|
|
||
2008.07.31
一月 外国人
横浜で人を殺すという事件あり
東京根岸鶯横町
子規庵がある
母 八重
妹 律
1/1 子規34歳
四枚引きのガラス戸
1900=M33
子規=ほととぎす
鳴き声が血を吐く声に似ている
石川啄木=15歳
伊藤左千夫(37)
伊藤左千夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
伊藤左千夫文学
各国の文学
記事総覧
作家
詩人・小説家
その他作家
伊藤左千夫(いとう さちお、元治元年8月18日(1864年9月18日) - 大正2年(1913年)7月30日)は日本の歌人、小説家。本名 幸次郎。上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家出身。明治法律学校(現・明治大学)中退。
明治31年(1898年)に新聞「日本」に『非新自讃歌論』を発表。『歌よみに与ふる書』に感化され、正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、斎藤茂吉、土屋文明などを育成した。
また、明治38年(1905年)には、子規の写生文の影響を受けた小説『野菊の墓』を『ホトトギス』に発表。夏目漱石に評価される。代表作に『隣の嫁』『春の潮』など。
大正2年(1913年)に脳溢血のため死去。
山武市歴史民俗資料館の横には左千夫の生家がある。資料館には左千夫に関する資料が多く展示されている。また、町内には伊藤左千夫記念公園があり、『野菊の墓』の主人公である、政夫と民子の像がある。また、錦糸町駅南口,東京都立城東高等学校内には左千夫の歌碑が建立されている。
[編集] 茶の湯
左千夫は茶道にも通じており、子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けた。
一戸建ての茶室を欲しており、友人である蕨真の助けを借りて、自邸内に茶室「唯真閣」を建立した。現在では生家に移築されている。
[編集] 外部リンク
伊藤左千夫について
この「伊藤左千夫」は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作家・随筆家)に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆、訂正等して下さる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%B7%A6%E5%8D%83%E5%A4%AB" より作成
カテゴリ: 文人関連のスタブ | 歌人 | 日本の小説家 | 明治時代の人物 | 上総国の人物 | 山武市 | 1864年生 | 1913年没
=伊藤卓次郎
本所萱場町で牛を飼う、牛乳を売る
「歌よみに与ふる書」
1/5
幸徳秋水(30)
(伝次郎)
「万朝報」
正月1週間
差別もなく自由で平等になれる
から正月はうれしい
坂本慶次郎(35)
鍛冶橋監獄の中で年越
稲妻強盗
1850生まれ、NY州バッファロー
水夫
2mの巨人
条約改正M32.07.17に
殺人、3人殺し
検事、平沼騏一郎
(34)
岡山、津山生まれ
ノルマントン号事件
1/16
浅井忠
(45)
画家の送別会
黙語先生
パリ万博
居留地
=内地雑居
1/29
≪ 2月、女 ≫
吉原の太鼓聞こえて更ける夜に
ひとり俳句分類する我は
2/6
虚子
(33)
(健次郎)
http://www.asahi.com/international/update/0814/TKY200808140320.html
2008.08.14
米民主党の州委員長、撃たれ死亡 逃走の男、警官が射殺2008年8月14日18時1分
印刷
【ニューヨーク=真鍋弘樹】米南部アーカンソー州の州都リトルロックで13日正午ごろ、民主党州委員会本部に男が侵入し、ビル・ガトニー委員長(48)に向けて銃を発砲した。委員長は数時間後に死亡、男は車で逃走したが、追跡した警察に射殺された。
男は50代の白人で、犯行の動機や思想的背景は不明。地元からの報道によると、男は党本部に歩いて入り、「ボランティアに興味がある」と話した後、職員を押しのけて委員長室へ入り、発砲したという。男は車で約40キロ逃走し、警官隊と銃撃戦を演じた。
