未知のものを描くとは その1 スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』

 タルコフスキーの名作映画『惑星ソラリス』の原作で、ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの代表作。いわゆるファーストコンタクトものだが、未知のものを描くのは難しいということがよくわかった。ファーストコンタクトというは、文化人類学の用語でもあるみたいだが、歴史上繰り返されてきたように、異文化が出会うというのは、多くの場合、力が強い方が弱い方を征服したり、滅ぼしたりする。事情はSF小説でも同じで、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』のように侵略者を宇宙人に置き換えた「未知のと遭遇」が数多く書かれた。レムは他の惑星の知的生命との接触について3つの紋切型があることを指摘している。
「それは、われわれが宇宙の他の理性的存在と平和に協力関係を打ち立てることになるか、でなければ(…)両者の間にまさつが起こって、場合によってはそれが宇宙戦争にまで発展し、その結果、地球人が「かれら」に勝つか、あるいは「かれら」が地球を征服するようになるか、という三つの可能性である」(『ソラリスの陽のもとに』飯田規和訳「訳者あとがき」より)
 レムは、宇宙は「拡大された地球」ではなく、地球の現実とは似ても似つかない現象にあふれているはずだという。レムのそうした考えに基づいて書かれたのが『ソラリス』である。
 ソラリスという惑星の海そのものが一つの知的生命体だったという発想は、確かに「拡大された地球」とは異なるものだが、ここで一つの困難が生じる。人類にとって全く未知の存在と、そもそもどのような「交流」が成り立つのかということだ。主人公の心理学者ケルビン浩瀚ソラリス研究史をひもとくという形で、人間がソラリスとの「交流」を果たそうするさまざまな試みの歴史が語られる。海は、内部で数学的会話を交わし、さまざまな物の形を驚異的な精密さで再現する能力を持つ。海が何かの形を見せるたび、研究者たちは色めきだつが、「交流」どころか何らかの意味さえ見出すことはできない。
 そして、それはやって来た。ケルビンのもとに自殺したはずの妻ハリーが姿を現したのだ。ソラリスステーションの他の隊員にもどうやら同様の現象が起きているようだが、他の隊員たちは自分のところに何がやって来たのかを語ろうとしない。ステーションに現れた「人」は、隊員の深層意識や記憶の反映として作り出した「まぼろし」に過ぎないが、ハリーの自殺に罪の意識を持っているケルビンは、しだいに幻影のハリーを愛するようになる。
 ソラリスは言ってみれば、人間を写し出す巨大な鏡のようなものだ。それがどこまで行っても未知のままである以上、未知のものに対する人間の行動そのものが物語の中心にならざるを得ず、結果として『ソラリス』は、哲学的な人間ドラマになったが、そのかたわらに大きな沈黙を描くことには成功している。