2009-06-21
トランスフォーマー/リベンジ 映画感想
感想
なんだったっけな、観終わった時に真っ先に思った感想があったはずなんだけれども、忘れてしまった。映画自体はとても面白いものでした。ストーリーは相変わらずひどいもので、DVDだったら再生バーを右に移動させてるな、というぐらいだったのですが、変形、映像が素晴らしい。物凄い密度で、もうこれだけ観たのだから二時間ぐらいたったか? と時計を見たらまだ一時間しかたっていなかった、ということもあったぐらい。映像はパワーアップしている…。いったいいくら金をかけたらこれ程のものが取れるのだろう。映像の多くに米軍が関連していて、実際の所を言うと自分はその部分が気になって気になって、素直に映像の素晴らしさをたたえながらも多少気持ち悪いな、とも思ってしまいました。個人的な感想を言えば、映像以外の部分で大いに不満の残る作品だったかと。極力ネタバレしないようにすると、味方のオートボットが強いというよりもこれただ単に米軍が強いんじゃねーの? という展開が非常に多い。オートボット達はまるでペットのように人間に使われていてなんとも不思議な感じでした。↓ネタバレ
ここからネタバレで。まず第一に、最初の一連の事件は確かに圧倒的だった。自分も凄すぎて口をポカーンと開けて見ていたけれど、味方が誰で敵が誰なのかまったくわからない。ドカーン! やられた! で、そいつは誰だい? 出てくる奴らはほとんど全部新キャラクターで、何一つわからない。その後も彼らは普通に出てくるが、一切説明は入らず当然のように戦線に加わっている。結局最後の最後まで誰が敵で誰が味方なのかよくわからなかった。でっかいのと闘ってたツインズはいつのまにかいなくなってたし。あいつらはどこにいったんだ?
米軍賛歌
前作であるトランスフォーマーからして凄かった。撮影には米軍が協力を惜しまず、ターミネーター4では実物を使えなかったF−22ラプターをトランスフォーマーでは実物の映像を使用したり。新兵器もばんばん出てきて、米軍兵士はオートボットと共に地球を守り、命を惜しまず敵を格好よく倒す。正直いって前作だけならそれ程の気持ち悪さは感じなかった。あくまでも主役はオートボットたちであり、米軍はそれにつき従っているオマケのように感じられた。
それが今回どうしたことか、米軍が出ずっぱり、彼らはまるでオートボット達をペットか何かのように従えて、新兵器を惜しみなく投入し宇宙を支配しようとするディセプティコンをぼっこぼこにしていくではないか。え、なにそれ? 主役は米軍じゃないでしょ? 何でそんなに米軍ばっかり出てきて、オートボット達はペット、もしくは人間の兵器みたいになっちゃってるの? とにかく米軍が驚異的な力を発揮して、爆撃はするわレールガンでデカイ敵を撃ち抜いて殺すしで映画を通して米軍の力を誇示したいとしか思えない。主人公は女に誘惑されても浮気だからと断りつづけ、家族のことを大事に思うスーパーナイスガイで、最後の最後には自分の命を犠牲にして世界を救おうとする。さらにはプライム達から、このマトリックスをたくすことができるのは、勇気と自己犠牲の精神を持つ者だけだ、ってそれはさすがに気持ち悪いですよ。こういう時はカウンターパンチ的な発言をする人間が側にいないとどうしてもまともに主張を受け取れない。さらにいえば自己犠牲の精神を発揮するのは主人公だけじゃなくて、オートボトも自分の身を犠牲にしてオプティマスをパワーアップさせるしセクター7の偉い人も危険を顧みずに敵に突っ込んでいくし。
視聴者…というか米国人に対して死を恐れずに自己犠牲の精神で国防に当たれ! というのがこの映画の主張なのですか。ああ、ダメなところばっかりじゃなくて良かった点にも触れておかないと。
