Hatena::ブログ(Diary)

とらおの読書日記

2018-08-21

本当の戦争を語るには ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

 短編集『本当の戦争の話をしよう』には、22の短編が収められており、そのすべてがティム・オブライエン自身の従軍体験をもとにしたベトナム戦争の話だ。彼は歩兵としてベトナム戦争体験しなければ小説を書くことはなかっただろうと語っているという(『カチアートを追跡して』「訳者あとがき」)。ベトナム戦争体験ティム・オブライエンの人生を大きく変えてしまったことはまちがいない。しかし、体験した者こそが真実を語りうる、だから彼の小説に書かれていることは真実だと考えるのは、おそらくまちがっている。『本当の戦争の話をしよう』は、過酷な戦争体験を語ると同時に、戦争の真実は語りうるのかという問いがテーマになっているからである。
 大雨の中で糞にまみれて死んだ者、顔の半分を撃ち抜かれた者、地雷で無数の肉片になった者…。小隊の兵士たちは、次々に命を落とす。村は跡形もなく焼き尽くされ、黒焦げになった死体がごろごろと転がっている。まず、出来事の重みに、次に作家の誠実さに向き合うことになる。
『本当の戦争の話をしよう』で語られる出来事に感じられる真実性は、ティム・オブライエンベトナム戦争従軍したという事実に由来するのではなく、彼が出来事に向かい合う誠実さからくる。それは究極的には意味づけないことである。というか、出来事に意味はないという現実のあり方に忠実でいようとする。そのために彼がとったのは「はみだし」と「くりかえし」である。
「私は(やれやれ)四十三歳で、今は作家である。そして遥か昔、私はひとりの歩兵としてクワンガイ省を歩き抜いた。
 それだけを別にすれば、ここに書いてあることのほとんど全部は創作である。
 べつに欺こうというつもりはない。そういう形の本なのだ」(「グッド・フォーム」)
 語り手は書かれたものが創作であることを強調するが、「ティム」という名を与えられ、歩兵の一人として作中に登場する。これは「小説家としてはかなり危険なコミットメント」(村上春樹「訳者あとがき」)であり、作者が従軍したという事実がある以上、フィクションとしての土台が危うくなる。あえてフィクションを枠をはみ出してでも、閉じることで終わるものを押しとどめようとしているように見える。
 そして、語り手はかつてベトナムで殺したベトナム人の青年について語り出す。
「彼の片目は閉じられ、もう片方の目は星形の穴になっていた。私が彼を殺したのだ」(「グッド・フォーム」)
「彼の右目は閉じていた。左目は星の形をした大きな穴になっていた」(「待ち伏せ」)
「片目は閉じられ、もう片方の目は星の形をした穴になっていた」(「私が殺した男」
 3つの別の短編で死んだ男の目の描写がくりかえされる。語り手は言う。
「本当の戦争の話を語りたければ、ずっと繰り返しその話をしているしかない」(「本当の戦争の話をしよう」)意味づけることも、一般化することもできなければ、語り続けるしかないわけだが、それは意志の問題ではないかもしれない。
「新聞を読んでいたり、部屋の中に一人で坐っていたりするようなときに、私はふと目を上げて、朝霧の中からその若者が現れるのを見ることがある」(「待ち伏せ」)そう、死者たちはふとした空白を見つけては、出てこようとする。それを見るのはきっと苦しみでもあり救いでもある。ティム・オブライエンはくりかえし物語る以外に死者たちが死後の生を獲得する方法がないのを知っているのである。

2018-08-14

国家の感触 ポール・オースター『リヴァイアサン』

リヴァイアサン (新潮文庫)

リヴァイアサン (新潮文庫)

