787 「剣を鍬(くわ)に、槍を鎌に」 ・・・ 「世界で最初に飢えるのは日本  食の安全保障をどう守るか」(鈴木 宣弘、講談社、2022年)

 日本住民の生活の安全を守るには、戦闘機一機の購入費用を、農業支援に回したほうがよい、と著者は言う。

 

 住民が安全な食料を口にするためには、農作物は自由市場の商品ではだめだ。消費者に安全な食料がそんなに高くない価格で届き、かつ、生産者の収入が保証されるためには、国の予算から支援がなされるべきだ。そうすれば、アメリカ産の危険なものを食べ続けることから解放される。

 

 「日本政府が」日本の「農業を軽視する背景には、アメリカの意向がある。アメリカ政府は、多国籍企業の意向で動いている。その多国籍企業の中には、農作物を日本に輸入しようとしている企業も含まれている」(p.60)。

 

 「日本の政治家はアメリカの意向に逆らわない」。日本が「食料自給率を上げて、国民の命を守るということは、アメリカからの輸入を減らすということを意味する」(p.61)。

 だから、日本は食料自給率を上げられない。けれども、戦争や災害などでアメリカなどからの輸入が減れば、タイトル通り、日本は「世界で最初に飢える」のだ。

 

 アメリカなどの生産地で「「危なくて食べない」ようなものまで、日本向けなら大丈夫ということで、輸出されてしまう構造ができている。我々は、そうした食料を、知らないうちに食べているのである」(p.71)。

 つまり、日本の食糧の安全危機は二重である。ひとつは、自給率が低すぎる、輸入が止まれば飢える。今は輸入して豊富に食料があるように見えるが、それらには産地では「危なくて食べない」ものまで含まれている。

 では、どうすればよいのか。

 「食料を含めた大枠の安全保障予算を再編し、防衛予算から農業・文科予算へのシフトを含めて、食料安全保障確立助成金を創設すべき時がきている。いざというときに食料がなくなってもオスプレイやF35をかじることはできない」(p.155)。

 いにしえの預言者の言うとおりである。

 

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2:4)

 「消費者の行動が世の中を変える原動力になる。食の安全や食料安全保障を取り戻すためには、日々の買い物の中で安くても危ない食品を避け、少しだけ高い地元の安心・安全な食品を買うこと、それだけでいい・・・私たちは、リスクある食品を食べないことで、グローバル企業などの思惑を排除することができる。安心・安全な食品を食べることで、自然環境や健康を大切にする生産者を応援することができる」(p.180)。

 軍事出費を減らし、農業支援にまわし、「地元の安心・安全な食品」を高くなく買えるようにする政治にしなければならない。

 

https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A7%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AB%E9%A3%A2%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E9%A3%9F%E3%81%AE%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E3%82%92%E3%81%A9%E3%81%86%E5%AE%88%E3%82%8B%E3%81%8B-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE-%CE%B1%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%88%B4%E6%9C%A8/dp/4065301734/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=33D9KU3QUXNTR&dib=eyJ2IjoiMSJ9.2EYBICcJpMdRh8jEJ3wKGDZrnJgQhVcCRkjH8wiVSiSZPxhYc0AeYEiPXNk8G6Xdz2WF_q9jV88iAq8X-wDst91zwC6r8o-0QYN9_7D4TVI1xQmx0wA94YVHSZzioA8OLNbAEhf6-NhghHhCJLvAVl8r-KCruec5on0PbW7q4TdQ7RYXad5rOlAjwgTjTTDsYigH-POdJ0pysJprUs6_oK3V2021FZHg7iKqTcDcOMHEr21JmTT4e7VvNt_liOsU.t8bBDI37S1RKGZs8nhMrTiDZ6c4o6T2W9zNCYfISFVY&dib_tag=se&keywords=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A7%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AB%E9%A3%A2%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC&qid=1713160809&sprefix=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A7%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AB%E9%A3%A2%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%2Caps%2C172&sr=8-1

786 「ひとつの考えにこだわらず共存、自己創造」・・・「100分de名著 偶然性・アイロニー・連帯 ローティ」(朱喜哲、NHK出版、2024年)

 哲学とは何でしょうか。と、哲学の入門書などにはいろいろ書いてありますが、最近、淡野安太郎「哲学思想史」を読み始め、さらに、「100分de 名著」のこの巻の最初の方にある「西洋哲学の歴史」という項目を読んで思ったことは、ぼくにとって、哲学とは、哲学や哲学史の本とされているものに出てくる思想のことなのだな、ということです。

 

 「デカルトは・・・「存在」から「認識」へと哲学の主題をスライドさせたのです。この認識論を発展させ、人間は何が認識できて何が認識できないのか、理性の限界はどこにあるのかを確定しようとしたのが、近代のカントです」(p.11)。

 なるほど。デカルト登場までは、プラトンとかアリストテレスとかキリスト教神学者たちが「普遍」とか「神」とか、そういう「存在」について考えていたということですね。

 では、ローティさんは何について、あるいは、何を考えたのでしょうか。

 

