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2017-03-02 妄執と狂気の狭間

妄執と狂気の狭間

 先週末に面白い人物と出会った。f:id:ichi-nagoyajin:20170223194617j:image:w320:right

 大学社会人入学して政治学を学んでいるそうで、「河村市政の『改革』はなぜ頓挫したのか」を卒論のテーマにして、名古屋における河村市政の動きを追ううちに、私のこのブログに行き当たり、参考にされていたそうだ。

 写真はその方がファイリングしてくれた当ブログの記事。

 また、週末には話題の映画ラ・ラ・ランド」を観た。非常に感銘を受けた。本日はこの2つのテーマをお話したい。

 この二つは実に密接に関連する。

 まず、「河村市政の『改革』はなぜ頓挫したのか」という話題については。

 「やっていなかったから」「しなかったから」と言う以外に回答は見つからない。

f:id:ichi-nagoyajin:20170302211241j:image:w640:right
ここに示しているのは、河村市長がこの8年弱の間、名古屋市当局内に作った
プロジェクトチーム(PT)」の一覧だ。(表はクリックしていただくと拡大表示されます)

 全体で23件作ったそうだが、そのPTの活動状況を網羅したものだ。(中京独立戦略本部は本会議分科会に別れており、項目数は24件ある)

 ○は河村市長自身の出席があった会合、×は出席が無かった会合だ。
まず、×の会合が目立つ。

 つまり、河村市長はPTを立ち上げるが、自分では出席しない。
 こう言うのを言い慣わす言葉がある、そう「丸投げ」だ。

 ちょっとご注目いただきたいのは「市民税減税10%検討プロジェクトチーム」について、開催状況を見ていただきたい。なんとこの5年間開催されていない
つい最近、来る名古屋市長選挙に河村市長出馬するとの報道にあわせ、減税日本ナゴヤの議員新聞紙上で「市民税減税10%への引き上げも含めて考えていきたい」というような事を言っていたが、名古屋市当局内では「市民税減税10%」など、すでに誰も目指していない(市長を含む)。そして、何もしていない(市長を含む)。このPTの開催状況を見てもわかるとおり、すでに「終わった話」と思っている(市長を含む)。

f:id:ichi-nagoyajin:20150101122657j:image:w640:right
減税日本街宣車には「市民税減税10%」の上に「5%」のシールを貼って修正しているよね。まるで、スーパーのタイムセールの「10%値引き」のシールの上に、タイムセールが終わったから「5%値引き」って貼るみたいなものに思えるけど、気恥ずかしさも無いのかな。


 この減税議員がこうした実情を把握していないのだとしたら、議員として失格だろうし、知っていて言っているのだとしたら市民を欺く明白な嘘で、人間として疑う。

 こんな「丸投げ」状態で、その上「放置」していて、「改革」なるものが成立するのであれば、この世は楽だ。(この世界のどこにも、靴屋の小人は居ない)

 この一覧表にも見えている、中京都構想、地域委員会高速道路の料金改定、金シャチ横町、SLの走行、大きな改革であれ、小さな改革であれ、すべて頓挫している。その理由は簡単だ。

 「やっていないから」

 そもそも河村市長はどんな「改革」を掲げていたのだろうか?
 彼の2009年の市長選挙マニフェストの3大テーマを再確認してみよう。

1.日本一税金の安い街ナゴヤ
2.日本一福祉医療住民自治が行き渡った街ナゴヤ
3.日本一早く経済復興する街ナゴヤ


 え?違うって?

