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アガペーとインマヌエル ※更新をtwitterでお知らせしています。                          Iwao Hayashi  @pastorerrante

2018-04-27 聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(83) 「わたしたちは神

[](83)  「わたしたちは神から愛を受け、それを他の人とわかちあいます」 15:36

 誰かに愛されたことのある人はこんどは他の誰かを愛するようになる、と聞いたことがあります。方程式のようにいつもそうなるとは限らないでしょうが、たしかに、誰かにやさしくされると自分も他の人に対してやさしい気持ちがもてる、という経験は一度や二度ではないでしょう。

 わたしたちは一日を生きるために食事エネルギーを蓄えておく必要があります。体力だけでなく、心のエネルギーも同じです。受け入れられる、承認される、理解される、好かれる、愛されるなどして、満たされると、それがしばらくの間の力になります。

 母の胎にいるとき、わたしたちはへその緒を通して命の糧を受けていました。やがて、食糧や周りの人の言動や関係から、さらには、友人や教師書物、音楽や演劇や映画などの芸術からも、日々を生きる力を受け取るようになります。

 そして、今度は、わたしたちの言葉や行動、存在が、他の人に力をもたらすようにもなります。わたしたちが生きている、ここにいるという存在そのものが、気づかないかも知れないけれども、少なくともひとり以上の喜びとなり力となっているのではないでしょうか。わたしたちは、愛を受けて、愛を与えるのです。

 聖書によりますと、イエスは、自分のことを「ぶどうの木」、弟子たちをその「枝」と言い表しました。ぶどうの幹は、根や葉から受けた水分、養分を何本もの枝に届けます。それは生命そのものと言っても良いでしょう。そして、枝はそれをもらって、おいしいぶどうの実を結びます。

 それと同じように、イエスは神から受けた愛、あるいはいのちを、こんどはわたしたちにもたらし、わたしたちはそのいのちによって生かされ、その愛によって他の人を愛することができるようになるのではないでしょうか。

 

 神とはいのちの根源、いのちの源泉です。その泉から湧き出る新鮮ないのちを日々いただいていることを、わたしたちはときおり思い出そうではありませんか。

ヨハネ15:1-17)

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2018-04-23 負けないいのちの詩83 「あなたは死んではいけません、戦ってもいけ

[]負けないいのちの詩83 10:18

「あなたは死んではいけません、戦ってもいけません」

相手の軍備を見ても恐れるな

主がともにおられる


あたらしい家を建てても

仕事を始めても

婚約しても

戦争で死んでしまっては

そこに住むことも

成果を得ることも

結婚することもできない

きみ死に給うことなかれ


いったん戦争に行ってしまえば


住民を降伏させなければならない

強制労働させなければならない

抗う者らは皆殺しにせねばならない

女性や子どもや財産を略奪しなければならない


きみ闘い給うことなかれ

(申命記20:1-20参照)

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2018-04-20 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた](82) 「知らないうちに種

[](82) 「知らないうちに種が蒔かれ、実を結んでいます」 14:51

 十余年前に教会の建物を建て替えました。そのさい、庭に木の苗を何本か植えました。オリーブいちじく、リンゴ。桃栗三年、柿八年と言いますが、たしかに、ここ数年、どの木もよく実を結んでいます。

 オリーブは摘むと数籠にもなり、アクを抜いて漬けていただきます。いちじくやリンゴは、さっと洗う程度で、そのまま食べます。

 花壇では、ブルーベリーハナニラあじさいひまわり、ミニ薔薇などを育てています。生垣はヤマブキです。少し前まで、黄色の花をいっぱいに咲かせていました。それに促されたかのように、花壇のイエロー・フリージアも満開になりました。

 そして、ヤマブキフリージアにあわせたかのように、タンポポや名前の知らない草までもが、黄色の花びらをたくさん開きました。もちろん、種を蒔いたわけではありません。知らないうちに自然に種が蒔かれたのでしょう。

