ラグビーマガジンに面白い記事が、、、。(ラグビーマガジンから抜粋)『再掲載』

2年前に内藤徳男氏を訪ねて私が営業していたノーサイド(現在は別の店)にラグビーマガジン社の方が取材に来ていた。その本が本棚から出て来た。このブログを見ている方の中にラグビーファンが圧倒的に多い。久々にラグビー談義のベースになれる文面を掲載した。

この先輩のアタマの回線は本質追究型に出来ている。会話していると『何故なんだよ、どうしてなんだよ!』と論理的に追求してくる。

また、他人にどう思われようが気にしない。自分を平気でさらけ出す。『俺は俺だよ!アイツはアイツなんだよ!それが俺の個性でアイツの個性だよ!』と相手の個性も認める。

だからこの先輩の周りには人と情報が集まる。

最近、歳のせいか弱気が見え隠れする。お互いに『最近、うつなんだよ!』と言い合っている。家族以外に人生の中で一番寝食を共にした方で18歳からお付き合い、僕にいろんな意味で影響を与えてくれた方である。


読んで下さい。面白いよ!ちょっと長いけど、、、。

この地で『ラグビーどころ』と呼べる貴重な地である秋田県
県内高校チームは10前後だが、毎年、
花園切符をめぐって
熾烈な戦いが繰り広げられる。
その中にあって『巨人』秋田工業に、
創部数年で互角の戦いを
繰り広げるまでになったのが男鹿工だ。



自分たちより強いチームに勝つとすれば、大差はない。勝つなら僅差。
そのためには、前半をどうやって接戦に持ち込むか。
どうやって中盤を戦うか。それができなければ、後半、大差で負ける。



 秋田ラグビーの背骨といえば秋田工。創部1925年、全国大会出場61回の押しも押されぬ名門である。その巨人に、真正面から立ち向かっていったのが、男鹿工監督を25年務め、この春に退職した内藤徳男だ。秋田と男鹿はローカル線で1時間、同じ県内でも強いライバル意識を持ちあう土地柄。内藤も実は、秋田市内の出身。父親は国労をバックに衆議員を務めた政治家。そんな環境で、反骨の気風が育まれていった。




 「柔道やってて中学で全県優勝。そこそこ強くてさ。高校でも柔道部だったんだけど、夏にラグビーの試合を見たら、その激しさ、スピード感にびっくりした。それでラグビー部に入ったんだけど、1日でいやになっちゃった。でも当時の監督から『お前は鳴り物入りで高校に入ったんだから、首に縄つけてでも辞めさせない』と。
大学に進んだのは法政と早稲田の試合をテレビで見たのがきっかけ。16-0で早稲田が優勝した試合(‘65年度大学選手権決勝)。それで大学でラグビーがやりたくなって、『早稲田に行きたいです』と言ったら、監督に『何ねぼけてんだ』高校も卒業できるかどうか分からないのに”って。




 それでなんとか法政に入ったんだけど、合宿所を見て、すぐ辞めようと。でもまた監督に怒られちゃってさ。『お前、自分から行くって言っといて、今さら辞められるわけないだろ!』って。案の定、地獄だった。1年が奴隷。4年が神様って言われた時代。新入部員の半分は夜逃げしてた。



 3年の時はFLで出てたけど、4年になっていいFLが下級生に入ってきて抜かれて、夏合宿は2本目。で、キャプテンに『HOで勝負したいと』それから練習した。俺の人生であんなに真剣に物事に取り組んだのは、最初で最後。菅平の夏合宿から5カ月間、いつもグラウンドから引き上げるのは一番最後だった。


 当時の監督だった石井さん(徳昌氏・故人)は個人練習する選手を認めてくれたから、4年生のときは全試合出た。とにかく、大観衆の前で早稲田と戦うことが夢だったんだ。当時、法政はマスコミから新興チームと言われて、石井さんも1年中『打倒伝統校』とたきつける。そんな中で早稲田戦のメンバーに選ばれた。あんなに嬉しいことはなかった。どんなに走っても、苦しいとかきついとか何も感じない、最高の状態だった。



 試合はどうなったと思う?キックオフの後、記憶ないのよ。張りきりすぎて、ラックに入ったときに頭を打って、そのまま試合は出たんだけど、気がついたら帰りの東横線の電車の中。あとから聞いたら1点差で負けてた。もう情けなくてさ。泣くに泣けなかった。それ以降、目標喪失しちゃった。なにもやる気が出なくて。



 留年が決定してたから、5年目は親から仕送りもらってぶらぶらしてた。利潤を追求する仕事はしたくないと思ってたんだけど、それが何だか分からなかったんだよね。親父の紹介で交通公社を受けることになってたんだけど、悩みすぎて皇居の前で寝ててさ、起きたら試験終わってた。



 6年生の時に衆議員が解散になって、秋田に帰って親父の選挙を手伝えと。そこで秋田市立高校(現秋田中央高)のコーチになった。そうしたら2年間眠っていたラグビーへの気持ちがぐっとわいてきた。教員免許はあったから母校の臨時講師になって。それからですよ。



