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市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0 Twitter

  一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。


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−「真・庶民革命」特設ページ−
   名古屋市会議員報酬半減化、その裏にはなにがあったのか。
   議員報酬が議論となっている今、ぜひご覧ください。

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2016-07-13 プロの責任

プロの責任


混迷する東京都知事選挙
上杉隆が出馬表明で「知事給与の返上」を公言したそうだ。

東京都知事になったら、その給与は一切要らないということだという。

まるで 誰か の上をいく発言だが。

そんな事が成立するのだろうか。

また、そんな事が 「正しい」 行為だろうか。

首長議会、はたまた職員給与を削減しても
その額はたかが知れている。

東京都知事の場合は約一億円削減できるそうだ。

しかし、地方自治体や国の財政を苦しめている
扶助費、社会保障費、義務的経費の増大は
そんな金額とはケタが違う。

首長議員職員給与を削減して
何とかできるなどというのはまやかしだ。

それでなくとも日本は世界屈指の「小さな政府」になってしまっているのだ。
これ以上 公助 の仕組みを縮小する事は
弱者切り捨てに他ならない。

こういった マンガ があったそうだ。

f:id:ichi-nagoyajin:20160713071929j:image

首長議員に立候補して、
自らの給与を返上しようという者たちが居る。

その大変さを知っている人間なら、
たとえ意気込みを現す言葉にせよ、
「タダでもいい」などと軽々しく口に出したりしない。
そいつはロクに働いたこともない怠け者で、
一時の気分で舞い上がっているだけだ。


まったくその通りだ。

または、その通りだった。

ところで減税日本所属の諸君。
名古屋市会リコール運動は一体どうしたのだね?

参議院候補のOさんは
今後も活動を続けていくらしい。

この減税日本の理念ともいうべきリコール運動には知らんぷりを続けるのか?
それとも、単に国会議員のバッチを付けてみたかっただけなのだろうか。

政治をおもちゃにしようとしていたのは誰なのだろう。

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2016-07-10 現代政治の変化について

現代政治の変化について

 前回のエントリー名古屋城木造化復元に対する様々な会合の内、名古屋市市民オンブズマンによって開催されたシンポジウム (参考: no title )において、名古屋大学の田村教授から提案された「熟議民主主義」について書いていた文章の内、参議院選挙投票までに掲載しなければ意味を失う部分についてピックアップしたものです。
 選挙前に慌てたものですから、「熟議民主主義」については全く触れられないままでした。今回、これを軸に考えている事をもう少し述べさせていただきたいと思います。

 そういった事柄よりも前に、選挙結果はほとんど想像通りでした。
 最近はSNSなどを使って候補者が主張を伝えることができて便利です。


https://twitter.com/dogbell_okuda/status/751211845961195520:embed

キャッシュ 奥田かよ(減税日本&おおさか維新の会) on Twitter: "あなたの玩具でもない! https://t.co/x2miSpj2By"


 当該ツイートに返信しましたように。私には国民一般に平等に与えられている権利しかありません。こうしたブログなどで自身の意見を表明することは、表現の自由として当然許されている天賦の人権です。そこで市政について語ることが「おもちゃにする行為」なのでしょうか?

 しかし、翻って市長や公職者にはその責任と権利が与えられています。

 例えば市長であれば、所管するあおなみ線にSLを走らせることもできますし、その乗車について抽選にされた一般市民とは違って関係者として機関部に乗り込むこともできるのでしょうし、汽笛を鳴らすこともできるのでしょう。

 大部分の市民が、市長がSLに乗って喜ぶことを主権者として希望したのでしょうか?

 市長がまったく自分の趣味で、SLを持ち込んで大喜びで乗り込んでいるのは、これは市長の権限を利用した「遊び」であると断じて当然なのではないのでしょうか?

