平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜

漂泊旦那の日記です。本の感想とサイト更新情報が中心です。偶に雑談など。

早瀬圭一『失われしもの』(新潮文庫)

失われしもの (新潮文庫)

失われしもの (新潮文庫)

彼女は本当に夫を殺したのか? 昭和55年5月6日、東京地方裁判所は被告人・板橋治江に対して、夫・板橋喜政殺害を含む、2件の殺人犯として、死刑判決を下した。戦後7番目の女性に対する死刑判決であるとともに、物証なき殺人容疑として注目を集め、昭和63年現在も最高裁に上告中のこの裁判の経過を丹念な取材に基づき、あらゆる角度から検証する、法廷ノンフィクション(粗筋紹介より引用)

1984年5月7日〜12月28日まで、毎日新聞夕刊に198回にわたって連載。さらに約200枚を加筆し、1985年7月、毎日新聞社より単行本刊行。加筆のうえ1988年7月、文庫化。



本書は夫殺人事件ならびにバーホステス内縁夫殺人事件の犯人として、死刑判決が確定した板橋治江こと諸橋昭江死刑囚のノンフィクションである。

本書は、毎日新聞記者の早瀬圭一が1981年秋、全国5か所にある女性刑務所の取材を始めようとして、当時控訴中の諸橋被告の存在を知ったことから始まる。小林カウ(後に死刑執行)が1963年3月に地裁で死刑判決を受けて以来、17年ぶりとなる死刑判決を受けた女性被告に早瀬は大きな関心を持ち、一・二審で主任弁護士を務めている寺井一弘弁護士を1982年になって訪ねた。その後、別の連載を始めながら資料をそろえ、1984年、諸橋被告と面会。その後、毎日新聞夕刊で長期連載が始まった。諸橋被告の触れられたくない過去、不利な点も書く、弁護側の言い分も書くが、警察や検察の主張も取り上げた。

ただ、内容としては弁護側寄りになっている。作者の早瀬が、検察の主張に疑問を持っているのだから当然だ。諸橋被告は、二番目のバーホステス内縁夫殺人事件については、ホステスに同情しただけで従犯であると主張。そして一番目の事件である夫殺人事件については、夫は自殺であり無罪と主張した。

二番目の事件については、主犯か従犯かの違いはあるが、いずれにせよ殺人に関与したことは事実であった。そして問題は、夫殺人事件についてである。はっきり言って、証拠らしい証拠はない。二番目に捕まったホステスが、諸橋被告は以前に夫を殺したが事故として判断された、と供述したことから警察が諸橋被告を追及。そして、諸橋被告は自白してしまった。結局はこの自白が、諸橋被告を死刑に追い込んでしまった。新刑法に代わったとはいえ、まだまだ自白調書が大きな証拠となった時代の判決である。

そもそもの発端は、彼女の夫が愛人を作って家を出て行ったことである。諸橋被告もその後愛人を作るが、やはり同情の余地は多い。もし夫殺しを認め、同情を買うような弁護をしていたら、死刑にはならなかったのではないかと思ってしまう。

早瀬は、裁判そのものよりも、諸橋被告の過去を丹念な取材で追いかけている。本書を読むと、事件の真実がより詳細に浮かんでくる。そういう意味では、一級のノンフィクションといえるだろう。

早瀬は本書で大きな疑問を投げかけているが、大きな話題とならないまま、諸橋被告は東京高裁で控訴が棄却されている。本書には『「疑わしきは被告人の利益に」の原則は貫かれたか』という1986年6月6日に毎日新聞に掲載した署名記事が加えられている。日本の裁判では、「疑わしきは被告人の利益に」という原則はほとんど守られていないと言ってよかった時代である。

諸橋死刑囚は2007年に獄死した。彼女の息子は、そして作者は何を思ったのだろうか。