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  一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。


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−「真・庶民革命」特設ページ−
   名古屋市会議員報酬半減化、その裏にはなにがあったのか。
   議員報酬が議論となっている今、ぜひご覧ください。

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2017-01-22 歪んだ社会の風景を届けているのは誰だ

歪んだ社会の風景を届けているのは誰だ



先日「マスコミ各社に警告する」という文章を書いた。
現在ではテレビを見れば、ニュースワイドショーの境が曖昧になっている。
ニュースにおけるファクトチェックは、その素材を売るプロの作業としては生命線だろう。刹那的な視聴率(購買数)は、耳目を引くセンセーショナルで理解しやすい単純な構図が好まれるのだろう。が、しかし、そればかりを求めてメディア信憑性が失われれば、結果として生命を失う。

マスコミの誤解は、市民の誤解に繋がる。市民の誤解はすなわち、歪んだ民意を生み出す。

EU離脱を決定したイギリスでは、その住民投票の結果を受けて再議論が起きた。トランプ大統領誕生の裏で「嘘ニュースサイト」の存在が注目された。

こうした時代であるからこそ、「事実に基づいた議論や思考、社会の運用が重要だと説得し続けること。加えてウソを暴き続ける。そうした愚直な作業が、ポスト真実の時代には大切」(名古屋大学 日比准教授発言 平成28年12月17日 中日新聞)である。

私は平時では普通の生活をしている。出来る限り政治的発言議論もしないように心がけている。そうした中で、幾つか名古屋市民が誤解し、マスコミにおける事実の提示が足りないのではないかと思われる事柄を挙げてみる。


議会は(名古屋市会は)突然、議員報酬を上げた」のか。

このテーマに行く前に次のような誤解もある「議員報酬議論は、名古屋の市政にとって重要な課題である」

名古屋の市政とは、名古屋市民の生活を支える行政事業の在り方の議論ではないのか?

そもそも議員報酬の在り方が、市民の生活にどう影響するというのだろうか?

議員報酬というのはせいぜい20億円程度のものではないだろうか。(報酬半減で6億円の歳費が浮いたと言われているので、その伝で言えば、16億円程度ということだろう)

河村市長の言うように、名古屋市会の議員を全て無料ボランティアにしてしまっても、それで浮かせられる議員報酬はせいぜい20億円程度ということになる。(議会事務局などはボランティア議員ばかりでも必要だろう)つまり、職業議員を全て否定したところで、捻出できる費用はたかだか20億円ぐらいということになる。では、そのボランティア議員でどの程度の活動ができるのだろうか。単なる市当局の追認機関に成り下がるのは目に見えている。健全な議会を維持することこそ、名古屋市民の生活資するであろうことは議論するまでもない。(そのために、一定比率の「どうしようもない議員」が居ることは容認せざるを得ない。なんとなれば市民生活のほうが優先度が高いからだ。集団というものは、常に一定程度の「歩留まり」を求めるものだ)

つまり、議員報酬議論というものは、最大で20億円程度のインパクトしか持たない。

では、名古屋市政全体のボリュームはどの程度か。ざっと、2兆円と言われている。そして、これは名古屋港管理とか名古屋競馬などの外部の経営体を加えてはいないボリュームだ。

2兆円の中での20億円の問題が重要課題だろうか。

たった0.1%の問題が。



さて、議員報酬は本来議員自身が議論するようなものではない。自分たちの報酬を自分たちで議論しろといって、客観的議論になるわけはない。その為の第三者機関議会は求めていた。しかし、河村市長はそうした要請に予算を付かなかった。

そもそも、名古屋市会の議員報酬条例で明確に定められている。

この条例も民主的な手続きに沿って定められたものだ。これに異なる事をすれば、それは違法行為ということになる。(この条例は昭和31年に定められている。60年間に渡って疑われることなく使われてきた条例だ(額の減額はある)これを疑うということは、今までの人々を疑うということであり、この60年間の常識を疑うことだ。しかし、それは疑う方に常識がないからのではないのだろうか?)

今、民主的に、合法的に定められた事柄を(そして、60年に渡る常識を)曲げようとする場合、そこには相当の理由が必要だろう。特に、どのようなものであれ、なにかの報酬を半減にするような場合は、相当の理由が必要なはずだ。(普通のサラリーマンであれば、給与を半減することは違法行為となる場合がある。懲罰として半減するにしても、相当の理由がなければ司法の場で認められないこともあるだろう)

果たして名古屋市会の議員報酬半減について、相当の理由というものがあったのだろうか?

