基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

Gene Mapper -full build- (ハヤカワ文庫 JA フ 4-1)

Kindleで一時期ランキング一位にとどまり続けていた一冊なので知っている方も多いだろう。僕もその当時目にして、知っていたのだが。聞こえてくる評判は「セルフ出版本が一位に!」「その手法がすごい!」といった話ばっかりで、内容にまで踏み込んだものはほとんど読んだことがなかった(か、目に入って来なかった)ので、「SFらしいが、内容はよくある話なんだろうなあ」とスルーしていたのだ。

ところが今回-full build-ということで、大幅に加筆されてハヤカワ文庫から出た本作を読んだら、意外や意外、とてもよく作りこまれたSFであって、普通に出版されたものとしてまったく劣らないどころかここで描写されている未来観というのは他を凌駕している。拡張現実、音声認識人工知能っぽいものに加え自動翻訳にメインアイディアになる完全に遺伝子設計された農業作物もよく世界観に溶け込んでいる。

拡張現実が広く社会に浸透し、フルスクラッチで遺伝子設計された蒸溜作物が食卓の主役である近未来。遺伝子デザイナーの林田は、L&B社のエージェント黒川から自分が遺伝子設計した稲が遺伝子崩壊した可能性があるとの連絡を受け原因究明にあたる。ハッカーのキタムラの協力を得た林田は、黒川と共に稲の謎を追うためホーチミンを目指すが──

あと良かったのが、2014年にロックアウトという世界中のネットワークにつながっていたコンピュータが軒並み乗っ取られて、その後の長い復旧の時間を経て有用とされたデータしか現在には残っていないという設定。この「世界中に広がったネットワークが、ある日突然崩壊する」というイベントは神林長平などを筆頭に過去に何人ものSF作家が書いているものだけど、「失われた情報を過去インターネットにもぐってとってくる情報屋」などの存在が描かれているのがおもしろい。

プロット自体は、手放しに褒めることはできないが、素晴らしい。「なぜ突然稲が遺伝子崩壊したのか」を追っていくのが本書の主なプロットだけれども、驚きあり、意外な真相あり、謀略あり、と盛りだくさんではあるものの結末はあっさりしていて、解決も割合あっさりと行われてしまうために肩透かし感がある。ただ最後、決断の部分に関しては非常に面白いもので、他の部分も「なんだか凄いのだが、ちょっと惜しい」といったところ。

仕草で動作を行う人工知能テクノロジーやコンタクトレンズに投影されるARなど、今は存在しないものがさも当たり前に存在するかのように描かれているので最初はとっつきづらく感じるかもしれない。著者がソフトウェア開発の仕事関連に従事していたこともあってか、遺伝子設計の用語はほとんどシステム用語とかわらない。デザインもHtmlやCSSの流れで捉えていればよく、そういう意味で言うとあまり違和感なく物語に入っていくことができる。

特に拡張現実の使われ方はよかった。会議は当たり前のように仮想世界上で自分たちのアバターを使って行われるし、その際自身の姿が如何様にも変えられること、自身の感情がレベルによって区別し、制御できること、特殊なジェルとスーツを着こむことによって身体感覚のフェードバックまで受け取れるようにできることなどなど、いちいち琴線に触れる。

表現としてよかったのが、英語で喋っている箇所についてはそのまま英語表記で、日本語訳がその都度ついていることだ。「これは英語の会話ですよ〜」ということが読者にわかっていれば最初から日本語でいいじゃねえかと思うかもしれないが、本作の場合は英語で表記されている場合⇒実際に英語でやり取りが行われている。 日本語で表記されている場合⇒自動翻訳が働いている という表現の区別に繋がっているので、有効な表現だと思った。

上記はほんの一例で、不親切なほど未来世界におけるディティールが書き込まれている一方で、その伝えようとする手段は驚くほど読者に親切なんだね。本書のラストは、未来の科学技術でごてごてしているこの世界を肯定し、僕らの行末を肯定するような希望に満ちたもので、テーマとしての引き締まり方も素晴らしい。未来に向かって開けている。

この作りこまれた世界でまたいくつも作品を書いてもらいたいものだが……。とくにここでは遺伝子設計は稲などの描写にとどまっており、人間の遺伝子設計をどうこうするところにまでは及んでいない。この時代であれば当然人間の病気などはある程度排除した子供をうみだすことが可能であるし、きっと人間の能力の操作も可能になっているだろう。

そのへんはリチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』に詳しいが。次回作も楽しみである。単なるKindleで一位になった鳴り物いりで書籍化されたわけでなく、しっかりと小説、それもSFしていましたことよ。