 一人の男がウィスコンシン州北部の道端で自作中だった爆弾の暴発により爆死した。その6日後、作家ピーター・エアロン(語り手「私」)のもとにFBIの捜査官が訪れたことで、彼は爆弾でバラバラになったのが親友の作家ベンジャミンサックスであり、同時に「自由の怪人」を名乗り、アメリカ各地の自由の女神を爆破し続けていた爆弾魔だったことに気づく。サックスはどうしてテロリストになったのか。サックスが戦っていた怪物リヴァイアサンとは何者なのか。「私」はかつての親友の足跡をたどり始める。
 こう書くといかにもサスペンス仕立ての謎解き小説という印象を与えてしまうが、ポール・オースターが『リヴァイアサン』で書こうとしたのは、解明されるべき真実ではなく、複雑に絡まり合う作中人物の関係性から生じる物語のぶつかり合いだったのではないだろうか。FBIの捜査官が帰ると、「私」はサックスウィスコンシン州北部の道路に行きついたのかその真相を書き残しておきたいと考える。
「私がここバーモントでこの物語を書いているあいだ、向こう(FBI)もせっせと向こうの物語を書いているのだ」ポール・オースターは『リヴァイアサン』の冒頭から事の次第を語る物語は、相対的なものであることを暗示している。
「ディーリア・ボンドとの結婚が崩壊していなかったら、私がマリア・ターナーに出会うこともなかったろうし、マリア・ターナーに出会っていなかったらリリアンスターンについて知ることもなかったろうし、リリアンスターンについて知ることがなかったら、いまこうしてこの本を書いてはいないだろう。我々一人ひとりが、何らかの形でサックスの死とつながっているのであり、我々一人ひとりの物語も同時に語らないことには、サックスの物語を語ることにはならない」
「私」はベンジャミンサックスとの出会いから語り始めるが、その物語はベンジャミンサックス一人に関わるものではなく、むしろ自身の半生を語る物語だと言ってもいいくらいだし、才気とバイタリティーにあふれた作家がテロリストになるまでには、いくつもの転機と複数の人物が複雑に関係しあっている。こうして『リヴァイアサン』は、ベンジャミンサックスの破滅という終着点を持ちながらも、それぞれの作中人物が自らの物語を持ち、それらがあたかもひとつの生き物のように自分の居場所を主張し始める。例えば、探偵にわざと自分を尾行させ、その視線を意識することで自らの行動を意識化するなどの「作品」を製作する芸術家マリア・ターナーや、マリアの幼なじみで何かをを説明するたびに動機や因果関係が違っているリリアンスターン象徴的な人物である。
リヴァイアサン』というタイトルは、旧約聖書に登場する怪物の名前であると同時に、トマス・ホッブズの著名な国家論の題名でもある。個人が自己保存権を守り切ろうとしたとき生じる摩擦や競争、果ては集団間の戦争にまでつながりかねない。これを社会の自然状態というが、この自然状態の対立や混乱を解消するために、村落や自治都市、さらには国家が生まれる。このように前提した上で松岡正剛ホッブズの『リヴァイアサン』についてこう書いている。
「このとき個人に発生する人権と国家に発生する国権はどのような緊張関係をもち、どのような調整をはかるべきなのか。そこにどのような政治社会システムがあるべきなのか。これが『リヴァイアサン』という大著のテーマになった」(「松岡正剛の千夜千冊」思構篇0944夜)
 人は自己保存のための「物語」をもっている。出来事は一つかもしれないが、そこから生じる物語は人の数だけある。個人の物語はつねにそれ自体で充足することはなく、他人のそれとの緊張関係の中にある。柴田元幸は解説で党派性のなさがポール・オースターの『リヴァイアサン』の特徴だと書いている。個人の物語が摩擦や譲歩をくりかえしながら、自分の場所を確保していくとき、人は国家をさほど意識せずに済むかもしれないが、ベンジャミンサックスのように兵役拒否をしたり、自由の女神を爆破させたりする行為に及ぶと、海中にいて見えなかった伝説の怪物が牙をむくことになる。
 緊張関係の網目をかいくぐり、こぼれ落ちるように、いくつかの予期せざる転機はベンジャミンサックスを悲惨な結末へと導いた。ばらばらに飛び散った肉片は、触れることのできない「国家」の不気味な感触を残す。

2018-08-09

監獄の千夜一夜物語 マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』

蜘蛛女のキス (集英社文庫)

蜘蛛女のキス (集英社文庫)

