Hatena::ブログ(Diary)

とらおの読書日記

2017-10-07

日常のラベルをはがす 尾辻克彦『肌ざわり』

肌ざわり (河出文庫)

肌ざわり (河出文庫)

 何となくテレビを見ていたら、赤瀬川原平が出ていた。蟹の缶詰のラベルをくるりとはがし、それを缶の内側に貼る。再びふたを閉じる。それで「宇宙の缶詰」の完成である。「蟹缶の宇宙」。椅子やかばんなどを丸ごと包み込む梱包芸術の延長線上に出てきたというが、一瞬にして蟹缶が宇宙に変わるめまいのような快感と衝撃を今も忘れない。ハイレッドセンターを名乗った前衛芸術時代から、トマソン新解さん老人力など世間を驚かせてきた発想の根底にあるのは、視点を変えること、あるいは、価値の相対化である。赤瀬川原平の手にかかると、見慣れているはずのものが、蟹缶のラベルがくるりとはがれるように別の側面を見せる。
『肌ざわり』はそんな発想の天才赤瀬川原平尾辻克彦名義で書いた最初の短編集である。表題作「肌ざわり」「虫の墓場」「闇のヘルペス」など七つの連作短編が収められている。小学生の娘胡桃子と「私」。父子家庭の穏やかな日常を描く短編、とひとまずは言っておこう。要約するなら、初めての散髪屋はドキドキする(「肌ざわり」)、目に虫が入った(「虫の墓場」)、熱が出て唇がブクブクに腫れちゃった(「闇のヘルペス」)という日常の一コマでしかないものが、読み進むうち、日常の裏側になっている。見慣れないものになっている。赤瀬川自身があとがきに書いているように、ここにいわゆる「純文学」的なステロタイプに対する冷やかしがあるのは間違いない。
 しかし、赤瀬川原平が書こうとしたのは、価値の転倒、くるりの快感だけではない。尾辻克彦という小説家がともすれば暴走する美術家をしっかり監視している。小説の中でその役割を担っているのは、胡桃子だ。「ぶー、何それ、お父さん」「お父さん、おかしいよ」。「目に虫が入った」を「目が虫に入った」といって一人おもしろがっているお父さんに適切なツッコミを入れてくれる。こんな風に日常は裏返ったり、また元に戻ったりして進んでいく。
胡桃子という作中の焦点がもう一つ作品にもたらしたのが、時間である。記憶と言ってもいい。胡桃子というときにかしこく、ときに無邪気な生き物を横目に見ながら、「私」は言いにくいことを少しずつ口にするようになる。読み始めて、すぐにあれっと思ったのは、母親への言及が全くないことだった。「虫の墓場」で「泣きながら人の頬をぶったことがある」と言った「私」に胡桃子が「それ、女の人なの?」と聞く場面がある。「それ、お母さんなの?」ではなく「それ、女の人なの?」。
私小説に代表される近代文学の肝は「母親」である。それを故意に避けているとしか思えない書きぶりで、純文学屋根裏や縁の下から眺めようという試みに、「母親」が出てこないのはともかく、言及もされないのは徹底していると驚いた。それが、そうではなかったのだ。日常をくるくる回転させておもしろがっている「私」にも、絵学校の教師という仕事があり、離婚の過去があり、70年代の政治の季節の熱狂を過ごした人間の挫折がある。つまり、転倒も回転もしない日常が「私」に重くのしかかっているのだった。そうした事実が連作短編の後半、乾いたタッチではありながらもポツリ、ポツリと語り出される。
「内部抗争」に描かれる自転車の後ろに胡桃子を乗せたまま、うちへ帰らないことを決意する「私」の姿は、『肌ざわり』という短編集が蟹缶のラベルをはがすことばかり考えている前衛芸術家が後ろへ引っ込んで、小説家尾辻克彦が誕生した瞬間でもある。「牡蠣の季節」「冷蔵庫」という最後の二篇に登場する森一馬なる人物の「現在、左翼はどうなっているのでしょうか」という切実で、それでいて滑稽な問いかけは、そのまま前衛芸術家としての赤瀬川原平が「前衛」を「日常」の中に見失ってしまった思いを引き写しているにちがいない。そうした挫折と悔恨の重みを、ヤクザに殴られるというエピソードや、ぐにゃりとした牡蠣に託したりするのは、もうこれは手法としてオーソドックスな小説的手法そのままである。これに新鮮味はない。ないけれど、胡桃子と一緒にくるくる回る日常の裏側を覗いたり、触ったりしているうちに、重いものが出てきてしまうというのは、胸に迫るものがある。
 そういう意味で、『肌ざわり』は、日常の裏側からその重みを描く、実に手の込んだ短篇集で、意外に小説しているのだった。