 ぼくがこの本を読んだ限りの印象で言いますと、世界や人間について語る言葉で、これが唯一の正解というものはない、それぞれの回答があるだけだ、回答はいろいろ言い換えられる相対的なものだ、それなのに、そのどれかを正解だと主張するところに暴力がある、だから、人権も唯一の正解的に言い表された人間の「本質」に基づくのではない、だからと言って、人間が他者によって侵害されて良いわけではない、といった感じです。

 今、上の段落で「言い換え」と言いましたが、これは「再記述」とも「言い換え」られます。「再記述は、抽象度を上げて真理に近づくというよりは、並列的な言い換えによって理解の“襞”を増やしていくことだと言えます」(p.29)。

 たとえば、聖書の創世記は何を物語っているのでしょうか。この人はこうだと言う。あの人はああだと言う。しかし、どちらかが唯一の正解ではない。たがいがたがいの再記述だと認識しあう、ということです。その記述に賛成はしなくてもよい。でも否定もせず、この人はこう記述するのだな、ということだけを認めるわけです。

 けれども、これは、他者の存在の承認だけでなく、自分をゆたかにすることにもなります。「ローティが言うように、そうした確かさへの執着を放棄することで、私たちはことばを使ってより自由に自己創造ができるというポジティブな面も開かれてくる」(同)。

 同意はできないが否定もしない、という姿勢をさらに深めて、こういう考え方も自分のポケットに入れておこう、襞にしよう、とすると、自分が小さく凝り固まらずに自由にゆたかになれるのではないでしょうか。

 

 「「同調を避け」ているけれど、お互いを保護するという意味では協力することができる」(p.32)。

 意見の違う相手にあわせなくてもよいが、相手を攻撃する必要もない、その意味で互いに保護し協力しあう、というのです。

 「自分にとっては「ファイナル」と思えるボキャブラリーさえも、よりよくなる可能性に開かれたものだと考えることが、まさにアイロニーだということになります。ローティは、アイロニストは自分の終極の語彙が絶対のものだとは思っていない。なぜなら事実、他人の終極の語彙に感銘を受けることができるからだと言っています」(p.37)。

 アイロニストとは皮肉屋ではなく、自分だけが正しいと言って我を忘れるようなことのない人のことでしょう。「ファイナル」や「終極の語彙」とは、精一杯考えて、自分の今の時点ではこれが最良だと思っているというもののことでしょう。しかし、それが絶対ではないと。他にもありうるし、変わりうると。

 そうすると、人間の本質なども言い表せず、本質が言えないなら、人間の基本的な権利なども言えない、人間には皆人権があるなど「本質」的な言い方はできなくなりますが、ローティはこう言います。

 

 「そうは思いながらも、人が受ける苦しみや、人類がなしうる残酷さというものが減少することを望む、それは両立しうる」(p.43)。

 人間の「本質」を正しく唯一の方法で規定することはしないが、人が残酷な苦しみを受けることが減ることを望むことはできる、というのです。

 

 このようにローティの得意技は、矛盾するように思えるかも知れないものの両立です。

 

「一人の人間のなかには「正しい建前」と「正しくない本音」がある。それらは直接的には矛盾するケースがあるけれど、それでもその人のなかで併存していてもいいのだ」(p.49)。

 「正しい建前」は公的な場で、「正しくない本音」は私的な場で、ということになります。公的な場と私的な場での言動が矛盾していても、それは、併存なのだと。

 

 ところが、インターネットですと、私的な場と思い「正しくない本音」を吐いたところ、それが公的なものとみなされ、ぼくはひどい目にあったことがあります。嫌な上司を公的な場で罵倒したわけではなく、私的な場でやれやれと言っただけなのに、相手が反論できない場で非難するのはどうのこうのと・・・

 「複数のボキャブラリーをある絶対的な基準に照らし、どちらがすぐれているかを判定するようなことはできない、というのがポイントです。ボキャブラリー同士は、どちらがより真に近いかという意味で優劣をつけられるものではない。つまり、人間や社会もそういうものだ、ということです」(p.56)。

 そうなのです。宗教なども、とくに、歴史の長い宗教などでも、じつはそうなのですが・・・どうも・・・

 「われわれを拡張せよ。これがまさに、ローティが考える希望としての感情教育です。これがなければ残酷さの回避というものは機能しはじめない」(p.86)。

 人間を「本質」などでは来てしないけれども、「われわれ」を「わたしの家族」「わたしと同じ意見の人」「わたしと利害をともにする人」から、「文化や意見や利害が異なる人」にまで拡張することによって、人の間の残酷を回避するというのです。

 

 「文化の違いや宗教の違いは、一見すると大きな違いに思えます。しかしそれがどれだけ違っていようとも、そこに苦痛を受けている人が存在する、辱めが存在する、そこに対して残酷さを行使するようなわれわれの加害行為がありうる、こうしたことに思いを馳せることによって、「われわれ」という範疇を少しでも広げることが可能になるのではないか、ローティはこのような考えを示しています」(p.100)。

 「ひとつの正しい立場、正しい主張へと読者を説得するものではなく、むしろそうした「正しさ」を解体し、自身にとって重要な「終極の語彙」を改訂へと開くことに促す点にこそ、ローティ哲学の最重要ポイントがあるからです」(p.106)。

