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アガペーとインマヌエル ※更新をtwitterでお知らせしています。                          Iwao Hayashi  @pastorerrante

2018-12-18 [誤読ノート]454 「政治とキリスト教の距離の伸縮」  「入門講義

[]454 「政治とキリスト教距離の伸縮」  「入門講義 キリスト教と政治」(田上雅徳、慶應義塾大学出版会2015年08:32

 聖書に現われる「共同性」と「終末意識」は、既存の政治への批判となる。「共同性」は「一人支配」を、「終末意識」は現政権の絶対化を批判する(p.2)。イエスは「『政治的なるもの』の本質それ自体を相対化している」(p.28)。

 けれども、距離によって、キリスト教は政治を批判もすれば、正当化や迎合もしてしまう。

 たとえば、エウセビウスにおいては、「宇宙における唯一の神を奉じることが、世界におけるただ一人の王に人びとが従うべきことの理由となる」(p.48)。距離が近すぎる。いや、くっついている。

 けれども、アウグスティヌスは違う。彼によれば、神が人間に支配するようにと託した対象は動植物だけであるから、人間は他の人間を支配してはならない。「正義の完全な達成がない以上、およそ人間が作り上げる政治共同体というものは『大きな強盗団』ということになろう」「アウグスティヌスは、道徳性の衣装を政治共同体から剥ぎ取った」(p.71)。

 しかし、アウグスティヌスが伸ばしたキリスト教と政治との距離を、今度はトマスが縮める。トマスは「恩寵は自然を排除しないで、これを完成する」という命題によって、支配者や支配体制(も自然に属する・・・)も神によって創造されたよいもの、という思想を促してしまう。つまり、アウグスティヌスにおいては、神の善の前で、政治を含む人間のなすことの悪が明らかにされたが、トマスにおいては、政治もまた神によって「良し」とされていることになる。

 アウグスティヌスによれば、「人が人を支配するという事態はエゴイズムに由来しており、その根底には人間の罪があった」(p.126)が、トマスは「奴隷制的な支配服従関係はともかく、政治的なそれの中に肯定的な性格を認めていこうとする」(p.127)と著者は論じる。

 このような距離の伸び縮みは、歴史において、形を変えて繰り返される。ルター、カルヴァン、経験主義、バルト、ポストバルト、ピューリタリズム、ニーバーアメリカ福音派の展開におけるそれも、本書では、単純に図式化されることなく、個々の事例に即して丁寧に論じられている。

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2018-12-10 [誤読ノート]453 「死を死ねなかった死者に生かされる」   「原

[]453 「死を死ねなかった死者に生かされる」   「原民喜 詩と愛と孤独の肖像」(梯久美子岩波新書2018年11:32

 原民喜には「夏の花」という小説がある。原子爆弾が投下された広島を書いたものだ。本書は、その原の、梯による評伝だ。

 「原は自分を、死者たちによって生かされている人間だと考えていた」(p.14)。

 死者とは誰か。

 「愛する死者をいわば“聖別”することを生涯を通じて行ったのが原という作家である、それは、父と姉、のちには妻という、かけがえのない愛情の対象を」(p.71)。

 原爆で殺された人びとはどうだったのか。「死にゆく妻を、原は傍らで見守ることができたのだ。/だが広島の死者たちはそうではなかった」(p.185)と評者は書いている。原自身も「このやうに慌しい無造作な死が『死』と云えるだろうか」(同)と記している。

 広島の死は死とも言えないほどの死、死の死だったのだ。

 しかし、原は「鎮魂歌」の中で言っている。

 「僕にはある。僕にはある。僕にはまだ嘆きがあるのだ。僕にはある。僕にはある一つの嘆きがある。僕にはある。僕にはある。僕には無数の嘆きがある。/一つの嘆きは無数の嘆きと結びつく。無数の嘆きは一つの嘆きと鳴りひびく」(p.230)。

