「正しさ」をこえて 朝井リョウ『正欲』

 

「読む前の自分には戻れない」みたいなことが文庫版の裏表紙に書いてある。確かにそうかもしれない。「正しさを欲する気持ち」が本書のいう「正欲」だとすると、程度の差こそあれ、それを持たずに生きることはできないだろう。それがなければ、首尾一貫した人間としてのふるまいができないし、生きるということは、どこかに自分の立ち位置を定めるのと同義だと思うのだ。

 こんな風に書いている自分はどうしようもなく保守的だなとも思う。本書の作中人物である寺井啓喜は持論を妻や息子に頭ごなしに押し付けようとして、妻子との溝を深めてしまう。佐々木佳道が勤める会社の田吉幸嗣や佐々木の高校時代の同級生だった西山修らも、彼らの言動には自分たちの「正しさ」に疑念を持つ余地は全く見られない。

 朝井リョウという作家の筆は田吉や西山の偏見に満ちた言動を容赦なく描き出す。そして読者である私たちは彼らの視野の狭さに嫌悪感を抱くが、それができるのは、単に自分が小説の読者であるからに過ぎない。実生活の中では、ぼくは、田吉や西山のように自分の意見を正しいと信じて疑わない人間の一人だ。

 小説『正欲』の本筋とはやや離れたことを書いているが、もう少し自分を客観視することの難しさについて書く。自分を客観視することは難しい。なぜそう言えるかというと、自分が「自分の意見」だと思っていることは、たいてい社会のマジョリティの総意を内面化しているだけだからだ。そして、社会のマジョリティに属している人間はその自覚がない。自分を知る機会があるとすれば、他人からの指摘を受けるか、『正欲』のような小説を読むか、そんなところだろうか。

 社会にはそれを維持する機能が備わっていて、ときに「ダイバーシティ」とか「LGBTQ」のようなカウンター的な概念や動きを取り入れるが、『正欲』を読めばわかるようにそれもまたマジョリティが許容する範囲でしかない。枠組みやルールはその社会を維持するためにある。誤解のないように言うが、そのように形成される社会秩序を批判しているわけではない。

『正欲』という小説がすごいのは、佐々木佳道や桐生夏月、諸橋大也らの性的傾向を通して、ぼくら一人ひとりの性(生)のありようは、いわゆる社会の「正しさ」「常識」「あたりまえ」などと何の関係もないと言い切っていることだ。いったん何もないだだっ広い場所に放り出されたような気分になる。小説の中にもあるように、その孤独と恐怖に耐えきれず、多くの人は率先して自分を社会の常識と同期させようとする。

 人間がマジョリティの総意を内面化しなければ生きていくことができないとしても、本書『正欲』はそうした人間同士が「正しさ」を共有するのとは別のしかたで他人とつながる可能性があることを示唆する。小説の終盤に出てくる諸橋大也と神戸八重子の激しい口論は、互いの「正しさ」のぶつかり合いの中に相手とつながる可能性があることを教えてくれる。場合によっては、殺し合いになるかもしれない。それでもなお誰か自分以外の人間を求めるなら、そうする以外ない気がする。

 お互いが性的マイノリティであることから二人だけの特別な関係性が芽生えた佐々木佳道と桐生夏月は、異性に性的興奮を覚えないにもかかわらず、セックスのまねごとをする場面がある。この場面は、性的マイノリティという互いの共通項が作る最小単位の社会を抜け出し、佐々木佳道と桐生夏月が一人の人間として互いを求めた瞬間である。  

 人間いわば「正欲」という鎧を身にまとっているようなものだ。しかし、それはあくまで鎧であって、その中身は一人ひとり異なっている。そんな鎧を身にまとっていることさえ気が付かない人間が多いが、その鎧同士がぶつかることで、中身がはみ出したり、相手を求める行為の中で自然に(というか故意に?)その鎧を脱ぎ捨てたりする。『正欲』は刃を喉元に突き付けるような小説だ。その一方で自分以外の誰かのために「正しさ」を越えたり、脱ぎ捨てたりすることができるということも示している。

(2024年1月2日加筆・訂正)

なぜ主人公に名前がないのか 千葉雅也『デッドライン』

 

 知人に勧められて読んでみた。あまりわからなかったので、同じ著者の『現代思想入門』(講談社現代新書)を読んでみた。哲学的な内容も含まれていたので、小説理解の助けとなるかと思ったからだ。『現代思想入門』は思想哲学が苦手なぼくにもわかりやすく、また、思想哲学「業界」の手の内を見せてくれるという点でもとても興味深かった。その上で『デッドライン』を再読してみた。補助線としての『現代思想入門』が役に立ったのかどうか、それは定かではない。しかし、再読の結果『デッドライン』という小説がどうやらぼくは苦手らしいということがわかってきた。「きらい」というのとは微妙にちがう「苦手」。その理由を考えてみたい。

あらすじ

 主人公「僕」は大学院生。卒論はフランスの人類学者マルセル・モース。院に進んでからも惰性でモース研究を続けていたが、行き詰まりを感じている。同じゼミにはW・ベンヤミンアンドレ・ブルトン、フランス映画を専門にする人など、まあ、幅広く人文系の研究科。この小説に描かれる「僕」の日常は映画サークルで知り合った瀬島くんの映画制作を手伝う場面、ゲイである「僕」がいわゆるハッテン場で一夜の相手を求めてさまよう場面、友人のKや知子と夜の街をドライブする場面、そして院のゼミでの徳永先生の講義と院生の発表場面、これらの場面がローテーション(テキストには「回遊」という象徴的な言葉が出てくる)で繰り返される。