「眠れないんだ。なあ、映画の話してくれよ。黒豹女みたいなやつ、他に覚えてないかな」
「ああいう怪奇映画ならたくさんあるわよ。『ドラキュラ』『狼男』…」
「他には?」
「『甦るゾンビ女』とか…」
 消灯時間を過ぎ、闇に包まれた監房で、二人の男のささやく声が聞こえる。映画のストーリーを聞きたがっているのは、テロリスト政治犯として収監されているバレンティン。それに応えて『甦るゾンビ女』のストーリーを語ろうとしているのは、ホモセクシュアルで未成年者への性的行為で捕まったモリーナ。モリーナは退屈ないくつもの夜を千夜一夜物語のシェヘラザードよろしくバレンティンに映画のストーリーを語って聞かせる。やがて二人は互いの距離を縮めていく。
 マヌエル・プイグの妖しくもせつない小説『蜘蛛女のキス』の魅力は、異なる要素が互いに反映し合うところにある。理想主義者で理屈っぽく、そのくせ身勝手なバレンティン現実主義的で大衆文化をこよなく愛し、好きになった相手にはとことん尽くすタイプのモリーナ。対極に位置する二人の囚人が映画のストーリーを介して、互いを見出していく。彼らは映画のストーリーに自分を投影する。同時に映画のストーリーは、二人の関係性や運命、嗜好、生い立ちなどを暗示している。こうして闇に包まれた監房という一見静的な設定は、一気に多層的なさまざまなレベルへの展開を見せる。
 モリーナが語る映画は全部で6本。文庫の解説によると『黒豹女(キャットピープル)』『甦るゾンビ女』『愛の奇跡』『大いなる愛』の4本が実在の映画。「ナチの国威発揚映画」「コロンビア過激派の映画」の2本はプイグのオリジナル。モリーナが語るのはいわゆるB級映画ばかり。訳者の野谷文昭は解説で小説で引用される『黒豹女(キャットピープル)』について、ナスターシャ・キンスキー主演のリメイクではなく、RKOオリジナル版であることを念押しし、その理由にリメイク版のヒロインにモリーナは自己投影できないからだと述べているが、モリーナにしろ、バレンティンにしろ、自分を映画に投影したり、解釈したりするために、作家性や芸術性といったものと無縁のB級映画独特の単純さを必要としたに違いない。
 本来出会うはずのなかった二人が監房で出会い、モリーナの映画語りを通して結びつく。モリーナはバレンティンに恋し、体調を崩したバレンティンもまたモリーナの献身に感謝する。やがて二人は体を重ねさえするが、しかし、それで二人は理解し合えるようになったのだろうか。
 映画語り以外に『蜘蛛女のキス』の特徴として挙げられるのは、対話、報告書、内的独白、詳細を極める脚注といったさまざまなレベルのテクストからなっていることだ。映画のストーリーが小説を前に進める推進力として機能しているとするなら、それ以外のレベルを異にするテクストの混交は、あたかも小説の盛り上がり、気分の高揚といったものをしずめ、二人の間にある溝を強調しているように見える。プイグは実に用意周到に重なり合うが一つにはならないふしぎなテクスト空間を作り上げている。
 モリーナが大好きだと言ったナチの映画をバレンティンは「くだらないナチの宣伝映画」とばかにするが、その映画がいかによくできているかを泣いて訴えるモリーナの気持ちは痛いほどよくわかる。お話してとせがむバレンティン、好きな映画をばかにするなと悔し泣きするモリーナは、一時的に社会性をはぎとられ、子供のようにかわいらしい。その一瞬を見逃してはならないと思う。
 たとえディスコミュニケーションがうきぼりにされているとはいえ、バレンティンモリーナが語ってみせる『黒豹女』や『甦るゾンビ女』の虜になっていたわけだ。そこにはプイグの意図や試みを超えて、「セルロイドのフィルムそのものになりたい」(!)と願ったプイグの映画愛があふれていて、それこそがこの小説を圧倒的に魅力的なものにしている。