 このような観点から、ローティは、特定の哲学者の思想よりもフィクションやジャーナリズム、エスノグラフィーを重視しますが、本著の著者の朱さんは、一人の哲学者にも思想の変遷があり、それを追うことには、「本質」「正解」に執着しない思考法に有益だと提起しています。

 

 ならば、哲学とは哲学史のことだという考えも、的外れではないかもしれません。本質ではないかもしれませんが、言い換えのひとつには並べられるのではないでしょうか。

 

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%80%8E%E5%81%B6%E7%84%B6%E6%80%A7%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E9%80%A3%E5%B8%AF%E3%80%8F-2024%E5%B9%B42%E6%9C%88-NHK%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%83%88-%E6%9C%B1-%E5%96%9C%E5%93%B2/dp/414223160X/ref=sr_1_2?crid=1PFOUXTW7PMJ0&dib=eyJ2IjoiMSJ9.eaQxAdnbMb6JdRvkPkq-8TRq21R-nczLDwqQkR-MQVr_QBHL4wwj1p2GGkA9h0-wOBPQskG--I--GUrW6Q6iexGODgAz7WWg__MYiMY8Af-jnfP8AKy7oCx5De8OzWHPupAcSOF7oxCQus0OlHq7zg.2T7CAX-_U-r57uFnR7JZp3tNnmXZjC957NQhhDeoaf0&dib_tag=se&keywords=%E5%81%B6%E7%84%B6%E6%80%A7+%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%83%BC+%E9%80%A3%E5%B8%AF&qid=1712801548&sprefix=%E5%81%B6%E7%84%B6%E6%80%A7%2Caps%2C173&sr=8-2

785 「警告と希望 21世紀のエレミヤ」・・・「レジリエンスの時代 再野生化する地球で、人類が生き抜くための大転換」(ジェレミー・リフキン、2023年、集英社)

 著者は、地球の生態系危機を警告する一方で、それを克服する希望も示す。

 地球の水、空気、土は、ひたすら「成長」を目指す産業、企業によって、収奪され、汚染されている。これはかなり前からすでに言われてきた。しかし、かつては公害はある意味地域的なものだったが、21世紀に入ってから、破壊は加速し、地球の生命全体がいまや壊滅的な危機にある。

 どうすればよいのか。著者によれば、レジリエンスである。Resilience 辞書には、「回復力」「弾性(しなやかさ)」とある。

 

けれども、本書で言うレジリエンスは元に戻す、戻ることではない。では、何か。「訳者あとがき」にはこうある。

 

レジリエンスとは、何か問題が生じたときに、元の状態に素早く戻る能力ではない。あらゆるものの関係は動的であり、時間の経過とさまざまな出来事の発生によって、状況は刻々と変わっているからだ。レジリエンスとは、ただ主導権を取り戻すだけではなく、以前とは異なる水準で適応し、自分の居場所を確立する能力を意味する」(p.425)。

 

地球でレジリエンスが発揮されるには、「人間は各自が自律性のある主体、いわば、自己完結型の自分だけの島ではなく、地球の生物圏に組み込まれ、さまざまな相互作用のつながりの中で生きている」(p.426)という認識が必要である。

 この「生物圏への組み込み」「さまざまな相互作用のつながり」は、著者が本論で詳しく述べている。

 

また、レジリエンスには「中央集権的な代議制民主政治は分散型のピア会議による政治に道を譲っていく」(同)ことが求められるが、著者はすでにそれは始まっているという希望も述べている。

 訳者によれば、著者はレジリエンスの時代に移行する希望を持てる要因を三つの点から述べている。

 

まずは、通信インターネットに加え、エネルギー・インターネット、ロジスティック・インターネット、モノのインターネット(IoT,  Internet of Things)のようなインフラが出来つつあり、これは、中央集権型から分散型への移行を促すと言う。(しかし、この考えは、楽観的すぎるようにも思える。世では、GAFAによる独占、中央集権が指摘されている)。

 

つぎに、人間がもともと持っている適応能力に著者は期待していると訳者は言う。

 

そして、人間がすでに持っている共感能力である。この共感能力についても著者は本文で詳述している。

 

 人間の「神経回路に、共感的な衝動という特別な資質が組み込まれている。この資質は可能性を備えており、無限に拡大できることが証明されている」(p.18)。

 では、地球という生態系には、どのような経済生活、社会生活への移行が望ましいのだろうか。

 

 「生産性から再生性へ、成長から繫栄へ、所有からアクセスへ、直線的なプロセスからサイバネティックなプロセスへ、垂直統合型の「規模」の経済から水平統合型の「規範」の経済へ、中央集中型の価値連鎖から分散型の価値連鎖へ、複合企業から柔軟でハイテク中小規模の協同組合へ、知的財産権からオープンソースとしての知識の共有へ、グローバル化からグローカル化へ、消費主義から生態系の保全と管理へ、国内総生産GDP)から「生活の質の指標」(QLI)へ、地政学から生物圏政治へ、金融資本から生態系資本へ」(p.12-13)。

 

 「天然資源の支配権から、地域の生態系の保全・管理へと移行する」(p.15)。

 

