Hatena::ブログ(Diary)

とらおの読書日記

2018-05-01

瞬間をとらえる ヴァージニア・ウルフ『壁のしみ 短編集』

 ヴァージニア・ウルフの代表作『燈台へ』や『ダロウェイ夫人』は、ごく平凡な日常を思わせることばで始まる。「ええ、もちろんよ、あしたお天気さえよければね」と、ラムジイ夫人が云った』(『燈台へ』中村佐喜子訳)とか、「ダロウェイ夫人は、自分で花を買ってくると言った」(『ダロウェイ夫人』近藤いね子訳)とか。
 どちらの小説も特別なできごとは起こらないと言っていいかもしれない。しかし、「意識の流れ」という手法を代表する作家の一人であるウルフの小説で読者が知るのは、内的体験の起伏と陰影に富んだ世界である。とある瞬間にどれだけのことがつまっているのか、それをどのように表現するのか、そうした問いと答えの集積がヴァージニア・ウルフの小説だといえる。
 文学史的に言えば、ジョイスプルーストの影響を受け、「意識の流れ」という手法を駆使した20世紀のモダニズムの作家ヴァージニア・ウルフということになるが、実際にウルフの小説を読むよろこびは、そのときを生きているという実感に近い。
『壁のしみ 短編集』は、15篇の短編が年代順に収録されていて、それぞれが独立した作品として楽しめるのはもちろんだが、ウルフの小説手法の試行錯誤が表れている点も見どころになっている。ウルフは現在、フェミニズム同性愛観点から論じられることが多いが、現在よりはるかにそうしたものに不寛容な時代に、「自分だけの部屋」を必要としたウルフがどれだけ生きにくさを感じていたかは、容易に想像できる。そういうウルフの生きにくさとウルフの文学的手法としての試みを分けて考えることはできないと思う。
 印象的なのは、光、影、風のそよぎ、声、音、映像(鏡、窓枠)といった要素がくりかえし現れること。描かれるのは「無数の印象のアトムが意識に刻みつけるパタン」だ。話の筋はなく、公園の男女や植物、ツグミカタツムリなどを順に点描する「キュー植物園」は、まさにモネ睡蓮の連作など光と影をとらえようとした印象派絵画
 長編『ダロウェイ夫人』の原型と思われる「ボンド街のダロウェイ夫人」は手袋を買いに出かけるダロウェイ夫人の意識を通して外界の出来事が語られる。同様の手法を使ってはいるが、「新しいドレス」は語り手の劣等感と疎外感が強く、痛々しい。
「姿見のなかの婦人−ある映像」では、部屋の中にある姿見に映った庭の老婦人の姿を見て、語り手が老婦人の人生について様々な思いを巡らせる。汽車に乗り合わせた女の人生をあれこれ想像する「書かれなかった小説」。どちらも最後に思わぬ展開が待ち受けているが、老婦人や女に対する語り手の想像が正しくなかったというより、私たちを取り巻く世界をその瞬間において捉えようとする試みは、つねに刻々の変化にさらされているということだと思う。
「ラッピンとラピノヴァ」は、新婚夫婦が作り出した自分たちだけの想像世界が広がり、そして消えていくまでをおとぎ話風の文体で(翻訳は「ですます体」)描かれる。夫は想像力豊かな妻につきあっている程度だったかもしれないが、妻はその想像世界に支えられて、現実をなんとか生き延びていた。幻想が現実世界を生きる支えになるというお手本のような話。夫の実家で開かれたパーティーでのこと。晩餐の熱気、舅、姑そういうものに妻はもう失神しそうになる。そして心の中で叫ぶ。「(ソーバン一族は)この人たちはどんどん増えていくのよ」
「どんどん増えていく」(!)これがなぜ怖いのか、わからない人には決してわからないと思う。ずっと続くもの、増えるもの、こうしたものが正当性をもって迫ってくる現実が怖いのだ。こういう感性とウルフが突きつめようとした手法が不可分であるような気がしてならない。
 ヴァージニア・ウルフはさまざまな手法を駆使して「瞬間」をとらえることを試みた。しかし、それは「瞬間」であるがゆえに、うつろっていく。ウルフの小説の魅力はそこにある。

2018-04-06

私(たち)の記憶 磯憲一郎『往古来今』

往古来今 (文春文庫 い 94-1)

往古来今 (文春文庫 い 94-1)