河村市長議員報酬半減を強く要望しているが、その理由についてはほとんど何も語っていないに等しい。「市民並み給与」と言われても意味がわからない。市内の平均的就労者給与(報酬)と同程度にすることと、名古屋市会の議員の報酬とはバランスが取れているのだろうか。よしんば、それによって名古屋市内の平均的な市民が議会を構成することになったとしても、それは上で述べたボランティア議員のように、市当局の追認機関以上になるとは思えない。また、河村市長は「議員報酬が半減化されたから、名古屋市民がこぞって市会議員になろうとするでしょう」とも語っていた。先の市会議員選挙は河村市長の言うような報酬になって初めて行われた選挙であったが、市民がこぞって立候補したということもない。もっとも、報酬が下げられたような職種に、希望者が殺到するというような倒錯した主張を信じられるわけがないが。


さて、ともあれ、では議員報酬は突然引き上げられたのだろうか。

名古屋市会は議員報酬を含めた議会の在り方を議論する場として「議会改革推進会議」(平成24年1月設置 浅井康正座長減税日本ナゴヤ))と「議会改革推進協議会」(平成27年5月設置 中川貴元座長自民党))という会議体を構成している。

 名古屋市:議会改革推進会議について(市会情報)
 名古屋市:議会改革推進協議会(平成27年度設置)(市会情報)

 特に、減税日本ナゴヤによって仕切られた会議は尻切れになっている。これは当時の減税日本ナゴヤの委員が突然、会議の公開を求め始め、それに対して座長である浅井氏が反論するという混乱の中で、結局再開がなされなかったものである。議論したくなかったのは減税日本ナゴヤの市議だったのではないだろうか。

条例に定められ、勿論民主的な手続きで定められており。社会的常識に照らしても異常とは思えない。そのような報酬を半減する。(常識的な報酬を半減するというのは、非常識な行為だろう)それに対して市民が(または、市民の一部が)賛意を表明している。こうした倒錯した議論の中でリコールが行われて成立した。それを受けて、名古屋市会の市議は言われるように報酬を半減化してみた。

しかし、河村市長の言うような効果は得られなかった(候補者が増えたという事実もない)また、約束であった第三者委員会も設置されない。予算化されない。

議会における議員報酬半減を求める議員議論を逃げている。報酬半減の理由について説明はない。

このような状況であれば、それ以上報酬を半減化し続けて、議員としての活動を低下させておく必要があるだろうか?(ここは特に、共産党名古屋市議団の議員にお伺いしたいところだ)


確かに、以上のような事情を知らない市民が大部分だ。上記の会議体の活動など、それを伝えたメディアも殆どなかった。マスコミが伝えなければ市民は知らない。知らないから無かったかのように思ってしまう。しかし、見ようとすればこうやってHPに情報はあり、「市会だより」にも記事は掲載されている。市民が見なかっただけだ。市民が見なかったからといって、存在しないわけではない。

議会議論もせずに、唐突に議員報酬を「上げた」ように思えてしまう。
しかし事実は、議論を積み重ね、報酬半減を求めた者の方が、説得力のある理由を提示できなかったことから、議員報酬を適正に戻しただけだ。

こうした事実を踏まえても、まだ「名古屋市会は議員報酬を<突然引き上げた>」というメディアがあるのであれば、その報道は事実を元にしたといえるだろうか。

社会を歪める行為である。


行政スリム化すべきである」か。

f:id:ichi-nagoyajin:20170123010453g:image:w480:leftまず、現在の日本は十分にスリム行政を実現している。(まあ、なんとも生真面目な国民性でしょうね)世界的に比較しても小さく、公務員も少ない行政機構になっている。

図録▽大きな政府・小さな政府(OECD諸国の財政規模と公務員数規模)

いったいこれ以上に何も求めるのだろうか?

国や地方の財政状況が赤字であるから?