 「知的財産権から知識の共有へ」について著者はこうも述べている。「近代以前の哲学者は、自分の考えを「独自の思考」とは思わず、しばしば夢を通して、あるいは畏敬の念に打たれた瞬間に、天から降ってきた「啓示」と見なした。それとは対照的に、著作という考え方は自律的な自己性が存在すること、すなわち、各個人は他者との唯一無二のコミュニケーションの占有権所有者であるという信念を強化した」(p.101)。

 著者のファーストネームは、よくある名前だが、もとをたどれば旧約聖書のエレミヤに由来するようだ。

 エレミヤは破滅を警告する。「 地には雨が降らず、大地はひび割れる。農夫はうろたえ、頭を覆う。青草がないので、野の雌鹿は子を産んでも捨てる。 草が生えないので、野ろばは裸の山の上に立ち、山犬のようにあえぎ、目はかすむ」(エレミヤ書14:4-6)。

 しかし、希望の宣言もする。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない」(エレミヤ書31:31-32)。

 

 古い契約が回復されるのではない。新しい契約が結ばれるのである。そうやって、契約関係そのものは維持される。これは、まさにレジリエンスではないか。


 エレミヤの預言もエレミヤの名を冠せられているが、エレミヤは器に過ぎない。あくまで、神の言葉である。そうやって、知は個人に独占されず、民に共有された。

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3-%E5%86%8D%E9%87%8E%E7%94%9F%E5%8C%96%E3%81%99%E3%82%8B%E5%9C%B0%E7%90%83%E3%81%A7%E3%80%81%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%8A%9C%E3%81%8F%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%BB%A2%E6%8F%9B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%B3-%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%AD%E3%83%B3/dp/408737002X/ref=sr_1_1?crid=3TV66R0REP8OG&dib=eyJ2IjoiMSJ9.L0AinehOOKPd3QvVMtL1HPW950rym6d7vDx3-RtfAksNnrRfGyPVLdMyLAdTdDts1iUUUmKUJWIecNAc-H18QwQ2AknJn8Z76wFbC03OGiPVE-TM6frNPrUwDhFKlMSsUwvScoVT1oo9tCCECvBANOwaOtj-miB4YidQCXOb-KDqLsSWyIEEB_uose5Ck1-yqrYsguh-o4vyt_Od7A0V8v2HH4SMi3dz84-vjDEtTYpPr365N9rWSCOMAWd3TO8xJMyq4l8zntDYd0dU_z46Yiq0ZDRUaBqN0HS5U0hgRyY.oCwtyitQYGeqSiQwfop07YLeLUNzYZ6YMmemqDMWf7A&dib_tag=se&keywords=%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3&qid=1712212825&sprefix=%2Caps%2C169&sr=8-1

 



784 「ある批評家の揺籃期」 ・・・「藍色の福音」(若松英輔、2023年、講談社)

 若松さんは、大学卒業のころだろうか、神経を病んだ、と言う。

 

「原因は実社会で働くことへの怖れもあったのだろうが、それは、ある意味で表層の理由に過ぎない。逃げようとしていたのは、自分自身からだった。ただ、そのことが実感できるまで、短くない時間を要した。

 病名はいくらでも付く。複数の、さまざまな専門医を訪ねた。文字通り、心身両面の可能性を探り、東洋医学のように心身一如として捉える医師にも相談した。

 今から思えば、病を見ていた医師がほとんどで、人間を見た、あるいは診た人は、ほとんどいなかったように思う」(p.358-359)。

 

 けれども、若松さんは、短くない時間をかけて、彼を見た人、あるいは彼を診た存在たちとの出会いと逢瀬を重ねた。「自分自身」を掘りさげた。けれども、それは、軽く言われる「本当の自分発見」などとはまったく関係のないものだ。

 

 何が彼を見、診たのか。自分自身とは何か。本書はその旅の、そして、ある批評家誕生の一エピソードと言っても零点ではないかもしれない。批評家とは採点者のことではない。書かれたもの、目に見えるものの奥に、見えないもの、現象の根源を見る人のことだ。


 ぼくも神経を病んだ。28歳でようやく大学を出て、小さな出版社に入ったが、数か月で退社して、親の家に帰った。探して、大学病院でやっと手にした病名は自律神経失調症だった。

 

 しかし、ぼくはそこから、「自分自身」を求め始めたのだろうか。臨床心理学の本はかなり読んだ。傾聴を説く本には自分が傾聴されているようなやすらぎを覚えた。それ以前に関心を持っていた社会的なことがら、さまざまな差別、それからの解放の問題と、あらたに現れた心の問題を橋渡ししてくれたのは依存症が専門の信田さよ子さんの本だった。

 

 けれども、ぼくは若松さんのような批評の道を知らなかった。ただ、まったく無縁だったわけではないかもしれない。ぼくは親元で半年過ごした後、子どものころから属していたキリスト教会の牧師になるべく、神学校に進んだ。

 

 批評家と牧師の違いは、牧師は、キリスト教というあまりにも特定された世界で「目に見えないもの」を語るということだ。ぼくにとっての若松英輔さんは、その反対だった。

 

