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Myaku

Myaku 脈   比嘉加津夫

2012-05-25 続・高木護という詩人

i-otodoke2012-05-25

「かんじんさんになろう」 

「乞食」という言葉は差別用語として禁止の対象になっているらしい。たしかに、ひびきはあまりよくない。昔の人は感覚的に知っていたのか「おもらいさん」とか「かんじんさん」とか「おこもさん」と言っていた。おそらく「おへんろさん」もその流れのひとつだと思う。

 高木護には『かんじんさんになろう』(五月書房)というエッセイ集がある。彼はここで九州で「かんじんさん」のことを所によっては「ほいとさん」、「ものもらいさん」、「こじきさん」、「おこもさん」、「こつじきさん」、「おてんとうさん」、「かんじん坊さん」と言い、呼び捨てにはせず「さん」づけをして言ったものだと書いている。まだ子どもであったころのある日、彼は村の長老に、なぜ、「かんじん」にさんをつけるのかと訊いてみた。そのときのことを次のように書いている。彼の質問に長老が応えている場面。

《「あん人たちはな、神様にならした人じゃけんじゃ」

 ナンマイダと手を合わせながら、こたえてくれた。

「神様にかいた」

 こちらは子供だというのに、

「ならすまでにはな、人にはいわれんごたる苦労もさしたっじゃ」

村ん年寄りはうるさがらずに、相手をしてくれた。

「言われんごたるって、どぎゃんこつじゃろうか」

「そうじゃな、なんていうたらよかろうかない」

 年寄りは考えるかのように、ちょっとまを置いた。

「あのない、肝心さんにはな、だれでんはなれんとじゃ。あん人たちはな、かんじんさんにならすごつえらばれた人たちじゃ」

「どぎゃんしてかいた」

「そうじゃな、運が悪かったり、からだや頭が弱かったり、うまれてこらしたときからどこかようなかったり、人がよ過ぎてだまされらしたり、おまんまになる仕事ばしらっさんじゃったり、世間とのまじわりができらっさんじゃったり、ものばいいきらっさんじゃったりして、さんざん苦労ばするごつうまれてこらたっじゃ」

「ふん」

 それがどんなことかよくわからなかったが、わたしは頷くだけは頷いた。》

 いかにも一篇の詩のような、たんたんとした土の匂いのする文章で綴れている。間も取られ、生活感覚を越えたのんびりした風を感じる書き方だと言えばいいか。文そのものがすでにぶらぶら歩きをしているのだ。その意味で文は体を表していると言うべきである。

 そしてまた何時かの日、少年は村の和尚にも同じことを訊いた。

《「かんじさんって、なんでっしゅうか」

さっそく問うてみた。

「かんじんさんかいの」

 和尚さんは”かんじんさん”ということばを噛みしめるかのように、それを二度か三度、口の中でムニャムニャとつぶやかれた。

「かんじんさんには、だれでんはなれんとでっしゅう」

「なれんの」

「かんじんさんにな、えらばれらした人たちだけしか、なられんとでっしゅうか」

「えらばれなさった人たちかいの。そういえば、そうかもしれんの」

炉のぱちぱち爆ぜる火のせいか、和尚さんの目がキラリと光った。

「えらばれしたというても、なしかんじんさんにならすとでっしゅうか。おら、なろごつなかたいと、断わらすとよかとに」

「そこじゃの、一口にはいえんがの。よほどの運命というかの、不運不幸というかの、災難というかの、目に見えんいたずらに弄ばれらしたというかの、それらの果てにかんじんさんにならしたっじゃろうの」

「果てにでっしゅうか」

「つまりの、そうやって人間ば卒業さして、かんじんさんにならしたっじゃろうの」

「かんじんさんたちは、人間ば卒業さした人たちかいた」

「かんじんさんたちがの、かんじんさんにならす前の苦労や苦悩はの、行みたいなもんじゃの。修行みたいのものじゃの」》

 かんじんさんは、欲もなく、偉ぶらず、競争もせず、あらそいを避け、害をおよぼさず、ひっそり暮らす、人間を卒業した、この世で最も神に近い存在であるという考えを持っている。

