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2008-08-31(Sun)

[]★松岡正剛『情報の歴史を読む』(NTT出版)2008.08.09- 19:32

         バグダード

         (神の賜物)

         フランクカール大帝

         アーヘン中心、カロリング朝ルネサンス

         阿部謹也

         森の中の小さな都市に過ぎぬ

         8世紀末

         第5代カリフ 23歳

         ハルーン・アル・ラシッド

         『千夜一夜物語

         『知恵の宝庫』

         コーランは絶対

         カイロ アズハルト大学

         

         第11章 ヨーロッパの意味

         ギリシャ神話の「エウロペ」

         ゼウスが白い牡牛に姿をやつしてエウロペを誘惑した

         ヒエロニムス

         ーヨーロッパ

         ー文化編集的

         ヨルダネス

         アルワイン

      P241

         十字軍

         ツール・ポワチエの戦い、732年

         巡礼ブーム

         1033.1052年

         終末の予告

         コレギア

         コレギア人

         巡礼者

         「講」〜資金で巡礼に行く

         サンチャゴ・デ・コンポステーラへ巡礼

         スペイン

         巡礼ネットワーク

         熊野比丘尼のネットワーク

         十界図

         スコラ哲学

2008.08.14

         イギリスヨーロッパではなかった

         ロジャー・ベーコン

         イギリス的発想

         →ピューリタン革命へ続く

         アングロマニアイギリス主義

         ガロマニアフランス主義

         図07. アーサー王の円卓の騎士

         オックスフォード

         ケンブリッジ

         ソールズベリ寺院や

         英国風ゴシック様式

         →継母フランスに対するイギリスの矜持

         カトリック派のメアリー女王

         による反動宗教改革

         の大迫害

         プロテスタント迫害

         1555ころ

         

         エミグレ

         カートライト

         ヘンリー8世

         国教会

         トマス・モア処刑

         メアリーカトリック

         プロテスタント迫害

         エミグレ

         スペインと争うエリザベス女王を歓迎

         七つの海

         スペインカトリックの国

      P261

         ピューリタニズムは聖書主義

         図10. メイフワワー号の出航

         ジェイムズ1世

         1603

         クラシス運動

         

         第12章 東と西のリズムが同期する

         図01. 吟遊詩人

[]東郷尚武『 海江田信義の幕末維新』 19:32

2008.08.31


海江田信義

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海江田 信義(かいえだ のぶよし、天保3年2月11日1832年3月13日) - 明治39年(1906年10月27日))は、日本の武士・薩摩藩士、政治家大村益次郎暗殺の首謀者。通称は武次。幕末期は有村俊斎の名で活躍。後に子爵となる。雅号は黙声・静山・孤松。== 略歴 == 天保3年(1832年)、薩摩藩士・有村仁左衛門兼善の二男として生まれた(幼名太郎熊)。11歳の時島津斉興の茶頭に出仕して茶坊主となり、俊斎と称した。

はじめ東郷実明に示現流を学び、次いで薬丸兼義に薬丸自顕流を学んだ。薬丸自顕流の伝承では道場破りに来たものの大山綱良に敗れて入門したとなっているが(伊藤政夫 編「野太刀自顕流-薬丸流-」)、俊斎は当時わずか15歳であり、史実かどうかは疑わしい。

尊王の志高く江戸では小石川水戸藩邸に出入りし、水戸の両田として名高い、藤田東湖、戸田忠太夫に師事した。安政5年(1858年)、大老の井伊直弼を暗殺すべく上京するが、計画は失敗(この際、弟(三男)である雄助が協力者として捕縛され、鹿児島にて母兄らの立ち会いの下、自刃している)。西郷隆盛と共に僧侶・月照を保護して帰国した。安政7年(1860年)、桜田門外の変に弟(四男)有村次左衛門が薩摩藩士として唯一参加し、本懐を遂げた後に自刃している。

文久元年(1861年)12月、日下部伊三治翼の長女・まつを娶り、同時に婿養子となって海江田武次(たけじ)信義と改名(海江田は日下部氏の旧姓)。その後、島津久光に従って上洛し、文久2年8月21日(1862年9月14日)の生麦事件ではイギリス人・チャールズ・レノックス・リチャードソンを斬りつけた。

戊辰戦争では、東海道先鋒総督参謀として活躍。明治維新政府においても要職に就いたが、大村益次郎と対立した。明治2年(1869年)の大村益次郎暗殺襲撃事件の首謀者であるという説もある。暗殺の直前、長州藩出身の京都府権大参事槙村正直あての木戸孝允の書簡にて、「海江田のごとき、表裏の事申し来り候につき」と」名指しで危険人物として注意されていた。海江田が京都にて弾正大忠の官に就いていた頃、大村殺害犯(神代直人ら)と同じ浪人達とつきあいがあった事は自身の談話録にも記されている通り、紛れもない事実である。海江田が彼らを扇動し、かねてから憎悪していた大村を殺したのだ、と当時から噂されていた。また海江田はこの事件が原因で長州出身者の反発を受け、華族制度施行の際に伯爵になれず子爵に止まったとも言われている。さらに大村殺害犯が処刑される時に弾正台から監視役として派遣された海江田が意図的に処刑の妨害を企てたとして政府の取調を受け、謹慎処分となる(「粟田口止刑始末」)。加藤弘之が突然従来の持説であった天賦人権論から国家主義へと転向した背景には、海江田が加藤に刀を突きつけて天賦人権論の誤りを認めさせたからだと言う説もある。

謹慎が解けた後、廃藩置県に先立って県となっていた奈良県知事となるが、明治4年の廃藩置県で解任、薩摩に帰ると島津久光に呼び出され、新政府に不満を持つ久光と新政府の調停役となる。明治5年、左院四等議官として再度官途につく。明治6年勅使とともに鹿児島へ下り久光を説いて上京せしめる。明治8年左院の廃止により御用滞在を命じられるが、鹿児島に帰りほどなく病む。

明治10年の西南戦争の際は病床にあったが、西郷の死を悼み、翌年大久保の遭難に際してもその死を悼んだ。明治14年元老院議官として再度官職につく。従四位、19年勅任官一等、20年欧米各国視察を命ぜられ、同年子爵、勲二等、21年帰国、23年貴族院議員、24年枢密顧問官、27年正三位、28年勲一等瑞宝章、32年従二位、35年旭日大綬章、明治39年(1906年)75歳で死去、正二位。

長女の鉄子は東郷平八郎に嫁いでおり、東郷一族とつながりが深かった。


[編集] 伝記

東郷尚武『海江田信義の幕末維新』(文春新書1999年) ISBN 4-16-660079-6

[編集] 海江田が登場する作品

花神(1977年、NHK・大河ドラマ、配役:中丸忠雄)

翔ぶが如く1990年、NHK・大河ドラマ、配役:佐野史郎

篤姫(2008年、NHK・大河ドラマ、配役:平山広行

[編集] 関連項目

幕末の人物一覧

貴族院

薩摩藩

藤田東湖

戸田忠太夫

神代直人

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%B1%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%BE%A9" より作成

カテゴリ: 幕末維新側人物 | 日本の国会議員 (1890-1947) | 日本の華族 | 都道府県知事市町村長 | 鹿児島県出身の人物 | 1832年生 | 1906年

[] 堺屋太一峠の群像11:13

2008.08.31


備中松山

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松山城御根小屋正門(現・岡山県立高梁高等学校備中松山藩(びっちゅうまつやまはん)は、備中国(岡山県)の一部を領有した藩。藩庁は松山城(高梁市)に置かれた。明治維新後に高梁藩(たかはしはん)と改名される。




目次 [非表示]

1 略史

2 歴代藩主

2.1 幕領

2.2 池田(いけだ)家

2.3 水谷(みずのや)家

2.4 安藤(あんどう)家

2.5 石川(いしかわ)家

2.6 板倉(いたくら)家

3 関連項目


[編集] 略史

徳川幕府開府前の慶長5年(1600年)からしばらくくは天領となっており、備中代官・小堀氏(小堀正次・政一)が統治していた。

元和3年(1617年)、因幡国鳥取藩6万石より池田長幸が6万5000石で入封し、立藩する。寛永18年(1641年)、第2代藩主・長常が無嗣子で死去したため廃絶した。

寛永19年(1642年)、成羽藩より水谷勝隆が5万石で入封する。松山藩の藩政・経済の基礎、松山城の城郭普請は水谷時代にほぼ完成を見たと言ってよい。第3代藩主・水谷勝美が無嗣子のため、末期養子・水谷勝晴をとったが、元禄6年(1693年)に遺領を継ぐ前に死去。勝美の弟・勝時をたてたが受け入れられず3000石の旗本に減封となる。




この際の松山城受け渡しには、忠臣蔵で有名な赤穂藩主・浅野長矩が任ぜられている。また長矩の名代として浅野家家老大石内蔵助が次の藩主安藤氏が来るまでの1年半もの間、備中松山城を管理している。城明け渡しにあたって内蔵助は、単身で松山城に入り、水谷家家老鶴見内蔵助と対談に及び、無血開城にこぎつけたという。大石と鶴見の名がたまたま同じ内蔵助であったことから「両内蔵助の対決」として評判になったという。






水谷氏除封の後、幕府により松山藩の領地は徹底的に検地をされた。元禄8年(1695年)の検地の後、上野国高崎藩より安藤重博が6万5千石で入封する。子の安藤信友は寺社奉行に任ぜられ、正徳元年(1711年)、美濃国加納藩に転封となった。

同年、代わって、山城国淀藩より石川総慶が6万石にて入封する。延享元年(1744年)、伊勢国亀山藩に転封となった。

同時にその亀山藩より板倉勝澄が5万石で入封する。以後、明治まで板倉氏の所領となった。有名な藩主として幕末に第7代藩主となった勝静が挙げられる。勝静は井伊直弼桜田門外の変で暗殺された翌々年の文久2年(1862年)、および徳川慶喜の代に老中首座(筆頭)となった。藩政では山田方谷を起用し藩政改革を成功させた。明治維新成立後は奥羽列藩同盟に加わり反新政府側として戊辰戦争を戦い、箱館まで転戦した。この勝静の行動により、明治維新後は岡山藩の管理下に置かれた。

明治2年(1869年)には勝静は山田方谷らの説得を受けて降伏したため禁錮刑に処せられ、また、石高も2万石に減封。勝弼(第5代藩主・勝修留)が藩主となり、




藩名も伊予松山藩との混同を避けるために高梁藩と改称された。




なお、勝弼が藩主になる前に方谷らが後日の御家騒動回避のために「勝全(勝静の嫡男、勝静が官位を没収された後、当主となっていたが朝廷からは藩主として認められないままに父と行動を共にしていた)が、帰藩したあとは藩主の地位を勝全に譲る」という誓約文を勝弼に書かせていた。だが、勝静が新政府から赦免された後にこの話を聞くと「主君は簡単に改めるものではない、ましてや勝全は朝廷から咎めを受けた身である」として、勝弼や重臣達の前で件の誓約書を破り捨てて重臣達に勝弼への忠誠を誓わせたと言われている(廃藩後、勝弼は男爵となり、明治29年(1896年)に49歳で死去)。

明治4年(1871年)、廃藩置県により高梁県となる。以後、深津県・小田県を経て岡山県に編入された。


[編集] 歴代藩主

[編集] 幕領

備中代官 (1600年 - 1616年

小堀(こぼり)家

正次(まさつぐ)

政一(まさかず)

[編集] 池田(いけだ)家

外様 6万5千石 (1617年 - 1641年)

長幸(ながよし)〔従五位下・備中守〕

長常(ながつね)〔従五位下・出雲守〕

[編集] 水谷(みずのや)家

外様 5万石 (1642年 - 1693年)

勝隆(かつたか)〔従五位下・伊勢守〕

勝宗(かつむね)〔従五位下・左京亮〕

勝美(かつよし)〔従五位下・出羽守〕

[編集] 安藤(あんどう)家

譜代 6万5千石 (1695年 - 1711年)

重博(しげひろ)〔従五位下・対馬守〕

信友(のぶとも)〔従四位下・対馬守〕

[編集] 石川(いしかわ)家

譜代 6万石 (1711年 - 1744年)

総慶(ふさよし)〔従五位下・主殿頭〕

[編集] 板倉(いたくら)家

譜代 5万石→2万石 (1744年 - 1871年)

勝澄(かつずみ)〔従五位下・周防守〕

勝武(かつたけ)〔従五位下・美濃守〕

勝従(かつより)〔従五位下・隠岐守〕

勝政(かつまさ)〔従五位下・周防守〕

勝宗覆つあき)〔従五位下・周防守〕

勝職(かつつね)〔従五位下・周防守〕

勝静(かつきよ)〔正四位・伊賀守 老中〕

勝弼(かつすけ)〔従五位〕 2万石に減封(明治2年より)

[編集] 関連項目

藩の一覧

山田方谷

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E4%B8%AD%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E8%97%A9" より作成

カテゴリ: 藩 | 岡山県の歴史 | 池田氏 | 水谷氏 | 三河安藤氏 | 石川氏 | 板倉氏

[]★松岡正剛『情報の歴史を読む』(NTT出版)2008.08.09- 10:28

2008.08.09

      P018

         藤原不比等

         藤原仲麻呂

         華厳世界観国分寺

         東海道53次

         53人の善知識

         入法界本『華厳経』

         

         ギリシャローマ古典

         アリストテレスの自然学

         ユークリッド幾何学

         プトレマイオス天文学

         ↓

         イスラム文化圏

         ↓

         アラビア語

         ↓

         発酵

         ↓

         ユダヤ人によりラテン語

         ↓

         ヨーロッパ逆流

         ↓

         ルネサンスが食べた

         

      P024

         英国

         指紋局

         ヒトゲノム

         =人間のDNA

2008.08.10

         昆虫学者 奥井一満

         『韓国人日本人

         大澤真幸

         この特別講義を依頼

      P082

         高橋秀元

         アルタミラ

         ラスコー

         洞窟画

         20千ー15千年前

         マドレーヌ

         ムスティエ期

         リズム

         チュリンガ(オーストラリア

         観念技術

         佐伯

         =空海の実家に当たる

         一族

         「サヘギ」

         よくしゃべる

         バルバロイ

         よくしゃべるうるさい連中

         (古代ギリシャ

         勝坂土器文様

         火炎土器文様

         新保土器文様

         バウハウス

          デザインスクール

          パウル・クレー

          カンディンスキー

         人間のデザインに対する根本的パワー

         ピプシサーマル

         気温上昇

         ナトゥフ文化(12千年前)

         ウツワ

         小麦自生

         ↓

         種まき収穫する原始農業

         土器

         (1)ものを入れる

         (2)煮炊きする

         (3)水をためる

         一族のアイデンティティ

         威信財

         シュメール人

         ウルク国家群と

         ウルク原文字

         経済

         「簿記書板」

         ヒエログリフ

      P100

         アッカド

         「ギルガメッシュ

         (長編)

2008.08.11

         ジッグラッド

         日干し煉瓦を積み上げ

         王権を天井の神から受ける施設

         アッシリア人のアッシリア定刻

         アッカド定国を滅ぼす

2008.08.13

         アレクサンドロス大王

         対話術

         逍遥

      P168

         ≪ 二つの東西帝国とユダヤキリスト教 ≫

         ローマ帝国

         漢帝国

         同時にスタート

         ガレノスの医学

         プトレマイオス宇宙論

         ベルガモン文化

         ローマユダヤ人が離散させられる事件

         ユダヤ教キリスト教

         転換

      P177

         ミトラス教の流行

         カラカラ帝のあとのヘリオガバルス帝はミトラス教を信奉

         三島由紀夫澁澤龍彦が愛した

         ザッカイ

         散り散りになったユダヤ教

         驚くべき方法で秘教化

         ミシュナ

         ミドラッシュ

         カバラ

         タルムード

         ゾハール

         イスカ=信用共同体

         フィロン

         グノーシス=認識

[]★藤沢周平『市塵(下)』(講談社文庫)2008.08.11-

2008.08.11

         4月改元

         宝永8年→正徳元年

         正徳の治か?

         10/17 川崎駅

         朝鮮通信使

         対馬藩国家老

         平田直賢

         藩儒 雨森芳洲

         同じ木下順庵の門下

2008.08.12

         三十八

         倒れる家宣

         重秀弾劾は今しかない

         瀉になやまされながら綴る弾劾の文書

         あおる間部

         重秀罷免される

         

         三十九

         9/14 甲府綱重の忌日

      P106

         四十

         村上正直

         鍋松

         鍋松の母 左京のつぼね

         死亡51歳

         井伊直該

         

         四十一

         10/20 

         芝三縁山増上寺へ

         11/2 葬儀

      P116

         林信篤の反撃

         土屋政直

         阿部正喬の後ろ盾

         本多忠良ー味方

         秋元喬知ー味方

         久世重之ー味方

         伊能佐一郎

         うどんやー指ヶ谷

         (さすがや)

         鍋松服喪のこと

      P123

         室鳩巣

         加賀藩に仕える

         幕府の儒者となる

         (新井白石推ばん)

         (儒者から政治への道の菅原道真に対して

         三善清行が勇退を勧めた

         

         お長

         権力の快さ

         林羅山の家康ほめ

         林信篤、利息受け取り

      P135

         四十三

         大学頭

         12/1 将軍家継4歳

         間部越前殿

      P141

         「改貨議」

         小日向シドッチ

         雑用の長助、はるが切支丹洗礼

[] 阪急電鉄パンフレット沿線案内から (17)

2008.08.12

○ 異人館コース

三宮

異国情緒と港町の輝き

神戸ポートタワー

三宮駅

北野坂

不動坂

カトリック神戸中央教会

ハンター

異人館通り

北野通り

ラインの館

異人館クラブ

英国館

洋館長屋

ベンの家

旧サッスーン邸

イタリア

山手八番館

うろこの家

デンマーク

オーストリアの家

オランダ

北野天満神社

風見鶏の館

萌黄の館

神戸華僑総会

シュウエケ邸

山本通3

トアロード

東天閣

神戸女子大学教育センター

神戸ムスリムモスク



〔今月の読了本〕 09:16

2008.07 20冊(今月)/ 106冊(今年)/ 664冊(自2004.01-)



20 2008.07.31 ★鎌田茂雄『華厳の思想』(講談社)2008.07.29-

19 2008.07.29 ★毛利敏彦江藤新平』(中公新書)2008.07.26-

18 2008.07.29 ★司馬遼太郎『俄ー浪華遊侠伝』(講談社文庫)2008.07.10-

17 2008.07.26 ★和田宏『司馬遼太郎という人』(文春新書)2008.07.25-

16 2008.07.25 ★司馬遼太郎『明治という国家(下)』(NHKブックス)2008.07.25-

15 2008.07.25 ★一坂太郎『幕末歴史散歩ー京阪神編』(中公新書)2008.07.22-

14 2008.07.22 ★林屋辰三郎他編『京都歴史と文化3政治と商業』(平凡社)2008.07.08-

13 2008.07.22 ★松浦玲『新選組』(中公新書)2008.07.16-

12 2008.07.16 ★都市問題実務研究会『事業用借地権の全て』(民法研究会)2008.07.16-

11 2008.07.15 ★新井白石『折たく柴の記』(中公クラシックス)2008.07.13-

10 2008.07.13 ★司馬遼太郎『明治という国家(上)』(NHKブックス)2008.07.13-

9. 2008.07.13 ★赤坂憲雄他『網野善彦を継ぐ』(講談社)2008.07.13-

8. 2008.07.12 ★一坂太郎『幕末歴史散歩ー東京編』(中公新書)2008.07.10-

7. 2008.07.10 ★竹内信夫『空海入門』(ちくま新書)2008.07.09-

6. 2008.07.08 ★遠山美津留『日本書紀の読み方』(講談社現代新書)2008.07.07-

5. 2008.07.07 ★松本清張『動乱の幕末』(河出書房新社)2008.07.04-

4. 2008.07.04 ★阿部謹也『日本にとって歴史とは何か』(岩波新書)2008.07.03-

3. 2008.07.03 ★西村公朝『釈迦と十大弟子』(とんぼの本)2008.07.03-

2. 2008.07.03 ★野口武彦『長州戦争』(中公新書)2008.07.01-

1. 2008.07.01 ★網野善彦『歴史と出会う』(洋泉社新書)2008.06.30-

[]★藤沢周平『市塵(上)』(講談社文庫)2008.08.09- 09:16

        機転の利く伊能佐一郎

        地震、しかし大揺れは来ない

        雷が鳴る

        灰が降ってくる

        3日目、富士山の噴火らしいとわかる

        12/2 ようやくやむ

        12/9 とまる

        

        十四

        宝永5 元旦は大雨

        異常な

        白石52歳

        

        5日、初進講

        熨斗目、海松茶(みるちゃ)ののしめ

        灰金という役金の課徴

        荻原重秀

        新銭だ、と間部

        穴あき銭である

        8月に薩摩の沖で大小多数のたこを揚げた

        船出て東方へ消えた

        耶蘇らしい

2008.08.11

         宝永6.1.3 綱吉

         麻疹(はしか)

         と発表

         1/10 死亡

         

         十六

         3年前 宝永3.3 白石意見書

         家宣の能楽好みを戒める

         後唐 荘宗、音楽、演劇を好む

         根本に綱吉の能楽狂い

         綱吉の逆鱗で古河に幽閉された熊沢蕃山

         元弘4に死去(4年後)

         師は中江藤樹

         蕃山の主君は池田光政

      P120

         酒井忠勝大老

         林道春 朱子学

         蕃山=人間平等思想=危険視

         陽明学

         30年老人

         林羅山

         幕府 急務三か条

         間部詮衡

         葬送の準備進行

         薬方、曲直瀬養安院

         河野松庵

         妻殺のうわさも

         

         十七

         石棺の銘

         銘文の形式は

         村上正邦

      P131

         犬目付ー生類憐れみの令の停止

         

         十八

         おますの具合が

         荻原のこと

      P150

         十九

         伊能佐一郎のこと

         伸びぬ学問

         女のこと

         松平輝貞

         息子伝蔵明郷

         

         二十

         出仕休む6月

         奥能 能楽

      P162

         林信篤と並勤に嫌気

         500石に加増

         間部は10千石加増で30千石

         屋久島の異人シロシチは誤りでシドッチ

         イタリアローマ

      P166

         二十一

         筋金入りの伴天連

         佐吉

         茗荷谷

         小日向の台地

         切支丹御用屋敷

         ラテン語

         ラテン語が話せる

         オランダ館 アドリアン・ダウ

         加増 旗本

         武蔵に比企郡奈良梨村越畑村

         埼玉郡野牛村

         11月、中の口に自分の控え部屋もらう

         西洋文明への強い関心

         岡本三右衛門

         ジェゼッペ・キアラ

         イタリア、シシリア島生まれ

      P172

         二十二

         島原の戦い

         横田

         デシビワイナ

         悪念が起きたら自らを鞭打つための道具

         サンタマリア像

         11冊の本

         悲しみの聖母

         大通詞ー今村源右衛門

         稽古通詞ー品川

              嘉福

         大目付ー横田

         六尺を超える大男

         マテオ・リッチ

         万国坤輿図

         (こんよず)

      P183

         二十三

         尋問

      P196

         二十四

         宝永7年

      P218

         湯島聖堂のこと

         その前身

         忍ヶ岡(上野)の林家

         下屋敷内にあった孔子廟

         林羅山

         家光から54千坪

         私的でありながら、公的に綱吉が格上げ

         間部、高崎城主へ

      P227

         二十七

         家宣の具合が

         

         南都(奈良・興福寺)の訴訟問題

         だんだんに敵が多くなるな

      P233

         佐一郎のこと

         中御門天皇の即位

         

         二十八

         京、大坂、奈良

         読了

[]★山際素男『破天』(南風社)2008.08.28- 07:48

2008.08.29

P122

小動物対日達

ハエやカを追う

専門の付き人

真言密教の教主=大日如来

釈迦、その他諸仏を含む宇宙の根本真理を顕す法身であり

その教義を

インドの金剛菩薩が受け継ぎ

南天竺のどこかに(竜宮に)鉄塔を建て秘蔵した

竜樹が竜宮において鉄塔を開き

竜王菩薩から教義を相承(受け継ぐ)

→竜智→金剛智→善無畏→不空→一行→恵果→空海

師資相承(師から弟子へ法脈を伝える)

インド仏教徒センター

アンベードカル博士

ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル

日本妙法寺

パトナ

カルカッタ

どこへいっても聞いたことなかった

二. 石礫

2008.08.30(土)


ヒンドゥ

仏教

イスラム教

三つ巴の戦い

マナケー

2008-08-30(Sat)

[]★山際素男『破天』(南風社)2008.08.28- 05:02

2008.08.28


墓参り

中2の冬、病


2008.08.29


甲斐の祐天 講談

大善寺

行基

吉田秀祐

その祖父

井上鉄伝〜長州武士

神変大菩薩

雨乞いの(念力)

勝沼・・・ぶどうの産地

旱魃

7日目に雨ふらす

3日目に雨ふらす

社会党共産党抗議、意に介さず

仏教は実践、行動、慈悲、戒律の中にこそあります

竜之介の無間地獄が待っていた

八王子高尾山薬王院、貫主 山本秀順に預ける

秀の名のつく坊主が多い

P062

第3章 出家

一. 高尾山薬王院

1960.08.08 得度

秀嶺名乗る

行基 749年に死亡

82歳、和泉の人

二. 貫主 山本秀順

1911生まれ

反戦思想、獄中へ

妹尾義郎

振興仏教青年同盟

便所掃除

下座精進を実践

P069

次は南にしよう

三. 放浪

屋久島

豊子と最後の逢瀬

伯耆大山 1700m

宮之浦岳 1935m

大蛇

うわばみ、これはわけが違う、

種子島

王寺

正眼寺

岐阜

のち京都臨済宗総本山妙法寺

六. 学生浪曲師

浅草浪曲学校

滝の川のアパート

東家楽水

葉山里子との恋愛

大正大学

鹿児島富田日雄

P093

易学に興味

道教に基礎をおく科学的な陰陽の思想

高尾山

タイ留学する気はないか

1963.11 ケネディ暗殺

1963.12 力道山の刺殺事件

1964.10 東京オリンピック

新幹線開通

1965 ベトナム戦争泥沼化

第二部

第1章 インド

一. カルカッタ

タイ留学は失敗

女も

しかし、パーリ語修得

インドへ、1967.08.08

日本山妙法寺

酒迎天信

40歳、インド10年

1962 中印戦争の影響で中華レストラン減る

二. ラージギルへ(王舎城)

西天開教記念祭

藤井日達上人、80歳

(1885-1985)

藤井日達

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藤井 日達ふじい にったつ、1885年8月6日 - 1985年1月9日)は、熊本県阿蘇(現・阿蘇市一の宮町)生まれの仏教僧侶で、日本山妙法寺大僧伽の創始者。

大分県臼杵学校に学び、1903年臼杵日蓮宗法音寺にて出家1912年日蓮宗大学現在立正大学)入学。さらに浄土宗大学院真言宗学林、法隆寺学院真言宗連合大学臨済宗建仁寺僧堂にて学ぶ。1912年に最初の焼身修行、33歳から衆生を教化するとの夢告を受ける。

1918年10月、中国の遼陽に最初の日本山妙法寺を建立、日本国内では1924年に最初の日本山妙法寺を建立する。その後、1930年インドに渡り、1933年マハトマ・ガンディーと出会い、非暴力主義に感銘を受けた。

戦後、非暴力平和運動活動家として主に知られる。「世界宗教平和会議」や「世界平和会議」の開催に尽力した。

自衛隊基地・駐屯地に外側から「あなたがたは日々人殺しの訓練をしている。部下にさせている。そんな仕事は辞めてすぐに別の職業に就きなさい!」とスピーカーで宣伝する活動が神道的な「ケガレ意識に基づく極めて封建的な職業差別と何度か批判を受けたことがある。

著書に、藤井日達自伝『わが非暴力』(春秋社)がある。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E4%BA%95%E6%97%A5%E9%81%94" より作成

カテゴリ: 日本の僧 | 法華系仏教 | 非暴力 | 熊本県出身の人物 | 1885年生 | 1985年

八木天摂

霊鷲山(グリドラクータ)

ガンジス平原が見渡せる

三. コブラと虎

マガダ国

ビンビサーラ王(BC543-491)

ジャイナ教寺院

百日回峰チャレンジ

団扇太鼓

P110

四. 岩山起こし

ナーランダ僧院

(ラージギルから10数キロ)

(5世紀に建立、玄奘三蔵が訪問、10000人の学生学ぶ『西唐域記』(7C))

カーストの話題

ヴァバーラギリの麓の温泉八木日達

まずしい食事

青唐辛子がりがり

1968 明ける

働きっぷり

日達視察

「王舎城に突然地湧の菩薩が現れた」と絶賛

P114

日本妙法寺への疑問

堀沢祖門あらわれる、「住職はおるか?」

うむ、天台はやるな(秀嶺)

2008-08-28(Thu)

[] 04:22

2008.08.28

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080827STXKD066227082008.html

治安「認識甘かった」 NGO中村代表

 【バンコク27日共同】アフガニスタン非政府組織NGO)「ペシャワール会」の伊藤和也さん(31)が武装グループ拉致され死亡した事件で、同会の現地代表中村哲医師(61)が27日、バンコク国際空港記者会見し、現地の治安悪化について「わたしを含め、情勢に対する認識が甘かった」と無念さをにじませた。

 中村医師伊藤さんについて、農業支援のリーダー格で、乾燥に強い作物の栽培に力を注いできたとした上で「現地の人から好かれ(拉致後は)村人数千人が捜索に当たった」と説明。「遺体に付き添って両親に届ける。丁重にあいさつしたい」と述べた。

 ジャララバードに残っている日本人スタッフは早急に帰国させるという。一方で「伊藤君の遺志を継ぐ意味でも、活動をやめることはない」と語り、アフガンスタッフで事業を継続する意向を示した。(01:07)

2008-08-27(Wed)

[] 山際素男『破天』 05:06

2008.08.27


山際素男

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山際 素男(やまぎわ もとお、1929年-)はノンフィクション作家インド文化研究家翻訳家。専門はインド文学三重県出身