同州は、民主党でオバマ氏と大統領選指名候補の座を争ったヒラリー・クリントン上院議員の夫、クリントン前大統領が以前、知事を務めた。
2008.08.14
http://members.ytv.home.ne.jp/shimoyamania/194907050003.html
矢板玄
謀殺情報 VS 自殺情報
高度経済成長の中においても、不思議とこの事件は忘れ去られることがなかった。
それまでの謀殺情報の集大成となったのが、矢田喜美雄の「謀殺・下山事件(昭和48)」だ。ここで矢田は総裁の死体を轢断現場まで運搬したという「S」という男の証言を聞き出すことに成功する。矢田は事件発生以来、新聞記者の枠を越えて東大法医学教室に出入りし、現場手前の線路上から謎の血痕まで発見している。そうしたキャリアを持つ作者による本作は時のベストセラーとなった。後に熊井啓監督で「日本の熱い日々・謀殺・下山事件」として映画化されている。
続いて自殺説の集大成ともいえる佐藤一の「下山事件全研究(昭和51)」が出版された。佐藤は松川事件の元被告という特異な立場の持ち主で、下山事件研究会に加わるうちに他殺説に疑問を感じるようになっていった。他殺説派の多かった研究会と袂を分かち、共産党からも除名された佐藤だが、10年にわたる研究の結果、慎重かつ冷静な筆致で数々の他殺説の根拠を看破してみせた。
昭和50年代以降、古畑鑑定の信頼性も揺らいできた。教授が昭和20年代に行なった「弘前大教授夫人殺害事件」「財田川事件」「松山事件」などの鑑定結果が再審などによって否定される結果となったからだ。そんな中、北大法医学教室の錫谷徹は「死の法医学(昭和58)」で、自他殺かまで判定してしまうことには、根拠に欠ける論理の飛躍がみられると論じた。そのいっぽうで、遺体の損傷状態から「立ったまま機関車に衝突した」という推定をしている。
その後も断続的に事件を扱った書物が出版されるが、朝日新聞記者の諸永裕司「葬られた夏(平成14)」、映像作家森達也「下山事件(シモヤマ・ケース)(平成16年)」、そしてフリーライターの柴田哲孝による「下山事件 最後の証言(平成17年)」が、現時点では最も新しいだろう。この”下山本平成三部作”に共通するのは、実際に殺害を行なった組織として
矢板玄
という人物がオルガナイザーをつとめた矢板機関の名を挙げている点だ。
そもそも3作目を書いた柴田哲孝は矢板機関に関係していた人物の孫であり、それが叔母から聞いた「あなたの祖父は下山事件に関係している」という発言を発端として、この3部作は始まっている。したがって3部作は共同制作な部分もあり、重複している内容も多いが、いっぽうで独自の調査や考察の結果も個別に提示されており、その調査内容には興味深いものがある。
事件が55年が経過し、大半の関係者も物故した。事件の真相が解明される可能性はますます低くなってきている。極端なたとえになってしまうが、謀殺者の側から物的証拠が出てくるとか、遺族が自殺であったことを証言するという事態にでもならない限り、誰もが納得する結果というのは出てこないのではないかと思う。
そういう意味においては下山事件は永久に結末をむかえないのかもしれない。
2008.07.31
P258
≪ 明恵の人生観 ≫
凝然・・・学業をひたすら
明恵・・・釈迦の仏教の生命に迫る
喜海(弟子)
「栂尾明恵上人伝記」
紀州の庵→高山寺
光明真言の宝うる
P261
≪ 求道の志を支えた大欲心 ≫
≪ 自立の精神と自由の精神の調和 ≫
P278
読了
2008.07.30
遍照寺
桂川
亀山公園
小倉池
常寂光院
落柿舎
二尊院総門
滝口寺
祇王院
想い出博物館
八体地蔵
化野念仏寺
嵯峨鳥居本伝統物
建造物群保存地区
慈願堂
宝きょう院
○ 天龍寺
京都五山一位
夢窓疎石進言
足利尊氏創建
最初の天然特例史跡
釈か如来像
雲竜図
法堂天井に描く
蘭
○ 大覚寺
清涼殿
大沢池
亀山法皇
・・・入寺
南朝方
2008.07.31
旧嵯峨御所大覚寺門跡
=正式名称
大沢池の景観
238面 狩野派など
障壁画
しん殿牡丹図
しん殿紅梅図
○ 広沢池
月見の名所
遍照寺
音戸山頂上
「さざれ石」
