うるさくて眠れない

十一月二日(木)晴
朝の通勤時、始発から座って行くのを常とする。五十分近い長丁場である。まずは本を読み、途中で眠くなって眠る。たいてい十五分から二十五分くらい眠ることになるが、下車駅を乗り過ごしたことはない。この睡眠が日々のリズムを作っているようだ。ところが、今週は月曜は朝から不具合があってダイヤが乱れ、やむなく来た電車に乗ったため途中まで座れず寝られなかった。火曜は中年のおばさんたちが大きな声で話していて眠れず、水曜は疲れていたこともあり乗ってすぐに寝入ってぐっすり眠れたが、木曜に至って今度は予備校生と思しき二人の女の子の会話がうるさくて眠りを失した。そしてあらためて、普段朝の電車の中で喋る人はおらず、実に静かであったことに思い至った。まあ、当たり前の話である。朝の通勤に誰かと待合せて行く勤め人などそういる筈もなく、たまに夫婦らしい男女が一緒に乗っていることもあるが、その場合でも朝から話し込んだりはしない。一言二言ことばを交すのがせいぜいである。ところが、おばさんたちは何処かに出掛けるところなのか朝からテンションが高いし、予備校生もヘラヘラと甲高い声で喋るから癇に障るのである。聞きたくもない話が聞こえて来て余計に心が乱される。朝からイライラしている頭悪そうなサラリーマンになりたくはないが、眠れぬことでその日のペースが崩されることにむっとする思いがない訳ではない。とは言え、ぎゅうぎゅうの電車の中で押されたり足を踏まれたり、苛立った人の怒気を含んだ顔を目にしたりすることもなく通勤出来ているのは、都内で働く勤め人としては恵まれている方かも知れない。人と比較して、自分よりも劣悪な条件の人がいることでまあ良い方かと心落ち着かせるというのは、農民の下に非人を置いて農民を懐柔したとされる江戸幕府の術策にはまるようで悲しいが、まあ庶民の心情なのであろう。ところで、今「非人」と打とうとして変換されないことに気が付いた。念のため「穢多」もやってみたらこれも出ない。さらに念のため岩波国語辞典第七版を引くとここにもない。新明解国語辞典には出ていた。もとより私は差別に与する者ではないが、歴史的用語として存在することばを敢て外すことの方が、「危険回避」の「意識」においてよほど差別的なのではないかと思う。私はここで、自分の納得の仕方を歴史的事実としての江戸幕府の制度下での農民の心情との類似性によって説明しようとした訳で、そこに差別的な意図は一切ない訳だが、そのことをワープロで打とうとする際に思うように変換されないのは極めて遺憾とするところである。