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アガペーとインマヌエル ※更新をtwitterでお知らせしています。                          Iwao Hayashi  @pastorerrante

2017-09-21 [誤読ノート]392 「侵略してしまった国々に謝罪をし、侵略している

[]392 「侵略してしまった国々に謝罪をし、侵略している国に抗議をする」  「知ってはいけない 隠された日本支配の構造」(矢部宏治著、講談社現代新書2017年13:09

 ぼくの読み方が正しければ、この本で著者が言わんとすることはこうだ。

 日本の政治は、日米合同委員会によって支配されている。日本の高級官僚と在日米国トップ軍人からなるこの委員会は、憲法三権よりも上に立つ。

 では、なぜ米軍が日本に駐留しているのか。それは、じつは、憲法9条に由来している。9条は、国連軍の駐留を前提として米国側によって書かれたものだと言う。憲法前文の「諸国民との協和」とか「平和を愛する諸国民」とか言うとき、この「諸国民」は「国連」を意味すると言う。

ところが、「連合国」(United Nations)の一員であるアメリカ合衆国は自らが「国連」(United Nations)のようにふるまった。そして、日本の非武装は米軍の駐留によって補完されることになった。すくなくとも米軍はそう考えている。また、前文の「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」は、米軍から見れば、国連連合国米国との信頼関係において日本の「安全」が保持されるということになり、それは、2015年安保法制によってほぼ仕上げられた。

 なぜ沖縄の人びとの抗議にも関わらず、米軍は居続け、新基地を造ろうとさえしているのか。なぜ米軍関係者が犯罪や事故を犯しても、日本の司法を妨げるのか。それは、日米合同委員会を頂点するシステムによって、日本は米軍に占領されているからだ。

 では、わたしたち日本人がしなければならないことは何か。国連軍のふりをして70年いすわっている米軍に撤退させることである。日本政府がしなければならないことだ。日本は主権国家なのだから。

 けれども、わたしたちにはもうひとつしなければならないことがある。大韓民国朝鮮民主主義人民共和国中華人民共和国中華民国など、大日本帝国下の日本軍が侵略し、奪い尽くし、殺し尽くした国々に、徹底的に根本的に謝罪をすることだ。何度でもそこに帰ってくることができるような、原点となる謝罪をすることだ。謝罪は、もう蒸し返してくれるな、というような類いのものではなく、むしろ、これからの平和な関係のために、何度でもそこに立ち帰ることができるような、普遍性のある言語的営みでなくてはならない。

 侵略してしまった国々に謝罪をし、侵略している国に抗議をする。主権国家の基本だ。

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2017-09-12 誤読ノート391 「東京出身の沖縄タイムス記者が、沖縄でなす日本政

[]391 「東京出身の沖縄タイムス記者が、沖縄でなす日本政府の暴力と人々の抵抗を誠実に伝えています」 13:19

「ルポ 沖縄 国家の暴力 現場記者が見た「高江165日」の真実」(阿部岳著、朝日新聞出版2017年

 

 テレビのニュースで、菅官房長官をはじめとする安倍内閣の面々が、まったく理屈の通らないことをどうどうと述べ、野党や記者の質問を無視したり斥けたりする場面に、憤りを感じる人は少なくないと思います。言葉や行動に、理も心もまったくないのです。

 沖縄で、防衛省沖縄県警裁判所海上保安庁、そして、ヤマトから派遣される機動隊や各県警がなしていること、つまり日本政府がなしていることも、まったく同じです。このルポを読んでも、彼らの言動に、理も心もまったくないことがまざまざと伝わってきます。

 しかし、沖縄では、人が拘束されたり、暴力を振るわれたりします。菅官房長官東京新聞の記者の質問を無視し、その記者を警察官数人が抱きかかえ、外に投げ出す場面を想像してみてください。あるいは、記者会見室などへの廊下や階段、あるいは、地下鉄の駅から、国会周辺に市民が赴く歩道が封鎖されていたりする事態を。ヤマトではなされないことが沖縄では日々なされています。

 沖縄北部の高江でのヘリパッド(ヘリコプターの離着陸場)強行建設現場で抗議する人びととその人びとを虐げる人びと。オスプレイ墜落現場の米軍の「治外法権」的横暴(著者は黄色いテープで遮断される前に現場に駆けつけていた!)。記者が見たことと考えたこと。

 「権力はもともと大きな声を持つ・・・・・反対に、市民は声も力も小さい。その拡声器になるのがメディアの役割だ。そうして初めて、力に差がある両者が対等に主張を戦わせることができる」(p.123)。この本でも著者は誠実に役割を果たしています。