 家族の死者は広島の死者と結びつき、一つの嘆きとなった。

 ぼくは3・11以降、若松英輔に促されて、死者を想うようになった。この本には彼の名前は出てこない。けれども、若松とともに井上洋治神父門下にあった遠藤周作は、原民喜の若い友人であった。遠藤宛の原の遺書は留学先のフランスにまで郵送された。

 これはたんに慶應義塾三田文学つながりだけではなかろう。原も井上も遠藤も死者だ。けれども、彼らはたしかにぼくらを生かしている。死を死ぬこともできなった、何億もの死者とともに。

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2018-11-28 [誤読ノート]452 「リアル、のち、少しだけ、手の届きそうな奇跡」

[]452 「リアル、のち、少しだけ、手の届きそうな奇跡」 「どんまい」(重松清講談社2018年14:59

 重松清の小説は、どこか、あたたかい。救いがある。しかし、空想小説ではない。現実の厳しさを作家はかなり知っている。それをリアルに描いている。けれども、それだけではない。やさしさがある。

 離婚、親の離婚、単身赴任、親の介護、スポーツの挫折、家族の死、街の壊滅。11連続四球。奇跡は起こらない。ファンタジーではない。まるで、読者の人生そのものだ。これらの舞台のどこに希望があるのか。

 作家は、死者と子どもを動かし語らせる名手だ。舞台となる草野球チーム「ちぐさ台カープ」のひょうひょうとした老監督は、広島原爆で家族を失くした。あたたかだが、不思議な人だ。彼自身死者に近いのかもしれない。

 離婚したばかりの洋子四十才の娘香織中学二年生は良くしゃべる。しかも鋭くしゃべる。重松作品に出てくる子どもたちは、読者が同じ年齢だったころより、ものごとをずっとよく見たり、分析したり、それを言葉にしたりする。

 死者と子どもたちを案内人に、カープが起こす奇跡。いや、奇跡は起こらなかった。起死回生の大逆転劇は野球の試合にも、人生にも起こらない。

 ただ、彼らにはチームの仲間がいた。そんなに熱くもない。べたべたでもない。でも、解散となると涙が出るような仲間。いまどき、チームなんてものがあるだろうか。仲間がいるだろうか。そんな草野球チームがある。それこそが、奇跡であり、ファンタジーだ。

 でも、それだったら、もしかしたら手が届くかもしれない。見てないだけで、じつは、そこにあるかも知れない。だから、絵空事ではなく、希望なのだ。死者と子どもたちがそれを教えてくれる。

 聖書を読むと、イエスは「神の国が近づいた。しっかりそれを見なさい」と言う。神などいるものだろうか。けれども、やはり、見てないだけで、そこにいるかも知れない。やさしい友がいると、そう思う。

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2018-11-19 [誤読ノート]451 「悲と無、内村による福音」  「内村鑑三 悲し

[]451 「悲と無、内村による福音」  「内村鑑三 悲しみの使徒」(若松英輔岩波新書2018年14:18

 悲しみとはなんだろうか。慈悲という言葉があるように、悲しみには慈しみという意味がある。悲母とは、愛に満ちた母のことだ。悲しみと慈しみというふたつの意味があるのではない。人への慈しみがなければ、その人とのかかわりの中で悲しみは生じない。その人の悲しみを感じなければ、慈しみは湧き出て来ない。

 「生者が死者を悼むのではなく、死者が生者を悼み続け、そのはたらきによって生者が支えられている。死者の悼むちからが、生者を支えている。それが内村の実感だった」(p.155)。

 死者が生者を悲しむ。しかし、その悲しみが生者を慈しみ養ってくれるのだ。

 「彼にとって死者の経験は、祈りの挫折の経験であり、また、その深化の出来事でもあった。愛する者にふたたび健やかなる日を、という祈りは聞き入れられることはなかった。しかし、愛する者よ、永遠なれ、という真なる祈りは、自分が感じているよりもずっとたしかに実現されている、と内村は感じている」(p.156)。