 河村市長の3大公約は 「1.減税、2.名古屋城木造化、3.議会改革」だって?
 そんな事は2009年には盛り込まれていない。

河村たかしの名古屋政策 減税ナゴヤ 庶民革命・脱官僚

 名古屋城木造化は言葉すらない、それどころか逆に本丸御殿の建設にも反対だった。
議会改革については、報酬、定数の10%削減程度で、そんなものは議会が先行して実施した。

 そして、減税は10%(0.6%)が公約なんだが、知らない間に5%(0.3%)に減ってそれでよい事になっている。

 言っている事が変わっているのは河村市長の方だ。

 そして、上記の3項目について、1と3は、結局「減税政策」に行きつくが、これが経済学的に成立しない事は常識であり、河村市長自身が「信頼する」という経済学者リチャード・クー氏も著作で減税政策に対しては否定的発言をしている。

 2011-10-30 リチャード・クーさんの本を読んでみた(前編)

 問題は2で。福祉医療については間違いなく劣化している。
 また、住民自治については2つ大きな問題がある。

 河村市長住民自治テコ入れとして「地域委員会」を進めようとした。
 しかしこの地域委員会は完全に頓挫した。
 制度設計が酷すぎたし、その進め方も強引であり、地域の実情に合わせたものとも言えなかった。

 この制度を設計した名古屋大学の後教授の「サードセクター」という存在を失い、制度の片翼が無くなったにも関わらず、強引に形だけ作ろうとした。これはあまりに無理が過ぎた。

 強引に進めようとした背景には、河村市長が「公約を実現したい」という欲望があったからだろう。しかし、これは、そもそも地域委員会を作る為の理由である「住民自治の為」という目的からは外れている。つまりは、市長のメンツを保つための単なる「我欲」でしかなかった。

 それと、河村市長は「住民自治が行き渡った街にする」と公約しながら、
 自ら条例に定めた「議会報告会」を開催していない。

 名古屋市会が、無茶な議員報酬半減を是正して、議員報酬を引き上げたが、こうした場合でも、議会報告会を開催していれば、議会住民の間で議論をする場ができたかもしれない、それを奪っているのは河村市長だ。

 この議員報酬議論議員定数議論。これらを正当に行っていないのは、減税日本ナゴヤ市議団と、河村市長の側なのである。

追記:
そういった事柄のディテールは、過去のこの記事に詳しい。
2014-10-09 チラシ「存在が問われる地方議員」について その1
2014-10-10 チラシ「存在が問われる地方議員」について その2

 こうした姿も名古屋市民には伝わっていない。

 住民自治については、まったく言っている事と、やっている事が逆だ。

 名古屋市長選挙を迎え、候補者同士の討論会が切望されている。
 各種団体候補者である河村市長と岩城弁護士に出席を求め、二人による討論会を開催しようとしているが、河村市長は出席を拒んでいるそうだ。

 これで住民自治が行き渡ると思っているのだろうか。
 市民の民意に耳を傾けるといえるのだろうか?
(わざわざ大阪まで出かけて行って、橋下徹のテレビ番組には出るのにね)


 そもそも、「改革」に関わらず、この世で何かをやり遂げようとするのであれば、私は次の3つの要素が欠かせないと考えている。

 まず一つ目はそれへの「熱望」だ。
 「改革」なり研究なり、それを実現したいという熱望が無ければ絶対に成立しない。

 次に重要なのは「戦略」だ。
 「戦略」とは、「目的」に対するアプローチだ。
 冷静に理知的に、目的達成の為の条件をそろえ、それをクリアしなければ目的には行き着かない。

 そして最も大切な要素、それは「狂気」だ。
 まだ見たこともない、だれもやっていないような事でも、
 それを実現化できるという「確信」

 それは狂気に近い。

 映画ラ・ラ・ランド」はそれを描いている。
 そもそも題名の「ラ・ラ・ランド」という言葉自体、夢見がちな人々を揶揄して使う「夢の国」という言葉だ。

 社会は常に変化している。様々な事物が変わり、そうした変化が人間の生活を、生き方を、存在すら変化させている。昨日までの在り方をそのまま踏襲していては、社会は成立しえない。生物の体が新陳代謝をするように、社会も古い要素を捨てて、新しいものに替えていかなければならない。そうした活動が滞れば、社会は歪み遂には緩やかな死を迎える以外ない。

