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女。MGの日記。

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2010-08-12 露出リテラシー このエントリーを含むブックマーク

「露出狂」という言葉を聞いてみなさんがイメージするのはどんな人だろうか?

若い女性に自分の裸体を晒すのを趣味としているオヤジだろうか?それとも?

多くの人は、おそらく露出狂というと、ビョーキで、変態、そういったマイナスのイメージを持つだろう。

もし、あなたにも、露出狂と同じような精神性が実はあって、今の社会は、あの冒頭の露出狂のオヤジとは違っても、みんな似たような露出狂になりつつあるのではないかしら?という問いを投げかけられたらどのように感じるだろうか?


さて、露出とは、見せることである。見せる人がいるということは見る人がいるというのは言わずもがな。「見ること、見られること」というのは哲学のテーマになったり、安部公房のような文学者にも取上げらるテーマだったりする。「見ること、見られること」というのは実に人間というものを掘り下げるにあたり興味深い切り口だったりするのである。

そこでだ。

2010年以降、「見る、見られる」という切り口でこの社会を分析するとするとどういう面白い現象を描き出せるだろうか?そんなことを今日は書いてみたいと思う。

私は2010年以降のソーシャルメディアのブレイクにより、露出社会が本格的に出現しつつあるのではないか?と考えるようになった。

以前より、インターネットの普及によって、個人1人1人が、メディアをもてるようになるというのは多くの識者に語られてきたことである。しかしそれが実際に個人のアクションレベルで実感され始めたのは、2010年からではないか?

ブログなんてものがあっても実際にブログを開設する人は一部だったし、さらに継続的にブログを更新するなんてことは、普通の人からすると神業だったりする。しかし、2010年のツイッターのブレイクにより(なんと日本でアカウント所持者が1000万人を越えたらしい。)毎日自分の現状や、好きなこと、むかつくこと、意見、ぼやき、なんでも発信できるようになった。


本当に個人が社会にある程度のインパクトを与えることが出来るメディアをもつようになったのである。それも、非常に興味深いのがツイッターではブログと異なり、自分のことを結構の割合で取上げる発信が多いのである。私なんかもそうである。「今起きたなう」「今名古屋なう」なんてことも発信してしまうのだから。

この状況を、私はある既視感をもってして観察していた。


「これは、電波少年のなすび、猿岩石や、あいのりの主人公たち、田舎に通うTOKIOのメンバーではないか!」


彼ら、彼女らと同じような状態を一般の人々も体験することになったのだ。


つまり、私たちは、すでに「おはよ〜」「今日は、名古屋にきたなう」なんてことをフォロワーにつぶやいている時点で、ツイッターのフォロワー圏内で、自分を主人公とした自分プロデュース番組のプロデューサー兼主人公になっているのだ。


今後、個人メディアが当然のインフラとし社会が変化していくとすると、それは必ず露出社会になっていくはずである。しかし、これは冒頭の露出狂のようなマイナスのイメージで語られるものではないと思う。私はむしろ肯定的に評価したい。見られることにも2つの観点がある。自分の知らないところで、見られていること、これは監視である。しかし、自分が見せたいものを見せること、これは露出であり、その露出を見られることはたとえそれを見ている人が誰かわからないとしても監視ではないのではないか?前者に主体的な選択はないが、後者には主体的な選択がある。

したがって私は露出社会を今のところ肯定的に観察していきたいと思う。今後私たちは2つの世界に生きることになるだろう。1つは個人メディアによって構築された露出社会。もう1つはアンプラグドされた、あらゆるメディアから切断された今までの社会。

今のところこの2つの世界の中で、アンプラグド状態の社会が主流派である。しかし今後は露出社会こそが主流になる可能性もある。


そこで問われるのが、自分をどうプロデュースするか、そのための露出リテラシーなのである。

露出社会の可能性を享受したい人にとって、ITリテラシーとは一線を画す露出リテラシー、今後必須のリテラシーになっていくだろう。