中学高校でそれぞれ中退を経験し、法政大学文学部日本文学科卒。インド留学して、インド国立パト大学、ビスババラテ大学で学ぶ。その後、朝日新聞東京本社世界労連東京事務所勤務を経て文筆活動に入る。

インドにおけるカースト制度の悲惨な実態を告発した『不可触民 もうひとつのインド』で注目され、1998年古代インドの大叙事詩マハーバーラタ』の翻訳で第34回日本翻訳出版文化賞を受賞した。

チベット問題にも関わっており、ダライ・ラマ自伝の他、チベット関連書を翻訳。また、「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」にもかかわり、ダライ・ラマの発言の日本語翻訳を行っている。

翻訳家作家としての活動にとどまらず、講演活動なども精力的に行っている。

20代のころは、小説家志望で、同人誌活動を行っており、そこで同い年の色川武大と知り合い、お互いの家に泊まりあうほど、親密になり、色川が死去するまで交際があった。

色川は山際を「奇人」ととらえ、後に執筆した、奇妙な人物たちが次々と登場する色川の出世作『怪しい来客簿』に、山際を登場させたかったという。その後、色川の小説の中に、キャラクターとして登場した。

また、山際には二人息子がいたが、次男が色川の少年時代にそっくりたったため、「下の息子は、俺がインドに行っている間に、色川がつくった子供じゃないか」と冗談を言っていたという。

また、1984年に、吉行和子岸田今日子から「インドに行ってみたい」と依頼され、1984年末から1985年初めにかけて彼女らを案内してインド旅行につれていき、その旅を、『脳みそカレー味 岸田今日子吉行和子とのインド日記』としてまとめた。





[編集] 著書

『不可触民 もうひとつのインド三一書房 1981年

『不可触民の道 インド民衆のなかへ』三一書房 1982年

脳みそカレー味 岸田今日子吉行和子とのインド日記三一書房 1985年

カーリー女神の戦士』三一書房 1985年

インド群盗伝』三一書房 1985年

チベットこころ三一書房 1994年新書化にあたり、『チベット問題 ダライ・ラマ十四世と亡命者たちの証言』に改題)

『破天 一億の魂を掴んだ男』南風社 2000

マハーバーラタ インド千夜一夜物語光文社 2002

『不可触民と現代インド光文社 2003年

『踊るマハーバーラタ 愚かで愛しい物語光文社 2006

[編集] 訳書

マハーバーラタ 第1〜9巻』(三一書房1991年1998年

M・R・アナンド『不可触民バクハの一日』(三一書房1984年

T・S・ピライ『清掃夫の息子』(三一書房1986年

B.R.アンベードカル『ブッタとそのダンマ』(三一書房1987年

ダナンジャイ・キール『アンベードカルの生涯』(三一書房1995年

ヴィッキー・マッケンジーチベット奇跡の転生』(文芸春秋1995年

ダライ・ラマダライ・ラマ自伝』(文芸春秋2001年

ダライ・ラマダライ・ラマ幸福(しあわせ)になる心』(春秋社、2001年

ヴァイコム・M・バシール『あたいのじっちゃん、象、飼ってたの』(出帆新社2002年

マイケル・ダナム『中国はいかにチベットを侵略したか』(講談社インターナショナル2006年

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%9A%9B%E7%B4%A0%E7%94%B7" より作成

カテゴリ: 日本ノンフィクション作家 | 日本翻訳家 | インド文学者 | 1929年

2008-08-17(Sun)

[] 広瀬隆『持丸長者・戦後復興篇』 (4) 09:26

2008.08.17

鈴木安蔵

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鈴木 安蔵(すずき やすぞう、1904年3月3日 - 1983年8月7日)は、日本法学者(憲法学)。福島県相馬小高町(現・南相馬市)出身。


[編集] 人物

京都帝国大学哲学科に入学したが、河上肇の影響を受け経済学部に転じる。京都学連事件で検挙され、この事件が治安維持法違反第一号となり大学を自主退学、中野刑務所に2年間服役した。1937(昭和12)年に衆議院憲政史編纂委員に就任。 以後、在野でマルクス主義の立場で大日本帝国憲法をはじめとする憲法史や政治史を研究戦前の著書は実に20作以上に上っている。

明治文化全集編集にあたっていた吉野作造の影響を受け、大日本帝国憲法の制定史を研究してきた。

戦後社会統計学者の高野岩三郎らと「憲法研究会」を結成。当時新たに発掘された植木枝盛憲法私案「東洋大日本国国憲按」などを参考に、憲法研究会メンバーとして「憲法草案要綱」(鈴木の第3案を「憲法草案要綱」をまとめもの)をまとめた。これがGHQ憲法草案の基となる。

憲法研究会」は、終戦直後の1945年10月末に元東大教授高野岩三郎(後に初代NHK会長)が鈴木安蔵(憲法学者・後に静岡大学教授)に提起し、当時日本を代表する評論家等が、同年11月5日、杉森孝次郎(元早大教授)、森戸辰男(元東大助教授・後に片山・芦田内閣文部大臣)、室伏高信(評論家・元朝日新聞記者)、岩淵達雄(政治評論家・元読売新聞政治記者)らが集まり発足させた、民間の憲法制定研究団体である。

憲法草案要綱」には、「日本国の統治権は、日本国民より発する」「天皇は、国民の委任により専ら国家儀礼を司る」「国民の言論・学術・芸術宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布することはできない」「国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」「男女は、公的並びに私的に完全に平等の権利を享有する」など、現行日本国憲法と少なくない部分で通ずるものがあり、また、軍に関する規定も設けてなかった。

この要綱が、GHQ憲法草案に大きな影響力をあたえたことから、それをまとめた鈴木は、日本国憲法の間接的起草者といわれている。

鈴木は、1945年12月29日、毎日新聞記者の質問にたして、起草の際の参考資料に関して「明治15年に草案された植木枝盛(えもり)の『東洋大日本国国憲按(案)』や土佐立志社の『日本憲法見込案』など、日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬(しぎ)憲法時代といわれる明治初期、真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた廿余の草案を参考にした。また外国資料としては1791年のフランス憲法アメリカ合衆国憲法ソ連憲法ワイマール憲法プロイセン憲法である」と述べている。

この案が新聞に発表された3日後の12月31日には連合国軍総司令部(GHQ参謀2部(G2)所属の翻訳通訳部の手で早くも英訳、詳細な検討を実施したGHQのラウエル法規課長は、翌年1月11日付で、「この憲法草案に盛られている諸条項は、民主主義的で、賛成できるものである」と評価(1959年に文書が見つかる)、翌46年1月11日に同案をたたき台とし、さらに要綱に欠けていた、憲法最高法規性、違憲法令(立法)審査権、最高裁裁判官の選任方法、刑事裁判における人権保障(人身の自由規定)、地方公務員選挙規定等10項目の原則を追加して、「幕僚長に対する覚書(案件)私的グループによる憲法草案に対する所見」を提出、これにコートニー・ホイットニー民政局長が署名した(ラウエル文書。以前からGHQ草案を基にした憲法が制定後、要綱と似ていることが早くから指摘されていたが、ラウエルが「要綱は民主主義的で賛成できる」と評価した文書の発見で、要綱が大きな影響を与えたことが確認された)。

長らく在野の身であったが、戦後静岡大学教授愛知大学教授等を歴任。憲法改悪阻止各界連絡会議憲法会議)結成に参加し、初代代表委員に就任。護憲運動のリーダーとしても活躍した。

映画日本青空」のモデルになった。

NHK教育テレビは2007(平成19)年2月10日午後10時から放送の第168回ETV特集「焼け跡から生まれた憲法草案」(1時間30分番組)で鈴木の活躍をドキュメンタリーで描き、放送した。

◆著書 憲法民主主義 / 鈴木安蔵著. -- 光文社. -- (光文新書 ; 2) 基本的人権 / 鈴木安蔵著. -- 平和書房. -- (平和新書 ; 12) ハロルド・ラスキ研究 / 横越英一[ほか]著 ; 鈴木安蔵編. -- 第2刷. -- 勁草書房. -- (政治研究叢書 ; 1) 憲法歴史研究 / 鈴木安蔵著. -- 叢文閣版. -- 叢文閣 日本憲法科学の曙光 : 鈴木安蔵博士追悼論集 / 鈴木安蔵博士追悼論集刊行会編. -- 勁草書房 政党論 : 政党国民政治組織 / 鈴木安蔵著. -- 日本評論社. -- (政治全書 ; 第5) 憲法制定とロエスレル : 日本憲法諸原案の起草経緯と其の根本精神 / 鈴木安蔵著. -- 東洋経済新報社出版部 憲法制定前後 : 新憲法をめぐる激動期の記録 / 鈴木安蔵著. -- 青木書店. -- (青木現代叢書) 近代日本文学の背景 / 中野重治編. -- 河出書房. -- (近代日本文学講座 ; 第1巻) 社会思想と現代文化. -- 春秋社. -- (現代社会思想講座 / 春秋編集部編 ; 第5巻) 日本憲法史 / 鈴木安蔵[著]. -- 日本評論社. -- (法律学体系 ; 第2部 . 法学理論篇 ; 37) 法律史 / 鈴木安蔵著. -- 東洋経済新報社. -- (日本現代史大系) 自由民権運動史 / 鈴木安蔵著. -- 高山書院 近代日本国家と思想 / 家永三郎教授東京教育大学退官記念論集刊行委員会編. -- 三省堂. -- (家永三郎教授東京教育大学退官記念論集 ; 2) 占領と再生 / 鈴木安蔵[ほか]著. -- 汐文社, 1976. -- (昭和戦後史 / 家永三郎〔ほか〕編 ; 第1巻) 史的唯物論研究 : 生産力・階級・法・道徳 / 鈴木安蔵著. -- 実業之日本社 日本の国際的地位 / 鈴木安蔵[ほか著]. -- 日本評論新社. -- (別冊 法律時報) 憲法論集 : 大衆行動・国会憲法改正 / 鈴木安蔵著. -- 評論社 憲法調査会総批判 : 憲法改正問題の本質,鈴木安藏教授還暦祝賀論文集 / 有倉遼吉[ほか]編. -- 日本評論社 比較日本国憲法条文 / 鈴木安蔵編. -- 増訂新版. -- 評論社 憲法条約と駐留軍 / 鈴木安蔵著. -- 至誠堂 憲法研究 / 鈴木安蔵著. -- 酒井書店 明治憲法と新憲法 / 鈴木安蔵著. -- 世界書院 民主憲法の構想 / 鈴木安蔵著. -- 光文社. -- (光文新書 ; 3) 憲法概論 / 鈴木安蔵著. -- 勁草書房 日本政治の規準 / 鈴木安蔵著. -- 東洋経済新報社出版部 日本憲法学の生誕と発展 : 憲法学の課題と方法の探究 / 鈴木安蔵著. -- 法律文化社. -- (学術選書) 日本憲法史概説 / 鈴木安蔵著. -- 中央公論社 自由民権・憲法発布 / 鈴木安蔵著. -- 白揚社. -- (近代日本歴史講座 ; 第3冊) 憲法歴史研究 / 鈴木安蔵著. -- 改訂版. -- 大畑書店 比較憲法史 / 鈴木安蔵著. -- 勁草書房. -- (勁草全集) 日本憲法学 : 歴史的反省と展望 / 鈴木安蔵編. -- 評論社. -- (憲法理論研究叢書) 国法学 : 憲法学の基礎理論 / 鈴木安蔵著. -- 勁草書房. -- (勁草全書) 憲法改正の基本問題 / 鈴木安蔵[ほか]著. -- 勁草書房. -- (政治学研究叢書 ; 6) 憲法学断想 / 鈴木安蔵著. -- 敬文堂 佐々木憲法学の研究 / 田畑忍編. -- 法律文化社 文献研究マルクス主義法学 / 長谷川正安,藤田勇編 ; 戦前. -- 日本評論社 法学入門 / 鈴木安蔵編. -- 評論社 官吏制度の研究 / 鈴木安蔵編. -- 同友社 太政官制内閣制 / 鈴木安蔵著. -- 昭和刊行会 言論自由論 ; 勃爾号ヲ殺ス / 植木枝盛鈴木安蔵編. -- 実業之日本社 革命 : その理論と実際 / 鈴木安蔵著. -- 北隆館 近代日本政党史 / 鈴木安蔵著. -- 河出書房. -- (日本近代史叢書 ; 6) ソヴェト制の研究 / 鈴木安蔵編. -- 勁草書房. -- (政治学研究叢書) 現代議会批判 / 鈴木安蔵著. -- 至誠堂 基本的人権研究 / 鈴木安蔵[ほか]著. -- 勁草書房. -- (政治学研究叢書 ; 3) 基本的人権 / 鈴木安蔵著. -- 実教出版 現代福祉国家論批判 / 鈴木安蔵ほか著. -- 法律文化社. -- (学術選書) 日本国家構造 / 鈴木安蔵編. -- 勁草書房. -- (政治学研究叢書 ; 9) 明治維新政治史 : 現代日本誕生 / 鈴木安蔵著. -- 中央公論社 ファシズムと軍事国家 / 小此木眞三郎[ほか]著鈴木安蔵,浅田光輝編. -- 勁草書房. -- (政治学研究叢書 ; 史的唯物論政治学 / 鈴木安蔵著. -- 新版. -- 勁草書房 自由民権 / 鈴木安蔵著. -- 白揚社 政治学原論 / 鈴木安蔵著. -- 勁草書房 政治学原論 / 鈴木安蔵著. -- 全訂. -- 勁草書房 政治学原論 / 鈴木安蔵著. -- 勁草書房 政治学 / 鈴木安蔵著. -- 青林書院. -- (青林全書) 政治学入門 / 鈴木安蔵著. -- 北陸政治権力の諸問題 : 小岩井教授還暦記念論文集 / 小岩井浄[著] ; 今中次麿[ほか]編. -- 合同出版社 政治読本 / 鈴木安蔵著. -- 実業教科書 政治・文化の新理念 / 鈴木安蔵著. -- 利根書房 歴史政治 / 鈴木安蔵著. -- 実業之日本社 学問の自由と教育権 / 鈴木安蔵,星野安三郎共編. -- 成文堂 史的唯物論政治学 / 鈴木安蔵著. -- 中央公論社 近代日本民主主義 / 鈴木安蔵著. -- 新日本出版社. -- (新日本新書 ; 84)





[編集] 門下生

金子勝 (憲法学者) - 立正大学教授

[編集] 関連項目

日本国憲法

憲法研究会

Category:日本法学者]

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カテゴリ: 憲法学者 | 日本の政治運動家 | 憲法研究会 | 福島県出身の人物 | 1904年生 | 1983年没 | 人物関連のスタブ項目 | 法関連のスタブ項目

[] (3) 08:01

2008.08.17

ARS:買い戻し5兆6700億円に ワコビアも和解

 【ワシントン斉藤信宏】米ニューヨーク州は15日、オークションレート証券(ARS)と呼ばれる金融商品不正な方法で販売されて、投資家が多額の損失を被ったとされる疑惑で、米金融大手ワコビアと和解したと発表した。ワコビアは85億ドル(約9350億円)相当のARSを買い戻し、5000万ドル(約55億円)の補償金を支払う。

 米シティグループとJPモルガンチェースモルガン・スタンレースイスのUBSも、既にARSの買い戻しで和解している。同様に買い戻す方向で当局との協議に入っている米メリルリンチの分を加えると、少なくとも516億ドル(約5兆6700億円)分が買い戻される見通しとなった。

【関連記事】

米メリル:1兆円規模、買い戻し…金融商品説明不足

NY株:3日ぶりに大幅反落、224ドル安

住宅対策:市場活性化のため「担保付き債券」育成

米メリル:増資でシンガポール政府系ファンド引き受け

米シティ:4〜 6月期も赤字 損失合計は最大規模6兆円超

毎日新聞 2008年8月16日 9時50分

オークションレート証券(ARS)とは

2008/02/22(金)

 オークションレート証券(セキュリティーズ)(Auction Rate Securities:ARS)とは、地方債や社債、優先株などで構成され、数週間おきにオークション(入札)により金利配当金を見直す借換債(金利入札証券)です。

 借換債とは、既に発行していた債券の償還資金を調達するために、新たな債券発行するものです。代表的なものとして、建設国債赤字国債の償還に充てるための借換国債や、長期金利が低下してきた場合などに、企業が既に発行していた高利の債券をいったん繰上償還し、低利の債券を再び発行して金利負担を軽減するなどの目的で発行する借換債などがあります。

 現在アメリカでは、金融保証会社モノライン)がサブプライム関連の保証業務で損失を抱えたことで借換債の保証履行への懸念が強まり、投資家が急減しています。

2008-08-16(Sat)

[] 10:39

2008.08.16



広瀬隆

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広瀬隆 のその他の用法については広瀬隆 (曖昧さ回避)をご覧ください。

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文学賞

作家

詩人小説家

その他作家

広瀬隆(ひろせ たかし、1943年1月24日 - )は、ノンフィクション小説翻訳を手掛ける作家である。父は建築家の広瀬三郎。

目次 [非表示]

1 略歴

2 ノンフィクションの手法

3 主な著書

3.1 主な訳書(翻訳、監訳)

4 脚注

5 関連項目

6 外部リンク


[編集] 略歴

東京都生まれ早稲田大学理工学部(応用化学卒業メーカー技術者を経て、執筆活動を開始、医学文献等の翻訳に携わる。

チェルノブイリ原発事故を受けて書かれた著書「東京原発を!」(改訂版)、「危険な話」など、原子力発電の危険性を訴える著書で脚光を浴び、当時世界的に盛り上がった反原発運動の日本での旗手と目された。この反原発運動はあまりに大きかったので、電力会社等の原子力関係者は、日本原子力文化振興財団から異例とも言える広瀬への反論本[1]を出版し、広瀬の著書には意図的な事実の曲解や非科学的論法があると主張した。ただし当該書籍には、後に詳細が明らかになったウラル核惨事を単なる作り話と紹介するなどの明らかな誤りがいくつか含まれている。1980年代には、内外のデータベースを駆使した調査が注目を集めた[2]。

しかし現在では、当時心配されたチェルノブイリ原発事故級の事故が現在まで発生せず、世界的にも反原発運動そのものがある程度の退潮をみせているため、原発問題に対する発言が取り上げられる機会が減少している。


[編集] ノンフィクションの手法

通常ノンフィクションには、現場での調査と関係者へのインタビューを伴うが、広瀬の作品は文献調査を中心とする手法をとっている。一部ではアームチェアディテクティブ(安楽椅子探偵)とも評されている[3]。


[編集] 主な著書

『魔術の花』 1979.9 鼎書店 (小説

東京原発を!』1981.3(JICC出版局

ジョン・ウェインはなぜ死んだか』1982.12(文藝春秋

クラウゼヴィッツ暗号文』1984.4(新潮社

越山会へ恐怖のプレゼント』 1984.8 廣松書店

ゴルバチョフの処刑台―回答期限8月6日8時15分』 1985.6 光文社 (小説

『億万長者はハリウッドを殺す』上下 1986.4(講談社) 講談社文庫 上下 1989.4 (講談社

東京原発を!』集英社文庫 1986.8 (集英社)(JICC出版局版に大幅加筆修正)

『危険な話』1987.4(八月書館)

『ジキル博士のハイドを探せ データベース地球取材報告』 1988.4 (ダイヤモンド社)

『新訂版 ジョン・ウェインはなぜ死んだか』1988.8(文藝春秋

『四番目の恐怖』1988.8(講談社)(写真:広河隆一)

『眠れない話』1988.10(八月書館)

『不完全犯罪集英社文庫 1988.12 (集英社

『新版 危険な話』新潮文庫 1989.3 (新潮社

原発がとまった日』 1989.4 (ダイヤモンド社)

『最後の話』1991.4(八月書館)

『新版 眠れない話』新潮文庫 1991.6 (新潮社

『赤い楯―ロスチャイルドの謎』上下 1991.11(集英社)  集英社文庫1-4 1996.11-12(集英社

国連死の商人』1992.1(八月書館)

『いつも月夜とは限らない』 1991.6 (講談社) 講談社文庫 1995/11(講談社

『新版 最後の話』 新潮文庫 1994.1 (新潮社

ドイツの森番たち』1994.7 (集英社

『柩の列島―原発大地震が襲いかかるとき』 1995.3 (光文社

ハリウッド大家族―華麗なる黄金時代』 1996.3 (ダイヤモンド社)

『脅迫者の手』 1996.8 (光文社

『腐食の連鎖』 1996.11 (光文社

『予言された二十一世紀歴史を目撃した映画』1997.9 (集英社

『私物国家』1997.10(光文社

地球の落とし穴』 1998.3 (日本放送出版協会文春文庫 2003/8 (文藝春秋

漢方経済学―聴け、万国の労働者』 1998.11 (光文社

パンドラの箱の悪魔』1999.6(NHK出版

『恐怖の放射性廃棄物集英社文庫 1999.8 (集英社) (「ドイツの森番たち」の改題、加筆)

アメリカ経済支配者たち』集英社新書 1999.12(集英社

原子力発電で本当に私たちが知りたい120の基礎知識』2000.11 (東京書籍、※藤田祐幸共同出版

燃料電池が世界を変える―エネルギー革命最前線』 2001.2 (日本放送出版協会

『カレル橋の1ユーロ』 2001.9 (恒文社)

『世界石油戦争』 2002.6 (NHK出版

『世界金融戦争』 2002.11 (NHK出版

『一本の鎖』 2004.4 (ダイヤモンド社)

日本のゆくえアジアのゆくえ』 2004.9 (ダイヤモンド社)

『持丸長者 幕末・維新編』2007.2 (ダイヤモンド社)

『持丸長者 国家狂乱編』 2007.7 (ダイヤモンド社)

『持丸長者 戦後復興篇』 2008.4 (ダイヤモンド社)

[編集] 主な訳書(翻訳、監訳)

アーマンド・ハマードクターハマー ― 私はなぜ米ソ首脳を動かすのか』 ダイヤモンド社 1987年

レイトンマッカートニー『ベクテルの秘密ファイル―CIA・原子力ホワイトハウスダイヤモンド社 1988年

V・シムソン、A・ジェニング 『黒い輪―権力・金・クスリ オリンピックの内幕』 光文社 1992年

en:The Albuquerque Tribune(編)『マンハッタン計画プルトニウム人体実験小学館 1994年

[編集] 脚注

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^ 「政界ジャーナル編集部・監修『つくられた恐怖 「危険な話」の誤り』紀尾井書房、1989年ISBN 978-4765610551。

^ 『ジキル博士のハイドを探せ データベース地球取材報告』1988年4月、ダイヤモンド社

^ 『腐食の連鎖』等、現地での調査、取材を含む作品もある。

[編集] 関連項目

東京原発

DAYS JAPAN

[編集] 外部リンク

広瀬隆 web-site [地球の落とし穴]

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カテゴリ: 日本ノンフィクション作家 | 東京都出身の人物 | 1943年生 | 文人関連のスタブ

[] 広瀬隆『持丸長者・戦後復興篇』 (3) 10:34

2008.08.16


町田忠治

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町田忠治

まちだ ちゅうじ

町田 忠治

農林大臣

内閣 第1次若槻内閣

浜口内閣、第2次若槻内閣

商工大臣

内閣 岡田内閣

大蔵大臣(兼任)

内閣 岡田内閣

国務大臣

内閣 小磯内閣

表・話・編・歴

町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年5月17日) - 昭和21年1946年11月12日)は、明治から昭和期の政治家衆議院議員当選10回)。立憲民政党日本進歩党総裁、農林大臣・商工大臣大蔵大臣(兼任)などを歴任したが最晩年公職追放された。正三位勲一等。号は幾堂。愛称はノンキナトウサン。

記者生活

大学の恩師金子堅太郎の勧めで、法制局に勤務するものの1年で退官し、1888年明治21年)に論説記者として「朝野新聞」に入社した。これは犬養毅の手引きによるものだったが、犬養・尾崎行雄らとともに論陣を張った。藩閥政府の弾圧によって同新聞経営が困難となり、1891年(明治24年)11月には尾らとともに大隈重信の「郵便報知新聞」に移り、犬養・尾が国会議員となると実質上経営の実権者となった。また、財政学を勉強してイタリアの碩学コッサの「財政学」を翻訳して著し、早稲田専門学校では教科書用に採択した。

晩年

解消されていた政党復活に伴い、1945年11月に大日本政治会を母体として日本進歩党を結成しその総裁に就任した。しかし、翌年1月にGHQの公職追放令によって総裁の地位を追われ政界を引退した。同年夏頃から急速に老衰が目立ち始め、10月末に牛込の第一国立病院に入院し、わずか二週間後の11月12日午前4時38分、84年の生涯を閉じた。戒名は「憲忠殿衆誉無涯幾堂大居士」。葬儀は友人代表の幣原喜重郎が葬儀委員長を務め、同15日小石川護国寺で盛大に執り行われた。東京都小石川護国寺秋田市誓願寺に墓がある。

[]★家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書)2008.08.07- 10:06

2008.08.07   

        居内の凝華堂

        にこもり皇居の警備にあたる松平容保

        孤立無援の会津藩

        救ったのは孝明天皇

        ≪ 天皇による会津藩援護 ≫

        7/3夜 孝明天皇長州征討の朝命を下す

        まよう慶喜を孝明天皇が説得

        7/18 態度固まる

     P099

        第8章 一会桑の朝廷掌握と孝明天皇

        ≪ 長州ひいきの京都民衆 ≫

        元治元年7/19

        禁門の変

        火災は7/21まで続く

        京都市中の大半を焼く

        日用品高騰の原因は外国人に攘夷した

        長州に味方する京都人

        「残念さん)

        負けた長州を悼む

        むごい会津藩士の落武者狩

        勝

        

        ≪ 一会の協調 ≫

        ≪ 一会、天皇と関白 ≫

        黒谷に戻りたい会津

        病気の容保

        駄々っ子孝明天皇は年下の容保を離さない

        4ヶ国の力を借り、長州をたたこうとしているとの噂

        

        ≪ 一会桑と幕府対立 ≫

        家茂上洛の動き

        征長司令官を誰にするか

        尾張の徳川慶勝

        引き受けなければ慶喜に

        二条関白

        

        ≪ 会津藩内の対立 ≫

        ≪ 公用方への批判 ≫

        ≪ 松平容保の帰国拒否 ≫

        容保のもくろみ

        

        ≪ 一会桑敵視策中止 ≫

2008.08.08

         読了

[] 08:15

2008.08.16

鉄道トラブル:阪急宝塚線、線路に鉄板 ダイヤの乱れなし /兵庫

 13日午後10時半ごろ、宝塚市中山寺2の阪急宝塚線中山駅に到着した宝塚梅田行き普通電車(8両編成)の運転士が異音に気づき、駅員が駅の西約30メートルの線路上に約40センチ四方、厚さ約5ミリのさびた鉄板があるのを発見した。電車鉄板をはねたらしい。ダイヤに乱れはなかった。

 現場はフェンスに囲まれ、何者かがわざと鉄板を線路に置いたとみて、宝塚署は列車往来危険容疑で捜査している。【粟飯原浩】

阪神版〕

毎日新聞 2008年8月15日 地方版

2008-08-15(Fri)

[]★藤沢周平『市塵(上)』(講談社文庫)2008.08.09- 22:35

2008.08.09

         新井白石

         進講

         桜田の甲府藩邸で藩主綱豊に

         ご用人さま

         間部詮房

         寵臣

         柔毛(にこげ)

         生類憐みの令

         無作法な長身

         「勘解由殿」

      P010

         「つる姫様がなくなられたのだ」

         28歳

         紀伊中納言綱教に嫁ぐ綱吉の娘

         正室信子

         3人の側室

         お伝の方(五ノ丸さま)

         つる姫→

         徳松生むー死亡

         甥たる綱豊

         湯島の白石の家も焼く

         火事

         地震

      P014

         延宝8年5月 4代家綱の死

         異腹の弟、館林藩主

         綱吉就任

         真言の加持祈祷僧

         護国寺住職亮覧

         「前世に殺生の報い」

         護持院大僧正 隆光が継ぐ

         天下の経営のこと

      P018

         三.

         吉田

         井上

         戸田

         吉田藤八郎(同僚)

         赤穂浪士復仇の次第の書き上げ

         元禄6年 37歳

         桜田館出仕の儒者

         として甲府藩に召抱え11年前のこと

         (1)久留里藩土屋家

         (2)古河藩堀田家

         と浪人

         木下順庵の推挙

         河村瑞賢の孫娘、断る

         下男、佐吉

         狂歌読みの逮捕

         劇

         子沢山の家系

         妻女

         千太郎14歳長男

         伊能

         木下順庵の弟子を引きとる

      P027

         100疋の香典

         堀田家

         朝倉万右衛門の娘

         正俊、江戸城で刺殺

         高徳寺へのきぐう

         戸田忠利

         小出有より

         宮内どの

         

         六.

         加賀藩に推挙

         同門の岡島忠四郎に譲る

         綱教(つなのり)

         加賀藩主

         高力忠弘(こうりき)

         甲府藩

         友人西山順泰

      P037

         伊能佐一郎

         新石町(しんこく)

         龍助という男

         延宝9年(天和元)春

         畿内関東は飢饉

         天和3年7月 武家諸法度

         監視密告制度

         十年前

         元禄6年6月

         馬がものをいうという噂

         二年前の師走

         赤穂浅野の旧臣

         吉良義央

      P047

         七.

         瀉(しゃ)

         下総の古河の城下

         西ノ丸入りして将軍世子となる

         徳川綱豊

         「仁慈のおこころ」

        

         九.

         甲府藩邸

         詰所

         吉田藤八郎(儒者)

         村田十郎右衛門

         服部清助

         柴崎十郎右衛門

         服部藤九郎

         柴崎70歳超える

         馬術の名手

         行列で西ノ丸に入る

         先導=老中小笠原

         柳沢美濃守も同道

         家宣(いえのぶ)

         間部詮房・・・書院番頭格

         町野縫殿・・・小姓番頭格

         新井勘解由

         村田

         柴崎

         吉田

         服部(清)

         服部(藤)

         土肥源四郎

         以上西ノ丸御側衆

         支配とする

         

         十.