 この者を癒してください、救ってくださいとせつに祈ったが、内村の妻は死んだ。神は祈りを聞いてくれなかった。なんと大きな悲しみか。祈りは挫折した。しかし、妻が永遠のいのちにあることを思うとき、それは、なんと大きな慈しみか。祈りは深められた。神とのつながり、妻とのつながりが深化した。

 「内村にとって霊性の深化は、苦痛の経験を経ることによって実現される。キリスト者であろうとすることは、可能な限りキリストの苦しみを感じ、生きてみることだと内村は信じている。再臨運動とは、神が苦しみつつあることへの目覚めを強く促す動きだったといってもよい」(p.169)。「内村にとってキリストの道を生きるとは、他者の痛みを『私』の痛みとして感じようと試みることでもあった」(p.170)。

「苦痛」が「慈しみ」と重なりあうとき、「悲しみ」となる。著者が内村を「悲しみの使徒」と呼んだゆえんだ。

 「再臨」とは何だろうか。

 「福音を信じ得ない者にまでも、贖いの恩寵が光のごとく、万人にあまねくそそがれるとき、それが内村にとっての再臨の日だった・・・再臨のとき、人と神はすでに道によって隔たれてはいない。そこに宗教が入る余地はない。宗教がその使命を終え、消えゆくこと、その実現こそ、内村が自ら使命と信じたことだったのである」(p.180)。

 「万人にあまねくそそがれる恩寵の光」こそが「悲しみ」である。それに満ちた世界には、もはや宗教はない。人が神を隔てるものはない。

 「無教会」とはこの展望のことではなかろうか。「英語でいうnon-churchというよりも、既存の教会のあり方を超えて、beyond-churchと理解した方がよいように思われる」(p.209)。

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2018-11-02 「政権を変えるには、人々を貧困から救うまじめな経済政策を」

[]450 「政権を変えるには、人々を貧困から救うまじめな経済政策を」 「終わらない『失われた20年』」(北田暁大、筑摩選書、2018年11:02

この本を読んでわかったこと。

1)若者が「保守」化して「維新」や「自民」を支持するなどと思ってきたが、若者にとっては、自分たちを経済的困窮に陥れる社会を変えてくれるような政策を示す両党などが革新であり、それを示せない野党保守と見なされている。

2)したがって、野党は、もっと経済を重視しなくてはならない。「与党経済のことだけ考えて、人を大切にしていない」などと威張っていてはだめで、野党こそが、ロストジェネレーションなど貧困にあえぐ人びとを救う経済政策提案しなければならない。それは、短期的なバラまきではなく、中期的な人的投資でなければならない。

3)「脱原発」と「脱成長」はセットではない。むしろ、「脱原発」は「経済成長」とセットでなければならない。(沖縄では米軍基地がなくなった方が経済が振興する地域的例がある、ことを思い出した)。

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2018-10-27 [誤読ノート]449 「キリストや聖書とのつながりで読めば、より深い

[]449 「キリスト聖書とのつながりで読めば、より深い味わい・・・」「銀の椅子 ナルニア国物語?」(C・S・ルイス著、土屋京子訳、光文社古典新訳文庫2017年09:20

 岩波書店瀬田貞二訳から五十年ぶりの新訳。ナルニア国物語全七巻中の第六巻。文体も挿絵も、あたらしいゆえの心地良さが、たしかにある。

 ナルニア国物語と言えばアスランアスランと言えばキリストの比喩、という解釈が定番だが、この本の解説者は、「アスランはなにか(例えばキリスト)を象徴するために創り出されたキャラクターではない」「アスランは、ルイスの中にむかしからあった『絵』であり、偉大で力強い百獣の王ライオンそのもの」(p.379)と言う。

 さらに、ルイスは「『神』という、描写しえないものを描写しよう」とする「方法がうまくいかないこと」(同)知っていた、と解説者はつづける。

 たしかに、そうであろう。しかし、もともとはライオンそのものとして描いたアスランを、ナルニア国物語においては、キリスト象徴にする魅力からルイスは逃れられない。ときに、そこから距離をとってもみせるが。