 こんな遠くまで行くのかという驚きとともに磯崎憲一郎の『往古来今』を読み終えた。「私」の記憶が、「私たち」の記憶になり、世界へと移り変わっていく。
『古今往来』ではなく、『往古来今』。単行本の帯には「往古来今」という四字熟語の説明がある。「連綿と続く時間の流れ」「時間と空間の限りない広がり」をいう。まさに時間と空間を自在に行きつ戻りつする本書は「過去の話」「アメリカ」「見張りの男」「脱走」「恩寵」の五篇が収録された連作短編集。「往」「古」「来」「今」の四字が、勝手気ままに動き回ったあと、収まるべきところに収まったという感がある。
 語り手である「私」は、高校時代の思い出や二十歳の頃、失恋後にした旅の記憶などについて語るが、話は次第に遠くへ跳躍しはじめる。商用で訪れたハワイドバイ超高層ビルにあるホテルの話が語られたかと思うと、再び母親との思い出にもどったりする。こうした「飛躍」は、次第に時間、空間の振り幅を大きくしていく。仕事で移住したアメリカで「私」が娘と公園を散歩していたかと思うと、突然視点人物マシューという男に変わり、娘を連れだして家を出たりする(「アメリカ」)。
 ここに現れる「ハワイ」「移住」「家出」「放浪」などのモチーフは、あとの作品でさらにハワイへ移住した日本人たちの苦難の歴史(「恩寵」)や50歳になった「私」の突然の出奔山下清の放浪(「脱走」)などにつながる。『吾妻鏡』の領主、元力士の郵便配達夫など故郷にちなむエピソードが語られる「見張りの男」の最後に次のようなくだりがある。
「理解者は往々にして遠くにいる。私たちは百年前にプラハに生きた一人の人物を知っている(…)家族の、とりわけ父親の恐ろしい無理解に苦しめられていたにもかかわらず(…)」
 この「一人の人物」がカフカであることは、次の「脱出」で言及される。「理解者は往々にして遠くにいる。確かにそうだ、しかしそれが空間的にも、時間的にも私の知り得ぬほどの遠くであるならば、果たしてそれは遠くと言えるのだろうか? 理解者と言えるのだろうか?」という「私」の問いかけは、読者の空間、時間、意味の遠近感を揺さぶってくる。
 さっきぼくは「飛躍」と書いたが、そうではないのかもしれない。文庫解説の金井美恵子は、カフカの「世界と君との戦いでは世界を支援せよ」という言葉を引く。ここでいう「世界」が私たちにとって避けようもないものなら、そこに生きる人々は、おしなべて「私」なのだと極論することもできる。
 磯崎憲一郎は「段差や転調を作者の意図として書かずにいかに前に進めるか、どこまで小説に忠実にいられるか、だけを考えていたように思う」とあとがきに書いている。ならばやはりこの「小説」は「世界」や「記憶」そのものなのだ。

2018-04-04

時間と距離の遠近法 G・ガルシア=マルケス『十二の遍歴の物語』

 ガルシア=マルケスと言えば、『百年の孤独』。コロンビアの架空の村コマンドを舞台にブエンディア一族の100年にわたる盛衰描いた長編小説は、圧倒的な密度、スピード、展開で物語のおもしろさを再認識させてくれる。その後、『族長の秋』、『予告された殺人の記録』などを経て書かれた短編集『十二の遍歴の物語』は、いわゆる魔術的リアリズムから連想されるめくるめく世界とは異なり、いちおう普通の小説らしい入口を持っている。
「訳者あとがき」にもあるように、十二の短編に共通するのは、「ヨーロッパのラテンアメリカ人」というテーマで、ローマ、パリ、ジュネーブバルセロナといった街が舞台になっている。本書成立の経緯は作者による「緒言」に詳しいが、若いとき新聞社の特派員として滞在した欧州の各都市を20年ぶりに訪れたガルシアマルケスは、次のように書いている。
「現実の記憶が私には記憶の亡霊のように感じられ、その一方で、偽ものの記憶の説得力があまりにも強くてすっかり現実にとってかわってしまったようだった。そのため、私は幻滅とノスタルジアとの間の境界線を見極めることがまったくできなかった。それが最終的な解決策となった」
 マルケスはこの短編集に必要なものは「時間の遠近法」だったというが、地理的にも時間的にも「距離」がこの短編集を魅力あるものにしている。「毒を盛られた十七人のイギリス人」はアルゼンチンの老婆がローマ法王に会うため、たった一人で大西洋を渡ってイタリアにやって来るという話。イタリアの喧騒の中でとまどう老婆の滑稽さと孤独が、港に浮かぶ水死体やホテルのロビーに陣取る十七人のイギリス人といった背景と劇的な結末によってあざやかに浮かび上がる。
 他にカリブ海地域の小国の失脚した大統領が手術を受けに来たジュネーブで同国人のカップルに会う「大統領閣下、よいお旅を」、川端康成の「眠れる美女」に触発された「眠れる美女の飛行」など、時間と空間の「距離」のふしぎを物語として感じられる上質の短編集だと思う。
 結局のところ、それらは「人生」という私たちのかたわらにあって、触れられそうで触れられない何かということになりそうだが、とくに「『電話をかけに来ただけなの』」、「悦楽のマリア」、「ミセズ・フォーブスの幸福な夏」における「受難の女」とでも言うべき物語は、ひやりとした冷たい感覚とともに、確かに今触れられないはずの何かに触れたという感触を残す。長編とはまた異なるガルシアマルケス印の短編のおもしろさ。まえがきにあたる「緒言」も作家志望の人にもいろんなヒントを与えてくれそう。