オプティマスが三対一で戦うところが一番映像的に素晴らしいと思った。よくあれだけ動いて、三人を相手に戦うものだなと。それからなんといってもラストバトル、なんだかんだいっても米軍が兵器をばんばん使って敵を蹴散らしていくのは爽快だし、今回はオプティマスの合体もある。じいさんが簡単にやられてしまったのは完全に予想外だったけれどもあの流れになるのか。それから第二作の成績次第ということになりそうですけれども、第三作に繋がる展開もきっちりと。もちろん見に行きます。
1Q84 BOOK 1.2/村上春樹 ネタバレ有 雑感
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/05/29
- メディア: 単行本
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感想
まあ自分象徴とか、メタファーとか、伏線とか全く考えていないので分析的なアレは全く出来ないのですが簡単に思った事でもだらだらと(先制攻撃的言い訳)。序盤は不思議な国のアリスそっくりで、違和感ばりばりだったんですけれども次第に元に戻ってくるのは印象的。全体の流れとしてはやっぱりセックスが重要なキイになっていたり、30歳で予備校講師とかいう社会的ステータス皆無な男が17歳の超美少女とセックスしたり自分のことを20年も一途に思い続けていてくれる女の子がいたり、もう一人の主人公の女の子も40歳前後のはげかけた男が好みっていう世の中年男性が飛びあがって受け入れそうな、主人公の年齢を除けばそれなんてエロゲ? とでもいうような展開なのだが不思議と受け入れてしまう。というかセックスしまくり、エロゲ展開すぎ、というのは『あらすじ』だけを読んだらそう思うだけであって、実際に読めばそこにはちゃんとした意図と象徴があってのことなので簡単に受け入れるのだろう。自分の中でのこの物語は今のところ、世界の終わりとハードボイルドワーンダーランドに続いて二位か、もしくは同列一位といったところ。Amazonのレビューを読んでいておもったのだが、確かに読後にどっしりくるものはない。読んでいる最中はひたすら楽しかったのだが。何故だろう。まったく理由がわからない。しかしキャラクターに感情移入できない、といって批判のようなことをしている人がいるのには変だなあという気がした。それはひとつの意見としてはありだけれども、なんら意味をもちえない。伊藤計劃は自身のブログの一エントリー、信用してはならない映画評の見分け方でこう書いている
あと「感情移入」できない。これはてブのコメントで教えてくれた人がいましたが、確かに映画評としては使ってはならない単語ベストワンぐらいに位置する最悪バカワードではあります。「感情移入できないのでだめ」確かにこれはまずい。非常にまずい。言ってしまったらあしたから白眼視されるのを恐れたほうがよいでしょう。なぜなら、映画の機能として、観客を登場人物に感情移入させることは、まったく重要ではないからです。現にわたしは感情移入しないで大抵の映画を見ています。──誰も信じるな
象徴?
象徴的なものといえばねこのまち 空白 現実と物語 拳銃 からす 月 それから最後の方の妊娠したねことか。妊娠した猫…? 猫の町…? 青豆は死んで生まれ変わったのか? 月の説明として、二つは常に等間隔を維持し決して重なることはない、というのは青豆と天吾のこと? などなど。エルサレムスピーチでいっていた壁と卵の話でいう、『システム』もここでは教団という形をとって出てくる。とにかく象徴的で、それらについて考えてるだけで時間がつぶせる。
青豆は?