国や地方自治体個人家計私企業とは異なる。利益を上げることを目的とした組織ではないし、地方自治体赤字職員のせいでもない。職員生産性を上げたところで赤字は解消などしない。(義務的社会扶助費の支出職員が処理能力を上げれば上昇するだろう。つまり、地方自治体では職員が一生懸命働けば赤字幅は増えることが予想される。理由は後述)

国や地方公共団体赤字というのは、その国のお金(流動性)がどこ(公的セクタか、私的セクタか)にあるのかという事を表しているに過ぎない。そして、それは一夜にして消すことすらできる。

信じない人がいるようなので、思い出していただきましょう。その昔「電話加入権」というものがあった。当初は電話線を架設するための設置代金と引き換えに、電話設置の権利を渡すという性格のものであり、質権設定が合法化されると借入金担保や抵当として利用され、加入権を持つ者にとっては資産となっていた。しかし、電電公社民営化し、この権利は「施設設置負担金」と呼ばれるようになり、そして一夜にして消えた。

その昔、当時衆議院議員二期目の河村代議士と、私はこの件で議論したことがある。議論というよりも、電電公社民営化で、電話債券はどうなるのかは誰しも興味を持っていた話題だった。永田町での観測の一旦でも聞けるかと、当時名古屋市内の(愛知1区)各区で「議会報告会」を開いていた河村代議士に質問をぶつけてみたものだ。

その時の回答も覚えている「これは難しい問題だ。下手なことは言えない。今はまだ何も言えない」と、思わせぶりな発言をしていた。しかし、実のところは、何も言えないのは、何も理解していなかったからではないかと今では疑っている。まったく、無駄な時間だったわけだ。


f:id:ichi-nagoyajin:20170123010454j:image:w360:leftまあ、それはさておき。

最近、某地方自治体で、窓口職員が「生活保護舐めるな」というような文字の入ったジャンパーを作り、着用したという事例が世間を騒がせた。これを期にまた「生活保護バッシング」がまき起こっている。

もう、生活保護に対するこの社会の厳しさは異常だ。
ちょうど、「アイヒマン実験」を題材にした映画が2月に公開される。



D


「”本当の悪は平凡な人間が行う”ハンナ・アーレントの衝撃の提言科学でも実証される」

日本には生真面目で凡庸な人間が多すぎる。


まず、生活保護不正受給というものがどの程度のものか 日本弁護士連合会の資料がある。



生活保護Q&A 日本弁護士連合会


f:id:ichi-nagoyajin:20170123010456j:image:w680:leftそれによると、不正受給は件数で 1.8% 金額では 0.38% だ。
つまり十分レアなケースと見ても良いのではないのだろうか。確かに窓口は大変だろう。けれども、小説映画で描かれるような粗暴な場面なら警察が対応する問題だろうし、窓口の職員が高いストレスを感じるとすれば、それはこうした不正受給者という違法者の存在の為とは思えない。

いわゆる「水際作戦」という言葉があった。不正受給を見抜き、生活保護費を(国民税金を)一円も無駄にしないというような考え方だったのだろう。

その傾向はやがて、生活保護申請のちょっとした手続きの瑕疵を捉えて、保護の必要な者への受給をも阻害し、生活保護を必要とする者に対しても窓口を敷居の高いものにしていくこととなったようだ。

つまり、「国や地方自治体財政状況が悪化している」という勘違いから「税金を一円も無駄にしてはいけない」という生真面目な方針が設定され、「水際作戦」という倒錯した考えが生まれたのだろう。これは窓口の職員にとっては強いストレスとなる。なにせ、自身の業務自体を否定する行為なのだから。(生活保護受給受付窓口は、生活保護を必要とする者が、その手続をするためにあるのであって、それを潰す場ではない)

結果として、日本では生活保護の利用率、捕捉率が世界的に見ても低い水準となった。


生活保護不正受給は卑劣な行為である。それが他の、本当に生活保護を必要とする対象者を困らせ、受給を阻害するのだとしたらこんなに卑劣な行為はない。

ジャンパーを作った人たちの言うように、そんなヒト(生活保護不正に受取り、本来社会が扶助すべきヒトを阻害する行為)は「カス」であり「悪」だろう。

しかし、それなら、窓口業務を厳しくし、申請を必要以上に困難にし、結果として利用率、捕捉率を下げる行為は、同様に「カス」であり「悪」ではないのか。

もう一度いう。地方自治体における生活保護申請の窓口業務の本来の目的は、そういった不遇な人々に社会的な扶助を講じて、生活を成り立たせるためにあるはずだ。

この窓口に座るものは、国や地方自治体赤字など考慮する必要はない。
法に定められた条件を満たせば申請を受ければ良いのだ。(そして、それが虚偽、不正なものであったのなら摘発すればいい)

f:id:ichi-nagoyajin:20170123010455j:image:w680:leftデータを見れば日本における生活保護の利用率はたったの1.6%、捕捉率が15.3〜18%である。

