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女。MGの日記。

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2011-07-13

[]情報発信力による機会格差の拡大 情報発信力による機会格差の拡大を含むブックマーク


企業における「正社員」「非正規社員」の給与格差について議論されていたことがあったが、今新しい格差が広がろうとしているのではないかと思えてくる。それは、情報社会において、情報発信を積極的にやっていける人とそうでない人との格差だ。

先日、「露出社会」について取り上げられているよという話をMGコミュのメンバーからきいて、公文俊平さんの「情報社会のいま」を読んだのだ。

アルビントフラーや梅棹忠夫などにより、語られてきた情報化社会について公文さんが今改めてて語った意味には、情報社会の肝となる知の「流通インフラ=(ソーシャルメディア)」と「人=(智民)」が出現しつつあるのではないか?という提言と希望があるのだろう。公文さんは近代化を大きく3つのフェーズに分けている。「軍事化」「産業化」「情報化」である。そしてそのぞれぞれにおいてメインプレイヤーが異なるという。情報化段階でのメインプレイヤーは、産業化段階での産業企業ではなく、情報智業であり、それを支える「智民」であると。


智民とは、具体的に言うと、個人で情報発信を行い、他の情報発信している個人と連携していけるような存在のことを言う。私の言葉で言うと、露出社会に対応している主語のある個人ということになる。


しかし、智民なんて一体全体どれくらいいるのだろうか?と思ってしまう。

むろん、情報社会で中心的に活躍できる個人が「智民」になるということに異論はないのだけれど、今の日本の状況で「智民」になるための教育や機会がどれだけ与えられているのか?ほとんどない、そう言わざるをない。日本の教育はインプット型集中で、アウトプットの練習はほとんど行われていない。プレゼンテーションをしたり、演説の練習をしたり、ブログを書く練習をしたり、人と建設的な議論をする練習などを行った記憶が私にはない。


しかし、情報社会が普通の「社会」になっていくこれからはそういうアウトプットこそが重要になってくる。



たとえば、露出社会に対応して情報発信を仲間への貢献だと思い積極的に行っているAと、露出社会の出現に気づかずに情報発信を行っていないBがいるとする。


Aは、大学での学びや、仕事で学んだことなどを表現することで、人々からの「評判」を日々積み重ねていくことができる。一方Bは、Aと同じ大学で学び、仕事をしていても「評判」を客観的にウェブデータとして可視化する機会に恵まれない。つまり、露出社会では、存在していないことになってしまう。

むろん、わたしはここで、Aが優れていてBが劣っていると言いたいわけではない。デジタルデータとして表現活動に参加するかしないかということが将来的に大きな機会損失になる可能性もあるのではないかという問題提起をしたいのだ。


たしかに、露出社会に対応して、積極的に情報発信することは自分の発言に責任を持たなければならないので、大変だ。大きなウェブ海原に、自分を放り込む感じがして最初は恐怖かもしれない。でも、一度始めて見ると、デメリットよりメリットの方が大きいことに気づく。自分のことをより多くの人に知ってもらえるようになる。そのことにより、いろんな機会が広がっていくのだ。


問題は、このようなことをわかったうえで、表現活動を行っていないのか、それともこのようなことをまったく知らないで表現活動を行っていないのか、その違いだ。


もし前者であるならば、それは個人の自由であるのだからまったくもって問題がない。でも今多くの人は後者の状態にあるのではないか?


そうであるとしたならば、知らぬ間に情報発信格差はどんどん広がっているじゃないだろうか?


公文さんが言う智民は今のところ少数であり、現段階での情報社会のいまは、情報発信の有無による格差を生んでいる状況と言える。その格差ってなんだろうか?それは、機会の格差とも言える。今後、情報発信の敷居を技術的に下げていく、あるいは情報発信教育を行う必要がある。


産業社会のメインプレイヤーの産業企業が衰退している中、いつ企業が潰れるかわからないとき、自分でセーフティネットをつくっていく活動に興味を持ち出す個人は増えていると思う。露出社会に対応すること、これは1つのセーフティネットだ。自分のことを表現することはセーフティネットになる。自分を表現すること、それは人と繋がることなのだから。


みなさんはどう思われますか?ここで議論しましょう。