 しかし、高木は自分はかんじんさんには憧れるが、かんじんさんになれない存在だとも思っているところがある。それは「結婚はしたい」と思っている存在だからだ。結婚したいということは、つまり欲を持っていることであり、それは神になれないことをも意味しているからだ。

2012-05-20 高木護という詩人

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おそらく、最後の詩人

きみは高木護という詩人を知っているか。高みから、強腰の姿勢で聞いているようですまない。このような姿勢をもっともきらうタイプの詩人なのだ、彼は。しかし、高木護について書こうとすると、耳鳴りのようにその声が響いてくるのである。「きみは高木護という詩人を知っているか」。

ぼくは知らなかった。このような詩人がいるということを。だから、おどろきが先にきたのであった。こんな詩を彼は書く。

《むずかしいことは判らない

この世にうまれてきた理由も

判らない

生きている理由も

判らない

なぜ、といわれても判らない

すみません

あの世へ逝ったら

あなたに骨を返します》  (「返す」)

ぼくはある縁をきっかけに、彼について書いた澤宮優の『放浪と土と文学』(現代書館)を読んで知った。著書の冒頭に置かれた詩だ。この一篇を読んで「ただものでない塊」を感じた。詩の中に、おおいなる皮肉(アイロニー)が込められている。「返す」とは、誰に「返す」のかというと、「何のために生まれてきたんだ」とか「何故生きているんだ」とか、こむずかしい理論を背景に問い詰めてくるその人に対して「なんだったら、あんたに返します、ぼくの骨」とおおらかに言っているのだとぼくは読んだ。「そんなに、ぼくに関心をお持ちなら、骨はあんたにやりますよ」と。

それほど彼は自分に執着しないタイプの詩人なのだ。捨てているのである。「ぼくには、ただいまのぼくだけあれば、それで十分」という声が聞こえてくるのだ。

高木護は丸山豊のつくった同人誌『母音』で川崎洋谷川雁森崎和江、松永伍一らと共に活動をした。しかし、そのなかでもかなり異色な存在であった。

まず、「死」と「詩」と「私」をひとくくりにして、思考するでもなく思考して詩人の王道をよたよた歩いているというイメージを出しきっていた。放浪三昧というと山之口貘がまず筆頭に浮かんでくるのだが、彼の場合、その山之口貘さえ吹っ飛ばしてしまうような徹底振りなのである。

沖縄山之口貘は「山之口貘様、様」なのだが、彼はその徹底振りのせいなのかいまだに「様」がひとつつくだけである。もっとも「様」はひとつつくだけで人はもう十分なのだと彼は言うだろう。

また人が、谷川雁横綱で、高木護は褌担ぎだと言うと、それでいいのだと認めてしまうのである。人は価値としてみるとみんな平等なんだよと思いつつも、あんたの考えはあんたの考えとして正しいとおそらく言うのだ。そのあとに「しかし、あんたの考えが普遍的なものであるという保証はない」という皮肉を隠し持っている。

乞食についての彼の定義がおもしろい。

「服装ハ百年一日ノ如クアルベシ」「言葉ハ不明瞭デアルコト」「名前ハ他人ガツケタ名前ヲ愛用スベシ」「人間ヲ信用スベカラズ モノヲ呉レタカラ アノ人ハイイ人ダトイッテハイケナイ」「顔ニ喜怒哀楽ノ表情ヲ現ワサナイコト」「今日ハ何月何日ダトカイウコトヲ一切気ニシナイ 乞食ニハ元旦モ祭日モナイ 朝モ夜モナイ」「誰ニモ迷惑ヲカケズ 誰ノオ世話ニモナラズ 誰トモ競争セズ 誰ニモ嘘ヲツカナイ」「何カワケテ呉レト物欲シソウナ顔ヲシナイ(神様ノヨウナ顔ヲスル)」「物ヲ貰ウトキハ スグニ手ヲダサズ服デ何度カ手ヲコスッテカラ手ヲ指シテモラウ」「相手ニ神様ニ物ヲ供エタヨウナ気ニサセルノガ望マシイ」「乞食ハ同ジ場所ニ長ク住ンデハナラナイ 乞食トシテノ評価ガ下ガル」「移動シテ前ノ所ニ来タトキ〈アノ乞食元気ダッタンダ〉ト思ワセタラ成功」。まだまだ、ある。