 「わたしがあなたがたを呼んだのでなければ、あなたがたがわたしを呼ぶことはなかっただろう」(p.41)という個所を読めば、聖書に親しんでいる読者は、ヨハネ福音書の「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」というイエス(・キリスト)の言葉を思い浮かべるだろう。

 他方、「あの、約束してもらえますか? わたしが近くへ行ってもなにもしない、って」と問う子どもに対し、アスランは「わたしは約束しない」(p.38)とつれなく思える態度をとる。聖書では、神の人間への「約束」はひじょうに大きなテーマであるにも関わらず。もっとも、アスランのここでの約束拒否には意図があるのであって、大きな流れでは、しっかり約束を果たすのだが。

 主人公の女の子は夢を見る。夢の中にアスランが訪れる。聖書においても、神はしばしば夢を通して人に語りかける。

 「子どもたちは小川の中をのぞきこんだ。そこには、金色の小石が敷きつめられた川底に息絶えたカスピアン王が横たわり、王の上をガラスのように澄んだ水が流れていた」(p.359)。けれども、聖書を知る読者は王は悲惨な結末を遂げたと失望することはないだろう。新約聖書巻末のヨハネによる黙示録には「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた」というように、神の世界が描かれているからだ。

 このように、ナルニア国物語は、キリスト聖書とのつながりで読めば、やはり、より深い味わいを楽しめるのだ。

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2018-10-21

[]448 「ことしのクリスマス最高の新作絵本」 「もうひとりのはかせ」(原作:ヘンリ・ヴァン・ダイク、文:中井俊己、絵:おむらまりこ、新教出版社2018年15:37

 新約聖書マタイによる福音書には、イエスユダヤベツレヘムで生まれたとき、東の方から占星術の学者たちがやってきて、黄金、乳香、没薬を贈った、という物語が載っている。キリスト教の学校や教会で、観たことや演じたことがある人もいるだろう。

 この学者たちは博士とも呼ばれ、贈り物の数から三人と推測されている。原作者は、生まれたばかりのイエスを訪ねようとした博士は、じつはもうひとりいた、ということにして、ペンを手に取った。

 その原作を、子ども向けに日本語で書き直し、原作にはない絵を、おむらまりこさんがあたらしく画いたのが、この絵本だ。

 ページで言えば三十数頁、見開きで数えれば十数枚の絵。これがじつにすばらしいのだ。

 挿絵ではなく、絵が物語そのもの。まさに絵本。

 まるで映画のような、見事な場面変化。

 夜があり、旅があり、愛がある。

 最後の三つの場面は圧巻。

 子どもたちは大好きになるだろう。大人たちは深く感動するだろう。

 小説の映画化とおなじように、原作の絵本化も創作であり、芸術であることを教えられた。

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2018-10-20 「聖書にも、味わい深い逆説の言葉が満ちあふれています」

[](105)「聖書にも、味わい深い逆説の言葉が満ちあふれています」 15:23

 急がば回れ、と言います。聞き慣れてしまっていますが、この言葉を初めて聞いたとき、強い印象を受けるのは、急ぐことと回り道をすることが正反対のことだからです。逃げるが勝ち、もそうです。ほんらい、逃げることと勝つことはまるでさかさまのことではないでしょうか。けれどもそれが組み合わされることで、聴き手の記憶に残り、再生も容易になります。

 これとはニュアンスが違いますが、わたしたちは、自分が苦しかったり辛かったりするときこそ、かえって、人のやさしさや愛情が身に染みる、と感じることがあります。これも、一種の逆説でしょう。

 第一志望の大学に落ちて第二志望に進学したことで、良い友達や先生と巡り会えたり、人生の新しい視野が開かれたというようなこともあるでしょう。逆説は物語を生みだします。わたしたちの言葉に表現力をあたえ、経験を味わい深いものにしてくれます。

 新約聖書によりますと、イエスは「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」とか「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」とか、わたしたちの常識をひっくり返したような、それでいて、印象深く、反復しやすい言葉を残しました。

