2012-02-07
裁判員制度 なぜ民事で導入しなかったのか?
日本がおかしい |
裁判員制度が導入されてしばらく立つ。一般人から不作為で選ばれた日本人が裁判官となって人を裁く。
こんな制度が果たしてうまくいくのか疑問でしょうがない。裁判員などやれといわれればやるが、責任など取れないことは端からわかっている。法律なんてよくわからないし、難しい知識の必要な事件なら、ちゃんとした判決など下せる自信はない。
難しい知識が必要でよくわからない事件だったら、ウソでも一番わかりやすく説明してくれる人のいっていることを信用してしまうように感じる。本当のことを下手くそに説明をする人ではなく、でたらめなことでもわかりやすく説明してくれる方を信用するのは当たり前だ。最初から何もわからないのだから。
しかしそれで、もし真実とは違う判決を受けたら、被告人はたまらないだろうと思う。また、判決を下した方も、真実とは違う判決を下したとわかったら、いたたまれなくなるだろう。
刑事事件では、事実認定、法律的な解釈、自白の信憑性、その他、難しい判断が求められ、専門的な知識が要求される。
一般人の裁判員が安易に常識的な見解で判決を出してしまえば、その見解が不条理なかたちで他の事件にも影響を与えてしまう可能性がある。
将来、裁判員制度の矛盾が次々に出てくるのではないかと感じる次第なのだ。
裁判員制度を導入するのであれば、刑事事件の裁判ではなく、むしろ民事裁判ではなかったのか?
そう思うのは、大企業が金にあかして、批判する者を高額訴訟を起こして恫喝する事例が多発しているからだ。
一般人が民事の案件を判断すれば、日本に世間や常識がなくなったとはいえ、それなりにまともな判断ができるはずだ。いくら何でもおかしな訴訟があまりに多くなっていて、そんなものは民間人が裁判官になれば軽く一蹴されてしまうように思う。
誰が考えても、黙らせるために裁判を起こしていても、プロの裁判官がかかれば、法律的な見解が先に来てしまい、非常識な裁判であっても、非常識とは言えなくなってしまう。あくまで法律的な見解が争点になってしまう。
しかし、一般人が判断すれば、非常識はあくまで非常識だと感じるはずだ。
何度も出てきているが、日本にはキヤノンというとんでもない企業があって、批判するジャーナリストと出版社に対して億単位の損害賠償を求める裁判を起こした。そのジャーナリストは当然全力で戦うが、裁判のために多くの時間と労力を取られることになった。
キヤノンは、批判の本筋のところでは提訴せず、そこからずれたところで名誉毀損の裁判を起こしたのである。とすれば、争点は、あくまで本筋とは違うところで信義は進むことになる。法律論ではなく、常識的に判断すればその訴訟が本筋の批判を封じ込める手段として違う場所で訴え構図が簡単に見えてくるのだが、裁判ではそういう展開にはならないのだ。訴えた箇所だけが争点になる。
一般の判断であれば、キヤノンの高額訴訟をまともだと思う者はほとんどいないと思う、しかし、それが法律論での争いとなれば話は違い、難しい専門的な話へと変わっていくのである。
キヤノンの裁判でもそう思うが、民事はある程度一般的な常識で判断した方がよほど世の中を反映できる。
マスコミも広告主である大企業の批判には及び腰になっている。その上、キヤノンのように裁判で批判する者を黙らせようとされたら、それこそ真っ暗闇だ。というか、今の世の中、ほとんど真っ暗闇だ。
公の判断くらいは、大企業やら権力のある者に媚びないような制度であるべきだ。その点で、民事裁判の裁判員はいい制度だと思うのだが。
刑事事件の裁判に日本人が関わるのは国民の義務だという話があるが、それはそれでしょうがないとしても、同時に民事の裁判も国民が関わった方がよほど健全になるように思えるのだ。