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  一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。


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−「真・庶民革命」特設ページ−
   名古屋市会議員報酬半減化、その裏にはなにがあったのか。
   議員報酬が議論となっている今、ぜひご覧ください。

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2016-08-13 日本人の生産性が低い理由

日本人の生産性が低い理由




 国家財政家計企業会計のように考え、均衡財政を求める考え方が間違っている事を述べた。それでも8月10日に財務省が「国の借金」を1053兆円と発表するや、新聞紙上には「国民一人当たり830万円の借金」というような表現が踊る。


 MMTの原則で考えると、政府収支と民間収支、及び貿易収支は足せばゼロになる。
 1950年からの累積貿易収支は232.4兆円。

 ( 財務省貿易統計 Trade Statistics of Japan
 こうした観点から見ると、国が貿易黒字を計上し続けるという事も健全性を疑う。貿易収支が黒字という事は、国外に財を持ち出しておいて、債権(紙切れ)に替えているだけ(特に償還できそうもない米国債など)なので、貿易黒字というのは喜ばしい事ではなく、富の流出/献上にしかなっていない)

 その差は820.6兆円(上場企業内部留保が550兆円だそうなので、非上場企業の滞留資金や個人の貯蓄などが270兆円ほどあるということだろう)

 借金だけ「国民一人当たり」で計算させて(負担を意識させておいて)
 その実、黒字については企業会計に滞留させている。(なら、国の借金についても国民法人で、それぞれいくら負担すべきかを計算すべきだろう)


 「国の借金」を「国民一人当たり」で割って意識させるような考え方が。この2〜30年ほど続いてきたように思う。こうした歪んだ報道の在り方、考え方が「国の借金を減らすべきだ」「行政は歳出を削減するべきだ」「子どもたちに借金を背負わせないために、小さな政府を目指すべきだ」という行き過ぎた考え方になり、やがて。


 「国家財政負担をかける障碍者など存在すべきではない」という錯誤にまで至ってしまったのだ。

 (日本はすでに世界でも有数の「小さな政府」である。 図録▽大きな政府・小さな政府(OECD諸国の財政規模と公務員数規模) )

 それでもなお、東京都知事選挙では、都の支出を抑えるために人件費抑制する、首長議員の報酬を抑制する。というような言葉が踊り、こうした文脈に居る上山信一が「都政改革本部」の顧問にむかえられるというのだからウンザリする。


 国や地方の歳出に占める公務員人件費の割合などさして大きくはない。しかし、毎年その歳出の拡大を生み出しているのは社会扶助費の増大だ。公務員人件費と社会扶助費の間には桁違いの乖離がある。
 増大する社会扶助費の費用を、職員給与の削減や、ましてや首長議員への報酬削減などで賄えるわけがない。そんな言葉は全くのまやかしだ。(まるで営業社員が売上目標の未達を、自分が買い取ることでカバーしようとするぐらいナンセンスで幼稚な言葉だ)


 国や地方財政に対する問題ポピュリスト上山信一竹中平蔵などの曲学阿世の徒を含む)と勉強不足のメディアが歪めて国民に伝えている間に、すでに次の問題が突き付けられつつある。

 私はTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)など、日本の第三、第四の敗北であると考えている。日本の富を故なく米国に移転する(もっと判りやすく表現すると、日本米国に「たかられる」「カツアゲされる」)に過ぎない。

 米国内でも疑問に思われているTPPに、日本自身が前のめりになっている姿は属国の悲哀を感じずにはいられない。(この姿はまともな愛国者というものが日本から絶滅した証拠でもあるだろう)

 このTPPは日本医療制度や保険制度を徹底的に破壊するだろう。世界でも憧憬まなざしで見られる日本医療制度を、世界でも有数の過酷米国の制度に合わせようなどという発想は気が触れているとしか思えない。

 しかし、それに飽き足らないのが米国資本主義」というものだ。

 日本医療制度をいじる前に、その制度の弱点を利用して暴利を貪ろうという方針に変更したようにも見える。

 C型肝炎の特効薬として「ハーボニー配合錠」という薬がある。
 この薬は一錠で約8万円という高価な薬だ。

 治療にはこの薬を1日1錠、12週間投与する必要がある。12週、84日にかける8万円で、約670万円かかる。

 国の助成制度の対象になれば自己負担は2万円で済む。
 残りの約670万円(2万円程度値引いても「約670万円」には変わりがない)は保健制度が負担することになる。

 公的医療保険から「ハーボニー配合錠」の売り上げが移転することになる。

 ちなみにこの 「ハーボニー配合錠」を販売している会社は「ギリアド・サイエンシズ」と言い、2001年まで彼のドナルド・ラムズフェルド会長を務めていた会社だ。

 厚生労働省はこうした高額な医薬品の薬価を引き下げて抵抗している。

 ここで必要なのは薬価とはどうあるべきかという議論だろう。
 これは市場原理主義などで諮るべき問題とは思えない。

 確かに、優れた医薬品を開発したメーカー利益を認め、次の開発を促す事は全体の利益につながる。故にそうした利益をすべて取り上げる事は適当であろうとは思わない。しかし、こうした規模に現在の医療保険制度は十分対応できない。

f:id:ichi-nagoyajin:20160813130944j:image:w360:left 日本におけるCTスキャナの台数は国際的にみてずば抜けて多い。
 Health equipment - Computed tomography (CT) scanners - OECD Data


 だから「不必要にCTスキャナーを使っている」というような批判を生んでもいる。
 しかし、それが有ることが一概に悪いとは言えない。また、こうした社会的インフラの充実は今後も日本の優位性となるだろう。(ちゃんとしたマネジメントが為されればだが)

 こうした事柄も市場原理に任せてはならない。また、「専門家」と呼ばれる一方の利益代表であるような輩(前述したような曲学阿世の徒)に議論を任せてもならない。



 さて、こうした議論日本では十分できるものだろうか?