これは高木が実際に乞食世界で受け入れられて「神様に一番近い存在で、誰にでもなれる職業ではない。人生六十年分の経験をしたものでないとなれない」と乞食から自論を吐かれ、「オレガミルトコロデハ君ハヨイ乞食ニナレソウダ」と推薦されたというのである。

乞食と神を同一線上に置くどころか、同一視しているところがある。古代社会ではそうであったのではないかという名残りが沖縄にもある。

最近の宮崎駿アニメ借りぐらしのアリエッティー」にもそのような名残りがある。民家に借り暮らしをしている小人らの考えとその乞食の考えが共通しているのだ。民俗史的にもなかなか、根も奥も深いのである。今回はここまで。

2012-05-02 Myaku 12号吉本隆明追悼号

f:id:i-otodoke:20120502082235j:image:w360(註=仮の表紙です。画・親泊仲眞さん)

吉本隆明追悼号(100ページ)を15日に発行

 前略

 追悼文は「死を契機に書かれた究極の人間論」といわれたりします。その追悼文を集めた『Myaku』12号をここにお届けすることができました。吉本隆明が逝ってはや2ヶ月。その思想の恩恵を受けた方々の思いとなまの声をせまい範囲でではありますがおさめることができました。編集にたずさわった者として、これ以上の充実感、よろこびはありませんでした。吉本隆明との真の「出会い直し」(芹沢俊介の弁)をしたいと、またまた考えるようになった次第で、これがあるいはその1号になるかと思います。

 追悼の内容としての筆者の声を編集してみました。ご覧ください。

 なお、吉田純さん撮影のポートレートはじめ他に4枚の写真が入ります。

鈴木智之  [〈弱さ〉の人] 

吉本隆明とは、〈弱さ〉の人ではなかったか。孤立を恐れることなく論争に挑み続けた人に、その呼称はふさわしくないとの声もあるだろう。しかし、思想的営みの根に、〈弱く〉あろうとする身構えが控えていたように思えてならない。

三上 治  [吉本隆明さんのこと] 

吉本さんは、青春期の若者に強いメッセージを与えた。精神としての人間を誰よりも理解していたからだ。人間は自然的な存在であるが、同時に精神的存在である。この精神的存在は大きく、豊かで広がりのあるものだ。しかし人間は、このことに気が付かないか、そこに近づくことを怖れ、タガをはめて抑制しようとする存在である。

仲本 瑩  [『マチウ書試論』をめぐって] 

新約書は、どの書も濃淡はあれユダヤ教批判を展開している。なかでもマタイ福音書は徹底している。マタイという聖書の作者は、自分たちこそユダヤ教の正統を継承するものであるという自負に満ちている。

岡本定勝  [幸運な出会い]  

その魅力はまず文体の特徴に表われていた。論理と情念の融合した倫理性と批評性のつよい言葉が、こっちの内部にしみ入った。創造的な思想のみがもちうる力、時代を読み、示唆を与えるものであった。

黒島敏雄  [吉本体験は、まだ終らない]   

生活感情から汲み出される言葉には、自分の考えを試される緊張がある。「関係の絶対性」、「面々の御計」、「自己表出と指示表出」など、再読のたびにあらたな解釈が自分の中に湧き出る。

内田聖子  [にんげん吉本隆明]  

吉本隆明は、テック労組主催の講演会で、谷川が、企業の重役になり「転向」といわれたことに関し、個人の生涯であって、政治的でも倫理的な問題でもない。決して「転向」という概念は存在しないと柔軟に語った。

田中眞人  [吉本隆明さんのかすかな思い出をたどって]

多和田辰雄と頻繁に吉本隆明の自宅をたずねた。玄関でふかぶかと挨拶するその人は、強靭な論理によって論敵を鎧袖一触する人とはまるでちがっていた。そのふるまいにとまどった。

松島淨  [吉本隆明の貢献] 

吉本隆明と沖縄と言えば「南島論」が想起されるだろうが、私がみるところ両者の関係は「政治と文学の間」にこそあると思われる。

勝連静子 [私にとっての吉本隆明]  

吉本隆明の本を読み自信を取り戻した。もっと学ばなくてはいけない。無知の知を知る。その入口が吉本隆明だった。

親泊仲眞  [私的断面ポイント=吉本隆明] 