 いつくかの転換点がある。徳永先生のアドバイスで「僕」の修論のテーマがジル・ドゥルーズに決まったこと。順平という「僕」の一つ年上のダンサーを目指している男と知り合うこと。彼は「僕」から様々な言葉を引き出す役目を果たしている。修士論文を書き始めた「僕」は第二章に至って行き詰まる。難渋し前に進まなくなっているのに追い打ちをかけるように、父親の会社が倒産するとの報を受け取る。結局「僕」は修論のしめきりに間に合わなかった。安い部屋への引っ越しも決まった。修士三年目の学費の工面はなんとかなり、生活費はアルバイトで賄うことになった。「僕」の「回遊」はデッドラインによって断ち切られる。

徳永先生の講義

 徳永先生のゼミは院生による発表と先生の講義の二部構成になっている。先生の講義は言葉と存在に関わる命題を問うものだ。特に荘子を例に引いた自己/他者の二項対立をどのように乗り越えるのかという講義は、『デッドライン』という小説の構造そのものに関わってくる。荘子が「魚の楽しみ」ということを言ったとき、恵子は「あなたは魚ではないのになぜ魚のことがわかるのか」と問うた。それに対し荘子は「あなた(恵子)は私ではないのになぜ私のことがわかるのか」と切り返した。「自己/他者の分断は、一度切り込まれると永遠に繰り返される」その分断を乗り越える別の見方を先生は示してみせる。先生が提唱するのは、「近さ」という概念。

 人間でも動物でも他者と「近さ」の関係に入ることその時にわかる。先生は言う。「『近さ』において共同的な事実が立ち上がるのであり、そのときに私は私の外にある状態を主観のなかにインプットするという形ではなく、近くにいる他者とワンセットであるような、新たな自己になるのです」「ある近さにおいて共有される事実を、私は『秘密』と呼びたいと思います」

 この先生の講義を契機に小説は、あるいは僕は「自己」が誰かに、または何かに「なる」ことを経験する。圧巻は夜中に知子と電話をしていたときの描写だ。一人称で書かれている小説であるにもかかわらず、電話を切ったあと、描写はいきなり知子の視点に切り替わる、というか、あたかも「僕」が知子と一体化して、知子の視点で部屋を出て、外へごみを捨てに行ったように感じられる。

『デッドライン』にはこのような一体化、「他者とワンセットになるような」知覚が何度か登場する。それは、ドゥルーズの『千のプラトー』における「生成変化」という概念にもつながっている。

どこにも属さない「僕」

『デッドライン』の作中人物に与えられた呼び名を見れば、夏目漱石の『こころ』を思い出すのは自然なことだろう。しかし、『デッドライン』には『こころ』にあったような打算やだまし討ちは出てこない。むしろ、『デッドライン』という小説を支える生成原理の一つは「僕」がゲイであることで、ヘテロセクシャルの恋愛関係に恐ろしく鈍いという事実だ。知子は「僕」の親友のKに恋愛感情を抱いていたが、その事実に全く気が付いていなかった。中学のときには、いわゆるスクールカースト的などのグループにも属していなかったというし、高校時代も誰それが付き合っていたという話を同窓会で初めて知る始末だ。まるで裏返しの『こころ』。「僕」と呼ばれるだけで、名前を持たず、名を呼ばれるときは「…」と表記される「僕」は『こころ』の主人公とは異なるプロセスで形成された自我を持っている。

女か動物か

「僕」は修士論文の執筆を第二章で行き詰る。『千のプラトー』第十章の「動物になることと女性になることはどちらが重要か」という問題がどうしても解決しなかったからだ。この問題はゲイである「僕」があこがれる「普通の男性性」を考えるとき、避けて通ることのできない問題だった。徳永先生に助言を求めるも、無理をせずテクストの現実にしたがえというアドバイスは、かえって「僕」の論文の言いたいことの不在を浮き彫りにしてしまった。さらに先生は「まず最初に身体を盗まれるのは少女なのである」という箇所を引き合いに「少女の尻尾を探せ」という謎めいたアドバイスをする。「少女の尻尾」魅力的な言葉だ。しかし、「僕」は忙しい。猫になったり、知子になったり、動物になったり、少女になったりしなければならない。

「僕」の名前

結局、「僕」は「少女の尻尾」を見つけることができず、締め切りまでに論文を提出することができかなった。締め切り(デッドライン)は「僕」が閉じ込められていた円環の時間を否が応でも断ち切ってしまう。外から来て、「僕」を生ぬるい眠りから目を覚ましてくれるものだと思って読んでいたが、違った。「僕」は何にでもなれるテクスト上の人格である。「僕」はまた生成変化する。一度円環が壊れたそのあとで、「僕」は言う。「僕は線になる。/自分自身が、自分のデッドラインになるのだ」そう、だから、「僕」には名前がない。そして、こういう「僕」(仮)みたいな存在がぼくにはよくわからない。いや、これをわかるのがちょっとこわい気がする。自分は保守的なんだと思う。

わたしはここにいる 今村夏子『むらさきのスカートの女』

 

語り手の謎

(ネタバレ)『むらさきのスカートの女』を読んでいる間ずっと不思議な感覚が付きまとっていた。それは「語り手」に対して漠然と感じる違和感だ。最初はその違和感を常識的な範疇に収まるように脳が補正する。それでなんとなく納得して読み進める。読み進むうちに、その違和感は次第に補正では効かないほど異常なものとして認識されるようになる。商店街での「わたし」の行動もその一つ。なにしろ「わたし」は、人混みの中誰にもぶつからずに歩くという特技を持つ「むらさきのスカートの女」にわざと突進していったのだから。語り手の常識や倫理観の欠落、狂気じみた執着から、最初は「常識」に依拠し自分を欺きながら読んでいたことに気づかされる。推理小説でよくあるいわゆる「信用できない語り手」にも通じる。しかし、本書の語り手はうそつきではない。『むらさきのスカートの女』は「うそ」とか「ほんと」といった二元論のレベルで語ることができない。読者はこの語り手とどんな距離感で本書を読むのか、その読み自体が問われる小説なのである。

 

追うものと追われるもの

 今村夏子の小説を読むという行為は、これまでも読むという行為そのものを問われるところがあった。しかし、本書『むらさきのスカートの女』はこれまでとはギアが一段上がったという印象を受ける。

