パリという入れ物 ヘンリー・ミラー『北回帰線』

『北回帰線』は、ヘンリー・ミラーが1930年代のパリを放浪した体験をもとにした自伝的処女作であると言ったところで、何を説明したことにもならないだろう。松岡正剛は書評サイト「千夜千冊」意表篇649夜でローレンス・ダレルやアナイス・ニンがあんなにミラーのことを語っていなければ、ミラーなんて読みはしなかったと書いているが、やはりある程度文脈がないと読みにくい作家だと思う。1930年代というのも微妙で、世界各地から芸術家たちが集まって、シュルレアリスムをはじめ、様々な芸術のムーブメントを起こした「狂騒の20年代」。そんな宴の後に遅れてやってきた作家志望の貧しい米国人。新潮文庫の解説によると、ヨーロッパに渡ったミラーのポケットには友人から借りた10ドルしかなかったという。
「ではこれは何だ? これは小説ではない。これは罵倒であり、讒謗であり、人格の毀損だ。言葉の普通の意味で、これは小説ではない。そうだ、これは引きのばされた侮辱、『芸術』の面に吐きかけた唾のかたまり、神、人間、運命、時間、愛、美……何でもいい、とにかくそういったものを蹴飛ばし拒絶することだ。ぼくは諸君のために歌おうとしている。すこしは調子がはずれるかもしれないが、とにかく歌うつもりだ」
 ミラーの既成概念にとらわれない「調子はずれ」の歌、確かに『北回帰線』は、なんにせよ「形式」から遠ざかろうとする。ストーリーらしいストーリーはなく、上に引用した主人公の哲学や美学的なモノローグが続くかと思うと、実に小説的なエピソードが鮮やかな描写で浮かび上がったりする。過激な性的描写が話題になることもある。たまたま開いたところを引用してみると…
「開かせておいて懐中電灯でそいつを照らしてみたのさ。(…)おれはまるっきり彼女のことなど忘れてしまうほど、そのことに熱中してしまった。いままであんなに真剣に女の部分をのぞいたことはないよ。しかも、見れば見るほど、そいつに興味がなくなってきた。結局のところ、あれには何もないということがわかっただけさ。ことに剃ってある場合にはね、あれを神秘的なものにしているのは毛だよ」
 たいてい金に困っている主人公は、新聞社の校正係になったりもするが、ほとんどの場合は、金のある友人のうちを泊まり歩いている。毎晩のように大酒をあおり、女たちと遊び歩く。なぜ彼はこんな奔放な生活を続けるのか。それが主人公の故郷アメリカについて語るところに表れているような気がする。「(…)奇妙なことは、地球上くまなく旅行できたのに、アメリカだけは、どうしても思考に入ってこないことだった。それは埋没した大陸よりもさらに深く埋没していた。なぜなら、埋没した大陸には、ぼくは神秘的な魅力を感じるのに、アメリカには何も感じないからだ」
 どうも彼は、何かから目をそらそうとしているようだ。こうも言っている。
「つねにアメリカを、いわば気の弱くなった折に眺める絵葉書のように、奥にしまいこんでおくのが、いちばんいいのだ。そんなふうに、それがいつも向こうで自分を待っていてくれる、すこしも変わりがなく、そこなわれもせずにいる、と胸に思い描いて」
 汚れちまった悲しみ、ではないけれど、ずいぶん感傷的だなと驚かされる。自由気ままでしたい放題のパリ放浪生活の裏に、「無垢」という強迫観念があると言えば、それはありきたりすぎるだろうか。
「パリは売笑婦に似ている。遠くから見ると、男の魂をとろかすようであり、彼女を両腕に抱きしめるまで待ちきれぬほどだ。しかも、五分後には空虚感を味わい、自己嫌悪を覚える。だまされた思いだ」
 こんなふう毒づきながら、だらだらと滞在する異邦人をパリという街は実に寛容に受け入れてくれる。そういう寛容さを持つ程度には汚れた街が、形式をもたない小説の入れ物として機能している。