 予定通りに芽を出し花開くものもありますが、予定していなかったものもあります。

 わたしたちの人生はどうでしょうか。計画したものだけが開花しているでしょうか。それとも、予想外に咲く花もあるでしょうか。

 子どもたちを見ていますと、親が教えなかったものがいくつも育っていることを感じます。友達づきあいや、子どもらしい無邪気な心もそうですが、なんと言っても、生きていく力です。そんな種は蒔いた覚えがなかったのに、ありがたいことに若木がしっかり成長してきています。

 聖書によりますと、神さまは、愛、喜び、平和、寛容、誠実などの種をわたしたちの中に蒔き、育て、実を結ばせてくださっています。

 自分の感情だけ見ていると、孤独や心配、憎しみ、悲しみ、葛藤、不寛容、虚偽しか見当たらないのですが、知らずに庭に生えたタンポポや名も知らぬ野草のように、これらと正反対のものも育っているかもしれません。

 わたしたちはマイナスの気持ちや感情だけを見つけがちですが、よく探したら、わたしたちの中には、神さまが育ててくれた愛、喜び、平和、寛容、誠実も実を結んでいるのではないでしょうか。しずかに探せば、きっと見つかることでしょう。

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2018-04-16 [負けないいのちの詩]82   「偽りの証言をしてはならず、真実の証

[]82   「偽りの証言をしてはならず、真実の証言をしなくてはなりません」 10:42

一人の偽証によって

暴力が事実とされてはならない


けれども一人の被害者の

真実な証言によって

暴力の存在は

認められなければならない


偽証をする者

真実を証言しない者

私欲のために証言を拒む者


このような者たちが

繰り返し現れることを

許してはならない

(申命記19:15-21参照)

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2018-04-13 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた](81)「イエスは、羊飼いの

[](81)「イエスは、羊飼いのような、友達のような」 16:30

 自分の話ばかりして、こちらの話を聞いてくれない人。自分の意見を主張するばかりで、こちらの意見を理解しようとしない人。自分は傷ついたと言うが、相手も傷ついていることをわかろうとしない人。すみませんでしたと言われても、こちらこそすみませんでしたと言わない人。こういう人とは友達になりたくありません。

 「いつくしみ深き友なるイエスは」という讃美歌があります。ホテルのチャペルでの結婚式でもよく歌われますので、ご存知の方も多いでしょう。英語の原詞は、what a friend we have in jesusです。直訳に近づけますと、「イエスの中にはわたしたちのすばらしい友達がいる」「イエスわたしたちの何とすばらしい友達なんだ」とでもなりましょうか。

 聖書の中では、イエスはさまざまな仕方で言い表されます。ダビデ王の子孫とか。預言者のよみがえりとか。命のパンとか。ぶどうの木とか。そして、「羊飼い」とか。

 聖書によれば、羊飼いについていけば、羊は牧草にありつけます。強盗についていけば、殺されてしまいます。羊は牧草をとおして、羊飼いからいのちを受けることになります。

 羊飼いは、羊のことをいつも心にかけています。羊飼いは羊のことを良く知っていて、羊も羊飼いのことをよく知っています。

 友達も、わたしたちがお腹を空かせていれば、ご飯をごちそうしてくれるかも知れません。死にそうだったら、心配してくれたり、祈ったり、はげましたりしてくれるかも知れません。友達がいるからこそ、わたしたちは人生をゆたかに生きることができます。

 友達も、わたしたちのことをいつも心にかけてくれます。友達わたしたちのことを知っていてくれ、わたしたち友達のことを知っています。

 もちろん、いつも完璧ではありませんし、友達が去ってしまうこともあります。

 けれども、キリスト教では、イエスは誠実な友だと信じられています。わたしたちを抑え付けたり、傷つけたままにしておいたりはせず、いつも、わたしたちを愛してくれると。

 聖書には、羊飼いは羊のためにいのちを捨てる、とあります。また、友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない、ともあります。

 つまり、イエスわたしたちを愛するがゆえに、わたしたちのために命を惜しまなかったと。それは「友のため」なのですから、わたしたちイエスから友だと思われている、と信じるのです。