 名古屋城にしても同じです。市民の民意を無視した予算を計上し、あまつさえそれを事実上取り下げる。こんな無責任な政治的ブレは、審議時間も無駄ですし行政にも要らぬ負担をかけている事になります。(この騒動で動員された職員人件費は誰が負担するのか)
 こうした事を踏まえ「市政をおもちゃにしている」と批判する事は当然の事なのではないのでしょうか。*1

 そして、ツイッターで指摘したとおり、名古屋市議会を解散し第一会派を獲得する。
 ほとんど地方自治において「革命」を実現させたにも関わらず、いったい何ができたのか。結果として何もできなかった。いや、しなかった。それはなぜか。
 そうした検証や反省もないまま、国政において「革命」を実現させようとするのは、あまりに無責任です。
 検証、反省もないまま、単なる思い込みや妄想で社会を変革することは、社会をおもちゃにする行為に他なりません。

 社会を変革するという者は、その実効性を説明し、証明する説明責任を持ちます。そして、当然それに対する批判は開かれていなければなりません。それを満足させられない者はそういった提案を行う資格を持たない。

 政治を語る資格を持たないのです。



 さて、そういった事は置いておいて。
 田村教授の「熟議民主主義」について。私は民主主義について前回次のように述べた。

 民主主義は万能ではない。(略)消極的な選択として民主主義は選ばれているに過ぎない。真の民主主義が訪れ、人々の政治意向が正しく社会に反映されたら、バラ色の社会が生まれるなどというのは幻想に過ぎない。
 ヒトは容易に判断を間違えるし、社会に対する理解も万全とは言い難い。
 そのような個々人が、無責任に集まったのが現代社会であるならば、過誤の総和である民意が絶対真であると推定するのは無理がある。
 (略)
 民主主義が優れているのは、そうした政治判断が、常に批判に開かれているという一点に尽きる。
 正しい選択ができるのではなく、誤った選択について、誤りであると認められること。
 これが民主主義の優れているところだ。

参議院選挙雑感 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0


 誤りを素直に認める成員だけであれば「熟議民主主義」も成立できるだろう。しかし、現実の政治が困難なのは、こうした誤り、思い込み、偏見にとらわれた人々が多い事にその原因がある。人間がこうした蒙昧から啓かれないかぎりそれは成立しない。
 当日でもこうした意見が出されましたし、私もそう思います。

 田村教授の「熟議民主主義」にまつわる論考として、現代政治の変化という論点があり、これについて非常に刺激を受けました。

 かいつまんで説明すると従来の社会では「確固たる社会的支持基盤に支えられた政治政党 → 大衆政党」が存在した。
自民党に対する農協やら地域組織。社会党共産党に対する労働組合
 政党とはこうした支持基盤社会的集団)の利益代表として、政治闘争を行う。
農協であれば農業製品の国内保護や補助金の分配。労働組合であれば労働条件や雇用条件の法整備)
 しかしこうした支持基盤が弱体化している。
 社会的集団自体が組織力を弱めている。

 結果的に社会と政党の結びつきも弱体化している。

 政治がこうした明確な社会集団から離れて、不明確な支持基盤(浮遊票)によって構成されていく。

 そうすると、既存の社会集団に支えられていた政治集団に対して「既得権」という批判が起こる。

 明確な支持基盤を持たない新たな政治集団は、既存の政党、社会の中の集団と強く結びついている政治集団に対して批判を行うために「既得権打破」という批判を繰り広げる。

 また、既存の社会集団と結びついた政治集団、政党であれば、こうした集団の利益意向を整理する為に明確な組織を通して、そうした政治的運動を行う。

 けれども、新たな政治勢力は社会の中にこうした明確な支持基盤を構築せず、個々の有権者と緩やかな支持関係を築こうとする。

 その結果:政治の「パーソナリゼーション」
 ・政党のリーダーが政党の「代表」(代表中の代表)として、個々の有権者と直接的につながる形で支持を獲得。
 ・リーダーのパーソナリティ・振る舞い方が、政治を決める重要な要因となる。
 ・「演出」のための戦略が重要になる。



 つまり、政治実態有権者社会的闘争)を離れ、どんどん「演出」された「キャラクター」たちの間の単なる人気投票になっていく。
 

 私は当日、田村教授に指摘したように。
 こうした傾向に加えて、「有権者消費者化」が顕著ではないかと思っている。

 都市部において、人口流入している。東京大阪名古屋などで人々が周辺部から都市中心に回帰しているようだ。こうした傾向によって都市部では「人口」は増えたが、地域自治の担い手不足が問題となっている。
 つまり「人口は増えたが住民が減っている」という問題がある。
 これはこのブログですでに述べた。

