韋隠の妻

大暦年間(766〜779)のことである。尚衣奉御(しょういほうぎょ)の韋隠(いいん)が韓晋(かんしん)の娘を妻に迎えた。


新婚の夢もまだ覚めないうちに、韋隠は新羅(しらぎ)へ使者として赴くこととなり、涙ながらに妻と別れて出立した。一日もすると、もう妻が恋しくてたまらない。その晩は早々に寝ることにした。


横になってはみたものの、すぐに眠れるものではない。寝つかれぬままに妻のことを考えていると、寝台の帳の外にぼんやりと人影が見えた。それは恋しい妻であった。驚いてわけをたずねると、


「海を越えて異国へ行くあなたのことを思うと心配でたまらず、こっそり家を抜け出して後を追いかけてきました」


と言う。韋隠は大喜びで妻を新羅に同行することにした。周囲には、


「身の回りの世話をさせようと思い、妓女(ぎじょ)を買いました」


と言っておいたので、誰も疑いを抱かなかった。


韋隠が妻とともに帰国したのは、二年後のことであった。韋隠が韓晋の家へ勝手に妻を連れ出したことをわびに行くと、妻がもう一人いる。二人の妻は駆け寄って合体して一人となった。


韋隠とともに新羅へ行ったのは、妻の魂魄であった。



(唐『独異志』)



頭の交換


蜀(四川省)の遂寧(すいねい)府に岳という士人がいた。七曲山の梓潼君(しとうくん)の社(やしろ)にこもって出世を祈願した。[門+良](ろう)州の李という士人もこの社に来ていたのだが、離れた部屋にこもっていたので顔を合わすことはなかった。


社にこもって数日が経ったある晩、岳は立派な御殿へ行く夢を見た。階(きざはし)の上には王者のような装いをした人物が腰かけていた。階の下には侍衛七、八人が居並び、岳の傍らには名簿を持った書記が立っていた。岳は前に進み出ると、王者にたずねた。


「私の前途はどうでしょうか」


そこへ、李がやって来て、階の上の王者に向かって岳と同じ質問をした。書記が名簿を開いて二人の本籍と姓名を調べ出すと、王者に告げた。王者は岳ら二人の顔を見比べて言った。


「その方ら二人はどちらも出世を果たすであろう。しかしだな、頭と体の組み合わせがよくないので、双方の頭を取り換えねばならない」


頭を取り換えると聞いて、岳は震え上がった。王者はたたみかけるように言った。


「恐れておるようだが、このままでは出世できぬぞ。それでもよいのか」


岳と李はそのまま斧を持った役人に廊下へ引き出された。二人は観念して眼を固くつぶった。首筋に冷たい感触が走り、


「すんだぞ、目を開けよ」


と言う声が聞こえた。その途端、岳は目が覚めたのだが、首筋にまだかすかな痛みが残っていた。


起き出してきた下僕は岳の面相がすっかり変わっているので驚いた。しかし、顔こそ違え、声は岳のものである。岳が昨夜の夢のことを話して聞かせると、ようやく納得した。


「頭を取り換えても、中味は旦那様のままなのですか。不思議なものですねえ。人間の心って一体どこにあるのでしょう」


七曲山を下りて帰宅してからがもっと大変であった。妻子が岳だと認めないのである。家庭での日常を事細かにたずね、すべて答えたところ、ようやく家へ入れてくれた。岳が梓潼君の社で見た夢のことを話して聞かせると、妻は、


「私が美人と頭を取り換えても、中味は私のままってことかしら。じゃあ、人間の心って一体どこにあるのかしら」


と言って不思議がった。


その年、岳は郷里の推薦で受験することになり、翌年、見事合格し、重慶府の江源県の書記に任じられた。李も合格して書記の欠員を得ていたのだが、喪中で赴任することができなかった。岳の任期満了と同時に李の喪が明け、岳の後任として江源県へ赴任した。職務の引継ぎの時、顔を合わせた二人は驚いた。梓潼君の社で見た夢のことを語り合うと、すべて一致した。


後に、夢のお告げ通り二人とも出世を果たした。



(元『湖海新聞夷堅続志』)



中国怪談 (角川ホラー文庫)

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樹下の美女

太原(山西省)の王垂(おうすい)と范陽(はんよう、河北省)の廬収(ろしゅう)は親友同士であった。唐の大暦(たいれき)年間(766〜779)初めに、二人は舟で淮南(わいなん)と浙江(せっこう)の間を旅した。