 大学とは本来「リベラル・アーツ」を修める場所だ。「リベラル・アーツ」とは、既存の学を継承する事ではない。過去の事例を丸暗記し、同じ事を繰り返すのは学問ではない。

 「リベラル・アーツ」とは社会を壊す事だ。現在の社会の形を変革し、替えていく行為を「リベラル・アーツ」という。
 高校生程度までは「出された問題に答えること」が学問であり「テスト」であっただろう。しかし、大学においては「どのような問いを立てることができるか」が課題である。
 そして、適切な問いを立てられるものが「学士」と呼ばれるにふさわしいのだろう。

 しかしその姿は時に「狂気」に写る。

 ひとが空を飛ぶ、機械が人間のように考える、地球の裏側に居る人々と会話ができる。
 これらは現代では当たり前の事かもしれないが、2世紀も前の人々に話せば正気を疑われた事だろう。


 私自身にも覚えがある。
 まだ「パソコン」なんてものが無かった頃。(まだ30年ほどしか経っていないが)
個人で使えるようなそれは、マイコンと呼ばれていた。

 手作業プログラムを入力していく。プログラムを書く作業の後半は、プログラム機械語に置き換える作業で「ハンドアセンブル」と呼ばれていた。こんな感じだ。


XOR A : AF
LD B, 24*6 : 06 90
LD D, 0H : 16 00
LD E, 0H : 1E 00
CALL 0BFEEH : CD BF EE
RET : C9

 左のアセンブルコードを右の機械語に「翻訳」していく。
 慣れてくると、何も見なくても「翻訳」ができるようになる。

 ある日昼食をとりに行きつけの喫茶店にこの作業を持ちこんだ。食事の後、延々と紙に書きつけられた小さな文字の後ろに、意味不明の数字をゴチャゴチャと書いている自分を見て喫茶店のママさんが「あまり根を詰めすぎないようにね」と心配してくれた。気でもふれて、電波を受信でもしているのだと勘違いされたのかもしれない。

(ちなみに、上の例は手近な資料を写したものだけど、

XOR A : AF
LD B, 24*6 : 06 90
LD D, A : 57
LD E, A : 5F
CALL 0BFEEH : CD BF EE
RET : C9

こうした方が1/14 M/T早くコードも2バイト節約できる。
・・・・なんてこと言っていると、いよいよ狂気じみてくる)


 まだ見ぬものに対する切望と、確信。
 それへのたゆまぬ努力、こうした積み重ねが形になる。

 この切望に公益性があれば力が結晶する。
 私が鼻を突っ込んでいたコンピューターの進展なんてものは、
 私なんぞなんの意味もないぐらい勝手に進んでしまった。

 この熱望も、個人我欲では駄目だ。
 個人我欲固執するなどと言うのは、単なる妄執でしかない。

 名古屋城天守閣を木造化するだとか、ナゴヤにSLを走らせるだとか、総理大臣になるだとか。

 総理になって、で、何がしたいの?
 何ができると思っているの。
(2万5千人の名古屋市職員を使いこなせない人間が、64万人国家公務員を使いこなせるわけがないじゃないか、笑わせるな)

 しかし、社会を本当にかえていくのは、そして昨日と違う今日や明日を見せてくれるのは、映画ラ・ラ・ランド」でも描かれた「夢にとりつかれた人」なのだ。

 それは、妄執ではなく、真の狂気に裏打ちされているのだ。

市長選挙を見越して、市民が両候補を呼んで討論会を開こうとしているようだ。
果たしてこうした会合に河村市長は現れるのだろうか。
民主主義発祥の地、ナゴヤの市長として、市民の前に現れるのだろうか。
f:id:ichi-nagoyajin:20170302072518j:image:w640:right
それとも、醜悪にも頬かむりをして逃げるのだろうか。


追記:
ブログのこの記事
2016-08-13 日本人の生産性が低い理由

に関連性の高い文章があったのでご紹介。

日本人の労働生産性の低さは従業員の働き方とは関係ないことを証明しよう@小倉さんは考えた

2017-02-22 名古屋城木造化予算可決へ?