本書の中では、物語の中に必然性のない小道具は持ち出すな、というチェーホフの言葉が引用される。拳銃を青豆に渡した時に、タマルが言った言葉だ。拳銃が出てきたら、それは撃たれなくてはならない。対して青豆は、これは物語じゃない、現実の世界の話だ(だから撃たれなくてもいい)、と答える。タマルの返答は「誰にそんなことがわかる?」というものだった。読んでいるこちらからすれば彼らの存在している世界は現実ではないということになる。しかしそれは彼らには知覚できないし、知覚できない以上彼らはそこを現実だと思って生きていくしかない。もし突然天から「お前たちの世界は仮想世界だ」という声が降ってきても、中の人たちからしてみればその世界しかないのだから、だからなんなんだと誰もが思って日常生活を営むだろう。常に現実は一つだ。えーと、つまりなんだ? なにが言いたかったんだろう。そう、つまりは発射されなくてもいいということだ。現実は一つしかない、異世界だろうがなんだろうが、人はそこで生きていくしかない。だから、青豆の拳銃は発砲されなくてもいい。
何故これほど売れているのか。
1Q84、凄い売れ行きである。森博嗣も水柿君シリーズで書いていたように、本の売り上げに内容の良さは全く関係がない。買う前に本の内容を全部読む人はいないのだから当然である。その証拠に今回は、評判が広がる前、予約段階からしてすでにベストセラーが確約されていた。売れる要因は作家の名前だけである。今や日本で一番有名な作家であり、つい最近ノーベル賞をとるか、とらないかで話題が沸騰したこともあって比較的ベストタイミングといっていい時に発売されたからだろう。完全に村上春樹という名がブランド化してしまった感がある。しかし何故、とかわざわざ問いかけるほどもない普通の結論だったな…。
続編はあるのか? 『五分後の世界』と『1Q84』
読み終わって真っ先に思い出したのはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』そして村上龍の『五分後の世界』だった。後者は完全にただのポッと出の思いつきなので特に意味はないのだけれども、どちらもその先を感じさせながらも終わってしまった作品だ。カラマーゾフの兄弟に関しては意図せずの未完ということだが、五分後の世界は意図しての終了である。五分後の世界で主人公は異世界へ飛ばされ(まさに1Q84ではないか)自分の世界へ戻ろうと奮闘するのだが、しかし諦めざるを得なくなる。そして、異世界で闘っていこうと決心し、時計を五分戻す。(その世界は元の世界より五分だけ先に進んでいるのだ)。そこで物語は唐突に終わりを告げる。
1Q84も多くのことが符合する。主人公の一人である天吾は、最後に異世界にいる自分自身を受け入れて、もう一人の主人公である青豆をみつけよう、と心に決める。
青豆をみつけよう、と天吾はあらためて心を定めた。何があろうと、そこがどのような世界であろうと、彼女がたとえ誰であろうと。
そして当の青豆は、異世界へと入り込んだと思われる当初の場所に赴き、出口がすでに失われていることを発見する。そして、もっていた拳銃を口の中に入れ引き金を引く指に力を入れる。そこで終わっている。さてどうなんだろう。回収されていない伏線があるとすればそれは回収されなければならない。あるのか? ないのか? どうなんだ? カラマーゾフの兄弟は次回作が想定されていたようだが、書かれる事はなかった。しかしカラマーゾフの兄弟は、あれはあれで完結している。それと同じようにこの作品にも次回作が想定されているのかもしれない。しかしここで終わっても個人的には何の問題もないと思った。うまく説明できないけれど、どちらの行く末もすでに暗示されているのではないか。まあ上巻下巻ではなくBOOK1 2となっていることだし次回作がある可能性も充分にある。
善と悪
「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」と男は言った。「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換されるかもしれない。逆もある。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』野中で描いたのもそのような世界の有様だ。重要なのは、動きまわる善と悪とのバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾きすぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、均衡そのものが善なのだ」
1Q84 BOOK 1.2/村上春樹 ネタバレ無
- 作者: 村上春樹
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エピグラフ
ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる
力の入り具合は一番では?