石門駅の近くの樹下に一人の女が立っていた。女は非常な美貌で、また華やかに装って、肩に錦の袋をかけていた。


「おい、あんなところに女が一人でいるぞ。重そうな袋だな。きっと金目の物が入っているんだろう。うまくいけば、女も袋も、ものにできるかもしれないぜ」


二人は女から見える場所に舟を泊めた。案の定、女は声をかけてきた。


「あなた達の舟はどこへ行くのです? 私を乗せてもらえませんか? 実は主人が嘉興(かこう、浙江省)で病にかかり、見舞いに行く途中なのですが、足が痛くてこれ以上歩けないのです」


二人は女の頼みを快く引き受けた。


「空きならまだありますから、どうぞお好きに使って下さい」


女は袋を持っていそいそと舟に乗り込み、舳先(へさき)近くに腰を下ろした。


二人はしばらく女と世間話をしていたのだが、次第にその態度はなれなれしいものになっていった。すると、女は顔色を変えて言った。


「身を預けた者に対して、どうして無礼なふるまいをなさるのですか?」


この言葉に、二人は真っ赤になって恥じ入った。


王垂は琴の名手であった。彼は琴の音色で女の気を引こうと思い、一曲、奏でた。女は琴の音色を聞くなり、顔に喜びの色を浮かべた。女の美貌にさらに輝きが加わり、王垂と廬収はうっとりした。


「もしかして、奥さんは琴がお上手なのではありませんか」


「子供の頃に少し習ったことがある程度ですわ」


「ご謙遜を」


王垂が琴を渡すと、女は『軫泛弄(しんはんろう)』というもの悲しい曲を奏でた。


「こんな曲、はじめて聞きました。まるで、卓文君(たくぶんくん)の心情
を見る思いです」


王垂が絶賛すると、女は、


「あなたこそ、司馬相如(しばしょうじょ、前漢文人。琴の音色で卓文君を誘惑して駆け落ちした)のような深いお心をお持ちのようですわね」


と笑った。これをきっかけに王垂と女はすっかり打ち解けた。


その夜、王垂は機会を捉えて女と舳先で二人きりになった。一人のけ者にされた廬収は、夜中に女の袋を探ってみた。袋にはいくつもの髑髏が入っていた。廬収は驚いた。女の正体は幽鬼だったのである。


廬収は王垂にこのことを知らせようと思った。しかし、王垂は女との睦言の真っ最中であった。


夜が明けると、女はちょっとした用事で岸に上がった。その間に廬収は王垂に女の正体を打ち明けた。


「どうしたらいい?」


王垂は真っ青になった。


「とりあえず、筵(むしろ)の下に隠れろ」


王垂が隠れたところへ、女が戻ってきた。


「王さんはどちら?」


「用足しで、岸に上がりましたよ」


廬収はそう言って女をだました。女はその言葉を聞くなり、舟から飛び降りてものすごい勢いで走り出した。女が舟からかなり遠くまで行ったところで、廬収は王垂を筵の下から呼び出した。そして、二人で力を合わせて舟を漕いだ。岸がみるみる遠のき、女の姿は見えなくなった。数十里(当時の一里は約 560メートル)ほど離れたところで、二人はようやく舟を漕ぐ手を止めた。そして、舟のひしめき合うところに、隠れるように舟を停泊させた。


その真夜中に、女が舟に現われた。女は体中に目があり、腥(なまぐさ)い臭いを発していた。女は王垂の首をつかんで自分に引き寄せて咬んだ。王垂は苦痛に泣き叫んだ。廬収が大声で助けを呼んだので、周りの舟から人々が集まってきた。その時には、女は姿を消していた。


翌朝、筵の上に死者に供える紙でできた櫛が落ちていた。


数か月後に、王垂は死んだ。



(唐『通幽記』)



中国奇譚 (アルファポリス文庫)

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赤い縄(二)

老人は本を閉じて立ち上がると、袋を担いで歩き出した。韋固もその後について行った。市場に着くと、一人の老婆が市場へやって来るところであった。老婆は片目がつぶれており、身なりもたいそうみすぼらしい。その懐には三歳ばかりの幼女がぼろにくるまれて抱かれていた。