2018-03-19

「美しい人」の両義性 ドストエフスキー『白痴』

白痴 (上巻) (新潮文庫)

白痴 (上巻) (新潮文庫)

 ドストエフスキーを久しぶりに読んだ。ドストエフスキーの小説は熱量が高い。作中人物がみな濃い。その過剰さが魅力。ドストエフスキー自身が「無条件に美しい人間」を描こうとしたという『白痴』は違うのかと思いきや、やっぱり激情がほとばしる。
 小包ひとつ持って、療養先のスイスからペテルブルグに帰ってきたムイシュキン公爵は、故郷とはいえ、長く外国で生活していた公爵にとって、ロシアは未知の世界。しかし、純真でうそのない公爵の性格は、彼をとりまく多様な人物を惹きつける。別の世界からやってきたムイシュキン公爵はいわばよく磨かれた鏡のような存在で、彼の前に出ると、みな自分の属性がそれまでの文脈から離れて露わになるのである。
 ドストエフスキーは自分が書こうとしている「無条件に美しい人間」の先駆的な例として、ドン・キホーテディケンズのピクウィックを挙げている。ドン・キホーテの名が挙げられていることで、ドストエフスキーのいう「美しさ」が滑稽さ、過度な寛容と無防備さがあり、人々の嘲笑の的にもなりうるものであることがわかる。
『白痴』は、二つの三角関係が軸になって展開する。一つは公爵とナスターシャとロゴージン。もう一つは公爵とナスターシャとアグラーヤである。ナスターシャは誰もが振り返るような美貌の女性だが、養育者であった男と関係を持たされたという過去を持つ。その過去の屈辱が自己のアイデンティティに結びついてしまったせいで、わざと傲慢で派手な女を演じて生きている。ところが、公爵がナスターシャを一目見るなり、純粋な本性を見抜いてしまったので、ナスターシャは喜びと動揺で情緒不安定になってしまう。ロゴージンは、公爵とは対照的に粗暴で自己中心的人物。ロゴージンは、美貌のナスターシャを我が物にせんとして大金を積むが、一方のナスターシャは、ロゴージンとの派手ですさんだ生活に自分の屈辱の担保を見出していたにちがいない。公爵とロゴージンの間を行ったり来たりしたナスターシャは、自分の純真さを認めてくれた公爵と「あばずれ」のお墨付きを与えてくれるロゴージンの間で引き裂かれてしまったのである。
 誇り高く気の強いアグラーヤは、三人姉妹の末っ子。美人で知られた三姉妹の中でも特に美しいエパンチン家の箱入り娘。二つ目の三角関係は複雑で、公爵は持ち前の率直さで、ナスターシャとアグラーヤのどちらも愛しているというのである。もっとも、その愛の質は違うのだが、いずれにせよ世間的に認められることではない。この三角関係には、二人の女性を同時に愛することはできるのかという主題に隠れて、誇り高くけがれを知らないアグラーヤが公爵を通して、汚辱のナスターシャに惹かれるという関係性も垣間見える。
 ムイシュキン公爵という極端な公平性と寛容を体現した人物を通して、清純と汚辱が交わり、清純を汚され屈辱に生きることを決意した女を再び引き裂き、傲慢と粗暴さを引き寄せる。「美しい人」がそうでないものを引き寄せ、相反するものが交わる契機になる。この両義的なありようは、はじめからドストエフスキーの意図したことだったのか、それとも書きながらそうなってしまったのかはわからないが、ここから逆に普通の人のあり方も透けて見えてくる。普通の人は適度に不公平で適度に不寛容なのであって、それは「選択」という形で生活の中に現れるものだ。選択の連続で自己のアイデンティティを確立するということは、人の歩みの後には、選択されなかったものの亡霊が次々に生じるということでもある。それができない人物が存在しうるのか、仮に存在しうるとしたらどのようになるのかという壮大な実験がこの『白痴』という小説なのだ。
『白痴』という長い小説には、多くの枝葉があって、脇役的な人物もとっても魅力的というか、現代の作家ならそれだけで一編の小説を書くのでは?と思わせるような作中人物が多数登場する。いつも奸計をめぐらせているレーベジェフ、自己顕示欲が強くシニカルなイポリート、虚栄心を満足させるため、ほらばかり吹いているイヴォルギン将軍、癇癪を起すこともあるが、気心のやさしいリザヴェータ夫人などなど、みな鮮やかな印象を残す。なかでも忘れられないのがガーニャ(ガヴリーラ・アルダリオノヴィチ)だ。頭はいいけれども、徹頭徹尾、平凡な男。作者は皮肉っぽくガーニャのようなタイプを次のように評している。「自分には才能がないという深刻な自覚と自分こそはりっぱに自主性をそなえた人間であると信じようとするおさえがたい欲求とが、たえず彼の心を傷つけてきた」「これとという才もなく、どこといって変わったところもなく、いや、変人といったところさえなく(…)」
 独創的であろうと願う気持ちばかり強くて、実際は何もできないガーニャタイプは、ある意味ムイシュキン公爵とは対照的な人物。こんな人物が実は思っているよりずっと多いのだとドストエフスキーはいう。ガーニャはムイシュキン公爵をねたみ、憎んでいるが、ガーニャのような男が世間の代表なのだとすれば、世間ムイシュキン公爵を理解することはおろか、その存在もきっと許さないだろう。ムイシュキン公爵とガーニャに代表される世間の対比。ロゴージンやナスターシャのような作中人物と二つの三角関係の衝撃的な結末に目を奪われがちだが、『白痴』の奥行のようなものはガーニャ的人物によって裏付けられている。ガーニャはぼくだと思った。