         坂部種之

         小出土佐守

         山本立長

         土肥源四郎は12歳

         八代洲河岸

         (やよすがし)

         29日

         戸田長門守

         (支配)

         翌元日

         29日までか?

         御流れ頂戴

         雨森芳洲のこと

         儒に閉じこもること

         俗と交わること

         1/11 初進講

[]★植草一秀『知られざる真実』(イプシロン出版)2008.08.06- 21:18

         旧田中派に対する私的怨念

         ルサンチマン

         デフレ

         日銀責任転嫁

         NHK

         2000 幸田真音日本国債』

         2001.01 リチャード・ヴェルナー

         『円の支配者』

         NHK日曜討論

         2回出場

         竹中

         本間

         事態改善時に呼ばれる

         政治討論

         経済討論

         

         30. 竹中氏の抗議

         タブロイド紙

         フジ、ゲンダイ

         日高利隆『人はどこまで動物か』

      P269

2008.08.09

         読了

[]★植草一秀『知られざる真実』(イプシロン出版)2008.08.06- 18:50

2008.08.06

         2007.08.03

         2006.10-11

         沖縄知事選

         仲井真当選 37千票差で

         糸数落選

         宇和島徳洲会臓器売買事件

         徳田毅

         虎雄の息子

         自由連合→自民

      P022

         2. テレビメディアの浅薄さ(せんぱくさ)

         小泉

         世論をMMを使って直接動かす政治

         元西独ヘルムート・シュミット首相

         世論操作

         「郵政民営化法案と○○」

         法案が米国政府の要求通りに策定されたことを

         問題にした反対議員

         小池百合子小林興起

      P030

         小泉発足

         ハンセン氏病訴訟・・・大写し

         障害者自立支援法

         ほとんど報道はない

         2006.12 イラクは内戦状態

         

         6. 福井日銀総裁追求の真相

2008.08.08

         永田寿康議員

         武部二男あてメール

         前原辞任

      P038

         日銀の独立性

         残されている日銀への政府介入の余地

         

         7. 摘発される人

           摘発されない人

         角栄

         米国の虎の尾

         田中真紀子

         加藤紘一

         青木幹雄

         村岡兼三

         鈴木宗男

         辻本清美

         西村眞吾

      P041

         逮捕

         書類送検

         大きな違い

      P043

         森稔氏は私に小泉批判はしないこと、と言った

         

         8. りそな国有化

         9. 小泉5大罪

         行政コントロール下のマス・メディア

         財務省権力

         (比較的に拡大、小泉政権下に)

      P050

         10. 自民党定例研究会

         11. 日本経済減速はなぜ

         12. 異論表明

      P065

         13. 小泉氏への進講

         耳を貸さない小泉

         

         14. 日本経済の崩壊

         

         15. 標的りそな

         拉致問題に関心9/17

         2002.09

         

         16. 1.3.5の秘密

         りそな繰り延べ税金資産

         自己資本比率

         12.2%

         1兆9600億円

         公的資金

         

         17. 小泉竹中経済政策の破綻

      P080

         18. 巨大国家の犯罪記録

         19. りそな銀行処理の闇

         

         20. 求められる事実検証

         中央青山監査法人

         かねぼう

         ミサワ九州

         足利銀行

         竹中平蔵

         木村剛

         KPMG

         朝日監査法人

         

         21. 天下り全廃したうえで改革を

         22. 第1種国家公務員の廃止

      P096

         日本たばこ産業

         UFJ銀行

         検査忌避摘発は恭順姿勢不足が原因か

         

         平成研究会

         =旧田中派

         

         清和研究会

         =旧福田派

         

         23. 切捨て弱者

         24. 米国隷属の外交

         電話帳

         腹部からの閃光、無数の小爆発

         DVD

         きくちゆみ

         ベンジャミン・フルフォード

         『暴かれた9.11疑惑の真相』

         2006.09.13に事件

        

         25. 外国資本への利益供与

         日本政策投資銀行

         リップルウッド

         旧長銀

         コンフィデンシャル情報

         8兆円の公的資金

         10億円で売却

         ロバート・ルービン

         瑕疵担保条項

         ゴールドマン・サックス

         アドバイザー

         新生銀行

         中津川博郷民主党議員2004.02.17

         日債銀

         あおぞら銀行

         サーベランス

         ローンスター

         東京相和銀行

         安値売り渡し

         小泉政権

      P113

         26. 露見した郵政米営化

         の実態

         「郵貯、簡保」

         「医療保険

         関岡英之『拒否できない日本』(文春新書

         竹中平蔵

         ゼーリック米国通商代表

         西部邁

         亀井静香

         デモクラシーデマゴギー

         人とライオンを戦わせる

         

         27. 濫用される権力

         テレビ討論

         厳格なルール、アメリカ

         

         28. 蔑視される国民

         (有)スリード

         2005.06.21

         竹中の秘書官の関係する会社

         随意契約

         「郵政民営化って、そうだったんだ通信」

         テリー伊藤

         2005.02.21 配布

         2004.12.15 (案)

         主婦、子供、老人(シルバー)を対象にすると効果があがる

         

         29. 言論封殺のメディアコントロール

         ・・・・・・・・・・・・

         





[] 阪急電鉄パンフレット沿線案内から (16) 12:45

2008.08.07

○ 月読神社

  松尾大社の境外神社

  伊邪那岐命の子の月読尊祭る

  秦氏が関わる

  安産=月延石

  神功皇后ー新羅出廷時祈願

  無事に応神天皇を出産

○ 華厳寺(松虫寺)

  最福寺谷ヶ堂

○ 西芳寺(苔寺)

  池泉回遊式庭園

  

[]★小谷野敦夏目漱石を江戸から読む』(中公新書)2008.08.05- 12:38

2008.08.05

      P079

         森田草平

         心中しそこなった平塚明子

         (らいてふ)

         メレディス

         

         第3章 女性嫌悪の中の「恋愛」

         世話浄瑠璃

         

         ≪ 女同志の義理 ≫

         「菅原伝授手習鑑」

         松王丸

         「義経千本桜」

         いがみの権太

         「伽羅(めいぼく)先代萩(はぎ)」

         政岡

         「行人」

         長野一郎

         ダンテ『神曲』

         パオロとフランチェスカ

      P115

         漱石はつくづく恐ろしい作家だ

         読了

[]★松山巌『世紀末の一年 1900年ジャパン』(朝日選書635)2008.07.31- 12:14

      P046

         尾崎紅葉(33)

         (徳太郎)

         「硯友社」

         M33.01 『金色夜叉

         掲載開始

         よみうり

         「可恐しく(おそろしく)光のね、金剛石」300円

         ヒロイン鴨沢宮

WIKIPEDIA

一高の学生の間貫一(はざまかんいち)の許婚(いいなずけ)であるお宮(鴫沢宮、しぎさわみや)は、結婚を間近にして、目先の金に目が眩んだ親によって、無理やり富豪の富山唯継のところへ嫁がされる。それに激怒した貫一は、熱海で宮を問い詰めるが、宮は本心を明かさない。貫一は宮を蹴り飛ばし、復讐のために、高利貸しになる。一方、お宮も幸せに暮らせずにいた。やがて、貫一は金を捨て、お宮と再会する。

         美貌

         自分の色を高く売ることに

         罪悪感を持たない

      P054

         2/23

         寒川裁判

         判決:有罪、刑:二等減、上告

         

         ≪ 三月、公害 ≫

         足尾鉱毒事件

         田中正造

         

         3/8

         川俣事件

         野口春蔵

         ・・・・・・・・・・・・・・・

[]★松山巌『世紀末の一年 1900年ジャパン』(朝日選書635)2008.07.31- 12:14

2008.08.01

         寒川の出獄の日、4/13

         子規庵

         人を笑わせる才能

         日本鉄道大宮工場

         佐藤紅録

         日本派

         

         4/29

         子規外出

         うれしい、の連発

         何も変わらない近所

         

         4/30

         古河潤吉

         陸奥宗光の子

         養子に

         原敬=古河鉱業副社長

         陸奥宗光の秘書

         大正天皇自動車を贈る

         T型フォード

         飛行機の成功、36メートル

         人力

         

         ≪ 5月、東京 ≫

         5/1

         ごみ処理問題

         コレラペスト対策

         1822 初上陸のコレラ

         水道管

         赤松

         雨宮敬次郎

雨宮敬次郎

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

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雨宮敬次郎(あめのみや けいじろう、あめみや けいじろう、弘化3年9月5日(1846年10月24日) - 1911年1月20日)は日本の実業家・投資家。「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれた。結束して商売にあたった甲州商人、いわゆる「甲州財閥」と呼ばれる集団の一人である。

目次 [非表示]

1 概要

2 逸話

3 参考文献

4 関連項目

5 外部リンク


[編集] 概要

甲斐国山梨郡牛奥村(現甲州市塩山牛奥)に生まれる。雨宮家は長百姓の家で、次男。少年時代から季節商いなどに従事し、成年になるまでに一財産築く。1870年(明治3年)から1872年(明治5年)頃に横浜へ転居し、生糸相場・洋銀相場で失敗。1876年(明治9年)から1877年(明治10年)にかけてアメリカヨーロッパを外遊し、発展段階にある近代国家が投資すべき産業は、鉄道、製鉄、水道等の社会基盤の分野だと見極めた。1879年(明治12年)に東京深川(当時の東京府南葛飾郡八郎衛門新田。現在の東京都江東区扇橋)で興した蒸気力による製粉工場が成功。

1883年(明治16年)に軽井沢の開発事業を行う。この時の開墾地は現在でも長野県北佐久郡軽井沢町に雨宮新田という地名として残っている。

1884年(明治17年)に相場取引を止め東京に移住。この頃、製粉工場は発展し、1886年(明治19年)に東京蔵前の官営製粉所の払い下げを受け、翌1887年(明治20年)には主に軍用小麦粉製造を目的とする有限責任日本製粉会社へと改称した。この会社は1896年(明治29年)9月に日本製粉株式会社となり、現在は日本の代表的な製粉会社となっている。

1888年(明治21年)に中央本線の前身となる甲武鉄道への投機で大きな利益を出し、同社の社長にも就任した。

1891年(明治24年)には川越鉄道(現在の西武国分寺線)の取締役となる。同年、第1回藍綬褒章を受賞。1892年(明治25年)に日本鋳鉄会社を興し、当時の東京市に水道用鉄管を納品した。しかし、1894年(明治27年)のは納期遅延問題を生じ、雨宮も刑事告訴されるに至った。(淀橋浄水場の日本鋳鉄疑獄の項を参照)

1893年(明治26年)北海道炭礦鉄道の取締役に就任、大師電気鉄道の発起人になる。1894年(明治27年)豆相人車鉄道を敷設、岩手県の仙人鉄山(現在の北上市和賀町)を開発。1903年(明治36年)に東京商品取引所(現在の東京工業品取引所)の理事長になる。同年東京市街鉄道の会長に就任。1905年(明治38年)江ノ島電鉄社長に就任。1904年(明治37年)桂川電力を興す。1908年(明治41年)に大日本軌道を設立。広浜鉄道等を敷設。その他、海運・石油・貿易など様々な事業において活躍。

1911年(明治44年)に64歳で永眠した。婿養子に事業を引き継いだ雨宮亘がいる。 歌人の雨宮雅子は敬次郎の孫にあたる。


[編集] 逸話

中央本線が甲州市で塩山駅方面に向けて北側に湾曲しているのは、1903年(明治36年)の開通時に敬次郎の政治力により、出身地へ線路を通したとの説がある(外部リンクの山梨中央銀行金融資料館のホームページ参照)

戸籍上での「雨宮」の読み方は「あめみや」であるが、「雨宮」姓が山梨県には広く存在していたため、晩年には「あめのみや」と読ませるようになったといわれている。

[編集] 参考文献

三輪正弘編 『近代を耕した明治の起業家・雨宮敬次郎』 信毎書籍出版センター2003年、ISBN 4-88411-025-0

[編集] 関連項目

雨宮製作所

大日本軌道

日本製粉

[編集] 外部リンク

雨宮敬次郎 | 近代日本人の肖像(国立国会図書館

山梨中央銀行金融資料館による紹介

日本製粉の沿革紹介

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E5%AE%AE%E6%95%AC%E6%AC%A1%E9%83%8E" より作成

カテゴリ: 鉄道の歴史 | 鉄道に関係する人物 | 日本の実業家 | 山梨県出身の人物 | 1846年生 | 1911年

         =日本鋳鉄(株)

         泉鏡花

         =無菌、潔癖症

         

         5/10

         皇太子

         ご成婚

         人力車夫の反対

         奥民建之

         車会党

         星亨派の横暴

         博文館社長

         大橋新太郎

         オシトオル

         の異名

         

         5/25

         

         ≪ 6月、教育 ≫

         6/3

         6/13

2008.08.02

         ≪ 8月、アールヌーヴォー ≫

         与謝野鉄幹

         鳳晶子

         堺市甲斐町

         菓子屋の老舗「駿河屋」に生まれる

      P242

         岡倉天心

         九鬼隆一

         東京美術学校

         「文壇照魔鏡」

         スキャンダル

         九鬼の妻 波津子

         博物館長 九鬼

         博物館美術部長 岡倉天心

         美術学校図案科教授

         福地俊一の策謀

         天心を慕う者

         橋本雅邦

         横山

         

         下村観山

         菱田春草

         M31 日本美術院

         

         8/24

         鴎外

         三木竹二歌舞伎」に寄せる

         原田直次郎

         が旧派とみなされたことに同情

         高山樗牛

         (30)

         志賀直哉

         祖父が関係、援助を受けた古河市兵衛への抗議行動への

         参加を父は認めない

         18歳

         黒田清輝

         法律を学びにパリへ

         遊学

         がもともとのこと

      P259

         ≪ 9月 アジア ≫

         中村不折

2008.08.04

         読了

[] 阪急電鉄パンフレット沿線案内から (15) 11:08

2008.08.02

≪ 松尾〜上桂 ≫

静けさに過去を見る

松尾駅

阪急嵐山線

松尾駅

松尾大社

物集女街道(29号線)

東海道自然歩道

月読神社

西光寺

西方寺川

最福寺谷ヶ堂

華厳寺(鈴虫寺)

華厳橋

かぐや姫竹御殿

松尾小学校

池大雅美術館

西芳寺(苔寺)

地蔵院(竹の寺)

浄住寺

バロックザール  音楽記念館

山田口

上桂駅

桂駅

○ 松尾大社

  14m朱色の大きな鳥居

  王城鎮護の神

  松尾造り

  男神

  女神

  重森三玲氏による松風苑

  磐座の庭

  曲水の庭

  蓬莱の庭

  西山一帯

  海の神様

  酒の神様

  「亀の井」

  酒造業者

○ 月読神社





[] 広瀬隆『持丸長者・戦後復興篇』 (3) 10:11

http://plaza.rakuten.co.jp/playboy69/diary/200511250000/

2008.08.15


今回は昭和のプレイボーイ、二人の安藤氏の伝記本を紹介しよう。

   まずは、昭和PLAYBOYS推薦男、

安藤明

:戦後昭和日本を救ったプレイボーイ、謎のフィクサー安藤 明。

 なぜ、一運送会社の社長が日本を救えたのか?


■厚木事件の解決は安藤明の数々の伝説の始まりだった。戦前から手掛けていた電話線工事で大安組はさらに成長。最盛期は全国に十数か所の支店、従業員16万人をかかえる巨大企業になっていた。

■GHQの占領政策

安藤は国の混乱を避けるためGHQ親日派将校との太いパイプを作り、GHQ高官に天皇制の大切さを説いた。そして安藤の人脈と提案により昭和20年9月27日「天皇・マッカーサー会見」が実現する。

■昭和の鹿鳴館

安藤は自らの資材を投じて「大安クラブ」を作る。それはGHQの将校だけを接待するために作られた高級クラブだった。


終戦直後焼け野原の東京・築地に「大安クラブ」が誕生した。

多数の美女たちが雇われ、GHQ高官相手に接待攻勢が繰り広げられた。

酒、女、破格の贈り物…私財を投げ打って、この昭和「鹿鳴館」を開設した男の名を安藤明という。その目的はただ一つ。天皇制護持―。

歴史の彼方に消え去った快男児の生涯が甦る。

終戦史に一閃の光芒を放つ「大安クラブ」の全貌。)

日本のため、天皇制を守るため自らの私財を投げ打ってまで影で奔走した安藤。しかしその安藤も病には勝てず、昭和37年永眠。奇しくもその日は17回目の終戦記念日であった。

彼なくては東京に原爆が落とされていたかもしれない!?

戦後の歴史を裏で支えた伝説の男、

安藤 明に足をむけてわ眠れなくなるであろう。

[]★松山巌『世紀末の一年 1900年ジャパン』(朝日選書635)2008.07.31- 09:35

      P046

         尾崎紅葉(33)

         (徳太郎)

         「硯友社」

         M33.01 『金色夜叉

         掲載開始

         よみうり

         「可恐しく(おそろしく)光のね、金剛石」300円

         ヒロイン鴨沢宮

WIKIPEDIA

一高の学生の間貫一(はざまかんいち)の許婚(いいなずけ)であるお宮(鴫沢宮、しぎさわみや)は、結婚を間近にして、目先の金に目が眩んだ親によって、無理やり富豪の富山唯継のところへ嫁がされる。それに激怒した貫一は、熱海で宮を問い詰めるが、宮は本心を明かさない。貫一は宮を蹴り飛ばし、復讐のために、高利貸しになる。一方、お宮も幸せに暮らせずにいた。やがて、貫一は金を捨て、お宮と再会する。

         美貌

         自分の色を高く売ることに

         罪悪感を持たない

      P054

         2/23

         寒川裁判

         判決:有罪、刑:二等減、上告

         

         ≪ 三月、公害 ≫

         足尾鉱毒事件

         田中正造

         

         3/8

         川俣事件

         野口春蔵

[]★家永三郎津田左右吉の思想史的研究』(岩波書店)2008.07.31- 09:22

2008.07.31

      P603

         M24(19歳)

         沢柳政太郎の家に寄寓

澤柳政太郎

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(沢柳政太郎 から転送)

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澤柳政太郎 澤柳 政太郎(さわやなぎ まさたろう、慶応元年4月23日(1865年5月17日)-1927年(昭和2年)12月24日)は、明治・大正期の教育官僚、教育者。大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たす。長野県松本市生まれ。


[編集] 概要

松本藩士・澤柳信任の長男として生まれる。

1875年(明治8年)に長野県開智学校下等小学校から東京師範学校附属下等小学校(現・筑波大附属小)へ転校。

その後、東京府第一中学変則科(のちの府立第一中学校、現・都立日比谷高校)に入学。

同級には親友の狩野亨吉、上田萬年、幸田露伴尾崎紅葉などがいた。

のち、教育令改正のため、第一中学から新制 大学予備門(のちの一高、現・東大教養学部)に繰上げ入学をした。

のち、東京大学(のちの帝国大学東京帝国大学文学部哲学科を卒業。

同郷の辻新次の誘いにて文部省に入る。

文部官僚時代、小学校令を改正して、4年から現在の6年の課程にし、また、旧制高等学校を増設し、旧来の藩閥の弊から脱却、全国から人材を登用する扉を開いたとされる。

1906年(明治39年)から2年間文部次官。

高等商業学校校長(校長事務取扱 1898年11月24日 - 1899年3月25日)を経て、1911年(明治44年)に東北帝国大学初代総長、1913年(大正2年)に京都帝国大学総長を歴任。

京都帝国大学では、大学の刷新のため7人の教授を解任しようとして、これがスキャンダルとなる。

その7人の教授の中に、教育学者の谷本富もいた。

1914年(大正3年)春、逆に自身が京都大学を追われることになる。

「沢柳事件」と呼ばれるものである。

その後、陸軍士官学校予備校として名高かった成城学校の校長に就任。

当初、在官中の沢柳は官公立学校至上で私学の排斥を行っていたが、野に下ってからは積極的に私学も奨励した。

同校内に新教育の実験校として、1917年(大正6年)、成城小学校を創立した(成城学園の起源)。

ここに広島から、長田新の推薦により小原國芳を訓導として招聘し、以来、成城学校は大正自由主義教育運動の震源地となる。

沢柳も1898年(明治31年)にドゥ・ガンの『ペスタロッチー伝』を訳したり、1909年(明治42年)には『実際的教育学』を書くなど、新教育の指導者としての役割を担った。

1916年(大正5年)以降は、帝国教育学会の会長、大正大学の初代学長にも就任している。息子は、美術史学者の沢柳大五郎。

松方幸次郎、木下正雄と共に尽力して、1922年(大正11年)、ロンドン大学講師のハロルドパーマーを日本に招いた。

翌年、パーマー文部省内に設立した英語教授研究所(現在の語学教育研究所)の理事長となった。


[編集] 文献

『実際的教育学』 明治42年初版(日本の教育学関係の古典)

『沢柳政太郎全集』 全10巻・別巻1 国土社 1975-1980年(戦前、存命中に出た版は全6巻)

沢柳礼次郎著作・『吾父沢柳政太郎 伝記・沢柳政太郎』大空社 1987年

新田義之『ミネルヴァ評伝選 沢柳政太郎』ミネルヴァ書房 2006年

[編集] 外部リンク

創立者 沢柳政太郎略歴成城学園公式サイト

先代:

久原躬弦 京都帝国大学総長

第5代:1913年 - 1914年 次代:

山川健次郎

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%A4%E6%9F%B3%E6%94%BF%E5%A4%AA%E9%83%8E" より作成

カテゴリ: 日本の教育学者 | 高等教育の歴史 (日本) | 大正時代の教育 | 大正自由教育運動 | 日本の文部官僚 | 1865年生 | 1927年

         M28 上京

         白鳥庫吉の庇護をうる

         

         M33(28歳)

         独逸協会 中学教師

         

         M36(31歳)

         10月、 国定小学校日本歴史教科書発行

         神代の物語から始まる

         日本歴史、全国民の脳裏に注入される

[]★松山巌『世紀末の一年 1900年ジャパン』(朝日選書635)2008.07.31- 09:10

         「不如帰」

         

         2/12

         陸かつ南

         長男 幹一

         死亡 1歳

         夏目漱石(34)

         (金之助)

         に手紙

         熊本県坪井町

         

         2/17

         寒川鼠骨(26)

         (陽光)

         

         2/18

         養育院

         困窮者

         捨て子

         迷子収容

         

         2/18

         横山源之助

         「日本之下層社会」

         (M32)

         鼠骨ルポ

         

         2/13

         坂井クタの訴訟

         28年前

         マリア・ルズ号事件

         清国人

         救世軍

         山室軍平(29)

         田圃の繁

         馬鹿竹

         などの地回りを雇う桜主

[] 広瀬隆『持丸長者・戦後復興篇』 (2) 08:58

2008.08.15


有末精三

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有末精三

1895年5月22日 - 1992年2月14日

生誕地 北海道

所属組織 大日本帝国陸軍

軍歴 1917〜1945

最終階級 陸軍中将

部隊 参謀本部第2部長

戦闘 日中戦争

太平洋戦争

有末精三(ありすえせいぞう、1895年5月22日 - 1992年2月14日)は、旧日本陸軍軍人(陸軍中将)である。弟の有末次は陸軍中将、有末四郎は陸軍軍医大尉。妻は村田信乃陸軍中将の娘。北海道出身

目次 [非表示]

1 人物

2 経歴

3 著作

4 関連項目


[編集] 人物

二・二六事件以後の軍内部でのいわば下克上の風潮が強まる中、参謀本部軍務課長時代に、阿部内閣の実質的成立者であったといわれる。

また終戦に際し、

GHQとの交渉に携わり

占領政策の円滑化を図る。


[編集] 経歴

陸軍士官学校29期恩賜の銀時計拝受

陸軍大学校36期恩賜の軍刀拝受

1941年(昭和16年)3月 北支方面軍参謀副長

1941年(昭和16年)10月 少将

1942年(昭和17年)8月 参謀本部第2部長

1945年昭和20年)3月 中将

1945年昭和20年)8月 対連合軍陸軍連絡委員長

[編集] 著作

1987年、『終戦秘史有末機関長の手記』芙蓉書房出版 ISBN 4829500093

[編集] 関連項目

有末賢(慶應義塾大学法学部教授、甥)

この「有末精三」は、人物に関する書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(ウィキプロジェクト 人物伝)。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%9C%AB%E7%B2%BE%E4%B8%89" より作成

カテゴリ: 日本の陸軍軍人 | 太平洋戦争の人物 | 北海道出身の人物 | 1895年生 | 1992年没 | 人物関連のスタブ項目

2008-08-14(Thu)

[]★松山巌『世紀末の一年 1900年ジャパン』(朝日選書635)2008.07.31- 19:01

2008.07.31

         一月 外国人

         アメリカの船乗り ミラー

         横浜で人を殺すという事件あり

         東京根岸鶯横町

         子規庵がある

         母 八重

         妹 律

         1/1 子規34歳

         四枚引きのガラス

         陸羯南

         1900=M33

         子規=ほととぎす

         鳴き声が血を吐く声に似ている

         石川啄木=15歳

         伊藤左千夫(37)

伊藤左千夫

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伊藤左千夫文学

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作家

詩人・小説家

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伊藤左千夫(いとう さちお、元治元年8月18日(1864年9月18日) - 大正2年(1913年7月30日)は日本の歌人、小説家。本名 幸次郎。上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家出身。明治法律学校(現・明治大学)中退。

明治31年(1898年)に新聞「日本」に『非新自讃歌論』を発表。『歌よみに与ふる書』に感化され、正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、斎藤茂吉土屋文明などを育成した。

また、明治38年(1905年)には、子規の写生文の影響を受けた小説『野菊の墓』を『ホトトギス』に発表。夏目漱石に評価される。代表作に『隣の嫁』『春の潮』など。

大正2年(1913年)に脳溢血のため死去。

山武市歴史民俗資料館の横には左千夫の生家がある。資料館には左千夫に関する資料が多く展示されている。また、町内には伊藤左千夫記念公園があり、『野菊の墓』の主人公である、政夫と民子の像がある。また、錦糸町駅南口,東京都立城東高等学校内には左千夫の歌碑が建立されている。


[編集] 茶の湯

左千夫は茶道にも通じており、子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けた。

一戸建ての茶室を欲しており、友人である蕨真の助けを借りて、自邸内に茶室「唯真閣」を建立した。現在では生家に移築されている。


[編集] 外部リンク

伊藤左千夫について

伊藤 左千夫:作家別作品リスト青空文庫



この「伊藤左千夫」は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作家・随筆家)に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆、訂正等して下さる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%B7%A6%E5%8D%83%E5%A4%AB" より作成

カテゴリ: 文人関連のスタブ | 歌人 | 日本の小説家 | 明治時代の人物 | 上総国の人物 | 山武市 | 1864年生 | 1913年

         =伊藤卓次郎

         本所萱場町で牛を飼う、牛乳を売る

         

         「歌よみに与ふる書」

         

         1/5

         幸徳秋水(30)

         (伝次郎)

         「万朝報」

         正月1週間

         差別もなく自由で平等になれる

         から正月はうれしい

         

         坂本慶次郎(35)

         鍛冶橋監獄の中で年越

         稲妻強盗

         ロバートミラー

         1850生まれ、NY州バッファロー

         水夫

         2mの巨人

         条約改正M32.07.17に

         殺人、3人殺し

         検事、平沼騏一郎

         (34)

         岡山、津山生まれ

         ノルマントン号事件

         哲学者井上哲次郎

         

         1/16

         浅井忠

         (45)

         画家の送別会

         黙語先生

         パリ万博

         居留地

         =内地雑居

         

         1/29

         

         ≪ 2月、女 ≫

         吉原の太鼓聞こえて更ける夜に

         ひとり俳句分類する我は

         

         2/6

         虚子

         ホトトギス

         徳富蘆花

         (33)

         (健次郎)

[] 米民主党の州委員長、撃たれ死亡 逃走の男、警官が射殺 18:41

http://www.asahi.com/international/update/0814/TKY200808140320.html

2008.08.14

民主党の州委員長、撃たれ死亡 逃走の男、警官が射殺2008年8月14日18時1分

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 【ニューヨーク=真鍋弘樹】米南部アーカンソー州の州都リトルロックで13日正午ごろ、民主党委員会本部に男が侵入し、ビル・ガトニー委員長(48)に向けて銃を発砲した。委員長は数時間後に死亡、男は車で逃走したが、追跡した警察に射殺された。

 男は50代の白人で、犯行の動機や思想的背景は不明。地元からの報道によると、男は党本部に歩いて入り、「ボランティアに興味がある」と話した後、職員を押しのけて委員長室へ入り、発砲したという。男は車で約40キロ逃走し、警官隊と銃撃戦を演じた。

 同州は、民主党オバマ氏と大統領選指名候補の座を争ったヒラリー・クリントン上院議員の夫、クリントン大統領が以前、知事を務めた。

[] 広瀬隆『持丸長者・戦後復興篇』 18:11

2008.08.14

http://members.ytv.home.ne.jp/shimoyamania/194907050003.html

矢板玄

謀殺情報 VS 自殺情報

高度経済成長の中においても、不思議とこの事件は忘れ去られることがなかった。

それまでの謀殺情報の集大成となったのが、矢田喜美雄の「謀殺・下山事件(昭和48)」だ。ここで矢田は総裁の死体を轢断現場まで運搬したという「S」という男の証言を聞き出すことに成功する。矢田は事件発生以来、新聞記者の枠を越えて東大法医学教室に出入りし、現場手前の線路上から謎の血痕まで発見している。そうしたキャリアを持つ作者による本作は時のベストセラーとなった。後に熊井啓監督で「日本の熱い日々・謀殺・下山事件」として映画化されている。