老人は指さして言った。

「あれが未来の嫁ごじゃよ」


老婆と幼女のあまりのみすぼらしさに、韋固は馬鹿にされたような気持ちになった。


「殺してもよいでしょうか?」


「あの娘は天禄を受ける運命にある。将来、子供が高い位につき、そのために領地を賜わることになっておるのじゃ。殺すことができようはずがない」


老人はそう言って、いずこへか姿を消した。韋固は悪態をついた。


「老いぼれ幽鬼め、でたらめもいい加減にしろ。おれはいやしくも士大夫の家柄の生まれだぞ。妻を娶るなら、釣り合った家柄でなくてはならん。もしも、娶ることができなければ、その時には妓女の中から容姿の優れた者を選んで、妻とするまでだ。何を好き好んで、片目の婆さんの小娘を娶らねばならんのだ」


そして、宿に戻ると、鋭い小刀を下僕に渡して言った。


「お前を見込んで頼みがある。市場に三歳くらいの娘を抱いた片目の婆さんがいる。私のためにその娘を殺してくれたなら、銭一万貫を与えよう」


「旦那様のためなら」


下僕は承知した。


翌日、下僕は小刀を袖に隠して市場へ行った。人ごみにまぎれて老婆に近づくと、抱いた幼女に小刀を突き立てた。


「キャーッ!」


幼女が悲鳴を上げ、市場は大騒動になった。下僕は騒ぎに乗じて、市場を抜け出した。


韋固は首尾が気になって、少し離れたところで下僕を待っていた。市場で悲鳴が聞こえたかと思うと、下僕が逃げて来た。二人は用意した驢馬に飛び乗り、できるだけ遠くへ逃げた。追っ手の来る恐れのないところまで逃げたところで、下僕は言った。


「心の臓を一突きにしようとしたのですが、それて眉間(みけん)に中りました」


眉間なら命はあるまい、と韋固は思った。その後、韋固のもとには何度も縁談が来たが、どれもまとまらなかった。


韋固が不思議な老人と出会ってから十四年の歳月が流れた。彼は父の功績により、相州(河南省)の参軍に任じられた。刺史の王泰(おうたい)のもとで司法関係の事務処理一切をまかせられたところ、見事な手腕を発揮した。王泰は韋固を信任し、娘を妻として与えた。


王刺史の娘は年の頃は十六、七でたいそう美しかったので、韋固はすこぶる満足した。ただ、いつも眉間に花飾りをつけており、入浴の際にもはずしたことがなかった。


一年あまりも経つと、韋固も不審に思った。その時、ふと下僕が眉間を刺した娘のことを思い出した。韋固は妻に花飾りをつけている理由をたずねた。すると、妻ははらはらと涙を流しながらこう答えた。


「私は刺史の実の娘ではありません。姪です。父は宋城の県令をしておりましたが、私が生まれてすぐに亡くなりました。その後、母も兄もあいついで亡くなり、残されたのは宋城の南にある小さな荘園だけになりました。親戚も遠方におり、引き取り手のない私を、不憫に思って乳母の陳氏は荘園に留まり、野菜を売りながら育ててくれました。陳氏は市場へ行く時には必ず私を抱いて連れて行ったのですが、三歳の時、何者かに眉間を刺されたのです。命は取り留めましたが、傷跡が残りましたので、こうして花飾りで隠しております。七、八年前、叔父が盧龍(ろりょう、河北省)の従事になって、私を引き取り、養女としてくれました」


妻の話に韋固はじっと考え込んだ。


「陳氏は片目ではなかったか?」


「はい。どうしてご存知なのでしょう?」


「お前を刺させたのはこの私なのだ」


韋固は驚く妻の手を取ってわびた。


「ああ、何という奇妙なめぐり合わせだ、これが運命というものか」


韋固はひとしきり感嘆した後、くわしく経緯(いきさつ)を語って聞かせた。


夫婦はいっそう深く慕い合うようになり、妻は一子を産んだ。子供は鯤(こん)と名づけられ、後に雁門(がんもん、山西省)太守となった。妻は太原郡太夫人の称号を得て領地を賜わった。すべては老人の言った通りになったのであった。


宋城の県令がこの不思議を伝え聞いて、南の村を「定婚店」と名づけた。



(唐『続玄怪録』)



游仙枕―中国昔話大集 (アルファポリス文庫)

