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2008.05.20
小日向 試衛館
一
飯田金十郎
50男
文久元年(1861)18才
白河藩浪人の子
不伝流の居合術
大沢定吉
田安家の家来
28歳、近藤勇
材木面だ
妻のつね
両方潔癖症
山口
山南啓助ー仙台脱藩
土方は?
多摩へ
近藤周助
去年1860.3結婚
25歳
奥女中
馬御前ー長い顔立ち
二
八王子の千人同心
八王子千人同心
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八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)は、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団のことである。
目次 [非表示]
1 千人同心の組織と役割
2 最近の研究による武士身分の見直し
3 千人頭
4 著名な千人同心(幕末)
5 関連項目
6 関連図書
[編集] 千人同心の組織と役割
甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持を任務として、徳川家康の江戸入府に伴い1600年(慶長五年)に発足し、当初は代官頭大久保長安が統括した。十組・各百人で編成されて各組には千人同心組頭が置かれ、旗本身分の八王子千人頭によって統率され、槍奉行の支配を受けた。
現在の八王子市千人町に、千人頭の屋敷と千人同心の組屋敷があったといわれる。 千人頭は200〜500石取りの旗本として遇され、同心は御家人として遇され、禄高は10俵1人扶持〜30俵1人扶持である。
千人同心は、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍、豪農などで組織された。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためである。八王子の甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地が与えられた。甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となった。
千人同心は警備を主任務とする軍事組織であり、同心たちは徳川将軍家直参の武士として禄を受け取ったが、その一方で平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農といった立場であった。
千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされる。
[編集] 最近の研究による武士身分の見直し
千人同心が武士身分であったかについては疑問も多い。 従来は千人同心だったもの達の主張に従い武士(御家人)だったというのが通説であったが、近年に入り現存する史料などの研究が進むと、武士身分としての実態が伴っていなかったことが判明してきている。 例えば、千人同心は苗字を公称することがゆるされておらず、帯刀についても公務中のみと制限されていた、そして同心の家族であっても帯刀はゆるされず、引退した同心経験者であっても同心職を退いたならば帯刀は出来なかった。 また江戸時代中期頃より株売買による千人同心職の譲渡が盛んになり、八王子に集住していた同心達にかわり、関東近在の農村に散在する富農層が千人同心職を兼帯するようになる。 千人同心たちは居住する村落では人別帳に他の農民同様に百姓として記載されており、幕府代官所をはじめとする地方領主達は、かれらを武士とは認めていなかった。 このため千人同心たちはたびたび御家人身分の確認をもとめて幕府に願い出るが幕府は毎回これを却下している。 例えば幕府の最高法廷である評定所は、人別帳への記載をめぐって争われた苗字一件において明確に千人同心が正規の御家人身分を有しないとの判決を下している。 今日では武家奉公人相当だったのではないかと考えられている。
[編集] 千人頭
萩原家
上窪田家
上窪田別家
下窪田家
志村家
原家
中村家
河野家
山本家
石坂家
[編集] 著名な千人同心(幕末)
石坂義礼 千人頭 命を賭して日光を戦火から守った
原胤敦 千人頭 函館奉行支配調役。「新編武蔵風土記稿」編纂者
松本斗機蔵 組頭 幕府に認められた開明派。
植田孟縉 組頭 多数の地誌を著わす。「新編武蔵風土記稿」編纂者
塩野適斎 組頭 「桑都日記」の著者。「新編武蔵風土記稿」編纂者
小谷田子寅 組頭 蘭学者
三田村鳶魚 江戸文化・風俗研究の第一人者、但し千人同心の家出身であり同心を勤めてはいない
近藤三助 天然理心流二代目
[編集] 関連項目
日光脇往還
勇払
甲源一刀流
近藤三助
[編集] 関連図書
吉岡孝『八王子千人同心』同成社 ISBN 4-88621-261-1
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%8D%83%E4%BA%BA%E5%90%8C%E5%BF%83" より作成
松井八十五郎の娘
つね
永倉
江戸育ち
神道無念流の岡田十松に学ぶ
土方破り
近藤も3本のうち2本取られる
伊藤仙三郎
渡辺
幼名
勝太よ、どうした、と父
70歳
三
渡辺昇(のぼり)
神道無念流
斎藤弥九郎
練兵館塾頭
肥前大村藩から修行
乞食剣法、飯田金十郎
太田市之進
前の塾頭
弥九郎長男
新太郎
たくあん
四
近藤
天保5生まれ
武州調布町上石原農家
多摩墓地の東方1km
三鷹
父 宮川久次郎
武州気質
「御料百姓」
江川太郎左衛門支配
天然理心流
近藤周助邦武
勝太を養子にくれんか
嘉永2年16才のとき
近藤勇昌宣
近藤周助も同じ
南多摩境村
遠江近藤長裕(ながみち)から出る
飯坂長威斎の後裔?