 同様に「有権者」も自身を「市民」や「国民」あるいは「組合員」と言ったような集団の成員として自覚する機会が減っている。ましてや「有権者」「主権者」として責任を追及されるような場面もついぞ存在しない。

 現代社会の人間が自分をどのように自覚するか。
 その時間が最も長いものは「消費者」だろう。

 現代人は「消費者」として扱われることになれている。

 結果として政治的言説においても「(これを買えば/支持すれば)これこれが手に入りますよ」という「消費の言葉」が溢れかえる。

 自民党選挙テーマが「この道を。力強く、前へ。」であり、
 民進党選挙テーマが「国民とともに進む。」であった。


 「この道を。力強く、前へ。ナイキスポーツシューズ」
 「この道を。力強く、前へ。トヨタランドクルーザー
 「国民とともに進む。日本生命
 「国民とともに進む。イオングループ

 どうだろうか。

 支持基盤が不明確であるため、実は何を訴えたいのか。どこを向いているのか判らない政治テーマになっているのだ。*2


 こうした空間では政治は「行政サービス」として、あるいは仮想的な演劇として提供されてしまう。
 こういった過誤が広まった結果。国家財政家計企業会計見立て議論がもてはやされ、均衡財政論や「行財政改革」「小さな政府論」つまりは、「安い政府」が支持を得てしまっているのだ。

 そして、今の日本でこれ以上「小さい政府」を主張するのは、単なる政治音痴の証明でしかない。

 図録▽大きな政府・小さな政府(OECD諸国の財政規模と公務員数規模)

 田村教授が指摘するように「リーダーのパーソナリティ・振る舞い方が、政治を決める重要な要因となる」

 舛添要一知事の座を追われたのも、その「パーソナリティ・振る舞い方」が問題だったのだろうし、大阪橋下徹が生き残っているのも「パーソナリティ・振る舞い方」がテレビサイズだからだろう。その他にSEALDs の奥田や憲法学者小林節などの例も、その内容如何ではなく、「パーソナリティ・振る舞い方」によって支持を得、批判を受けているように思える。(そして、その言葉の多くは政治的な文脈とはかけ離れている)

 テレビのフレームに「はまる」 パーソナリティは持て囃される。

 社民党の吉田党首などはこうした「はまり」方をしなかった典型だろう。


 ここで話は突然飛ぶのだが。
 立川談志は「落語とは人間の業肯定である」と断じていた。
 人間とは誤りが多く、愚図でノロマでずるい生き物だ。そしていとおしい生き物なのだ。
 落語は人間のこの醜い姿と、それへの慈しみを描いているから、ヒトはその話が聞きたいのだ。ヒトはその話を聞くことによって、自身の業を肯定することができる。

 実はテレビなどのメディアにおいても、根底を流れるのはこうした「人間の業肯定」である。文学でも映画でも、およそこうした観点から外れるものはない。(というか、外れてしまえばその作品は作品として成立していない。*3


 テレビという仮構の世界、文学落語という「消費される物語」の中では人間の業肯定される。肯定されねばならない。

 しかし、実体の社会においては時として人間の業肯定され得ない。

 自動車メーカーはどのような事情があっても安全製品販売しなければならない。調理師は食材の衛生に絶対の責任を負っている。消費者が口に入れるものに、衛生という観点から一切の妥協も許されはしない。自動車メーカーの社員が「自社製品をよく見せようというのは人間の業だから」であるとか、調理師でも「気を抜くときはある」などと言って、いい加減な製品を提供する事は許されない。

 消費者は当然すべての甘えを許されている。
 それに対峙する提供者、サプライヤーにはこのような甘えは許されはしない。

 実体的な政治の場において、政治家サプライヤー、提供者である。
 その政策は車であり食品である。車に不正な部品が使われていたり、食品の衛生が守られていないようなら、その提供者はその市場から退場する以外にない。