印象に残った言葉は「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」、それぞれの関係はインパクトがあり、散らかった脳が整理されるように吸い込まれていった。特に、リアルタイムで「対幻想」に悩まされていた青年時代でもあり、思考の救いにもなった。

鈴木次郎   [追悼・吉本隆明] 

吉本さんは、思想的批判者である者が必ず引受けなければならない孤立をものともしなかった。孤立しても誰にももたれかからず、単独ですべて闘った。日本人離れしたこの点は、いくら評価しても評価しきれない。

松島朝彦   [沖縄と吉本隆明] 

天皇制・宗教論集成は南島論を中核にした殆んど琉球・沖縄論だ。天皇制の起源と南島の基層の関係を論じながら、宗教つまり観念が日常生活に及ぼす重さを論じている。

梓澤 登   [その日の記憶] 

やがてインタビューが始まった。一時間の心算もりだったが、吉本さんの弁はなめらかで、一時間半に及んだ。緊張し、頭をフル回転させながらも、後から考えれば、至福の時間だった。

高良 勉   [吉本隆明との出会いと別れ] 

私の中で、吉本思想は『最後の親鸞』が頂点であった。「僧にして俗に非ず、俗にして僧に非ず」という愚禿親鸞の像は、「知識人にして大衆に非ず、大衆にして知識人に非ず」という吉本像に重なって印象に残った。

高橋秀明  [一九七〇年 私の吉本隆明]  

スポンジが水を吸うように脳に滲み入る思想、それが著作集『文学論1』に収められた論考だった。その出会いの新鮮な感動を振り返ることは個人的な述懐にとどまらない意味がある。

田場由美雄 [達悟の人 吉本隆明] 

「仏」を持ち出すのは僭越至極だが、悟った人(覚者)と言う意の「悟達の人」である。「平成の親鸞」と称されているのを知らないわけではないが、突き抜けて、仏の鼻祖たる仏陀その人、また唐突だが同時代のキリストであった。

今帰仁太郎  [ボクは埴谷派だった] 

吉本さんが来沖され、講演された時の年齢が、今の小生の年。やせて身長が高かった。足元がややふらついていた。二次会で握手したのが唯一の光栄なる交わりだった。

喜納正信   [吉本隆明及び上原生男] 

体が岩のように重くなり、ぐんぐん椅子の底へ沈んでいく。心身の異変ともいうべき状態の中で、圧倒的な力がはたらいている。事実を認めなければならない。吉本隆明は亡くなったのだ。

宮城正勝  [吉本隆明と南島論] 

ぼくにとっての吉本さん、それは、吉本さんにとっての親鸞のような存在であったろう。親鸞がそうであったように、吉本さんは「自前の言葉」で語る希有の思想家であった。いかなる表現にも身体性が担保されていた。

川満信一  [「知の巨人」の仕事] 

『共同幻想論』から、自らの出自である島共同体と国家共同体の関係を整理する上で示唆を受けた。「沖縄における天皇制思想」「民衆論」「共同体論」など吉本氏とずれた位置にある自分の足場を確かめたい、という一念で蟷螂の斧を振り回してきた。

比嘉加津夫  [吉本隆明の残したもの] 

吉本は戦後、「ぼくは出てゆく」と宣言してマルクスなど西洋の哲学、経済理論を耽読し、「聖書」を読み、論理を組み立て、ギリギリまで自分自身を孤独に追い込んで、ついに自らの思想をうちたてた。

「Myaku」12号には追悼とは別に、崎原恒新の「沖縄地方文学史1」が掲載されています。これは1971年、沖縄タイムス朝刊で連載されていた意欲作で、当時から関心を寄せていたものでした。そのままではもったいないと思い、本人の了解を得てここに連載させていただきました。ご期待下さい。

5月15日発行

定価600円

2012年5月吉日

脈発行所 比嘉加津夫

電話098-861-3166

eメール higa20@nirai.ne.jp

heihei 2012/05/12 10:47 日経新聞の記事で知りました。ぜひ購読したいのですが、県内ではどちらで販売されていますか。

2012-04-18 予告、吉本追悼号

 現在「Myaku」12号の編集をすすめている。ここしばらくブログに手をつけていないので、今さっき書いたばかりの「編集後記」を宣伝も含めてアップしておきたい。なお、12号の発行は5月の連休明けを予定している。京都三月書房にも置いてもらえるようです。