 「東京でみかんが腐っている。そのかびが沖縄に飛んできて迷惑している」(p.138)。これは、沖縄出身沖縄在住の芥川賞作家にして新基地建設に黙々と抵抗し続ける目取真俊がある記者にぶつけた東京への怒りの言葉。

 「あまり知られていないことだが、知事翁長雄志と名護市長稲嶺進が反対を貫き、権限を行使し続ける限り、どこかで必ず工事は止まる。例えば大規模工事に付きものの設計変更ができない。海の埋め立てに必要な川の水路変更ができない。つまり、基地を完成させることはできない。いつか県民が諦め、翁長と稲嶺の2人を交代させてくれるだろうという希望的観測に基づき、すでに数千億円の巨費をつぎ込み、環境破壊を続けている」(p.202)。

 これは大きな希望です。けれども、翁長・稲嶺落としのためにも、ヤマトは巨費をつぎ込み、工作をし、世論を操作しようとし続けることでしょう。

 それを知っているから、たとえ少人数であっても、沖縄の人びとは、高江で、辺野古で、海上で、ゲート前で抗いつづけているのではないでしょうか。

 「問題はつねに、一人の人間の単独な姿にかかっている」(p.203)とは石原吉郎エッセーからの引用。

 東京にいるぼくの姿は、単独ですか。

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2017-09-11 負けないいのちの詩63    「主はこれらの悪を徐々に追い払われる

[]63   「主はこれらの悪を徐々に追い払われる」 09:56


支配者と民の悪がいかに大きくても

あなたはうろたえてはならない


それよりもはるかに大きく畏るべき神が

あなたのただ中におられるから


主はこれらの悪を徐々に追い払われる

あなたは悪を一気に滅ぼしてしまうことはできない

あなた自身が悪にならないためである


主は支配者を大混乱に陥れ、ついには滅亡に到らせる

あなたは彼らの名を天の下から滅ぼし尽くす


彼らの偶像は火に投じて焼きなさい

彼らの私欲と虚偽と暴力を焼き尽くしなさい


それらを覆う金や銀に目を奪われてはならない

それをあなたのものにしてはならない

あなたは罠に陥ってはならない


それらを徹底的に退けなさい

それらを燃やし尽くしなさい

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2017-09-08 聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(70)「神は慕わしくも厳

[](70)「神は慕わしくも厳しく、厳しくも慕わしいお方です」 15:16

 こんなやさしい人は他にはいないと思って一緒になったら、じつは、まったくやさしくない人だったということではなくても、じつは、きびしい面も持ち合わせている人だったということはないでしょうか。

 生徒や学生がとても伸び伸びしていると思って入学してみたら、じつは、かなり勉強するように仕向けられたり、部活もきつかったりりしたということはないでしょうか。

 人にも組織にもいくつかの顔があります。そして、それはかならずしも、表と裏というようなものではなく、どちらも真実の顔である場合もあるでしょう。

 聖書によりますと、イエスは、神は、畑を耕していたらたまたま掘り当てた宝、あるいは、良い真珠を探していた商人が見つけた最高の真珠のようなものだ、と言っています。そして、見つけた人は、全財産を売り払ってでも、それを買い求める、と言っています。

 偶然にしろ、探し求めた結果であるにしろ、神との出会いは、人生のなにものとも比べることのできない、決定的なもの、逃してはならないものだということでしょうか。神は、人間にとって、それほどに慕わしいものとして語られているように思います。

 けれども、この話に続いて、神の国とは、漁師が網にかかった良い魚と悪い魚をわけるようなものだとも言っています。悪い魚は捨てられるのです。悪人は燃え盛る炉の中に投げ込まれるとも言われています。厳しい話です。

 しかし、これは、良いことをした人は天国へ、悪いことをした人は地獄へ、というような単純なことではなくて、神は、わたしたちの中にある悪を抑え、善を導き出そうとしている、というようにも読めます。悪人をではなく、悪を世界から消し去ろうとしていると。わたしたちを善に導こうとしていると。

 たとえ、そう解釈したとしても、善に促され、善を求めて生きる道もまたきびしいことでしょう。

 あんなに慕わしかった神が、こんなに厳しかったと、と嘆く人もいるかもしれません。

 しかし、わたしたちは厳しさに促された方が、善を求めるというすばらしい道を歩めるとも考えられ、ならば、神の厳しさもまた、ありがたいものとならないでしょうか。

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2017-09-05 [誤読ノート]390 「新たな戦後に備えるために、いいね!を求めず、

[]390 「新たな戦後に備えるために、いいね!を求めず、言葉を鍛えよう」 13:20

「人間の居場所」(田原牧著、集英社新書2017年

 