 語り手「わたし」は町の有名人「むらさきのスカートの女」について語る。むらさきのスカートの女はいつもむらさきのスカートをはいているのでそう呼ばれている。小説の語り手が特定の人物について語るのはよくあることだが、この語り手はストーカーのように執拗に女の生活を観察し、記録する。時には生活に干渉しさえする。なぜ「わたし」はここまで執拗にむらさきのスカートの女を追うのだろうか。「追うものと追われるもの」という文学的主題がある。探偵と犯人。安部公房ポール・オースターはその枠組みを巧みに利用して、両者の関係性が相互作用的であり、不可分なものであることを描いたが、本書の語り手「わたし」とむらさきのスカートの女にも一応大枠ではこの関係性を見ることができる。

 

名前の謎

 むらさきのスカートの女には日野まゆ子というれっきとした名前があるが、それを知ってからも語り手がその名を口にすることはない。また語り手自身にも権藤という名があり、ホテル清掃の職場で何度か「権藤チーフ」と呼ばれるだけで、語り手は自分のことを「黄色いカーディガンの女」だと自己紹介する。むらさきのスカートの女に黄色いカーディガンの女、この奇妙な相似形を成す二人のあだ名は、隠れ蓑のように本来人が持つ個性を覆い隠し、透明な存在にしてしまう。むらさきのスカートの女は「有名人」だというが、それは商店街の無害なゆるキャラのようなもので、その名の内側にいる日野まゆ子が認識されているわけではない。語り手に至っては、職場にいても同僚にその存在さえ気づかれない。ともにホテルの清掃会社で働く二人は社会の底辺にいて、人から無視され続けてきた存在なのだとひとまずは言うことができる。

 

願望と現実

 語り手「わたし」とむらさきのスカートの女が双子のような相似形を成すという指摘をした。しかし、それが語り手「わたし」の願望だとしたら、どうだろうか。社会の底辺で誰からも認識されずに生きてきた女というのが語り手「わたし」の意識されざる自己認識だとして、「わたし」が語り始めるのは、「むらさきのスカートの女」その類縁を見出したといううれしさからではないだろうか。事実、「わたし」は何度もむらさきのスカートの女と友達になりたいと考える。そして、「わたし」は勝手な自己認識の投影として「むらさきのスカートの女」というフィクションを作り上げる。『むらさきのスカートの女』という小説がたいした出来事も起こらないのにスリリングなのは、語り手の作り上げたフィクションとしての「むらさきのスカートの女」から現実の「むらさきのスカートの女」が避けがたく漏れ出して、その乖離が無視できなくなっていくプロセスが語られるからである。

 

むらさきのスカートの女の消滅

 語り手「わたし」にとっては(ということは読者にとっても)意外なことかもしれないが、ホテルの清掃スタッフという仕事を得てからのむらさきのスカートの女は商店街に出没するヘンな女という語り手が作り上げたイメージからどんどん逸脱していく。仕事を覚えるのが早く、先輩にかわいがられる。いつもの公園で子供たちにからかわれる存在から一緒に遊ぶ存在になる。ホテルのアメニティグッズを勝手に持ち帰りバザーで売る。果ては清掃会社の所長と不倫までやってのける。これらの事実は「むらさきのスカートの女」から日野まゆ子が漏れ出しているということにほかならず、語り手からするとゆゆしき事態だったのではないだろうか。これでは自己の相似形としてのむらさきのスカートの女はまったく機能せず、逆に世間から無視されたままの自分の惨めさだけが余計にはっきりするだけだ。所長との痴話げんかとアメニティグッズの横流しは語り手にとってむらさきのスカートの女を消し去る/自分だけのものにする格好のチャンスとして到来した。語り手が周到に準備した逃走手段によってむらさきのスカートの女は煙のように消えてしまった。現実レベルのストーリーとしては、むらさきのスカートの女が「わたし」のことばを信用せず、コインロッカーから金を持って逃走したということになるだろうが、読んでいる印象としては、殺人事件でも起こったかのような禍々しさを感じる。むらさきのスカートの女は「わたし」の感じる避けがたい乖離の裂け目に消えてしまったとしか思えない。

 

わたしはここにいる

 今村夏子は小説「あひる」で見えない娘と入れ替わるあひるを描いた。ここでは両者は不都合な現実を無視することで立ち上がるもう一つの現実の象徴として機能していた。『むらさきのスカートの女』では、「語り手」が無視される者と入れ替わる者の両方の役割を担っている。むらさきのスカートの女がその行方をくらませてはじめて、「わたし」は「発見」された。むらさきのスカートの女のアパートの二階廊下から落下してけがをして入院した所長のお見舞いに行った清掃会社のチーフたちの中に権藤チーフもいた。「わたし」は所長と二人きりになったすきを見て、所長を脅し昇給の交渉をしようとする。

「『所長』

 とわたしは言った。

 『うわっ。びっくりした。権藤さん、いつからそこに』

 『さっきからずっといました』」

「わたし」はあたかも唐突にその場に姿を現したかに見える。ずっとそこにいたのに。見えるようになったのは、むらさきのスカートの女という隠れ蓑のような存在を失ったからだが、彼女は権藤チーフとして再デビューするようなことはしない。彼女が選んだのは、自分が作り上げたフィクションをそっくりそのまま生きることである。彼女は公園のむらさきのスカートの女の「専用シート」に腰を下ろす。「黄色いカーディガンの女」のデビューである。しかし、一瞬現れた小説の裂け目から明らかに「わたしはここにいる」という女の叫びが聞こえた気がする。見つけてほしい。つかまえてほしい。『むらさきのスカートの女』という小説からは痛切にその叫びが聞こえるにもかかわらず、見つけること、つかまえることは至難の業だ。その理由は彼女を視界から排除していた読者の側にある。