門弟の一人を養子に
近藤方昌だ
方昌も実子なく
島崎周助を養子とする
その周助の養子が勇
3年間、「組太刀」教える
P029
道場荒らし
9人も妻を変えた
勇の人柄がよい
土方ー石田村の農家の生まれ
1才年下27歳
江戸下谷上野広小路
「いとう松坂屋」
けんかして出る
日野宿名主
佐藤彦五郎
「石田散薬」の行商
近藤周蔵が目をつけた
とんでもなく強いやつを見つけた
八王子の荒川道場
原田佐之助
きょとんとした目つき
五
伊予松山藩
足軽上がり
「ごろんぼ」というあだ名
八年ぐらい前にペリル来る
井伊大老に
家定
慶喜擁立の動き
慶福を押す派と対立
紀州派の勝利
安政の大獄、井伊としては当然の措置
万延元年3.3
六
文久2
29歳
つね26歳
2/15 女児瓊子(たまこ)
森家に出稽古
播州三日月藩額田八蔵指南役
六軒茶屋町
この前の乞食坊主
酒なぞいらん
P050
≪ 乱雲 ≫
一
いざというときの肉迫は機敏を極める勇
晴眼に構えた飯田の剣
左の手切り落とされている
二
天然理心流
龍尾の剣というやつさ
この夜からつね、変貌
P062
三
夜なんざ、どうです
と土方
安政3 23のとき
吉原
はしたない
この馬女め
この馬御前もまんざらではない
「かいず」
黒鯛の幼魚3匹を渡辺昇がプレゼント
つれている
北辰一刀流
深川佐賀町
伊勢・津の城
ド・ベルフール フランス
代理公使
オロシャの軍艦、対馬に現れる
追い払ってもらった
今年1月、坂下門の変
をきっかけにして安藤と久世広周
関宿48千石主
幕府連立倒れる
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安藤信正 凡例
改名 欽之進、欽之介、信睦、信行、信正
別名 鶴翁、欽斎、晩翠
戒名 謙徳院殿秀譽松巌鶴翁大居士
墓所 川嶋山楢騎士院良善寺
官位 従五位下伊勢守、長門守、対馬守
従四位下、侍従
若年寄、老中、勝手掛老中、溜間詰
藩 陸奥国磐城平藩主
氏族 安藤氏
父母 父:安藤信由、母:松平信明の娘
兄弟 信正、板倉勝成
妻 正室:松平宗発の娘
子 信民、信守、娘(堀之美室→京極高典室)
娘(内藤正誠室→副田欣一室)
安藤 信正(あんどう のぶまさ)は、陸奥国磐城平藩の第5代藩主。安藤家第10代。幕末に若年寄、次いで老中を務めた。磐城平藩第4代藩主・安藤信由の長男。母は大河内松平信明の娘。官位は従四位下侍従。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 生い立ち
1.2 坂下門外の変
2 官職位階履歴
3 関連項目
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
文政2年(1819年)11月25日、安藤信由の嫡男として磐城平藩江戸藩邸で生まれる。幼名は欽之進、後に欽之介。
弘化4年(1847年)に父の死により家督を継ぎ、万延元年(1860年)には老中となる。直後の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、同じく老中の久世広周と共に幕政を事実上取り仕切る最高権力者となった。
信正は直弼のような安政の大獄による強硬路線を否定し、文久2年(1862年)には直弼の後を継いだ井伊直憲に亡父の責任を取らせる形で10万石を削減させているが、信正は穏健政策を取ることで朝幕関係を深めていこうと考えていた。その一つが、孝明天皇の妹・和宮と第14代将軍・徳川家茂を結婚させるという公武合体の実現であった。
また、この頃になると日本国内では政情不安からアメリカ公使館通訳であったヘンリー・ヒュースケン殺害事件などの問題が起こっていたが、当時はアメリカが南北戦争で日本に介入できなかったこともあって、信正は無難にこれを処理することに成功した。また、諸外国と条約を結んだことから問題となっていた金貨流出問題や物価高騰問題などに対しても防止政策を行うなど、幕末の政局安定化に努めた。