2018-08-08

短編の名手が仕掛ける毒 ロアルド・ダール『あなたに似た人』

「短編の名手」と言えば、チェーホフを別格として、O・ヘンリーとか、モーパッサンヘミングウェイ、サキ、カポーティレイモンド・カーヴァーボルヘス…など、挙げていけばきりがないけど、映画『チャーリーとチョコレート工場の秘密』の原作者としても知られているロアルド・ダールの名前はこのリストに欠かせない。
『あなたに似た人』にはミステリSF風の短編から意外な結末の短編、江戸川乱歩のいわゆる「奇妙な味」まで、多彩な15篇が収められている。
「味」「南から来た男」「海の中へ」「クロウドの犬」などは、賭け事にのめり込んで魂を奪われた人々の狂気がスリリングに描かれていて、とっても怖い。「味」は成金の男が美食家を気取る男にワインの産地当てゲームを持ちかける。産地が言い当てられないことに相当の自信があった金持ちの男は、美食家が「賭けに勝ったらあなたの娘をほしい」というのを何とOKしてしまう。美食家はあたかも探偵が推理を重ねて次第に犯人像を絞っていくようにワインの産地にじりじりと迫っていくのだが…。一見上品なブルジョワ家庭という設定、話芸にも似た美食家の語りと意外な結末。短編のたのしみがギュッとつまった一編。
 一方で、「韋駄天のフォクスリイ」「クロウドの犬」などは上質なエンタメというには、毒が多め。「韋駄天のフォクスリイ」は弁護士として地位を築いた中年の紳士が通勤途中に、学生時代の上級生だった粗暴な男と偶然同じ列車に乗り合わせる話。中年の男が三十年以上にわたって築き上げてきた「ここちよい規則正しさ」は、上級生だった男の出現によっていとも簡単に崩れ去る。そのもとになっているのは、皮肉にも弁護士である中年男がかつて受けたいじめに対する恐怖の記憶である。確固たる社会的地位のあるように見える人間が、日々いじめの記憶を抱えて生きていて、それがふとしたきっかけで飛び出してくるというわけだ。
 隠れた暴力の記憶が突然飛び出してくる場合もあれば、ドッグレースを描いた「クロウドの犬」のように、むき出しの暴力がブラックな笑いとともに描かれる場合もある。ここまでくると、もう笑いは戦慄やグロさと表裏一体である。でも、笑える。はじめにねずみが、次に人が、そしてドッグレースの犬たちが虫けらのように押しつぶされるところは、もちろんむごいことだけど、それでもプッと吹き出さずにはいられない。
「なにか面白いものを見たいかよ?」とネズミ駆除業者のポケットから生きている大きなねずみが取り出される。その次にシロイタチ。「シロイタチの鼻面のまわりには、血のあとが幾筋もついていた」ん? 何だこれ。「上質なエンタメ」とかいう安心できるところにいたはずなのに、いつの間にかとんでもないところに来ていることに気づくが、もう遅い。そのときには、ロアルド・ダール一流の黒い毒がゆっくりと体内を回っているのである。
(読んだのは田村隆一訳)

2018-07-30

遍歴の果てにみる社会 イーヴリン・ウォー『ポール・ペニフェザーの冒険(大転落)』

大転落 (岩波文庫)

大転落 (岩波文庫)

 オックスフォード大学神学を学ぶポール・ペニフェザーは、酔っぱらったOBたちのバカ騒ぎに巻き込まれ、「品行不良」で退学処分になる。ペニフェザーには何の落ち度もないのに、さっさと追い出されるわけだが、ペニフェザーも特に抗議することもなく、不当な処分を受け入れる。このできごとをきっかけにポール・ペニフェザーの冒険というか、数奇な遍歴の物語が始まる。
 私立学校の新人教師として悪戦苦闘するペニフェザー、大金持ちのベスト=チェットウィンド夫人と結婚したペニフェザー、売春斡旋の容疑で逮捕、収監されるペニフェザー…。
 この小説を楽しめるかどうかは、ポール・ペニフェザーをつぎつぎと襲う運命のいたずらを描く作者イーヴリン・ウォーシニカル視線と黒いユーモアが合うかどうか。こういう毒を含んだユーモアはイギリス人の大好物なんだろう。
 ペニフェザーは、不条理な運命の数々に驚くほど従順だ。それというのも「読者もすでにお察しのように、ポール・ペニフェザーは決して主人公たりえない人物なのであり、彼についての唯一の興味は彼の影が目撃する一連の異常な事件のみから生ずるのだからである」(第二部第二章)と作者自身が言っているように、ポール・ペニフェザーは世の中を見る人であるにすぎない。
 この小説が発表されたのは1928年で、当然のことながら当時と現在とでは、世界は大きく変化している。ウォーのもくろみが黒いユーモアを介した社会風刺だとすれば、ある意味で役割を終えた小説だと言えるのかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。
 刑務所に入っているポール・ペニフェザーに面会に来たベスト=チェットウィンド夫人の息子は、黒幕は母親であることを知りながら、無邪気にも「ママが入獄している姿なんて考えられないものね」と言うが、ペニフェザーはそれを聞いて納得してしまうのである。彼は「マーゴット(ベスト=チェットウィンド夫人)と自分とでは適用される法が事実ちがうのだし、ちがっているべきだ」と考える。
 ポール・ペニフェザーは不条理な運命に翻弄されながら、近代のルールだけが社会の秩序を守っているのではないことを身をもって知る。いいとか悪いとかいってもしょうがない、だって、事実そうなんだからとさらっと言っちゃうわけだ。
 小説の中で、イーヴリン・ウォーはくりかえし近代化の浅薄さを皮肉って見せるが、この法の運用に関する問題提起は、特別な人は法の適応を免れると言っている以上に、社会というものは、社会が自ずと持つもう一つの「法」によって秩序を形作っていると言っているように見える。のちにカトリックに改宗し、『ブライズヘッドふたたび』など伝統的価値観に回帰したイーヴリン・ウォーにとって、もう一つの「法」とは、やはり神だったのかもしれない。
 (読んだのは柴田稔彦訳の福武文庫版)