コーヒーと経済と本当の価値

コーヒーを淹れながらふと考えた。

コーヒーの淹れ方には色々とうんちくがあり (通な人にいわせればそれは常識であるのだろうけど)、粉は引いた直後だと雲泥の差だとか、ちゃんと蒸らさないといけないとか。自分はコーヒー好きではあるけど凝っているわけではない。そういう通の人から見れば俺のコーヒーの淹れ方は随分と雑な、「そんなもの俺に飲ませる気か」って海原雄山にいわれちゃうような代物なんだろうな。

コーヒーなんて嗜好飲料なんだから、別に本人がうまけりゃいいじゃんと開き直ることもできる。そんなん些事じゃねえか、世界経済に影響を与えるわけじゃあるまいに。

でも、考えてみるとスターバックスとかは、そんなコーヒー豆の真のうまさを引き出して売りに出し、一大産業になったんじゃないか。コーヒー文化不毛の血であったアメリカにコーヒーの飲み方という教養を紹介して、コーヒー豆の真のうまさを引き出して。コーヒーの淹れ方で景気回復は無理かもしれないけど、小さいビジネスぐらいなら起こせるんだろう。

で、話はたまたま今日読んだ信用創造に飛ぶ。信用創造ってのは信用を生み出すことといえばそうなんだけど、結局のところ子守共同組合と同じで、眠っていた価値を見出してうまく信用として評価してやること、と理解した。銀行が、企業の価値を値踏みして金を貸し、そして価値に相応した現金が世に出ることになる。

そういう意味では、コーヒー豆に眠っていたうまさ (= 価値) を引き出す淹れ方というのは、信用を想像する道具となるんだろう。そういうところで経済は回っているわけだ。

しかしそこで俺もコーヒーの淹れ方をもっと究めよう、と言う風には思わない。

逆に、経済の根本がそういう「どうでもいい」価値であることに怖くなってくる。

価値なんていうのは相対的なもので、たしかにコーヒーがちょっとうまくなったとしてもインドネシア人にとってはどうでもいいことかもしれない。カリフォルニア人がカップケーキのトッピング (なんか、こっちではそれが流行ってるらしい。このまえもモールで行列してるのを見た) が何がいいかを侃々諤々してるのを、どうでもいいやんけと見る東アジア人のように。かたや、東アジアでは宮崎牛だなんだで一大不祥事になる。そんなの食ってわかるんか。

つまりのところ、我々の世界が豊かになったと感じている信用創造っていうのは、そんなあやふやな価値の上に乗っているわけで。AAAをつけられようが、なんか泥舟の上にのっているような気分になってきた。すでに両足を底無し沼にはめられてる気分。

俺みたいな KYでも、昨今の経済的な空気にやられるつつあるのかな。