どこから、というか何から書いていいのか分からないけれども、力の入り具合でいったら、今までの村上春樹作品の中ではピカイチではなかろうか。短編も含めて村上春樹の作品は9割近く読破しているはずだが、その多くは中学生あるいは高校生のころに読んだので内容の把握は全く充分ではない。しかしその上で力の入り具合はピカイチといった根拠としては、主人公の二人が村上春樹の直接的な投影であることがまず一つ。この二人は視点を1章ごとに交換しながら全48章の物語を作り上げている。一人は村上春樹自身の作家性を投影したような男性で、もう一人は村上春樹の身体を使う面を投影したような女性。その直接さがまず意外であったし、今まで語られていない、父との対決が語られているところ。そして村上春樹にしては珍しい三人称で語られていることも、その根拠の一つである。自分の中でこの作品がどの位置に来るのかはよくわからない。これほどまでに熱中して読んだのは、初めてかもしれない。そして読み終わった時に感じた充足感はとても多かったが、今のところ余韻がどの程度続くのかまだわからない。
村上春樹作品を読むと安心するのは
作中に重要なキイとして、『シンフォニエッタ』という曲が繰り返しかかることになる。それと同時に日本では『シンフォニエッタ』のCDが凄い勢いで売れているそうだ。ニコニコ動画で検索してもYOUTUBEで検索しても出てくるので、興味がある人は聞いてみるといいと思う。この物語はエピグラフにもあるように、物語と現実をテーマの一つとしている。物語が現実に干渉するケースが、『シンフォニエッタ』が売れるという現象でよくわかる。けいおんを見て楽器が売れるのと同じように、物語は現実に干渉することができる。
村上春樹作品を読むと安心するのは、その没入度が他の作品とは段違いだからだ。読んでいる間は自分の場合、本当に現実にいるという感覚を忘れかけることができる。それは物語の構築密度が高いこともあるし、文章に無駄がなく、他のことを考えている余裕がないということもある。また安心する理由の一つとしてそこに書かれている登場人物とか物事のあり方というのは現状の自己の肯定につながって、だからこそ安心するのだと思う。春樹作品の主人公たちはみな孤独で、クールで、喪失感を抱えている。彼らはそれなりに満足した日常を送っているが、決してリア充ではない。たとえば耳をすませばやら時をかける少女、あるいはペルソナ4のリア充っぷりを観た後に、冗談だか本気だかわからないが現状の自分と比較して『死にたい』という人たちは、村上春樹を読んでも同じ事は絶対に言わないだろう。主人公たちは常に運命に従うように粛々と行動し、その結果物事は進展していき、物事に翻弄されていく。それは現実にはあり得ないどころかよーく考えてみると非常に気持ちが悪い、気色が悪いことなのであるが、そこまでは考えない。また内田樹氏は自身のブログで、
現代中国で村上春樹は圧倒的な人気を誇っているが、それを「現代中国の若者の孤独感や喪失感と共鳴するから」というふうに説明するのは、ほんとうは本末転倒なのである。
そうではなくて、現代中国の読者たちは、村上春樹を読むことで、彼らの固有の「孤独感や喪失感」を作り出したのである。
「それまで名前がなかった経験」が物語を読んだことを通じて名前を獲得したのではない。
物語を読んだことを通じて、「『それまで名前がなかった経験』が私にはあった」という記憶そのものが作り上げられたのである。1Q84読書中(内田樹の研究室)
と書いているがまさにその通りだと思う。彼の小説を読んで、自分の中のもやもやした物に、名前が付けられたような気がしているだけで、実際にはそれは作り上げられただけなのだ。それは記憶を改変して、無かったことをあったことにしてしまう。それが物語の力なのだと、そう書いている。物語は単なる逃避の手段、現実から逃げるためのものだけではなくて、ちゃんとこうやって現実を改変し、CDを買いに行かせ、とにかく人間を変えている。
今までとちょっと違う
BOOK1の途中までは、自分も凄まじい違和感を覚えていた。とにかくセリフ回しがいつものようではない。まるで伊坂幸太郎か? とでもいうかのように映画的で、これは不思議の国のアリスか? とでもいうような、ファンタジックさ、文章、展開の違和感があった。また描写は過多といってもいいぐらい長々とされている。とても不思議だ。そしてその部分に関して言えば、安心とは程遠かった。
物語の中にはエホバの商人としか思えない宗教団体が出てきたり、オウム真理教を彷彿とさせ、さらにはNHKの受信料取り立てにまで触れられている。よりエンターテイメントに近くなったと言えるかもしれない。今までの作品がアニメだったとしたらそれが実写になった、というような違和感。だがそれも本書の中では効果的に機能していただろう。明らかにそこだけ違和感を感じさせるように書いており、そしてそれには必ず意図があるのだ。