≪ 小倉池・化野コース ≫
桂川沿いを西へ
○ 大河内山荘
30年をかけた
2万平米
回遊式庭園
○ 嵯峨野
小倉山麓
常寂光院
落柿舎ー向井去来
晩年をすごした
二尊院
老荘の「無」の思想
仏図澄(?−348)
仏図澄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
仏図澄(ぶっとちょう、skt:buddhacinga ? - 348年)は中国の神異僧の第一に挙げられる、五胡十六国時代の西域からの渡来僧。姓は帛、亀茲国の出身であるという。烏萇で出家したのち、?賓で仏学の研鑚に励んだ。
[編集] 概要
一般的に西域からの渡来僧は、竺法護や鳩摩羅什に代表されるように、サンスクリット等で書かれた将来仏典を漢字に翻訳する、訳経を行う訳経僧であることが多いが、中には、訳経を全く行わなかった渡来僧もいた。その代表的な人物が仏図澄である。
310年(光興元年)洛陽にやって来て、寺院を建立しようとしたが混乱により果たせなかった。
仏図澄がやって来た当時の中国は、永嘉の乱等の動乱によって西晋が滅亡し、南には東晋が成立し、北では塞外より侵入した五胡と総称される異民族が各地に国を建て分裂していた時代、いわゆる五胡十六国時代であった。
仏図澄は、後趙の石勒・石虎に軍師として重用され、戦地において数々の予言を行った。それによって石勒や、凶暴な性格であった石虎の信頼を獲得し、高邁な教理ではなく、日常的な点などにおいて彼らを教え導いたと、『高僧伝』や『晋書』の本伝では伝えている。また、その教えの要諦は、人目を引く神異の力ではなく、持律堅固な生活態度にあった。自らの持戒は言うに及ばず、石勒や、石虎のような残虐さで知られる五胡の君主に対しても、五戒の堅持を求めたことが記される。石勒より「大和尚」の称号を与えられた。また、彼の力によって仏寺は893寺が建立され、門信徒の数は1万に上ったという。?の宮寺で亡くなった。
また、仏図澄が中国の仏教史において重要なのは、第一に、石虎に対して漢人一般住民の出家を公許するよう導いたことである。第二には、仏図澄の数多くの弟子の中から、中国仏教の基礎を築くことになる釈道安が出ていることである。竺法護のような訳経僧のもとではなく、仏図澄のような神異僧の門下から、正統的な中国仏教の提唱者が現れたところに、禅宗や浄土教に代表される、後の実践的な中国仏教の原形を見ることができる。
また、彼の門下からは、泰山の竺僧朗、四川に仏教を広めた竺法和、東晋で活躍した竺法汰に代表される、多くの高僧が輩出している。
[編集] 伝記資料
『高僧伝』巻9「晋?中竺仏図澄伝」
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%9B%B3%E6%BE%84" より作成
130歳まで生きた?
≪ 曇遷(542-607) ≫
「亡是非論」
是非を超えた世界
「斉物論」にヒント
=『荘子』
慧命
杜順(とじゅん)
=華厳宗開祖
2. 華厳宗の開祖=杜順
(ワゲン菩薩の修行を目指す)
杜順(557-640)
行基のよう
海洋文化圏「華厳経」
P135
4. 華厳宗の大成者
=法蔵
第3祖 法蔵のエッセンス
空の背後には有がある
5. 華厳と禅との融合
澄観
≪ 澄観の墓塔を発見する ≫
第4祖 澄観
(738-835)97歳!
興教寺付近
西安の南
長安県
終南山へ
香積寺
興教寺・・・玄奘三蔵の墓塔
6. 「円覚経」の大研究者
宗密
≪ 円覚哲学の樹立 ≫
≪10世紀以降の中国仏教を大きく変えた「円覚経」 ≫
身心不二
第3章 華厳思想の核心
P171
「維摩の一黙」
鈴木大拙先生
文殊菩薩ですら言葉で説明した
黙と維摩は同一事実
P177
≪ 一念不正ー「物」と成って生きる ≫
頓教
肉体〜衰える
精神〜鍛えれば鍛えるほど無限の力を持っている
僧肇
(そうじょう)
374-414
「物我一如」
(もつがいちにょ)
「仏国土の現成」
正受慧端は白隠という偉大な禅者を輩出した
声聞の徒
孤絶の道
頓教ではさびしい
4. 大乗円教一
華厳思想の至境
事事無碍を明らかにする円教
2008.07.29
P016
審祥
十地本
1. 歓善地
2. 離垢地
3. 発光地
4. 焔慧地
5.