〇「死を契機にして書かれる究極の人間論」、といわれる追悼号をここにお届けしたい。吉本隆明は1983年3月、小林秀雄が81歳で亡くなったとき「ほとんど独力でわが国の近代批評の布石を敷きつめ、その上に華やかな建物をつくり、それをじぶんの手であと片づけして、墓碑まで建て、じゅうぶんの天寿を全うした」と書いた。とにかく小林秀雄の死は文壇あげての取り組みという感があった。『新潮』はすぐ、臨時増刊号を出し、追悼特集号と銘打った。『文学界』は41名の著名人をそろえて追悼特集を組んだ。しかしそこに吉本は加えられていない。他に『中央公論』、『文藝』、『すばる』、『群像』が追悼号を出し、吉本はやっと『海』に執筆がまわってきてあの文章を書いた。

〇ぼくはここで何を言おうとしているのか。そうだ、当時の編集者の面々に吉本は忌避されていたということである。「文壇の村」が大手をふっていたということだ。嵐山光三郎の弁を借りると『「小林秀雄を追悼することが一流の文学者の証拠」といった様相を呈した。「小林秀雄を語る」ことはそう簡単にできることではなく、追悼号の編集者の頭には「二流三流のボンクラ筆者には小林秀雄を追悼する資格はない」という意識があったろう』(「追悼の達人」)ということにでもなるか。吉本はそういう風潮によく耐えて、独力で世界に通じる吉本思想をつくりあげていったのであったということを言いたかったのだ。そして「先生」という呼び名の似合わない吉本追悼特集はマイナーな多くの雑誌で組まれるであろう。これもそのひとつだが、幸い内容の濃いものになった。執筆をこころよく引受けてくれた方々には心からお礼を申し述べたい。

〇それから今号から崎山恒新氏が「沖縄地方文学」を連載することになった。新聞に連載されていたとき関心をひいたものであった。今後関心をひく雑誌つくりを試みたいと思っている。



 以上だが、少々ムキになっているきらいがないでもない。しかし、これも「感じたままのことよ」と無視しようと思った。追悼文とは、おそらく感情が鳴っている状態で書かれるものだと思う。だから、その人となりが明確にあらわれるのであろう。そう思わないわけにはいかない。

それから関心をひく雑誌づくりをしていきたい、これも今年になって、つまり吉本の死をもって感じたことであった。

2012-03-20 再び、追悼

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吉本隆明の詩


 「あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ」という詩句ではじまる「ちひさな群れへの挨拶」を吉本隆明が発表したのは1958年である。作品はその前年に書かれたのであったが収載した『転位のための十篇』が私家版として発行されたがその年であった。

 吉本が29歳のときで、東洋インキ製造青戸工場労組の組合長をしていたころである。


あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ                        

冬は背中からぼくをこごえさせるから                           

冬の真むこうへでてゆくために                              

ぼくはちいさな微温をたちきる                              

をはりのない鎖 そのなかのひとつひとつの貌をわすれる                  

ぼくが街路へほうりだされたために                            

地球の脳髄は弛緩してしまふ                               

ぼくの苦しみぬいたことを繁殖させないために                       

 それにしても、この決意は暗い。暗いが、そこには強堅さや、ある種のあたたかさを感じさせる。29歳にそのような決意をしたときから、吉本は少しもぶれないで生きてきたなということを今さらながら、感じさせるのである。

 流れに沿うのではなく、流れに疑いを持ち、ひとりで立っていくという姿勢である。その人にも死はやってきた。だから、次の詩句が、さらに輝きを増していくのだ。


ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる                          

ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる                          

ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる                        

もたれあふことをきらつた反抗がたふれる                         

ぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を                           

湿つた忍従の穴へ埋めるにきまつてゐる                          

ぼくがたふれたら収奪者は勢ひをもりかへす

だから ちひさなやさしい群よ                              

みんなのひとつひとつの貌よ                               

さやうなら                                      

 

 嗚呼、吉本さん。しかし、ぼくは「さようなら」とは言わない。