名古屋城木造化予算可決へ?


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名古屋市会が天守閣木造化予算を可決するかもしれない?

「市民の多くが天守閣木造化に賛成しているから」というのは
2万人アンケートの誤った読み方だ。

2016-05-31 名古屋市内の各メディアは、今こそ「貸し」を返してくれ

6割の市民が木造化に賛成しているのではなく、木造化に賛成している市民は21%しかいない。
そのうち、市長案に賛成できる市民は 7.8% だ。

これを争点に河村市長選挙をやるのであれば、それこそ民意を見誤った選挙となる。
是非やってもらえばいい。

そもそも河村氏を「選挙モンスター」とおそれて
「争点を作るな」という人達がいるが、バカじゃなかろうか。

チャレンジャーが争点を作らなくて選挙になるわけがない。
河村市長というテレビタレントに埋没するだけだ。

減税政策名古屋城天守閣木造化
これは、河村市長が思っているほど名古屋市民の支持を得ていない。

特に減税政策はよくよく見れば利益がなかったことが明白だ。

それを説けば 可能性 はある。

勝てるとは言っていない。
しかし、争点をボカしてしまっては勝機すらない。

議会は敢然と、見識と良識を持って、この予算(採算計画の是非)を判断すればいい
この予算に賛成するということは、議会もこのメチャクチャな採算計画合意したということになる。

名古屋市政史に残るバカ査定をすることになる。
悔いを残さないでいただきたい。

ただ。ここで名古屋市会がバカをやっても、日本には良識が残っている。




もう一度申し上げる。
名古屋市会がこの予算案を可決するということは、
この採算計画合意したということなんですよ!

見識と良識をもって、
選挙などに惑わされず、
毅然と対応していただきたい!

一度ご覧ください!

名古屋市民の建てた 名古屋城天守閣を守ろう!

名古屋市民の建てた、魂の天守閣に、
鍬を打ち立てるのであれば、
河村市長が一人で、専決ですればいい。

議会が付き合う必要など無い。


2017-02-21 合法性と社会的正義

合法性と社会的正義


今週の中日新聞社説「財政拡大の亡霊が再び 週のはじめに考える」は酷い代物だった。かの上野千鶴子氏の論考と合わせて考えてみると怒りすら覚える。

東京新聞:ページが見つかりませんでした(TOKYO Web)

アベノミクス評価はどうでもいい。こんなものは中途半端な代物だとしか言いようがない。しかし、それらを述べる中に事実関係の誤りがあるのではないのか?
そして、そうした誤りから国民を、地域住民ミスリードするのではないのだろうか。

社説子は「いよいよ財政破綻現実味を帯びています」と根拠も述べずに煽り、財政破綻の末に施行されうる「財産税」について次のように述べる。

「つまり一回限りの約束で預金不動産などに最高税率90%の空前の「財産税」を断行。貧しい層も例外なく対象とし、なけなしの資産収奪した


戦後実施されたこの財産税課税率は次のようなものだった。

財産額):税率
10万円超-11万円以下 :25%
11万円超-12万円以下 :30%
12万円超-13万円以下 :35%
13万円超-15万円以下 :40%
15万円超-17万円以下 :45%
17万円超-20万円以下 :50%
20万円超-30万円以下 :55%
30万円超-50万円以下 :60%
50万円超-100万円以下 :65%
100万円超-150万円以下 :70%
150万円超-300万円以下 :75%
300万円超-500万円以下 :80%
500万円超-1,500万円以下 :85%
1,500万円超 :90%