続いて自殺説の集大成ともいえる佐藤一の「下山事件全研究(昭和51)」が出版された。佐藤は松川事件の元被告という特異な立場の持ち主で、下山事件研究会に加わるうちに他殺説に疑問を感じるようになっていった。他殺説派の多かった研究会と袂を分かち、共産党からも除名された佐藤だが、10年にわたる研究の結果、慎重かつ冷静な筆致で数々の他殺説の根拠を看破してみせた。

昭和50年代以降、古畑鑑定の信頼性も揺らいできた。教授が昭和20年代に行なった「弘前大教授夫人殺害事件」「財田川事件」「松山事件」などの鑑定結果が再審などによって否定される結果となったからだ。そんな中、北大法医学教室の錫谷徹は「死の法医学(昭和58)」で、自他殺かまで判定してしまうことには、根拠に欠ける論理の飛躍がみられると論じた。そのいっぽうで、遺体の損傷状態から「立ったまま機関車に衝突した」という推定をしている。

その後も断続的に事件を扱った書物が出版されるが、朝日新聞記者の諸永裕司「葬られた夏(平成14)」、映像作家森達也下山事件(シモヤマ・ケース)(平成16年)」、そしてフリーライターの柴田哲孝による「下山事件 最後の証言(平成17年)」が、現時点では最も新しいだろう。この”下山本平成三部作”に共通するのは、実際に殺害を行なった組織として

矢板玄

という人物がオルガナイザーをつとめた矢板機関の名を挙げている点だ。

そもそも3作目を書いた柴田哲孝は矢板機関に関係していた人物の孫であり、それが叔母から聞いた「あなたの祖父は下山事件に関係している」という発言を発端として、この3部作は始まっている。したがって3部作は共同制作な部分もあり、重複している内容も多いが、いっぽうで独自の調査や考察の結果も個別に提示されており、その調査内容には興味深いものがある。

事件が55年が経過し、大半の関係者も物故した。事件の真相が解明される可能性はますます低くなってきている。極端なたとえになってしまうが、謀殺者の側から物的証拠が出てくるとか、遺族が自殺であったことを証言するという事態にでもならない限り、誰もが納得する結果というのは出てこないのではないかと思う。

そういう意味においては下山事件は永久に結末をむかえないのかもしれない。

[]★鎌田茂雄『華厳の思想』(講談社)2008.07.29- 15:24

2008.07.31 

      P258

         ≪ 明恵の人生観 ≫

         凝然・・・学業をひたすら

         明恵・・・釈迦の仏教の生命に迫る

         高山寺

         喜海(弟子)

         「栂尾明恵上人伝記」

         紀州の庵→高山寺

         光明真言の宝うる

      P261

         ≪ 求道の志を支えた大欲心 ≫

         ≪ 自立の精神と自由の精神の調和 ≫

      P278

         読了

[] 阪急電鉄パンフレット沿線案内から (13) 15:24

2008.07.30

遍照寺

桂川

亀山公園

大河内山荘

小倉池

寂光院

落柿舎

二尊院総門

滝口寺

祇王院

想い出博物館

八体地蔵

化野念仏寺

嵯峨鳥居本伝統物

建造物群保存地区

慈願堂

宝きょう院

○ 天龍寺

  京都五山一位

  臨済宗天龍寺

  大本山

  夢窓疎石進言

  足利尊氏創建

  最初の天然特例史跡

  世界文化遺産

  釈か如来像

  加山又造

  雲竜図

  法堂天井に描く

○ グリーンオアシス

  蘭

○ 大覚寺

  清涼殿

  称念寺

  大沢池

  真言宗大覚寺

  大本山

  後嵯峨上皇

  亀山法皇

  後宇多上皇

  ・・・入寺

  南朝方

2008.07.31

  大覚寺統

  旧嵯峨御所大覚寺門跡

  =正式名称

  大沢池の景観

  後宇多上皇

  238面 狩野派など

  障壁画

  しん殿牡丹図

  しん殿紅梅図

○ 広沢池

  月見の名所

  遍照寺

  音戸山頂上

  「さざれ石」

  

≪ 小倉池・化野コース ≫

桂川沿いを西へ

○ 大河内山荘

  大河内伝次郎

  30年をかけた

  2万平米

  回遊式庭園

○ 嵯峨野

  小倉山麓

  常寂光院

  落柿舎ー向井去来

  晩年をすごした

  二尊院

  



[]★鎌田茂雄『華厳の思想』(講談社)2008.07.29- 14:08

         老荘の「無」の思想

         仏図澄(?−348)

仏図澄

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仏図澄(ぶっとちょう、skt:buddhacinga ? - 348年)は中国の神異僧の第一に挙げられる、五胡十六国時代の西域からの渡来僧。姓は帛、亀茲国の出身であるという。烏萇で出家したのち、?賓で仏学の研鑚に励んだ。


[編集] 概要

一般的に西域からの渡来僧は、竺法護や鳩摩羅什に代表されるように、サンスクリット等で書かれた将来仏典を漢字に翻訳する、訳経を行う訳経僧であることが多いが、中には、訳経を全く行わなかった渡来僧もいた。その代表的な人物が仏図澄である。

310年(光興元年)洛陽にやって来て、寺院を建立しようとしたが混乱により果たせなかった。

仏図澄がやって来た当時の中国は、永嘉の乱等の動乱によって西晋が滅亡し、南には東晋が成立し、北では塞外より侵入した五胡と総称される異民族が各地に国を建て分裂していた時代、いわゆる五胡十六国時代であった。

仏図澄は、後趙の石勒・石虎に軍師として重用され、戦地において数々の予言を行った。それによって石勒や、凶暴な性格であった石虎の信頼を獲得し、高邁な教理ではなく、日常的な点などにおいて彼らを教え導いたと、『高僧伝』や『晋書』の本伝では伝えている。また、その教えの要諦は、人目を引く神異の力ではなく、持律堅固な生活態度にあった。自らの持戒は言うに及ばず、石勒や、石虎のような残虐さで知られる五胡の君主に対しても、五戒の堅持を求めたことが記される。石勒より「大和尚」の称号を与えられた。また、彼の力によって仏寺は893寺が建立され、門信徒の数は1万に上ったという。?の宮寺で亡くなった。

また、仏図澄が中国の仏教史において重要なのは、第一に、石虎に対して漢人一般住民の出家を公許するよう導いたことである。第二には、仏図澄の数多くの弟子の中から、中国仏教の基礎を築くことになる釈道安が出ていることである。竺法護のような訳経僧のもとではなく、仏図澄のような神異僧の門下から、正統的な中国仏教の提唱者が現れたところに、禅宗や浄土教に代表される、後の実践的な中国仏教の原形を見ることができる。

また、彼の門下からは、泰山の竺僧朗、四川に仏教を広めた竺法和、東晋で活躍した竺法汰に代表される、多くの高僧が輩出している。


[編集] 伝記資料

『高僧伝』巻9「晋?中竺仏図澄伝」

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%9B%B3%E6%BE%84" より作成

カテゴリ: 魏晋南北朝時代の人物 | 西域の僧 | 348年没

         130歳まで生きた?

         

         ≪ 曇遷(542-607) ≫

         「亡是非論」

         是非を超えた世界

         「斉物論」にヒント

         =『荘子』

         慧命

         杜順(とじゅん)

         =華厳宗開祖

         

         2. 華厳宗の開祖=杜順

         (ワゲン菩薩の修行を目指す)

         杜順(557-640)

         行基のよう

         海洋文化圏「華厳経」

      P135

         4. 華厳宗の大成者

         =法蔵

         

         第3祖 法蔵のエッセンス

         空の背後には有がある

         

         5. 華厳と禅との融合

         澄観

         

         ≪ 澄観の墓塔を発見する ≫

         第4祖 澄観

         (738-835)97歳!

         興教寺付近

         西安の南

         長安県

         終南山へ

         香積寺

         興教寺・・・玄奘三蔵の墓塔

         

         6. 「円覚経」の大研究者

         宗密

         

         ≪ 円覚哲学の樹立 ≫

         ≪10世紀以降の中国仏教を大きく変えた「円覚経」 ≫

         身心不二

         

         第3章 華厳思想の核心

      P171

         「維摩の一黙」

         鈴木大拙先生

         文殊菩薩ですら言葉で説明した

         黙と維摩は同一事実

      P177

         ≪ 一念不正ー「物」と成って生きる ≫

         頓教

         肉体〜衰える

         精神〜鍛えれば鍛えるほど無限の力を持っている

         僧肇

         (そうじょう)

         374-414

         「物我一如」

         (もつがいちにょ)

         「仏国土の現成」

         正受慧端は白隠という偉大な禅者を輩出した

         声聞の徒

         孤絶の道

         頓教ではさびしい

         

         4. 大乗円教一

         華厳思想の至境

         事事無碍を明らかにする円教

[]★鎌田茂雄『華厳の思想』(講談社)2008.07.29- 10:56

2008.07.29

      P016

         審祥

         十地本

         1. 歓善地

         2. 離垢地

         3. 発光地

         4. 焔慧地

         5. 

         

         3. 善財童子の求道

         ≪ 「入法界品」にみる五十五所 ≫

         53人の善知識

         「華厳55所絵巻」

         (東大寺展)

         1980

         修学の道程

         十持

         十行

         十回向

         十地

         バニヤン天路歴程

         にあたる

         本当の仏はどこにおられるのか

         

         ≪ 善財と善友は不二 ≫

         ≪ 仏性現起ー「性起品」 ≫

         慧能

慧能

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慧能

638年 - 713年

諡号 大鑑禅師

尊称 禅宗(南宗)第六祖

生地 范陽

宗派 禅宗

師 弘忍

著作 曹渓宝林寺

仏教

基本教義

縁起 四諦 八正道

三法印 四法印

諸行無常 諸法無我

涅槃寂静 一切皆苦

人物

釈迦 十大弟子 龍樹

如来・菩薩

仏の一覧

部派・宗派

原始仏教 上座部 大乗

地域別仏教

インドの仏教 中国の仏教

韓国の仏教 日本の仏教

経典

聖地

八大聖地

ウィキポータル 仏教

慧能(えのう、諡は大鑑禅師、638年(貞観12年)-713年(先天2年))は、范陽(北京市)の盧氏出身の禅僧で、中国禅宗(南宗)の第六祖である。

目次 [非表示]

1 生い立ち

2 伝説

2.1 壁に書かれた詩について

2.2 死去後の話

3 思想

4 語録

5 弟子

6 伝記


[編集] 生い立ち

本貫は范陽だが、父親が嶺南の新州(広東省新興県)に流されたので、その地で育つ。父が早くに亡くなり、薪を売って母親を養っていた。ある日、町で『金剛般若波羅蜜経』の読誦を聞いて出家を思い立ち、東山の五祖弘忍の下に参じたが、文字が読めないため、行者(あんじゃ)として寺の米つきに従事した。

その後、弘忍の法を受け継いで広州に帰り、兄弟子の印宗より具足戒を受けて正式な僧侶となり、曹渓宝林寺に移って布教を続け、兄弟子の神秀より朝廷に推挙されるも病と称して断り、以後713年に亡くなるまで布教を続けた。


[編集] 伝説

[編集] 壁に書かれた詩について

慧能が弘忍の跡継ぎとして認められた時、次のような伝説がある。弘忍は悟りの心境をうまく詩に表せた者を後継者と認めようといい、当初、弘忍門下筆頭だった神秀が壁に偈を書いたが、弘忍は認めず、それを聞いた慧能が神秀の詩を否定するような詩を書き、それを弘忍が認めたので六祖となったという。

神秀の詩

  身是菩提樹 心如明鏡臺 (身はこれ菩提樹 心は明鏡台の如し)

  時時勤佛拭 莫使有塵埃 (時時に勤めて佛拭し 塵埃を有らしめること莫れ)


慧能の詩

  菩提本無樹  明鏡亦無臺 (菩提に本から樹など無い 明鏡にもまた台など無い)

  佛性常清淨  何處有塵埃 (仏性は常に清浄だ 何処に塵埃が有るのか)

  心是菩提樹  身為明鏡臺 (心が菩提樹であり 身を明鏡台というのだ)

  明鏡本清淨  何處染塵埃 (明鏡は本から清浄だ 何処が塵埃に染まるというのか)

慧能が弘忍の命令で達磨から受け継がれた袈裟を持って大臾嶺まで逃げたところ、500人の僧が追ってきたが、法論して負けて逆に弟子になった者もいるという。

客観的にみて、当時の状況から察するに、禅宗の六祖は神秀がなるのが妥当であり、慧能が六祖となったのはひとえに弟子の荷沢神会の運動と、後の五家七宗の発展により、直系の先祖たる慧能を正当後継者たらしめる必要があった事による所が大きく、達磨の袈裟の伝説も禅の正統を主張したい神会らによって創られたものとされている。

[編集] 死去後の話

死去後、彼の遺体は即身仏ミイラ)として塔に安置されたが、ある時叫び声がするので、寺の僧たちが見にいった所、慧能の首を持ち去った男がいたので、捕まえた所、新羅僧に頼まれたと言い、地元政府は極刑にしようとしたが、寺が信仰心からの犯行との事で許したため、無罪にしたという。大韓民国には、この時に盗まれた慧能の首と言われるものが現存するという。 現在、慧能のものとされるミイラ広東省韶関市郊外の南華寺に祀られている。科学的な調査によって唐代中期に作成されたものと推定され、中国に現存するミイラとしては最古のものと言われる。衣服を含めて漆で塗り固められているため、外見からミイラの状態を確かめることはできない。文化大革命時代、紅衛兵に一部を破壊された。後に修復する際、頭骨を含めた骨格と補強の鉄材を確認することができたという。


[編集] 思想

神秀の漸修禅(北宗)に対して頓悟禅(南宗)を説き、それが新興士大夫階級に受け入れられて爆発的に教線が拡大し、 青原行思(石頭宗)、南嶽懐譲(洪州宗)、南陽慧忠などの優れた弟子を持ち、後の五家七宗全てがその一門から出た。


[編集] 語録

六祖壇経

[編集] 弟子

荷沢神会、青原行思、南嶽懐譲、南陽慧忠、永嘉玄覚、司空本浄

[編集] 伝記

『六祖壇経』

『祖堂集』巻二

『景徳傳燈録』巻五

『宋高僧伝』巻八

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師:弘忍 禅宗 弟子:荷沢神会、青原行思、南嶽懐譲

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E8%83%BD" より作成

カテゴリ: 禅僧 | 中国の僧 | 638年生 | 713年没

         禅を創始

         野蛮人に仏性はあるのかどうか

         

         4. 「華厳経」を説く

         仏とは何か

         

         ≪ 華厳の教主「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」≫

         

         ≪ 「臨済録」と性起説 ≫

         回向

      P090

         ≪ 微塵の中に一切を見るー一即多 ≫

         

         微塵の中に大きな世界が全部入り込んでしまうのだという考え方

         これを空間的と時間的とにわけて考えていく

         

         ライプニッツモナドロジー(単子論)』

         数理哲学の末綱恕一先生

http://www.ism.ac.jp/history/Japanese/HTMLs/Outlines/Chiefes/02th.html

二代所長:末綱 恕一

任期:1947(昭和22)年5月17日〜1948(昭和23)年4月9日

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大正11年3月東京帝国大学理学部数学科を卒業後,九州帝国大学助教授東京帝国大学助教授を歴任し,昭和10年から昭和34年3月まで東京帝国大学理学部教授を勤めた。同氏は,昭和19年統計数理研究所の創設にあたり「設立準備委員」を勤め,創設後も研究所参与,所長(兼任),評議員として,研究所の管理運営に参画し,今日の統計数理研究所の基礎づくりに貢献した。

さらに同氏は,昭和33年4月から昭和45年8月6日に逝去するまで統計数理研究所長を勤め,その間,第4研究部(情報科学理論)の創設準備など研究部門の整備拡充を図るとともに,他に先駆けて大型電子計算機システムの開発導入を行うなど研究環境の強化に力を注ぎ,在任中の昭和43年11月には研究所独自の新庁舎の建設をみた。

同氏は,解析的整数論に関する数多くの研究論文を発表した。特にL関数を解析的に応用したイデアル論に関する関数の最大位数についての論文は,世界的にも広く知られている。また,フォン・ミ−ゼス流の理論を紹介した『確率論』は,この分野での先駆的業績として評価された。さらに同氏は,日本数学会理事長,科学基礎論学会理事長等を歴任するとともに,昭和22年から20余年にわたって学士院会員を勤めて,わが国の学術進展に多大の貢献をし,昭和44年に勲二等旭日重光章を授与された。

         西田幾多郎

         一即多「全体的一」

         多即一「個別的多」

      P093

         ≪ 「正法眼蔵」に描かれた華厳の性起品 ≫

         田辺元

         直感で読むと、空間的には、この点

         時間的には、その状態はどうなっているかを説いたもの

         

         仏は自分の中にいる

         白隠(1685-1768)

         「坐禅和讃」

         仏が迷うー衆生

         衆生が悟るー仏

         

         心

         

         ふとしたはずみで悪魔になる 心

         

         素直にこのまま読んでいるほうがよかろう

      P098

         ≪ 三界は虚妄なりー「唯心偈」 ≫

         「十地本」にある「三界(さんがい)

         虚妄但是一心作」

         (こもうたんぜいっしんさ)

         欲界

         色界

         無色界

         

         ≪ 宗密の説いた四種の心≫

圭峰宗密

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圭峰宗密

780年 - 841年

生地 果州西充県(四川省

没地 草堂寺

宗派 華厳宗

寺院 終南山草堂寺

師 道円、南印、神照、清涼澄観

著作 『禅源諸詮集都序』、『原人論』、『裴休拾遺問』

圭峰宗密(けいほうしゅうみつ, 780年 - 841年)は、中国・唐代の僧。

当時の仏教界において、禅宗の一派である荷沢宗と華厳宗とを中心として、諸種雑多な仏教思想と実践行とを統一する「教禅一致」の特異な教説を説いた。また、その著『原人論』では、儒教や道教も仏教のもとに統合しようとする「三教融合」の試みもはかられている。

俗姓は何氏、現在の四川省の果州西充の出身。最初は儒教を学んだのだが、その後、仏教に転向し、25歳の時に出家して道円に師事した。後に、『円覚経』及び杜順撰『法界観門』に出会い、自身の立つ立場を確固たるものとした。

29歳で具足戒を受け、808年になって師の指示によって、師の師である南印に師事し、その後洛陽に入り、南印の弟子である報国寺の神照に禅を学んだ。さらに、811年に、清涼澄観に師事し、華厳を究めた。そのため、宗密は華厳宗第5祖とされる。以後、著作または講筵によって名声を確立した。

821年以後、終南山の草堂寺に住して、『円覚経大疏鈔』等の撰述に没入した。

828年、文宗の召致により、長安に入内し、紫衣を賜った。その後、裴休(791年 - 864年)と交流が生まれ、彼の質問に返答するという形式によって、『裴休拾遺問』を著した。

宗密の思想は、当時の仏教界を席巻していた馬祖禅に対する強烈な対抗意識によって貫かれている。しかし、洪州宗の絶大な力の前には屈するしかなかった。その思想が注目されるのは、五代の永明延寿(904年 - 975年)が提唱した教禅一致思想、更には、三教一致思想が大きな潮流となる後世のことである。

代表的な著作として『禅源諸詮集都序』等がある。

841年、草堂寺で没した。裴休に「圭峰禅師碑銘并序」がある。


[編集] 伝記

『宋高僧伝』巻6「義解篇」第2-3 「唐圭峯草堂寺宗密伝」

師:清涼澄観 華厳宗 弟子:

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%AD%E5%B3%B0%E5%AE%97%E5%AF%86" より作成

カテゴリ: 中国の僧 | 華厳 | 禅僧 | 780年生 | 841年没

         華厳宗の第五視

         圭峰宗密(780-841)

         禅教一致を説く

         

         ≪ 妄心のはたらき、浄心のはたらき ≫

         柳生但馬守宗矩の師

         沢庵宗彭(たくあんそうほう)

沢庵宗彭

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澤庵 宗彭(たくあん そうほう、1573年12月24日(天正元年12月1日) - 1646年1月27日(正保2年12月11日))は、江戸時代臨済宗の名僧。大徳寺住持。

但馬国出石(現兵庫県豊岡市出石町)の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある(同項目を参照のこと)。

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 生い立ち

1.2 紫衣事件

1.3 晩年

2 沢庵漬け

3 宮本武蔵との関係

4 関連項目

5 外部リンク


[編集] 生涯

[編集] 生い立ち

1573年12月24日(天正元年12月1日)に秋庭能登守綱典の次男として但馬国出石に生まれる。父秋庭綱典は但馬国出石城主山名祐豊の重臣であった。8歳のとき山名家は羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家し、春翁の法名を得た。14歳で同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事。秀喜と改名した。1591年(天正19年)希先西堂が没すると、この間、出石城主となっていた前野長康は、大徳寺から春屋宗園の弟子、薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いた。沢庵も宗忠に師事する事になった。

1594年(文禄3年)薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入った。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。薫甫の死後、和泉国堺に出た。堺では南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、1604年(慶長9年)沢庵の法号を得た。1607年沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持した。1609年、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。1620年(元和6年)郷里出石に帰り、藩主小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結んだ。名付けて投淵軒という。


[編集] 紫衣事件

江戸幕府が成立すると、寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなる。特に、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられた。これらの法度には、従来、天皇の詔で決まっていた大徳寺住持職を幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められた。

1627年(寛永4年)、幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り、前住職の宗珀(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝(たんでん)・東源(とうげん)らとともに、反対運動を行った。1629年(寛永6年)、幕府は、沢庵を出羽国上山に、また宗珀を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪とした。上山藩主土岐頼行は流されてきた名僧沢庵の権力に与しない生き方と、「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、歌人でもあった沢庵に草庵を寄進した。沢庵はここを春雨庵と名づけこよなく愛したといわれている。頼行は藩政への助言を仰ぐなどして沢庵を厚遇した。


[編集] 晩年

1632年、将軍徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』は、「剣禅一味」を説いたものとして著名である。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、沢庵は同年冬駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、1634年(寛永11年)夏までここに留まった。宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、家光が上洛し、天海や柳生宗矩・堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は将軍徳川家光に謁見した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになった。

同年郷里出石に戻ったが、翌年家光に懇願されて再び江戸に下った。沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった。1639年、家光は萬松山東海寺を創建し沢庵を住職とする。家光は政事に関する相談もたびたび行ったが、これは家光による懐柔工作であると考えられている。それは逆に言えば沢庵の影響力がいかに強かったかを示している。1644年、土岐頼行が萬松山東海寺に出羽国上山の春雨庵を模した塔中を、沢庵のために建立した。

墓所 (宗鏡寺)1646年1月27日(正保2年12月11日)、沢庵は江戸で没した。『墓碑は建ててはならぬ』の遺誡を残しているが、円覚山宗鏡寺(兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺(東京都品川区)に墓がある。 晩年の沢庵の言動は変節とも、家光に取り込まれたとする説もあるが、その生涯は見識高邁であり孤危険峻であった。  江戸の萬松山東海寺開山から示寂までの7年間は耐え難きを耐えて70回以上も権力の中枢である家光公に拝謁した。 そして『寺院法度』で幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智と大徳寺派および妙心寺派寺院の住持15人に後水尾天皇から勅賜された紫衣を奪還することにより無住状態の大徳寺派および妙心寺派寺院の法灯を揺らぎないものにしたのである。 故に遷化後丁度300年忌の1944年11月29日宮内省より『普光國師』の諡号が宣下された。


[編集] 沢庵漬け

ダイコンの漬物であるいわゆる沢庵漬けは一伝に沢庵が考えたといい、あるいは関西で広く親しまれていたものを沢庵が江戸に広めたともいう。後者の説によれば、家光が東海寺に沢庵を訪れた際、ダイコンのたくわえ漬を供したところ、家光が気に入り、「たくわえ漬にあらず沢庵漬なり」と命名したと伝えられるが風聞の域を出ない。


[編集] 宮本武蔵との関係

フィクション上では、しばしば武蔵と結び付けられる。例えば、吉川英治作の宮本武蔵では武蔵を諭す、キーパーソン的な役割を担っている。

この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。

[編集] 関連項目

ウィキクォート沢庵宗彭に関する引用句集があります。宗鏡寺 - 墓所

沢庵漬け

明治館

無理問答

[編集] 外部リンク

沢庵和尚像(重要文化財) 堺市の公式ホームページより

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E5%BA%B5%E5%AE%97%E5%BD%AD" より作成

カテゴリ: 書きかけの節のある項目 | 日本の僧 | 禅僧 | 1573年生 | 1646年没

         1573-1645

         無心と有心

         『不動智神妙録』

         『沢水仮名法語』

         (たくすいかなほうご)

      P105

         ≪ 人間の心の構造ー唯識と華厳 ≫

         

         ≪ 法相宗で説く心の働き ≫

         良遍

良遍 (法相宗)

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良遍

1194年 - 1252年

宗派 法相宗

寺院 生駒竹林寺

著作 『観心覚夢鈔』

『法相二巻抄』

良遍(りょうへん、建久5年(1194年)- 建長4年8月28日1252年10月3日))は、鎌倉時代前期の法相宗の僧。俗姓は藤原氏。字は蓮阿。三位已講・生駒僧都とも称される。

奈良興福寺で法相教学を学び、法印・権大僧都に任じられた。覚盛から戒を受け、戒律の復興に尽力した。生駒竹林寺の住持となり、東大寺知足院を復興している。

この「良遍 (法相宗)」は、仏教関連の書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正して下さる執筆協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E9%81%8D_(%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97)" より作成

カテゴリ: 仏教関連のスタブ項目 | 日本の僧 | 戒律 | 鎌倉時代の人物 | 1194年生 | 1252年

         『法相二巻抄』

         中国法相宗日本人の思想としてとらえた

         日本人の哲学的能力を示す一大金字塔

         末那識

         (まなしき)・・・自我意識、おれがおれがという意識

         阿頼耶識(あらやしき)

         潜在識

         結城令聞恩師

         錦浦

         熱海、自殺の名所

         第6意識で自死を決意し

         第7未那識で落ちてきた岩を避ける

         過去経験のすべてを貯蔵している

         蔵識

         デパート万引き、法律的に捕まらないなら、いい

         阿頼耶識たまる

         道元禅師

         この一日の身命は尊ぶべき身命なり

         貴ぶべき形骸なり

         

         第2章 華厳宗の成立

         1. 華厳成立の思想的背景

         ≪ 鳩摩羅什によって紹介された「空」の仏教 ≫

鳩摩羅什

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

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鳩摩羅什

350年 - 409年

生地 亀茲国

鳩摩羅什(くまらじゅう、くもらじゅう、サンスクリット:Kum?raj?va, ????????、クマーラジーヴァ)、350年 - 409年、一説に344年 - 413年とも)は、中国六朝時代の訳経僧である。略称は羅什(らじゅう)または什(じゅう)。玄奘と共に二大訳聖と言われる。また、真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。三論宗成実宗の基礎を築く。なお姓名の境界は不明。

目次 [非表示]

1 略歴

2 訳出した経典

3 著書

4 弟子

5 伝記資料


[編集] 略歴

350年 インド出身の鳩摩炎(サンスクリット:Kum?rayana)を父に、亀茲国王の妹の耆婆(サンスクリット:J?va)を母として亀茲国に生まれる

356年 母と共に出家

360年代 原始経典やアビダルマ仏教を学ぶ

369年 受具し、須利耶蘇摩と出会って大乗に転向。主に中観派の論書を研究

384年 亀茲国を攻略した後涼の呂光の捕虜となるも、軍師的位置にあって度々呂光を助ける。以降18年、呂光・呂纂の下、涼州で生活

401年 後秦の姚興に迎えられて長安に移転

402年 姚興の意向で女性を受け入れて(女犯)破戒し、還俗させられる。以降、サンスクリット経典の漢訳に従事

409年 逝去

臨終の直前に「我が所伝(訳した経典)が無謬ならば(間違いが無ければ)焚身ののちに舌焦爛せず」と言ったが、まさに外国の方法に随い火葬したところ、薪滅し姿形なくして、ただ舌だけが焼け残ったといわれる(「梁高僧伝」2)


[編集] 訳出した経典

主なもの。

『坐禅三昧経』3巻

阿弥陀経』1巻

『摩訶般若波羅蜜経』27巻(30巻)

『妙法蓮華経』8巻

『維摩経』3巻

『大智度論』100巻

『中論』4巻

一部の経典において、大胆な創作や意訳の疑いが指摘されるものの、彼の翻訳によって後代の仏教界に与えた影響は計り知れない。なお、唐の玄奘三蔵による訳経を「新訳」(しんやく)と呼び、鳩摩羅什から新訳までの訳経を「旧訳」(くやく)それ以前を古訳と呼ぶ。


[編集] 著書

『大乗大義章』3巻 - 廬山の慧遠との問答集

[編集] 弟子

道生・僧肇・慧観・僧叡の4人を四哲と称す。その他に、道融・曇影・慧厳・道恒・道常などを加えて十哲と称される(なお書により異説あり一致しない)。


[編集] 伝記資料

『高僧伝巻第二』(大正新脩大藏經 第五十冊 No.2059)

『出三蔵記集巻十四』

『晋書・列伝』

『資治通鑑巻第二百十一』

横超慧日、諏訪義純 「羅什」『人物中国の仏教』新訂版、大蔵出版、1991年。ISBN 4804351078

[隠す]表・話・編・歴仏教

基本教義 縁起 四諦 八正道 三法印 四法印 諸行無常 諸法無我 涅槃寂静 一切皆苦

人物 釈迦 十大弟子 龍樹 無著 世親 玄奘 達磨

如来・菩薩 仏の一覧 釈迦如来 阿弥陀如来 大日如来 弥勒菩薩 観音菩薩 地蔵菩薩

部派・宗派 原始仏教 上座部 大乗(中観 唯識 禅宗 天台宗 浄土教) 密教

地域別仏教 インド 中国 韓国 日本 チベット

経典 法句経 般若経 維摩経 涅槃経 華厳経 法華三部経 浄土三部経

聖地 ルンビニブッダガヤ クシナガラ 五台山 峨眉山 熊野三山 霊峰 霊場

ウィキポータル 仏教

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カテゴリ: 西域の僧 | シルクロード | 魏晋南北朝時代の人物 | 還俗した人物 | 350年生 | 409年没