[編集] 坂下門外の変
文久2年(1862年)1月15日、和宮降嫁問題によって恨みを抱いていた尊王攘夷派の水戸藩浪士からの襲撃を受け、負傷したが一命は取り止めている(坂下門外の変)。しかもその直後、包帯姿でイギリスの公使・ラザフォード・オールコックと会見している。このとき、オールコックは負傷しながらも幕府の権力者として意地を見せる信正の姿に感嘆したという。
しかし、一部の幕閣から「背中に傷を受けるというのは、武士の風上にも置けない」と非難の声が上がる。そのうえ、女性問題やアメリカのタウンゼント・ハリスとの収賄問題などが周囲から囁かれて、老中を罷免され、溜間詰格への敬遠を余儀なくされた。その後、隠居・謹慎を命じられ所領のうち2万石を減封された。後は長男・信民が継いだ。
背中に傷を受けたことはともかく、女性問題やハリスとの収賄問題は、信正の功績を妬んだ派閥による讒訴の疑いが高い。だが、信正の老中としての幕末における功績は高く評価されており、有能な老中であったと言えるであろう。
慶応4年(1868年)に明治新政府が立ち上がると、若年の藩主・安藤信勇に代わって本領での藩政を指揮。奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦ったが敗れ、居城の磐城平城は落城した。信正も降伏、謹慎を余儀なくされた。その後、明治2年(1869年)9月10日に永蟄居の処分が解かれた。
明治4年(1871年)10月8日、死去。享年52(満51歳没)。法名:謙徳院殿秀譽松巌鶴翁大居士。墓所:福島県いわき市平古鍛冶町の川嶋山楢騎士院良善寺。
五
重臣、長井雅楽が藩論をまとめる
毛利敬親(長州)
万事を長井にまかす
久坂義助
ー長井を倒せ
攘夷一点だ
田中河内介
薩摩の動き
寺田屋騒動
P110
浪士募集のこと、きまった
松平上総介様がかんでいる
指ヶ谷の岸淵兵介
五
かなり浪士集まる
板倉周防守
(備中松山5万石藩主)
清河八郎
去年の4月
九条関白
所司代、うらから襲撃
清河の意図は?
2/4 小石川の伝通院(でんづいん)
浪士取扱いは幕臣、鵜殿甚左衛門
浪士取締りは幕臣、山岡鉄太郎
六
文久3.02.08 234名
中仙道を京都へ
取締下役
池田徳太郎
渡辺昇のところへ
清河とはいかなる人か
渡辺、大村藩
乞食の金さんついてきてますよと沖田総司
P130
≪ 新選組 ≫
一
武州本庄の宿
常陸、芹沢村
郷士
芹沢鴨という人
平山五郎
平間重助
酒がきれると買いにいく
天狗党にいたこともある
池田は芸州広島の浪人
二
本庄の宿屋
絶えぬ芹沢の傲慢
三
京都着
壬生村
二条城が近い
芹沢、永倉を気に入る
死んだ弟そっくりだという
P170
≪ 京都動乱 ≫
一
江戸、小日向柳町
妻に18だった岸淵兵助の一人娘文
淀藩10万石
稲葉美濃守
渡辺昇も兄の大村藩へ帰る
清左衛門
P197
京へ来た将軍はいじめられどうし
孝明天皇は家茂を頼もしく思う
二
前川荘司邸
八木源之亟邸
新徳寺(清河が演説)
会津
芹沢の所業に目をつける
P196
長州の暴虐
英対薩摩戦争
薩英同調
薩摩、幕府同調
8/18 クーデター
文久3年
会津と薩摩
中川宮守る
長州の密謀
披瀝する中川宮
五
会津から出勤命令
おれのあとに続け
と芹沢鴨
2008.05.21
P276
桝屋喜右衛門
近江坂田郡郷士の生まれ
6/5 20名
秘密書類
武器、弾薬発見
古高俊太郎正順
である
六
三条小橋の宿屋
「池田屋」
大坂薬商人
山崎丞
もともと鍼医者
主人 惣兵衛
6/20 前後
風の強い日
御所に火をかける
中川宮尊融親王
会津侯くるだろう
土佐の志士
石川潤二郎
繩手の四国屋と二箇所にわける
魚にあたった20人が下して寝ている
6/5は7/8にあたる
祇園祭の宵宮
P287
≪ 戦火 ≫
一
原田佐之助
池田屋は9名で
