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2008.10.26
年表
1329
1329年の元弘の変では2度目の討幕の密議を六波羅探題に密告しているが、
後に鎌倉幕府滅亡後の建武の新政では内大臣に登用されている事などから、
これは後醍醐天皇の身を案じた行動であると解釈されている。
1331(元弘元年 )8月、
後醍醐の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、
またも計画は事前に発覚した。
1331(元弘元年 )8月、
六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐は女装して御所を脱出し、
1331(元弘元年 )8月、
後醍醐天皇が京都を脱出し、三種の神器を持って笠置山へ入る(元弘の乱)。
1331(元弘元年 )8月、
後醍醐の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、
1331(元弘元年 )8月、
湯浅定仏と戦う(赤坂城の戦い)。
1331(元弘元年 )9月、
楠木正成が河内国下赤坂城で挙兵する。笠置が落城して後醍醐が捕縛される。
1331(元弘元年 )9月、
1331(元弘元年 )9月、
次いで吉野も陥落し、楠木軍が守る下赤坂城のみが残った。
1331(元弘元年 )10月、
姿をくらませた(赤坂城の戦い)。
1331(元弘元年 )10月、
三種の神器が接収される。
1332(元弘2年 )3月、
1332(元弘2年/正慶元年 )3月、
日野俊基や北畠具行、先に流罪となっていた日野資朝らを斬罪とし、
後醍醐を隠岐島へ配流した。
こうして倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。
1332(元弘2年 )6月、
楠木正成が千早城で、護良親王が還俗して吉野でそれぞれ蜂起する。
1332(元弘2年/正慶元年)11月、
1332(元弘2年/正慶元年)11月、
護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。
1332(元弘2年/正慶元年)12月、
正成は12月に上赤坂城を奪回し、
1332(元弘2年/正慶元年)12月、
正成は赤坂城の詰めの城として千早城をその背後の山上に築いた。
正成はこの年、金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として
千早城を活用した。その年の年末には上赤坂城を奪還している。
1333年(元弘3年)
元弘2年(1332年)の正成再挙兵後、再び下赤坂城が落城すると、
新たに築いたが当城が楠木氏の本城となり、幕府軍に対した。
翌元弘3年(1333年)、上赤坂城も落城し、正成は千早城に転じて
さらに抗戦を続け、幕府軍を苦しめた。
幕府は再び大仏家時、名越宗教、大仏高直らが率いる大軍を差し向けた。
まず幕府軍は正成の配下の平野将監らが守る上赤坂城へ向かった。
城の水源を絶ち、平野将監らを降伏させた。
同じ頃吉野でも護良親王を破った。
幕府は千早城へ百万と号する大軍を向け、これを攻め立てた。
籠城側・楠木軍は僅か千人足らずの兵で100日間に及ぶ籠城戦を戦い抜き
幕府軍を撤退せしめた。『太平記』にはこの千早城攻防戦が描かれており、
藁人形を用いて大軍を擁しているように見せかけたり、
ゲリラ戦を用いて敵軍を翻弄、また崖を登る敵兵に矢を射たり
大木・岩石を転がり落とすなどして撃退したといわれる。
1333(元弘3年 )2月、
1333(元弘3年 )2月、
正成、39歳、幕府は目の上のコブ、正成の息の根を止めるべく、
8万騎の大征伐軍を追討に向かわせる。
正成は千人の兵と共に山奥の千早城に篭城した。
幕府軍は大軍でこれを包囲したものの、正成の奇策を警戒するあまり
近づくことが出来ない。結局、2年前の赤坂城と同様に兵糧攻めを選んだ。
ところが、今回は勝手が違った。
なまじ8万も兵がいる為に、先に餓えたのが包囲している幕府兵だったのだ。