2018-02-27

言葉と顔 西加奈子『ふくわらい』

ふくわらい (朝日文庫)

ふくわらい (朝日文庫)

 西加奈子の『ふくわらい』を読んでいたときだ。ん? と思って目元に手をやると涙が出ている。鼻水も出てるみたいだ。何かなと思った次の瞬間、感情がどっと追いかけてきた。ただ、その感情をどう名付けたらいいのかわからない。それでいて、頭より先に体納得している感覚がある。そんなことを『ふくわらい』をぼくに勧めてくれた人に話したら、それが「物語」ということやと言われて、なるほどなと思った。
 とても優秀な編集者だけど、友達も恋人もいない鳴木戸定。それでさびしいと感じることもない。食事もめんどうなだけ。そんな定のたったひとつの趣味は福笑い。4歳のとき、母に買ってもらった雑誌の付録だった福笑いに触れて以来、定は数えきれないほどの福笑いをやったので、大人になった今では、他人の顔の目鼻を勝手に動かして遊べるほどだ。
 定は感情というものを理解できない。もっと言えば、すでにできあがった世界というものを、そのまま自分のものであるかのようにふるまうことができない。そんなある日、定はプロレスラーが本業で雑誌に連載を持つ森口廃尊の担当になった。定は森口の顔をはじめて見たとき、驚きのあまり目を離すことができなかった。森口の顔はそのぐらい崩れていたのだ。そして、森口の書く文章もまた顔に劣らず個性的だった。定はその文章の感想を次のように言う。
「文章を書くときに言葉を組み合わすのではなく、言葉以前から始められている」
 森口廃尊はいわば顔も言葉も意味以前の存在であり、そこからおのれの存在をかけてリングに上がり、言葉を書き綴る。
 森口になぜ編集者になったのか問われた定は、何かができあがる瞬間を目撃することに感動すると言っている。しかし、何かができあがるということは、その都度何かがご破算になるということでもある。ぼくらは「意味」に囲まれて生きている。すでに意味づけされた世界を、ときにそうと知らずに受け入れていることさえある。定にしろ、森口廃尊にしろ、世界を理解するスキルに欠けていると言っていい。
 意味のない世界は怖い。言葉と、そして顔は世界に意味をもたらしてくれるものとして機能する。だいじょうぶ、と語りかけてくる。ただ、それは「世界」そのものではない。森口の前の担当者若鍋のように、「なんでも名前をつけて話を終わらそうとする」人たちがいるように、あくまで誰かが後付けしてくれたものだ。その都度「ゲシュタルト崩壊」を通過しないといけない定や森口を、そして世界を意味づけるのではなく、生きたものにするのは、「物語」なのだということがよくわかる。定は恋人も友達も作ることができたけど、『ふくわらい』において重要なのは、主人公の「成長」的要素ではない。小説の最後に無類に美しいシーンがあるが、それは見た目の「美しさ」ではなく、今できあがったばかりの世界と全身で触れ合う喜びにあふれているということ、そして、意味と意味の隙間からそれをちらっとでも見たという実感から来るものだと思う。