襲う
藤堂
原田佐之助
近藤周平について
養子
谷万太郎
三十郎
17のわかもの
宮部鼎三
30余名
亭主、御用改めであるぞ
と勇
三
永倉の語りのこと
「石田散薬」
四
病状は重い
決裁に手間取る
五
長州編成
慶喜
躬が参内する
六
伏見方面
読了
2008.05.21
ユアサ商事
鞠子(まりこ)の宿
静岡市丸子
かやぶき屋根の
とろろこぶ屋
丁子屋
(ちょうじや)
1596 創業
柴山馨氏の父
12代目信夫氏
4.3年シベリア抑留
1951 丁子屋に婿養子
芭蕉
十辺舎一九
駿河出身
ものすごい文化が眠る
かやぶき屋根復活
一九研究室
じねんじょ栽培
1783 天明3
紙卸商 中庄
(東京中央)
後継者は養子に限るとの家訓
中村庄八社長
1666(寛文6)
ユアサ商事
12代目七左衛門
大正 蓄電池
http://d.hatena.ne.jp/Tsubute/20080521
蓄膿症の南方熊楠、あおばな ずるん
『尊卑分脈』
忠継7子、孫
幾人もの皇妃が出ている
孫娘、経子=後伏見天皇
母
【祖父亀山院のこと】
蒙古襲来を乗り切る
後嵯峨院第二皇子
P035
亀山天皇画像
出家直後
その後
瑛子ー恒明親王
(1303.05生まれ)
1305 亀山院の死後出家
『とはずがたり物語』=久我雅忠の娘
の可能性が高い
亀山院最愛の恒明
恒明の立坊
伏見院に図っていた
恒明が立太子することはついになかった
1305 尊治18才
P039
≪ 兄弟姉妹たち ≫
(1)邦治親王ー異母兄
後宇多天皇の長子
1285.02生まれ
1301 践祚し後二条天皇に
=後宇多による第一次院政
1308 後二条急死
(2)奨子内親王
同母姉
母、談天門院忠子
後宇多にかわいがって育てられた
1286.09生まれ
1306.12 21歳で伊勢齋宮となる
(野宮で)
1308.08.25 後二条没で08.26 京極殿へ退下(野宮より)
達智門院
(3)(4)承党、性円
同母弟
(5)土御門内親王
宗尊親王の娘 倫子
女王との間の子
≪ 践祚、即位にいたる経緯 ≫
< 立親王、元服 >
文保2(1318)の践祚、即位
P048
≪ 中務郷に任ず ≫
1307.05
大覚寺党、後宇多院の意図
≪ 立太子 ≫
転機
後二条天皇の死
24歳
1308.08.25
東宮 富仁親王12歳践祚
後任の東宮選び
候補2名
恒明と尊治
P054
西園寺実兼の娘しょうこ
と略奪結婚
父後宇多も後深草院の皇女を略奪していた
≪ 践祚、即位 ≫
文保2(1318)2.26
即位=3.29
花園と交代
「文保の和談」
黒幕=後宇多院
立坊とセット
しかし 「一代の主」
邦良にバトンタッチするまでの中継ぎ
文保02.03.09
邦良立坊
後宇多第二次院政
P057
第3章 倒幕志向の形成、展開
≪ 「一代の主」の克服 ≫
< その萌芽 >
1324. 正中の変
1331. 元弘の変
≪ 後宇多院政の停止と正中の変 ≫
日野資朝の捕縛ですんだ
1321.12 後宇多院政停止
P061
後醍醐天皇親政
1324.06 後宇多院死去
東宮邦良の死去 1326.03.20 27歳
恒明
邦省
量仁
尊良
恒明
後醍醐天皇に接近している
邦省
東宮邦良の同母弟
後二条の第二皇子
量仁
後伏見院第一皇子
尊良
後醍醐天皇一宮
母は二条為世の女
為子
量仁が立坊
持明院統が勝利
幕府の事情
≪ 幕府政治の不協和音 ≫
< 得宗専制の末期症状 >
北条高時の暗愚
長崎円喜=高資の専横
増鏡保暦間記
P073
≪ 幕府の中の親後醍醐派 ≫
1333.04
はっきり倒幕のスタンス
雑訴決断所
二階堂貞藤
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二階堂 貞藤(にかいどう さだふじ、文永4年(1267年) - 建武元年12月28日(1335年1月23日))は、鎌倉時代後期の御家人。二階堂行藤の子。法名は道蘊。出羽守。子に兼藤、知藤、兼義がいる。