正成の作戦は、目の前の大軍と戦わずに、
その補給部隊を近隣の農民達と連携して叩き、敵の食糧を断つという、
「千早城そのものが囮(おとり)」という前代未聞のものだった。
食糧が運び込まれていた正成軍は、3ヶ月が経ってもピンピンしていた。
やがて幕府軍からは数百人単位で撤退する部隊が続出し、戦線は総崩れになった
残るは正成がわずかな軍勢で篭城する千早城のみである。
だが楠木軍は、鎧を着せた藁人形を囮として矢を射掛けるといった奇策により、
再び幕府軍を翻弄した。
幕府軍は水源を絶とうとするが、千早城では城中に水源を確保しており
びくともしなかった。さらに楠木軍は一部が打って出て幕府軍を奇襲し
、軍旗を奪って城壁に掲げ嘲笑してみせた。
楠木軍は90日間にわたって幕府の大軍を相手に戦い抜いた。
1333(元弘3年 )5月、
足利尊氏や赤松則村(円心)ら後醍醐方に呼応し京都の六波羅探題を滅亡、
1333(元弘3年 )5月
5/9 北条仲時、六波羅探題北方(* 1306年) 死亡
1333(元弘3年 )5月
5/18
1333(元弘3年 )5月
5/22 北条基時、鎌倉幕府第13代執権(* 1285年)
1333(元弘3年 )6月、
後醍醐天皇が入京し、記録所を復活させるなど建武の新政を開始する。
1333(元弘3年 )10月、
北畠親房・北畠顕家が義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国へ向かう。
1333(元弘3年 )12月、
2008.10.26 2056 PC
2008.10.03 記入
赤坂の陣地
女子供は千早村へ
一時疎開
久子ら
多門丸
三郎丸
(後の正儀)
柿の木をすきまに
久子、嫁いできた際
生家から苗、移す
柿の木とともに生き、働く
とりで入り
その日のうちに、祖先以来の
館を焼き払う
南江正忠は、千早村
じいと
とりで
そこから見える
東条川
高塚山
桐山
2008.10.26
宇都宮公綱
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宇都宮 公綱(うつのみや きんつな、1302年(乾元元年) - 1356年11月12日(正平11年/延文元年10月20日))は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。宇都宮氏第九代当主。父は宇都宮貞綱。母は北条長時の娘。
元弘の乱の1333年1月、北条高時の命を受けて上洛し、摂津国四天王寺にて官軍側の名将・楠木正成と戦った。このとき、正成は公綱より兵力では勝っていたが、公綱の武略を恐れて直接対決を挑もうとはせず、持久戦に持ち込んでいる。公綱もまた、正成の武略を恐れて直接には相対せず、結局勝敗はつかずして引き分けた。その後、千早城攻めなどにも参戦したが、やがて後醍醐天皇の綸旨を受けて官軍側に寝返った。幕府滅亡後の建武の新政下では雑訴決断所の奉行職を務めた。1335年の中先代の乱後に足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、公綱は尊氏軍と戦ったが敗れ、翌年に尊氏に降伏してその家臣となった。しかし尊氏が九州に落ちると再び天皇のもとに帰参する。
その後は北畠顕家のもとで各地を転戦し、顕家の死後も東国における南朝側の中心勢力の一人として活躍し、後村上天皇からも厚い信任を受けた。しかし晩年は不遇だったと言われている。1356年10月20日、55歳で死去した。
正成を恐れさせたほどの武勇を持つ反面、和歌にも優れた才能を発揮し、新続古今和歌集には公綱の作品が修められている。
先代:
1316〜1356 次代:
宇都宮氏綱
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カテゴリ: 宇都宮氏 | 鎌倉時代の武士 | 南北朝時代の人物 (日本) | 鎌倉時代の歌人 | 室町・安土桃山時代の歌人 | 1302年生 | 1356年没
2008.10.26
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各国の文学