游仙枕―中国昔話大集 (アルファポリス文庫)

赤い縄(一)

杜陵(とりょう、陝西省)に韋固(いこ)という人がいた。幼い頃に両親を亡くしていたので、早く妻を迎えて家庭を持ちたいと思っていた。心当たりに縁談を頼んでいたのだが、決まってあと少しというところで破談になるのであった。


貞観(じょうがん)二年(628)に清河(河北省)へ行く途中、宋城(河南省)の南の村に泊まった折、そこで知り合った人から前任の清河司馬の潘氏の娘との縁談を勧められた。


「私は潘殿と懇意(こんい)にしておりますからね。もしその気がおありなら紹介してさしあげますよ。明日の夜明け前に龍興寺(りゅうこうじ)の山門の前で落ち合いましょう」


夜明け前、早起きをした韋固は斜めに傾いた月を眺めながら村の西はずれにある龍興寺へと向かった。着いてみると、待ち合わせの相手はまだ来ておらず、一人の老人が山門の階段に腰を下ろしていた。老人は傍らに置いた大きな袋に寄りかかって、月明かりの下で帳簿を調べていた。韋固は近寄ってのぞいてみると、見たことのない文字がびっしりと書き込まれてあった。韋固は老人に声をかけた。


「ご老人がごらんになられているのは一体何の帳簿でしょうか? 私、これでも幼い頃から勉学に励み、たいていの文字は見知っております。遠い西国の梵字も読むことができます。しかし、その本には見たこともない文字ばかり書かれております。どういう文字なのでしょう?」


すると、老人は笑って答えた。


「これは人間界の文字ではないからの、読めなくて当然じゃ」


「人間界のものでないのならば、何なのでしょう?」


「あの世の文字じゃよ」


「ご老人があの世の方なのなら、どうしてここにおられるのです?」


「たまたまお前さんが早起きをしてここに来たから、わしがここにおるのを見かけただけじゃよ。そもそもあの世の役人はこの世の人間のことをつかさどっておるのじゃ。そのためにはこの世に様子を見に来なければならぬじゃろう? そこいらを歩いておる人間にしたって、その半分は幽鬼なのじゃからな。もっともお前さん達人間には見分けがつかんじゃろうがな」


「で、ご老人は人間の何をつかさどっておいでなのですか? 富貴ですか? 出世ですか?」


「わしはな、あらゆる人間の婚姻(こんいん)をつかさどっておる」


韋固は「婚姻」と聞いて喜んだ。


「それこそ私の知りたくてならなかったことです。私は幼い頃に両親と死に別れ、常々早く妻を娶って家庭を持とうと心に決めておりました。しかし、この十年、あちらこちらに縁談を求めて来たのですが、どうもうまくいきません。今日こうして早出をしたのも、潘司馬の娘との縁談を進めてくれるという人と待ち合わせをしているからです。ご老人、この縁談はうまくいくでしょうか?」


「今回もだめじゃな。縁がない。縁がなければ、たとえ高官の子弟が屠殺人の娘を娶ろうとしても、こればかりは無理なのじゃ。お前さんの未来の嫁ごはまだ三歳じゃ。十七歳でお前さんのところへ輿入れしてくることになっておる」


未来の妻がまだ三歳と聞いて、韋固は力が抜けてしまった。


「はあ、三歳ですか。ところで、ご老人、その袋には一体何が入っているのでしょうか?」


「袋の中身は赤い縄じゃよ」


老人はそう言って袋をポンと叩いた。


「これで夫婦になる定めの男女の足をつなぐのじゃよ。生まれた時にこの赤い縄でつなぎ合わせれば、それが仇同士であろうと、身分に隔てがあろうと、遠方に離れ離れに住んでいようと、必ず一緒になるのじゃ。もちろんお前さんの足も、三歳の嫁ごとつないであるぞ。ほかに縁談を求めるなど無駄なことじゃ」


「私の未来の妻はどこにいるのでしょう? どういう家の娘でしょう?」


「村の北に陳婆さんという野菜売りがおる。お前さんの嫁ごはその娘じゃよ」


「会うことはできますか?」


「婆さんはいつも娘を抱いて市場へ野菜を売りに来るからの。わしについて来れば、教えてやろうぞ」


夜が明けたが、待ち合わせをした相手は来なかった。



(つづく)



倩霞(三)

