未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

転職をしたきっかけ

1994年の夏の事だ。米国出張中のHから電話があった。「よしおかさん、大変なことになっています、こっちでは」彼は米国のデータベース開発グループへある製品の国際化の議論をするために出張していた。我々のグループは国際化のエキスパートであったからどのようにすればコストを最小化しつつ最も早く国際化した製品を出せるのかという観点から米国開発グループへコンサルティングをしていた。
彼が言うにはデータベースのグループ全体がOracle社へ売却されるという話が進んでいて、国際化がどーだとかこーだとかいう以前に議論にならないという。日本側はもちろん寝耳に水の話である。事実関係を確認するために急遽東海岸に飛んだ。そこで確認した事実。Rdbをはじめとするデータベース製品をOracle社へ部門ごと売却する。サポート部門も含む。この売却はワールドワイドの契約なので日本のブランチも含む。売却は1994年のX月に完了する。我々は日本の研究開発センターという部署に所属していたがそのディール(契約)に含まれるのか含まれないのかは微妙なところであった。もし含まれるとすると有無を言わさず我々のグループは日本では米国Oracleの子会社である日本オラクルという会社に売却されることになるし、そうでなければ日本DECという組織の中で存続するがいずれにせよデータベースの開発という仕事はなくなる。随分乱暴な話である。いろいろ紆余曲折があったが日本DECのデータベースのサポートが日本オラクルに異動し、我々のグループは日本DECに残る事になった。1994年の秋のころだ。
その時点でわたしは転職する気もDECを去る気もなかった。データベースの開発が出来なくても自分の専門性を生かせる仕事はDEC社内の中にいくらでもあるのではと考えていたからだ。部下と会社の帰りに飲みに行ってデータベースグループの売却の話でクダをまいていた。なんでよりによってOracleなんかに売却するのかね、などといきまいていた。
日本DECは1993年に希望退職者を募った。たしか200名規模だったと思う。当時DECは巨額の赤字を出していた。そして米国から始まったリストラは日本にも襲いかかっていた。希望退職制度は退職金を割増す事を前提に自発的な退職を促すという制度であった。退職金の割増しはなかなか魅力的であったし転職について会社の手厚いサポートもあった。変な話だが人事が親身になって転職のサポートをしてくれていた。1993年の希望退職によって多くの上司、同僚はDECを去って行ったが自分は結局DECに残る事を選んだ。まだまだDECでやる仕事はあると考えていたからである。
そんな時である、DEC時代の同期で新人研修の同じ班であった井上から、たまには飲みに行こうという誘いがあったのは。もちろん断る理由もない。飲みに行くのは三度の飯より好きである。いそいそと飲みに行った。彼は当時日本オラクルに転職して営業をしていた。「よしおかさん、オラクルどう?」そーゆー話である。正直微妙な感じであった。DECのエンジニアリングコミュニティに勝るものをわたしは知らなかった。それを捨ててまで行く程当時のOracleには魅力はなかった。「DECのXXXさんが今技術部長やっているんだけど、一度会ってくれないかなあ」井上は行ったが酒には酔っていた自分の態度は煮え切らなかった。「いつか機会があったらよろしくお願いするよ」というようなつれない返事をしたような記憶がある。
翌日会社に行くとオフィスが妙にざわついている。メール読んだ?何の話?また希望退職だってさ?そーゆー話である。人事からのメールを読んだ。昨年の希望退職以上の規模で希望退職者を募っている。条件も悪くない。
考えた。DECに残っていても自分の専門性は生かせるだろうか?わたしの愛したRdbはもうOracleに売却されている。開発の仕事は間違い無く先細りだ。やりたくないとは言わないがつまらない仕事は間違い無く増えて行くだろうし、エキサイティングなプロジェクトはどんどん減って行くだろう。自分のキャリアをどうすべきか?自分は一体何をやりたいのだ?何ができるのか何ができないのか?何をしたくて何をしたくないのか?それをとことん考えた。自分と言う労働者としての商品価値を考えた。30代半ばころである。コンビニで定型の履歴書を買った。

長くなったので続く。