 東京新聞記者、アラブ通、高校時代には三里塚闘争参加、ゴールデン街になじみの酒場がある、元赤軍の長期懲役囚との文通、海釣り好き、トランスジェンダー

 政治の文脈で虚偽やデマが横行する。ならば、「嘘を嘘と認識できる精神状態」(p.8)を保てる「空間を確保」(同)しなければならない、と田原さんは言います。

 そして、その空間で、「イデオロギーの衣装をまとった『徒党』ではなく、どう自立した関係性を築いていけるのか」(p.221)。戦争に向かう権力に抗う土台としてだけでなく、「新たな戦後が旧い戦後の繰り返し」(同)にならないためにも、これが問われていると。

 「LGBT」の支援に企業や自民党が乗り出してきている背景と危険性の指摘は鋭いと思いました。「理解と共生は全く別物だ。メディアや良識派は『理解の促進が大切』と説く」(p.91)。たとえば、トランスジェンダーは「性同一性障害」と言い換えられ、「理解」されてしまう。しかし、この理解は「多数派の言語」でなされるから、「同化」であり「少数者への自覚無き暴力にほかならない」(同)と。

 「理解するのではなく、分からないことを大切にする。性は闇。それでいい。そのうえで違いを対等に認め合う。それが共生の前提である」(p.92)。

 「健常者」の言う「共生」は、じつは、「障がい者」(と呼ばれる人びと)の囲い込みに過ぎない、というようなことをある友人が言っていたことを思い出しました。

 ところで、田原さんの好きな釣り場では「実社会の上下関係、ネットも含めた世間の評価、経済的な格差など、わたしたちが日常生活の中で無意識に拘束されているアイコンの大半が」「無効化されてしまう」(p.208)と言います。

 「ネット世界での『いいね!』(あるいは逆に意図的な『炎上』)集めの思考は」「商品化の定めを免れない」(p.215)。「差別扇動に対抗する『正義』の言動ですら、例外ではない。そうした言動が自己プロデュースと結びついていれば、なおさら言葉は陳腐化する。誰であろうと差別問題を語ろうとすれば、本来ならわが身の差別性に向き合わざるを得ない」(p.215)。

 現政権の虚偽やデマの一因は、まさに、「わが身の差別性」、自分の弱さ、自分の非に向き合っていないことにあるのではないでしょうか。

 陳腐でない言葉、嘘を嘘と認識した上での言葉を維持するには、いいね!を渇望せずに、強靭で誠実な批判の言葉に耐える精神の自立が必要だと教えられました。

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2017-09-01 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた](69) 「こいつが悪い、と

[](69)「こいつが悪い、と即断せずに、もっとじっくり考えてみよう」 12:59

 ある講演会のことです。講師は皆に聞いてもらおうと一所懸命に話していました。そして、ほとんどの人は、講師の方を向いて、熱心に聞き入っていました。ところが、その中にひとり、話しも聞かずに、じっと下を見て、手をまったく止めることなくひたすら文字を書きつけている人がいました。講師は、こちらはこんなに気持ちを込めて話しをしているのに、この人はどうだ、心ここにあらず、人の話をちっとも聞かず、何やら自分の仕事のことでメモでもしているに違いない、あとで注意してやろう、と腹を立てたそうです。

 そして、講演のあと、ロビーで歓談の時がもたれました。講師を囲んで、何人かの人が集まっています。そこに、先ほどの講演中に下ばかり見ていた人もやってきました。質問がある、と言います。講師は「なんだ、人の話も聞かないで、自分の仕事のメモばかりしていたくせに」と言おうとしましたが、ふとその人が手に持っている紙を見ると、さきほどの自分の講演内容と質問がぎっしりと書かれていたのです。講師は、ああ、早合点して、その人を裁かなくて良かった、と冷や汗をかきながら、胸をなでおろしたそうです。

 わたしたちは、自分の思いや、自分の得たわずかばかりの情報で、人を判断してしまうことがあります。家族や仕事仲間、友人に対しても、勘違いをすることや、ひどい場合は、先入観を持つこともあります。それはこの人が悪い、と決めつけることがあります。あるいは、自分の意見が正しく、相手の考えは間違っている、と即座に切り捨てることがあります。

 社会に目を向けますと、わたしたちには、外国人は怪しい、悪いことをしているのではないか、精神疾患を持っている人は怖いのではないか、といった偏見があります。

 けれども、わたしたち人間は他の人間に対して早急な判断をくだすことができるのでしょうか。それは、じつは、判断ではなく、無知や無知が生み出す不安や恐れなどによる決めつけです。