逃げ出す女 フォークナー『響きと怒り』

 

響きと怒り』は複数の長短編が同一の舞台や作中人物を共有する一群の小説群ヨクナパトーファ・サーガを構成する一篇。旧家没落の話だというので、年代記風のストーリーを想像していたが、全くちがった。コンプソン家の兄妹たちのたった四日間の話だ。フォークナーは「意識の流れ」の手法を駆使し、その四日間に作中人物の過去と現在、出来事と意識を複雑に交錯させるので、ストーリーがたどりにくい。「それにしても、この小説は晦渋であり、難解である」(本書「解説」)と訳者(高橋正雄)が言うほどだ。

響きと怒り』は以下のような四つの章からなっている(〈一〉~〈四)の数字は便宜的に付けたもの、人名は章の中心的人物)

「一九二八年四月七日」〈一〉 ベンジャミン(ベンジー)三男

「一九一〇年六月二日」〈二〉 クエンティン 長男

「一九二八年四月六日」〈三〉 ジェイソン四世 次男

「一九二八年四月八日」〈四〉 ディルシー コンプソン家に仕える黒人女

 かつてコンプソン家は州知事や南軍の将軍など土地の名士を輩出した名家だが、現在は没落し、物語中の現在である1928年では、一家の唯一の働き手である次男ジェイソン四世を実質的な家長とし、その母親キャロライン、三男ベンジャミン、長女キャンダシーの娘クエンティン(この時点ですでに亡くなっている長男クエンティンと同じ名)、さらにコンプソン家に仕える黒人たちが暮らしている。『響きと怒り』をコンプソン家の兄妹の話だと書いたが、上の章立てには長女キャンダシーの名がない。しかし、彼女こそ『響きと怒り』全編を通じての主題を浮き彫りにする人物だと思われる。

 第一章はコンプソン家の三男ベンジャミンの視点から語られる。読み進むにつれベンジャミンが「白痴」、重度の知的障碍者であることがわかってくる。気に入らないことがあると大声で泣き出し、お守り役の黒人ラスターらを辟易させるが、キャンダシーが慰めるとベンジャミンは決まって泣き止む。次に引用するのは第一章に子供時代の回想として川遊びをしている場面。

「(…)わたしが泣き出すと、彼女がわたしのところへやってきて、水のなかでしゃがんだ。

『さあ、泣かないのよ』と彼女は言った。『あたしは逃げたりしないわよ』そこでわたしは黙った」

 家族がベンジャミンを厄介者扱いする中で、唯一キャンダシーだけが彼に愛情をもって接している。成長したキャンダシーに男ができると、ベンジャミンは彼の特殊能力とも言える鋭い嗅覚で、それを嗅ぎ取る。事の真相を理解しないまま、キャンダシーがもう以前のキャンダシーとは何かが変わってしまったこと、これまで通りキャンダシーがベンジャミンに愛情を注いでくれるかわからないことを鋭く嗅ぎ取るのである。

 次に引用するのはキャンダシーが暗がりの中ハンモックで男と寝ていた後の場面。

「キャディとわたしは走った。わたしたちは台所の上がり段をかけあがり、ポーチにはいると、キャディが暗がりの中で跪いて、わたしを抱きしめた。わたしには彼女の息づかいが聞こえ、彼女の胸のはずみが感じられた。『あたししないわ』と彼女はいった。『もう、決して、あんなことしないわ、ベンジーベンジー』すると彼女は泣きだし、わたしも泣いて、わたしたちは抱き合った」

 キャンダシーにはベンジャミンが「無垢」の象徴のように見えていたのかもしれない。少なくもベンジャミンには性的行為のあとのキャンダシーの動揺を誘う何かがあったのである。彼女はベンジャミンにもう決してあんなことしない」と言う。このあとキャンダシーは乱暴に唇を石鹸で洗うが、ベンジャミンは「キャディは木のような匂いがした」と彼女の匂いに言及する。ベンジャミンはベンジャミンなりに彼女の「不品行」を嗅ぎ取っている。しかしなぜ、彼女はそれをベンジャミンに詫びなければならなかったのか。ここに『響きと怒り』という小説の持つ「気持ち悪さ」がある。彼らの意識の中を手探りで進みながら感じるのは、ある種の抑圧が女ばかりか男をも押し潰そうとしているということである。

 第二章の視点人物は長男のクエンティンである。彼は一家の土地を売って学費を捻出してもらってハーヴァード大学へ進学した。何でも考え込む内向的なタイプで、第二章はクエンティンが入水自殺する直前の一日の出来事と過去を回想する意識の流れを複雑に交錯させながら描いている(ただし、自殺したことはのちの章で遠回しに言及されるだけ)。クエンティンが自殺を決意するに至る直接の原因もはっきりと書かれているわけでないので、推測するしかないのだが、彼が妹キャンダシーを処女性の象徴と見なし、庇護の対象としていること、さらにキャンダシーが彼のそうした妄想とも言えるキャンダシー像とは対照的な性的に奔放な女だったことが関係していることは間違いないだろう。

 回想の中でクエンティンは父親に妹キャンダシーとの「近親相姦」の罪を告白する場面が出てくる。句点も読点もない父親と息子の会話が延々と続く(このくだりは安易に引用することを躊躇させるが)。

「(…)父はお前はわしを面喰らわせるにはあまりにも真剣すぎるようだもしそうでなかったらお前は自分が近親相姦を犯したなどとわたしに告げるような苦しまぎれの手をつかう必要はなかっただろうさといいぼくは嘘なんかいいません嘘なんかいいませんといいすると父はお前はごく当たり前な愚行を恐怖にまで高めてそれを真実というもので清めようと思っていたのだよといいぼくはそれはキャディをこの騒々しい世の中から隔絶させるためたっだのです(…)」

 この妄想と現実との綱引きのような対話劇はすべてクエンティンの意識の流れの中で起こっていることだが、この対話でいみじくも言っているようにクエンティンの妹を守るとは「世の中から隔絶させる」ことだったわけで、それがどのような思想的背景から出ているものであれ、生身のキャンダシーはそこにはいない。