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2018-04-12 [誤読ノート]422 「控えめなキリスト教色とゆたかな想像力」  「

[]422 「控えめなキリスト教色とゆたかな想像力」  「ナルニア国物語? ドーン・トレッダー号の航海」(C・S・ルイス著、土屋京子訳、光文社古典新訳文庫2017年15:35

 この世界の果てには何があるのでしょうか。この世界の果ての向うには、こんどは、どんな世界が待っているのでしょうか。誰が待っているのでしょうか。そこに行かないと会えないのでしょうか。それとも、向こうからこの世界に会いに来てくれるのでしょうか。

 二千年前、イエスは「神の国が来た」と言いましたが、イエスに続く人びとの中には「神の国に行く」ことを考えた者もいました。ドーン・トレッダー号は世界の果てを目指して冒険の航海を続けます。

 ナルニア国物語シリーズの真の主人公は、子どもたちにとって一番大事なときに静かだけれどもたしかな存在感で現われるアスランです。

 アスランは、聖書で言えば、イエス・キリストのような存在です。たとえば、ドラゴンをアスランが水に放り込んで引き上げた行為は、洗礼を思わせます。

 「きみはアスランを知ってるの」「うん。ていうか、むこうがぼくを知ってるんだ」という子どもたちのやりとりも、イエスの言葉を思わせます。

 アスランは言います。「むこうの世界では、わたしは別の名前で呼ばれている。あなたがたは、わたしをその名前で呼ぶことをおぼえなくてはならない。あなたがたがナルニアに連れてこられた理由は、まさにそれなのである。ここでわたしのことを少しばかり知ることによって、向こうの世界でもわたしをよりよく知ることができるだろう」(p.372)。

 ナルニア国物語シリーズには、子どもたちにわかりやすくキリスト教を伝える準備をするという意図があることを、ここでは、アスラン自身にかなりはっきりと語らせています。

 やがて「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」というイエスの言葉を聖書で見つけたとき、子どもたちは、アスランについてのかつての自分たちのやりとりを思い出すのでしょうか。

 とは言え、キリスト教が表に出てくるところはそんなに多くなく、むしろ、ゆたかで深い想像力に満ちたファンタジーが全編の基調になっています。

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[]423「出世とか改宗とかより、あいさつですね」 「ハートウォーミングストーリーwithノーマン・ロックウェル」(マーガレット・ファインバーグ、いのちのことば社フォレストブックス、2005年) 15:50

ロックウェルという画家の絵が左のページに。敗戦後の日本に伝わってきたような風味の、アメリカ合衆国の光景。女性が金髪クリクリパーマだったりしたような。

 右のページは「小さなあいさつ」「お金では買えない宝物」「母の祈り」などと題された「心温まるお話し」。

 悪い点。「憎しみではなく赦しを」という一文では、南米先住民の地で殺された宣教師の遺族がその民を憎まず赦し、ついにはキリスト教徒にした、とあるが、心が冷えてしまいました。典型的な、植民地主義的、先住民観、宣教観ですね。(説教の助けになるかと思い、誤買してしまいました)

良い点。知っている人にも知らない人にもあいさつをし、親しまれ、学生リーダーとなり、のちには、ビジネス界の頂点に立ったサムさんのお話し。誰にでもにこやかにあいさつする。少なくとも人見知りで人から親しまれないぼくにはとても参考になりました。もっとも、学生リーダーやビジネス界への言及は、かえって、この話の価値を下げましたけど。

「私たちは絶えず静かに注ぎ込まれ、満たされている器なのです。どうやって自分を傾け、その美しい中身を注ぎ出すか(レイ・ブラッドベリ)」。これは、神の愛とそれへのぼくたちの応答を語るのに良いたとえですね。

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2018-04-11 [誤読ノート]421 「生は、正反対に見えるものの中にこそあったので

