英辞典が850の英単語を追加したと発表しています。Cryptcurrencyやsubtweetといったネット時代用語に加えて、hate-watchなども追加。相槌のhmmも登場しています。日本語からkabochaとkombuchaが採用されているのは韻を踏みたいからでしょうか。

(ツイートのULRはこちら→ https://twitter.com/fujiihikaru/status/970882860327432192

Kabocha で思い出したのだけれど、亡くなった父はカボチャが大嫌いで、戦時中戦後も顔も手も黄色くなるくらい食ったからもうみたくもないと言っていた。ジャガイモも嫌いだった。理由は同様。思えば、父は毎日似たようなものばかり食べていた。俺ら兄弟母親に色々食わせてもらったけれど。

親父のことを書くと、とにかく貧乏くさい話になる。夕張炭鉱の11人兄妹の家が裕福なはずがない。正直、よく高校まで進学できたものだ。そのために、本当に辛い新聞配達を続けていたというが、涙ながらに辛かったとこぼしていた。俺の目の前で親父が泣いたのはこのときと、もう一回だけだった。

親父が泣いたのは、俺が北大受験に失敗して(受験勉強が大嫌いだった)、浪人すると行った時、すでに親父はC型肝炎と心筋症でヤバかったので、受かった小樽商大に行ってくれと行った時。結局俺は小樽に行ったのだが、そこで学問に目覚めて大学院に進学したので、病気の親父に迷惑をかけたと思っている。

病気の親父に迷惑をかけてまで進学したのだから絶対に結果を出さねばならないと、二十代前半の俺は常に自分を追い込んでいたと思う。案の定、三十半ばで博論を書いた後、無理がたたってぶっ倒れて入院しましたね…。深夜なので妙にハイになっています。心の底から乱文乱筆失礼いたしました。