記事総覧
その他作家
石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年7月2日 - 1985年1月31日)は、日本の小説家。
[編集] 人物
秋田県平鹿郡(ひらかぐん)横手町(現横手市)に生まれ、東京都、岡山県などで育つ。早稲田大学文学部英文科中退。
1930年にブラジルに渡り、数ヶ月後に帰国。『新早稲田文学』の同人となり、小説を書く。
ブラジルの農場での体験を元にした『蒼氓(そうぼう)』で、1935年に第1回芥川賞を受賞。社会批判をテーマにした小説を書くが、『生きてゐる兵隊』が新聞紙法に問われ発禁処分、禁固4ヶ月執行猶予3年の判決を受ける。
戦後、第22回衆議院議員総選挙に立候補するが落選。その後も社会派作家として活動し、『人間の壁』、『金環蝕(きんかんしょく)』などを書いた。
日本ペンクラブ第7代会長(1975〜1977)。日本芸術院会員。また、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、A・A作家会議東京大会会長を歴任した。
日本ペンクラブ会長時代は、「言論の自由には二つある。思想表現の自由と、猥褻表現の自由だ。思想表現の自由は譲れないが、猥褻表現の自由は譲ってもいい」とする「二つの自由」発言(1977年)で物議をかもし、五木寛之や野坂昭如など当時の若手作家たちから突き上げられ、最終的には辞任に追い込まれた。
なお、作風と比べると意外だが、趣味はゴルフで、丹羽文雄とともにシングル・プレイヤーとして「文壇ではずば抜けた腕前」と言われた。
[編集] 主な作品
『蒼氓』
『日蔭の村』
『生きてゐる兵隊』(河出書房(自由新書),1945年(昭和20年)。のち中央公論新社(中公文庫)ISBN 4-12-203457-4)
『結婚の生態』
『望みなきに非ず』
『風にそよぐ葦』
『神坂四郎の犯罪』
『四十八歳の抵抗』
『人間の壁』(1958年(昭和33年)〜1959年(昭和34年)、新潮社。のち、新潮文庫。のち、岩波書店(岩波現代文庫)。ISBN 4-00-602038-4 C0193)
『僕たちの失敗』(2005年放送のテレビドラマ『契約結婚』の原作)
『青春の蹉跌』
『金環蝕』
『七人の敵が居た』
『泥にまみれて』
[編集] 関連項目
この「石川達三」は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作家・随筆家)に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆、訂正等して下さる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E9%81%94%E4%B8%89" より作成
カテゴリ: 日本の小説家 | 芥川賞受賞者 | 秋田県出身の人物 | 国政選挙立候補経験者 | 1905年生 | 1985年没 | 文人関連のスタブ
2008.09 20冊(今月)/ 140冊(今年)/ 698冊(自2004.01-)
20 2008.09.30 ★吉本隆明『読書の方法』(光文社)2008.09.21-
19 2008.09.29 ★信田さよ子『母が重くてたまらない』(春秋社)2008.09.29-
18 2008.09.30 ★福岡伸一『生物と無生物の間』(講談社現代新書)2008.09.28-
17 2008.09.28 ★堀和久『徳川慶喜』(文春文庫)2008.09.27-
16 2008.09.27 ★鎌田茂雄『いのちの探求』(NHKライブラリー)2008.09.15-
15 2008.09.23 ★海老原敏『滝廉太郎』(岩波新書)2008.09.23-
14 2008.09.22 ★吉川英治『私説太平記(2)』(講談社文庫)2008.09.20-
13 2008.09.19 ★平田 耿二『消された政治家 菅原道真』(文春新書)2008.09.17
12 2008.09.17 ★吉川英治『私本太平記(1)』(講談社文庫)2008.09.15-