 彼の本を手にとってから十年余だが、ぼくは彼の「死者」という言葉から読み始めた。そして、何年かして、彼がカトリックであることを知り、また、彼もここ何年かは以前よりそれを前に出しているように思う。批評からキリスト教へ。キリスト教から批評へ。反対のように見えるが、同じ道でもあるかもしれない。

 

 この本は本当におもしろい。教えてくれるし、問うてくれる。

 

 「「書かれていない」ものを読む。それが「読む」ということの秘儀である。こうした経験に裏打ちされた自覚がある作家にとって、「書く」とき、文字の奥に書き得ないものを潜ませることになるのは自然なことだろう」(p.9)。

 

 若松さんには「イエス伝」という一冊がある。歴史上のイエスという人物についての歴史研究を読みかじっているものからすれば、史実を把握していない、ということになろう。けれども、歴史学者は「書かれている」ものを研究するのだが、若松さんは「福音書」の文字には「書かれていない」、その奥底を読んだのだった。

 

 ぼくも「書く」。毎日曜日の教会の礼拝での説教、また、聖書についてのエッセイをよく書く。しかし、それら何千字の奥に、書き得ないものを潜ませていなかった。文字で伝えようとしていた。文字しか伝えていなかった。

 

 「言葉の奥に、コトバを読み取る。その彼方にあるものを見定めるために何かを書こうとしているかもしれない」(p.26)。

 

 ぼくは聖書の文字の奥に、言葉、「その彼方にあるもの」を読み取って来ただろうか。これからもしばらく何かを書くのだが、書きながら、聖書の奥のコトバを求めたい。

 

 神経を病んでいたという時期、若松さんは井上洋治神父の勉強会で質問をする。

 

「質問というよりも訴えに似たようなもので、矛盾を前にした苦しみと出口がないことへの恐怖を切々と語り続けた。典型的な神経症の症状の現れではあった。三十分は優に超えて話していたと思う」(p.206)。

 

 「一度も言葉をはさむことなく、だまって話を聞いてくれていた。そればかりか、神父は静かにこう語った。

「とてもよいお話を聞きました」

 この一言はほとんど、啓示のような強度で心を越え、魂に響いた」(同)。

 「神父はこう言葉を継いだ。

「本当に苦しかったと思う。しかし、信仰とは何かを知ることによって深まるのではなく、生きてみることではないだろうか」」(同)。

 

 ぼくなら、神経症的な語りを三十分もじっと聴くことはできず、「とてもよいお話を聞きました」という言葉も出せないだろう。信仰については、神は無償で愛してくれるとか、いつもともにいてくれるとか、言葉で知らせる、「知る」ようにさせる試みしかできない。信仰をまずは生きてみるように招くことはしないできたことに気づかされた。

 

 若松さんはエックハルトを評して言う。「人は神とつながるだけではなく、「言」を通じて、「永遠」なるものを世にもたらす神聖なる義務をもつ」(p.356)。

 

 ぼくは、音声や文字だけを伝えようとしていた。「永遠」なるもの、永遠なるお方がそれを道として誰かのところに赴いてくださるようにとの祈りが欠けていた。

 

783 「畦。あぜ? うね?」・・・ 「農は過去と未来をつなぐ――田んぼから考えたこと」(宇根豊、2010年、岩波ジュニア新書)

 この新書シリーズから著者が出しているもう一冊の本を読んだ後のノートを公開したところ、「あ、宇根さんだ」というコメントをいただきました。何冊も本を出しておられるし、「宇根豊さんってこの世界では知られた人なのだな」くらいにしか思わなかったのですが、今回、この本を読み終えて気づいたことがありました。それは、このノートの最後に書きます。

 

「田んぼは人間のためにだけあるというのはまちがい」(ⅲ)。田んぼに生きる、あるいは、田んぼから出て生きる動物、植物、さらには、それら生物の未来のためにあるということでしょうか。

 

「赤トンボもカエルも「農産物」「農業生産物」にすればいい」(ⅲ)。しかし、「農業商品」にすればいい、とは言っていません。

 このような独特の問いかけから本書ははじまり、それらは本書全体に満ちています。

 

「農産物のおカネになる価値が本体であって、自然などのおカネにならないめぐみは副次的な価値である、という見方は正しいのでしょうか。私は、これこそが農の土台を冒涜してきた近代化思想だと思います。農は農の土台である自然に対価を払っていません。払う気がないから、自然が痩せてきたのではないでしょうか。むしろ近代化技術は、自然をタダで食い尽くしてきたのではなかったでしょうか。私が自然をもちだすのは、農は自然に支えられているのに、本気で自然を守ろうとしていないことに憤るからです」(p.130)。

 自然に対価を払うということは、自然、動植物の生息環境を守る、自然を痩せさせない、ということでしょう。

 

「「生業」という言葉は、今では死語になってしまいましたが、もともとは作物を育てる営みのことです。人間と在所の自然の生きものたちがいっしょに生きていくために仕事をすることです。したがって、おカネにならない仕事も含みます。自分のためではない仕事も含みます」(p.195)。

 

 農業のこのような側面をしっかり見て、行政は農民に給料を払ったり農業を金銭面で援助したりすべきではないでしょうか。

 

