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アガペーとインマヌエル ※更新をtwitterでお知らせしています。                          Iwao Hayashi  @pastorerrante

2017-11-21 [誤読ノート]400 「話し相手。旅の友。イエスは奇跡ばかりが取り柄

[]400 「話し相手。旅の友。イエスは奇跡ばかりが取り柄じゃない」  「キリスト教は役に立つか」(来住英俊、新潮選書2017年15:30

 聖書を開くと、イエスは、出会う人の難病を癒したり、目を見えるようにしたり、耳を聞こえるようにしたりしています。そんなことはあるはずがない、だから、キリスト教は信じられないと言う人がいます。そういう人に、ぼくは、いや、本当にあったのですよ、とむきにもなりませんし、ぎゃくに、あったと強く信じる人がいれば、それに反対もしません。

 本書は、奇跡が起こったという聖書の記述を否定はしていませんが、それとはかなり違う角度から、イエス現代日本の人びとに紹介しようとしています。つまり、イエスは、信仰者の話し相手であり、旅の道連れだと言うのです。言い換えますと、信仰とは、イエスと語りながら、イエスと一緒に人生の旅を歩むことだと言うのです。

 さらに言えば、イエスとの「対」の関係は、自分以外は一切受け入れない孤立でもなく、国家や企業などの大集団への埋没でもなく、自分が語り、相手が語り、自分が聴き、相手が聴き、たがいに理解し、成長する関係であり、それこそが、キリスト教の伝える人の生きる意味(「人が独りでいるのは良くない」)だと説き明かします。

 では、このように、イエスをわかりやすくしてしまうと、わかりにくい(信じがたい)奇跡の方はどうなるのでしょうか。

 「奇跡と呼んでいいような思いがけない素晴らしいことが起こり得るという期待と、やはり物事はたぶん経験則通りに起こるだろうというクールな予想を、祈りの中に両立させる・・・これは、キリスト者がごく普通にしていることです」(p.109)。

 両立。聖書イエスは驚くべき奇跡を起こす人だけれども、祈る相手のイエスは、静かに話しをしたり、そばにいたりしながら、交わりが深まっていくパートナーとでも言えばよいでしょうか。どちらも同じイエスです。

 キリスト教をほとんど知らない人にはわかりやすく、信徒の人、そして、著者のような神父や牧師は自分の信仰の(知識ではなく)感覚を文字でまとめられたような、「役に立つ」一冊だと思います。

 キリスト教の教えを体系化しているのではなく、さきの引用のように、奇跡と常識を「両立」させるなど、信者の実際の心の中をかなりよく伝えていると思います。ぼくも、読んでいて、「あるある。たしかに、こんなふうに思う。ぼくだけじゃなかったんだ」と、かなり楽しめました。

 できたら、教会で読書会をしてみたいと思っています。

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2017-11-15 「大空ときんかくし」   「石垣りん詩集」(石垣りん著、伊藤比呂

[]399 「大空ときんかくし」   「石垣りん詩集」(石垣りん著、伊藤比呂美編、岩波文庫2015年16:41

 詩人は天からの声を書きとめる、と聞いたことがあります。ならば、詩人は天を仰いでいるのかも知れません。石垣りんさんもそのようです。

「私は私の持つ一切をなげうって

 大空に手をのべる

 これが私の意志、これが私の願いのすべて!」

 けれども、

「家の上にあるもの

 天空の青さではなく

 血の色の濃さである」

「負えという

 この屋根の重みに

 女、私の春が暮れる

 遠く遠く日が沈む」

 天どころか屋根です。屋根どころか水平線より降るのです。

 編者の伊藤比呂美さんもこう記しています。

石垣りんの書いたきんかくしは、ただ尿をひっかければいいきんかくしではなく、糞臭のきつい便所に這いつくばって、拭き掃除をしないとわからないきんかくしなのである」

 まさに地べたです。生活です。では、りんさんの天はどこに行ってしまったのでしょうか。

 そういえば、やはり詩人金芝河が「飯は天」と言っていました。

 そういえば、聖書にも飲み食いの話がやたらと出てくるのでした。


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2017-11-14 誤読ノート398 「ライオンは死して」 「ライオンと魔女と衣装だん

