2011-02-08
自治政府時代と南大門仁王像70
1959年6月1日の総選挙で、人民行動党は51議席中43議席を獲得した。シンガポールは、国防と外交を除いた国内問題に関する自治権を得るようになり、6月3日にリーは首席長官だったリム・ユーホクに代わって、シンガポールの初代首相に就任した。首相に就任する前には、リム・ユーホク政権下で逮捕されたリム・リンシオンとデヴァン・ナイルの釈放を要求して、実現させている。
リーは教育や住居、失業など様々な問題の解決に取り組む事となり、住宅問題に関しては、住居及び開発委員会(Housing and Development Board, HDB)を設立した。
マラヤ連邦の首相であるラーマンが、1961年にマラヤ連邦とシンガポール、サバ州、サラワク州を含む連邦の形成を提案した後、リーはマラヤ連邦との合併を実現するべく、イギリスの植民地支配を終える為の運動を開始した。その為に、1962年9月1日に実施された国民投票の結果を利用し、そこでは、投票者の70%がリーの提案を支持したという結果が出されており、住民の大多数がイギリスからの完全独立を望んでいるという事を如実に表していた。
合併に対して強硬に反対し一説では破壊活動にも関与していたとされる容共派のグループを、リーはこれらの運動の間に壊滅させている。
マレーシア時代
1963年9月16日に、シンガポールは晴れてマレーシアの一部となったが、連邦は短命に終わる事となる。統一マレー国民組織によって支配されているマレーシア政府は、シンガポールの住民の大多数を占める中国系住民の包含と、マレーシアにおける人民行動党の政治参加に懸念を抱くようになった。リーは公然とブミプトラ政策の「マレー人などの土着民を優遇するマレーシア」に反対し、人民行動党のスローガンとして「マレーシア人の為のマレーシア」を主張した(当時シンガポール島の中国系住民もマレー人も含めてマレーシア人であり、マレー人のみへの優遇政策を批判した)。この事から、双方の関係は悪化してしまい、国民組織の中にはリーの逮捕を主張する者もいた。
人種間の対立は激しさを増し、ムハンマドの誕生日である1964年7月21日には、マレー人と中国系住民が激突し、23人が死亡、100人以上が負傷するといった事態も発生した[1]。同年9月には、更に大規模な暴動が発生し、事態の収拾を図る為に、双方のリーダーであるリーとラーマンが、揃って公の場に姿を見せる事を強制させられる事となった。この事態から、食糧を含む物資の輸送に著しい困難を来たすようになった事から、物価が劇的に上昇し、国民の生活に更なる困難を招く事となった。
事態の解決は絶望的な状況になり、首相であるラーマンは「中央政府への忠誠を示さなかった州政府とは、全ての関係を断ち切る」といった方針から、シンガポールをマレーシアから追放する事を決定した。リーは連邦に留まろうと頑ななまでに打開策を考え続けたものの、失敗に終わる事となる。1965年8月7日、リーはマレーシアからの分離に合意する文章に署名した。
この事は、マレーシアとの合併だけがシンガポールが生き残る為に重要な事と考えていたリーにとって大きな打撃となった。そして、8月9日にシンガポールの独立を発表するテレビ中継の中で、
私にとって、今は苦渋の時です。生涯、私は2つの領域の合併と統一を信じてきました。私リー・クアンユーは、自由と正義の原則、多くの人々の福祉と幸福の探求、平等な社会を築く事に基づき、本日1965年8月9日にシンガポールが永久に主権民主主義並びに独立国家である事を宣言致します。
と国民に語りかけた上で、シンガポールの独立を宣言した。また、独立自体が嘗てのマレー独立運動の盟友であったラーマンからの追放宣言に等しかった事もあって、中継の最中には自制心を失って泣き出す場面もあった[2]。