 それは、考えているのではありません。けれども、本当は、わたしたちは考えなくてはならないのです。そして、考えるのには時間がかかります。時間をかけて考えつづけなければならないのです。

 聖書によりますと、イエスはこんなたとえ話をしました。ある農園の主人が良い麦の種を蒔きます。ところが、夜中に、悪党がやってきて、悪い麦の種も蒔いてしまいます。畑には、良い麦と悪い麦が混在し、しもべたちは、悪い麦を抜きましょうか、と言いますが、主人は、そのままにしておけ、良い麦も抜いてしまうかもしれないから、と言います。

 わたしたちも、先入観や偏見、十分な考えなしの拙速な決定で、人を良いとか悪いとか判断していないでしょうか。ことに、悪いと決めつけ、葬り去ろうとしていないでしょうか。

 時間をかけて考えれば、わたしたちは、人をひどいめに遭わせてしまったり、捨ててしまったりしなくてもすむかもしれないのです。

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2017-08-29 [誤読ノート]389 「哲学と宗教の意外な共通点。目に見えないもの=

[]389 「哲学宗教の意外な共通点。目に見えないもの=精神、存在が存在することの奇跡」 16:25

「14歳からの哲学 考えるための教科書」(池田晶子著、トランスビュー、2003年)

 

 カタカナや漢字の哲学者名、その人びとの用語、唱えたこと。この本にはそんなものは出てきません。そうではなく、池田さんが各テーマについて考える、その道筋、あるいは、地面が掘り下げられる様子が、ご本人によって、実況中継されているのです。

 哲学とは考えた結論ではなく、考えることそのものです。けれども、それは、考えるプロセスが大事で、結果は人それぞれ、ということではありません。それでは、考えたのではなく、感じたり思ったりしただけなのです。考えるとは、普遍的な正しさを追求することです。自分の利益や思いつきではありません。その意味で、考えること、哲学は、「言葉」すなわち「精神」と密接に関連しています。

 では、「精神」とはなんでしょうか。わたしたちは美しい人や花を見ることはできますが、「美しい」という意味そのものを観ることはできません。誰を、どの花を美しいと思うかは、人それぞれですが、目に見えない「美しい」という言葉の意味は共有しています。何を「正しい」と思うかは人それぞれですが「正しさ」という言葉の意味、「正しさそのもの」はすべての人に共通しているはずです。「精神」はこのような目に見えない言葉の意味に関わると考えられます。

 さらに、「美しい」とか「正しい」とかいう言葉の意味はわたしたちが決めたのではありません。つまり、「言葉(の意味)」はわたしたちの「外」にあります。意味、言葉、精神と言った目に見えない現実が存在するのです。

 ところで、わたしたち人間は「脳」なのでしょうか。そうだとすれば、自分は「脳」だとわかるわたしたちは「脳」なのでしょうか。それとも、「脳」の外に存在するのでしょうか。それを「精神」と呼ぶのでしょうか。

 では、精神はわたしひとりのものでしょうか。それとも共有されるものなのでしょうか。たとえば、偉大な芸術作品に感動できるのは、芸術家が感じ表現しようとした(あるいは、芸術家に降臨した)自分を超えた大きな存在を、鑑賞者も感じているからだとすれば、ここには、精神の共有があると言えるのではないでしょうか。

 「原始人も科学者テロリストも、同じ精神としての自分なんだ。歴史とは精神の歴史だ。人が自分を精神であると、はっきりと自覚するとき、そこには「内」と「外」もない壮大な眺めが開けることになるんだ」(p.150)。

 ここまで、来ると、宗教まであと一歩です。「この自分、あるいは宇宙が森羅万象が存在しているのはなぜなのかと、人は問い始めるだろう。この「なぜ」、この「謎」の答えに当たるものこそを、あえて呼ぶなら、「神」の名で呼ぶべきなのではないだろうかと」「御釈迦様やキリスト、いにしえの開祖たちは、みな、この謎の姿を見た人たちだ。決して答えを見出したわけじゃない」(p.177)。

 「存在が存在するということは、これ自体が驚くべき奇跡なんだ」「自分が、存在する。これは奇跡だ。人生が、存在する。これも奇跡だ」(p.183)。

 存在を存在させる、という奇跡を起こすもの、これこそが、精神であり、この精神は、目には見えないけれども、わたしたちの内にもあり、外にもある、と池田さんは考えたのではないでしょうか。

 これは、キリスト教聖霊に近い、とも感じます。

 「宇宙は存在する、存在しないのではなくて存在する、じゃあどうして自分が存在しなくなるなんてことがあるだろうか。何のことを自分だと思い込んでいたのだろう・・・この不思議の感覚、奇跡だという感情は、おそらく、敬虔な信仰をもつ人が神様に捧げる祈りに似ている。自分を超えた存在や力に、自分の心において出会うんだ」(p.184)。