甲斐国山梨郡牧庄主で、嘉元3年(1305年)には鎌倉から夢窓疎石を招き浄居寺(山梨県山梨市、旧東山梨郡牧丘町)を再興。
正中元年(1324年)、後醍醐天皇の倒幕計画が露見した正中の変において、『太平記』に拠れば鎌倉へ送られた後醍醐天皇誓書の判読を止めたという。
元徳元年(1329年)、京都では後醍醐天皇と退位を求める持明院統の間で対立が発生し、双方が鎌倉へ働きかけており、3月には道蘊が使者として上洛。道蘊は持明院統側に有利な独自の調停案を提示しており、北条貞顕は道蘊を批判し、『太平記』では「朝敵の第一」と道蘊評を記している。道蘊の独断に関しては、同年2月には政所執事の二階堂行貞が死去し、後任と目されていた道蘊の上洛中に行貞の子貞衡が補任されたことに対しての不満を示したものであるとする指摘もある(永井晋『金沢貞顕』)。
元徳2年(1330年)に引付頭人、甲斐国において再び夢窓を招き庄内に恵林寺(甲州市、旧塩山市)を創建。正慶元年(1332年)には政所執事を務め、北条高時を補佐。元徳3年(1331年)、後醍醐天皇の退位を促す使者として安達高景とともに上洛し、宮方の楠木正成が挙兵した千早城攻めにも参加。
鎌倉幕府滅亡後も建武政権に参加し雑訴決断所所四番局で北陸道を管轄する。建武元年(1334年)の西園寺公宗の陰謀露見に際して、六条河原で処刑される。
文筆系
○ 伊賀兼光の寝返り
網野善彦注目の事実
伊賀兼光
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伊賀 兼光(いが かねみつ、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての御家人、実務官僚。六波羅探題越訴頭人であった山城守伊賀光政の子。父の官名にちなみ山城兼光とも。
[編集] 略歴
伊賀氏は、藤原北家秀郷流と伝えられる。鎌倉時代初期の、伊賀守朝光以降、伊賀を名字としたとされている。以後、北条氏の外戚として鎌倉幕府の有力御家人であったが伊賀氏の変以後勢力を弱め、評定衆、引付衆など幕府の実務官僚として活躍した家系である。
兼光も、鎌倉時代末期には六波羅探題の引付頭人兼評定衆となっている。この頃の所領は不明であるが、歴史学者の網野善彦は、文永2年(1265年)11月に兼光の曾祖父光宗の跡(後継者)として、若狭国耳西郷・日向浦の地頭職を継承したことが確認されている伊勢前司、及び、元亨4年(1324年)3月の日付がある大和国般若寺の文殊菩薩像墨書銘に見える施主前伊勢守藤原兼光を、伊賀兼光と推定している。この説では、文殊菩薩像墨書銘に願主として殊音(文観)が見えること、「金輪聖主御願成就」とあるのは後醍醐天皇による正中の変の成功を指しているとして、兼光を建武の新政以前から後醍醐天皇に内通していたと見ている。更に後醍醐天皇と楠木正成とを仲介したとする見解もある。
建武の新政が始まると、若狭守護と国司を兼任し、更に図書頭兼土佐守、大蔵少輔に任ぜられる。一方で雑訴決断所(五畿内担当)、窪所、記録所、恩賞方を兼任し、新政の役職の中枢を占める幹部として活躍した。これには、官司の請負体制を打破しようと寵臣を使った異例の人事を行ったとの佐藤進一の評価がある。
しかし新政は2年半で瓦解し、兼光のその後の消息は不明となる。
[編集] 参考文献
網野善彦 『異形の王権』(平凡社 1993年 初版 1986年)ISBN 4582760104
[編集] 関連項目
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%85%BC%E5%85%89" より作成
大施主(倒幕祈願の)
後醍醐のスパイとも言うべき極めて危険な役割
(『異形の王権』)
○ 小田時知
弘安8(1285)