2017-10-01

神話としてのベースボール ラードナー『ラードナー傑作短篇集』

 野球というスポーツが好きだ。ベースボールではなく、野球。その昔、藤井寺球場という球場があって、近鉄バファローズというチームがあった。ぼくはそこで野茂も松坂もイチローも見たのだ。内野席で観戦していたとき、まだ試合中だというのに、山本和範というこわもての顔つきの選手が観客席の通路にしゃがんで客と楽しそうに談笑していた。あれは見間違いだったのだろうか。いくら藤井寺球場は選手と観客が近いといっても、試合中に選手が客席にしゃがんでるなんてことがあるだろうか。
 その後、野茂を皮切りに、松坂もイチローも海を渡って、ベースボール・プレーヤーになった。近鉄バファローズというチームはなくなった。野茂ドジャースに入団したのが1995年。その頃初めてベースボールを意識した。青い空と芝生。今にも第一球を投げようと大きく振りかぶる投手。ザ・グレイト・ジャズ・トリオのアルバム『アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』のジャケットを思い出してもらってもいい。とんでもなく体のでかい奴らがブンブンバットを振り回し、ピンポン玉のようにボールが飛んでいく。そんなところへ野茂は単身乗り込んでいった。
 さて、ようやくラードナーである。野茂メジャーリーグへ行く70年も前、野球を中心としたスポーツのコラムニストから作家になったラードナーは、野球物を書くユーモア作家として1920〜30年代大人気だったようだ。ワンプレーごとに言い訳しないと気が済まない「アリバイ・アイク」、野球そっちのけで合唱に夢中の「ハーモニー」、持ち前の剛速球が女との関係に左右される「ハリー・ケーン」などは、確かにユーモア短編と言えるものだが、打撃に天賦の才を持ちながら、自分本位にしか行動できず自滅する「相部屋の男」、野球物ではないが、アメリカの日常に潜む暴力性がギラリと光る「散髪の間に」に至っては、むしろ怪奇短篇といったほうがいいような気がする。
「この店にはもうひとり理容師がいましてね、土曜だけカーターヴィルから手伝いにくるんですが、ほかの日はあたしひとりで間に合うんでさあ。ご覧のとおり、ここはニューヨーク市とはちがいますからね、それに男はみんな一日じゅう働いておりますから、ここにきてめかしこむ暇なんかありゃしないんでさあ」(「散髪の間に」)
 饒舌な語りの文体の中に共通して登場するのは、ありあまるほどの才能を持ちながら、それを効果的に発揮することができない極端に不器用な男たちである。うすのろであったり、狂暴であったりする作中人物たちが、あんな奴がいたんだぜ、こんな話があったんだ、信じられるかなんて、噂される。そんな噂は伝説になり、神話にになる。きっと読者はそのようにしか生きることのできない作中人物たちの中に自分の姿を見出すにちがいない。マスコミにも身をおいたラードナーが当時のリアルなアメリカ人像を市井の人々が噂話でもするかのように語ってみせた。その背景に原風景としてベースボールがある。
※ぼくが読んだのは福武文庫版『ラードナー傑作短篇集』。訳者は新潮文庫と同じだが、収録作は本文で言及したもののみ新潮文庫版と共通新潮文庫版のほうが収録作が多い。短編の表記は福武文庫版によった。