3. 善財童子の求道
≪ 「入法界品」にみる五十五所 ≫
53人の善知識
「華厳55所絵巻」
(東大寺展)
1980
修学の道程
十持
十行
十回向
十地
にあたる
本当の仏はどこにおられるのか
≪ 善財と善友は不二 ≫
≪ 仏性現起ー「性起品」 ≫
慧能
慧能
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
慧能
638年 - 713年
諡号 大鑑禅師
尊称 禅宗(南宗)第六祖
生地 范陽
宗派 禅宗
師 弘忍
著作 曹渓宝林寺
仏教
基本教義
縁起 四諦 八正道
三法印 四法印
諸行無常 諸法無我
涅槃寂静 一切皆苦
人物
釈迦 十大弟子 龍樹
如来・菩薩
仏の一覧
部派・宗派
原始仏教 上座部 大乗
地域別仏教
インドの仏教 中国の仏教
韓国の仏教 日本の仏教
経典
聖地
八大聖地
慧能(えのう、諡は大鑑禅師、638年(貞観12年)-713年(先天2年))は、范陽(北京市)の盧氏出身の禅僧で、中国禅宗(南宗)の第六祖である。
目次 [非表示]
1 生い立ち
2 伝説
2.1 壁に書かれた詩について
2.2 死去後の話
3 思想
4 語録
5 弟子
6 伝記
[編集] 生い立ち
本貫は范陽だが、父親が嶺南の新州(広東省新興県)に流されたので、その地で育つ。父が早くに亡くなり、薪を売って母親を養っていた。ある日、町で『金剛般若波羅蜜経』の読誦を聞いて出家を思い立ち、東山の五祖弘忍の下に参じたが、文字が読めないため、行者(あんじゃ)として寺の米つきに従事した。
その後、弘忍の法を受け継いで広州に帰り、兄弟子の印宗より具足戒を受けて正式な僧侶となり、曹渓宝林寺に移って布教を続け、兄弟子の神秀より朝廷に推挙されるも病と称して断り、以後713年に亡くなるまで布教を続けた。
[編集] 伝説
[編集] 壁に書かれた詩について
慧能が弘忍の跡継ぎとして認められた時、次のような伝説がある。弘忍は悟りの心境をうまく詩に表せた者を後継者と認めようといい、当初、弘忍門下筆頭だった神秀が壁に偈を書いたが、弘忍は認めず、それを聞いた慧能が神秀の詩を否定するような詩を書き、それを弘忍が認めたので六祖となったという。
神秀の詩
身是菩提樹 心如明鏡臺 (身はこれ菩提樹 心は明鏡台の如し)
時時勤佛拭 莫使有塵埃 (時時に勤めて佛拭し 塵埃を有らしめること莫れ)
慧能の詩
菩提本無樹 明鏡亦無臺 (菩提に本から樹など無い 明鏡にもまた台など無い)
佛性常清淨 何處有塵埃 (仏性は常に清浄だ 何処に塵埃が有るのか)
心是菩提樹 身為明鏡臺 (心が菩提樹であり 身を明鏡台というのだ)
明鏡本清淨 何處染塵埃 (明鏡は本から清浄だ 何処が塵埃に染まるというのか)
慧能が弘忍の命令で達磨から受け継がれた袈裟を持って大臾嶺まで逃げたところ、500人の僧が追ってきたが、法論して負けて逆に弟子になった者もいるという。
客観的にみて、当時の状況から察するに、禅宗の六祖は神秀がなるのが妥当であり、慧能が六祖となったのはひとえに弟子の荷沢神会の運動と、後の五家七宗の発展により、直系の先祖たる慧能を正当後継者たらしめる必要があった事による所が大きく、達磨の袈裟の伝説も禅の正統を主張したい神会らによって創られたものとされている。
[編集] 死去後の話
死去後、彼の遺体は即身仏(ミイラ)として塔に安置されたが、ある時叫び声がするので、寺の僧たちが見にいった所、慧能の首を持ち去った男がいたので、捕まえた所、新羅僧に頼まれたと言い、地元政府は極刑にしようとしたが、寺が信仰心からの犯行との事で許したため、無罪にしたという。大韓民国には、この時に盗まれた慧能の首と言われるものが現存するという。 現在、慧能のものとされるミイラは広東省韶関市郊外の南華寺に祀られている。科学的な調査によって唐代中期に作成されたものと推定され、中国に現存するミイラとしては最古のものと言われる。衣服を含めて漆で塗り固められているため、外見からミイラの状態を確かめることはできない。文化大革命時代、紅衛兵に一部を破壊された。後に修復する際、頭骨を含めた骨格と補強の鉄材を確認することができたという。
[編集] 思想
神秀の漸修禅(北宗)に対して頓悟禅(南宗)を説き、それが新興士大夫階級に受け入れられて爆発的に教線が拡大し、 青原行思(石頭宗)、南嶽懐譲(洪州宗)、南陽慧忠などの優れた弟子を持ち、後の五家七宗全てがその一門から出た。
[編集] 語録
六祖壇経
[編集] 弟子
荷沢神会、青原行思、南嶽懐譲、南陽慧忠、永嘉玄覚、司空本浄
[編集] 伝記
『六祖壇経』
『祖堂集』巻二
『景徳傳燈録』巻五
『宋高僧伝』巻八
--------------------------------------------------------------------------------
師:弘忍 禅宗 弟子:荷沢神会、青原行思、南嶽懐譲