[]421 「生は、正反対に見えるものの中にこそあったのです」    「点滴ポール 生き抜くという旗印」(岩崎航、ナナロク社、2013年) 14:16

 若松英輔さんの著作の中で紹介されていたので、ぼくも読んでみました。

 タイトルにすべてが集約されています。

 点滴バッグは、生命の危機、脆弱だけでなく、生命、希望、前進を意味していたのです。

 「たたかいだ/これで/何回目かの/救急車に/乗る」

 救急車で運ばれるのではありません。救急車に乗り込み、闘いに赴くのです。

 「泥の中から/蓮は 花咲く/そして/宿業の中から/僕は 花咲く」

 彼の現世は宿業ゆえのことと言う人がいるのでしょうか。けれども、彼は、罰を受けているのではなく、花開いているのだ、とうたいます。

 「誰もがある/いのちの奥底の/熾火は吹き消せない/消えたと思うのは/こころの 錯覚」

 彼の中に「残っていた埋み火」(p.110)を、ふたたび炎としたのは誰だったのでしょうか。

 「身に受けた『傷口』から/栄養が取り入れられ/いのちの限り生きていく/それがなんで/絶望などであるものか」

 彼において、「傷口」は「いのち」へと逆転しています。旧約聖書イザヤ書の「苦難の僕」や新約聖書イエスの十字架につながる宗教性を感じないではいられません。

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2018-04-09 [負けないいのちの詩]81  「地境を侵してはならない」

[]81  「地境を侵してはならない」 09:03

隣人との地境を動かしてはならない

土地は主が与えたものだ


あなたは軍艦で押し寄せ

人の土地に侵略してはならない

先に住んでいた人びとから

奪ってもならないし

追い出してもならない

殺してもならない


あなたの土地に身を寄せる

人びとを虐待してはならない

自分の土地から追い出され

あなたの土地に逃れてきた

人びとをもてなしなさい


あなたの土地に引き連れてきた

人びとを解き放ちなさい

手ぶらで追い出してはならない

金銀をわかちあいなさい

人びとの正当な取り分と償いを

お渡ししなさい

申命記19:14参照)

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2018-04-06 [誤読ノート]420 「人権思想がキリスト教に由来するとはほんとうだ

[]420 「人権思想がキリスト教に由来するとはほんとうだろうか。何のためのそんな主張をするのだろうか」 13:50

人権思想とキリスト教 日本の教会の使命と課題」(森島豊、教文館2016年

人権とは何でしょうか。それは、人の顔には「この人を殺してはならない」「この人から盗んではならない」と書かれていることでしょう。あるいは、殺す者への「わたしを殺すな」、盗む者への「わたしから盗むな」という叫びでしょう。殺す者、盗む者への抵抗権でしょう。

この意味では「本書の一つのポイントは、歴史において人権法律として形成されていく中で、抵抗権が大きな役割を果たしていたということです」(p.9)と述べられていることは、かならずしも間違いではありません。

けれども「その抵抗権の確立と人権の発展にキリスト教プロテスタントの影響がある」(同)という点はどうでしょうか。さらには「この背後に聖書の福音を伝道した説教の影響がある」(同)というのはどうでしょうか。残念ながら、これらの点が詳しく説得的に展開されているわけではなく、むしろ、自分の信じるキリスト教は正しい、と弁証したい思いだけが先走っている言葉のように感じられました。

 「信仰自由の戦いの中で人権理念が成立し、アメリカにおいて人権が法制化していった」(p.25)。法制化という面ではもしかしたらそうかも知れませんが、人権理念、概念を、キリスト教において辿るならば、むしろ、十戒の「汝殺すなかれ」「汝盗むなかれ」に遡るのではないでしょうか。

 「(植木)枝盛は抵抗権と自由を支える思想的根拠において、独立戦争とその抵抗権に関わるピューリタンキリスト教に関心を示し・・・・この枝盛の私擬憲法案が吉野作造を介した鈴木安蔵を通して現在の日本国憲法に影響を与えるのですが、この法制化の過程の中にキリスト教信仰に基づく人権思想が流れているのです」(p.38)とありますが、本書で示されているのは、せいぜい、植木が「聖書二従フ基督教ナル純粋ノプロテスタント自由ノ派ナリ」と述べたことや、アメリカ独立宣言がキリスト教信仰とつながっているということだけです。法制化の過程の中で具体的にどういうキリスト者キリスト教思想が影響を与えたかは述べられていません。