2017-09-30

19世紀娯楽小説のすごみ ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』

ライ麦畑でつかまえて』の冒頭、ホールデンは自分の幼少期はどうだったとか、自分が生まれる前、両親は何をしていたかとか、そんなデイヴィッド・コパフィールドみたいなことは言いたくないと言っている。きっと、そうだろう。ホールデンが語るのは、学校を退学処分になって戻ってきたニューヨークをさまよう数日のことだから。本人の誕生から成人までを事細かに語る『デイヴィッド・コパフィールド』の主人公は、そんなこと思いもよらないにちがいない。
 新潮文庫で四分冊、岩波文庫で五分冊にもなる長編小説『デイヴィッド・コパフィールド』。主人公デイヴィッド・コパフィールドの幼年期から作家として大成し真実の愛を見つけるまでを描くディケンズの自伝的要素の強い長編で、ディケンズ自身、文庫解説によると数ある作品の中で最も好きな作品だと言っているらしい。しかし、読み始めてわかるのは、「自伝的」といった表現でくくることのできない娯楽小説のあらゆる要素がこれでもかと詰まっていること。特にすごいのは、作中人物のキャラのと多彩なこと。卑屈で奸智に長けたユライア・ヒープ、かわいくて頭がからっぽのドーラ、不器用だけど人の好いトラドルズ、才色兼備でしかも優しいアグニス、貧しいながらも紳士のプライドを捨てないミコーバー、無知と弱さにつけこんで人を支配する冷酷なマードストン姉弟、頭は弱いが心優しいミスタ・ディック、きれいで優しくて世間知らずの母親クララ、気が強く偏屈だが、曲がったことが許せないトロットウッド伯母、武骨で素朴だが、頼りがいのあるミスタ・ペゴティー、天使のような美少女エミリーなど、読み終わった今でもなつかしい知り合いのような気持ちで思い出す。
 中でもデイヴィッドの寄宿学校時代の先輩で、学校一のイケメンで成績抜群、冷酷なサディスト校長クリークルさえも一目置く存在、スティアフォースは忘れられないキャラである。学生たちの憧れの的で、実際に彼を目にすると誰もが好感を持たずにはいられない魅力を持っている一方で、中身がからっぽで、おそらく何をしていても実感をともなわない、そういう思いが彼をつねにいそがしく何かに駆り立てていた。生の実感とでも言うべきものが何に由来するのか、スティアフォースはわかっていたようにも思う。あるとき、めずらしくふさぎ込んで憂鬱そうなスティアフォースはデイヴィッドにこうこぼす。「デイヴィッド、僕は、この二十年ほど、ちゃんとした父親がいてくれればよかったろうにと、ほんとうに思うな」「つまり、僕という人間は、もっと指導が必要だったんだよ」
父親」の不在は、彼に抑制や倫理を学ぶ機会を与えなかった。スティアフォースは癇癪を起して投げつけたハンマーによって、相手の女に一生消えない顔の傷を負わせたことがある。そんなスティアフォースの突発的な行動は、大人になっても治まることはなかった。物語の中盤でスティアフォースが引き起こす事件は、大小様々な出来事が連鎖する『デイヴィッド・コパフィールド』中、最大の出来事であり、デイヴィッドをはじめとする多くの作中人物に悲しみや憎しみの傷を残すことになった。
『デイヴィッド・コパフィールド』を世界十大小説の一つに挙げているモームは、新潮文庫の解説(中野好夫)によると、デイヴィッドの性格の一貫性のなさを指摘しているという。確かに『デイヴィッド・コパフィールド』をいわゆる教養小説ビルドゥングスロマン)として読むなら、前半の幼少期の受難はともかく、伯母に庇護されてからは、あれよあれよと成功の道を歩むのは、物足りないというより不自然な感さえある。特にデイヴィッドが小説家として成功するくだりは、いつの間にか小説家になってたという拍子抜けな感じだ。しかし、デイヴィッドという主人公の存在は、多様なエピソードをつなぐ接着剤のようなもので、彼自身は、さほどの見識もなく、価値判断もしない。だから、性格の一貫性がないのは仕方がないなと思った。
『デイヴィッド・コパフィールド』は、物語の中に起こる数々の出来事を楽しむ小説なのだ。この小説がすごいのは、今の作家ならこれで本を一冊書いたなと思えるようなネタを(ユライア・ヒープのルサンチマン、スティアフォースの空虚感、マードストン姉弟の洗脳と寄生ミスタ・ペゴティーの執念などなど)惜しげもなく、ばらばらとばらまいていくおもしろさというか、これをこんな感じで済ませてしまうんやという驚きというか、ここにあるのは主題化という形で洗練される前の読み物、読者は退屈を持てあまし、長くておもしろいものを求め、作者は全力でそれにこたえるという、そんな19世紀小説の余裕とすごみを感じるのである。