         東晋401年

         捕虜として長安へ

2008-08-13(Wed)

[] 鎌田茂雄『華厳の思想』 13:00

2008.08.13



鎌田茂雄

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鎌田 茂雄(かまた しげお、道号:梅嶺、1927年12月10日 - 2001年5月12日)は、戦後日本を代表する仏教学者文学博士)である。僧名は慧忍。

神奈川県鎌倉市に生まれる。陸軍より復員後、円覚寺で参禅し、駒澤大学仏教学部に進む。在学中は舌鋒鋭い事で知られ、教師であろうともその怠惰な仏教学への姿勢を追求する事には容赦なかった。その後、東京大学大学院に進み、華厳学を専攻した。その後、東京大学教授となり、NHKの「こころの時代」で講師を務める傍ら、古巣の駒澤大学や、筑波大学九州大学大阪大学富山大学大正大学などで非常勤講師として指導に携わり、東京大学を定年退官後、名誉教授となり、愛知学院大学へ転任し、国際仏教学大学院大学の設立に理事として関わり、開校後は教授として指導に当たった。

また、中国との国交正常化後、日中仏教交流の普及に努め、中国社会科学院文献情報センターより名誉教授を贈られた。

また、50歳を過ぎてから自宅近くの合気道場・天道館で稽古を始め、6段になるまで精進した。

目次 [非表示]

1 略歴

2 受賞歴

3 弟子

4 著作リスト

5 外部リンク


[編集] 略歴

1927年 神奈川県鎌倉市に生まれる 

1945年 陸軍幼年学校卒業。終戦により陸軍士官学校中途退学。駒澤大学予科編入

1948年 駒澤大学予科卒業駒澤大学文学部仏教学科入学

1951年 駒澤大学仏教学部仏教学科卒業

1955年 東京大学大学院人文科学研究科印度哲学専門課程修士課程修了

1958年 東京大学大学院人文科学研究科印度哲学専門課程博士後期課程満期修了。助手就任

1962年 文学博士号を取得

1988年 東京大学教授を退官。愛知学院大学へ転任

1997年 国際仏教学大学院大学教授に就任

2001年 示寂。墓地は鎌倉の大慶寺

[編集] 受賞歴

1962年 日本印度仏教学会

1965年中国華厳思想史研究』により、日本宗教学会賞受賞

1976年 『宗密教学の思想史研究』により、第66回日本学士院賞受賞

1981年 多数の仏教入門書の執筆により、仏教伝道文化賞

2000年 長年の仏教研究により、勲三等旭日中綬章受賞

[編集] 弟子

池田魯参(天台学)、吉津宜英(華厳学)、石井修道(中国禅宗史)、川口高風(仏教学)  


[編集] 著作リスト

因みに、著作は単著で90冊以上、論文で500本以上ある。

中国華厳思想史研究』(東京大学出版会1965年

著者の博士論文日本宗教学会賞(姉崎記念賞)受賞。

『宗密教学の思想史研究-中国華厳思想史研究第二-』(東京大学出版会1975年

著者の代表的な論書。日本学士院賞を受賞。

『禅とはなにか』(講談社学術文庫1979年ISBN 4-06-158409-X

自身の禅体験を基に、禅について分かりやすく説いた物。これに感動して仏教学者になった者もいる。

中国仏教史』1-6(東京大学出版会1982年 - 1999年

中国における仏教の変遷を時代毎に細かく解説したもの。当初は8巻刊行予定の所、著者示寂により、未完で終わる。なお、岩波書店刊の『岩波全書』シリーズ中の1冊として、同名の著書があるが、こちらは、宇井伯壽著の『支那仏教史』を加筆改訂したものである。何れにしろ概説書なので、利用する時には、原典に当って確認する必要あり。

『禅と合気道』(清水健二との共著、人文書院1984年ISBN 4-40-941019-9

合気道の師、清水健二と、合気道について精神論、実践について説いた物。

仏教聖地・五台山 : 日本人三蔵法師の物語』(日本放送出版協会1986年ISBN 4-14-008476-6

著者自身が出演した、同年3月23日放映のNHK特集「三蔵法師になった日本人 : 中国五台山を行く」の内容を写真や図版を多数収載して書き下ろしたもの。著者は、番組内で霊仙三蔵ゆかりの霊境寺の鐘を発見するという役廻りを演じ、新境地を開いた。

『鎌田茂雄博士古稀記念 華厳学論集』(大蔵出版、1997年

「鎌田茂雄先生著作目録」(『国際仏教学大学院大学研究紀要』Vol.5、2002年

[編集] 外部リンク

国際仏教学大学院大学

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E7%94%B0%E8%8C%82%E9%9B%84" より作成

カテゴリ: 仏教学者 | 華厳 | 禅僧 | 日本の僧 | 1927年生 | 2001年

[]★毛利敏彦江藤新平』(中公新書)2008.07.26- 10:51

2008.07.29

         第2章 近代国家の設計

      P062

         一.維新政権の青写真

         

         ≪ 中弁 ≫

         奇兵隊の処遇

         大挙脱走、藩庁崩壊

         反乱兵士武士討伐

         11/8 中弁任命

         

         ≪ 虎の門事件 ≫

         M02.11.20 夜

         江藤、刺客負傷事件

         佐賀藩卒族

         既得権奪われたと不満

         

         ≪ 制度取調べ専務≫

         江藤に信頼をよせる岩倉大納言

         (副首相

         大蔵省太政官の対立

         

         三条、岩倉

         

         松平慶永

         大隈重信

         伊藤博文

         木戸孝允

         

         VS

         

         大久保利通

         広沢真臣

         副島種臣

         佐々木高行

         

         ≪ 国政基本方針30項目 ≫

      P075

         ≪ 政府と議会の構想 ≫

         神祇官優位否定

         

         ≪ 太政官への統治権集中 ≫

         ≪ 上議院、下議院 ≫

         ≪ 財政の民主的統制 ≫

         

         二. 憲法民法

         ≪ 国法会議の議案 ≫

      P094

         ≪ 国法会議 ≫

         ≪ 民法会議 ≫

         メンバー

         箕作麟祥

         (りんしょう)

         大学博士

         法学者、蕃所調所

         教授 箕作げん甫の孫

         慶応3年 フランス留学

         慶応4年 帰国

         新政府出仕

         ナポレオン法典の持ち帰り

      P099

         ≪ 制度局民法会議 ≫

         三. 廃藩・教育立法権

         ≪廃藩への機運 ≫

         大村益次郎殺害

         横井小楠殺害

         犯への処罰の遅延

         明治4年1月9日

         広沢真臣、自宅で暗殺される

         

         ≪ 廃藩置県 ≫

      P138

         第3章 人民正義のために

         一. 「民の司直」

         ≪ 岩倉使節団 ≫

      P153

         ≪ 裁判所の創設 ≫

         ≪ 明法寮 ≫

         ≪ 外遊問題 ≫

         ボアソナード招聘

      P161

         二. 司法権確立の苦闘

         ≪ 牛馬きりほどき ≫

http://archive.mag2.com/0000061080/20040820230000000.html?start=20

明治5年マリア・ルス事件」  (第8回)  (執筆者:松ノ落葉)

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

先月紹介した太政官布告第295号及び司法省達第22号は、遊女解放令いわゆる「牛馬きりほどき」と称せられ、解放の点が強調されたが、実際に罪を犯した場合の処分はこの時点では明らかにされていない。

上記の布告の問題点は、従来家庭の経済事情から親が子を納得させて娼妓とさせるケースも禁止となったことから、親が強引に子を娼妓とさせるケースと罪を同等とさせるか否かが焦点となったといえよう。前者(和略)の場合、現行の新律綱領の規定にて処断することとされたが、後者の親が強引に子を娼妓とする(略売)者について、司法省は処分を保留していた。それは新律綱領を改訂する必要があったからである。新律綱領改訂は遊女解放令の問題に限ったことではなく、明治政府が諸制度の改革や社会経済の変化に対応するため、刑法の見直しは必須項目であった。また、諸制度の改革については当時右大臣岩倉具視を筆頭とする政府首脳が外遊中に司法卿となった江藤新平政治改革の中心人物として辣腕を振るったことも消極的な理由として挙げられる。そして、明治6年6月13日改定律令頒布、7月11日施行されることになり、明治15年に旧刑法が施行されるまで行われた。

話を戻すと、現時点での法律はまだまだ整備段階だったので、事件によって犯禁者の処断もケースバイケースで、そのため各府県はその都度司法省に伺いを出す必要があった。

今回は「司法省日誌」の中から実際に人身売買について出された伺い、及びその指令の一部をみてみよう。

         マリア・ルズ号事件

         1872.06.04 ペルー船籍

         マカオペルー

         清国人労務者

         輸送中

         イギリス軍艦が救助

         外務 副島種臣

         江藤、外国船籍

         日本の法権及ばぬとの考え

         神奈川県権令大江卓

         在日弁護士

         ディッキンズ

         遊女売買の事例

      P166

         ≪ 復讐禁止 ≫

      P168

         ≪ 山城屋和助事件 ≫

      P218

         読了

[]★林屋辰三郎他編『京都歴史と文化3政治と商業』(平凡社)2008.07.08- 10:48

         4. 所司代と町奉行

         鎌田道隆

         ≪ 信長秀吉 ≫

         近江六角氏

         南山城

         多門院日記

         原本信長

         大山崎油座

         卒分関(そつぶんぜき)

         村井貞勝に

         京都の仕置き

         道家祖香記

         村井を所司代と言えるか

         村井は本能寺で果てる

         前田玄以、継ぐ

      P120

         板倉重宗

      P130

         松平容保

         京都守護職

         文久2年12月24日京いり

         黒谷の金戒光明寺本陣

         のち文久3年

         釜座下立売上ルに守護職屋敷

         文久3年8月18日 政変

         淀藩

      P178

         市籍人(しじゃくにん)

         市女笠・・・顔を隠す

         四条町、七条町の繁栄

[] 赤根武人、一坂太郎『長州奇兵隊10:02

2008.08.13


赤根武人

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赤禰武人(あかねたけと、天保9年1月13日(1838年2月7日) ? 慶応2年1月25日1866年3月11日))は幕末の長州藩士。奇兵隊の総管を務めた。別名、文平・幹之丞・貞一・柴屋和平。

赤根武人と書かれることが多いが、正式には赤禰武人と書く。 略字で禰=根と思われており、小説辞書などにも多くはそう書かれるが、略字ならば「赤祢」である。 周防国玖珂郡柱島(現・山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の次男に生まれた。15歳の時に妙円寺の僧侶・月性に学び、後に長州藩士浦家の家老・赤根雅平の養子となった。安政4年(1857年)には梅田雲浜の望南塾に入塾したが、安政の大獄に伴い師・梅田雲浜が逮捕されるに伴い帰郷する。

文久2年(1862年)12月には 高杉晋作伊藤俊輔・久坂玄瑞・井上聞多らと共に英国公使館焼き討ちに参加し、翌年10月には奇兵隊の第三代総管に就任した。しかし、元治元年(1864年)に第一次長州征伐後に藩政を主導していた俗論派と正義派諸隊の調停を図ったことが同志に二重スパイとして疑われる契機となり、翌慶応元年(1865年)1月に出奔して上方へ赴いた。その後、幕府に捕縛されが、幕府大目付永井尚志や新撰組参謀伊東甲子太郎らの肝いりで11月に放免され、長州尋問のために下向する永井の随員となった。これも、赤根武人が更に疑われる原因となった。赤根武人は広島から長州に潜入し、生誕地である柱島を潜伏場所に選んでしまった。12月には長州藩士槇村半九郎に捕縛され、翌年1月、山口の鍔石で処刑された。享年29。


[編集] 関連図書

狂雲われを過ぐ

赤根武人の名誉回復が行われなかったことに関しての裁判に、被告として登場する。

奇兵隊燃ゆ(童門冬二著)

赤根武人の生涯を描いた歴史小説。([1])

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カテゴリ: 幕末維新側人物 | 1838年生 | 1866年

[] 一坂太郎『長州奇兵隊09:09

2008.08.13


中山忠光

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中山 忠光(なかやま ただみつ、弘化2年4月13日(1845年5月18日)- 元治元年11月15日(1864年12月13日))は、江戸時代末期の公家である。権大納言中山忠能の七男。母は平戸藩主松浦清の娘愛子。明治天皇の生母中山慶子は同母姉にあたる。正室は平戸藩主・松浦熈(祖父・松浦清の息子)と正室・筆子(島津重豪の娘)の娘富子。富子との間には子女はいないが、長州藩の支藩である長府藩潜伏中に恩地トミという女性との間に嵯峨公勝夫人・仲子(南加)が誕生している。


[編集] 生涯

早くより真木和泉、吉村寅太郎ら尊攘派の志士と交わって公武合体派の排斥運動では急先鋒となって画策した。

文久3年(1863年)2月朝廷に国事寄人が新設されると19歳でこれに加えられたが、ひそかに京都を脱して長州藩に身を投じ、官位を返上して森俊斎(秀斎)と改名久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加した。

8月13日大和行幸の詔が出されると攘夷先鋒の勅命を奉じると称して退京し、吉村寅太郎らと共に大和五條の代官所を襲撃して挙兵した(天誅組の変)。

しかし八月十八日の政変によって京の尊攘過激派が一掃されると朝廷からも見放され、幕府により追討を命じられた彦根紀伊藩兵などにより鎮圧。忠光は大坂へ脱出し、長州に逃れた。

長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、元治元年の禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐によって藩内俗論派が台頭すると、11月潜居中に長府藩の豊浦郡田耕村で暗殺された。その潜伏中に恩地トミと睦み合い、仲子が誕生した。誕生時には既に忠光が暗殺された後だったが、忠光の正室・富子が仲子を引き取り養育する事になり、公家の姫として育てるために、忠光が暗殺された長府藩の藩主家・毛利氏の養女となり、公家・中山家に引き取られた、富子は亡き夫の忘れ形見の仲子を大事に育て上げ、維新後に仲子は嵯峨公勝夫人となった。また満州国最後の皇帝愛新覚羅溥儀の弟、溥傑に嫁いだ嵯峨家出身の浩は、忠光の一人娘仲子の孫にあたり、夫妻(富子にとっては義理であるが)の曾孫にあたる。

忠光の墓所は下関市綾羅木本町の中山神社


[編集] 関連項目

幕末の人物一覧

中国地方の史跡一覧

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カテゴリ: 中山家 | 幕末維新側人物 | 暗殺された人物 | 1845年生 | 1864年没

2008-08-12(Tue)

[]★毛利敏彦江藤新平』(中公新書)2008.07.26- 18:23

2008.07.26

      ー急進的改革者の悲劇

   P214

      ひ孫にカネボウ会長 伊藤淳二

      号=南白

      「明治維新を真に維新たらしめた鍵になる人物」

      米の比較史家

      フランク・ギブニー

      天性の企画

      天性の実行力

      「人民の権利の立場」

      (写真江藤新平文久2年 29歳

      

      第1章 佐賀藩士から幕臣

      一. 青年時代

      ≪ 江藤新平佐賀藩 ≫

      天保5年(1834)02.09生まれ

      父 手明鑓(下級藩士

      郡目付け役

      長崎御番

      佐賀藩福岡藩の役目

      

      ≪ フェートン号事件 ≫

      

      ≪ 天保の改革 ≫

      直正、藩主

      窮乏を知る

      佐賀藩天保の改革

      オランダ商船に乗り込む

      オランダ軍艦に乗り込む

      家臣を高島秋帆の元へ

      

      ≪ 義祭同盟 ≫

      1837(天保8年)モリソン号、日本沿海へ

      弘化元年(1840)アヘン戦争

      嘉永2 弘道館入学

      16歳

      国学尊重の枝吉神陽に傾倒、感化を受ける

      吉田松陰と対等の評価

      義祭

      副島種臣(枝吉神陽の実弟)

      大木喬任

      のち大隈重信

      

      ≪ 図海策 ≫

      民生尊重の視点は注目

   P014

         ≪ 尊皇攘夷 ≫

      P028

         明治元年 東京

         明治2年 佐賀

         王政復古

         M1.12.26

         佐賀藩天皇方につく

         江藤、副島上京

         1868.01.03 衝突

         鳥羽伏見の戦い

         三条岩倉大久保と会い、たちまち頭角を現す

         理路整然

         的確判断

         江藤は一人政事向に関する書籍を捜索

         

         ≪ 上野戦争 ≫

         旧幕臣グループ

         上野東叡山寛永寺

         集結

         彰義隊

         三条実美

         

         ≪ 東京の弊害7箇条 ≫

2008-08-10(Sun)

[] 市塵 09:30

2008.08.10


木下順庵

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木下順庵/『錦里文集』より木下 順庵(きのした じゅんあん、元和7年6月4日(1621年7月22日) - 元禄11年12月23日(1699年1月23日))は、江戸時代前期の儒学者。名は貞幹。字は直夫。号は、順庵のほか錦里・敏慎斎・薔薇洞。京都の出身。

儒学松永尺五に学び、一時江戸に出たこともあるが、帰洛後、加賀金沢藩主前田利常に仕えた。1682年(天和2年)幕府の儒官となり、5代将徳川綱吉の侍講をつとめた。その間、「武徳大成記」をはじめとした幕府の編纂事業にたずさわり林鳳岡や林門の儒家たちとも交流している。朱子学に基本を置くが、古学にも傾倒した。教育者としても知られ、木門十哲と呼ばれる優れた人材を輩出した。

著書に「錦里先生文集」がある。


[編集] 木門十哲

新井白石

室鳩巣

雨森芳洲

祇園南海

榊原篁洲

南部南山

松浦霞沼

三宅観瀾

服部寛斎

向井三省

この「木下順庵」は、人物に関する書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(ウィキプロジェクト 人物伝)。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E9%A0%86%E5%BA%B5" より作成

カテゴリ: 日本儒学者 | 江戸時代の人物 | 江戸幕府旗本 | 豊臣氏 | 1621年生 | 1699年没 | 人物関連のスタブ項目

[]★司馬遼太郎明治という国家(下)』(NHKブックス)2008.07.25- 09:00

2008.07.25

      P180

         吉田直哉

         「モンゴロイド家の人々」

         新島

         同志社大学

         アーマスト大学

         アメリカ人の善意

         5000ドル

         2ドル

         秀吉イエズス会

         長崎で見た光景

         寺や神社を焼く

      P012

         九州大名

         ポルトガル商人

         奴隷として日本人を買う

         船に押し込む

         鎖でつなぐ、不十分な食物

         海中の死体をすてる

         1596.09 土佐浦沖

         漂着のスペイン

         増田長成、秀吉の命を受け調査

         フランシスコ教会

         大隈重信 VS パークス

         30      40

         の戦い

         キリシタン解禁まで明治年末

         イエズス会ザビエル、同時代

         エラスムス『痴愚礼賛』

      P083

         勝海舟

         木村摂津

         ポーハタン

         おれは江戸へ帰る

         からボートを下ろせ、とだだこねる

         勝海舟とカッテンディーケ

         オランダ

         国民

         

         ≪ 横井小楠 ≫

         肥後熊本

         オランダからの見えざる合理主義精神

         新井白石

         荻生徂徠

         本多利明 科学思想家

         海保青陵

         (経済学者

      P124

         福沢諭吉

         丁丑公論

         西南戦争

         

         ≪ 宮崎八郎 ≫

         肥後荒尾

         庄屋の子

         末弟、宮崎とう天

         西南のとき

         熊本協同

         泣いて読むルソー民約論

         

         ≪ 井上毅 ≫

         透き通った思想の論理

         と人格中江兆民も一目置く

         有司専制

         役人がまた勝手なことをする

         博文とグライス

         読了

[]★一坂太郎『幕末歴史散歩京阪神編』(中公新書)2008.07.22- 08:40

2008.07.25

      P275

         小林佐兵衛

         大阪侠客

         山口藩の依頼で

         千日前南鏡園という料亭の「勤王の志士の首塚」を

         阿倍野墓地へ埋葬

         ボードウィン

         

         ≪ 神戸港を牛耳った男 ≫

      P298

         遠藤謹助

         第10代造幣局

         浜寺公園

         大久保利通

         高師の浜(たかしのはま)

      P303

         ≪ 大阪会議と花外桜 ≫

      P310

         ≪ 真田山の陸軍墓地 ≫

      P368

         読了

[] 阪急電鉄パンフレット沿線案内から (10) 08:33

2008.07.

りくろーおじさんの店

馬橋西詰

馬橋

馬橋梅之宮公園

北大阪周遊自転車

与謝蕪村生誕の地

淀川河川公園

淀川大堰

光明寺

豊仁小学校

長柄八幡宮

長柄西

天神橋8東

≪ OAPコース ≫

○ 天神橋筋商店街

  天満天神さん

  (大阪天満宮

  寿司屋参道

○ 天満市場

○ OAP(大阪アメニティパーク)

  源八橋

  森林管理局内展示

  彫刻の小径

○ 造幣博物館

  



[]★司馬遼太郎『俄ー浪華遊侠伝』(講談社文庫)2008.07.10- 08:21

         備前岡山

         伊予大洲

         伊予宇和島

         筑前福岡

         まんだらのオッサン

         堂島川沿い

         飛鳥屋嘉七

         天神橋北

         油締人足の元締め

         大川

         天満橋

         天神

         難波橋

         堂島

         土佐堀川

        

         二十四.

         内山彦次郎

         西寺町

         源八橋

         樋上町

         東町奉行久須美佐渡

         野々山平兵衛

         三河国の人

         砂糖密輸入

         (抜荷)

         東町奉行所与力

         大西駒蔵

         天満の与力町

      P243

         ≪ 風雲 ≫

         一.

         文久3年春

         8月、七卿落ち

         公卿の一人を擁した土佐浪人大和

         集結

         大和五条の代官所

         代官の鈴木源内を襲う

         血祭り

         「掘江の大吉

         博徒

         来客

         一柳家

         播州小野大坂留守居役建部小藤治

http://www.geocities.jp/takesanwind/book/siba2/niwaka2.html

<本文から>

「さあごらんくだされ」

建部小藤治は色分けされた地図を示し、

「この赤の部分がわが一柳藩でござる。なんと広いことか」

と、万吉の同情をひくようにいった。

なるほど、見れば哀れなことだ。

 船場の横堀が南北の境界線になっていて、紀州藩は大藩だけにその横堀以東の繁華な市街地を一手にうけもつ。つまり現今の東区天王寺区の一部である。

 現今の北区越前福井の松平。

 道頓堀から南地区、つまり現今の南区浪速区の一部は肥前平戸松浦の殿様。

 一柳藩のうけもちはひどい。

 横堀から以西ぜんぶである。つまり、いまの西区大正区港区という広大な地域をたった一万石の大名担当するのだ。

 おまけにこの西大坂は川筋が多く、いわゆる天誅浪士や御用盗と称するにせ志士、さらに本格的な討幕志士は、みな海から大坂に入りこの川筋をのぼって潜入するのだ。

 そのために、川口の要所要所に、従来船番所が置かれている。その船番所も警備力不足で、あってなきような存在なのだ。その船番所も一柳藩の担当になる。

 「とてもとても一万石の小所帯ではなんともなりませぬ」

 と、建部小藤治は無気力に笑った。

 一万石の大名といえば士分の侍は三十人も居ればいいほうで、足軽をふくめてせいぜい百人そこそこである。

 国許では城も持たない。

 陣星があるだけである。

         大武鑑

      P267

         帯権

         四藩警護兵

         市岡新田

         尻無川右岸

         役者松の一隊で大事故

         御用盗

         西宮を通るはず

         坂東屋

         この娘を嫁にするか

         金毘羅信者

         小春

         摂河泉三州

         西宮北西部

         浦之町

         西安寺(さいあんじ)

         藤堂兵

         伊予大洲藩兵

         中村祐右衛門

         西宮の与力

         堀久右衛門

         

         ≪ 御用盗 ≫

         首領 安岡鳩平

      P359

         十文字屋 10人

         石見地方石州

         にせ客になりすます万吉

         水酒2本、本酒三本

         どう修行しても酒が飲めぬ

         山金の盃

         安治川船番所通過

         天誅組の浪士一同

         大和で挙兵計画

         前日京の大仏で集結

         前侍従中山忠光

         大坂常安橋そばの土州藩船宿坂田

         30数人

         吉村寅太郎

      P814

2008.07.29

         読了

2008-08-08(Fri)

[]★司馬遼太郎『俄ー浪華遊侠伝』(講談社文庫)2008.07.10- 22:41

         江戸紅葉

         少左門ー花房弥十郎

         大坂具足奉行

         鮒ずし屋

         叔父にあたる

         明井釆女

         およね

         いたち松

         同心 渡辺十治郎

         雑こ場

         蜆橋

      P066

         会所守

         十一.

         ボッカブリ=ゴキブリ

         儒教

         孝行

         

         ≪ 創業 ≫

         極道屋

         「大源」の二階

         寒山寺

         京の聖護院の宮様

         菊の紋章

         宮金

         宮様

         高利貸しの親方

         世間はからくりで出来ている

         ざっと30人

         五.

         男子功名

         桜橋

         天満の龍田町

         三千世界

         度胸の化け物

         船場鰻谷

         雁高の親方

      P101

         米の値段

         清正の雪隠入り

         槍の清正

         槍を放す

         やりっぱなし

         天井知らずに上がる

2008.07.20

         丸屋のだんな

         けんたいずく

         渡辺橋

         中之島

         肥前平戸藩

[]★司馬遼太郎『俄ー浪華遊侠伝』(講談社文庫)2008.07.10- 18:56

2008.07.10

         三心

         幸田文

         少左門

         万吉

         天満の天神

      P036

         十四.