100%の補足は無理にしても、他国、一番低いイギリスの最低値と比較しても、29〜31.7%は「取りこぼしている」ことになる。本当に生活保護が必要な人々に、その救いの手が届いていないのだ。

しかし、今の日本でこんな主張をすると「変わり者」に思われるのだろう。

日本人生活保護に頼らないんだ」とか「捕捉率が低いことによって税金が使われなくて良かったじゃないか」といったような声を本当に自分の耳が捉える。

まったく、他人(ヒト)の痛みがわからない/わかろうとしない「アイヒマン」だらけだ。「凡庸な悪」だらけではないか。



いわゆる「消えた年金」や郵政民営化財政投融資)の問題から、小泉竹中的な、行政家計企業であるかのように捉える「誤った」経済学(?)が大手を振っている。

確かにこれらの問題は行政を疑わせるに十分だった。

しかし、行政国民の為になっていないのであれば、その行政を潰したり、公務員給与や報酬を減らせば良いのだろうか?

話は全く逆で、行政国民の為になるように、方向性を変えていくのが本来あるべき姿であって、為すべき対策なのではないのか?


謂れもなく給与を下げたり、賞与を減額すれば職員モチベーションを下げる。
こんなものは民間企業だろうと公務員だろうと代わりはない。

職員給与を下げたり、職員非正規雇用で賄ったりすれば、行政サービスの質は下がりこそすれ上がることなどない。

こうして、より国民行政に不信感を持ち、公務員バッシングに走り、バッシングを受けた公務員は更にモチベーションを下げ、国民行政に不信感を持つ。(で、先頭に戻る)

そうして、行政職員は無条件に歳出を削減しようとする。

生活保護申請窓口の職員は、それを受けることが本来の仕事である。(上で言った「地方自治体では職員が一生懸命働けば赤字幅は増えることが予想される」といったのはこういったことだ。他にも、例えば上下水道管の異常を偶然に見つけても、責任がなければ漏出事故でも起きるまで放置しておいても大丈夫だろう。などと修繕を引き伸ばすかもしれない)

本来、行政職員に国や地方自治体赤字の責任などない。

法に定めた基準を満たしているヒト全てに生活保護を届けて、社会扶助費が膨れ上がり財政赤字になるのであれば、それは必要な歳出を賄うだけの歳入が施されていないという制度設計瑕疵だ。逆に、そのような瑕疵が現にある中で、受け取るべき申請を受け取らず、歳出と歳入のバランスを取ろうとする行為は、弥縫策であって、過ちを過ちで打ち消すような行為だ。

こんな歪んだ姿はないだろう。

なぜ、国民はこんなにも歪んだ社会の見方をしてしまうようになったのだろうか。そのような歪んだ社会の風景を届けているのは一体誰なのだろう。


2017-01-15 属性を愛すること

属性を愛すること


この世の中は、この世の中の誰か特定の一人のものではない。

王も君主も、すべての支配者など現代社会では存在しない。

この社会は納税者のお陰で成立しているわけでもない。

納税者が社会を支え、年金生活者や生活保護受給者は、社会に寄生しているだけ、フリーライダーである。などという考え方は全く間違っている。

納税者は、社会が定めた法律に従って税を収めているのであって、それをなさなければ法に定められた罰が下されるだけだ。納税者はこの社会を支えるために納税を行っているのではなく、この罰によって被る不利益を回避するために税を支払っているのである。(これを「義務」という)

年金生活者や生活保護受給者がこの「義務」を課されていないのは法に定められているからであって、何もこれらの人々が恣意的に回避しているわけではない。

税の負担を誰に求めるのかは、法が定めるのであり、もとよりこの制度設計を行うことが行政であり、立法の権能である。

税の負担と社会のあり方、社会の存在理由などはまったく関係はない。
社会のあり方の一部が税の負担のあり方でしかないのだ。
(税の負担のあり方で、社会のあり方が定められる。というようないびつな社会を想像してみればいい!)