当時の大卒初任給はおおよそ500円だそうだ(昭和21年:国家公務員大卒初任給(504円))。
今のそれが20万円とすると、

500円:20万円でおおよそ400倍と言う事になる
10万円の資産なら4000万円ぐらいと考えられるだろう。

現代の一般庶民が持つ資産といえば、預貯金保険含む)にせいぜい不動産ということになるだろう。しかし不動産は特に、土地が高騰したのはこの後のドッジ・ラインの頃以降であって、当時においてはそれほどのインパクトを持っていない。ほぼ、預貯金だけを考えてみれば、当時(終戦直後)の一般庶民が4000万円などと言う資産を持ってはいなかった。

この財産税について詳しいのは東洋経済新報社の「昭和財政史 終戦から講和まで」である。(ある意味、この会社は当事者でもあるから)

こうしたサイトもある。

そして預金は切り捨てられた 戦後日本の債務調整の悲惨な現実――日本総合研究所調査部主任研究員 河村小百合 | DOL特別レポート | ダイヤモンド・オンライン

ここの4ページ目に「図表3 財産税課税財産価額」という表が掲げられている。

昭和21年から26年の累計で課税対象件数の総計が約180万件であったことが判る。

7年間の課税対象件数が約180万件。

とても「全国民を対象とした」とはいえない。

しかし、この河村小百合日本総合研究所調査部上席主任研究員はこう書く。

政府による税揚げ総額の観点からみると、いわば中間層が最も多い。このように、財産税の語感からは、ともすれば富裕層課税を連想しがちではあるが、実際にはそうではなく、貧富の差を問わず、国民からその資産課税の形で吸い上げるものであったといえよう


この言葉を真に受けて良いものだろうか?全国民を対象に、貧富の差を問わずに課税した対象件数が約180万件で済むものだろうか。財産、10万円以上というこの対象件数の中での中間層とは、すでに十分「富裕層」であって、この課税は「富裕層課税」といえるのではないのだろうか。これをして「貧富の差を問わず」とか「貧しい層も例外なく対象とし」と言えるのだろうか?*1

また、この施策は「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」に基づいており、つまりは戦争によって得た利益を没収するという意図もあったようだ。

1948年春に発表された財産税の納税番付トップは天皇家であり、37億4300万円を納められ、11家51人の皇族財産税を支払ったうえで皇籍離脱しているという。

こうした歴史的事実を振り返って、もう一度社説子の言葉を見てみましょう。

つまり一回限りの約束で預金不動産などに最高税率90%の空前の「財産税」を断行。貧しい層も例外なく対象とし、なけなしの資産収奪した


果たして実情に即して語られている言葉だろうか。

国家は、いざとなれば「課税」という合法的な形で国民から財産を奪う暴力装置と化す。
 泣くのは国民です。負担をし、正当な給付を受ける。それがあるべき姿です。増税先送りの甘言や楽観論に惑わされず、政治家を厳しく選別することの大切さを歴史は示しているのです


国家が暴力装置である事は初手からその通りだ。

しかしそれは租税と言う場面で語られるものではない。
(そんな事を言っているのでは某市長と同じではないか)

国家主権は人命を奪う事も許されている。
(開戦権やら死刑制度がそれだ)

課税と言うのは、それがなければそもそも通貨が成立しないことを当ブログではすでに述べた。また、課税が間違いなく富の再分配を行い、社会的公正を実現し、そもそも経済を再駆動させる契機となる事は間違いがない。

課税と言う合法的な形で国民が「奪われる財産」と騒ぐ代物は、では果たして常に正しく分配された結果だろうか。(マイケル・サンデル議論を思い出すべきだ)

労働法制を破壊し、本来禁止すべき「口入屋」を合法化して、その「口入屋」に自らなり、巨万の富を得た「経済学者」の財産が正当なものとは思えない。

若者の貴重な時間を絞りとり、異常で違法な価格破壊を行い、他の正当な競合業者を駆逐し、巨万の富を得、はたまた国会議員になるというような(衣料販売・居酒屋)経営者利益も正当なものとは思えない。