 存在は存在し続ける。存在しなくなることはない。わたしたちは死ぬことはあっても、死=非存在は存在しないのだ。イエスの復活に近い、とも感じます。


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2017-08-28 [負けないいのちの詩]62   「主は悪を滅ぼされる、恐れるな」

[]62   「主は悪を滅ぼされる、恐れるな」 09:50

彼らがなす悪に

ことごとく抗え

ことごとく滅ぼせ

見逃してはならない

見過ごしてはならない


彼らの神に仕えてはならない

金と腕力と錬金術にひれ伏してはならない

それらはあなたたちを陥れる罠だ


悪の数は多大で

悪の力は強力で

悪には打ち克てない

などと考えてはならない


悪を恐れるな

エジプトで主がなさったことを

思い起こしなさい

力ある御手

伸ばされた御腕を

思い起こしなさい


悪を前にしたあなたにも

主は同じことをなされる

主は悪を滅ぼされる

恐れるな

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2017-08-26 誤読ノート388 「神が人を無償で救うのは、敵意の壁を打ち砕き、平

[]388 「神が人を無償で救うのは、敵意の壁を打ち砕き、平和を築くため」 09:49

「神の秘められた計画 福音の再考―途上の省察と証言」(後藤敏夫著、いのちのことば社2017年

 タイトルに「神の秘められた計画」とあっても、これは超常現象のことではありません。人と人との間にある防御壁がなくなり、出会い、理解しあい、相互の違いは違いのままに、けれども、ともに歩む、ということです。もっとも、わたしたちの身の回りの個人間の葛藤や、国と国との緊張、権力を持つ者らの暴力行使を見れば、このような計画の現実化は、超常現象にしか思えないかもしれませんが。

 では、「福音の再考」とはどういうことでしょうか。わたしたちは罪びとである(つまり、神や他者ではなく、つねに自分を中心に置く・・・)にもかかわらず、神はわたしたちのその罪を条件なしに赦してくださった、わたしたちは無償で救われた。このような福音理解を、著者は本書で考え直しているのです。

 そして、神がわたしたちを救ってくださる目的は、上述の「秘められた計画」にあると言うのです。

エフェソ3:3 初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました・・・3:5 この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。

3:6 すなわち、異邦人が福音によってキリストイエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。

 異邦人が「わたしたち」(ユダヤ人)と一緒に、神の救いの約束を相続することが「秘められた計画」であり、エフェソの2章の「平和」「敵意という隔ての壁を取り壊し」といった言葉もここにつながる、と著者は考えています。

 神の救いの目的は「敵意という隔ての壁を取り壊し」「わたしたち両方の者が一つの霊に結ばれ」(エフェソ2:18)ることにあると言うのです。

 その際、聖霊の働きの理解も再考されます。聖霊個人への働きかけ以上に、「敵意という隔ての壁」の両側にいる「わたしたち両方の者が一つに結ばれる」ために働かれるのです。

 本書が訴えるさらに大事なことは、こうした理解が文字や書物議論にとどまらず、今生きて働いている聖霊神の国を生き生きと経験することです。かつて井上良雄先生がブルームハルト父子において見出したそれのように。

 わたしたちは、いままさに「敵意という隔ての壁」に囲まれて/で自分を守って生きています。異とされる者、暴力に抗う者に激しい敵意が向けられています。

 けれども、わたしたちは、この敵意の壁が壊された平和を築くために、神に罪を赦され、救われているのです。神はいま聖霊の力によって、敵意の壁を砕き、シャロームを満たそうとしておられます。ここに神の国の到来があります。敵意の壁を乗り越えようとするいくつもの現場にすでに働いているこの生き生きとした力に、わたしたちも触れるように招かれています。

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2017-08-14 [負けないいのちの詩]61  「神の戒めを慕う者は、神の約束と慈しみ

[]61  「神の戒めを慕う者は、神の約束と慈しみのうちにある」 09:12

この不法から

この虚偽から

この葛藤から

主はかならず解放してくださる

わたしたちは信頼する


自分よりも神を信頼し

神の戒めを慕う者は

神の約束と慈しみのうちにある


自分を神とし

自分の戒めを愛する者は

神がその不法を滅ぼされる


人を殺してはならない

人を生かしなさい

人から盗んではならない

人とわかちあいなさい


この戒めを慕う者はもうすでに

神の約束と慈しみのうちにある


主はかならず解放してくださる

わたしたちは信頼する

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