 このことはクエンティンの最後の一日の過ごし方ともリンクしている。大学の授業をサボってふらふらと散歩をしているクエンティンはパン屋で英語が話せないイタリア人移民の少女と出会う。両親とはぐれたらしい女の子を菓子パンを買ってやり、彼女の家を探してやろうと連れまわすが、見つけられないどころか、少女を連れ去られたと思った(事実はそれに近いが)移民たちから訴えられ逮捕されそうになる。クエンティンは少女が英語を話せないにもかかわらず、終始話しかけ、「ねえちゃん」と呼びかける(原文は"sister")。そこではあたかも自分が「救う」ことのできなかったキャンダシーを「救おう」としているかに見える。

 しかし、少女は愚鈍な動物のようにパンをほうばるばかりで、クエンティンの呼びかけに答えることもないし、彼が少女の家を見つけることができたとしても、それが妊娠し(お腹の子の父親とは異なる男との)結婚を決意したキャンダシーを翻意させることにもならない。クエンティンは現実とは遠く離れた観念の中に閉じ込められたドン・キホーテのように真剣で滑稽で惨めだ。自殺は自己の住まう観念世界と現実がどうしようもなく乖離してしまったクエンティンの論理的帰結としかいいようがない。

  第三章の視点人物は次男であるジェイソン四世である。感受性が豊かなクエンティンやキャンダシーと違い、ジェイソンは皮肉屋で物欲的な性格で、実質的な家長として家族に対して強い支配欲を持っている。第三章の「一九二八年四月六日」の時点で家族唯一の働き手であるジェイソンは、母親やキャンダシーの娘クエンティン、ベンジャミン、さらに召使の黒人一家を養わなければならない。ジェイソンは自殺した兄のクエンティン、娘を置いて家を出ていったキャンダシーとは相性が悪く、子供のころからのけ者にされることが多かった。さらにクエンティン、キャンダシーの不在がジェイソンをコンプソン家に縛られている原因でもあり、ジェイソンがことあるごとに不満と皮肉を口にするのも無理はない。小説の文体は視点人物の精神性を反映しており、「白痴」の意識を反映した第一章、自殺を決意し正気を失いつつある男の意識を反映した第二章とは異なり、第三章はリアリズムの手法に近い。

 ジェイソンは男関係が奔放なキャンダシーとその娘であるクエンティンに強い憎悪の感情を持っており、キャンダシーが送ってくる娘の養育費を着服する一方で、キャンダシーの成長した娘に一目会いたいという願いを聞き入れることはなかった。また、学校をサボりがちなクエンティンに対しては、仕事場である荒物屋を抜け出してまで彼女の後をつけたり、家では暴力的な言動を繰り返している。ジェイソンは自分に負わされた責任の対価として無意識にマッチョイズムとミソジニーを内面化している。

 第四章は一人の視点から描かれているわけではないが、コンプソン家に仕える黒人召使一家の女家長ディルシーが中心的な人物となっている。第一章から第三章まで読者は零落し崩壊寸前のコンプソン家の人々の内面をたどってきた。最後の章は一転長くコンプソン家を支えてきた黒人女が最後を見届ける役割を担っている。

 キャンダシーの娘クエンティンに対して暴言を吐くジェイソンに対して、唯一毅然とした態度でクエンティンを守るのがディルシーだ。また、彼女は息子のラスターにベンジャミンを教会へ連れていかせ、ベンジャミンに救いをもたらそうとする。教会で説教を聞いたディルシーは涙が止まらなくなる。見かねた娘のフローニーが泣くのをやめるよう制すると、ディルシーは次のようなことを言う。

「『おらは最初とそして最後を見ただ』とディルシーはいった。『おらのことは心配することはねえ』

『なんの最初と最後だかい?』とフローニーはいった。

『気にすることはねえだ』とディルシーはいった。『おらは、初めを見ただし、そして今終わりが見えるだ』」

 このような主語を省いた書き方は、何とでも解釈できるので、ディルシーが何を見たか断定することはできない。この会話の前にあの説教師は神の栄光が見えるという一節があり、文脈上、ディルシーの言う最初と最後は神に関わることだと考えられる。同時にディルシーが第四章での役割を示唆しているかにも受け取れる。

 ジェイソンは自分の部屋に隠し持っていた着服金をクエンティンに盗まれたことに気が付く。クエンティンは復活祭のために町に来ていた見世物小屋の芸人と盗んだ金を持って逃げ出していた。ジェイソンは車で彼女の行方を追う。

「(…)女に、しかも年もいかない小娘にまんまと出し抜かれた自分のことが思いうかんでくる。自分から金を奪ったのが男だと信じることができれば、まだしもだと思った。だが奪われた仕事のつぐないであるべき金を、あれほどの努力と危険をおかして得た金を、人もあろうに、仕事を奪った張本人に、あのあばずれ娘に奪われるとはなんたることだ」

 ここにジェイソンの思考の傾向がよく表れている。若い女に出し抜かれたことを何よりも恥だと考え、キャンダシーが銀行家の男と結婚することで得られるはずだった仕事と地位がキャンダシーの妊娠によって破産になったことを逆恨みしているのである。女性蔑視とひがみ根性。ジェイソンは「奪われた」というが、彼自身によって獲得されたものなど、初めからどこにもない。しかし、別の見方をすれば、ジェイソンの言うことにも一理あるかもしれない。彼はコンプソン家に生まれたときから、すでに「奪われた」存在なのかもしれない。