 「心の貧しい人々」とはどういう人びとのことを指すのか、いろいろな解釈があります。「心の」は誰かがあとからつけ加えたのであり、イエスは「貧しい人々」としか言っていないのではないか、という説があります。「心の」がついてもつかなくても、「貧しい」と「幸い」は普通には結び付きません。

 けれども、キリスト教徒は、この言葉を、たとえば、「自分の考えや精神力は乏しく頼りにならないと憂う人とこそ、神は一緒にいて力になってくれる、そのことが幸い」というように理解するのです。あるいは、「嘆き悲しんでいる人をこそ、神は一緒にいて慰めてくれる」というように理解するのです。

 逆説の言葉の持つアピール力と真実。イエスもこのことを良く知り、それを神の救いを言い表すために、しばしば用いたのです。

マタイ5:3-4)

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2018-10-19

[]《使徒書の御言葉》その94 「わたしたちは誰にも束縛されませんが、キリストにはお仕えします」 08:43

コリントの信徒への手紙一3:21 ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。3:22 パウロアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、3:23 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。

コリントの教会では「私はパウロにつく」「私はアポロに」(1:12)という「争い」(1:11)がありました。けれども、パウロは「人間を誇ってはならない」つまり「誰が偉いなどと言ってはならない」、「一切はあなたがたのもの」つまり「あなたがたはこの誰にも束縛されることはない」と言います。「あなたがたはパウロからもアポロからも自由だ」と。けれども、「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」と付け加え、「しかし、あなたがたはキリスト、そして、神さまには仕える」と言います。わたしたちはどんな人間にも隷属することのない自由な者ですが、キリスト、そして、神さまにはお仕えするのです。そして、ほんらいは自由なのですが、キリストにお仕えするように、隣人に仕えることを祈り求めるのです。

今週の祈り「神さま、祈りをくださり、ありがとうございます。神さま、病床にある方々を癒し、孤独な方々を慰め、不安な方々を支えてください。神さま、み言葉を聞かせてください。み言葉を届けさせてください。この世界に、愛と喜びと平和と寛容と誠実を、さらに増し加えてください。神さま、わたしたちを信じる者へと創造してください。あなたへの信仰をさらに育ててください。さらにもうひとりを信仰へとお導きください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン

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2018-10-18 悲しんでいる人びとや、一緒に悲しんでいる人びとと、神さまは一緒に

[]20181021 マタイ5:1-12 「悲しんでいる人びとや、一緒に悲しんでいる人びとと、神さまは一緒にいてくださいます」 09:26

 イエスさまは、とても不思議なことを言っておられました。「悲しむ人々は、幸いである」。悲しんでいる人、悲しいことがあって泣いている人は、幸い、幸せである、という意味になりますが、泣いている人が幸せ、なんて、何か不思議ですよね。

 でも、これは、悲しんでいる人、泣いている人がいたら、神さまが一緒にいて、慰めてくださいますよ、という意味ではないかなと思います。悲しいとき、泣いているとき、普通の意味では、幸せではありませんが、神さまはそういう人がいれば、一緒にいてくださり、慰めてくださる、とイエスさまは教えてくださったのではないでしょうか。

 今日はイエスさまはたくさんのことを言われたのですが、もうひとつだけ考えてみますと、イエスさまは、「憐れみ深い人々は、幸いである」とも言われました。

 憐れみ深い人々とは、悲しんでいる人びとがいたら自分も悲しくなって、その人びとと一緒にいよう、という気持ちになる人々だと思います。

 神さまが悲しんでいる人びとと一緒にいて慰めてくださるように、悲しんでいる人びとがいたら、神さまと同じようにはできませんが、その人びとと一緒にいようという心を持っている人びと。憐れみ深い人々とはそういう人びとのことではないでしょうか。

 そのような人々も幸いと言われていますから、神さまはそのような憐れみ深い人々とも一緒にいてくださるのではないでしょうか。

 神さまは、悲しんでいる人びとと一緒にいてくださいます。そして、悲しんでいる人びとと一緒にいる人々とも一緒にいてくださるのです。

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