         大融寺

         北野村

         曽根崎の

         露天神

         

         ≪ 才覚 ≫

         文銭

         元銭ー元和通宝

[]★一坂太郎『幕末歴史散歩ー京阪神編』(中公新書)2008.07.22- 18:45

         ≪ 西郷吉之助とサトウの会談 ≫

         アーガス軍艦

         

         ≪ 明石藩に入ったスパイ ≫

         伊藤博文

         雲晴寺

         大蔵谷の旅館

         豊江本名梅

         という芸子

         明石実相院住職広順がお栄という女に産ませた子

         夫婦になる

         

         豊江の豪胆と博文の機敏が結びついた

      P199

         ≪ 孝明天皇の薨去 ≫

         大葬儀

         慶応3年1月27日

         泉涌寺

         

         ≪ 兵庫開港と神戸開港 ≫

      P203

         ≪ 柴田日向守剛中(たけなか) ≫

         生島四郎太夫

         

         ≪ 大政奉還と二条城 ≫

         

         ≪ 錦旗(きんき)製作 ≫

         岩倉具視の策

         腹心 玉松操

         大久保

         萩の有職家 岡吉春

         洛北岩倉村5年間隠棲

         

         ≪ 坂本龍馬中岡慎太郎の葬儀 ≫

         

         ≪ 油小路の激闘 ≫

         同じ尊王攘夷

          佐幕か

          倒幕か

         光縁寺に埋葬の伊東

         

         ≪ 王政復古の大号令 ≫

         学問所から見た小御所

      P220

         ≪ 長州藩の復権 ≫

         親王塚

         ー毛利家ゆかり

         芦屋市翠ヶ丘町11

         阿保親王(あぼ)

         平城天皇の第一皇子

         毛利の先祖

         打出に上陸

         甲山山麓の上ヶ原に本陣

         ↓

         西宮へ移る

         

         第4章 官賊逆転

         ≪ 鳥羽伏見の戦い ≫

      P228

         1/4 錦旗の登場

         仁和寺宮嘉彰親王

         薩摩軍の東寺に錦旗

         土佐は態度をあいまいしてたが、あっというまに決めた

         1/6 津藩藤堂、寝返り

      P230

         ≪ 三浦五郎と千両松の戦い ≫

         長州藩

         淀城跡(伏見区淀本町)

         妙教寺

      P236

         ≪ 吉村貫一郎伝説 ≫

         浅田次郎、『壬生義士伝

         H10.09-12.03

         南部盛岡出身

      P239

         ≪ 白井五郎太夫の墓 ≫

         四天王寺

         一心寺

         

         ≪ 「朝敵」の遺骸を埋葬 ≫

         黒谷金戒光明寺

         山内の会津墓地

         「会津の小鉄」

         上坂仙吉

         垂加神道

         山崎闇斎

         神葬である

         

         ≪ 赤報隊結成の地 ≫

[] (3) 18:03

2008.08.08

一坂太郎

一坂太郎

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一坂 太郎(いちさか たろう、1966年 - )は、元東行記念館副館長・学芸員。萩博物館高杉晋作資料室長。防府天満宮歴史館顧問。春風文庫主宰兵庫県芦屋市出身。主に、長州維新史を中心に研究執筆している。

目次 [非表示]

1 経歴

2 著書

3 共著

4 外部リンク


[編集] 経歴

大正大学文学部史学科卒業

1995年山口県ふるさとづくり功労賞受賞

[編集] 著書

『晋作語録』(山口新聞社

高杉晋作』(文春新書) ISBN 4-16-660236-5

『長州奇兵隊』(中公新書) ISBN 4-12-101666-1

『松陰と晋作の志』(ベスト新書) ISBN 4-584-12076-5

『幕末歴史散歩 東京篇』(中公新書

『幕末歴史散歩 京阪神篇』(中公新書) ISBN 4-12-101811-7

[編集] 共著

高杉晋作を歩く』(山と渓谷社) ISBN 4-635-60061-0

[編集] 外部リンク

春風文庫

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%9D%82%E5%A4%AA%E9%83%8E" より作成

カテゴリ: 兵庫県出身の人物 | 1966年

[] (2) 18:03

2008.08.08

津田左右吉

津田左右吉

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津田 左右吉(つだ そうきち、1873年(明治6年)10月3日 - 1961年昭和36年12月4日)は、歴史学者。日本古代史研究の第一人者として知られる。

目次 [非表示]

1 略歴

2 古代史研究とその評価

3 著書

4 脚註

5 外部リンク


[編集] 略歴

岐阜県美濃加茂市下米田町出身。1891年(明治24年)、東京専門学校(現・早稲田大学)卒業。卒業後、白鳥庫吉の指導を受ける。中学校教員を務め、満州・朝鮮史、ついで『日本書紀』の研究を行う。1918年(大正7年)に早稲田大学講師、1920年(大正9年)に教授となり、東洋哲学を教える。

最初に発表された著書は1912年(大正元年)発行の『神代史の新しい研究』。これをさらに発展させたのが、1924年(大正13年)に成った『神代史の研究』。津田は51歳であった。この二著は神武天皇以前の神代史を研究の対象にした。

1939年(昭和14年)に蓑田胸喜・三井甲之らが津田に「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」などといっている。政府は、皇紀2600年に当たる1940年(昭和15年)2月10日に『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発売禁止の処分にしている[1]。同年に早稲田大学教授も辞職。津田と出版元の岩波茂雄は出版法違反で起訴され、1942年(昭和17年)5月に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年という有罪となるが、1944年(昭和19年)に控訴審は時効により、免訴。

1947年昭和22年)、帝国学士院会員。1949年昭和24年)に文化勲章受章。1960年昭和35年)、美濃加茂市名誉市民第1号に選ばれる。


[編集] 古代史研究とその評価

古事記』や『日本書紀』、特に神話関係の部分は後世の潤色が著しいとして厳格に文献批判を行った。津田自身の戦前における弾圧の経験とあいまって、ほとんど熱狂的に学会に迎えられ、神話(したがって皇国史観)を否定する“津田史観”は第二次世界大戦後の歴史学の主流となった。敗戦による価値観の転換を体現する歴史学者の代表である。

ただ、津田の具体的な主張には、かなり印象論的なものも多く、当然一部に批判もあった。文化勲章を受章した高名な歴史学者坂本太郎や、その後継者井上光貞は、津田らの研究が「主観的合理主義」に過ぎないという主旨の批判を行っている[2]。ただし、坂本や井上をはじめ戦後の文献史学者の多くは、津田の文献批判の基本的な構図を受け入れており、一般に継体天皇以前の記紀の記述については単独では証拠力に乏しいと見ている。

いわゆる“津田史観”は、明治以降の近代実証主義を日本古代史に当てはめ、記紀の成立過程についてひとつの相当程度合理的な説明を行った側面が最も大きい。事実明治の近代史学では、歴史の再構成は古文書日記等の同時代史料によるべきであって、たとえば『平家物語』や『太平記』を史料批判なくして同時代史料に優先して歴史の再構成に使用してはならないという原則が、広く受け入れられるに至った。

しかし同様の原則を古代史に適用することは、直接皇室の歴史を疑うことにつながるゆえに、禁忌とされてきた。それを初めて破って、著書の中で近代的な史料批判を全面的に記紀に適用したのが津田だった。それゆえ、彼は決してそれほどイデオロギー的に特異な立場に立っていたわけではない(日本書紀#成立過程を参照)。


[編集] 著書

『神代史の新しい研究』 1912年。

『神代史の研究』 1924年

『文学に現われたる我が国民思想の研究−貴族文学の時代−』

『支那思想と日本』

など。

岩波書店から『津田左右吉全集』(全28巻、別冊5巻、補巻2巻)が刊行されている。


[編集] 脚註

^ 裁判の経過は向坂逸郎編『嵐のなかの百年 学問弾圧小史』(勁草書房1952年)や家永三郎津田左右吉の思想史的研究』(岩波書店1988年)の第五編「記紀批判への刑事弾圧と津田の対応」に詳しい。

^ たとえば、井上光貞『日本古代史の諸問題』(思索社、1972年

[編集] 外部リンク

津田左右吉 ?建国神話を批判した異端の史学者?PDF

津田左右吉博士顕彰会と津田博士記念館 (美濃加茂市民ミュージアムサイトより)

この「津田左右吉」は、人物に関する書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(ウィキプロジェクト 人物伝)。

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カテゴリ: 人物関連のスタブ項目 | 日本の歴史学者 | 思想史家 | 日本の東洋学者 | 満鉄調査部 | 戦前・戦中の言論弾圧 | 1873年生 | 1961年

[] (2) 18:03

2008.08.08

家永三郎

家永三郎

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家永三郎(いえながさぶろう、1913年9月3日 - 2002年11月29日)は、日本の歴史家(日本思想史)・東京教育大学名誉教授。文学博士(東京大学)。

目次 [非表示]

1 来歴

1.1 日本思想史研究

1.2 反権力的自由主義者

1.3 家永三郎文庫

2 思想的変遷への評価

2.1 第二次世界大戦

2.2 第二次世界大戦

3 高校日本史教科書執筆と教科書裁判

4 著書

4.1 全集

4.2 単著

5 編著

6 関連項目

7 脚注

8 参考文献

9 外部リンク


[編集] 来歴

愛知県名古屋市生まれ。父は陸軍少将家永直太郎。社会学者東北大学名誉教授の新明正道は舅。市立東京一中、旧制東京高校を経て、1937年東京帝国大学文学部国史学科卒。国民精神文化研究所教員研究科高等教員研究科修了。東京帝国大学史料編纂所、教学局日本文化大観編纂助手などを経て、1944年東京高等師範学校教授。

戦後間もなく開学した東京教育大学文学部教授に就任し、1978年定年退職まで一貫してその地位にあった。その間、東京大学東京女子大学など、いくつかの大学で日本思想史の講義も担当した。東京教育大学退官後は、中央大学法学部教授を務めた。


[編集] 日本思想史研究

当初の専攻は日本古代思想史であったが、次第に研究領域を広げ、後半生では、反権力的な自由主義的姿勢を強め、その立場からの社会的発言を数多く行い、植木枝盛美濃部達吉津田左右吉、田辺元など、同様の傾向を持った近代思想家に対する共感を込めた研究や第二次世界大戦に関する反省的立場からの思想史的アプローチを試みた論著を多く発表した。中でも、『太平洋戦争』(岩波書店)は広く読まれ、大きな影響力を持った。


[編集] 反権力的自由主義者

家永の教科書裁判や数々の著作は、表現の自由を求める断固たる運動として海外において評価され、2001年には、日本の国会議員・大学教授83名のほか、中国、韓国、アメリカカナダ、EUの14名の閣僚・国会議員、そしてノーム・チョムスキーハーバート・ビックス、ブルース・カミングス、ジョン・ダワー、イマニュエル・ウォーラステイン、鄭在貞等144名の学者達によって、ノーベル平和賞候補者に推薦された。


[編集] 家永三郎文庫

家永の死後、遺族の希望に基づき、家永の蔵書の大部分(約12,000点)は中国天津市にある南開大学の日本研究所に寄贈された。また、家永が『植木枝盛研究』(岩波書店)等の執筆に際して蒐集した明治期の出版物を中心とする文献資料は、町田市自由民権資料館に収蔵されており、それぞれ「家永三郎文庫」と命名されている。


[編集] 思想的変遷への評価

[編集] 第二次世界大戦

家永はもともと反権力的志向を持っていたわけではない。青年期には陸軍士官学校教官を志望し受験するも、胃腸に慢性的な持病があったため身体検査で落とされるという経歴を持っている。また、昭和天皇に進講したり、学習院高等科の学生だった明仁天皇に歴史を講ずるなど皇室との係わりを持っていた。


[編集] 第二次世界大戦

家永は日本国憲法が公布された1946年11月に『教育勅語成立の思想史的考察』という論文を発表(『史学雑誌』第五十六巻第十二号・1946年11月)しているが、この中で明治憲法教育勅語を絶賛[1]している。また、1947年に出版した『新日本史』にも明治天皇に対する尊崇の文章を記述しており、戦後も数年間は穏健かつ保守的な史観に依拠する立場をとっていたが、1954年頃から特に自己批判や撤回もないまま後年の思想的立場に移行している。家永の態度の変化については、変節漢と批判されることがあり、評論家日垣隆は家永の上記『教育勅語成立の思想史的考察』を自著『偽善系』で紹介しながら、反権力ではなく権力者になりたかっただけだと批判している。

家永のイメージが反権力的なものに変わったのは、逆コースと呼ばれる1950年代の社会状況に対する反発が背景にあるとされており、そのころに憲法と大学自治に対する認識の変化があったといわれている。特に1960年に刊行した『植木枝盛研究』以降は、人権理念を自らの思想の中核に据えて、国家権力と対峙するような問題に取り組むようになっていった。そのほか、戦後のジャーナリズム・知識人社会においては、左翼的、社会主義賛美的なスタンスを取るほうが、圧倒的に経済面を含めて成功に近づくことができたという部分も指摘されている。また、稲垣武は家永が戦後急速に左傾化したことについて、戦前・戦中にファシズムに対し積極的な抵抗をしなかったことや、戦前にマルクス主義に触れた経験がなかったため戦後は左翼に対して劣等感を持つようになったことを挙げて、戦後の家永が戦前・戦中に「右」に偏りすぎた反省から軌道修正を試みた結果、「左」に大きく偏るようになっていったものと分析している[2]。


[編集] 高校日本史教科書執筆と教科書裁判

家永は、戦後間もなく編纂された歴史教科書『くにのあゆみ』の執筆者の一人であったが、その後長く高校日本史教科書『新日本史』(三省堂発行)の執筆を手がけた。通常、歴史教科書は、専門分野を異にする複数の著者によって執筆されるが、『新日本史』は、家永の単独著作という異例の体制で発行された。当初は古代思想史専門だった家永が一人で執筆した歴史教科書は、単純ミスだけで数百カ所に上るとも云われたが、複数の担当者により執筆される他の教科書でもその程度の指摘はされることが多く、突出して多かった訳ではない。

自身の執筆した日本史教科書における南京大虐殺731部隊、沖縄戦などについての記述を認めなかった文部省に対して、検定制度は違憲であるなどとして三次の裁判を起こし、教科書検定を巡る問題を世間に広く知らしめた。訴訟における最大の争点であった「教科書検定は憲法違反である」とする家永側主張は、最高裁にて「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」として、家永側の主張の大部分が退けられ、家永側の実質的敗訴が確定した。一方で、個別の検定内容については一部が不当とされ、家永側の主張が容れられた。学説の大多数も教科書検定制度は合憲とするこの判例結論を支持している。詳細は家永教科書裁判参照。

戦後は、前述の通り反権力的な思想を持つに至ったが、その中でも戦争責任を追及する立場は鮮明であった。自著『戦争責任』(岩波書店)では、慰安婦強制連行を実際に行ったとの証言を行った吉田清司の著書『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』から大幅な引用を行い、これを事実として日本の責任を追及したが、同書は記述自体が信憑性に乏しく、後に吉田自身も偽証であることを認めたため、『戦争責任』は実証的な面が欠けるのではないかとの批判を浴びた。

教科書の発行に関しては、自由発行・自由採択であるべきだとの持論を教科書裁判提訴の頃より一貫して明らかにしており、80年代半ばの『新編日本史』を巡る議論が盛んだった時期には、「あの教科書の内容にはもちろん反対です。しかし、検定で落とせとは、口が裂けても言えない」と述懐していたといわれる。


[編集] 著書

[編集] 全集

家永三郎集』全16巻 岩波書店、1997-1999年

(1)思想史論

(2)仏教思想史論

(3)道徳思想史論

(4)近代思想史論

(5)思想家論1

(6)思想家論2

(7)思想家論3

(8)裁判批判 教科書検定

(9)法史論

(10)学問の自由 大学自治論

(11)芸術思想史論

(12)評論1 十五年戦争

(13)評論2 裁判問題

(14)評論3 歴史教育・教科書裁判

(15)評論4 大学問題・時評

(16)自伝

[編集] 単著

『日本思想史に於ける否定の理論の発達』(弘文堂、1935年

『日本思想史に於ける宗教的自然観の展開』(斎藤書店、1942年

『上代倭絵全史』(高桐書院、1946年)学士院恩賜賞受賞

『上代仏教思想史』(畝傍書房、1947年

新日本史』(富山房、1947年

『新しい日本の歴史』(毎日新聞社1950年

『新国史概説』(富士書店、1950年

『中世仏教思想史研究』(法藏館、1952年

新日本史』(三省堂1952年1994年

『上宮聖徳法王帝説の研究』(三省堂1953年

『外来文化摂取史論:近代西洋文化摂取の思想的考察』(岩崎書店1953年

『歴史の危機に面して』(東京大学出版会1954年

『革命思想の先駆者:植木枝盛の人と思想』(岩波書店1955年

『日本の近代史学』(日本評論新社、1957年

植木枝盛研究』(岩波書店 1960年8月)ISBN 4000001590

『近代日本の思想家』(有信堂、1962年

『大学の自由の歴史』(塙書房、1962年

『司法権独立の歴史的考察』(日本評論新社、1962年

美濃部達吉の思想史的研究』(岩波書店1964年

『権力悪とのたたかい 正木ひろしの思想活動』(弘文堂、1964年

教科書検定:教育をゆがめる教育行政』(日本評論社1965年

『新講日本史』(三省堂1967年7月)

『近代日本の争点』(毎日新聞社1967年

『日本近代憲法思想史研究』(岩波書店1967年

太平洋戦争』(岩波書店1968年

『教育裁判と抵抗の思想』(三省堂1969年

津田左右吉の思想史的研究』(岩波書店1972年

『田辺元の思想史的研究:戦争と哲学者』(法政大学出版局1974年

『検定不合格日本史』(三一書房1974年

日本人の洋服観の変遷』(ドメス出版、1976年

東京教育大学文学部:栄光と受難の三十年』(現代史出版会/徳間書店1978年2月)

『歴史と責任』(中央大学出版部、1979年

『猿楽能の思想史的考察』(法政大学出版局1980年4月)

『親鸞を語る』(三省堂1980年6月)

『戦争と教育をめぐって』(法政大学出版局1981年4月)

『「密室」検定の記録』(教科書検定訴訟を支援する全国連絡会、1983年1月)

『刀差す身の情なさ―家永三郎論文創作集』 (中央大学出版部、1985年)

戦争責任』(岩波書店1985年7月)ISBN 4-00-001167-7

太平洋戦争 第2版』(岩波書店1986年11月)ISBN 4-00-004536-9

『日本思想史学の方法』(名著刊行会、1993年3月)

『真城子』(民衆社、1996年)ISBN 4-8383-0519-2

『一歴史学者の歩み』(岩波書店2003年5月16日)ISBN 4006030797

[編集] 編著

日本古典文学大系 日本書紀』(井上光貞、坂本太郎らとの共編)

『日本平和論体系』

『絵巻物文献目録』(1951年

『明治前期の憲法構想』(福村出版、1967年)

『海南新誌・土陽雑誌・土陽新聞』(弘隆社、1983年6月)

大津事件日誌』(平凡社1989年2月)ISBN 4-582-80187-0

[編集] 関連項目

家永教科書裁判

歴史教科書問題

家永遵嗣(甥・学習院大学文学部史学科教授)

日本における検閲

[編集] 脚注

^ 教育勅語1948年に国会本会議で排除・失効決議がされたが、1946年10月からGHQの意向によって公教育における教育勅語の奉読が禁止され始めていた。

^ 『「悪魔祓い」の戦後史』P.337

[編集] 参考文献

稲垣武著『「悪魔祓い」の戦後史‐進歩的文化人の言論と責任』(文藝春秋1994年8月)

[編集] 外部リンク

(批判と反省)家永三郎「「関特演」の違法性」

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E6%B0%B8%E4%B8%89%E9%83%8E" より作成

カテゴリ: 日本の歴史学者 | 思想史家 | 歴史教科書問題 | 名古屋市出身の人物 | 1913年生 | 2002年

[]★一坂太郎『幕末歴史散歩ー京阪神編』(中公新書)2008.07.22- 18:03

2008.07.23

         寺田屋、今も営業中

         京阪電鉄本線

         中書島駅のそば

中書島駅(ちゅうしょじまえき)

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

駅周辺

京都市自然100選「伏見濠川の柳並木」

舟宿・寺田屋

橋本同様、戦前までは遊廓があり賑わった。現在は駅前に飲食店が軒を連ねるものの、かつての名残は遊廓だった一部の建物が民家として残るのみ。

新日本理化京都工場

伏見港公園

寺田屋(幕末、坂本龍馬が定宿し、また寺田屋事件の舞台になった老舗旅館である)

モリタ製作所

月桂冠大倉記念館

キザクラカッパカントリー

宇治川派流(濠川)

十石舟 - 濠川の遊覧船

         伏見区南浜町263

      P086

         龍馬庇護のお登勢

         1614 完成 高瀬川

         長州藩京都屋敷

         京都ホテルオークラ

         松平容保

         

         ≪ 木造の晒し首 ≫

         等持院

         京都洛北、衣笠山

         南麓、臨済宗

         (北区)

         1341 夢窓国師

         開山

         足利将軍家、菩提寺

         等持院霊光殿

         三条大橋に晒す

         

         ≪ 新選組の誕生 ≫

      P112

         ≪ 勝海舟と神戸海事操練所 ≫

         ≪ 砲台 ≫

         西宮

         明石舞子

         和田岬

         荻野家

      P124

         ≪ 小笠原長行の卒兵西上 ≫

      P130

         ≪ 七卿落ちと妙法院 ≫

         洛東妙法院

         沢・・・脱走

         錦小路ーーー病死

         伝教大師を開基とする

         当時、土佐藩宿舎

         山内家と三条家、親戚

      P131

         ≪ 天誅組挙兵 ≫

         主将・・・19歳、中山忠光

         代官、鈴木源内

      P135

         ≪ 森田節斎と五条 ≫

         ≪ 五条の怪人乾十郎 ≫

http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/gojo1.htm

(乾十郎の墓)乾十郎の墓 乾十郎は、文政十年五條の生まれで、森田節斎に学び、のちに大津で梅田雲浜の門に入った。短身五尺、色黒く眉濃く鼻筋通り高く、目大にして丸顔、頭髪ざん切りという目立つ風采で、天誅組が敗退すると一時大阪に逃れて潜伏していたが、幕吏に捕らえられることになった。元治元年(1864)七月、六角獄舎にて斬首された。三十七歳。墓は五條のほかに京都霊山、大阪正念寺にもある。

 司馬遼太郎短編小説アームストロング砲』(講談社文庫)所収「五條陣屋」に、“怪人”乾十郎が登場する。 商励会商店街附近に乾十郎や森田節斎の旧宅跡があるが、なかなか行き着かない。通りに住む老人に尋ねると、老人は実に親切に教えてくれた。その上五條市の地図までコピーしてくれて大いに助かった。

         吉村虎太郎

         平野国臣

         沢

         朝来市朝来町

         河上弥市

         生野の変

         

         ≪ 池田屋 ≫

         志士

         三縁寺

         女主人 小川てい

      P162

         ≪ 明保野亭事件 ≫

         会津、新選組による残党狩り

         清水産寧坂、料亭明保野

         会津藩士柴司

         土佐藩士麻田時太郎

         柴の切腹

      P170

         ≪ 長州人首塚 ≫

         この国の品位

      P177

         ≪ 姫路藩の攘夷派弾圧 ≫

         酒井家(譜代大名

         河合惣兵衛

         攘夷派

         高須隼人(家老)の弾圧指揮

         河合伝十郎

         

         ≪ 新選組の谷三兄弟 ≫

         谷三十郎供国

         七番隊長

         備中松山

         万太郎

         昌武兄弟

         17歳、近藤の養子に

         周平と命名

      P183

         ≪ ぜんさい屋事件 ≫

         大坂城焼き払い計画

         土佐、田中光顕ら

         島波間

         

         ≪ 大坂屯所万福寺 ≫

         藤井監田(らんでん)

         

         ≪ 膳所城事件 ≫

         家茂宿泊予定

         中止

         大津宿に変更

      P193

         小松帯刀

         薩摩藩邸は同志社大学(上京区烏丸通今出川東入ル北側)

         あたり、大学入り口にあった

         大学院の門、当時の屋敷門が残る

         「薩摩藩邸跡」

      P195

[]★一坂太郎『幕末歴史散歩ー京阪神編』(中公新書)2008.07.22- 18:09

2008.07.22

         「緑毛亀(りょくもうき)」

         文治の兆し

      P004

         朝廷は世界に類を見ない武力を持たない

         抽象的な存在である

         

         1793 6.27 久留米で自殺

         薩摩が動かずで

         

         ≪ 大塩の蜂起 ≫

         1837

         生田万の乱

         成正寺の大塩父子墓

         大阪市北区末広町1-7

         靱本町1-18-21・・・大塩死亡地

         坂本鉉之助

http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage487.htm

  大塩平八郎の決起の経緯については大塩の乱(1)で述べたが、この蜂起は僅か半日で鎮圧されている。一番大きな要因は、内部からの密告者が出たため、決起を早めざるを得なくなり、準備不足にならざるを得なかったことがあげられる。一方、鎮圧側においては、事件当時、大坂城警固担当の玉造口与力だった坂本鉉之助俊貞の働きが特筆される。この乱の鎮圧功労者坂本鉉之助の墓が大阪市中央区の「大倫寺」にある。

  事件が勃発後、鉉之助は玉造口定番・遠藤但馬守胤統の命により、東町奉行跡部山城守の指揮下に入り、鎮圧に出動した。

  大塩方は、最初の砲撃戦となった内平野町では、西町奉行堀伊賀守配下と遭遇、決起に駆けつけた農民や途中引き込まれた民衆で300名以上に膨らんでいた乱の参加者 達は砲撃におびえ、四散し100余名となってしまった。次ぎの主戦場となった淡路町の銃撃戦で、 東町奉行跡部山城守配下と遭遇、鉉之助自ら銃をとり、大塩方の大筒方梅田源左衛門を射殺したため、大塩方は現場の指揮官を失い総崩れとなり、離散し始め、小競り合いともいえる2つの市街戦で大塩方の挙兵はあえなく鎮圧された。

この戦いの功により、鉉之助は旗本(御目見末席)となり、1838年(天保9年)新設された大坂城御鉄砲方に就いている。

  鉉之助俊貞の父坂本孫八郎俊豈は信州高遠藩士、荻野流砲術家で、荻野流に工夫を加え荻野流増補新術と称した。兄孫四郎俊元がこれを継ぎ、天山流と云われた。

鉉之助は7歳のとき、大坂城玉造口与力をつとめる坂本本家(後に大坂荻野流宗家となる)の養子となったが、砲術は17歳まで兄孫四郎のもとで学んでいる。

鉉之助が乱の後に記した『咬菜秘記』は事件を遡る、1821年(文政4年)平八郎との出会いや、事件の経過などが述べられており、当時の実情を知る上に欠くことの出来ない第1級の史料とされている。

         砲術

         吉田松陰

         大和五条に森田節斎を訪問

         

         ≪ 吉田松陰の「山河襟帯の詩」≫

         佐久間象山に江戸で師事

         天皇を思う

         京都市左京区岡崎公園

      P033

         ≪ 関西の黒船騒動 ≫

         1854.プチャーチン

         和田岬に集まる庶民ー菓子、砂糖

      P035

         ≪ 天保山沖の騒動 ≫

         大坂城代土屋釆女正寅直(ともなお)

      P037

         ≪ 大坂の台場築造 ≫

      P050

         ≪ 孝明天皇 ≫

         堀田正睦

         ≪ 橋本左内の奔走 ≫

[] 阪急電鉄パンフレット沿線案内から (8) 18:03

2008.07.23

スタート

天神橋筋6丁目

吉原通

楽天地温泉

ぷらら天満

JR天満橋

天満橋筋

源八橋西詰

源八橋

森林管理局

帝国ホテルアネックス

帝国ホテル大阪

大阪アメニティパーゥ

(OAP)

北陵中学校

泉布館

ユースアートギャラリー

桜宮橋西詰

桜宮橋

大川

造幣局

造幣局博物館

滝川小学校

東天満東

地下鉄谷町線




[]★林屋辰三郎他編『京都歴史と文化3政治と商業』(平凡社)2008.07.08- 18:03

2008.07.22

      P231

         禁裏御倉の在任期間

         ≪ 土倉、酒屋の営業 ≫

         ≪ 土倉の相論 ≫

      P258

         ≪ 石田梅岩 ≫

      P265

         京都二条

         伏見・・・間

         高瀬川開鑿

         角倉氏による

         高瀬舟の運行

         

         ≪ 交通 ≫

         京七口

         

         1. 東寺口 山陽道ー摂津道

         

         2. 五条橋口 東海道 伊賀伊勢道

         

         3. 四条大宮口 西海道 九州道

         

         4. 竹田口 南海道 紀州道

         

         5. 三条橋口 近江道 東山道

         

         6. 大原口 北陸道 若狭道

         

         7. 清蔵口 山陰道 丹波道

      P126

         1854 ペリー再航につき幕府は井伊直弼藩主を

         京都警護(それまでは江戸湾防備)

      P123

         桃園天皇の神書講読

         竹内式部「京都」追放

         →宝暦事件

         明和事件

         =藤井右門

         山県大弐

         幕府に対する謀反事件

         尊王思想

[]★松浦玲『新選組』(中公新書)2008.07.16- 18:03

2008.07.22

         5. 鳥羽伏見戦争

         竹中重固がダメ

         城南宮、小枝橋線で待ち受ける薩摩軍

         竹田街道

         土佐藩は戦意なし

         御沓宮

         指揮官は無能

      P169

         男山

         木津川

         淀大橋

         巨椋池

         淀城

         宇治川

         

         ≪ 千両松 ≫

         1/5 井上源五郎を失う

         甥の井上泰助

         首を田圃に埋める

         八幡、橋本まで陸続

         開陽丸

         江戸へ

         読了

2008-08-07(Thu)

http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/simonosekidehaukeirerarenaiitisakatayou.htm

下関では受け入れられない一坂太郎氏

「和のまつり」での基調講演中止せよの声  

2004年10月2日付


 下関長府庭園で10月10、11の両日「第4回和のまつり長府庭園」が開催されるが、その基調講演に、元東行記念館学芸員で同館所蔵の高杉晋作資料を萩市へ持ち去った一坂太郎氏が予定されていることが、下関市民の憤激を買っている。一坂氏はこれまで、功山寺決起や彦島講和談判の史実を否定し、高杉晋作の業績を萩の俗論党の側から冒涜するなど、明治維新をねじ曲げてきたこともよく知られている。このような人物が、下関で受け入れられるはずがなく、講演そのものを中止すべきだという声が上がっている。

 「和のまつり長府庭園」は、現在の浮ついた風潮に抗して、日本の文化を見直そうと同実行委員会(実行委員長=和仁皓明・東亜大学大学院教授)が主催して3年まえに発足した。第4回目となる今年の基調講演は「松陰と晋作」をテーマに一坂氏が「作家」の肩書きで講演することになっている。

 このことを知った市民のあいだで、「下関に泥を塗って逃げるように出ていったものが、よくのこのこ来られるものだ。だれが連れてきたのか」などと怒りをもって語られ、論議が広がっている。

 市内のある商店主は、「例年どおり、和のまつりのポスターを掲示するよう協力を求められて預かったが、一坂氏が講演することを知って腹が立ってはるのをやめた。一坂氏は、東行庵に寄贈された資料をふくめて、勝手に萩に持っていった泥棒だ。なぜこんなことになったのか、一坂氏も恥も外聞もなく下関によく来れるものだ」と怒りの声を上げている。

 また、「和のまつり」にとりくんでいる出演者や実行委員、協力者のあいだでも、「一坂氏の講演についての批判が強く、これまでのようにチケットを売ることがむつかしい状況がある」と話されている。

 下関文化人のあいだでは、一坂氏がまつりの講師に決まったのは七月半ば、和仁実行委員長がソレントでの捕鯨委員会に出て不在のとき、実行委員会の顧問である御手洗美代子氏(下関市議)が持ちこんだと見られている。

 これにたいして御手洗氏は、「わたしが直接話を持ちこんだことはない。しかし、まつりを手がけ裏方として仕切っている立場から批判は受けて立つ」という態度で、「一坂さんを呼ぶことを批判する人は心が小さいといいたい。排斥するのではなく、もっと大きな心と愛を持って、受け入れることがたいせつだ。歴史の見方の違いについてはおたがいに認めあうことだ。一坂さんは、こちらの要請にたいして、なんの問題もなく二つ返事でひき受けられた」と、真向勝負の姿勢。

 高杉晋作の活動の真骨頂である奇兵隊創設と功山寺決起の地であり、高杉終焉の地でその骨を埋める下関の東行記念館から、高杉史料を萩に持ち出す策動は、山口県の意向で野村萩市長、江島下関市長と一坂氏が組んでやったものであることは、多くの県民の知るところである。

 それは一坂氏が、欧米列強植民地化を拒み、民族独立と腐敗した幕藩体制を打倒して近代日本を切り開く明治維新革命をたたかった父祖たちを誇る山口県民を冒涜する史観をふりまいて、真実とは無縁な卑俗な商業主義世界に転がりこんだことと軌を一にしたものであった。そこには、大きくいって日本近代の歴史をその出発点からねじ曲げることで、今日社会現実に肉薄し、積極的に変革する姿勢を萎(な)えさせようとする力が働いてきたといえる。

 東行記念館の学芸員の時期から一坂氏の言動に批判的であった文化人は、「一坂氏は多くの市民の協力で保管していた資料を勝手に持ち出したのに、県や野村萩市長らにかかえられて、新しい博物館(特別学芸員)に収まった。マスコミ朝日読売西日本などが一坂氏を持ち上げ、大きくあつかっている。一坂氏は天狗になっているのではないか。恥を知るべきで、講演そのものができないようにすべきだ」と語っている。

人権主義による歴史認識破壊

一坂太郎氏に代表される歴史学会の潮流  

2003年4月15日付


 下関にある東行記念館の高杉晋作史料が萩に持ち出されるという事態の展開のなかで、高杉晋作明治維新を冒涜(とく)する潮流への批判とともに、父祖たちの維新革命の事業を正しく顕彰する方向での論議が発展している。