響きと怒り』という長編を通してかぎになるのはキャンダシーとクエンティンという二人の女の存在である。ぼくは彼女たちの存在を意識してこのレビューに「逃げ出す女」というタイトルをつけた。しかし、逃げたところで本質的な意味でこの圧倒的な崩壊のうねりから脱出できるわけではないだろう。せいぜい彼女たちの逃げた先で似たような目に合うのがおちである。いずれにせよ、フォークナーは南部の名家の零落を作中人物の内面から「罪」の問題として描こうとした。そこにあるのは崩壊へと至るプロセスではなく、崩壊の現場であり、その結果だ。あるのはコンプソン家の兄妹たちの苦悩ばかりなのである。

 本書の巻末に「つけたし」と題されたコンプソン家の人々を紹介する文がフォークナーによって書かれている。これはもともとマルカム・カウリーの『ポータブル・フォークナー』のために『怒りと響き』の梗概のつもりで書いた文ということだが、本書の訳者・高橋正雄が言うように「作者自身が書いたこの小説の補足的解説」となっている。その「つけたし」の「キャンダシー(キャディ)」の項には、非常に印象的なキャンダシーのその後と思われるイメージが描かれている。それはキャンダシーの同級生だった図書館員の女がジェイソンに持ってきた雑誌の切り抜きである。

「それは写真で、明らかにしゃれた大衆雑誌から切り取ってきたカラー写真で(…)山と棕櫚と糸杉と海のあるカンヌビエールが背景になり、強力で高価そうなクローム仕上げのオープンのスポーツカーと、豪華なスカーフをかぶりあざらしのコートをまとった、帽子をかぶっていない女の顔が写っており、その顔は老いを知らない美しさで、冷たく落ち着きはらい、だが呪われており、その女のわきにはドイツの幕僚のリボンと衿章をつけた中年のやせているが立派な顔をした男が立っていた」

響きと怒り』は馬車に乗って家へ帰る途中のベンジャミンの「むなしく青くすき通」った目という美しくも呪われたイメージで終わるが、この「つけたし」に描かれたキャンダシーの呪われた美しさもまた鮮烈な印象を残す。「救い」などという半端なものの介在する余地のない小説。これを描き切ったフォークナーの力業に圧倒された。

ジョー、メグの結婚にうろたえる オルコット『若草物語』

 

 オルコットの『若草物語』を読んでみようと思ったのは、映画『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』(2019)を見たから。その映画には四姉妹の姿がいきいきと描かれていた。喜び、悲しみ、あこがれ、恋、嫉妬、挫折…。さまざまな感情が彼女たちの中を通り過ぎていく。それに感動したという話を女友達にしたら、その感動には偏見が含まれてないかと言われて、なるほど、そうかもしれないと思った。自分の中にステレオタイプの少女像があったことは否めない。そもそも読書体験からして違う。『若草物語』だけじゃない。『赤毛のアン』も『あしながおじさん』も読んでない。

若草物語 第一部』(本書『若草物語』に該当)は1868年、オルコット36歳のとき出版された。長女メグ(マーガレット)16歳、次女ジョー(ジョゼフィーン)15歳、三女ベス(エリザベス)13歳、四女エイミー12歳の四姉妹の一年の物語。責任感が強く、働き者のメグ、作家志望でお転婆のジョー、内気で心優しいベス、甘えん坊でちょっとわがままなエイミー。オルコットはこの半自伝的な物語で、様々なエピソードを通して、四姉妹の成長を描いていく。

 一方で訳者麻生九美の「解説」にもあるように、当時はピューリタン的な道徳観、宗教観が支配的であり、『若草物語』もまた、そうした宗教観、道徳観を共有している。男性支配が色濃い厳格な道徳観が彼女たちの日常の一部であったのもまた事実だ。しかし、オルコットが描く『若草物語』では、宗教観や道徳観といった当時の常識に作中人物がとらわれるのではなく、それらが彼女たちの日常にあったから描かれている、そんな印象を受ける。父親が南北戦争の従軍牧師として戦地に赴き、家庭に不在であることも『若草物語』における家庭がのびのびとした雰囲気にあふれる理由のひとつだ。

 第十一章「実験」では四姉妹が一週間の間、仕事は何もせず、ただだらだらと遊んで暮らそうという「実験」を試みる。この多分に教訓的なエピソードは、だれもが想像するとおり、彼女たちは退屈と不便で音を上げ、労働や勉強の大切さを実感するという結末を迎える。しかし、その一方でこのエピソードは四姉妹に家庭にいる限り、ぜいたくな「退屈」、つらいことも、はずかしいことも、くやしいこともない、そんな「退屈」を与えてくれる場所だということも物語っている。

 このように考えると、『若草物語』は「家庭」という場をめぐるうちとそとのお話のようにも読める。外には彼女たちを恥ずかしがらせたり、恐怖に陥れたり、悔しがらせたりして打ちのめす「外敵」が実にたくさんいる。第六章「壮麗な宮殿」でベスは憧れのグランドピアノを弾くため、お隣の屋敷を訪れる。屋敷の年配の主人ローレンス氏はいちばん恐ろしい「ライオン」だった。ベスはその関門を通過しないといけない。

 第九章「メグ、虚栄の市へ行く」では、メグが上流階級のモフェット家のパーティーに招待される。気後れしながらも精一杯のおしゃれをして出かけて行ったメグはそこでみすぼらしい服を着た貧しい娘がお金持ちの結婚相手を物色に来たのだと思われて、屈辱にまみれて帰ってくる。メグを慰めようとした母親はお金や家柄より、大事なのは愛情だということを言って聞かせ結婚の尊さを説く。すかさずジョーは「結婚なんかしなくてもいい」というが、「すばらしい男性に愛され、妻に選ばれるのは、女にとって一番幸せなこと」という母親の言葉は結婚に対する当時の価値観を表しているし、その価値観を信じている保守的な人たちは今でもけっこう多いんじゃないだろうか。

 第一九章「エイミーの遺言」では、猩紅熱にかかったベスからの感染を避けるため、エイミーが大の苦手にしているマーチ伯母の屋敷で一人過ごすことになるというエピソード。マーチ伯母は保守的な価値観の権化のような存在で、エイミーをうんざりさせ、「恐ろしいクモの巣にかかったハエのような気分」にさせる。末っ子のエイミーはいかに自分が愛され、甘やかされていたかに気付く。