 ようやく進む道を見つけた青年監督は、若さゆえの情熱で突き進む。が、結果は出なかった。
 「監督になったとたん、自分が無知だということが分かった。FWのことは教えられるけど、試合の組み立て、BKプレー、まったく知らない。秋田工のBKにコーチに来てもらって、パスを教えてもらった。あのころは毎晩のように飲み屋で飲んで、ああでもない、こうでもないって、おちょこを並べてね。それでやっと理解できた。



 法政のイメージがあるから、あの頃はいい選手をBKにしてた。ところが、高校ラグビーは違うんだ。10月の秋田予選の頃って必ず雨が降る。試合が行われる八橋のラグビー場は泥だらけで、革のボールに泥がついて、放れやしない。いくらいいBK作っても、秋田工のFWに絵に描いたように押される。10年も監督やって勝てないから、OBと喧嘩してね。



 そのうち、秋田市立高校が県立移管になって、金足農から脇坂先生(憲雄氏・故人)という有名な先生が来られて、俺が出ることなった。じゃあ俺が金足農にいこうと希望を出したらすでに決まった人がいて、創立間もない男鹿工にいくことになった。そこに教頭でサッチュウ先生(佐藤忠男氏・故人=秋田工ラグビー部の育ての親)がいたんだ。男鹿工には2歳年下で東京教育大でラグビーやった監督がすでにいたから、部長になって、距離を置こうと思ったんだけど、気がついたら、その監督を押しのけて、俺が主導権握ってたんだよね(笑)。



 男鹿でいい子は当然、秋田工に進学する。これじゃダメだと、1年目から中学にいい選手を紹介してもらって家を回った。玄関に行くと嫌な顔をされるのがいちばんつらかった。当時は学校も荒れてたし、ラグビー部もできたばかり。家に通って通って、『男鹿工に入ります。』って言っても、秋田工からの電話1本で変わったりね。いま男鹿工のコーチしてる武藤弘樹ってのは勧誘に行ったら、『俺は男鹿の人間だから、男鹿工に入って、秋田工を倒してやる』って。嘘でも嬉しかった。それが初優勝した原動力だね」



自分にとっては県予選で秋田工を倒すことが、すべてだった。
全国大会に出てどう戦おうとか、考えたことはなかった。
だから、ダメだったのかなあ。
もしかしたら、秋田工の一番のファンかもしれない。

初めて秋田工の厚い壁を打ち破って7-7の引き分け抽選で花園切符を手にしたのは‘88年度。創部8年目、赴任5年目、監督になって通算16年目のことだった。



 「うちが同点にした後も攻めて攻めて、最後PGを狙ったら、バーに当たって外れた。それからまた攻めただけど、抽選になった。これで負けたら、ラグビー人生は終わりと思ったくらい緊張したんだけど、抽選勝ちして。全校応援だったから、男鹿工の生徒が泥だらけになった選手と抱き合って泣いてんだ。職員も泣いてた。秋田工というのは。秋田県で常に意識せざるをえない存在だからね。」



 以後この春に定年になるまで、男鹿工の先頭に立ち、秋田工を倒すことに精魂を傾けた。花園出場は4回。秋田工自体、全国大会に出場すれば上位に入っていた時代。それは表に出ない重みを持つ。25年間監督として追求したのは、「挑む側」のラグビーだった。



 「勝負事って、いいラグビーして弱い相手に勝つことじゃない。五分五分か、相手が強い時にどう戦うか。自分たちより強い相手とラグビーをやったら、絶対大差じゃ勝てない。前半で接戦にもってくるような組み立てをしないと大差で負ける。前半いかにして接戦にもっていくか。



 取ったり取られたりのゲーム展開じゃない、時間との勝負。相手陣内にいかに長くいるか。極端な言い方をすれば、無理してトライ取りにいかなくてもいい。点の取り合いになったら、力のあるほうが勝つ。そうするとやっぱり近場勝負になってキープザボール。



 ラグビーは中盤の攻め方で決まると思ってる。『自陣10から敵陣10』の間で、どう攻めるか。常に中盤は攻めながらでも、どう地域をとるか。



 それは、やっぱり10番(スタンドオフ)。三洋電機トニー・ブラウンを見てると、FWが見て、ここは蹴ってほしい、というところは必ず蹴る。常にFWを前に出す組み立て。ラグビーって100FW。FWを殺すようなSOはダメ。



 最初はかっこよく『俺は法政出身だからオープンラグビーだ”と言ってたけど、結局10年勝てなかった。それが男鹿工にいって、がらりと変わった。俺の言ってることはラグビーファンからすれば面白くないかもしれないけど、ラグビーは陣取り合戦。どんなにいい練習、ハードな練習をやってもラグビーは陣取り合戦だということを忘れたらダメ』