[]398 「ライオンは死して」  「ライオンと魔女と衣装だんす」(C・S・ルイス著、土屋京子訳、光文社古典新訳文庫13:37

 ライオンの名はアスラン。森の王にして、大海のかなたに住む大帝の子息。

 「アスラン来たれば 悪が滅び

  アスラン吼ゆれば 悲しみ癒える

  牙の一閃 冬を葬り

  たてがみふるえば 春めぐりくる」

 けれども、魔女にとらわれたエドモンドを救うために、アスランは吼えもしなければ、牙をむきもしませんでした。

 むしろ、その正反対のことをしたのです。

 永遠のお別れに、子どもたちは、アスランの顔にキスをし、撫でさすり、全身をきれいにぬぐいます。

 ところが、翌日、ふたたびそこを訪れると・・・

 「ああ、ひどすぎるわ」「なきがらぐらい、そっとしておいてくれたっていいのに」「誰がこんなことをしたの?」

 けれども、うしろから、良く通る声が。

 ふたりがふりむくと・・・

 大学時代、好きだった人が「涙なしには読めない」と言っていた旧訳。それは、どちらの場面だったのでしょうか。

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2017-11-13 負けないいのちの詩70    「これらの主の義を、ぼくらはすべて見

[]70  「これらの主の義を、ぼくらはすべて見てきた」 10:18

主は闇に光を創ってくださった

混沌に平和をもたらしてくださった

人にいのちを吹き込んでくださった

皮の衣を着せてくださった

カインに撃たれないしるしを付けられた

ノアと家族と生物に舟を浮かべてくださった

大水を退かせてくださった


アブラハムを狭い檻から出してくださった

どこかは知らないが乳と蜜の地へと導いてくださった

ヤコブの逃亡の旅に同伴してくださった

ヨセフを穴から引き上げてくださった


イスラエルの民を奴隷の地から導き出してくださった

捕囚の地から帰還させてくださった


友なるイエスを遣わしてくださった


君主を引き降ろし

独裁者を倒し

民主主義人権

高く上げてくださった


道の片隅に倒れている者に

手を伸ばし

立ち上がらせてくださった


これらの主の義を

ぼくらはすべて見てきた

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2017-11-10 *[聖書の話を身近な経験に置き替えてみた](75)「死後の世界は言葉

[](75)「死後の世界は言葉では言い表せないけれども、ただひとつだけたしかなことがあります」 13:48

 もし死後の世界があるなら、そこはどのようなところでしょうか。今わたしたちがいる世界と同じように、時間があり、空間があるのでしょうか。今と同じように言葉や意識をひとりひとりが持っているのでしょうか。

 先に旅立ったおばあちゃんは92歳の姿のままそこにいるのでしょうか。それとも17歳のときのようになっているのでしょうか。あるいは、赤ちゃんのようになっているのでしょうか。

 「おばあちゃんはきっと天から見守っていてくれるよ」という言葉は何らかの意味で真実だと思いますが、それは92歳か17歳か新生児の人間としてでしょうか。それとも、お星さまになっているのでしょうか。

 わたしたちにはわからないのです。わからないから、あたり一面金色に輝いたり、花が咲き乱れ小鳥がさえずったり、妙なる調べが聞こえたりするような死後の世界を思い描くしかないのです。わからないから、たましいだけになるとか、透明になるとか、人間の目には見えない姿になるとか、どこかに生まれ変わるとか、星になるとか、風になるとか、鳥になるとか、想像力を働かせるしかないのです。

 そして、それはけっして不十分なことではありません。見えない世界を、これこれこういう世界だと断定してしまうことの方が問題です。見えない世界を、今生きている世界の考えを使って、これこれこうなんだと言ってしまう方がおかしいのです。トンネルを抜けたら霊界だったという言い方は、想像の範囲では許されるかもしれませんが、客観的な事実として断定するのであれば、怪しいテレビ番組になってしまいます。

 新約聖書によりますと、イエスも、地上の旅を終えた後のわたしたちの姿を断定的には示しませんでした。ただ「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と言っただけなのです。