 作者オルコットの分身で、いちばんお転婆なジョーだけがこうした外の世界とのイニシエーション的な出会いが描かれていない。彼女はローレンス氏やマーチ伯母とも対等に渡り合うし、隣の少年ローリーを家族ぐるみのおつきあいに誘い込んだのも彼女だ。瞬間湯沸かし器のようにかっとなって自分をコントロールできず、たびたび大げんかするが、そのことはここでいう大人への関門とは異なる。結局のところ、彼女だけが、本当の意味で「家庭」をつらいところだと感じていたのかもしれない。作家志望の彼女が書き溜めていたノートをエイミーに燃やされてしまったとき、なんだかこの人だけが外ではなく「家庭」に敵がいるなと感じておかしくなった。

 訳者の「解説」によると最後のメグの結婚に関するエピソードは当初予定されておらず、編集者の求めに応じて書かれたそうだ。少し早い気もするが、メグが結婚という形で「外」に踏み出していくのはとても納得がいく。彼女は物語の初めからピューリタン的価値観が求める「良妻賢母」型の女性に近かった。そして、それに一番うろたえたのは誰あろうジョーだったのである。

「あたし、この結婚に賛成じゃないんだ。でも、がまんすることに決めたから、反対だなんて、一言も言わない」

 ジョーが、ジョーのような価値観を持った女性が、だれにうしろめたさを感じることなく生きられる時代は来たのだろうか。少なくともオルコットが『若草物語』を書いていた時代は、そうではなかった。オルコットは時代を先取りしていた。フェミニズムの嚆矢と言われるゆえんである。

ロカンタンの冒険 サルトル『嘔吐』

 

『嘔吐』は1938年、サルトルが33歳のとき、刊行された。刊行時期は第二次世界大戦の開戦前年だった。戦後、サルトルが文学のアンガージュマン(社会参加)を唱える前のことであり、本書に関する作者の態度も変化したことが、訳者白井浩司の「あとがき」にも言及されている。サルトルは小説、劇作、哲学、評論などの分野で幅広く活躍した文学者で、本書もまたサルトルの思想と切り離して考えることはできない。前掲「あとがき」によるとボーヴォワールの著書『女ざかり』にはサルトルの意図は「形而上的心理と感情とを、文学的形態の下に表明すること」だっとあるそうだ。しかし、残念ながら、僕は哲学とか現代思想が勉強不足で(もしかしたら勉強しても?)わからない。なので、このレビューはあくまで『嘔吐』を一小説として読んだ読後感である。

『嘔吐』の主人公ロカンタンは「中部ヨーロッパ、北アフリカ、極東方面」を旅行して、帰国。18世紀の冒険家ド・ロルボン侯爵に関する本を執筆するためブーヴィルに滞在している。ブーヴィルでのロカンタンの生活範囲は狭く、自宅、図書館、カフェ、ビストロ「鉄道員さんの店」、日曜日の散策などに限られている。彼は「仕事」と呼んでいる執筆は遅々として進まない。「鉄道員さんの店」では、いつも同じ「いつか近いうちに」というタイトルのレコードを聴く。ときどき店の女将さんと二階へ上がっていくし、かつての著作で図書館で出会う男(独学者)から尊敬されたりもする。思わず、いい身分だなどと言いたくなるが、こうした一見静かな生活を送っているロカンタンという男の精神は、あるいは世界は、静かに壊れ始めている。

 仕事への情熱を失いかけているロカンタンは、ただ夜を待ち、カフェへ出かける。店に入ったとき、吐き気が彼を襲う。

「そのとき〈嘔気〉が私をとらえた。私は腰掛けの上に崩折れるように腰を下ろした。自分がもうどこにいるのかさえわからなかった。私は、周囲をいろんな色彩がゆるやかに渦を巻いて流れるのを眺めていた」

 吐き気とともに感覚の歪みも生じており、吐き気はロカンタンの「世界」が壊れかけていることを告げる予兆として機能している。その後、彼は街路で、公園で、レストランで、電車で吐き気に襲われた。そして、ロカンタンは考察する。

「〈嘔気〉は私から離れなかったし、それがすぐに離れるだろうとも思わない。しかし、私はもう嘔気に襲われまい。嘔気とは、もはや病気でも、一時的な咳込みでもなく、この私自身なのだ」

 僕はさっきロカンタンの世界が壊れ始めていると書いた。しかし、厳密に言うならロカンタンの体験は崩壊と現前が同義であるような特異な体験である。上の引用のあと、麻薬中毒患者の見るような幻影がロカンタンの前に現れる。彼はその幻影をこういった。

「赤裸々な〈世界〉は、かくて一挙に姿を現した」

ロカンタンは一体何に苦しんでいるのだろう。

ロカンタンが図書館で知り合った男にかつての旅行について語る場面がある。

「あなたはたくさんの冒険を経験なさったでしょうね?」

「多少は経験したですよ」

このように口では言ったものの、このあとロカンタンは考える。

「わたしは冒険を経験しなかった。(…)私は、いまようやく、わかりかけてきた。いつもなにごとかを、それだけをなによりもたいせつにして、今日まで暮らしてきた―(…)それは恋愛ではなかった。(…)また名誉でも、富裕になることでもなかった。それは・・・。結局、ある瞬間に、私の生活が稀有な貴重な特性を持つことができる、と思い込んでいたのだ」

特別な瞬間を意味する言葉は『嘔吐』において何度となく繰り返される。この瞬間の特権性をかつてロカンタンは「冒険」の中に求めた。しかし、その瞬間がもはや決して訪れることなく、完全に失われてしまったのだという認識が『嘔吐』という小説の出発点だと言っていい。