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霜月騒動(しもつきそうどう)とは、鎌倉時代の1285年(弘安8年)に起こった安達泰盛一族が滅ぼされた事件である。弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいう。
安達泰盛は、鎌倉幕府御家人で、北条得宗家の外戚で御恩奉行として影響力を持っていた。1284年(弘安7年)に執権北条時宗が死去すると、泰盛は弘安徳政と呼ばれる幕政改革に着手し、内管領の平頼綱と対立する。1285年11月、頼綱は9代執権の北条貞時に讒言(「安達が源氏に改姓し将軍になる陰謀あり」とのことだという)を用いて、貞時の命令で泰盛を討伐した。泰盛の子の安達盛宗も博多で滅ぼされ、泰盛に属した少弐景資が兄の少弐経資に岩戸合戦で滅ぼされ、武蔵国でも泰盛派の御家人が討たれ、縁者の北条(金沢)顕時、長井時秀が処罰されるなど、影響が及んだ。
更に、影響は朝廷にも波及して、泰盛と親交があった亀山上皇の院政停止(持明院統伏見天皇即位)が行われた背景の一つにこの騒動を上げる説もある。
この事件以後、幕府内で得宗の家臣である御内人の代表である内管領の専権が強まり、得宗専制支配が確立した。
≪ 六波羅探題の変質 ≫
承久3(1221)
承久の変で成立
右京兆=北条義時
無視される六波羅探題
≪ 政道の興行 ≫
< 記録所の活動 >
後醍醐新政
支えた記録所
職員
=洞院実世
万里小路宣房
万里小路宣房
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万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ、正嘉2年(1258年) - 貞和4年/正平3年10月18日(1348年11月9日)?)は、鎌倉時代から南北朝時代の公家である。父は万里小路資通。万里小路藤房・季房は子。初名:通俊。
万里小路宣房像とされる公家像
(大徳寺所蔵「後醍醐天皇像」の一部)大覚寺統の亀山天皇から後醍醐天皇に属して蔵人から蔵人頭、参議を歴任、1324年(正中元年)に後醍醐天皇の討幕計画が発覚した正中の変では自ら鎌倉へ赴いて弁明をしている。その後権大納言に昇進する。元弘の変では、2人の息子が討幕に関与したとして六波羅探題に拘束された。
鎌倉幕府滅亡後の建武の新政では従一位に叙せられて雑訴決断所の頭人を務める。この時期(1336年)に千種忠顕らとともに出家させられている。また、息子・藤房も天皇の政治姿勢を批判して隠遁してしまう。このため、足利尊氏が後醍醐天皇を追うと、宣房は幼い季房の遺児(季房は鎌倉幕府滅亡の混乱の最中に流刑先で殺害されている)とともに京都に残っている。このため、長年大覚寺統の重鎮であった万里小路家は、以後持明院統(北朝)方公家として活動することになった。
宣房は、後醍醐天皇の近臣である北畠親房、吉田定房と合わせて「後の三房」と併称された。また『万里小路一品記』と呼ばれる日記を記しており、断片的に現存している。日記を残すことは当時の公家が政務を円滑に行い、子孫が家名を維持するためにも必要不可欠な行動であり、閑職に終わった父・資通は日記を残していない。このため、万里小路家の公家としての諸規範は宣房に由来するものとされ、歴代の万里小路家当主の崇敬の対象とされた。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
1274年(文永11)3月22日、兵部少輔に任官。 3月24日、兵部権少輔に遷任。
1277年(建治3)1月29日、従五位上に昇叙し、兵部権少輔如元。
1279年(弘安2)1月24日、越後介を兼任。 10月23日、飛騨守を兼任。越後介を去る。
1283年(弘安6)3月28日、正五位下に昇叙し、兵部権少輔如元。時に、名を宣房と名乗る。
1298年(永仁6)8月28日、春宮(のちの後二条天皇こと邦治親王)権大進に遷任。