 ここにおいて「人間の業」などという言い訳は通用しない。

 しかし、テレビのフレームの中では、人間の業を持った者が肯定され、もてはやされる。

 テレビのフレームの中で肯定され持て囃される者が、今後も実体政治の舞台に上がろうとするだろう。しかし、それは消費者と、提供者というまったく異なる基準物差しで測られるべき人々を、混同する行為でしかない。

 本来であれば政治家自身が、そして最低でもメディアに携わる者は、この両者の間の溝に自覚的であるべきだろう。




追記:
朝の打ち合わせまで時間があったので作ってみた
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*1:しかし、機関車とお城をおもちゃにするというのは、いかにも幼稚ですが

*2:両党のテーマが、どことも指向を言わずに「前へ」「進む」としているのは特に興味深い

*3文学などでは、その作品の存在自体が、作者の業の発露であり、それを受け入れる事自体が業の肯定となっているという「読み」も含めてメタ構造的になっているものもあるだろう

2016-07-07 参議院選挙雑感

参議院選挙雑感


 いよいよ参議院選挙も終盤を迎えた。
 ほとんど結果は見えてきているように思われる。

 また、このブログを読まれる方は、よもや減税日本には投票されないだろうから、ここで減税日本問題を指摘しても投票行動に影響はないだろうと思われる。

 興味があるのは、名古屋市内で減税日本、及び「おおさか維新の会」が得票シェアの8%を確保できるのかというところだろう。

 この線が、多分「河村」の呪縛中日新聞、T記者の名古屋市民にかけた「呪い」の影響ラインだろうと思われるからだ。

 結果として河村たかし名古屋市長は、名古屋に何を残すのだろうか。
 または、政治団体としての「減税日本」という存在は何だったのだろうか。

 よく言って「齟齬」その実態を見れば、まったくの嘘八百を並べ立てた、政治詐欺でしかなかったと言えるのではないだろうか。


 民主主義は万能ではない。他に適当な制度が無い。独裁政治や寡頭政治が、現代の民主主義よりも優れた制度とは言えない事から、消極的な選択として民主主義は選ばれているに過ぎない。

 真の民主主義が訪れ、人々の政治意向が正しく社会に反映されたら、バラ色の社会が生まれるなどというのは幻想に過ぎない。

 ヒトは容易に判断を間違えるし、社会に対する理解も万全とは言い難い。

 そのような個々人が、無責任に集まったのが現代社会であるならば、過誤の総和である民意が絶対真であると推定するのは無理がある。

 民主主義独裁政治や寡頭政治よりも優れているのは、その意向選択が、より多くの人々の意見によって練り上げられた結果だからではない。そんなものは容易に集団的過誤、集団ヒステリーによって、誤った結論に至りうる。歴史はそれを繰り返し教える。

 民主主義が優れているのは、そうした政治判断が、常に批判に開かれているという一点に尽きる。

 正しい選択ができるのではなく、誤った選択について、誤りであると認められること。

 これが民主主義の優れているところだ。

 そうした意味で、批判に開かれておらず、政治判断の結果について正当な検証を受けていない政治的言説は、民主主義的な政治的言説ではなく、単なる妄言でしかない。

 河村たかし名古屋市長選択し、減税日本という政党まで生み出したT記者をはじめとする中日新聞の言説は、検証されなければならない。


 しかし、本人である河村たかし名古屋市長減税日本政治的主張には、検証に耐えうるだけの物があるだろうか。

 河村たかし名古屋市長候補として3回、「マニフェスト」を掲げている。

 この「マニフェスト」に掲げられた「約束」はどれほど実現したのだろうか。

 平成25年の「マニフェスト」には「名古屋市政4年の成果 マニフェストの9割以上を着手」と大書されている。ここにいう「マニフェスト」は平成21年4月、及び平成23年2月の「マニフェスト」であると明記されている。

 http://genzeinippon.com/manifesto201304explain.pdf

 さてさて、「着手」されたものの「成果」はどれほど上がったのだろうか?