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E8%83%BD" より作成
カテゴリ: 禅僧 | 中国の僧 | 638年生 | 713年没
禅を創始
野蛮人に仏性はあるのかどうか
4. 「華厳経」を説く
仏とは何か
≪ 華厳の教主「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」≫
≪ 「臨済録」と性起説 ≫
回向
P090
≪ 微塵の中に一切を見るー一即多 ≫
微塵の中に大きな世界が全部入り込んでしまうのだという考え方
これを空間的と時間的とにわけて考えていく
数理哲学の末綱恕一先生
http://www.ism.ac.jp/history/Japanese/HTMLs/Outlines/Chiefes/02th.html
二代所長:末綱 恕一
任期:1947(昭和22)年5月17日〜1948(昭和23)年4月9日
--------------------------------------------------------------------------------
大正11年3月東京帝国大学理学部数学科を卒業後,九州帝国大学助教授,東京帝国大学助教授を歴任し,昭和10年から昭和34年3月まで東京帝国大学理学部教授を勤めた。同氏は,昭和19年統計数理研究所の創設にあたり「設立準備委員」を勤め,創設後も研究所参与,所長(兼任),評議員として,研究所の管理運営に参画し,今日の統計数理研究所の基礎づくりに貢献した。
さらに同氏は,昭和33年4月から昭和45年8月6日に逝去するまで統計数理研究所長を勤め,その間,第4研究部(情報科学理論)の創設準備など研究部門の整備拡充を図るとともに,他に先駆けて大型電子計算機システムの開発導入を行うなど研究環境の強化に力を注ぎ,在任中の昭和43年11月には研究所独自の新庁舎の建設をみた。
同氏は,解析的整数論に関する数多くの研究論文を発表した。特にL関数を解析的に応用したイデアル論に関する関数の最大位数についての論文は,世界的にも広く知られている。また,フォン・ミ−ゼス流の理論を紹介した『確率論』は,この分野での先駆的業績として評価された。さらに同氏は,日本数学会理事長,科学基礎論学会理事長等を歴任するとともに,昭和22年から20余年にわたって学士院会員を勤めて,わが国の学術進展に多大の貢献をし,昭和44年に勲二等旭日重光章を授与された。
一即多「全体的一」
多即一「個別的多」
P093
≪ 「正法眼蔵」に描かれた華厳の性起品 ≫
直感で読むと、空間的には、この点
時間的には、その状態はどうなっているかを説いたもの
仏は自分の中にいる
白隠(1685-1768)
「坐禅和讃」
仏が迷うー衆生
衆生が悟るー仏
心
ふとしたはずみで悪魔になる 心
素直にこのまま読んでいるほうがよかろう
P098
≪ 三界は虚妄なりー「唯心偈」 ≫
「十地本」にある「三界(さんがい)
虚妄但是一心作」
(こもうたんぜいっしんさ)
欲界
色界
無色界
≪ 宗密の説いた四種の心≫
圭峰宗密
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
圭峰宗密
780年 - 841年
生地 果州西充県(四川省)
没地 草堂寺
宗派 華厳宗
寺院 終南山草堂寺
師 道円、南印、神照、清涼澄観
著作 『禅源諸詮集都序』、『原人論』、『裴休拾遺問』
圭峰宗密(けいほうしゅうみつ, 780年 - 841年)は、中国・唐代の僧。
当時の仏教界において、禅宗の一派である荷沢宗と華厳宗とを中心として、諸種雑多な仏教思想と実践行とを統一する「教禅一致」の特異な教説を説いた。また、その著『原人論』では、儒教や道教も仏教のもとに統合しようとする「三教融合」の試みもはかられている。
俗姓は何氏、現在の四川省の果州西充の出身。最初は儒教を学んだのだが、その後、仏教に転向し、25歳の時に出家して道円に師事した。後に、『円覚経』及び杜順撰『法界観門』に出会い、自身の立つ立場を確固たるものとした。
29歳で具足戒を受け、808年になって師の指示によって、師の師である南印に師事し、その後洛陽に入り、南印の弟子である報国寺の神照に禅を学んだ。さらに、811年に、清涼澄観に師事し、華厳を究めた。そのため、宗密は華厳宗第5祖とされる。以後、著作または講筵によって名声を確立した。
821年以後、終南山の草堂寺に住して、『円覚経大疏鈔』等の撰述に没入した。
828年、文宗の召致により、長安に入内し、紫衣を賜った。その後、裴休(791年 - 864年)と交流が生まれ、彼の質問に返答するという形式によって、『裴休拾遺問』を著した。
宗密の思想は、当時の仏教界を席巻していた馬祖禅に対する強烈な対抗意識によって貫かれている。しかし、洪州宗の絶大な力の前には屈するしかなかった。その思想が注目されるのは、五代の永明延寿(904年 - 975年)が提唱した教禅一致思想、更には、三教一致思想が大きな潮流となる後世のことである。
