外堀の石垣

十二月二十八日(木)晴
昼で會社が終りになつたので午後江戸散策に出た。田町で電車を降り、慶應義塾の正門前を通つて綱坂を上る。文久三年(1863)にベアトが撮つた寫眞が殘つてゐるが、左右の景色は變はれど坂そのものは往時を偲ばせる。登り切つて正面のかんぽセンターの古い建物を見ながら左折し、綱町三井倶楽部の豪壮な洋館を眺めてから神明坂を下る。此の辺は元は大名屋敷のあつた處である。天祖神社とその背後に聳える巨大なビルを仰ぎ見ながら下りきつて中の橋で古川を渡る。東麻布の裏通りから狸穴公園の脇を通つて鼠坂を上る。振り返つて見る景色の中に、前に來た時より高層ビルが増えてゐるのを改めて實感する。島崎藤村旧居跡脇の狭くて勾配のきつい坂を上ると右手に外苑東通りに沿つて新しいビルが建つてゐて景觀が一變してゐた。さう言へば前に來た時工事をしてゐたやうな氣もする。周りを鐡柵で囲んだ工事初期の段階はそれほど周囲の景色と違和感はないのだが、都内に續々と建つ高層ビルの類は竣工後に景觀を驚く程違つたものにしてしまふ。庶民の家であれ豪邸であれ、所詮は住居の連なる街だつたものが、大規模開發によつて城壁都市のやうになつてしまふのだ。坂の多い麻布では、高層ビルに取り囲まれた坂下は本當に深い谷底のやうになる。さうして好きだつた戰後の東京の姿がまた消えてゆく。外苑東を右折し、麻布郵便局の脇を左に入り、霊友會の巨大な釈迦殿の脇から三年坂を下りる。此処もまた周囲の高層ビルに囲まれて谷底に下りて行く感じになるが、谷底から落合坂に向かふ狭い道は昔の東京の庶民の暮らしがまだ殘つてゐるので好きな場所である。今囘は霊友會の裏手を通り、昭和の昔の東京によくあつた崖下の駐車場を懐かしく見ながら神谷町方面に出る。櫻田通りを上つて天徳寺脇からトンネルの手前の階段を登つて愛宕神社に至る。所謂愛宕山で、見晴らしの良さから江戸時代に有名だつた處である。余は初めて登つた。勿論海は全く見えなくなつてしまつたが、男坂の急な石段を見れば高臺といふより山であることはよく分かる。石段を下り左に曲がつて暫く行つた先の虎ノ門ヒルズの域内に入る。冬の青空を背景に新しいビルが鮮やかである。ビルの中には入らず周囲に設けられた遊歩道のやうな處を歩いただけだが、ベンチや座り心地の良ささうな椅子がたくさん用意されてゐて中々親切である。ただし寒いからか人は少なく、ビルの中の窓際の椅子に多くの人が座つてゐた。皆PCかタブレツト、スマートフオンを手にして仕事をしてゐるのか遊んでゐるのかよく分からないといふ、見慣れた風景である。環状二号線を見下ろすテラスは新たな東京の景觀とは言へるであらうが、餘り魅力的な景色ではない。せめて通り沿ひのビルの高さが揃つてゐたら、背後の霞が関ビルとのコントラストが効いてましなものになるのであらうが。ヱレベーターで地上に降り、乃木将軍旧居跡の石碑を見てから、金毘羅宮を通つて播磨屋本店脇にある溜池櫓臺跡の石垣を見る。通りの歩道脇に突如現れる鋭角に組まれた石垣である。現在の外堀通りは文字通り外堀であつたが、その外堀に突き出す格好で組まれたものらしい。脇の横断歩道上から見た方が當時の様子は想像しやすい。それから霞が関ビル前を抜けて、地下鐡虎ノ門驛地階に復元された外堀の石垣を見學。展示スペースのやうになつてゐて案内のパネルもあつて良いのだが、其処にある江戸城の地圖に致命的な欠陥を見つけた。「江戸城(皇居)」といふ表示はまあいいとして、その上に「本丸」とあるのは間違ひ。今皇居のあるのは西の丸であり、本丸はその東側である。天守臺のある場所が本丸でなくてどうするのか。皇居がある處だから本丸だと勘違ひしたものだらう。薩長の田舎出の下級官僚か何かが作つたものだらう。徳川家は天皇家に本丸の西側を貸してゐるに過ぎない。本丸の西に広大な西の丸があつたのは、他でもない、徳川を脅かす勢力は西からやつて來るに違ひないからそれに備へたのである。惡い奴らは西にゐる。西から薩長が本當に來やがつた。それはともかく、それから文化庁の建物の中庭にも復元された外堀の石垣が見られるやうになつてゐて見學。江戸城の名殘をかうして保存公開するのは惡くないアイデアではある。文化庁の裏口をちらと見たら中に大きな一文字の書が掛けられていて近づくとやはり金澤翔子さんの書であつた。力強くすぐそれと分かる書體で「煌」とある。かがやく、きらめくの意である。半日の散策の最後に良いものに巡りあつた氣分であつた。