本質的にこの世は、この世にある全ての人々のために在るのであって、全ての人々は、歳をとって働けなくなろうと、体を壊して、または何らかの事情があって生活保護を受ける立場になろうとも、全ての人々のために在るこの世に存在しうる。

全ての人々のためにこの社会は在るのである。

社会から、特定の誰かを排除する考え方は、常に間違っている。

それゆえ社会に従事する公務員は、一人の王のために存在するのではない。
また、納税者に雇われているわけでもない。

「すべて公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」

この日本国憲法五条の条文は、優れてこの社会の在りかたを、我々に高らかに語りかけてくる。

社会から、特定の誰かを排除する考え方は、常に間違っている。
全ての人々のためにこの社会は在るのである。

国民納税者と非納税者に分別し、「納税者の為の政治」などと主張するものは、公職者、公務員たる資格はない!

このような主張に賛同する者は、およそ民主主義のなんたるかを心得ていない。
そして、民主主義国家を破壊する醜く歪んだ考え方である。

人は誰しも体を壊しうる。歳とともに老いるのは自然の摂理だ。
働けなくなったとき、他者の助けが必要となったとき、社会がその者を排除するとしたら、ヒトはそのような社会に安心して存在し続けることができるだろうか。

できはしない。

年金生活者に、生活保護受給者にもっと厳しくしろ、と、声を荒げる者は、自身がその立場になるであろう可能性に思いが至らない、視野狭窄でしかない。

つまり、バカなのだ。

今働いている納税者

健康な体を持ち、高い能力に恵まれ、努力を怠らない。それによって高い収入社会的地位を与えられ、広く社会に貢献できる。これは素晴らしいことだ。

しかし、それらはその人個人の成果だろうか。

何より親や育ててくれた人々の影響は無視できまい。
そしてその能力を発揮できる、今のこの社会も重要な要素だろう。

今、ヨーロッパを流浪するシリア難民の中にも、高い教育を受けながら仕事を失った人々がいる。彼らは国際社会の影響で自らの能力を発揮する場所を奪われているのだ。

白熱教室で有名になったマイケル・サンデルは、こうした個人と社会との関係を米国NBAバスケット選手を例にして語っている。日本で言えば、ACミランで活躍している本田圭佑やドルトムント香川真司などは推定年収が7億5000万円だそうだ(2015年の推定値)
彼らの能力や努力を疑うものではない、しかし、その昔、Jリーグ以前、日本サッカー史上最高のストライカー釜本邦茂の収入はどの程度だったのだろう。たぶん、本田や香川の1/10に満たないだろう。では、釜本の能力や努力が、本田や香川と比較して1/10だったのだろうか。

本田や香川の成功は、勿論、彼らの能力や努力は必要条件であるにせよ、Jリーグという存在を起点とした、日本国内における、サッカーをめぐる環境の変化が要因として大きな割合を占めていることは疑いをいれない。

一人の人間や、一つの企業の上げる収益は、その人間や企業の能力や努力だけに依るものではない。不条理な運の結果や、社会的な環境の偶然によって、つまりその時々の社会との関係の中で築き上げられていくものだ。

自身や自社の得た収益が全て、自らの働きかけの結果であると誤認し、その収益は自分のものであると考える者は、視野狭窄に陥っている。そして自身は成功者であり、収益を挙げられないものを無能者や怠惰なものと決めつけるとすれば、現実が見えていない。

つまり、思い上がったバカでしかない。

けれども、少なくない企業経営者がこうしたバカな考えを持っており、そうした偏頗な考え方を堂々と披瀝したりもしている。これははしなくも、企業経営成功の偶然性を証明してもいる。つまり、バカでも儲かるときには儲かるのであり、企業も回っていくのだ。



ジョン・ロールズは「無知のベール」という概念を提示している。

すべての人が自らの立場、能力、背景を知らず、社会のルールを定めれば立場や背景を元にした利己的な主張は引っ込み、誰もが誰にとっても損の最も少ないルールを選ぶ。

すべての人が被害を最小にするようにする。公平で公正な「正義選択」がなされる様になるという考え方だ。

自然の運の結果や、社会的環境の偶然という不条理を乗り越える一つの原理だろう。

人間には様々な属性が備わっている。
健康、知的能力、美醜、門地、性質や考え方、習慣。
それらは大きく偶然の産物だ。そして当人には修正不能の事柄も多い。
門地民族人種など、当人では変えられないような属性をあげつらい、批判する事を「ヘイトスピーチ」という。そしてこれらを殊更言挙げする者を「差別主義者」という)


こうした偶然の結果、他者負担を求めなければ生きていけない者もいる。
身体の深刻な障害や、精神や知的な条件によって、自立し得ない人がいるのもまた、自然不条理であり偶然の結果だ。その責任は親にもなければ当人にもない。(そこに何か因果関係が在るかのように解くオカルト、腐った宗教は立ち腐れればいい。釈尊キリストも、そのような事は説いてはいない!)