 こうしたなかで東行記念館の元学芸員・一坂太郎氏が、最近あらわした本や講演で、高杉晋作明治維新についてこれまで科学的に研究され、山口県民のなかで誇りをもって語り伝えられてきた歴史を「勝者の栄光の物語」で「偽物の歴史」だといって侮べつし、「本物の歴史」は「改革の犠牲」「歴史の敗者」のなかにあると主張して、結局、維新革命に対抗して敗北した側に真実があるかのようにとなえていることが多くの人人の知るところとなり、ひんしゅくを買っている。

 

  敗者の人権主張し幕藩体制擁護

 一坂氏は歴史には「勝者」だけでなく、「敗者」もあり、「栄光」だけでなく「悲劇」もあるといっている。たとえば、明治維新への途上で幕府恭順の側に立って、人民諸隊によって一掃された長州藩内の「俗論派」が、「維新を阻止する“悪役”のイメージが強く被(かぶ)せられ」、今日まで招魂場にもまつられず、「顕彰する碑」もないというような「冷たい仕打ちを受けてきた」ことに憤慨し、その名誉回復をとなえるという具合である。

 一坂氏は「“俗論派”は敗れたから“俗論派”になっただけで、彼らにも彼らの“正義”があった」「“正義派”も“俗論派”も自分たちが志し、すすむ道こそが長州藩の、そして天下国家のためになるとひたすら信じた」といって、その「思い」を代弁してやまない。幕府や「俗論派」との妥協を主張して俗論派討伐への決起に反対して逃亡し、新撰組長州藩の内情を話し、新撰組の手で送り返され、結局とらわれて処刑されるという運命をたどった元奇兵隊総管・赤根武人の名誉回復をとなえるのも、このような観点からである。

 この見方の特徴は自分の興味と関心がすべてであり、俗論派という敗者の人権を擁護するという志向である。東行庵という高杉を顕彰するところに身をおいて、高杉冒??をやるという「僕の自由と民主主義」と「僕の人権」を実行した一坂氏であるが、明治維新の見方もまさにそれと同じである。

 一見ハイカラそうな「自由と人権」主義が、130年余りまえに滅亡した徳川幕藩体制を擁護するという時代遅れ反動側に立つのである。士農工商の身分制がつづき、交易・交通の自由もなく、「百姓と油は搾れば搾るほど出るものなり」の徳川時代のままがよかったというのである。それは実際には、欧米植民地として清国と同じようになっていた方がよかったというものである。そのようなものを支持するのは、ペリー黒船来航以来日本植民地化を狙っていたアメリカのようなものであろうし、どうせ第2次大戦で敗戦しアメリカ植民地になったのなら、明治維新などしなくてもそのまま植民地になっていた方がよかったという連中のたぐいであろう。

 明治維新の史実についての一坂氏の主張は、「俗論派」の幕府恭順路線が当時では「常識見解」であり、「まちがっていなかった」と公言し、高杉晋作らの武力倒幕路線が「過激な暴走」であったかのように描き、「功山寺挙兵」を冒??していることに集中的にあらわれている。

 人民の支持で勝利した武力倒幕

 高杉や奇兵隊士の碑が多くあるのは、人人がそれを尊敬したからであり、俗論派の碑がないのは人人が尊敬しなかったからである。一方は日本社会進歩発展のために当時の百姓・町民とともに命をかけてたたかったからであり、他方は徳川幕藩体制のもとで百姓・町民をしぼったうえでの武士階級としての自分の特権的な地位を守るために革命派にテロ攻撃をかけたからである。

 功山寺挙兵は80人の決起であった。それは長州藩内の領民全体の熱烈な支持を受けその決起を促したし、奇兵隊・諸隊の決起を呼び起こした。高杉はそれを確信しており、身を挺(てい)し、たたかって人人を激励し、局面を転換したことが偉大だとみながみなしているものである。

 高杉らの行動と俗論派の行動は、個人的な関係ではなく、徳川幕藩体制と農民、商人・町民とのあいだに形成されていた当時の階級的な矛盾関係関係してあった。80人で決起した高杉らが勝利し、巨大な権力をもっていた俗論派の藩政府が敗北したのは、ほかでもなく領民がどちらを支持したかが決定的な分かれ目であった。それは4000余りの兵力で十数万の幕軍をうち負かした四境戦争で勝利したのも、新潟でも会津でも勝利したのも同じであった。

 幕末期には、徳川幕藩体制の矛盾は極点にまで達していた。幕藩体制と呼ばれる封建支配体制は、生産力を代表する農民と封建支配階級とのあいだの矛盾、さらに封建制のなかで発生し発展しつつあった大商人手工業者・マニュファクチュアの経営者などと封建支配階級との矛盾が基本的な矛盾を形成していた。徳川後期になると、大飢饉(ききん)がひん発して数万の農民が餓死したりし、それはしばしば巨大な百姓一揆となってあらわれていた。そのうえに外圧として、欧米先進資本主義国の侵略の波がおし寄せ、それまで鎖国をしてきた幕府欧米に従属することで地位を守ろうとするなかで、国内矛盾の対立と斗争はますます激化することとなった。維新革命の原動力となったのは農民、商人・町民であった。

 かれらを導いてそのブルジョア革命を指導したのは下級武士であった。日本ではブルジョアジー政治的に指導するほど成長していなかった。その代表は高杉晋作であり、農民、商人、下層武士奇兵隊その他人民諸隊という政治・軍事組織に結集し、徳川幕藩体制の打倒と近代的統一国家の形成をすることと結びつけて、欧米資本主義植民地となることを拒否した。高杉が偉大なのは、客観的な矛盾関係を正しく把握し、それに適合した戦略戦術をもって、みずから先頭に立って正しく導いたからである。

 一坂氏が歴史研究の分野にもちこんでいる「人権擁護」史観は、「革命派も幕府恭順派も、どちらとも一生懸命やったのだから結果だけから判断してはいけない。努力を認めてやらなければいけない」という思想根底にしており、今日社会的にはびこっているアメリカ型の「自由・民主人権思想と響きあっている。

 重要なことは、これが一坂氏1人の恣(し)意的な遊びごとといったものではなく、近年日本の歴史学界のなかに流れる傾向であり、歴史進歩反動の違いをごちゃまぜにして、わけがわからなくさせていることである。

 戦前非科学的な皇国史観がとなえられ、歴史を正しく見ることができず、不幸な戦争にかりたてられた経験がある。戦後はその反省から、歴史研究にも発展が見られたが、いまではそれをまるで投げ捨て、「自由、人権」といって歴史科学的に正しく見ることができなくさせている。歴史学権威者といわれる部分までが臆面もなく「敗者の歴史」などといっている。それはかつての戦争反省を忘れて、今度はアメリカ国益のための戦争日本を総動員するたくらみがすすんでいることと結びついているといわなければならない。

2008-08-06(Wed)

[] ブッシュ 20:39

2008.08.06

ブッシュ政権が文書捏造? イラク開戦で暴露本

2008年8月6日 16時57分

 【ワシントン6日共同】国際テロ組織アルカイダイラクの旧フセイン政権との関係をこじつけイラク戦争開戦の口実にするため、ブッシュ米政権がフセイン政権内部の文書を捏造していたと主張する本が5日出版された。

 ホワイトハウスは「ばかげた話」と事実関係を全面否定しているが、イラク戦争開戦の是非をめぐる議論が再燃しそうだ。民主党オバマ、共和党マケイン両上院議員によって争われる11月の大統領選に影響を与える可能性もある。

 この本はピュリツァー賞受賞者のロン・サスカインド氏が著した「ザ・ウェイ・オブ・ザ・ワールド」。ブッシュ政権の内幕を題材に、指導力を失っていく米国の姿を描いている。

 同書はブッシュ政権が、当時のイラク情報機関ムハバラトの長官だったタヒル・ジャリルハブシュ氏の書簡を捏造したと指摘。

 2001年7月1日付の書簡はフセイン大統領あてとされ、米中枢同時テロ実行犯のリーダー格だったモハメド・アッタ容疑者イラク国内で訓練をしていたなどと記されていたという。

[]★林屋辰三郎他編『京都歴史と文化3政治と商業』(平凡社)2008.07.08- 18:51

         右京の衰退

         朱雀大路あたりが市街

         地の西端となる

         

         ≪ 薬子の乱 ≫

         上皇と天皇の対立

         譲位した上皇のために御所として二つの後院

         

         朱雀院と冷泉院

         

      P036

         ≪ 三善清行、意見封事十二か条 ≫

         王朝貴族政治

         

         ≪ 身内政治、摂政と関白 ≫

         公卿合議制

         第一皇子でありながら皇位継承からはずされる惟喬親王

         木地師の社会でこれを祖神とする

         伝承

         流離する皇親の物語

      P040

         村井康彦「平安貴族の世界」

         受領たち

         険目の日

         就職活動

         道長

         東国からは馬

         西国からは牛

         志

         杉橋隆夫

         

         ≪ 武門と公家 ≫

         京鎌倉時代

         得宗

         白河院

         鳥羽院

         今橋

         梁塵秘抄

         清和源氏

         義家

         清和天皇

         河内源氏から伊勢平氏へ

         平氏ー白河院

      P049

         ≪ 武者と検非違使 ≫

         専制君主の名、ほしいままにした白河法王でさえままならぬもの

         (1)賀茂川の水

         (2)双六の賽

         (3)山法師

         

         防鴨河使(ぼうかし)

         賭博

         院宮諸家の下部

         悪徳神人

         承久の乱

         乱の勝利に自信の幕府

         初代摂家将軍

         九条頼経の上洛

      P072

         3. 内乱の時代

         ≪ 新政とその挫折 ≫

         

         ≪ 検非違使と市正 ≫

         東市正(いちのかみ)

         中原章香

         ↓

         名和長年へ

         二条良基

         明法家

         

         ≪ 侍所と山城守護 ≫

         侍所の検断(警察権)は御家人、武家に及ばない

      P080

         ≪ 五職家の成立 ≫

      P086

         政所代

         執事代

         伊勢氏

         蜷川氏

         守護領国制

         三代将軍義満

         足利家による皇位簒奪、生前に

         妻、日野康子

         所司代

         浦上範宗

[] 宝塚 18:22

2008.08.06

http://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/0001307100.shtml

てんかん闘病の中学生と家族 ノンフィクション作品に 

本のモデルとなった林聖憲さん(左)と母の優子さん=宝塚市役所

 乳児重症ミオクロニーてんかん(SME)と闘う宝塚市立宝塚中学二年の林聖憲さん(14)と、家族の姿を描いたノンフィクション「12年目のお・か・あ・さ・ん」が出版された。聖憲さんが十二歳のとき、初めて母優子さん(49)のことを「かあさん」と呼んだエピソードをはじめ、周囲の偏見に苦しみながらも前向きに歩む家族の姿を描いている。(切貫滋巨)

 聖憲さんは優子さんの次男で、一歳のときにSMEと診断され、けいれんなどを伴う発作を恐れながらの生活が始まった。優子さんは体験記を出版し、「きよくん基金を募る会」を立ち上げるなど、治療法研究の資金集めにも取り組んでいる。ノンフィクション作家の綾野まさるさんが優子さんのブログなどを見て出版が決まった。

 本は、優子さんの気持ちの移り変わりを中心に、聖憲さんの成長をつづる。優子さんは当初、聖憲さんの将来を悲観していたが、患者の家族でつくる「SME親の会」の存在を知り、現実を受け入れ、病に立ち向かう決意を固める。また、聖憲さんは、頭部を保護するために「ヘッドギア」を装着。偏見の目に負けず、周囲に助けられて運動会に出場する姿も描く。

 ラストシーンでは、「カ行」の発音が難しい聖憲さんが、「おかあさん」と言う練習を優子さんと何年も繰り返し、ついに二年前、自分から「かあさん」と口にした場面が描かれる。

 大きめの活字で、漢字にはルビを振るなど、子どもにも読みやすく、宝塚市から推薦図書の指定を受けた。林さんは「少しでも病気を理解してもらって温かく見守ってほしい」と話している。

 A5判、百四十九ページ。四千部発行。全国の書店で注文できる。ハート出版TEL03・3590・6077

(8/6 11:38)

[] 火災報知機 17:12

2008.08.06

NHK取材ライト火災報知機反応

2008年08月06日

  5日午後1時40分ごろ、山口市八幡馬場の山口赤十字病院で、NHK山口放送局の取材班3人が持ちこんだ撮影用ライトの熱に火災報知機が反応して院内放送が流れ、手術3件が約5分間中断するなどの騒ぎになった。


  病院やNHKによると、記者やカメラマンらが看護師を取材するため、東病棟1階の相談室でカメラ撮影を始めようとした際、上に向けていたライトの熱に天井の火災報知機が反応した。2階手術室で行われていた手術3件は、火災でないことを確認するまで中断した。病棟のエレベーターも安全確認のため約10分止まった。病院は安全確認後、火災ではないことを告げる院内放送を流した。


  NHK山口放送局の落合英俊副局長は「大変ご迷惑をおかけした。今後は細心の注意をはらって取材をするよう徹底したい」と話した。赤十字病院の伊藤文夫事務部長は「テレビ取材は受けて来たが、火災報知機が反応したことはなく、予想できなかった。患者を驚かせて申し訳ない」と話している。

[]★林屋辰三郎他編『京都歴史と文化3政治と商業』(平凡社)2008.07.08- 12:51

2008.07.08

      P020

         長岡宮の造営

         ↓

         難波津の終焉

         藤原種継

         →長岡京造営使

         和気清麻呂

         →解体に当たる

         摂津太夫

         (長官)

         

         ≪ 皇統意識の転換 ≫

         天武系

         天智系

         

         1. 天智天皇

         2. 弟 天武天皇

         

         3. 持統天皇

         父 =天智天皇

         兄弟=大友皇子

           =施基皇子

           =元明天皇

         夫 =天武天皇

         子 =草壁皇子

         

         4. 文武天皇

         母 =元明天皇

         父 =草壁皇子

         兄弟=元生天皇

         妻 =藤原宮子

         子 =聖武天皇

         

         5. 元明天皇

         父 =天智天皇

         兄弟=大友皇子

           =施基皇子

           =持統天皇

         夫 =草壁皇子

         子 =元正天皇

           =文武天皇

         

         6. 元正天皇

         父 =草壁皇子

         母 =元明天皇

         兄弟=文武天皇

         

         7. 聖武天皇

         父 =文武天皇

         母 =藤原宮子

         妻1=県犬養広刀自

         妻2=藤原光明子

         子(妻1)=井上内親王

         子(妻2)=孝謙天皇

              =称徳天皇

              =基王

         

         8. 孝謙天皇

         父 =聖武天皇

         母 =藤原光明子

         兄弟=基王

         

         9. 淳仁天皇

         祖父=天武天皇

         父 =舎人親王

         

         10. 称徳天皇

         

         11. 光仁天皇

         祖父=天智天皇

         父 =施基皇子

         妻1=高野新笠

         子(妻1)=早良親王

              =桓武天皇

         妻2=井之上内親王

         子(妻2)=他戸親王

         

         12. 桓武天皇

         曽祖父=天智天皇

         祖父 =施基皇子

         父  =光仁天皇

         母  =高野親王

         兄弟 =早良親王

         子  =嵯峨天皇

            =平城天皇

         

         13. 平城天皇

         祖父=光仁天皇

         父 =桓武天皇

         兄弟=嵯峨天皇

         

         14. 嵯峨天皇

         父 =桓武天皇

         兄弟=平城天皇

         

      P026

         第一次平安京

         第二次平安京

         平安京

         一条大路(=北極大路)

         土御門大路

         平安宮

         上西門

         上東門

         東西4.5km

         南北5.2km

         

         ≪ 桓武・嵯峨朝における後宮の肥大化 ≫

         

         ≪ 薬子の乱 ≫

         平城上皇による平城遷都の命令

         藤原仲成、薬子の怨念

         鴨長明『方丈記

         枕草子

         条坊制による町割り

[] 11:44

2008.08.06


堀田正睦

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

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堀田正睦 凡例

時代 江戸時代後期から江戸時代末期(幕末)

生誕 1810年8月30日(文化7年8月1日

死没 1864年4月26日(元治元年3月21日

改名 左源次(通称)、正篤(初名)

諡号 見山

戒名 文明院見山静心誓恵大居士

墓所 千葉県佐倉市新町の甚大寺

官位 従四位下、相模守、侍従、備中守、

贈従三位(大正4年(1915年))

幕府 江戸幕府寺社奉行大坂城代、老中

主君 徳川家斉→徳川家慶→徳川家定

藩 下総佐倉藩主

氏族 堀田氏

父母 父:堀田正時

母:源田芳尾(源田右内光寿の娘)

養父:堀田正愛

妻 正室:節子(榊原政令の娘)

側室:平田氏

子 堀田正倫(四男)、万(松平輝聴正室)

万理子(岩城隆邦正室)、寿子(松平武聡正室)

道子(松平直哉正室)、千勢(米津政敏正室)

堀田 正睦(ほった まさよし)は、江戸時代末期の大名・老中(首座)。下総佐倉藩の第5代藩主。正俊系堀田家9代。

目次 [非表示]

1 生涯

2 官位・官職履歴

3 人物

4 堀田正睦が登場する著書

5 堀田正睦を演じた人物

6 関連項目


[編集] 生涯

文化7年(1810年)8月1日、第3代藩主・堀田正時の次男として生まれる。

文化8年(1811年)、正睦が2歳のときに父が死去したが、藩主は嫡系(正時の兄の子)の堀田正愛が継ぎ、その後に正愛の養子となった。初名を正篤(まさひろ)という。

文政8年(1825年)、正愛が長年の闘病の末に病死した際には若年寄を務めていた堀田一族の長老・堀田正敦(近江堅田藩主)がその後見を務めていたが、藩政を牛耳っていた老臣・金井右膳らは正篤を嫌って正敦の子を藩主に擁立しようとした。だが、正敦がこれを拒否したために正篤が藩主に就任した。当時の佐倉藩では金井右膳が専制を振るっていたが、これは当時度重なる外国船の接近に対して佐倉藩は幕府の命令により、文政6年(1823年)以来、病気がちの藩主・正愛に代わって江戸防衛のための準戦時体制を取っていたことによる。

藩主となった正篤は幕府の信任が厚い金井に時には掣肘を加えながらも天保4年(1833年)に金井が死去するまでこの体制を維持した。金井の死後は藩主として独り立ちをして藩政改革を指揮する。幕府では寺社奉行大坂城代などを務め、天保8年(1837年)に老中となるが、天保14年(1843年)に辞職した(辞職の理由として、正篤自身が第11代将軍・徳川家斉の側近であったこと、蘭学好きという理由から水野忠邦と対立したこと、忠邦の推進した天保の改革はやりすぎである、と土井利位ら他の老中と語らっていたことなどとされる)。老中辞任後、江戸城溜間詰となる。

正篤は、藩主としては蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して順天堂を開かせるなど、蘭学好きであったことから、「蘭癖」と呼ばれた。幕末においては、攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。その後、安政2年(1855年)に阿部正弘の推挙を受けて再び老中になる。そして正弘から老中首座を譲られ、外国掛老中を兼ねた。安政3年(1856年)、島津家から将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名する。

安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとするが、条約調印に反対する攘夷派公卿たちが廷臣八十八卿列参事件を起こし、さらに天皇自身も強硬な攘夷論者であったため却下され、堀田は手ぶらで江戸へ戻ることとなった。

一方、同年、第13代将軍・徳川家定が病に倒れ、その後継ぎをめぐって徳川慶福(紀伊藩主)を推す南紀派と、徳川慶喜(一橋家当主)を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きた。正睦はもともと水戸藩徳川斉昭とは外交問題を巡って意見があわず、従ってその子の徳川慶喜にも好感が持てず、心情的には徳川慶福が第14代将軍に相応しいと考えていたふしがある。しかし、京都で朝廷の強硬な反対にあって勅許を得られなかった状況を打開するには、慶喜を将軍に、福井藩主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋ひいきの朝廷も態度を軟化させて条約調印に賛成すると読み、将軍継嗣問題では、南紀派から一橋派に路線を変えた。

しかし正睦が上洛中に、松平忠固(老中)、水野忠央(紀州藩家老)の工作により南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、井伊は堀田をはじめとする一橋派の排斥を始め、老中職を罷免された。そのため、安政6年(1859年)、家督を4男の堀田正倫に譲って隠居した。ただし、井伊は時機を見ての堀田の再登用を検討していたとも言われており、安政の大獄においては他の一橋派大名が閉門などの厳重な処分を受ける中で不問に付されている。だが、これはかえって堀田と井伊が結んだという憶測を招き、桜田門外の変後の文久2年(1862年)に謹慎処分となり、佐倉城での蟄居を余儀なくされた。

元治元年(1864年)3月21日に死去。享年55。


[編集] 官位・官職履歴

文政8年(1825年):従五位下・相模守

天保5年(1858年):備中守

天保8年(1861年):従四位下

大正4年(1915年):従三位追贈

[編集] 人物

前述したとおり、「蘭癖」と呼ばれるほどの蘭学好きであった。

阿部正弘から老中首座を譲られ、幕末の政局を一時は担ったことから、幕末期の老中としては有能な人物だと言われている。

晩年はほとんど報われなかったが、嗣子の正倫も父の遺志を受け継ぎ、幕府存続に尽くしている。

阿部正弘と同じく、堀田正睦も以前は「無能な指導者」と評されていた。実際、老中首座になったとはいえ阿部が存命中は幕政の実権は阿部が握っていたためにほとんど出番は無く、阿部が死去すると実権を握ったとはいえ、将軍継嗣問題・通商条約交渉の失敗などが相次いで遂には失脚という形になっているからである。ただし、これはあまりに過酷で一方的な評価であり、堀田は阿部の改革路線を受け継いで非門閥の人材登用・日本の近代化に全力を尽くしている。ただ、阿部に決定的に劣った点は「駆け引き」であった。阿部没後の7月、堀田はタウンゼント・ハリスの江戸上府を認めることを表明したが、溜間詰の譜代大名がこぞって反対し、将軍継嗣問題でも堀田が知らないうちに井伊直弼を大老にされてしまうなど、この点が阿部とは致命的に劣る点だったのである。

[編集] 堀田正睦が登場する著書

「開国」〜愚直の宰相・堀田正睦〜(佐藤雅美。講談社文庫)。

評伝 堀田正睦(土居良三。国書刊行会)。

[編集] 堀田正睦を演じた人物

松下達夫:『花の生涯』・1963年・NHK大河ドラマ

有川博:

花の生涯 井伊大老と桜田門』・1988年テレビ東京12時間超ワイドドラマ

徳川慶喜』・1998年・NHK大河ドラマ

井上孝雄:『翔ぶが如く』・1990年・NHK大河ドラマ

鶴田忍:『大奥スペシャル〜幕末の女たち〜』・・2004年フジテレビ

辰巳琢郎:『篤姫』・2008年・NHK大河ドラマ

[編集] 関連項目

幕末の人物一覧

堀田氏

順天堂大学

先代:

堀田正愛 堀田宗家

1825年 - 1859年 次代:

堀田正倫

先代:

堀田正愛 佐倉藩主

第5代:1825年 - 1859年 次代:

堀田正倫

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カテゴリ: 堀田氏 | 江戸の大名 | 譜代大名 | 幕末徳川側人物 | 蘭学 | 1810年生 | 1864年没

[] 11:30

2008.08.06

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080806.html

広島「原爆の日

沖縄タイムス - 38分前

一九四五年八月六日午前八時十五分、一瞬の閃光が街を覆った。熱線と爆風と、大量の放射能原子爆弾による犠牲者は、その年だけで十四万人を数える。 米軍爆撃機から投下された一発の原子爆弾によって広島市は廃虚と化した。

三日後の八月九日午前十一時二分、長崎市も、原爆によって壊滅的な被害を受けた。

 六十三年後の今なお、多くの被爆者が後遺症に苦しんでいる。

 核廃絶の訴えを「きれいごと」だと冷笑してはならない。原爆がもたらした惨状を世界の人々に伝え、後世に語り継いできた人々の、血のにじむような努力を過小評価すべきではない。

 国際司法裁判所は九六年、「核兵器による威嚇と使用は一般的に国際法に違反する」との勧告的意見をまとめた。核廃絶が地球規模の課題として認識されるようになったのは、被爆者の痛切な訴えを正面から受け止めてきた世界のNGOや市民の力によるところが大きい。

 だが、その一方で、世界的に核抑止論が後を絶たず、核軍縮は進んでいない。核開発そのものが容易になり、核開発を外交カードとして利用する動きも目立ってきた。

 NPT(核拡散防止条約)体制は、核拡散という深刻な試練に立たされている。

 北朝鮮イランの核開発だけが問題なのではない。核保有国の核軍縮に向けた取り組みの弱さや、核超大国アメリカの「二重基準」、被爆国日本のあいまいな核政策も問われなければならない。

 NPT体制は、六七年一月一日以前に核兵器を取得した国を核兵器国とみなし、それ以外の非核兵器国が核武装することのないよう義務付けている。

 非核兵器国から見れば、明らかな差別条約なのである。

 加盟義務がない半面、脱退は可能である。事実上の核保有国とみなされているインドパキスタンイスラエルは加盟していない。

 大きな欠点を持った条約であるにもかかわらず、今のところNPT体制は核軍縮を進める上でもっとも大事な体制である。

 NPTの実効力を上げるためには、核兵器国が率先して核軍縮に取り組むことが何よりも重要だ。

 世界には米ロを中心に依然として二万六千発の核弾頭が存在するといわれる。核保有国がまず大幅な削減に着手しなければ、非核保有国に対し説得力は持ち得ないだろう。

 日本の核政策もあいまいだ。フランスインドパキスタンなどの核実験に対して日本側が抗議をした際、これらの国から持ち出されたのは、米国の「核の傘」の存在だった。自らは米国の「核の傘」の下で安全保障を確保していながら他国の核実験に抗議するのは虫が良すぎる、というわけだ。

 国際政治の冷厳な現実を打破していくためには、まず日本政府の核政策を転換していく必要がある。転換を可能にするための北東アジアの非核地帯構想を練り上げていくことが大切だ。

[]★司馬遼太郎『歳月』(講談社文庫)2008.06.22- 10:01

2008.06.22

      P701

         解説) 多田道太郎

         佐賀の二重鎖国

      P007

         文久2年夏

         河原町通

         長州藩

         高瀬川

         脱藩者をかくまう長州

         その首領が木戸孝允

         几帳面な男=桂小五郎

         応接は伊藤がよかろう

         佐賀の枝吉神陽

http://shutsumondou.sagafan.jp/e18952.html

枝吉神陽が会った人々1 古賀?庵

枝吉神陽が会った人々


枝吉神陽は幕末佐賀藩勤王運動の首魁です。神陽と出会った当時の名士たちは、現在かならずしも著名ではありません。しかし、顕彰されるに足りない人物たちかといえば、まったくそうではありません。

まずは、枝吉神陽が天保15年9月10日に昌平坂学問書書生寮に入寮したころ以降の交友の痕跡を小社刊『枝吉神陽先生遺稿』(龍造寺八幡宮楠神社編)を参考に追ってみます。

まず、第1番目は、古賀?庵です。

「丁未九日」という神陽の詩の注に、「甲辰重陽。陪?庵先生。牟田口先生。于桜田藩邸。……」とあります。甲辰つまり天保15年(1884)の重陽(9月9日)に古賀?庵にしたがって桜田藩邸を訪れているということです。神陽23歳、古賀?庵はこのとき57歳です。

 『佐賀県歴史人名事典』(洋学堂書店、1993復刻)によると、

名は、通称は小太郎、?菴と号す。古賀精里の第三子なり。天明八年を以て生る。寛政年間父精里選ばれて幕府に仕ふるや、之に従って江戸に赴く。刻苦勉励学大に揚る。文化六年擢んでられて儒官となり、父子駢番同じく学政を董す。世以て異数となす。弘化四年病を以て終る。享年六十。

とあります。古賀精里ですら現在知る人が少ないのは残念です。さらに知られていない?庵は、さまざまな面で父精里を遥かに凌ぐ江戸時代を代表する知識人で、幕末維新を考える上で、もっと注目される必要がある人物だと思います。ペリーが来航する半世紀も前に幕府の中枢で開国論をとなえたことも、この父子の注目すべき点です。詳しくは、この春小社より刊行予定の肥前佐賀文庫003をお待ちください。

         という巨人

         義祭同盟

         副島種臣(神陽の実弟)

         大木喬任

         大隈重信

         江藤新平・・・

         

         姉小路公知

         を訪ねるにあたり、服、風呂を所望

         伊藤、与える

         

         公知は 黒豆

         実美は 白豆 (三条)

         記録好き

         の江藤新平

         約1ヶ月の滞在

         佐賀へ帰る

         松菊先生

         =桂小五郎

      P031

         四. 西へ下る新平

         『京都見聞』

      P034

         門司上陸は8月中旬

         吉武仙十郎と会う

         同じ手明鑓に階級

         佐賀郡八戸村

         弘道館

         吉武は明治後城北高山の山林に隠遁した

      P038

         ≪ 野路の村雨 ≫

         大晦日、婦人達の奇習

         孟子、受け入れる部分

         刑名家

         からたち小路に追い詰められた新平

      P048

         晴気村を出る助右衛門(新平の父)

         三瀬関所

         妻、千代は江口央助の娘

         世間では千代の江藤入りは酔狂と言われたもんだ

         では勤王のためか

         古賀貞雄

         新平の弟源作

         と同行

         

         南里新八=組頭

         原田小四郎

         死罪はまぬかれる

         脱藩

         永蟄居ですむ

         

         あれほど栄華を誇った長州が追われる

2008.07.06

      P092

         ≪ 梨木町三条家 ≫

         楢崎頼三

         (長州人)

         三条実美

         京都に来ている土佐人

         島村

         清岡

         南部

2008.07.08

      P100

         ≪ 都の花 ≫

         一.