 名古屋市内の高速道路無料化されただろうか?
 地域委員会はどうなったのだろうか?
 消えた年金の独自調査や、住基ネットの独自検証はどのような結果になったのだろう。

 先に「まったくの嘘八百を並べ立てた、政治詐欺」と言ったが、この表現でも穏当とも思える惨状だ。

 こうした「マニフェスト」の一環が、「4大事業のストップアンドシンキング」であり、その結果が西部医療センターの工事遅延と、名古屋市日立から訴えられた遅延損害金の発生である。

 河村たかし名古屋市長候補が自ら訴えた政策と、それを市民に広めた中日新聞には、あの工事遅延が正しかったのか、責任をもって検証する義務があるだろう。このままでは名古屋市が、名古屋市民がこの遅延損害金負担することになる。それは正しい事なのだろうか。

 また、ひょっとすると、この遅延損害金は1億5千万円程度で済んだ可能性もある。これがそれ以上になった場合、その金額の拡大は、誰のどのような判断によって生まれたものか、それも名古屋市民に正しく知らせるべきだろう。


 河村たかし名古屋市長は「減税してもなお、日本一福祉のまち」と言っているが、本当だろうか?

 市民に対する福祉とは、何よりも、安心、安全生活を保障することだろう。
 ところが、今回の名古屋城問題であらわになったように、名古屋市内には十分な耐震性能を満たしていない市営住宅がある。そして、その危険性は5年も前には把握されていた。

 この5年間、河村たかし名古屋市長は、市営住宅に住む市民を危険な状態に放置していたのだ。
 そして、放置しつつ、名古屋城の建て替えだけを議論していたのだ。

 こうした姿をバカと言って何が悪いのだろうか。
 このような無責任な市長をうつけと言わずに、何をうつけというのだろう。


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 最近名古屋の街は「薄汚い」
 歩道や街路樹は手入れがされず、デザイン博の頃などに設置されたモニュメントメンテナンスがされていない。最近毎日、広小路を歩いて通勤しているがせっかく地下埋設されている配電設備の、地上に出ている(多分、トランス)のカバーが半壊したまま放置されているものもある。

 また、堀川の導水事業は停止したままだ。堀川はまた、暑い夏を迎えて、悪臭を放つ川になってしまっている。

 そうした積み重ねの結果が、これなのだろうか。

 テレ朝news|テレビ朝日


 当たり前の事を当たり前にやっていれば、都市は魅力を発揮するだろう。
 ただやみくもに魅力を出そうと力んでみても、当たり前の事が為されていなければチグハグで乱雑な印象しか与えられない。そしてそれは薄汚く写り、魅力を削ぐ事になる。

 名古屋城を木造化するというような、宝石を身に着けることよりも、体を清潔に保ち、当たり前の生活を市民が生き生きと生きている方が、都市の魅力というものは自然と湧き出て来るものなのではないのだろうか。


 今回の参議院選挙において、減税日本候補が「Tax Payerの為の政治」を訴えている事について触れておこう。

 バカなんじゃない?

 先の市議選において「市長を助ける男/女」という、地方議会地方自治を真っ向から否定するような公約を掲げて恥というものを知らない無知を晒したが、今回もよくもこれほどバカな主張ができるものだと関心をする。

 評論家池田信夫「高齢者、年金受給者には選挙権を与えるべきではない」と言ったそうだ。池田はこうした発言が反発を招くだろうと予想して「一つの学説として」とエクスキューズ保険をかけているが、「Tax Payerの為の政治」などという主張はこれに近い。

 税金を納めているものだけが、その税の使途を決める政治的決定権を持つという「制限選挙」を志向する言説が「Tax Payerの為の政治」という言葉に他ならない。

 これは新自由主義的な、「自己責任論」的な、現代的な政治志向に近い言説だろう。

 フリーライドを許さず、受益者は義務を果たすべきだ。という自由主義の原理に正直な考え方だ。

 しかし、こうした言説は歴史を知らない「ネトウヨ」程度の思考の浅い考え方でしかない。

 理由を説明しよう。
 この世には税金を納めている者と納めていない者がいる。

 早い話が十分な儲けを上げていないか、資産を持たない者は税金を納めていない。
 では、こうした者は政治に関わってはならないのだろうか。
 社会の成員ではないのだろうか?