11 2008.09.15 ★朝倉喬司『立花隆の正体』(リム出版)2008.09.14-
10 2008.09.13 ★竹内節子『ジャンヌ・ダルク』(講談社新書)2008.09.12-
9. 2008.09.12 ★田畑則重『日露戦争に投資した男』(新潮新書)2008.09.12-
8. 2008.09.10 ★川添昭二『北条時宗』(吉川弘文館)2008.09.10-
7. 2008.09.09 ★東郷尚武『海江田信義の幕末維新』(文春新書)2008.09.06-
6. 2008.09.07 ★堺屋太一『峠の群像(上)』(NHK出版)2008.09.07-
5. 2008.09.06 ★トクヴィル『アメリカ・デモクラシー第1部(上)』(岩波文庫)
4. 2008.09.04 ★梅崎義人『動物保護運動の虚像』(成山堂書店)2008.09.03
3. 2008.09.04 ★網野善彦ほか『日本中世史を見直す』(平凡社ライブラリー)
2. 2008.09.02 ★山際素男『破天』(南風社)2008.08.28-
2008.09.10
8代執権
北条一門、名越氏と異母兄時輔を反得宗としてちゅうさつ
30歳の死
「建治3年記」
無学祖元
日蓮
一遍と出会った北条時宗 32歳
1270 惟康
清原教隆
建長寺住持
運慶道隆
1271.09.12
日蓮を逮捕、佐渡へ配流す
12.12 嫡男貞時生まれる
1272(文永9)2.15
北条義宗に時輔を討たす(ちゅうさつ=2月騒動)
越訴
1274(文永11)
2.14 日蓮の佐渡配流を許す
北条政村
1274.01.26 亀山院政開始
前将軍宗尊
建治元年(1275)
10/21 豊前国到津
勾金両庄の地頭職を宇佐八幡宮に寄進
竹崎季長
文永合戦一番駆けの戦功を訴える(10/3)
弘安2年(1279) 29歳
8/20 無学祖元を建長寺住持とする
弘安4(1281)
弘安5年(1282)
3/1 一遍と出会う、山中に向かう途中
一遍は鎌倉へ
巨福昌塚で
◎ 2/30という日付
円覚寺―無学
弘安7年(1284)4/4 死亡
2001
第1章 生い立ち
一. 時宗の生まれと母
建長3(1251)5/15
『吾妻鏡』
父は時頼(25歳)
母は重時の長女
隆弁に祈祷させる
隆弁
叡尊
松下禅尼(母)
兄 安達義景
三浦介盛時
正寿丸
得宗=北条氏嫡流
の当主
時宗の母
俊家尼御前
得宗被官とは?
二. 庶兄 相模三郎時輔
≪ 時輔生まれる ≫
宝治2年(1248)生まれ
被官=家臣とある
≪ 時輔元服 ≫
正嫡 時宗を時輔がたすける(輔ける)
生母の筋
京風の教養を持つ時輔
鞠奉行
渡来禅僧兀(ごつ)庵普寧(ごつたんふねい)
の門、参じる
三. 弟たち
(写真)聖福寺跡
(稲村が崎)=相模四郎
≪ 五郎宗時、六郎政頼 ≫
≪ 七郎宗頼 ≫
母は大友頼泰の娘
≪ 時厳 ≫
覚山尼
=時頼の妻
子息の執権 貞時
≪ 大方殿 ≫
≪ 正続庵 ≫
無学祖元の塔頭
正続庵に寄進した
報恩行為
三. 小侍所
(写真)北条実時
坊主袋
≪ 平岡実俊の活躍 ≫
四. 小侍時代の業績
2月騒動
≪ 廂番の制(ひさしばん) ≫
京風の傾向
宗尊の代に強まる
各番 おのおの10名で6組(6番)、宿直し将軍を護衛する
6番頭人=名越教時
2008.10.03
吉川 私本(3)
P438
松本昭
桂川―京都の西を流れる
老ノ坂
篠村
丹波山地
梅迫町―安国寺
上杉清子(高氏母)
出生地
≪ ばさら大名 佐々木道誉 ≫
政界風見鶏
勝楽寺
器用そのものの生き方
第7章 帝獄帖(つづき)
世の辻の帖
≪ 正成出仕 ≫
勅便
藤房
金銅事別坊
楠木家へ下向のもの
松尾刑部
山興―貧しげ
久子
万里小路藤房
迎える正成
おことわりしたい
P019
恩地左近
和田
橋本
安房四郎左
断った、との正成の弁に
席をたとうとする面々
割った入る久子
談合のうえ、土器、冷酒
ちかいを固める
70余名
急ぎ、笠置へ帰る藤房
正成笠置下ノ堂まで到着
わずかな従者
花山院師資
千種忠顕ら
水分(みくまり)へ帰る
≪ 天(あめ)が下には ≫
9月半ば
鎌倉の大軍
笠置のふもとへ
7万5千(2万か?)