 確固たる勝利の哲学を持つ。だが、とことん勝利を追求した先に見えてきたのは勝負事を超えた人生の真理だった。




 いつも言うのは『お前らの力を出し切ったら負けるよ』と。そのためにはどうするか。簡単にいえば、同じ実力なら3年生を使う。同期の桜ってやつ。1年生じゃだめだし、2年生でもだめ。同じ釜の飯を食ってきた最終学年。俺は今なら実力四分六分でも3年生を出す。最初はそうじゃなかったんだけど、だんだんわかってきたんだ。100しかないやつに200出せというのは無理。でも50なら出せる。『これが最後だ』って思いが試合前にまとまると、それができる。それが高校ラグビー



 高校生とって、最後の花園予選で一生誇りに思えるようなゲームをできるかできないか。たった1試合なんだけど、その1試合を失敗しちゃうと子供たちも親も卒業してから集まらなくなる。何十年経っても、集まって飲んで話すのは、必ず最後の試合なんですよ。単なる勝ち負けじゃない。その後の人生にすごく影響力を与えるし、父母も『ラグビーやらせてよかった』と思える。



 俺にとっては秋田県の花園予選が、最高の試合。だから花園に出場しても、途中でまけてしまう。負け惜しみかもしれないけど、全国優勝はできなくても、偉大な秋田工にチャレンジして、いいゲームをして、生徒を社会に送り出すことがすべてだった」



 男鹿工監督として最後の昨年度。県予選準決勝で母校の秋田中央と対戦、こんどは5-5の引き分け抽選負けで、花園出場を逸した。



 「去年は1年間で3回抽選負け。最後が、花園予選の準決勝。生徒も最後の戦いだと燃えてくれて、いつも泣かせることばかり考えてるから泣けないのに、最後は俺も感極まって涙して。九分九厘描いた展開だった。



 5対0でリードしてロスタイムになって、タッチにボールを出したら、もうワンプレーあって、敵ボールのラインアウトから相手に回されて、5対5。そこで抽選負け。秋田中央は秋田工との決勝で、強気で回して大差で勝って花園に出た。中央高校の祝勝会に招待されたとき、『後輩と勝負して負けたんだから、悔いはないと』



 勝負の原点は大学4年。早大戦のメンバーに選ばれたことだという。挑戦者である男鹿工に、自らの姿を重ね合わせる。



 男鹿工いった当初はふてくされて、飲み屋でも荒れてた。それがだんだん『よっしゃ』と思うようになった。振り返ると、男鹿工だから秋田工に勝てたと思う。同じ工業高校同士で。俺の人生と同じなんだよね。俺はいつも2番手だった。打倒秋田工、打倒早稲田。生徒に『見返してやれっ、同じ高校生だろ』って言ってて、自分で言葉に詰まるときがあるんだ。



 そういうとき、俺はわざと落ちこぼれって言う。本当は言っちゃいけない言葉なんだけど。だって俺自身がそうなんだもの。男3人兄弟で、2人の兄貴は勉強ができて、俺もできると思ってたら、違ってた。小さい時から電車を止めたりする問題児。身体は小さい、足は遅い、勉強はできないし、性格いい加減。



 野球で打てなかったとか勝てなかったとかは納得できる。バレーもバスケットも。素質の勝負だから。ラグビーの何が素晴らしいかというと、足が遅くても、パスも下手でも、自分の感情を爆発させられるんだ。ボールを持ったときにまっすぐ当たるとか、走ってきた選手にタックルするとか。他の競技じゃレギュラーになれなくても、流れを変えるプレーヤーになれる。高校ラグビーで流れを変えるのって、うまい子じゃないんだ。『ここ』と決めて、どーんとタックルにいったときに流れが変わる。



 人間って飛躍する瞬間があって、それを出させるのはラグビーしかない。ラグビーほど高校生にとって教育的価値のあるスポーツはないんだ。個人スポーツも自分を追い込むことはあるけど、ラグビーはひとりじゃなくて、チームがお互いに影響し合いながら自分を高められる。そうするとすごい力が出て、1年に1回くらい15人が影響し合う試合がある。それは個人競技では味わえない充実感がある。それを味あわせることができた指導者は、花園に行けなくても最高の指導者だと思う。



 今年は、ボランティアで明桜高校を指導した。毎日の練習に15人揃うかどうかも分からない、これまで指導してきた強豪ごはまったく異なるチームだ。それでも、日々新しい発見があると目を輝かす。「もう二度と練習を見ることはないと思ったんだけど、縁あって明桜高校にいったらね。ラグビー素晴らしさを再確認したね。一兵卒に戻った。練習だって、15人揃うかどうかわからないんだもの。彼らから見たら俺は、ただのおじさん。あいつら、『内藤さん』っていうんだ。先生でも何でもないから。それがまたいいんだ。」



 その明桜も、今年の花園予選1回戦で大舘工に5-5の抽選負け。いま気をもむのは、この2年、花園から遠ざかっているライバル秋田工の動向だ。