1913年から1927年にかけて刊行されたプルーストの『失われた時を求めて』が主人公「私」にとってかつて存在したはずの特権的時間をあきらめきれず探し求める小説だとするなら、その特権性を完全に奪われたという認識から始まる小説が『嘔吐』だと言えるだろう。冒険はもうない、と言えばそれは老人の繰り言にすぎない。しかし、たったひとりで行われるロカンタンのブーヴィル彷徨こそ、もう一つの「冒険」にほかならない。たぶんこの冒険の先駆者はカフカだ。しかし、ロカンタン(サルトル)もまた、ここから始めざるを得なかったのだろう。

 ロカンタンがかつての恋人アニーと再会し、そこにかつて愛したアニーを見出すことができなかったのは、ある意味当然で、彼の過酷な「冒険」を側面から補強する一挿話だろう。冒険の困難は、それが行われているとき、それを認識し、意味づけることばがないことだ。サルトルはロカンタンの「手記」という形でこれらの「冒険」の記述を試みたが、それが「文学的形態」であっても「物語」ではなかった。

 ブーヴィルを立ち去ることを決めたロカンタンは最後に「鉄道員さんの店」を訪れ、お気に入りの「いつか近いうちに」を聴く。その曲、歌声を聴きながらロカンタンは一冊の小説を書くことを夢想する。この夢想のきっかけを作ったのは、彼のお気に入りの歌声だったかもしれない。しかし、ブーヴィル彷徨といういまだ名づけえぬロカンタンの冒険こそが小説を書いてみようかという気にさせたにちがいない。

観念と行為の間 三島由紀夫『金閣寺』

 

金閣寺』を読んで思ったのは、それぞれの時代を象徴する事件や出来事があるということだ。今年(2022年)で言えば、7月に起きた安倍晋三銃撃事件とその後、「国葬」に至るまでの一連の出来事ではないだろうか。

 そうした事件は、事件を受け取る側に当事者意識を持たせることがある。罪悪感といって悪ければ、他人事ではないという思いである。あるいは、もう少し広く観念と行為の不幸な交点を見出して動揺するとでも言えばいいのか。

仮面の告白』で三島由紀夫は純粋であるが故に、欺瞞という鎧をまとわざるを得ない主人公を描いたが、『金閣寺』の溝口(「私」)は鎧をまとうことさえできない不器用な男で、自分と世界との距離を測りかねている。そこでは、つねに行為に先立つ肥大した観念が存在している。

 1950年に起こった金閣寺放火事件に材を取った小説『金閣寺』が『仮面の告白』と同系列の青春小説の集大成である以上、事件から三島が受けたショックは上に書いた当事者意識に似た感情だったのではないかと想像する。行為に先行した観念が行為をゆがませる。『仮面の告白』ではその焦点は内的な問題にあったが、『金閣寺』では、身体的な障害と金閣寺という現実に存在するものでもあり、象徴的なものでもあるという二重性を帯びていることが重要だ。

「何よ。(…)吃りのくせに」

 主人公の溝口(「私」)は少年時代から繰り返しこういう言葉を浴びせられてきた。その結果「吃りは、いうまでもなく、私と外界とのあいだに一つの障碍を置いた」。一方で溝口は僧侶である父親から金閣寺の美しさについて聞かされていて、それはいつの間にか一つの観念として溝口の心に定着していった。

 溝口は父親の口利きで金閣寺鹿苑寺)で修行生活に入った。その当時の友人に鶴川と柏木がいた。鶴川は屈託のない快活な性格で、溝口と他者をつなぐ存在に見えたが、東京の実家に帰省中に事故死した(のちに自殺であったことがほのめかされる)。柏木は溝口が進学した大谷大学で知り合った学友で、両足に障害があり、彼の歩行は全身が躍動し、一歩一歩が「仰々しい舞踏」のようだった。シニカルで毒舌家の柏木は、自らの障害を利用するような形で女と知り合い、意のままにする術を心得ていた。柏木は鶴川の屈託のなさとはまた異なるしかたで世界と交わる方法を会得していたのである。

 肉体的な属性が世界との関係を決定づけるという意味では溝口も柏木も似たような経験をしていたかもしれないが、折り合いの付け方において、柏木は溝口よりずっと達観していた。もっとも象徴的なのが女と肉体関係を持つ場面だ。柏木がすでに複数の女と肉体関係を持っていたのに対して、溝口は女といざ関係を持とうとすると、金閣の幻影を見る。あたかも金閣が自分への忠誠を忘れて女を抱こうとしている溝口に嫉妬でもしているかのような場面だが、要は吃音のために言葉という鍵が錆びついて外界との扉を自由に開けることができないだけのこと。自分の怯えを幻影に仮託しているとしか思えない。

 戦中、いつ空襲を受けてもおかしくないという状況で、金閣寺はそのはかなさ故輝いて見えたとあるが、戦争は金閣寺を焼失させる可能性を担保してくれていたわけだ。いっそのこと、何もかも戦争で焼けてしまえば、戦後の溝口の観念との葛藤も起こらなかったのかもしれない。しかし、京都は焼けなかった。これはあくまで想像だが、もし戦後GHQが行った一連の改革や東京裁判で、天皇制が改革の対象になっていたら、戦争責任を問われていたら、三島にとっての「金閣」は天皇以外の何かになっていたのだろうか。

「『私は行為の一歩手前まで準備したんだ』と私は呟いた。『行為そのものは完全に夢見られ、私がその夢を完全に生きた以上、この上行為する必要があるだろうか。もはやそれは無駄事ではなかろうか」(第十章)

 しかし、彼は行為に及んだ。金閣は炎上し、焼失した。三島由紀夫がこの小説を書かなければならなかった理由もなんとなくわかる。三島にはきっとフィクションという形で行為ではなく、観念を生きる必要があったのだ。それで「青春」には決着をつけられたのかもしれない。しかし、もっと大きなもの「戦後」とか「近代」といった観念との戦いにおいては、「行為」という「無駄事」に及ばざるを得なかったのだろうか。