 「めとることも嫁ぐこともなく」とは、わたしたちの今の生活とはまったく違うということでしょう。今のわたしたちと同じ姿、同じ時間・空間・意識感覚があるわけではないのです。わたしたちの想像をまったく越えることであるし、わたしたち五感を使っても描き出すことはできないことでしょう。

 「天使のようになる」というのはどういうことでしょうか。天使とはどういうものなのかわかりません。ただ、神さまとつながっている存在であることはわかります。

 この世の旅を終えた後、わたしたちはどのような世界でどのような姿になるのかは、わたしたちの言葉では言い表すことはできないけれども、ただひとつたしかなことがある。それは、神さまとつながっているということだ。イエスがこう言いたかったとしても不思議ではありません。

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2017-11-06 負けないいのちの詩69     「だから、あなたも、寄留者を虐げては

[]69   「だから、あなたも、寄留者を虐げてはならない」 11:31


主を畏れよ

心底から愛し

全身で仕えよ


天は主のもの

地も主のもの


その主があなたに

心を寄せ

こよなく愛し

あなたは今日も

生かされている


心の鎧を脱ぎ捨てよ

かたくなになるな


主は、人を差別せず

見返りを求めず

孤児と寡婦を一番に守り

寄留者をもてなされる


だから、あなたも

寄留者を虐げてはならない

敵視し罵詈雑言を浴びせ

斥けたりしては決してならない

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2017-10-30 負けないいのちの詩68  「主よ、どうか、滅びゆく民をお救いくださ

[]68  「主よ、どうか、滅びゆく民をお救いください」 09:35

主なる神よ、あなたは

虐げられる民を

いくどもいくども

解き放って来られました


けれども、われらは今

滅びの道を再び歩み

止めることができません


主よ、どうか

滅びゆく民をお救いください


あなたとともに歩んできた

われらの天上の先達を想い起こし

われらの頑迷背信と罪悪を

ただしてください

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2017-10-28 [誤読ノート]397 「『初めに言があった』とは、まことだった」  

[]397 「『初めに言があった』とは、まことだった」  「言葉の贈り物」(若松英輔著、亜紀書房2016年09:53

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。新約聖書ヨハネによる福音書の冒頭のこの言葉を、本著はみごとに伝えています。しかも、読みやすいエッセイで。けれども、洒脱でも軽妙でもなく、じつに深々としているのです。大樹の根のように。

「言葉とは、永遠に言葉たり得ない何ものかの顕現なのである」(p.48)。

哲学という言葉が苛烈な力を持って若い私を魅了したのは、人間が感じる世界の彼方にある、もう一つの世界をかいま見させてくれると思ったからだった」(p.86)。

「彼(ソクラテス)がまずとらえたのは、人間の問題ではなく、彼が「知恵」と呼ぶ神の働きがいかに世界で働いているかという理(ことわり)だった」(p.89)。

「彼女(志村ふくみ)は現代において、染織を再び人間と人間を超え出るものとの間で行われる出来事へと立ち戻らせた」(p.92)。

「柳にとって民藝は、単に人間が制作したものではなく、人間を超えた何者かから遣わされた美の化身だった」(p.93)。

これらの引用にある「永遠に言葉たり得ない何ものか」「人間が感じる世界の彼方にある、もう一つの世界」「知恵」「人間を超え出るもの」「人間を超えた何者か」こそが、言葉の故郷であり、言葉そのものでもあるでしょう。ヨハネに即して言うならば。

けれども、「人間を超えた」「彼方」なるものは、わたしたちと無縁の世界にあるのではありません。「根にふれたければ、遠くへ探しに行ってはならない。その力を掘ることの方に向けなくてはならない・・・花や果実はときに、手の届かない場所にある。だが、根はいつも私たちの足もとにある」(p.14)。

言葉がそのようなところを故郷とするのであれば、「私たちが書かなくてはならないのは、誰かに評価されるような記号の羅列ではなく、自分をも驚かせる生ける言葉なのではないだろうか」(p.57)。「自分をも驚かせる生ける言葉」は、じつは、わたしたちが書くのではなく、わたしたちはじっと深く聞こうとするとき、彼方からやってくるものであり、わたしたちはその言葉を伝える器になるだけなのです。