そして、収奪された若者の消費が伸びず、家庭を持たず、子どもを産み育てないことを知り、内需テコ入れだの少子化対策だのとあたふたと筋違いの政策を打つ。その姿はバカの極みだ。


トマ・ピケティは、資本主義は放置しておくと、資本が集中し、資産格差が拡大すると統計的に突き止めた。

それに対するには再分配であり、資産に対する課税が必要だと訴えている。

国家が課税と言う暴力を使わず、タックス・ヘブンに資産が流出することも容認し、合法的にこのアンバランスな状況を容認するのであれば、私は赤木智弘と同じ気分になる。

「この社説子をひっぱたきたい、○○歳無産階級。希望は、戦争。」だ。

「丸山眞男」をひっぱたきたい

一昨日、在特会のバカどもが「竹島返還」「国土を奪った韓国から、竹島を取り戻せ」と言っていたが、国土を奪ったのは、「安倍晋三記念小学校」なんじゃないのか?

あんな、タダみたいなお金で国有地が貰えるんだから。(補助金も加えると、土地を貰った上にお金までもらえているようじゃない)在特会韓国竹島を返せと言う前に、「安倍晋三記念小学校」の前で国有地を返せと叫ぶべきなんじゃないのか。

呆れるのは、この土地取得自体は合法に進められているらしいということだ。

合法性が社会的公正からかけ離れると、正義は法の枠組みを踏み外す。

視点を替えよう。

社説子戦後行われたこの「財産税」の執行が「国家的暴力」であると主張する。

しかし、では、この「財産税」によって行われた資産の再分配はどのような結果を生じたのか。結果として国は自ら発行する国債の信用を維持した。戦争による不当な利得は収奪され、からくも社会正義は(一部)実現された。皇族や地方豪農を始め、資産が分配されることで、国民は広く経済競争を開始することができた。結果として後に高度経済成長を始め、世界で最も成功した社会主義と言われるほどの厚い中間層を持った豊かな社会が到来したのである。

確かに、高度経済成長公害などの問題も孕んでは居た。しかし、その経済政策は概ね大成功であり、日本戦後復興の姿は奇跡と讃えられもしたではないか。(勿論、朝鮮半島に起きた戦争日本経済成長を促したという事も忘れてはならない)

総合的に評価して、この戦後の「財産税」は失敗なのか成功なのか?見習うべきなのか見習うべきではないのか?

上野千鶴子が提唱する、「みんな平等に貧しくなろう」こうしたローマクラブの二番煎じの言葉は実は酷薄な現実を生み出す。何故かならば、全体が貧しくなる時、その全体の中で、格差はさして変わらないからだ。今豊かな層が貧しくなる時、今貧しい層はより一層貧しくなるのだ。今ですら、シングルマザーフリーターの青年の生活はギリギリのレベルであると仄聞する。いや、もしその状態で、体を壊したら、体調を崩したら、即座に生活が行き詰まるレベルだ。そうした者に、それ以上貧しくなる事を強いるのは暴力以外の何物でもない。

今現在の資産格差合法的に積み上げられたものだろう。しかし、それが常に社会正義の結果といえるのだろうか。

財産財産を生み、無産階級から財(就労時間)を収奪する。この収奪肯定することは、合法ではあっても公正ではない。

そしてそのような不公正を、現実を歪めて広く社会に喧伝する行為は暴力である。
メディアが暴力装置となった姿と、私には映る



脱成長派は優し気な仮面を被ったトランピアンである――上野千鶴子氏の「移民論」と日本特殊性論の左派的転用 / 北田暁大 / 社会学 | SYNODOS -シノドス-

*1:しかし、社説子の論調はこのサイトに非常に近い。まさか、社説ともあろうもののネタ元がオンラインのコラムなのか?