 そんな事は無い。

 ある者が儲かっているか儲かっていないかは、経済や社会変動による全くの気まぐれの結果に過ぎない。

 さらに税とは恣意的な制度だ。誰がそれを負担し、誰が負担しないか、それは恣意的に決められているに過ぎない。

 経済や社会変動による個々人の生活に対する脅威、これを軽減するものが共助や公助といった政治の働きであり、こうした再配分が社会を安定させ、経済の循環を維持する。

 トマ・ピケティが指摘するように、自由経済が調整機能も無く続けば、格差は拡大し社会は持続可能性を失う。ロールズのいうように、社会の成員は自らの立場を越えて、政治選択をするべきだ。自身が今、納税ができる恵まれた立場にいるからと、納税者に有利な社会を再構築しようとする志向はこうした社会正義にも悖る行為だ。

 呆れたことに中日新聞7月6日掲載の「各党に聞く」インタビューにおいて、河村たかし減税日本代表は「貧富の差が広がっており、うまくいっているとは思えない」と述べている。

 格差が広がることを否定するのであるならば、「Tax Payerの為の政治」などという主張は自己矛盾だろう。

追記:「家事労働者をどう捉えるのかという視点も欠けている」という意見をいただきました。

 この候補減税日本はどんどん追い詰められることになる。

 なぜならば、代表自体がこうした矛盾した主張をしているために、党員は政治的主張を維持できない。
 この選挙戦で、減税日本演説が最も空虚な理由もここにあるのだろう。

 最後に減税日本参議院候補雇用について述べていたが、河村流減税制度では雇用は創出できない。逆に雇用を奪ってしまっているという原理を説明しよう。

 河村流減税論の特異なポイントは減税の財源を歳出削減で賄うとしている事だ。
 例えば100億円の歳出を削減したとしよう。
 そうすると、この100億円の公共事業が無くなることになる。
 実際に名古屋市公園道路整備などの歳出を削減している。
 すると、こうした事業に従事していた人々の雇用は失われる。
 実際に名古屋市から公園整備を請け負っていた会社が雇い止めを行った例がある。


 名古屋市の歳出100億円とは、それを受ける業者にとっては100億円の売り上げなのであり、それが削減されれば雇用は失われる。

 さて、こうして捻出した100億円が減税される。

 減税において利益を受けるのは納税者という事になる。

 名古屋市内で最も税金を納めているのはインフラを提供している某巨大企業だ。
 こうした企業はでは減税で雇用を生み出すだろうか。
 一端、黒字を計上してしまった企業はそれがストック(内部留保など)に回ってしまうのであり、消費の循環には乗りにくい。

 こうして企業や個人に回されたお金は一定程度の貯蓄に代わり、経済循環からは外れてしまう。これが「消費性向」という係数の原因だ。

 歳出として支出される100億円は100%経済の循環に乗る。
 しかし減税で戻される100億円は一定程度しか経済の循環に還らない、そしてそれが雇用を生み出すにはまだまだ迂遠な理路が必要となる。

 河村流減税政策では、歳出削減によって雇用を削減する以上に雇用を生み出すことはできないのである。



 減税日本参議院候補には同情する。
 つまりは「おおさか維新の会」の比例候補に票を積み上げるための、掘り起こし候補でしかない。その為にろくな政治議論プランニングも受けていないだろう。

 単に利用されているに過ぎない。

 その構造があるから、前回の候補者は二度目の挑戦を行わないのだろう。

 減税日本河村たかし代表の下からはどんどん人が離れていく。

 その理由は、河村たかし代表自身が批判に開かれておらず、その場その場で言い逃れのような発言を繰り返し、そうした発言相互に矛盾していくことに無頓着だからだ。

 河村たかし代表は良いだろう。そうした矛盾に、また口から出まかせの誤魔化しを重ねて、議論を避け、逃げればいい。しかし周囲の者はそういう訳にはいかない。そうした矛盾点を追求され、反論もできなくなる。主張もできなくなる。

 まあしかし、「市長を助ける」と自己選択した結果なのだから、そうした結果も「自己責任」として受け止める以外にないのだろう。