すでにこのころ後醍醐天皇を失帝と呼ぶ
金沢貞冬―宇治
大仏貞直―京都
長崎四郎左衛門
足利高氏―笠置へ
(父利貞危篤のため遅れる)
出陣令の日、父
なきがら、入れろ
天険笠置さぐりあい
2−3日
木津川べり
柳生勢を相手
又四郎の死
足助次郎=三河
不落の笠置
北も東も絶望
布目川、木津川の急流
10日程度重ねる損害
楠木一族の河内の赤坂に・・・
他にも諸々宮方加勢する
備中の陶山義高
小見山次郎の2人
太刀は背中に背負え
火を放て
有市の部落(ありち)
農夫、案内しろ
ごほうびを下ッセイ
老農夫蹴飛ばし断崖から落とす
血祭り
公郷
敵だ
P041
お座所を守れ
燃え移る火
山上の行宮
神器を取り出して守れ
宗良手をとる
十数名逃げる
万里小路藤房
北畠具行は?
大納言師資は?
公敏は?
忠顕は?
宗良は?
奈良の聖尋坊は?
「藤房死ぬなよ」
西へ西へ来ている
3日目、夜明けて
神童子越え
(じんどうじ)
P055
大和内山の永久寺へかける
捕虜の
常盤範貞(北ノ探題)
くるひきとり
に
宇治平等院経由
南六波羅別院へ
≪ 赤坂城 ≫
PC2008.10.25 0722
2008.10.02 記入 23日遅れ
P024
≪ 兵法 ≫
(In A Word)=つまり
あげくのはて自殺までした芥川
つまり?
私もそうだった
路草を食うたのしさを知らなかった
循環小数の奇妙さを知らなかった
≪ ダス・ゲマイネに就いて ≫
ケーベル先生
ひぞく=ダス・ゲマイネ
ウール・シュタンド
=本然の状態
≪ 世渡りの秘訣 ≫
節度
≪ ソロモン主義と賤民 ≫
≪ 感謝の文学 ≫
≪ 余談 ≫
「これが世の中だ」
≪ Alles Oder Nights ≫
酒井真人
凋落のボオドレエル
≪ すらだにも ≫
真淵
≪ 慈眼 ≫
28歳で死んだ兄
私はいま27歳
(へんな仏像)兄作
かたみのねずみ色の縞の着物を着ている
≪ 重大のこと ≫
豊かな自分なのに
大理石塊を山から町へ
からだをめちゃめちゃにした
≪ 絵ハガキ≫
人ごみ、喧騒
運命開拓の手段をあれこれ考えてあるいていく
笑うことが許されぬ
≪ 最強のスタンドプレイ ≫
われを売るものこのなかにひとりあり
ペテロは・・・
あわてふためくヤコブは誰
≪ かにについて ≫
「阿部次郎のエッセイ
戦う小蟹同士
≪ 立派ということについて ≫
小説以外の文章は
なにも書くまいと覚悟したが
まてよ、と
それじゃあ、あんまり立派すぎる
ボオドレエルを見よ
葛西善蔵を見よ
P066
?
≪ 古典竜頭蛇尾 ≫
2008.10.03
P122
≪ 容貌 ≫
浜口雄幸氏
非常に顔の大きな人
チェホフ
「無法松の一生」
「重慶からきた男」
P171
≪ 青森 ≫
「お父(ど)さ」
豊田さまのお家
棟方志功氏の初期の傑作1枚2円
100円は今でもする
P285
≪ 「井伏鱒二選集」後記 ≫
第一巻
「山椒魚」
読了
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