         新政権

         京都政権

         一文なしのスタート

         

         財政のできる男

         三岡八郎

         越前藩士

         (由良公正)

         江藤の能力を買う

         新しい部署の組織作り

         に偏執的な関心

         ○ 日々の実務

         ○ 成果を文章化する

         ○ スピードと正確さ

         

         井上馨

         佐賀藩

         国侍

         渡辺五郎右衛門

         家老

         鍋島孫六郎

      P109

         ≪ 鍋島かんそう 電流丸で江戸へ ≫

         かんそう、吉原へ

         どの殿かの企画

         4年のちに死ぬかんそう

         薩摩 島津忠義

         長州 毛利元徳

         広島 浅野長勲(ながこと)

[]★松浦玲『新選組』(中公新書)2008.07.16- 09:20

2008.07.18

         小野路の小島鹿之助

         橋本道助

      P061

         ≪ 枡喜手入れから池田屋事件へ ≫

         6/5 朝

         古高俊太郎

         古高俊太郎拷問の部屋

         宮部鼎三

         

         ≪ 見廻組と見廻役 ≫

         

         ≪ 明保野亭事件 ≫

      P078

         ≪ 禁門の戦争と下関事件 ≫

         西本願寺屯所の北集会所は姫路本徳寺に移築

         

      P136

         ≪ 御陵衛士の話 ≫

         伊東甲子太郎

         永井尚志

         斎藤一スパイ

         

         2. 新選組の全員が幕臣に

         慶応3年6月

[] 阪急電鉄パンフレット沿線案内から (7) 09:10

2008.07.18(金)

  早野勘平

  元禄14年(1701)

  浅野匠頭

  吉良上野介刃傷事件

  早籠で国許へ

  知らせる

  大嶋家への迷惑を考え元禄15年1月14日に自刃

≪ 天神橋筋六丁目 ≫

下町を歩いて大川端へ

淀川大堰

「大阪くらしの今昔館」

(住まいのミュージアム)

古原通

天満市場

大阪アメニティパーク(OAP)

ユースアートギャラリー

造幣博物館

大阪天満宮

川端誕生の地

≪ OAPコース ≫

○ 泉布観

  (コロニアル様式)

  紙幣

  

○ 大阪天満宮

  菅原道真

[] 阪急電鉄パンフレット沿線案内から (6) 08:55

2008.07.17

沼田池

柳谷観世音菩薩

旧西国街道

萱野小学校

萱野三平前

http://www2.city.minoh.osaka.jp/SYOUKOU/kayanosanpei.htm

「時は元禄15年12月14日」で有名な赤穂浪士の討入り。今でも、映画やドラマの『忠臣蔵』は多くの人々の心をつかみ、その人気は色あせずにいます。忠臣蔵では、早駕籠(はやかご)に揺られて赤穂へ向かう場面や、討ち入り前に自害する場面などでおなじみの「萱野三平(かやのさんぺい)」はその名のとおり、現在の箕面市萱野で誕生し、この地で生涯を終えました。

 

 箕面市萱野3丁目の旧西国街道沿いに「萱野三平旧邸長屋門」があります。明治時代に萱野家が転居したため、2棟あった家屋は取り壊されてしまいましたが、三平が切腹したと伝えられる長屋門と土塀の一部は、萱野家と地元の人々の努力により伝え残され、昭和48年に大阪府の史跡に指定されました。

善福寺

芝村の高札場跡

○ 為那都比古神社

http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/minoh/inatuhiko.htm

為那都比古神社の変遷

豊島郡内の延喜式内小社の為那都比古は興味深い変遷を遂げている。その跡を概観しよう。

延喜式に為那都比古神社二座(小社)とあるのは、為那都比古、為那都比売の2神である。もともとは2神は同じ社殿で祀られていた。

●これは、物部系の為奈物部氏の出自である猪名県主が、その祖神を祀ったものと考えられる。(猪名真人(韋那公)とする説もあるが、これは不適当)

●神社の元々の場所は、現在大宮寺跡と呼ばれている近辺と考えられる。ここには、北へ200mほどの山中に、巨大な人間の上半身像に似た医王岩(薬師岩)と呼ばれる巨石があり、大国主神・少彦名神の依代(影向石)とされていた。しかし、恐らくは、この岩は本来は為那都比古比売2神の顕ち給うた影向石と考えられ、この岩を祀ることが、この神社の起源であったと思われる。

平安時代の中頃、この神社に大宮寺と云う神宮寺が作られる。創建は、当時の豊島郡司時原佐道である。開基は醍醐寺の聖宝とされる。(理源大師聖宝は修験道を体系化した人物であることに留意しなければなるまい)なお、時原氏は6世紀以来この地方に勢力を張っていた秦氏の流れである。

●大宮寺は薬師如来を本尊としている。これは、少彦名神が生産神であると共に医薬神であるためである。

●ところが、いつの頃からか、比古神と比売神を別殿で祀るものとし、従来からの社殿に比売神を祀り、少し南東の場所に比古神のための社殿を新たに設けた。

●比古神を祀る社殿が現在の為那都比古神社である。この場所は、石丸の部落内であるが、以前は、この境内だけは白島の部落の飛地とされていた。白島は比古比売神を合祀していた従来からの社殿のあった部落である。このことは、比古神だけが分祀されて移転して来たことを端的に示している。

●ところが、疫病を防ぐ強力な神として牛頭天王に対する信仰が、燎原の火のように民衆の間に広まってゆき、北摂においても牛頭天王を祀る神社が数多く現れる。

しかし、新たに牛頭天王を祀る社を作ることは少なく、多くは従来からの社に牛頭天王を合祀した。そして、それがいつの間にか、軒を借りて母屋を取るの例えのように、従来からの祭神を押しのけて牛頭天王を主祭神とするようになる。

●こうして、為那都比古神社も、大宮神社とも呼ばれた為那都比売神社も、牛頭天王を祀り、比古社は牛頭天王社、比売社は西天王社、もしくは大婦天王社となった。(ちなみに、民衆にとって「てんのう」とは「天皇」のことではなく「牛頭天王」のことであった)

●人々は、このことに別に違和感は感じなかった。それというのも、上述のように為那都比古2座の神の本地仏は薬師如来であり、他方、、牛頭天王も本地仏が薬師如来であるから、為那都比古2座と牛頭天王は同一の神の別名と考えることができたからである。

●このような中にあって、豊島郡内の旧萱野郷の多くの部落が、比古神の為那都比古神社ではなく、この大婦天王社の方を部落の総鎮守とした。比売神の方が尊ばれていたのである。

●やがて明治初期、明治新政府神仏分離を政策とし、神とも仏ともつかぬ牛頭天王を祀ることを禁止し、祭神も社名も変更することを求めた。このため、比古社は再び為那都比古神社となり、比売社は大宮神社に戻った。そして、祭神に元に戻した。また神宮寺であった大宮寺も神仏分離によって廃寺となり、現在は薬師堂のみが残って薬師寺と称している。

●さらに、明治40年代の神社統合によって・原則として一村一社とされ、比売神の大宮神社は廃社となって、比古神の為那都比古神社に合祀された。数百年ぶりに夫婦が同居できたのである。

●大婦天王社が為那都比古神社に合祀された時、旧萱野村の他の神社(10社)もすべてこの為那都比古神社に合祀され、これにより、為那都比古神社は旧萱野村各村落の氏神となった。

  為那都比古大神

  為那都比売大神・・・を祭る

  延喜式神名帳

  二座同殿

  宇多天皇

  寛平年間(889-898)

  別殿へ

  明治末合祀

  織田信長

  高山右近

  牛頭天主

○ 千里北公園

  「銀の鳥」

  蓮間ヶ池

  

○ 萱野三平旧邸

  忠臣蔵

  父重利の主人である

  大嶋出羽守の推挙

  播州赤穂浅野家

  中小姓となる

[] 08:17

2008.08.06

家近良樹

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

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家近 良樹(いえちか よしき、 1950年3月 - )は、日本の歴史学者。大阪経済大学経済学部教授。専門は日本近代政治史。幕末史の研究で有名。大分県出身

1973年同志社大学文学部卒業、1982年同志社大学大学院博士課程満期退学。

目次 [非表示]

1 一会桑政権

2 著書

2.1 単著

2.2 編著

3 関連項目


[編集] 一会桑政権

幕末期の政治状況は従来の薩長と幕府との対立というだけでは説明できないとして、家近は「一会桑政権」と呼ばれる歴史概念を主張している。「一会桑」とはそれぞれ「一」=一橋慶喜、「会」=会津藩主・松平容保、「桑」=桑名藩主・松平定敬のことをさす。従来の薩長史観では見過ごされがちだが、この三者が幕末において果たした役割を再評価を主張している。


[編集] 著書

[編集] 単著

『幕末政治と倒幕運動』 (吉川弘文館1995年

『浦上キリシタン流配事件―キリスト教解禁への道』(吉川弘文館1998年

孝明天皇と「一会桑」―幕末・維新の新視点』(文藝春秋2002年

『幕末維新の個性 徳川慶喜』(吉川弘文館2004年

『その後の慶喜―大正まで生きた将軍』(講談社2005年

『幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白』(中央公論新社2007年

[編集] 編著

『稽徴録―京都守護職時代の会津藩史料』 (思文閣出版、1999年

『幕末維新論集3 幕政改革』(吉川弘文館2001年

『もうひとつの明治維新』(有志舎、2006年

[編集] 関連項目

大阪経済大学の人物一覧

同志社大学の人物一覧

この「家近良樹」は、人物に関する書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(ウィキプロジェクト 人物伝)。

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2008-08-04(Mon)

[]★都市問題実務研究会『事業用借地権の全て』(民法研究会)2008.07.16- 13:54

2008.07.16

         中嶋勝規

         八田政敏

         仲嶋保

         山内鉄夫

         吉田

         廣内禎介

         鷲見昭雄

         植松真美

         瑞木総合法律事務所

         H19.12

         優良な土地を借りる

         事業目的に応じた建物

         土地取得に比べて安い

         事業撤退が容易

         権利金が不要

         認定課税6%

      P015

         デベロッパーメリット

         事業用店舗権の期間

         20年

         50年へ見直し

         権利用の土地有効利用

         開発スキーム

         仲介

         代理 0

         転売

         転貸

         グループホーム

         要介護者で認知の人につき共同生活用住居

         

         読了




[]★松浦玲『新選組』(中公新書)2008.07.16- 13:36

2008.07.16

         (1)攘夷を迫る薩摩久光

         (2)諸国と条約締結しており困る幕府

         (3)久光は一橋、松平を幕府要職につけ人事介入を図る

         (4)帰りに生麦事件を起こしたのは副産物

         (5)不満な長州土佐が攘夷目的三条姉小路

            勅使として派遣

         (6)松平主税助の建白、四方に流浪する草莽の士が薩摩を刺激

            →浪士にやめさせる

            すでに隠居の町奉行鵜殿鳩翁を現役並みに戻す

            山岡鉄太郎も

         

         文久3年正月

         松平忠敏

         江戸へとってかえす予定

         の清河八郎

         高橋泥舟、山岡も

         

         2. 残留壬生浪士

         

         ≪ 「志大略相認書」 ≫

      P021

         1. 八王子千人同心

         井上松五郎の日記

         

         ≪ 各人の履歴 ≫

         近藤

         土方

         山南

         永倉

         斎藤

         沖田

         

         3. 将軍帰東後も残留

         ≪ 約束の5/15 ≫

[] 阪急電鉄パンフレット沿線案内から (5) 13:36

2008.07.15

○ 慈願寺

  聖徳太子の開創

  「石川年足墓誌」(国宝の発見)

  

≪ 茨木市 ≫

文豪のふるさと

川端康成文学

永代町南

東本願寺茨木別院

茨木阪急本通商店街

梅林

茨木小学校

茨木城跡

浄教寺

妙徳寺

川端康成文学

茨木緑地

川端通

茨木神社

茨木童子像

茨木童子観音橋碑

茨木童子姿見

茨木高校

椿本陣

郡山宿本陣

2008.07.16

○ 東本願寺茨木別院

  茨木市最大の伽藍

  

○ 茨木城跡

  中川清秀

  片桐且元

  本丸

  櫓門復元

○ 茨木神社

  黒井の清水

  秀吉茶の湯に使う

  6/30は茅の輪くぐり

  

○ 茨木童子

  高校交差点

  とこやで育てられる

  かみそりで客なめる

  鬼

  丹波の山奥に

  

≪ 北千里 ≫

隠れた歴史の街道を行く

千里北公園

青山台中

千里北公園

蓮間ヶ池

北千里高校

国立循環器病センター

青山台3丁目


[] 阪急電鉄パンフレット沿線案内から (4) 11:37

2008.07.14

高山右近の像

島上高校

歴史民族資料館

171号線

桃園小学校

高槻市総合センター

市役所前けやき大通

松坂屋

3号館

グリーンプラザ高槻

JR高槻

西武百貨店

昼神車塚古墳

廣智寺

上宮天満宮

霊松寺

法輪庵

芥川小学校

芥川商店街

高槻センター街

阪急京都線

5.4km

○ 本行寺

  慶長元年(1596)

  日重上人の創建

http://hongyouji.net/a01/

本行寺の由来

本行寺全景当山は、高槻市大手町にあり、日蓮宗・常智山本行寺と号し、題目宝塔、釈迦多宝二仏を本尊としています。

その昔、高槻大蔵司村付近の丘陵に岡本寺という寺があり、文武天皇の時代(白鳳時代)の豪族の氏寺と推定されます。その寺跡に日蓮宗本照寺が建立され、戦国大名三好元長、細川晴元の外護を受けて隆盛をきわめますが、法華一揆に続く、天文法華の乱に、あえなく焦土と化しました。三好長慶により毘沙門堂として再興されますが、高山右近公の時代に、その堂宇ことごとく焼き討ちされ、住職は上の山の祖師像(本行寺に現存)をもって備前岡山)に逃れたとされています。後に復帰がかなうのですが、他宗との折り合いがつかず、現地復帰及び元の寺号の呼称が許されませんでした。

しかしその後、慶長元年(1596年)、一如院日重上人(後に身延山二十世法主)が、弾圧下の法華の住民と協力一致尽力して、高槻城下に日蓮宗再生させ、常智山本行寺と号しました。当時はまだ本堂を造営することもできず、ささやかな寺院にすぎませんでした。


高槻城主 永井家第十代

直興の子 直寛の書その後、第五世日東上人のとき、永井直清公が高槻城主となりました。そのころ、直清公には内願があって、古曽部の弁天に祈願されていたのですが、意のままになりませんでした。そうしたなか、本行寺の日東上人の名声を聞かれ、ぜひ祈祷を受けたいと申し出られ、さっそくに祈念されたところ、たちまちにご利益があり内願が成就されましたので、大変お喜びになり、以後深く信仰されました。

  幕末漢詩藤井竹山の墓

○ 高槻カトリック教会

  高山右近ゆかり

  マニラに追放されそこで死亡

  マニラ郊外、アンテイポロの聖母

  


[]★新井白石『折たく柴の記』(中公クラシックス)2008.07.13- 11:37

2008.07.13

         ≪ 父が土屋家に仕える ≫

         盗人の疑い3人捕らえる

         刀、脇差を取り上げず

         

         ≪ 父の行状 ≫

         監察の仕事

         (目付け)

         土屋の殿

         毎年8月、上総国望陀郡の領地

望陀郡

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望陀郡(まくだのこおり・もうだぐん)は上総国の小櫃川流域を中心とする地域に存在していた郡である。古代日本では馬来田国と呼ばれ、馬来田国造が治める支配領域であった。


[編集] 郡域

木更津町・真舟村・清川村巌根村・金田村・中郷村・鎌足村・馬来田村 (木更津市

富岡村 (木更津市及び袖ヶ浦市)

楢葉村・神納村・長浦村・根形村・平岡村・中川村 (袖ケ浦市

久留里町・松丘村・小櫃村 (君津市

亀山村 (君津市及び鴨川市

[編集] 沿革

1889年明治22年)4月1日の町村制施行の時点で2町17村を数えた。

1897年明治30年)4月1日 周淮郡・天羽郡と合併して君津郡となる。

[編集] 関連項目

望陀布

馬来田

消滅した郡の一覧

この「望陀郡」は、日本地理に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:日本地理/P:日本都道府県)。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E9%99%80%E9%83%A1" より作成

カテゴリ: 千葉県の郡 (消滅) | 日本地理関連のスタブ項目

         久留里

久留里

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久留里藩(くるりはん)は、上総国望陀郡久留里(現在の千葉県君津市久留里)に存在した藩。

         12月半ばに江戸へ帰る

         正保2年(1645)秋

         土屋の殿

         駿府城の加番

         正保4年、正保6年

         土屋の殿

         日光山の火の番

         100日ずつの滞在

         6年、大坂加番衆(大坂城守備)

      P018

         ≪ 父の日常 ≫

         朝比奈老人

         行動の一貫性

      P024

         ≪ 高滝某のこと ≫

      P026

         ≪ 越前某のこと ≫

      P033

         ≪ 父が土屋家を去る ≫

         土屋の殿の死

         (延宝3年4月)

         父母とも頭を丸める

         浅草の報恩寺の中に庵を建てる

         住む

         

         ≪ 母の死 ≫

         土屋の殿の跡継ぎのこと

         追放される

         (延宝5年2月22日)

         

         ≪ 堀田正俊への出仕 ≫

         古賀の河の少将

         堀田正俊殿の家

         

         ≪ 父の死 ≫

         男はただ、忍耐ということだけを習練すべきである。

         自分が一番耐え難いと思うことから忍耐を始める。

         そんなに困難だとは思わないようになるはずだ。

         

         ≪ 金と色を慎むこと ≫

         木下順庵もいった

         

         ≪ 幼児のこと ≫

         明暦3年(1657)の1月の大火

         火の子

         2月10日午前8時

         7歳、1月1日より天然痘

         ウンカフル(ウニコール)

         一角獣

         

         ≪ 6歳で詩を暗誦 ≫

         

         ≪ 学者には利根、気根、黄金の三こんが不可欠 ≫

         『庭訓往来』

      P059

         ≪ 甲府出仕 ≫

         

         ≪ 元禄16年の大地震 ≫

         

         ≪ 宅地と黄金を下される ≫

         

         ≪ 富士山噴火 ≫

         柳沢吉保

         

         ≪ 綱吉薨去 ≫

         胸の潰れる思い

         

         ≪≪ 中 ≫≫

         林大学守信篤

[]★司馬遼太郎明治という国家(上)』(NHKブックス)2008.07.13- 10:06

2008.07.13

         遣米使節団

         1860

         新見豊前守正興

         小栗忠順(ただまさ)

         儒教

         八股(はっこ)文

         型の通り書く

         申維翰『海遊録』

         ≪ 勝海舟 ≫

         木村摂津

         福沢諭吉

         

         ≪ 小栗上野介 ≫

         横須賀巨大ドック施工監督

         栗本瀬兵衛

http://www.ic-y.jp/furusato/furusato_p06.html

石井 昭 著   『ふるさと横須賀



栗本 鋤雲  『製鉄所建設に功績』

原文

画期的な製鉄所建設を成し遂げた小栗上野介の陰の人は、栗本瀬兵衛(鋤雲=じょうん)である。小栗との出会いは、小栗物見所の安積良斎の塾であった。時に栗本十七歳、小栗十三歳。 彼は、幕府医者多村家の出身で、嘉永元年(1848)に同じ医者、栗本家の養子になった。 彼の生涯で、一大転機となったのは三十七歳の時。オランダ幕府に献上した『観光号』に試乗した時のことである。のちに、幕府の命で移住藩士頭取として北海道へ渡つて、活躍した。 そのころ、フランス語通訳で、函館に滞在中の力ションに日本語を教え、逆に彼はフランス語を習った。この時のニ人の友情が、のちのロッシ公使小栗上野介の意気投合につながるのである。 時勢が激しくなるにつれ、彼は江戸に呼び戻され、昌平學の頭取を経て、元治元年(1864)には目付となり、外国係に命じられた。そして、幕府軍艦翔鶴(しょうかく)」の修理をフランスに依頼したのがきっかけで、小栗との仲が深まった、といわれる。 やがて、製鉄所建設が具体化されると、小栗幕府上司への説得や予算を受け持ち、栗本はもつぼら語学力を生かして、フランス側との交渉を担当した。彼は、のちにパリ派遣され、日仏親善に尽くしたが、帰国後は、筆に余生を託して、報知新聞に健筆を振るった。明治三十年(1897)、七十六歳で没した。墓は東京文京区の善心寺にある。

         =司馬、歴史の中で友情を感じるいい男

         フランス

         のち、新聞記者

         明治後、栗本鋤雲

         小栗の作戦

          箱根を越え薩長関東平野へ入る

          静岡駿河湾から艦隊砲撃する

          ある程度は通過させる

          大村益次郎、この措置がとられたらえらいことになったろう

          実際は慶喜が採用しなかった

       P098

          紀州

          御三家 尾張水戸

          滝廉太郎 24歳10ヶ月

          別府湾北岸日出

          木下氏25千石

          

          読了

  

[]★赤坂憲雄他『網野善彦を継ぐ』(講談社)2008.07.13- 09:48

2008.07.13

      P104

         レヴィナス貨幣論

      P126

         読了

2008-08-03(Sun)

[] 阪急電鉄パンフレット沿線案内から 13:20

2008.07.13(日)

○ 桜井

  1336 延元元年

  兵庫湊川へ出陣する正成

  長子正行、河内へ帰れ

○ 上牧の地名

  奈良時代

  淀川の州に皇室牧場

  「延喜式」の摂津三牧のひとつ

  上の御牧

○ 本澄寺

  文明3年(1471)

  日順僧都の開創

  日蓮宗本願寺末の寺院

  日蓮作の祖師像

○ 三好達治記念館

  大阪出身詩人

  S51 13回忌記念

  

≪ 高槻市 ≫

静かな佇まいを求めて

城跡公園

北大

理安寺

光松寺

本行寺

高槻カトリック教会

高山右近記念聖堂)

藤井竹外旧邸跡

野見神社

城跡公園




[]★一坂太郎『幕末歴史散歩東京編』(中公新書)2008.07.10- 13:02

2008.07.12

      P136

         相良総三(変名

         小島兵馬の三男

         江戸赤坂三分下

         小島家=下総出身の郷士

         文久3年11月 赤城山挙兵失敗

         M01.01.05 鳥羽伏見の戦い

         赤報隊

         

         ≪ 慶喜江戸へ帰る ≫

         慶応3年10月14日

         大政奉還

         

         ≪ 会津藩の悲劇 ≫

         聖心女学院

         戦争責任を取った

         菅野権兵衛之墓

         興禅寺

         港区白金6-14-6

         山川健次郎監修『会津戊辰戦史』

      P144

         ≪ 新選組品川上陸 ≫

         品川寺(ほんせんじ)

         門前の建場茶屋

         釜屋に入る

         勝海舟墓 洗足池

         →日蓮が足を洗った

         たみ夫人

         長男 小鹿が眠る

         青山墓地に埋葬希望

         昭和28年に洗足に遷す

         遺族

         もういいのでは、と

         9/24 は西郷の命日

      P179

         ≪ 上野の宮様脱出 ≫

         輪王寺宮公現法親王

         (のち北白川宮親王

         上野戦争

         

         ≪ 襲われた江戸 ≫

         明治2年11月8日 中弁を任ぜられる

         明治2年12月12日 鍋島直大坊

         酒

         右肩右脇に重傷、江藤新平

         6人の刺客

         一命を取り止める

         明治天皇、150両の見舞金

         明治5年 初代司法

         明治6年 参議

         明治6年10月 征韓論

         明治7年2月 佐賀の乱

         明治7年4月13日 斬首

         福島安正

         単騎、シベリア横断

      P210

         ≪ 雲井竜雄事件 ≫

         河上彦斎

         豊後鶴崎(肥後藩の飛び地

         の常備軍隊長

      P225

         ≪ 山城屋和助事件 ≫

         前原一誠

         長州会津が手を組む

         不平士族の反乱

         

         ≪ 竹橋事件 ≫

      P320

         読了

[] 阪急電鉄パンフレット沿線案内から (2) 10:16

2008.07.12

山崎の聖天さん」

≪ 水無瀬上牧 ≫

平安の風雅を偲ぶ

水無瀬神宮

阪急水無瀬

愛宕大神

郷土玩具資料館

天長寺

水無瀬神宮

第一小学校

阿弥陀

西国街道

桜井駅跡

武内神社

春日神社

第四小学校

上牧

阪急上牧

金光第一高校

大阪金光中学校

本澄寺

三好達治記念館

本立院

上牧西

妙浄寺

神南備の森跡

○ 水無瀬神宮

  (後鳥羽上皇の離宮)

  水無瀬信成親子

  (上皇の死後臣下が弔う)

  増鏡

  後水尾上皇ゆかり

  茶室燈心亭

  石川五右衛門手形

  環境庁

  名水百選

  

[]★一坂太郎『幕末歴史散歩東京編』(中公新書)2008.07.10- 10:02

2008.07.11

      P002

         護国寺

         徳川綱吉母の発願

         清岡公張(たかとも)

         板橋区高島平

         秋帆

         徳丸ヶ原

         天保12.05

         洋式砲術調練

         を披露

         下曽根金三郎

         松月院

         「火技中興洋式開祖

         の碑

         (板橋区赤塚

         高島流鉄砲隊

         (西洋式火術鉄砲保存会)

         S14 30人 週一回

      P004

         < ペリー提督の像 >

         < 水車小屋爆発 >

      P032

         < 講武所開かれる >

         下曽根金三郎

http://members.jcom.home.ne.jp/chiharu-makoto/kakawari-s.htm

下曽根 金三郎(1806〜1874)

 信之。甲斐守。幕府重臣・筒井政憲の二男。天保十二年六月、高島秋帆の洋式銃隊訓練に鉄砲方として立ち会い、高島流砲術指南免許を得る。

 田付流、荻野流、集最流・・・と砲術のあらゆる流派を学んだ三郎助が最後に門を叩いたのが、この下曽根金三郎の高島流であった。砲術においては免許皆伝目録と得ている三郎助だが、入門翌年のビッドル来航を皮切りにペリー、そして長崎海軍伝習生に選ばれ、と多忙を極めたせいか、高島流だけは何も形として取得していないのは興味深い。

 ちなみに、下曽根金三郎の息子・二郎助は、三郎助同期の長崎海軍伝習一期生である。

         江川太郎左衛門

         勝麟太郎

         

         < 剣術ブーム >

         19才 坂本龍馬

         斎藤弥九郎

         品川台場工事監督

         毛利定弘に尊攘の大儀進言

         桃井春蔵

         千代田区大手町一丁目

         に一橋家の広大な屋敷があった

         徳川吉宗四男宗尹(むねただ)が祖

         慶喜 VS 慶福(よしとみ)

         長野主膳の活躍

      P041

         井伊直弼、間部詮勝起用

         

         < お玉が池種痘所 >

         天保5(1834)

         勤王詩人 梁川星巌

梁川星巌

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

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梁川星巌 肖像画梁川 星巌(やながわ せいがん、1789年7月10日(寛政元年6月18日) - 1858年10月8日安政5年9月2日))は、江戸時代後期の漢詩人である。名は「卯」、字は「伯兎」。後に、名を「孟緯」、字を「公図」と改めた。通称は新十郎。星巌は号。





[編集] 人物

美濃国安八郡曽根村(現在岐阜県大垣市曽根町)の郷士の子に生まれる。1808年(文化5年)に山本北山の弟子となり、1820年(文政3年)に女流漢詩人・紅蘭と結婚。紅蘭とともに全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。

梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(大量逮捕開始の3日前といわれる)にコレラにより死亡。星巖の死に様は、詩人であることに因んで、「死に(詩に)上手」と評された。妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌1859年(安政6年)に釈放された。

出身地・岐阜県大垣市曽根には梁川星巌記念館があり、近くの曽根公園に妻・紅蘭との銅像がある。かつて学問の街といわれた大垣であるが、現在大垣の代表的文人とされている。

なお、同市立星和中学校の校名は、彼の名前に由来するものである。


[編集] 星巌と妻紅蘭

星巌とその妻紅蘭はまたいとこにあたる。

江戸から故郷に帰った星巌は、村の子供たちを集めて、「梨花村草舎」と称する塾の様なものを開いた。そこに通っていた中に紅蘭もいた(当時14歳)。 紅蘭は星巌の才学、人となりを慕って、進んで妻になることを父に請うたと言われている。 星巌32歳、紅蘭17歳の年に結婚をする。

ところが結婚後すぐに星巌は、「留守中に裁縫をすること、三体詩を暗誦すること」を命じて旅に出てしまう。

それから三年後、帰ってきた星巌を迎えた紅蘭は、命ぜられた三体詩の暗誦をやってのけたばかりでなく、一首の詩を詠んでいる。

階前栽芍薬。堂後蒔當歸。

一花還一草。情緒兩依依。

きざはしの前には芍薬を植え、座敷のうしろには當歸をまきました。

花には私の姿をうつし、草には私の心を込めて。ああ、私の想いは、この花とこの草に離れたことはありませぬ。)

星巌の放浪癖はその後も変わらなかったものの、これ以降は当時としては珍しく、妻を同伴して旅をする様になったという。


[編集] 外部リンク

梁川星巌・梁川紅蘭



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カテゴリ: 人物関連のスタブ項目 | 幕末維新側人物 | 日本漢詩人 | 1789年生 | 1858年没

         玉池吟社開く

         「死(詩)に上手」

         安政大獄前にコレラで死亡

         

         ≪ 幕末シルクロード ≫

         安政5年(1858)06.19

         日米修好通商条約調印

         安政の5ヶ国条約

         オランダロシアイギリスフランス

         生糸物価高騰

         貿易統制

         生糸は裏街道で運ばれる

         

         ≪ 昌平黌の高杉晋作 ≫

         湯島聖堂

         儒学

         その師 安積艮斎

         朱子学

         

         ≪ 安政の大獄 ≫

         小塚原 徳川時代220年で20万体

         1822.08(文政5)

         相馬大作

         津軽藩主暗殺企む

         橋本左内

         

         ≪ 吉田松陰の志 ≫

         十思公園

         

         ≪ 岩瀬忠震の憤死 ≫

         白髭神社の墓碑

         墨田区東向島3-5-2

         親友 永井尚志

      P059

         ≪ 最初のアメリカ公使館 ≫

         ハリス

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