1299年(正安元)6月6日、春宮大進に遷任。
1301年(正安3)1月21日、新帝(後二条天皇)昇殿。東宮の踐祚に伴い春宮職廃止。春宮大進を止む。 4月5日、蔵人に補任し、兵部少輔を兼任。
1302年(正安4)1月28日、右少弁に遷任。蔵人如元。 8月28日、権右中弁に転任。蔵人如元。 9月29日、従四位下に昇叙し、権右中弁如元。 12月26日、従四位上に昇叙し、権右中弁如元。 12月30日、大蔵卿を兼任。
1305年(嘉元3)3月8日、蔵人頭に補任。大蔵卿如元。 3月18日、権右中弁を兼任。 4月5日、左中弁を兼任。権右中弁を去る。 4月19日、修理左宮城使に補任。 11月26日、参議に補任。大蔵卿如元。
1306年(嘉元4)1月5日、正四位下に昇叙し、参議・大蔵卿如元。 3月30日、出雲権守を兼任。 11月27日、弾正大弼を兼任。 12月12日、左大弁を兼任。左中弁を去る。
1307年(徳治2)3月2日、造東大寺長官に補任。参議・大蔵卿・左大弁・弾正大弼・出雲権守如元。 8月4日、大蔵卿を止む。 11月1日、弾正大弼を止む。
1308年(徳治3)9月17日、参議を辞す。左大弁・出雲権守如元。 11月14日、従三位に昇叙し、出雲権守如元。
1310年(延慶3)、出雲権守を去る。
1318年(文保2)4月2日、正三位に昇叙。 12月3日、権中納言に任官。
1319年(文保3)3月9日、権中納言を辞任。 3月15日、従二位に昇叙。本座を許される。 6月6日、大宰権帥に任官。
1320年(元亨2)1月3日、正二位に昇叙し、大宰権帥を去る。 4月5日、権中納言に還任。
1322年(元亨4)、権大納言に転任。
1331年(元徳3)2月1日、大納言に遷任。 8月25日、大納言を辞任。
1334年(建武元)7月9日、大納言を辞任し、従一位に昇叙。
1335年(建武2)4月7日、大納言に還任。 7月、大納言を辞任。
1336年(建武3・延元元)1月、出家。
[編集] 関連項目
万里小路家
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カテゴリ: 万里小路家 | 鎌倉時代の公家 | 南北朝時代の人物 (日本) | 室町・安土桃山時代の公家 | 1258年生 | 1348年没
P084
≪ 検非違使庁の活動 ≫
1322.04
使別当に北畠親房
1年で終
復任、日野資朝
四条隆資
四条隆資
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四条 隆資(しじょう たかすけ、正応5年(1292年) - 正平7年/観応3年5月10日(1352年6月22日))は、南北朝時代の南朝に仕えた公卿。父は四条隆実(その死後に祖父である四条隆顕の養子となる)。子に四条隆量・隆貞・隆俊・有資・西園寺公永母ら。従一位大納言(死後、贈左大臣)。南朝の実務における中心人物であり、最後は後村上天皇を守るために自ら足利軍と戦って戦死した。
後醍醐天皇の時代に権中納言・検非違使別当に任じられる。1332年、元弘の乱において天皇方として参加する。だが、鎌倉幕府軍の猛攻を受けて笠置山は落城して天皇は捕らえられてしまう。幸い幕府軍の追跡を逃れた隆資は護良親王・楠木正成を頼るが、幕府軍の攻撃にあって敗れて再度紀伊国に落ち延びて出家した。
だが、1333年に鎌倉幕府が滅亡して後醍醐天皇が帰京して建武の新政を始めると隆資も還俗して朝廷に復帰した。だが、一度苦境に立つと出家して挽回すると還俗するという隆資の行動に対して仏教を愚弄しているという批判が浴びせられた。二条河原の落書において「還俗」が批判に挙げられたのは隆資の事を念頭に置いたものであるとも言われている。
1336年、楠木正成を倒した足利尊氏が京都を占領すると、隆資は郊外の男山に籠もって高師直軍を破る。だが、後醍醐天皇が尊氏によって幽閉されたために再度紀伊国に逃れた。やがて、後醍醐天皇が吉野に入った事を知ると吉野にて天皇と合流する。
