<マイノリティ憑依>という強力な概念の提示

『「当事者」の時代』を読んだ。

新聞記者時代に体験した警察と記者の夜回りの共同体をつまびらかにする前半、60年代〜70年代の左翼運動を総括する中盤、いずれも単体としても非常に読み応えがあり、その中から<マイノリティ憑依>という事象を浮かび上がらせていく。

「すべての日本人に突きつける渾身の書下ろし」という帯に偽りなく、佐々木俊尚さんの今までの著作とは次元がちょっと違うような凄い本だと思った。<マイノリティ憑依>とは、当事者性を失い、弱者や被害者の気持ちを神の視点から勝手に代弁すること。

「「被災者の前でそれが言えますか」という発言。あるいは、福島の母子の気持ちを勝手に代弁する多くの人たち。」

おれは結局被災地に一度も行っていなくて、テレビを持っていないのであまり映像も見ていなくて、それに対してある種の疎外感を感じる。不謹慎極まりないことは自覚すれど、感じるものは感じてしまうのだ。

震災のちょっと前に映画館で観ていた『ヒア アフター』冒頭の津波シーンが震災当初辛うじておれの想像力を掻き立ててくれたし、何ヶ月もたって思想地図Βで見た誰もいない街の写真や、『ヒミズ』でスクリーンに映る辺り一面の瓦礫を見て戦慄しても、しかしそれは遠くで起こっている戦争と大差ない距離感に感じられてしまう。


1970年前後の総括は圧巻だった。

80年代に生まれ、『ぼくらの七日間戦争』を中学の時に読んで全共闘という言葉を知り、『反乱のボヤージュ』に惹かれて、学生時代に学生運動と近接しかけた時期があったこともあって、ずっと何となく学生運動とは何だったのかというもやもやが頭に引っかかっていた。

この本で描かれる、60年代末に学生運動が行き詰まり、自分たちが何の当事者であるかを見出せない中で、「七・七告発」を象徴にマイノリティの視線という突破口を見出したときの高揚感に共感した。

しかしそれが結果として<マイノリティ憑依>を生み出したという。想像上の弱者を情緒たっぷりに擁護することでヒロイズムのような高揚感を感じたり、自分はマジョリティーに属しているという安心感を得たりして、時にエンターテインメントとして機能することは、自分の体感にも合う。


もう一つ、ハイコンテキストとローコンテキストという話で、自分がなぜfacebookが嫌なのかを1つ見つけた気がする。

おれは濃密なハイコンテキストか、twitterのようなローコンテキストなものかどちらかが好きで、だから晴れの自分の見せびらかし合いになりがちな、いわばミドルコンテキストのSNSが嫌なのだと思う。だけどそれが新しいステップにいけない自分の原因でもあるのだろう。


情緒に訴えないことは一つの指針にはなると思う。

いくら道徳を語っても技術的に可能なことはいつか誰かがやってしまうし、それを責めることはできない、と思ったのがそう信じるようになった始まりだった。

たとえば、地球の裏側の生涯決して交わることがないだろう10人の命と引き換えに、最愛の人の命を救う方法があったとして、それを選択した人を責めることはできないと思う。

『困ってるひと』を読んで、そのあと「倫理に触れないようにするほうがいいんだ」といういうほぼ日の対談を読んでもそう思ったのだけど、この本を読んで情緒に依拠しないことの重要性を改めて感じた。

だけど当事者以外の想像力は一切無効なのか、<マイノリティ憑依>に陥らずに自分が当事者である他のものをイメージして共鳴することはできないのか(当事者以外には共鳴しているか判断することができないのだろうけど)、でもそれでは経験至上主義に全面的に従うしかないわけで、それは諦めるしかないのだろうか。


上記の学生運動との近接は2つあって、1つは知り合いが企画に参加していた学祭でのイベントが学生運動によって潰された。おれも所属していたサークルの代表として、学生運動の人たちが企画した全体会議のようなものに出た。

彼らには進めなければならない学祭の準備もないので、満場一致になるまで討議を続けるべきだと言ってほんとに24時間連続とかいうレベルで会議を続けようとするのだ。

だけど、あそこには確かに圧倒的な存在感を持ったカリスマのような人がいた。

もう1つの近接は、大学の理事と学生運動の代表との定例ミーティングに、別の団体の代表として参加していた時期があった。

最初おれらも学生運動の一派だと一括りで見られていたと思うし、正直自分たちでもその区別がついていなかったと思う。おれが参加していた団体のトップなど、いざとなれば大学に立てこもると本気で言っていたし、おれもそうしていたかもしれない。

あの活動を通じて、自分たちは何かに反対したいのではなくて、現実的な問題として活動の自由がほしいのであって、その道が開けるのであれば喜んで「帝国主義的搾取」の「当局」と連携すると、そういう風に活動のアイデンティティを確立していった。

最後に素敵な結末にたどり着いたのは(「当局」と連携してイベントまで立ち上げた)、「当局」の代表だった方が、ある時に「みなさんのサークル活動に対する思いを聞いていて、自分も学生時代にバスケに命をかけていたことを思い出した」といってくれたところから潮目が変わってのことだった。

それは想像力が当事者性を獲得した一つの形ではないだろうか。

物事はゼロとイチではなくて、完璧は無理でもより良い方向に進んでいく方法もあるのではないか、それを見つけていきたいと、この本の終章を読みながら考えた。

「当事者」の時代 (光文社新書)

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