 「百姓仕事が風景を「生産」していることを言い立てるのです。風景も立派な農業生産物だと、国民や政府や自治体に認めさせるのです。風景を支えている百姓仕事や百姓暮らしに、これ以上の効率を求めさせないようにするのです」(p.209)。

 

 「自然や(田んぼなどの)多面的機能は、たまたま生じているように見えますが、じつは百姓仕事によって生み出されていた」(p.210)。

 

 伝統芸能の継承者と同様の仕事であることを認め、行政が農民に手当てを出すべきではないでしょうか。そうすれば、効率、効率、と言わなくて済むかもしれません。

 

 「棚田が平坦地の田んぼにくらべて、美しいと感じるのは、なによりも畦が美しいからでしょう・・・棚田は畦の面積が大きいから、高いから、目立つからです。そして、その畦がよく手入れているからいいのです。これが草が生い茂った畦やコンクリートの畦なら、美しいと感じるでしょうか」(p.215)。

 

 「平坦地の村でも・・・棚田の村ほどではないにしろ、同じように畦を手入れし、田を作っているのです」(p.217)。

 

 このふたつの引用に著者名のヒントがないでしょうか。

 

https://www.amazon.co.jp/%E8%BE%B2%E3%81%AF%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%A8%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%90%E2%80%95%E2%80%95%E7%94%B0%E3%82%93%E3%81%BC%E3%81%8B%E3%82%89%E8%80%83%E3%81%88%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%87%E6%A0%B9-%E8%B1%8A/dp/4005006620/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=2RBFTP1GT7YZ&dib=eyJ2IjoiMSJ9.j64lqvHSqp514KLRKjCi7MdNjlIhEsBnSolF2a4t1G35J6KV7NnlAOnpwan-2q-dwILIWi-fB1x0HR41fLj2M5liLB7mIJ1SrrqzU3x32dMM6xgOH5oRn5HGNZwCpp46Z1npKL0XnB1F3oSN2AxiCw3sEFjt3nk82KpE84YUUFzeXYRjnmZ_v3szRS2IzSakLyd49XbGfCrqVyhcOuSWEs6Wx94ktD70MiMmMLLmIxyeXx2A6o6jUkwPMKsacKMD3WK3zvFWFBfpzTxgmqsZqi-Mk9XzVqxx6Ghrwpouisk.ObqLdk8icyqxJLig2_P6ePE-c2JMZ819jMOz2WFzeqI&dib_tag=se&keywords=%E8%BE%B2%E3%81%AF%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%A8%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%90&qid=1710566138&sprefix=%E8%BE%B2%E3%81%AF%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%A8%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%90%2Caps%2C190&sr=8-1

 

782 「農村は国家や企業のためにあるのではない」・・・「日本の農村社会とキリスト教」(星野正興、日本キリスト教団出版局、2005年)

 幕末までの農村社会には、自治と自由があったが、それ以降、貧しくされてきた、と著者は言う。

 

 ひとつは、地租改正による。穫れ高に関係なく地価に基づいて金で納税しなくてはならなくなった。また、入会地、草刈場のようにもともと共有地であったものが官有地とされ、以前はそこから自由に入手していた燃料、資料、肥料を、今度は金銭で買わなければならなくなった。こうして貧しくされる。

 農民は小作料を搾取され、資本家はもうかり、日本の資本主義化が進む。国も地租改正によって国家財政をまかなう。その結果、農民は貧しくなった。

 

 天皇が一番の地主となり、農村の地主はミニ天皇となる。神社制度が形成され、天皇につながる祭儀が村でなされ、村行事も農事もそれに基づく。こうして、農村の自治と自由は損なわれていく。

 

 キリスト教1860年代前後くらいまでは、自治と自由の農村に入り込む余地があったが、天皇・神社体制が固まると、撤退せざるを得なくなるし、農民の貧困や天皇制問題に教会は取り組まず、むしろ、農村からすすんで撤退したようだ。

 

 1900年代前半から「農民福音学校」を賀川豊彦らがすすめるが、これは、国策にのった「満州開拓基督教村構想」につながってしまう。ここにも天皇制や国家への批判はない。むしろ追従している。

 

 学徒動員は覚えられているが、農民が戦争に送り出されたことは空気のように当然のこととされ思い出されることはなかった。「農民をめぐる近・現代史の総体が、国家・国民をして、農民を戦争の第一線に送り出してしかるべきものと捉えさせた」(p.156)。

 ただし、農民福音学校などを通して伝えられた「立体農業」(「聖書農業」「三愛農業」)は国策に抗うものであった。国家は「大規模単作営農」を推進しようとするが、立体農業は各個が米、野菜、果樹など様々な作物を育てるのである。

 

 1961年に公布された農業基本法も「大規模営農」を押し付ける。「単作・大規模経営を目指す営農には手厚い保護が加えられ、そうではない営農を行う者には不利となる仕組みが築かれたのである。これが、国家が新たな地主的管理者になった証左である」(p.148)。

 

