(81)「イエスは、羊飼いのような、友達のような」

 自分の話ばかりして、こちらの話を聞いてくれない人。自分の意見を主張するばかりで、こちらの意見を理解しようとしない人。自分は傷ついたと言うが、相手も傷ついていることをわかろうとしない人。すみませんでしたと言われても、こちらこそすみませんでしたと言わない人。こういう人とは友達になりたくありません。

 「いつくしみ深き友なるイエスは」という讃美歌があります。ホテルのチャペルでの結婚式でもよく歌われますので、ご存知の方も多いでしょう。英語の原詞は、what a friend we have in jesusです。直訳に近づけますと、「イエスの中にはわたしたちのすばらしい友達がいる」「イエスはわたしたちの何とすばらしい友達なんだ」とでもなりましょうか。

 聖書の中では、イエスはさまざまな仕方で言い表されます。ダビデ王の子孫とか。預言者のよみがえりとか。命のパンとか。ぶどうの木とか。そして、「羊飼い」とか。

 聖書によれば、羊飼いについていけば、羊は牧草にありつけます。強盗についていけば、殺されてしまいます。羊は牧草をとおして、羊飼いからいのちを受けることになります。

 羊飼いは、羊のことをいつも心にかけています。羊飼いは羊のことを良く知っていて、羊も羊飼いのことをよく知っています。

 友達も、わたしたちがお腹を空かせていれば、ご飯をごちそうしてくれるかも知れません。死にそうだったら、心配してくれたり、祈ったり、はげましたりしてくれるかも知れません。友達がいるからこそ、わたしたちは人生をゆたかに生きることができます。

 友達も、わたしたちのことをいつも心にかけてくれます。友達はわたしたちのことを知っていてくれ、わたしたちも友達のことを知っています。

 もちろん、いつも完璧ではありませんし、友達が去ってしまうこともあります。

 けれども、キリスト教では、イエスは誠実な友だと信じられています。わたしたちを抑え付けたり、傷つけたままにしておいたりはせず、いつも、わたしたちを愛してくれると。

 聖書には、羊飼いは羊のためにいのちを捨てる、とあります。また、友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない、ともあります。

 つまり、イエスはわたしたちを愛するがゆえに、わたしたちのために命を惜しまなかったと。それは「友のため」なのですから、わたしたちはイエスから友だと思われている、と信じるのです。