 さらには、植木はのちにキリストが神であること(神性)を否定したから日本の人権運動は「そのはじめから無神論的になっていく傾向がある」(p.42)、と著者はしています。これは、「教会は政治活動をする場所ではありません」(p.73)につながっているのでしょう。

 著者にとって、副題にある日本の教会の課題のひとつは、教会は政治活動をする場にしない、ということでしょう。

 もうひとつは、さまざまなキリスト教信仰のタイプの中から、著者の属するタイプを正統とすることでしょう。「キリストの血によって贖われた神の子としての人間観を持つ人々が、その価値を失わせる勢力抗う抵抗権を主張したのです」(p.46)。

 つまり、著者にとって、抵抗権とは、「わたしたちは、キリストが十字架上で死ぬ際に流した血によって救われた、神の子だ」という価値観を否定する者たちへの抵抗権なのです。

 しかしながら、聖書にはさまざまな神学があり、そこから生じる、上述以外のさまざまな人間観も含まれています。たとえば、神は自分に似せて人間を創造した、という創世記の記述、神の目には人は価高く貴いというイザヤの記述もあります。

 せっかく人権思想を論じるとしながら、そのじつ、自分たちの信仰形態こそが正しいキリスト教である、としてしまったことが、残念です。「人権思想とキリスト教」というタイトルにも「キリスト教は正しい宗教だ。人権思想だってキリスト教から生まれたのだ」という傲慢が見え隠れしています。

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2018-04-05 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた](80)「いつくしみふかい交

[](80)「いつくしみふかい交わりが、閉ざされた心を開いてくれます」 12:53

 立食パーティのように多くの人が集まり自由に語り合う場では、すこし緊張します。親しい人がいない場合は、顔見知りの人をみつけて、なんとか輪に入ろうとするのですが、どうも、ぼくなどが加わるとせっかくのお話しを邪魔してしまうのではないか、などと考えてしまいます。気持ちがどこか閉ざされています。そんなとき、友人の姿を見出し自然な会話を始めたり、あるいは、同じような境遇の人を見つけて話し相手になってもらったりすると、さきほどまでの緊張がほどけていくのがわかります。

家族とけんかをし、激しい口論になってしまい、怒りがおさまらないとき、いや、少し落ち着いてきたけれども、まだまだ、そんなに和やかになってしまうの気まずいとき、気まずさがまだ解けていないとき、ふと、テレビのおもしろい場面におたがいが笑ってしまい、気持ちがさっとゆるんでいくことがないでしょうか。

チューリップの「ぼくがつくった愛のうた(いとしのEmily)」にこんな一節があります。「愛はいつでも不思議なものさ、心の扉を開いてしまう、露にうもれた花びらが、開く音さえ聞えくる」

 閉ざされた心の扉も、愛によって、睦みによって、いたわりによって、ほほえみによって、言葉を交わすことによって、開かれるのです。そして、開かれた心には、つぼみが花開く音さえ聞こえてくる、いや、聞こえくるのです。

聖書によりますと、イエスの死んだ後、弟子たちは、自分たちも殺されるのではないかという恐れから、扉を固く閉ざし、一軒家に閉じこもっていました。ところが、どういう方法でかはわかりませんが、イエスがすっと入ってきて、みなの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言うのです。

 親しい人との死別はほんとうに苦しいものです。悲しみのあまり、心が閉ざされてしまいます。けれども、やがて、氷は解け、扉は開かれます。死は永久のおわりではなく、目に見えない永遠のつながりがあることに気付き、死者がいまでも自分を愛し、そばにいてくれる。このことに触れれば、開かれます。死者の愛を思い出せば、いや、今もつづく死者の愛に触れれば、閉ざされた門も開かれるのです。

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