1338年に後村上天皇が即位すると、近衛経忠・洞院実世とともに吉野朝廷(南朝)の政務を主導することとなる。その頃、北陸における戦いで足利軍に敗れて吉野に落ち延びた脇屋義助(新田義貞の弟)に対して後村上天皇が慰労して褒賞を出すことを決めた際に洞院実世が「敗軍の将に恩賞を出すと言うのは富士川の戦いで敗れた平維盛以来である」と反対意見を述べた。だが、隆資は「義助は遠い北国で孤軍奮戦しながらも十分な支援を受けられなかったから敗れたのであり、その責任は支援を与えなかったここにいる公卿達にもある。(十分な支援を受けながら戦わずに逃げ帰った)維盛と同一に扱うのはおかしい」と反論して、天皇に忠節を尽くしている武士達を蔑視する公卿達の振る舞いを批判し、天皇の指示通りに褒賞を出させたのである。
1348年、北畠親房・楠木正行と連携して四条畷の戦いに臨んだ。公卿ながら武士に対しても公平な隆資の姿勢を慕う武士達の奮戦はあったものの、足利軍の圧倒的な兵力の前に惨敗した。だが、後村上天皇は隆資を慰労して従一位・大納言に任じたのである。
1351年、足利尊氏とその弟・直義との確執が深刻となると、尊氏は一時南朝側に降って直義討伐のために鎌倉に出陣した。この隙を突いて翌1352年南朝軍は京都を占領する。後は、男山の仮御所にいる後村上天皇を京都に迎えるだけとなったが、その年の3月には尊氏の嫡男・足利義詮の反撃によって南朝軍は京都を撤退、更に5月には後村上天皇がいる男山の仮御所が包囲された。5月10日、天皇は北畠顕能・名和長重に護られて男山を脱出する途中に足利軍と遭遇、殿を務めた隆資は奮戦空しく討ち死にすることとなった。
一説には『増鏡』の著者とする説もあるが、少数説に留まっている。
[編集] 関連項目
四条家
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E9%9A%86%E8%B3%87" より作成
P086
≪ 洛中の人の土地の支配 ≫
1322 神人公事停止令
≪ 元徳の関所停止令 ≫
通行税収入
綸旨の意味
鎌倉幕府交通支配への挑戦
第4章 国分寺
長門、周防
長門国分寺
下関市長府豊浦町
P101
< 伏見院政と長門国分寺 >
真言律宗
P118
< 周防国分寺 >
防府市にある
東大寺焼け落ち
造営料国
<覚順房覚恵による中興>
第5章 後醍醐政権の特質
≪ 政治と政策 ≫
< 綸旨万能と官制の特質 >
唐物に目がない後醍醐天皇
2008.05.20
P154
< 渡来禅僧との交流 >
村井章介氏
俊明極の参内
明極楚俊
http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_aiu.php?key=mi&s=140
31246
明極楚俊
みんき そしゅん
鎌倉後期の臨済宗の渡来僧。建仁寺二十四世、建長寺二十三世、南禅寺十三世、明極派の祖。明州慶元府昌国生。俗姓は黄。明極は道号、楚俊は諱。慶元府霊巌寺の竹窓について出家、育王山の横川如Uに参禅し、のち霊隠寺の虎巌浄伏の法を嗣ぐ。大伴貞宗の招請により竺仙梵Cを伴い来日。後醍醐天皇の帰依を得て、仏日?慧禅師の号を賜う。また北条高時の招きで鎌倉建長寺に住し、南禅寺・建仁寺に歴住。摂津広厳寺を開き初祖となった。著に『明極楚俊和尚語録』等。延元元年(1336)寂、75才。
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< 王権 >
真言立川流中興の祖
=文観
との深い関係
三宝院賢俊
護持僧
尊氏
P180
強い責任感と内省的性格
太平記における扱い
批判されること多い
P194
読了
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