自分が今あるのに理由などない。自分は、今いる自分以外には何者にもなれないのであって、それをアレコレと考え悩むことは無駄なことである。変えられないことは受け入れる以外にない。

他者に対しても、また自身に対しても、こうした属性に振り回されることは悲しいことであり、貧しいことである。


男が女に恋をする。その女の美貌に引き寄せられる。それは自由にすればいい。しかしそれはおよそ愛ではない。美貌は歳とともに衰えていく、そしてその衰えとともに、その想いも萎んで行くのだとしたら、その想いはその程度のものだったのだ。

女が男に恋をする。その男の力強さや生活力に惹かれていく。しかしそれもやはりそれだけでは愛とは言い難い。金の切れ目が縁の切れ目。男の出目が外れていけば、やがて関係は壊れる。女は情熱を失い男から離れていく。しかし、気がつけば自らの美貌もまた、衰えてしまっていることに気がつき、行き場を失う。

ヒトの価値は機能や属性ではない。
いや、ヒトだけではない。親密の情を持つ故郷などに対しても、その故郷の属性で、親密の情が動くのだとすれば、そんなものはまやかしでしかない。

そもそも生まれ故郷や国に「プライド」を求めるなどという性根が卑しい。

日本人であることにプライドを持つのは自由だろうが、その人物にその他に、プライドたる何物もないとすれば、そのような人物品格を認めることができるだろうか。そのような者は日本を傷つける者なのではないのだろうか。

プライドとは個々人がそれぞれ自分に対して持てば良いのであって、他者にひけらかすものでも比較するものでもない。

自身の外の事物にプライドを求める者は、自分自身の中にプライドとなるべき何物も積み上げてこなかった怠け者である。

私は「名古屋」と言われても正直今ひとつピンとこない。
しかし、自身の生まれた街には間違いなく愛着がある。

今ではこの街はすっかり様変わりしてしまって、どこにでも在るような小奇麗な街になってしまった。しかし、私には職安からアブレた男たちがワンカップを片手に所在なくふらつく街に愛着を感じずには居られなかった。それはその街の属性がなせる業などではない。一時はそのような街を嫌い、出て行った時もあった。しかし今になってみればその街を懐かしく想い出す。そして、今となってはそうした猥雑さが一掃され、属性があらかた取り払われてしまったにも関わらず、同様の親密さを感じる。

ヒトがヒトや故郷、そしてありとあらやる事共に親密さや愛着を感じる時、それはその属性に対して惹かれるのではない。その対象に向かって、自分自身の全てを投げだし、全てを当てた結果なのだ。

以前、科学宗教の相違という話を書いた。

無条件に信じられること、信じることを起点とするのが宗教である。

これは例えば、吉本隆明などの言っていた「跳躍」や禅の教えにある「竿頭一歩」ともつながっている考え方であるように思う。

親密さや愛着に条件など要らないし、それは自身の中で(あるいは「プライド」と名付けても良い)なにがしかをしっかりと積み上げた人格が、何かの対象に向かって自身を投げ出す行為なのである。


もうしばらくすると「メッセージ」という映画がやってくる。(原題は「Arrival」)原作はテッド・チャン短編小説あなたの人生の物語」だ。

非常に難解なSF作品だ。

作品は間違いなくSFだが、その語ろうとしている射程は「時間」であり「人が生きるとは」ということに尽きる。

ここでも「この瞬間を抱きしめる事」の重要性が語られる。

それは属性ではない。どのような結果になろうとも「この瞬間を抱きしめる事」が重要なのだ。(ああ、こうやって書いていて泣きそうになる)

