中島敦「弟子」

 孔子のような人間を、子路は見たことがなかった。優秀さが目立たないほど均衡の取れた豊かさが、平凡に、しかし伸び伸びと発達している。一方孔子は、この弟子の馴らし難さに驚いている。形式主義への本能的忌避と実践精神の逞しさは舌を巻くほどで、自ら好む部分のみを補強しようとする気概は数年経ても変らない。終いには孔子もさじを投げた。これはこれで一匹の見事な牛に違いはない――。

李陵・山月記・弟子・名人伝 (角川文庫)

李陵・山月記・弟子・名人伝 (角川文庫)

 実直な部分を残したまま成長し「大きな子ども」といわれる愛すべきキャラクター・子路が主人公です。孔子には(良い意味で)一般の理解を超えた部分がありますが、子路の言動はいつまでも微笑ましく、しかし、本気になったときの活躍は凄まじく、そんな彼に声援を与え、強く共感を覚える部分がありました。たとえば、私が読書体験により得ようとするものは、子路と完全に同じものなので・・・。

 難を逃れんがために節を変ずるような、俺は、そんな人間じゃない。

中島敦全集〈3〉 (ちくま文庫)

中島敦全集〈3〉 (ちくま文庫)

大江健三郎「アトミック・エイジの守護神」

 原爆孤児となった10人の少年たちを養子として育て、新聞に「アトミック・エイジの守護神」と書かれた中年男。だが、彼は少年たちに巨額の保険金をかけていたことが判明し、その記事を書いた記者はとても不愉快そうだった。実際、白血病で1人死に、2人死に、あと何人残っているのか、そしていくら儲けたのか分りゃしない!

 ユーモラスな講演会をあいだに挟み、昔の理想が跳ね返ってきた現在の現実を、においや見た目といったイメージ上に描きます。とんでもない太陽を生んだことに気づいた守護神は、まぶしさから逃げるために孤独を選び、アラブ式健康法(なんじゃそりゃ)で身を固めようとするのでした。
 中年男の「どうせなら利益(地位・名声ふくむ)を得たいボランティア」という姿は、「社会企業家」を思わせ、とても現代的なものだと思います。主人公は涙する中年男を非情に攻め続けることが出来ませんが、その優しさ(甘さともいう)もまた、「様々な価値観に注目しなくちゃいけない」と感じては自分の直感を信じなくなり、メディアのアイコンに従順になる現代人の姿ではないかと思います。

 「まさか!あいつが悲しむことなんかないですよ」と記者は憤然と反発した。しかし霊柩車の脇のひとりぼっちのその男の表情にはぼくの感情のやわらかい部分を鋭く刺すところのものがあったのだ。(略) この日は原爆記念日だったが、すくなくともぼくは、この盛夏の広島の真昼の陽の光のなかで、あのように茫然として立っている男を、ほかに誰ひとり見かけなかった。

井伏鱒二「朽助のいる谷間」

 谷本朽助(七七歳)の孫のタエトという娘から手紙が来た。「この谷底にダムが出来ることになり、私どもの家は立ち退かなければならなくなりました。けれども、祖父・朽助は反対なのでございます。弁護士でおられるあなたならば(中略)祖父を説き伏せて下さい(後略)」。私はしばらくの間、朽助とタエトが住む家に寝泊りして朽助の説得を試みるが・・・。

山椒魚 (新潮文庫)

山椒魚 (新潮文庫)

 過去のいきさつを「水に流す」という言葉がありますが、それは先の方に新たな道が見えている場合に限られるものだと思います。朽助には、その道が全く見えません。なので、ダム建設→住み家の破壊が、この世の終わりだと感じます。少女タエトは未来を持つ存在であるため、道が見えており、それを朽助に示そうとして、とても熱心に行動します。主人公である「私」は動物的行動をとりそうになりますが、タエトの純粋さがそれを恥かしいものとして認識させます。このタエトの言動には、100%の好ましさを感じずにはいられません。思いやりの気持ちと優しさがこもった、雰囲気のある谷底が描かれています。

 「おそいから、うちへ帰ろう!」
 「なんぼうにも私らは、ここの家の方が好きだります。何処へ寝起きしようとも、私らは私らの勝手ですがな」
 「バッド・ボーイは止せ。早く帰ろう!」
 「いっそ私らは、今日は新しき闘争とかたらをしているのでがす。心配しなさるなというたら」