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無造作な雲 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2008-10-12

雑感 内田樹先生「ノーベル文学賞の日」を読んで

内田樹先生が、村上春樹ノーベル文学賞待望論をお書きになっている。

http://blog.tatsuru.com/2008/10/09_1307.php


日本の文壇村上春樹を無視し続けてきたことは事実だし、それに対する内田先生の批判もそれなりに理解できるんだけれども、どーも賛同しきれない違和感が残る。


ノーベル文学賞を受賞した場合、日本の批評家たちはなぜ彼らの仕事が村上からこれほど軽んじられたのか、またなぜ彼らは村上文学の世界性を予測できなかったのか、その意味を今でも理解できないでいるのか、その説明責任を負うだろうと私は思っている。

ノーベル文学賞の日 (内田樹の研究室)

よーするに、内田先生の中では、「ノーベル賞受賞作=世界的に評価される質の高い作品」という図式があって、それが自明の前提とされていることに、ボクが感じる違和感の原因があるような。


ノーベル文学賞が、その作品の“世界性”を担保するなんて、多くの人がそんなこと思っていないと思うんだけど、ボクがずれてるのかな。


大江健三郎の作品をボクは嫌いでではないけれど、彼がノーベル賞を受賞した理由は、彼の作品の世界性にあるわけではなく、野間佐和子・講談社を筆頭とする「大江にノーベル賞を取らせたい一団」のロビー活動が功を奏したがため、であると思うし、もしいつか春樹さんが受賞すれば、やはり同じように感じるだろう。


春樹さんがもしノーベル文学賞を受賞すれば、真にすごいのは野間佐和子だと思う。二人もノーベル賞作家を作り出したことになるのだから。




内田先生は、日本の文壇の「非・世界性」を批判なさるし、それはそれで的を射ている部分もあると思うんだけど、じゃあ、これまでのノーベル文学賞受賞作が、その国内の批評において、その世界性をきちんと評価されていたのか?っていうと、きっとそんなことないだろう。根拠ないけど。内田先生の批判は、特に日本の文壇に独特の問題ではなく、「批評一般」について当てはまることなんじゃないだろうか。


自前の文学理論にあてはめてすぱすぱと作品の良否を裁定し、それで説明できない文学的事象は「無視する」というのなら、批評家の仕事は楽である。


文芸批評というものは、テクストを読む過程において、読み手(批評家)が、以下に自己の価値観なり世界認識なりが揺さぶられたか、そしてその徹頭徹尾パーソナルな揺らぎの中に、どのような普遍性があるのか、を探るものだとボクは思っている。

そういう立場からすれば、自己の価値観を揺さぶることのない作品など、どれだけ売れていようが他人に評価されていようが、無視して当然だとも、思う。


また、たとえば蓮実さんなどの村上春樹批判は、現代の日本の社会のある部分への、蓮実さんの一連の批判の中に位置するもので、根底にある蓮実さんの日本社会批判のその認識が、たかだか一作家のノーベル賞受賞くらいで揺らぐものでもないだろう。



批評家は、たとえこの作品がノーベル賞を受賞するような作品であるかもしれないと思っても、自己の批評家としての倫理なり論理なりによって、その作品を批判することが内的に要請されれば、そうするだろう。そうすべきだろう。


無論、それまで「つまらない」と言っていた批評家が、ノーベル文学賞受賞をきかっけに、その作家なり作品を礼賛するようなことがあれば、それは愚かしいことだと思うけれど、蓮実さんや松浦さん(個人的に奥泉光さんも加えたい)など、春樹さんを批判してきた人の多くは、恐らく春樹さんがノーベル賞受賞したところで態度は変えないと思うし、春樹さんを批判してきた「説明責任」ってのも、その時々の批評においてそれが十分になされていれば、ことあらためてなされる必要もないだろう。


要するに、「他者や世界がどう評価しようが、この作品は[傑作|駄目]なのだ」と言い切るのが批評の第一歩(無論、それが批評そのものでも、批評のゴールでもない)だし、それがぶれなければぶれないほど面白いと思うのに、内田先生は他者や世界の評価に自己の評価をあわせろ、とおっしゃっているように、ボクの耳には響くのだ。


スエーデンのおっちゃんたちがどう思うが、そんなことで主張が左右される批評家のほうがよっぽど不逞な輩だと思うんだけど。