代表的な著作として『禅源諸詮集都序』等がある。
841年、草堂寺で没した。裴休に「圭峰禅師碑銘并序」がある。
[編集] 伝記
『宋高僧伝』巻6「義解篇」第2-3 「唐圭峯草堂寺宗密伝」
師:清涼澄観 華厳宗 弟子:
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%AD%E5%B3%B0%E5%AE%97%E5%AF%86" より作成
カテゴリ: 中国の僧 | 華厳 | 禅僧 | 780年生 | 841年没
華厳宗の第五視
圭峰宗密(780-841)
禅教一致を説く
≪ 妄心のはたらき、浄心のはたらき ≫
柳生但馬守宗矩の師
沢庵宗彭(たくあんそうほう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
澤庵 宗彭(たくあん そうほう、1573年12月24日(天正元年12月1日) - 1646年1月27日(正保2年12月11日))は、江戸時代の臨済宗の名僧。大徳寺住持。
但馬国出石(現兵庫県豊岡市出石町)の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある(同項目を参照のこと)。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 生い立ち
1.2 紫衣事件
1.3 晩年
2 沢庵漬け
3 宮本武蔵との関係
4 関連項目
5 外部リンク
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
1573年12月24日(天正元年12月1日)に秋庭能登守綱典の次男として但馬国出石に生まれる。父秋庭綱典は但馬国出石城主山名祐豊の重臣であった。8歳のとき山名家は羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家し、春翁の法名を得た。14歳で同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事。秀喜と改名した。1591年(天正19年)希先西堂が没すると、この間、出石城主となっていた前野長康は、大徳寺から春屋宗園の弟子、薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いた。沢庵も宗忠に師事する事になった。
1594年(文禄3年)薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入った。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。薫甫の死後、和泉国堺に出た。堺では南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、1604年(慶長9年)沢庵の法号を得た。1607年沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持した。1609年、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。1620年(元和6年)郷里出石に帰り、藩主小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結んだ。名付けて投淵軒という。
[編集] 紫衣事件
江戸幕府が成立すると、寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなる。特に、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられた。これらの法度には、従来、天皇の詔で決まっていた大徳寺の住持職を幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められた。
1627年(寛永4年)、幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り、前住職の宗珀(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝(たんでん)・東源(とうげん)らとともに、反対運動を行った。1629年(寛永6年)、幕府は、沢庵を出羽国上山に、また宗珀を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪とした。上山藩主土岐頼行は流されてきた名僧沢庵の権力に与しない生き方と、「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、歌人でもあった沢庵に草庵を寄進した。沢庵はここを春雨庵と名づけこよなく愛したといわれている。頼行は藩政への助言を仰ぐなどして沢庵を厚遇した。
