未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

質問される力

セミナーとか勉強会で話をしていて、あるいはそのような勉強会を主催していてよくある悩みの一つが質問が出ないというのがある。
質問がでないのは、日本人が奥ゆかしいのだとか、質問するのが恥ずかしいとか、文化的な何かにその原因を求める人もいれば、講師の発表がそもそも質問を前提としていないとか、セミナーの形式にその原因を求める人もいる。
原因はなんであれ、一方通行のセミナーより、インタラクティブな質疑応答が活発にあるものの方が、参加者にとっても講演者にとってもメリットが多いと思うのだが、なかなかその価値観が共有されていない。
その問題についてFacebookで話題になっていたので、ちょっと考えをまとめてみた。

なぜ質問が必要なのか。なぜ質問が重要なのか。

勉強会などで質問が求められるのはなぜなのだろうか。もちろん質問を受けることを前提としないセミナーや講習というものはある。そうではなくて自主的な勉強会などで質問が奨励されるのはなぜなのだろうか。

勉強会の題材が暗記物の授業のような場合、講師がひたすら教科書を朗読するという姿はかつて学校時代によくあった。そこでは特に質問をすることは奨励されていなくて、ひたすら黒板に書かれた教師の言葉をノートに写して行くというようなスタイルだった。教科書に正解は書いてある。教科書が正解の世界だ。

一方でIT系の勉強会の場合、題材となっているトピックスに正解がない場合が多々ある。講師も、自分のベストエフォートの中で自分の理解を話すために、それが絶対唯一無二のものとは言えないものを議論していることが多い。そもそも定番の教科書すらない。

勢い、自分の体験から来たケーススタディだったり、一般化するにはまだ十分吟味されていないものだったりする。

そのような状況の場合、参加者と講師との間のディスカッションが価値を生む。自分はこう考える、自分の環境では、かくかくしかじかになったというような議論が参加者の中で理解を深めることに繋がる。

われわれが題材にしているものの多くは正解がない。ますます正解のない問題を解かねばならなくなっている。

そして、そのような問題に対しては積極的な質問から議論が始まる。

もし、そのような議論がない一方通行の講義だけだとすると、講演者にも気づきのチャンスが得にくく、参加者に取っても深い理解に至らず、双方にとって残念な状況が発生する。

活発な議論は、参加者のちょっとした貢献によって、参加者(貢献した人)の人数に比例して価値が高まる。多様性のある意見が表明されれば、自分の思いもよらない観点からの理解が深まる。

なかなか理想的な質疑応答というのは難しいのであるが、参加者と講演者が一体となって場を作って行くというイメージになる。

質問を活性化するにはどうすればいいのだろうか

内輪の勉強会と違って、知らない人が多い勉強会では、質問することに心理的なバリアを感じる人が多い。わたしは、それは場数を踏めば克服できると考えているが、最初の一歩を踏み出せない人がほとんどだと思う。学校で質問する方法を習った人はいない。質問することを奨励するという学生生活を送ったという人には会ったことがない。日本固有の問題なのかどうかはわからないが、そのような傾向があることは否めない。

できない理由を100個並べても物事は前に進まないので、質問を活性化する方法を順不同で考えてみた。

隣の人と自己紹介をする。知らない人の中で質問をすることは勇気が必要だ。こんなことを聞いたらバカにされてしまうのではないかという漠然とした恐怖感を持つ。そこで、アイスブレークとして、隣の人と自己紹介をする。主催者は、自己紹介タイムを設けることによって場を暖める。

サクラの質問者を用意する。どんなレベルの質問をすればいいのかよくわからないので、非常に低レベルな、一見くだらない質問をサクラにさせる。他の参加者は、あの程度の質問でいいのかと安心して敷居が低くなる。

お菓子を配っておく。ティーブレークなどで雑談をする。雑談の中で質問が出たりする。その質問を拾って、議論を膨らませる。

Twitterに質問を書かせる。挙手をして質問をするのは敷居が高いが、ネットでは強気だ。という人向けの方法である。

アンケート用紙に質問を書かせる。Twitterよりもアナログだが、ネット環境がなくても出来るメリットがある。

あらかじめ質問を受け付けておく。講演内容にそった質問をあらかじめ受け付けておく。参加者にも質問を考えさせて能動的に受講する動機づけにもなる。

ビアバッシュ(ビールなどを呑みながら勉強会を行う)。アルコールの力を借りて「質問をする」という羞恥心を低減する。わたしが最も好む方法でもあるが、呑み会での勉強会というのは意外と盛り上がるのである。

質問者がこんな質問みんなに笑われるのではないかとかバカにされるのではないかという恐怖心や羞恥心を持つから質問ができないという人がいる。誰も質問をしている人のことなんか気にしていないので、典型的な自意識過剰である。あなたは自意識過剰だ指摘したところで質問がぼこぼこ出てくる訳ではないので、結局のところ、その羞恥心をどのように解消するかが一つの鍵になる。

そのテクニックが自己紹介であったりお菓子を配ったりビールを呑んだりであったりするのはちょっと残念な気がしないでもないが、それでも質問がでないより出た方がいいとわたしは思う。

質問者は、講演者以上に、質問をすることによって主体的に議論に参加でき、理解を深められもっとも美味しいポジションにいる。そのメリットは計り知れない。

自分は、質問をすることが自分のためになると思っているので、この十数年、勉強会では最初に質問するようにしてきた。質問者という芸風で、最近では質問の挙手をするだけで、くすくす笑いが起きるようになった(本当かいな)。

質問がないより質問がある勉強会が当たり前になったほうがいいと思っているので、ばかみたいにやっているのだけど、なかなか当たり前になっている感じがしない。

質問者を増やすことも重要だけど、質問される力(質問がいっぱい出てくる場を作る力)が重要なんだなあと思った。

セミナー形式から脱する

アンカンファレンス、ダイアログ、フーチャーセッション、ワークショップ、ハッカソン、などなど参加者同士の対話によってなりたつセッションが最近増えて来ているのは、単なる講義だと、議論が深まらないということにだんだんいろいろな人が気がつき始めたからなのではないか感じている。単なるセミナーなんかやっててもつまんないし(主催者側としてね)

質問される力をもっと蓄えたいと思った。

カーネル読書会なんかは、質問力のある人がいっぱい参加しているので(というかそーゆー場が欲しいと思って作ったから)、質問される力を養うには、あまり適していないかも知れないが、勉強会主催者にとってのファシリテーション力の一つとして、「質問される力」をつけるのが必要かなと考えた次第である。