 「農地改革によって「明治地主制度」は終焉したとは言うものの、また天皇人間宣言や新憲法による天皇の象徴化があったとしても、それは、より強固な地主としての「国家」が旧地主に取って代わったということであり、日本の農村・農民をめぐる状況は基本的かつ根本的には変わらなかったのである。農地改革というアメを与え、収穫というムチをもって、国家は農民に向かったのである」(p.158)。

 

 農業基本法による農政は、高度経済成長と連携して、これからさき、日本の農業は、欧米型の企業的農業への道を歩まされる。しかし、それは、日本の気候や地形にあうものではなかった。そもそも、企業的農業に問題がある。巨大国際食糧ビジネスは地球環境を破壊するものであったことが、あきらかになってきている。国家は農村、農民、農業をそのようなところに連れて行こうとしていたのだ。

 

 それは暴力となってあらわれる。「単作・大規模・機械化農業に合わない農業は切り捨てるという政策との関連の中で浮上した地が三里塚だったのである」(p.224)。成田空港を建設するためにどれだけの国家暴力が振るわれことか。

 

 キリスト教は農村で何をしたのか。著者の指摘をいくつか挙げよう。教条的・原則主義的姿勢を崩さなかった。「教会のなす時代批判は当を得ていても、返す刀で地域文化も同時に切り捨てた」(p.254)、教会のメッセージは難解で、農民への励まし慰めになっていない。

 

 世界規模の異常気象、地球温暖化、世界規模の巨大食糧ビジネスによる自然破壊、二酸化炭素排出、それに加担する国家、貧富の格差、これらのつながりなどに関わる本を、ぼくは最近続けて読んでいるが、本書が問題にしている、天皇制国家による大規模単作農業推進も、同じ文脈にあるように感じた。

 

 https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BE%B2%E6%9D%91%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%A8%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99-%E6%98%9F%E9%87%8E-%E6%AD%A3%E8%88%88/dp/4818405639/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=172O8LKH8ARQC&dib=eyJ2IjoiMSJ9.k-E0Jy8S26Vv0m3emBmNKpgWF72CPsnq5qr1RSjHTbx_lizHwNgAWWexzk0YdTZe9hsSn4K2zxQLZoFFr71ae3Yxg7kGgPqsI0jPxVIsuDE-mBay3sxaHKM9TASxHfKe3IcNqCYH0L40nRpar0LhA9e9pVmm4XUyu6vUpkwu3eBrnV33yS2ZKw04afrkiGboe418qhWnBCB24XT7XXpVJIPXPuPH8CVdYdQ00jUoebqtdsmh67PREmD6AK_zDky5aP41BNuHX9ZgttxJJ8EA9d6Ohl-bSL0bsGpBminDSgA.2CivCQTSifIKLetcUoMYPiCzw-sFZb_qYLrhpleAyJQ&dib_tag=se&keywords=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BE%B2%E6%9D%91%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%A8%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99&qid=1710561428&sprefix=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BE%B2%E6%9D%91%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%A8%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%2Caps%2C166&sr=8-1

781 「神学などと言わず、証しと言おう」 ・・・「証し 日本のキリスト者」(最相葉月、KADOKAWA、2022年)

 キリスト教の牧師を30年近くやっているが、ぼくの話は「証し」ぽくない。難解な理屈っぽいことは語らないが、「ぼくはこう信じている」というよりは「聖書によれば、神はぼくたちにこうしてくださる」ということを中心に述べる。

 

 具体的には、神は無条件でぼくらを愛してくださる、神はいつでもどこでもともにいてくださる、ということだ。

 

 けれども、「神」を主語にする語りだけでなく、「ぼく」「わたし」を主語にしたメッセージも教会や信仰生活では求められる。そのお手本として、この書にある135人の証を読んでみようと思った。

 

 一挙にではなく、少しずつ頁をめくり、一年かけて、昨日ようやく読み終えた。1100頁。

 神学書には、信仰を基盤としているとはいえ、キリスト教や聖書の思考や思考が整理されてか記されているが、この本には、信仰者の人生や思いが満ちている。

 

 たとえば・・・(最相葉月〈著〉とあるが、以下の引用は、各信仰者の言葉を最相さんが文字化したもの・・・)

 

「神様の家族の一員になれるし、やっぱ天国に行けるっていう約束をもらえたのが嬉しかったです」

「主語が変わった気がします」・・・おそらく、主語が「わたしは」から「神様は」になったということだと思います。

 

「夫は愛してくれないけれど、神様は愛してくださる」・・・「夫は」を「誰も」に変えても良いでしょう。

 

「干からびていた気持ちが潤っていくようでした」

 

「洗礼によって人格は変わりませんが、生きる基盤が与えられたと思いました」・・・人がすっかり変わったという人もいれば、ものの見方が変わったとか、良いことが起こるように変わったとか、いろいろだと思います。

 

「親子の愛をはるかに超えた神様の愛に、おいおい泣いてしまいました」・・・そうなんですよね。聖書では神さまの愛は親の愛にたとえられることが多いのですが、人間の親にはかなり限界があって、そういう意味では、神さまの愛は親子の愛をはるかに超えていると思います。

 

「牧師の子どもはいびつに育つ子が多いんです」・・・ぼくもいびつな一人ですが、まっすぐな方もおられると思います。でも、牧師家庭では子どもにある種の重荷がのせられることは否定できないですね。