[編集] 晩年
1632年、将軍徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』は、「剣禅一味」を説いたものとして著名である。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、沢庵は同年冬駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、1634年(寛永11年)夏までここに留まった。宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、家光が上洛し、天海や柳生宗矩・堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は将軍徳川家光に謁見した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになった。
同年郷里出石に戻ったが、翌年家光に懇願されて再び江戸に下った。沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった。1639年、家光は萬松山東海寺を創建し沢庵を住職とする。家光は政事に関する相談もたびたび行ったが、これは家光による懐柔工作であると考えられている。それは逆に言えば沢庵の影響力がいかに強かったかを示している。1644年、土岐頼行が萬松山東海寺に出羽国上山の春雨庵を模した塔中を、沢庵のために建立した。
墓所 (宗鏡寺)1646年1月27日(正保2年12月11日)、沢庵は江戸で没した。『墓碑は建ててはならぬ』の遺誡を残しているが、円覚山宗鏡寺(兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺(東京都品川区)に墓がある。 晩年の沢庵の言動は変節とも、家光に取り込まれたとする説もあるが、その生涯は見識高邁であり孤危険峻であった。 江戸の萬松山東海寺開山から示寂までの7年間は耐え難きを耐えて70回以上も権力の中枢である家光公に拝謁した。 そして『寺院法度』で幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智と大徳寺派および妙心寺派寺院の住持15人に後水尾天皇から勅賜された紫衣を奪還することにより無住状態の大徳寺派および妙心寺派寺院の法灯を揺らぎないものにしたのである。 故に遷化後丁度300年忌の1944年11月29日宮内省より『普光國師』の諡号が宣下された。
[編集] 沢庵漬け
ダイコンの漬物であるいわゆる沢庵漬けは一伝に沢庵が考えたといい、あるいは関西で広く親しまれていたものを沢庵が江戸に広めたともいう。後者の説によれば、家光が東海寺に沢庵を訪れた際、ダイコンのたくわえ漬を供したところ、家光が気に入り、「たくわえ漬にあらず沢庵漬なり」と命名したと伝えられるが風聞の域を出ない。
[編集] 宮本武蔵との関係
フィクション上では、しばしば武蔵と結び付けられる。例えば、吉川英治作の宮本武蔵では武蔵を諭す、キーパーソン的な役割を担っている。
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
[編集] 関連項目
ウィキクォートに沢庵宗彭に関する引用句集があります。宗鏡寺 - 墓所
沢庵漬け
明治館
無理問答
[編集] 外部リンク
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E5%BA%B5%E5%AE%97%E5%BD%AD" より作成
カテゴリ: 書きかけの節のある項目 | 日本の僧 | 禅僧 | 1573年生 | 1646年没
1573-1645
無心と有心
『不動智神妙録』
『沢水仮名法語』
(たくすいかなほうご)
P105
≪ 人間の心の構造ー唯識と華厳 ≫
≪ 法相宗で説く心の働き ≫
良遍
良遍 (法相宗)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
良遍
1194年 - 1252年
宗派 法相宗
寺院 生駒竹林寺
著作 『観心覚夢鈔』
『法相二巻抄』
良遍(りょうへん、建久5年(1194年)- 建長4年8月28日(1252年10月3日))は、鎌倉時代前期の法相宗の僧。俗姓は藤原氏。字は蓮阿。三位已講・生駒僧都とも称される。
奈良興福寺で法相教学を学び、法印・権大僧都に任じられた。覚盛から戒を受け、戒律の復興に尽力した。生駒竹林寺の住持となり、東大寺知足院を復興している。
この「良遍 (法相宗)」は、仏教関連の書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正して下さる執筆協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E9%81%8D_(%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97)" より作成