実は、このテーマを書いては消し書いては消ししてしまった。
それは昨年の末。12月29日に名古屋市緑区で不幸な事故(事件)が起きてしまったからだ。

伝えられるところでは、39歳の奥さんが11歳と8歳の子どもを殺し、自身も自殺したとされている。つまり、無理心中だ。この奥さんは子どもの病気を悲観していたとも伝えられる。(真相は知らないし、詮索する気もない)詮索する気はないが、もし、子どもの病気を悲観しての無理心中だとすれば、そこに相模原障害者施設殺傷事件や、それを取り巻く現代の日本の社会の劣化、つまり、ヒトに対してあまりに機能を求める風潮、ヒトの価値を属性に求める誤った考え方を感じずにはいられない。

そうした「価値の無い者」を排除しようとする、生き辛く、重苦しいこの日本社会の劣化を思わずにはいられないのだ。


確かに、日本の社会はこの先人口は減少する。

しかし、だからといって社会まで縮小することはない。経済人口の増減とは関係なく拡大可能であり、人間の歴史はこの拡大の歴史である。

そして、確実に前進しうる社会において、今の政府財政など赤字で丁度いいのだ。

政府財政がバランスしなければならない通りなどないし、政府財政バランスなど単に社会のどこに流動性が(金が)在るかと言うだけの話であり、バランスを取ろうとすれば、なんなら一夜にしてそれはできるのだ。(国債に10割の課税をしてもいいし、財政がバランスできるだけ資産に課税してもいい)

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行政地方自治体赤字個人が気に病む必要はない。行政の「無駄を省く」などということは、間違いなく誰かへの手助けを切り捨てることであり、社会をより狭く生きづらくするだけである。(こうした考え方は、6万マルクのために「遺伝患者」を排除しようとしたナチス・ドイツ優生思想と地続きの思想であると理解しなければならない!)

この世は生まれてきた者すべてのために在る。
すべての者が生きていくことに心を配ることが、経世済民といい、その手法を知恵の限り考え抜くことが経済学である。

そして、政治に志すものは誰をも排除せず、共生の社会を模索すべきだ。

そして、人々の間に溝を作るのではなく、出来上がった溝を越えられる者だけが、真の政治家と言うに相応しい。




2016-08-06 植松聖容疑者がすぐ隣にいる可能性

2016-08-07 植松聖を生み出したもの

2017-01-10 マスコミ各社に警告する

マスコミ各社に警告する


マスコミ各社に警告する。
河村市長またはその周辺に取材するとき、裏も取らずにそのまま記事にしてしまうと、結果として誤報を垂れ流すこととなる。ひいては名古屋市民をミスリードし、名古屋を混迷に落とし込む元凶ともなりかねない。
事実を積み重ねるべきマスコミの使命を果たすためにも、河村市長またはその周辺の発言には十分に注意し、かならず裏を取り根拠を求めるように心がけること。

ある方からこういった動画の存在を教えていただいた。


D

(1分47秒頃から再生されます)



どこのニュース素材かは知らないし、誰がYouTube掲載したのかも知らない。
女性ナレーターが「市長初当選した2009年に、この構想を打ち出していた河村市長」とのアナウンスが入り。画面に「河村市長市長初当選時の2009年に木造復元構想を打ち出す」とキャプションが入る。


このニュースを「垂れ流した」メディアに問いたい。

根拠は?

これは全くの誤報であり、事実は全く逆だ。


根拠を示そう。

簡単だ。(その気になればこんな裏とりは5分でできるし、そもそも現在の名古屋市政を語る上での基礎資料を踏まえもせずにニュースを流していることになる)


河村たかしの名古屋政策 減税ナゴヤ 庶民革命・脱官僚

このPDFが2009年当時の河村市長市長選挙マニフェストだ。

つまり、「市長初当選した2009年に、河村市長が打ち出していた政策」は全てここにつきる。

ここにこうある。

3−(1)4大プロジェクト

「・現在進められている4大事業は、一旦立ち止まって、市民に約束する諸政策との関係を検討したうえで、優先順位、実施時期、規模・内容などを決定する。

名古屋市内の歴史文化施設全体の再生との関わりを重視し、巨額投資が必要な事業にこだわることなく身の丈にあった再生手法も検討する」

3−(3)−名古屋アイデンティティ

名古屋歴史的建造物を活用する条例を定め、名古屋ことばの復権に努め、文化と精神の両面における名古屋アイデンティティをさらに強固にする」


この4大プロジェクトの内の一つが「名古屋城本丸御殿の建設」だ。


その他にも「(6)名古屋高速道路料金値下げに挑戦」ともある。
こうした施策や減税政策のため、河村市長は4大プロジェクトを止めて財源確保を企図した。(その為、西部医療センターの問題では日立から訴訟を起こされ、木曽川導水路事業(これはこの4大プロジェクトではない)は止めたままだ。(しかし徳山ダムへの負担金は支払い続けている))

2009年当時、河村市長は、総工費が150億円もかかる総木造づくりの「名古屋城本丸御殿」を「贅沢な施設」と否定していたのだ。

もとより、このマニフェストには「名古屋城天守閣の木造復元」などという構想はない。

そもそも「名古屋城」という文字すらない!

