2011-02-02
『トロン:レガシー』を見たよ!
あらすじ: デジタル業界のカリスマ、ケヴィン・フリン(ジェフ・ブリッジス)が謎の失踪(しっそう)を遂げてから20年たったある日、27歳に成長した息子サム(ギャレット・ヘドランド)に父ケヴィンからのメッセージが届く。サムは、父ケヴィンの消息を追って父のオフィスに足を踏み入れるが、そこには衝撃的な真実が待ち受けていた。
前作と言われているトロンを見ていないので、僕の感想はだいぶ偏っている、と思って読んでもらいたいのですが、それにこの作品を面白いと思った人には読んでもらいたくないのですが、残念ながら大変つまらなかったです。脚本から何から何までどこかがおかしいとしか考えられない、そういうひどさでした。といっても何から何までつまらないのかというと、そうではなくなんとなくテーマ的なもの、やりたかったことのようなものは多く感じ取れます。成功しているかは別として。
ちなみにこれはどうも、『すごい映像美』がウリの作品のようで、「ハリウッドの脚本なら映像さえ良ければあとはまあそれなりに楽しめるものが出てくるだろう」と僕は思って行ったんですがね。そのへんの、僕のハリウッド映画に対する信頼感はなかなかのものがあります。「脚本はとりあえず大丈夫だろう」と。しかし騙されることになります。
それにしても映像が凄いとは思わなかったです。一緒に見に行った人は映像は凄かった、と言っていたので恐らく凄いところはあると思われるのですが、僕にはどこが凄いのかよくわからなかった。映像美はスルーしてお話でちょっと面白かったのは、ハリウッドによくある父親を憎んで、父親を打倒してその先に行こうとする親子関係ではなかったところ。
主人公のサムは偉大な父親をそのままちゃんと尊敬して、父親の意志を尊重しようと頑張っているいい子なんですよね。で、あるキッカケから父親は自分のつくったコンピュータシステムの中から出られなくなっている。サムはそこに飛び込んでいって二人で脱出を図る──そういう話なのです。親父との関係は途中ちょっとギクシャクするものの非常に良好で、「ハリウッドでは親父とは対立するもの」という先入観があった僕にはこれがとても不思議な感じでした。
一方母親は随分前になくなっているという設定が一瞬語られた後、あとはもう話題に上ることすらありません。正直言ってこの辺の割り切り方がちょっと怖い。なぜそこまで母性を排除しようとするのか。ヒロインの登場も随分と遅く、特にサムとの恋愛をしているところは描かれていないように思ったのに最後の方ではまるで二人は将来を約束した男女のようになっていた。いつのまに?
あとはザっとした感想として、かなりお話は破綻しています。恋愛描写らしい恋愛描写もないのになぜか突然主人公がヒロインと恋仲みたいになっていたり、作中の描写の一つ一つがさっぱりわからない仕様で満ちているのだけど「ゲーム世代のお前らなら特に説明が無くてもわかるだろ、な?」とでも言わんばかりの説明の無さ。サムはどんな異常な状況でもほとんどうろたえずに生き生きとしてサバイブしていくクレイジー野郎でその適応力の高さには唖然とする。
あとサムの父親は「禅の境地に達した」修行者という設定らしいのだが、「お前は私の禅の境地を乱した」などと息子に言ったり、怒鳴ったり怒ったりするので唖然としてしまいました。禅の境地ってやつは、僕の認識では絶対に心を乱されないから境地というのであって、簡単に乱されているようでは境地には至ったとはいえないのではないか? と思うのだけれども僕の禅の認識が間違っているのかもしれない……。
「完全を目指すことは可能なのか」「デジタルと現実」「現代アメリカの新たな父的イメージ?」「科学の発展が世界を救う」などなど、テーマ的には面白かったのですがどれもばらっばらな印象。また特に今この時代で科学技術の発展がもたらす進化を一心不乱に盲信するような描写はあまりに単純すぎて恐怖さえ覚えました(これはひょっとしたら勘違いかもしれない)。
偽禅の境地親父といい、個々のキャラの把握のしにくさと言い、適当な映画といった感じでした。ひどさで言えばドラゴンボールエボリューション程……とはさすがに言えないものの、それに近いぐらいめちゃくちゃだと思う。い、いかん久しぶりにこんなにディスってしまった。面白いと思った人には申し訳ござません。
『英語達人塾』と『英語達人列伝』
ツイッターで茂木健一郎せんせーがこの二冊のうちのどちらかを褒めていたらしく、なんとなく読んでみた。どちらを褒めていたのかはわからないけれど、どちらも良書だと思う。