『法相二巻抄』
末那識
(まなしき)・・・自我意識、おれがおれがという意識
阿頼耶識(あらやしき)
潜在識
結城令聞恩師
錦浦
熱海、自殺の名所
第6意識で自死を決意し
第7未那識で落ちてきた岩を避ける
過去経験のすべてを貯蔵している
蔵識
道元禅師
この一日の身命は尊ぶべき身命なり
貴ぶべき形骸なり
第2章 華厳宗の成立
1. 華厳成立の思想的背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
350年 - 409年
生地 亀茲国
鳩摩羅什(くまらじゅう、くもらじゅう、サンスクリット:Kum?raj?va, ????????、クマーラジーヴァ)、350年 - 409年、一説に344年 - 413年とも)は、中国六朝時代の訳経僧である。略称は羅什(らじゅう)または什(じゅう)。玄奘と共に二大訳聖と言われる。また、真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。三論宗・成実宗の基礎を築く。なお姓名の境界は不明。
目次 [非表示]
1 略歴
2 訳出した経典
3 著書
4 弟子
5 伝記資料
[編集] 略歴
350年 インド出身の鳩摩炎(サンスクリット:Kum?rayana)を父に、亀茲国王の妹の耆婆(サンスクリット:J?va)を母として亀茲国に生まれる
356年 母と共に出家
360年代 原始経典やアビダルマ仏教を学ぶ
369年 受具し、須利耶蘇摩と出会って大乗に転向。主に中観派の論書を研究
384年 亀茲国を攻略した後涼の呂光の捕虜となるも、軍師的位置にあって度々呂光を助ける。以降18年、呂光・呂纂の下、涼州で生活
401年 後秦の姚興に迎えられて長安に移転
402年 姚興の意向で女性を受け入れて(女犯)破戒し、還俗させられる。以降、サンスクリット経典の漢訳に従事
409年 逝去
臨終の直前に「我が所伝(訳した経典)が無謬ならば(間違いが無ければ)焚身ののちに舌焦爛せず」と言ったが、まさに外国の方法に随い火葬したところ、薪滅し姿形なくして、ただ舌だけが焼け残ったといわれる(「梁高僧伝」2)
[編集] 訳出した経典
主なもの。
『坐禅三昧経』3巻
『阿弥陀経』1巻
『摩訶般若波羅蜜経』27巻(30巻)
『妙法蓮華経』8巻
『維摩経』3巻
『大智度論』100巻
『中論』4巻
一部の経典において、大胆な創作や意訳の疑いが指摘されるものの、彼の翻訳によって後代の仏教界に与えた影響は計り知れない。なお、唐の玄奘三蔵による訳経を「新訳」(しんやく)と呼び、鳩摩羅什から新訳までの訳経を「旧訳」(くやく)それ以前を古訳と呼ぶ。
[編集] 著書
『大乗大義章』3巻 - 廬山の慧遠との問答集
[編集] 弟子
道生・僧肇・慧観・僧叡の4人を四哲と称す。その他に、道融・曇影・慧厳・道恒・道常などを加えて十哲と称される(なお書により異説あり一致しない)。
[編集] 伝記資料
『高僧伝巻第二』(大正新脩大藏經 第五十冊 No.2059)
『出三蔵記集巻十四』
『晋書・列伝』
『資治通鑑巻第二百十一』
横超慧日、諏訪義純 「羅什」『人物中国の仏教』新訂版、大蔵出版、1991年。ISBN 4804351078
[隠す]表・話・編・歴仏教
基本教義 縁起 四諦 八正道 三法印 四法印 諸行無常 諸法無我 涅槃寂静 一切皆苦
人物 釈迦 十大弟子 龍樹 無著 世親 玄奘 達磨
如来・菩薩 仏の一覧 釈迦如来 阿弥陀如来 大日如来 弥勒菩薩 観音菩薩 地蔵菩薩
部派・宗派 原始仏教 上座部 大乗(中観 唯識 禅宗 天台宗 浄土教) 密教
経典 法句経 般若経 維摩経 涅槃経 華厳経 法華三部経 浄土三部経
聖地 ルンビニー ブッダガヤ クシナガラ 五台山 峨眉山 熊野三山 霊峰 霊場
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E6%91%A9%E7%BE%85%E4%BB%80" より作成
東晋401年
捕虜として長安へ
| << | 2008/08 | >> | ||||
| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
| 1 | 2 | |||||
| 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
| 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
| 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
| 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | ||||||