データマンが検索をかける手間さえ惜しまなければ5分程度で確認できることだろう。そもそも記者であれば、このマニフェストの項目ぐらいは押さえて置かなければならないはずだ*1


「 巨額投資が必要な事業にこだわることなく身の丈にあった再生手法も検討する」つまり、巨額投資は止めて、(減税政策などの財源として)、「名古屋歴史的建造物を活用する条例を定め、名古屋ことばの復権に努め、文化と精神の両面における名古屋アイデンティティをさらに強固にする」つまり、条例によって古い建築物を残すなどの政策誘導を行い、金をかけずに「精神」的な「名古屋アイデンティティをさらに強固にする」というのが、庶民革命方向性だったわけだ。(「文化と精神の両面」という言葉は変な言葉だね、「文物と精神」であれば両面だけど。そもそも文物と精神を繋げるのが文化ではないのかね?その文化生活を繋げるのは、はい、名古屋の市民なら知っているね?*2

だから当然、それ*3よりも大きな事業である名古屋城天守閣の木造復元なんぞ、当時の河村候補が打ち出すわけがない。

私が記憶するところ、河村市長名古屋城についての意見を変えたのは、本丸御殿が形になって、内覧会か何かに行ってからだ。

それまで「4大プロジェクト」「贅沢品」と否定的だった河村市長が手のひらを返すかのように本丸御殿を持ち上げ始めた。そして襖絵を現物展示するとか言い出した。

名古屋城図面の話などを持ち出したのもこの頃からだろう。

この頃、名古屋城の整備計画などを進めようとする市当局の「御講」が「利きすぎ」たのだろう。

そして勢い余って、天守閣の木造復元を口に出し始めたように記憶する。

それでも、「あおなみ線でのSL走行」などが優先であって、巨額な投資が必要となる天守閣の木造復元は、かの「1000mタワー構想」と同程度に根拠もないものだったと思われる。


少なくとも、河村氏が名古屋市長初当選した頃から、名古屋城天守閣の木造復元を打ち出していたという事実はない。(マニフェストには記載はなく、逆方向の政策が記載されている)

現場の記者が河村市長本人か、その周辺者から「この名古屋城天守閣木造化は、河村市長市長初当選の頃からの構想ですから」とか言われたのかもしれない。つまり、河村市長初当選の頃から主張が終始一貫しているとでも言いたかったのだろう。事実は全く逆だが。

しかし、河村市長もその周辺者(河村事務所のご老人お二人とか、減税日本ナゴヤの市議とか)の談話が如何にいい加減で事実誤認に満ちているか、そろそろ気が付かないといけない。そうじゃなければ誤報だらけになってしまう。


最近では、昨年の議会リコール運動もあっただろう。

一部の記者は「やるやる詐欺じゃないか」という声も聞こえたが、私は当初から議会リコールなんて成立しないことは判っていた*4。もう少しマスコミが冷静になれば、振り回される市民も減っただろうと思われる。(マスコミ自身も振り回された口かもしれない)


なのでマスコミ各社に警告する。

河村市長またはその周辺に取材するとき、裏も取らずにそのまま記事にしてしまうと、結果として誤報を垂れ流すこととなる。ひいては名古屋市民をミスリードし、名古屋を混迷に落とし込む元凶ともなりかねない。

事実を積み重ねるべきマスコミの使命を果たすためにも、河村市長またはその周辺の発言には十分に注意し、かならず裏を取り根拠を求めるように心がけること。


*1:あなたが記者であれば、4大事業が何かぐらい答えられなければならない。そうでないと今日に至る名古屋市の出来事を見る目が異なってくる。とくに13日に予定されている出来事!

*2:「松坂屋」だね!

*3名古屋城本丸御殿

*4:前回のリコール運動を知っていれば、重大な要因、キーマンが不足していた