「ただ言葉を、思いを表現する道具であるかのように考える態度から少し離れて、言葉が自ずと語り始める小さな場所を準備すればそれで十分なのである」(p.58)。

「何かを書きたいと願うなら、まず心に言葉にならないものを宿さなくてはならない。そして、その種子を静かに育て、心のうちで芽吹かせなくてはならない」(p.59)。

言葉を書くことが人間を超えた彼方に聞くことであるならば、あるいは、足元の大地を深く掘ることであるならば、読むあるいは見ることはどうでしょうか。「「読む」にはそもそも、言葉には表し得ないものを感じとるという働きがあるらしい」(p.139)。「詠むとは、言葉を永遠の世界に届けようとする営みでもある」(p.140)。「ここでの「ながむ」は、物理的な距離を示す言葉でありながら、同時に現実世界の奥にある、もう一つの世界を感じることを示す言葉になっている」(p.146)。

聖書を読み、語る仕事に就いて短くはなく、さまざまな聖書の読みに触れてきましたが、ヨハネ福音書をこれほどしっかりと説き明かしている書物はほかに知りません。若松さんは、しかも、ヨハネ福音書については一言も述べてはいないのです。

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2017-10-27 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた](74)「規則ではなく、神の

[](74)「規則ではなく、神の愛こそが、人と人を大切に結び合わせます」 13:21

 「勉強したか」と子どもたちに聞くと「したよ」と答えますが、教科書を眺めているだけでは、じつは勉強をしたことにはなりません。英語の綴りや基本用語など覚えるべきものは覚える、数学なら学んだ公式や定理を利用して問題が解けるようになる、そして、それらが身に付いているかチェックする、そこまで誠実にやらなければ、本当に勉強したことにはならないでしょう。

 仕事も同じです。職場で時間を過ごすだけでなく、心を込めて丁寧に取り組まなければ、したことにはならないような仕事があります。出勤したということと仕事をしたということは、まったく別のことがらです。

 離婚をするとき、形の上では双方が合意してハンコを押したとしても、たとえば、妻の方の今後の生活がなりたたなければどうでしょうか。ちゃんと納得してハンコを押したから何も問題はない、ですまされるでしょうか。

 新約聖書によりますと、イエスは「離縁状さえ書けば離縁しても構わない」という考え方を戒めました。たしかに、離縁され今は誰の妻でもないということを証明する離縁状がないと女性は再婚することができませんでした。おそらく、当時は、夫の身勝手で棄てられた女性は、再婚する以外に衣食住を確保することが困難だったのではないでしょうか。そして、離縁状があれば再婚の道が開かれます。

 けれども、じっさいは、すぐに再婚相手が見つかるわけではないでしょうし、再婚に頼らなければ生きていけない状態にして放り出すことにも問題があるのではないでしょうか。離縁状を書いたからそれでいいじゃないかは、あまりにも不誠実です。

 結果的に別れることになるとしても、おたがいに誠実に話し合い、なっとくしあい、女性がこれから生きていく道を保証することが必要なのではないでしょうか。

 イエスは離縁状をもたせれば離縁できるという規則を批判しました。さらには、規則よりも大切なものがある、それは、人と人を結び合わせる神の愛だ、と言うのです。

 ただし、それは、神が結び合わせたから離婚をしてはならないということではなく、人と人との間には神の愛があるのだから、人を気にいらなくなったら捨て去るような扱いをしてはならない、たとえ離婚をするにしても、神の愛があいだにあることをつねに意識しながら、相手を大切にし続けなければならない、というメッセージをわたしたちは汲み取るのが良いと思うのです。

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2017-10-23 [負けないいのちの詩]67  「憲法は、偶像を砕いて塵とする」

[]67  「憲法は、偶像を砕いて塵とする」 09:36

神は火の中から語った

その言葉を石の板に指で刻んだ


けれども、民は堕落して

十戒を憎み、神を棄てた


彼らは、偶像を愛した

権力と武力と暴力と金力と

原子力を神とした


主よ、どうしたらよいでしょうか


めらめらと音がする

ふりかえると

山が燃えている


十戒で偶像を打ち砕け

憲法で偶像を塵とせよ

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