『英語達人塾』の方はそのまんま、過去における日本の英語達人たちから、「英語の勉強法を学ぼう」という一冊。冒頭からごく短期間で語学が修得できると考えるなんて間違っている、と言っていることからも分かる通り、ごくごく基礎的なところから、何年もかけて英語の達人を目指す為の方法が紹介されている。
目次を見れば一目瞭然だが、内容は実にシンプルであり本文を読むまでもないかもしれない。
入塾心得
音読―新渡戸稲造に学ぶ
素読―長崎通詞に学ぶ
文法解析―斎藤秀三郎に学ぶ
辞書活用法―岩崎民平に学ぶ
暗唱―幣原喜重郎と岩崎民平に学ぶ
多読―新渡戸稲造と斎藤秀三郎に学ぶ
丸暗記―西脇順三郎に学ぶ
作文―岡倉天心と西脇順三郎に学ぶ
視聴覚教材活用法〔ほか〕
音読はそのまま声に出して読むことだし、素読とは声に出して読むことを、わからなくてもいいからずっと続けることである。文法解析も要は丹念に文法を勉強しろといっているに過ぎない。面白いのは各章に英語達人たちのエピソードが挿入されているところで、「そんなバカな、真似できるはずがない」と唖然としてしまうものが多い。
たとえば辞書活用法の章ではこのような紹介のされ方をしている。
僕は、語学力は辞書を引く回数に比例して伸びるものだと信じている。少なくとも読解力に関して言えば、辞書をこまめに引くか引かないかが決定的な差となることは間違いない。もちろん、これは達人たちの学習法を見れば明らかである。
たとえば、ドイツ語学の世界では誰もが知っている関口存男というドイツ語達人がいる。彼は14歳のとき独学で勉強を始めるのだが、そのときの学習法がすごい。いきなり洋書屋に行き、ドイツ語訳の分厚い『罪と罰』を買ってきて、わけもわからずに辞書を引きながら読みはじめたのだと言う。
この後は「一行や二行を十回もに十回も読み返して辞書を引きまくりながら限界まで考え続けたらおしまいの頃にはわかりだした!」と続く。この当時関口殿は14歳だったそうだが、14歳の頃の僕が何をしていたかと考えると何も思い出せない。ひたすらパーティーゲーム(ニンテンドー64)に興じていたような気がする。14歳の頃の自分にドストエフスキーの罪と罰ドイツ語版を頑張って訳し通せ、な? と言ったらマリオカートでボコボコにされると思う。
どの章にも、このように達人たちの驚愕的なエピソードがわらわらと襲ってきて、読んでいると「おお、いいじゃんいいじゃん、できるかもしれないじゃん」と調子にのりそうになるが多分それはノセられているだけなのだろう。もっとも、方法論としてそれがまったく無価値なのか? といえばそうではない。
音読も素読も多読も文法解析も至極まっとうな勉強法であり、続ければ効果が出るのに疑いは抱かない。ただ僕らは達人ほど極端に出来ないと言うだけの話だ。新渡戸稲造は札幌農学校に在学していたとき図書館に在る本は端から端まで全部読んで、『衣服哲学』という本は30回も読んだ(ちなみにほとんど全部英書だったらしい。ひええ)らしいが、僕らはその1000分の1でも出来れば恩の字といったところだろう。
ただ考えてみてほしいのだが新渡戸稲造の1000分の1も達成できるならばそれはかなり凄いのではなかろうか、と僕は思う。僕たちは誰かの真似をしたときに、その人の事を100パーセントコピーできるわけではない。だからコピーをする意味はないのかといえばそんなことはない。めがっさ偉大な人間をコピーすれば、ほんの数パーセントしかうまくコピーできなかったとしても、充分なのではなかろうか。
『英語達人列伝』の方に話をうつそう。こちらは『英語達人塾』から英語達人たちのエピソードに焦点をうつしたものといえる。というかこちらの方が出版された時系列的には早いので、元々あった達人たちのエピソードから学習法を抜きだしたのが『英語達人塾』なのだと言える。
こちらは「睡魔が来るたびに水をかぶって勉強した」とか「図書館にある英語の本を全部読んでブリタニカ百科事典を二度読んだ(英語で)」などといった本物のクレイジーな天才たちの話で、参考にできるような部分はとてもないのだが、達人たちのエピソードはどれもぶっ飛んでいて面白く、「別に英語勉強したいわけじゃない」人に特にオススメできる。
達人や天才の話がわくわくするのはそれが読んたり聞いている人の頭の中にある人間の可能性を広げてくれるからだと思う。
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