2017-09-25

さよならを言うのは難しい レイモンド・チャンドラー『長いお別れ(ロング・グッドバイ)』

「おれたちにはパリがある」
映画『カサブランカ』のハンフリー・ボガードのセリフだ。抵抗運動の指導者である男は、ナチの手を逃れ、仏領モロッコにやって来る。そこでアメリカ行きの機会をうかがうのだ。男はモロッコでボギーの経営するナイトクラブに現れるが、男の妻(イングリット・バーグマン)は、かつてパリでボギーと愛し合った元恋人だった。再燃する恋心。アメリカ行きをためらうかつての恋人を説得するために発せられたのが、冒頭のセリフ。かつてパリで愛し合った日々がある。それがあれば、生きていくことができる。これは過去、あるいは、失われたものとのとてもいい関係性である。
 レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ(ロング・グッドバイ)』を読んでつくづく思ったのは、さよならを言うのはとても難しいということだ。テリー・レノックスは、かつての妻に再会したとき、ボギーのように言うことができたろうか。答えは否である。互いに損なわれたうつろなう入れ物でしかない人間には、過去にお別れを言うことなんてできない。彼らは過去に乗っ取られた亡霊なのだ。
 私立探偵フィリップ・マーロウが初めてテリー・レノックスに出会ったのは、レストランの駐車場で、レノックスは酔いつぶれていた。「顔は若々しく見えたが、髪は真っ白だった」。マーロウは、連れの女に置き去りにされた「顔に傷がある白髪の青年」レノックスを「迷子の犬」を拾うようにして、自宅に連れて帰り介抱した。
 普通はレストランの駐車場で偶然出会った酔っぱらいを自宅まで連れて行って面倒見てやるようなことはしない。つまり、二人が出会った時から普通でないことが起こっているということだ。その後、レノックスとはたびたび会って、バーで飲む関係になったが、そんなある朝、取り乱したレノックスがマーロウ宅に現れ、メキシコ行きの飛行機に乗るため、空港まで車で連れていくことを要求する。レノックスを空港に送って帰って来るとすぐマーロウは警察に拘束され、レノックスの行方について尋問される。数日の拘束ののち、解放されたときマーロウはレノックスが妻シルヴィアを殺害したことを告白する手紙を残して自殺したことを知らされる。この結果に納得できないマーロウは真実を探ろうとするが、殺されたシルヴィアは富豪ハーラン・ポッターの娘であり、各方面からこれ以上事件に深入りするなという圧力がかかる。そんな折、ベストセラー作家の妻アイリーン・ウェイドからアルコール依存症の夫ロジャー・ウェイドの行方を捜してほしいという依頼が入る。これはシルヴィア・レノックス殺害事件とは別件と思われたが…。
 まず言いたいのは、『長いお別れ』が推理小説としてとてもよくできた小説だということだ。ぼくがこの本を最初に読んだのは学生時代だったような気がするが、今回再読して思ったことは、自分は何もわかってなかったということ、『長いお別れ』をよくできた推理小説以上のものとして捉えていなかったということだ。村上春樹は『騎士団長殺し』で免色という白髪の作中人物を描いた。これはもちろんテリー・レノックスという人物が反映しているわけだが、両者に共通して言えるのは、現在を生きることができなくなってしまったということだろう(村上春樹に関していえば、小説の構成から文体に至るまで、彼がいかに『長いお別れ』に影響を受けているか、今さらながらよくわかった)。
 最初に書いたように過去に乗っ取られた亡霊とどのように決着をつけるかというのが、『長いお別れ』の主題である。マーロウはレノックスを正しくあの世に送らなければならない。そして『長いお別れ』はさよならを言うまでの格闘の記録である。ロバート・アルトマン監督の映画『ロング・グッドバイ』は、原作とは全く違う結末を用意しているが、ロバート・アルトマン一流の解釈としてとても納得がいくものだ。

2017-09-24

迂回の果てに カズオ・イシグロ『充たされざる者』

充たされざる者 (ハヤカワepi文庫)

充たされざる者 (ハヤカワepi文庫)