 

「神様の働きというのは三つの方法があって、人を通して働く、出来事を通して働く、み言葉を通して働く」・・・人にも出来事にも聖書にも神さまの愛や促しが感じられるとよいですね。

 

「神様とつながっていることに信仰の意味があると思う」・・・そう、つながりって大事ですよね。

 

「罪があろうが、神はあなたを大切にして、あなたを高価だといい、命まで懸けてくれているんだ」・・・大切、高価という言葉が大切だよね。

 

「避けどころのない苦労をしたときに私を引っ張ってくれたのは、人間じゃなかった」

 

「教会は民族の癒しの場所です。在日の教会は全国どこもそうやないですかね」

・・・このふたつは友人のお母さまの言葉だと思う。

 

「いつのまにか、イエス様とご一緒になりました。いつも一緒なんですよ。助けてくださいましたね、いつも見ていてくださいましたね」

 

「私、がんばったけど、それは神様のおかげ。やっぱり苦しいときがあるんですよ。だから神様、苦しい、神様、助けってくださいって、お願いします」

 

「「今日、百合子さんとご家族がお茶の会に来られたのは神さまの恵みです」って。最初は違和感を覚えましたけど、考えてみれば確かに、私はこんなふうに日常生活に落とし込むことを」・・・神様がいつもともにおられ働いておられることを日常の出会いの中に「落とし込む」と、そのお茶会は神様の恵みということになるわけです。これも世界観、人生観ですね。

 

「人間の力ではどうしようもないことが世の中にはたくさんあるんだと、そのことを忘れないために私はクリスチャンになったんだと折にふれて思うようになりました」

 

「信仰には積み上げはない。ただ、右往左往はあります」・・・そのとおり! 名言ですね。ぼくも信仰生活数十年ということですが、上昇もしていないし、深まってもいないです。おろおろはしてきましたが。

 

カトリックプロテスタントでは、私たち人間はすべて罪を背負って生まれてきた罪深き存在だといいます。原罪だといいますが、みなさん、これをキリスト教だと勘違いしていますね。聖書を読むとそんなことは書いていません。まず、人は神様から造られた尊い存在だと、神様の似姿だと。それを前面に打ち出すのが正教会です」・・・尊い存在、似姿というのはその通り。ただし、原罪のことが書かれているという聖書の読み方もありますね。

「人間を見たら罪人だと思えというのがカトリックで、人間を見たら神様を見なさいというのが正教会です」・・・正教会のようなポジティヴな人間の見方はたしかに大切ですね。

 

「聖書をなんぼ読んだって、信仰はもてません。たくさんの人がキリスト教の学校を出ていますけど、聖書を毎日学びながら学校を出ても、信者になる人はわずかでしょう」・・・元ミッションスクールの聖書の教員としてはおおいにうなづきます。

 

「信仰というのは、神様から与えられなくちゃ、どんなに私たちが努力して求めてもつかみとることはできないものなんです。神様がくださるもの。だからこそ、福音と言えるのです」・・・そうですね。こういうのは、神学とか教理とかではなくて、まさに、証し、信仰ですね。

 

「聖書に出てくる盲人は、イエス様によって癒されます。でも実際には、癒されない盲人がほとんどですよ。じゃあ、癒されない盲人は神の業を現すことはできないのでしょうか。私はそうは思いません。癒されないままに神の救いが与えられて生涯を終えられたら、そのこと自体が神さまの栄光を現すことになるといえるのではないでしょうか」・・・これは生涯をかけた、信仰の、深い証しですね。すばらしい。

 

 知っている人、つながりのある人がかなり出てきます。先日天に召された牧師さんは、「神学などと言う必要なない、信仰と言えばよい」と言っておられました。「証し」と言うのもよいでしょうね。

 

https://www.amazon.co.jp/%E8%A8%BC%E3%81%97-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E8%80%85-%E6%9C%80%E7%9B%B8-%E8%91%89%E6%9C%88/dp/404601900X/ref=sr_1_1?crid=2E4N2HIPBDTJO&dib=eyJ2IjoiMSJ9.-hHMiXnMx0KkAFdg2Q31K_iEUzHM5FzrSblYQ0KZTCyvLhLQBcUz1Mu1MXXQk1g4aW88QN4k9IjUuBjA9hDuxsUGrLgwYG-szEqdCtQ4sZ4IYNJOQYzwq1TiwkMvtrvwvSFIHc8DcFlO4tamYDI0I5cnW6eAheSOySlIVmU6ZZcMIc0JPh7THQj8oXZFiKUlJ0d0ukJjM9Lw25SeDou0Zd_np-IDGuWOZDG8tuEBXlwA9ci5Ex7bF7zvw1mF7RowYRgSGeuX7wLu7HmkayUoPahKLdr3QUuySQFsg-F22mE.U_p2cA7GzS8rIaG4MYU7EvUgX7-iUi8PjPPDVWUqNt8&dib_tag=se&keywords=%E8%A8%BC%E3%81%97&qid=1709950941&sprefix=%2Caps%2C173&sr=8-1