中にひときわ白く、なめらかな足があった。足の裏には、川の字のような紋理がうっすらと浮かんで見えた。林青は昨夜見た不思議な夢を思い出した。


「倩霞の足だ」


林青はその足の裏に筆で倩霞の名前を記した。


耿精忠が確かめると、今度も倩霞であった。これには耿精忠も、


「まさに天縁だ」


と感嘆するしかなかった。ついに林青に倩霞を娶わせ、さらに持参金として千金を与えた。


林青は倩霞を得たことで耿精忠に深い恩義を感じ、その恩に報いようと心を砕いた。前にもまして耿精忠に熱心に仕え、ちょっとした表情の変化や一言一句にまで気を配った。


その林青に対して、倩霞は言った。


「あなたが王に恩義を感じるのは当然のことです。しかし、このような恩の施し方を、王は今までにも何人にもしています。あなただけが特別なわけではありません。確かにあなたは二十歳で武官となり、一年で護衛の地位を得ましたが、これも王に権勢あってのこと。その権勢だって、いつまでも続くものではありません。それに、近頃の王の振る舞いは淫虐の限りを尽くしています。おそらく自ら身を滅ぼすことになるでしょう。王が滅んで、あなたが無傷でいられると思いますか? 今のうちに王のもとを去るべきです。それが禍を避ける良策ですわ」


「しかし、お役目を途中で投げ出すわけにはいかない。それに、どこへ行けばいいのやら……」


林青が渋ると、倩霞は笑った。


「これだけお話ししたのに、まだ決心がつかないのですか。それなら、心配ありませんわ。私の母方の叔母が都におります。そこへ身を寄せたらどうでしょう」


林青も耿精忠の無軌道な行状には危惧の念を抱いていたので、倩霞の意見に喜んで従うことにした。急いでかさばらない金目のものだけを荷造りし、二頭の駿馬(しゅんめ)を買い込むと、耿精忠には何も言わず、夜のうちに北へ向かって旅立った。都に着くと、倩霞の叔母の家に身を寄せた。


後に林青夫婦は宛平(えんぺい、北京の西)に籍を移して茶の商いをはじめ、大富豪となった。



(清『夜譚随録』)



倩霞(二)

林青は手の一つ一つをじっくり見たのだが、どれもほっそりとして、玉を刻んだよう。倩霞の手を見分けるのは、至難の業であった。


その時、倩霞が左手の薬指の爪を二寸あまり伸ばしていたことを思い出した。そこで、もう一度、手を見て回ると、十六番目の手の爪が長かった。これこそ倩霞の手だ、と思った林青は筆でその名を記して耿精忠に報告した。耿精忠が確かめると、果たして倩霞であった。


「どういうことだ?」


耿精忠は倩霞に手を出させた。すると、左手の薬指の爪だけが長い。耿精忠は大笑いした。


「目印があったのか。これでは運試しにはならぬわ。よい、今日は下がれ。明日、やり直しだ。今度はとびきり難しい方法を考えておくからな」


林青は落胆して、耿精忠の前を退いた。


寓居に戻った林青は明日の成功を仏に祈った。その夜、彼は夢を見た。一人の下女が白い絹の切れを林青に渡した。切れの紋様は川の字をなしていた。受け取ったところで眼が覚めたのだが、さっぱり意味がわからない。寝つかれないまま、夜明けを待った。


林青が顔を洗っていると、耿精忠の使いが呼びに来た。林青は身づくろいをして王府へ急いだ。


耿精忠は書斎で林青を待っていた。


「また、幕を張っておいたぞ。運試しをして来い」


宦官の案内で通された広間には昨日のように錦がめぐらされていた。昨日とちがうところは、穴から手の代わりに白い足が出ていたことであった。


見たこともない光景に、林青は真っ赤になって広間から飛び出しそうになった。それを宦官がひきとめた。


「王の仰せで、手では何か合図をするかもしれぬゆえ、今度は足で選ばせることにしました。どの足も目印になるようなものはありません。爪の長さは同じです。さあ、じっくりお選びなされよ」


林青はやむをえず、順々に足を見て回ることにした。どの穴からも白い脛(はぎ)がすんなりと伸び、なめらからな踵(かかと)と薄紅色の爪先が目にまぶしかった。



(つづく)



中国奇譚 (アルファポリス文庫)

中国奇譚 (アルファポリス文庫)