 カズオ・イシグロといえば、各国でベストセラーになった『わたしを離さないで』を思い出す人も多いだろう。あるいは、ブッカー賞受賞作『日の名残り』。ぼくは本書『充たされざる者』以外では『日の名残り』と『わたしたちが孤児だったころ』を読んだことがあるだけだが、その二作を読んで、カズオ・イシグロは、まあもう読まなくてもいいかなと思っていた。どっちも小説としての完成度が高い。でも、端正な文体の中に生きることにともなう罪のようなものを暴く主題がどうも割り切れすぎる気がしていた。
『充たされざる者』は『日の名残り』と『わたしたちが孤児だったころ』の間に書かれた長編第4作にあたる。保坂和志エッセーで『充たされざる者』をほめていたことがあって、その意外性から読んでみようという気になった。
 世界的ピアニストライダーはとある欧州の都市にやって来た。「木曜の夕べ」という催しで演奏するためだ。ところが、ライダーは「木曜の夕べ」がどのような催しなのかもわかっておらず、演奏曲目さえ決まっていない。イベントに関わる人々の言動から「木曜の夕べ」は、その街の命運を左右する重要な催しだということはわかってくるが、ライダーの名声を頼んで、様々な人々が思いもよらぬ頼み事をしてくるので、ライダーは演奏に集中することができず、会場を下見することさえままならない。
 と、このようにあらすじを書くと当然思い出されるのがカフカの『城』である。ある冬の夜、城から仕事の依頼を受けた測量士を名乗る男Kが城のある村にやって来るが、一向に城にはたどり着けず、ただ迂回を重ねるばかり。目的(地)が示されているのに、それにたどり着けないという構造は迂回そのものが主題になるので、とにかく長くなる。『充たされざる者』は文庫で900頁を超える。問題は、何を迂回しているのかということだ。
 読み進むにつれてわかってくるのは、ライダーという語り手が全く信用できないということだ。例えば、ライダーが滞在するホテルのポーターのグスタフは、ライダーに関係が悪くなった自分の娘との関係修復に一役買ってほしいと頼み込む。ホテルのポーターと偶然の客の関係でしかないはずのライダーになぜそんな立ち入った頼みごとをするのか、いぶかしく思いながら読んでいると、どうもライダーとグスタフの娘ゾフィーはかつて何らかの関係があったようなのである。いつの間にかあたかも二人は恋人か夫婦であるかのように話が進んでいる。
 肝心なことは、ゾフィーとの関係やかつてあったいざこざをライダーがすっかり忘れているということである。あるいは、ライダーにとって都合の悪いことは故意になかったことにされている。ここで生じる迂回は、忘却、故意の知らぬふりに起因するものだ。もちろん、忘却や知らぬふりがいつもうまくいくわけではなく、むしろそうした態度がライダーを不意に襲うトラブルを誘発することになる。いくら見ないようにしても、都合の悪いものがなくなるわけではない。
 一見、親切で非の打ちどころのないライダーという人物は現実を都合よくより分けることで自分を紳士として成り立たせている。となれば、こういう視点人物による小説がリアリズムであるはずはなく、小説世界の時間や空間は大きくゆがめられ、旧市街の古いカフェとホテルがつながっていたり、ゾフィーゾフィーの息子ボリスとライダーの3人で歩いているはずなのに、いつの間にかゾフィーだけがどんどん先へ行ってしまって、ボリスとライダーが夜の街に取り残されたりといったことが次々に起こる。
 もう一つ特徴的なのは、ライダーゾフィーの関係に限らず、いく組みもの夫婦、恋人、親子といった関係がうまくいっていない二者関係、あたかも鏡で映したかのような相似形が、物語の中に配置され、それらが共鳴し合う(といってもそれらは不協和音だが)。コミュニケーションが断絶している冷え切った関係が複数描かれることにより、作中人物たちの抱えている取り返しのつかない悔恨が露わになっていく。作中人物たちが個人の悔恨を紛らすための手段として、街や仲間の名誉といった集団的なものにアイデンティティを見出そうとしているのも実に気持ちが悪い。文庫の「訳者あとがき」で、『充たされざる者』は「ブラック・コメディーとして書いたもの」というカズオ・イシグロのことばが紹介されているが、だとすれば、救済のない不条理な世界をここまで徹底して笑った小説も珍しい。