カルヴィーノの古典案内、あるいはhide-behind イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』

「1 古典とは、ふつう、人がそれについて、『いま、読み返しているのですが』とはいっても、『いま、読んでいるところです』とはあまりいわない本である」
 カルヴィーノは本書『なぜ古典を読むのか』において、まず、古典の定義から始める。定義は全部で14(!)ある。最初に引用したものの他に、たとえば次のようなものがある。
「5 古典とは、初めて読むときも、ほんとうは読み返しているのだ」
「9 古典とは、人から聞いたりそれについて読んだりして、知りつくしているつもりになっていても、いざ自分で読んでみると、あたらしい、予期もしなかった、それまでだれにも読まれたことのない作品に思える本である」
「10 古典とは古代の護符に似て、全宇宙に匹敵する様相をもつ本である」
すでに出会ったことがあるような気がし、同時に予期せぬ発見があり、結局のところ、そこに「宇宙」ともいうべき世界がある。とはいえ、カルヴィーノはいたずらに古典の敷居を高くしたいわけではない。「古さ、文体、権威などの特徴がなくても『古典』という言葉を用いることは認めてもらえると思う」というように「『自分だけの』古典」を夢想したりもする。
ホメロスの『オデュッセイア』、オウィディウスの『変身譚』といった紀元前の古典から、ヘミングウェイボルヘスら20世紀の文学まで。ここに集められた文章はカルヴィーノが主に文学叢書の「まえがき」として書かれたものだ。『木のぼり男爵』や『冬の夜ひとりの旅人が』などで20世紀文学に特異な位置を占めるカルヴィーノらしい独特の切り口や読みの深さに驚かされる。しかし、文庫版の解説を書いた池澤夏樹がいうような「おそろしく有能」な古典の案内人なのかというと、ちょっと疑問がある。書かれた時期も長さも文体もばらばらな文章は、ときにごつごつとした岩のように読者の行く手をはばむ。「訳者あとがき」に須賀敦子は「刈り取った麦わらのなかにかがやくヤグルマソウの青のように、むねがときめく思考があちこちにきらめいていて、ときには壁にぶつかって投げ出しそうになりながらも、つぎの『青』との出会いをもとめて」翻訳したと書いている。
 ぼくがこの本を最後まで読み通すことができたのは、まさにここに須賀敦子が書いている通りで、見通しの悪い道を歩いていると突然ぱっと視界が開けるような瞬間があったからだ。たとえばミラン・クンデラを「情緒の小説と実存小説、哲学とアイロニーを混ぜる腕前において、同時代作家のなかでもっともディドロ的な作家」だと評する部分では、がぜんディドロに興味が出てくるし、暴力と現代文学の関係に言及して「ショーロホフは暴力を正当化し、(…)ヘミングウェイはこれを男らしさの試験台とし、マルローは美化し、フォークナーは聖化し、カミュは形骸化する」というところなど、1行で現代文学史だし、20世紀文学の主流は「存在とか言語、できごとの組織構造や無意識の探索など、マグマ的な蓄積の代替物を読者に与えようとする」ものだという説明を読んで、ぼくは村上春樹を思い浮かべた。
 したがって、本書がほんとうにおもしろいのは、案内人が読者をおきざりにして走り出したときである。モンターレという詩人の「たぶんある朝、歩いて」という詩の詳細な分析を試みているとき、カルヴィーノは「ブレーキなしの脱線をつづける」と宣言すると、人は後ろが見えないことについて連想と考察を重ねる。「今世紀の基本的な人類学的革命」とは車のバックミラーが発明されたことだという。人は「ミラーによって生物学的な新種になった」のではないか。言い換えれば、これまで、人は後ろという死角があることによって、人だったわけだ。モンターレの詩の主人公は後ろに「無」を見たのだが、同じ問題提起を「記号を変えて」ボルヘスもしている。『幻獣辞典』のなかで、ボルヘスが紹介するアメリカの木こりの伝説hide-behind(うしろに隠れているやつ)というけものは、どんなにはやく振り向いても決して姿を見ることはできない。しかし、「とにかく、いつだって、うしろにいるのだ」
 古典とは何かということについて考えるとき、ぼくはきっとこのhide-behindを思い出すだろう。「いる‐いない」を同時に、何食わぬ顔でやってのけるのが、古典だ。そんな本にこれからも出会いたいと思う。いまのところ、一冊だけそんな本をあげるとしたら、谷崎潤一郎の『細雪』かな。