 甚だ疑問だ。「日本人はまともに政治の話ができるのか」まったく怪しい。
 (少なくとも、一橋大学慶応大学には失望する以外ない)

 (追記:
 慶応らしい政治家とは? 竹中平蔵が語る - NAVER まとめ  )


 f:id:ichi-nagoyajin:20160813130941j:image:w360:left例えば、「日本労働生産性が低い」という議論がある。
 この公益財団法人日本生産性本部の資料によれば日本労働生産性はOECD加盟国中21位であるという。
 http://www.jpc-net.jp/annual_trend/annual_trend2015_press.pdf


 スペインや、金融危機で騒がれたギリシャより日本は「労働生産性が低い」というのである。

 さて、こうした分析を受けてどういった議論が起こるか。
 「非効率なホワイトカラーの働き方」「勤勉さだけでは改善できない日本の低い労働生産性」「日本人はなぜ学力が高いのに生産性は低いのか」ちょっと Google に 「日本人生産性」という言葉を入れただけでこうした文章がヒットする。
 そして内容を見てみればやれ「労働の生産性を上げよ」だの「日本人は意欲に欠ける」だの「縦社会で非効率」だのといったどうでも良いような話ばかりだ。

 まるで戦中、竹やりを持ってB−29に対峙させた旧軍部を想起させる。

 挙句の果ては「解雇を自由化すべきだ」ときたもんだ。(確かに解雇を自由化すれば後述する理由から「生産性」は上がるかもしれないが、社会はそれによって毀損されるだろう)


 労働生産性の式なんて至極簡単だ。

        労働生産性 = 付加価値 / 従業員数

 OECDでは、1人1時間当たりの付加価値と、従業員数で計算している。

 もし企業解雇を自由化すればこの分母の従業員数が限界まで下がる、それによって労働生産性は押し上げられる。スペインギリシャ生産性が高いのは、雇用が壊滅的であるからという観測もあるようだ。雇用を今以上に流動的にすれば計算の上では労働生産性は上がるように見えるが、果たしてそれで全体的な総量は上がるのだろうか?下がるのではないだろうか。さらに、そうした流動性付加価値にもマイナスの影響を与えるのではないだろうか。(市場付加価値を認めさせるものは商品の希少性や優位性であって、それは商品に込められたナレッジベース(知の集約)でもある。頭の数が減れば、どうしても「知の集約」は毀損される)

 ところでこの付加価値をもう少し子細に検討してみよう。
 付加価値とは。

        付加価値 = 売上高 − 外部購入費用

 と定義される。

 この付加価値には人件費賃貸料、租税公課減価償却費営業利益等(及び知的財産権の使用料等)からなる。

 ・・・つまり、「人件費」を上げれば付加価値は上げざるを得ず、労働生産性もおのずと引き上げられる。OECDの資料にある、日本よりも労働生産性の高い国々は軒並み人件費が高い。逆に言えば日本におけるこの人件費の引き下げ傾向。(さらに、企業の過剰な価格競争)が、日本労働生産性を毀損させているのだ。(アルバイトを違法にこき使って、一皿100円だの280円だのといった廉価販売を続ける外食産業など、こうした合成の誤謬のさいたるものだ。そんな企業経営者をありがたがって国会議員候補に迎え入れる政党も正気を失っているとしか思えない。人物を見る目が無さすぎる。)

 「ホワイトカラーが非効率」だの「意欲に欠ける」だのと阿呆な能書きを垂れる前に、経営者経営者無能の証であるプライスレースから降りさせて、労働分配率を高めさせ、人件費を引上げることを提案した方が労働生産性の向上には直接的に寄与するだろう。


 アジア・オセアニア各国の賃金比較(三菱東京UFJ銀行)

 という資料がある。

 これを見るとまだ日本の労働賃金は高い水準にあるように思えるが、香港シンガポールの伸長を見るとこれがいつまで続くか不明だ。更に過去10年の上昇率を見ると、日本のマイナス値が際立っている。

 こうした賃金の下落が付加価値を引き下げ、結果として労働生産性を低く見せているに過ぎない。

 こんな簡単な理路を解せず、精神論をありがたがる。「竹やり経済学者」は要らないし、そんな言葉に引き摺られているようでは、国民の間にまともな議論が成立するとは思えない。

 さて、ここであえて問おう。なぜ議員報酬は半減しなければならなかったの?
 800万円でなければならないの?

 さあ、誰か説明して見せろ!


2016-08-07 植松聖を生み出したもの

植松聖を生み出したもの


 前回の文章に対する少々補足的な回り道からお話ししたいと思います。
 映画葛城事件」を見て気が付かされることは「対話の困難」だ。

 映画の中で、勿論会話は存在する、しかしそれが対話となっていない。
 観客はこの対話の無さ、困難さに辟易とする。(それが作劇の狙いであることは明白だ)

 知性は大切だ。しかし、必要な事は内省性だ。
 内省性とは、知性を、知性による批判を自らに向けることだ。

 「葛城事件」の作中に描かれる会話はどれもこれも意見の押し付けや我の表明でしかない。その言葉は空しく空間を滑って消えていくだけだ。

 人や人間の関係は対話によって「形を変えていく」
 それが社会性である。

 形の変わらない人間関係、自己変容を遂げられない人間は
 生き生きとした人間ではなく、消し炭のような、人格の形骸でしかない。

 三浦友和演じる「父親」は結局自己変容を遂げられなかった。
 誰をも受け入れることができず、故に彼の下からは誰も居なくなってしまった。


 排外主義とは社会の硬直である。

 「日本」の「本来の姿」などというものは無い。
 「日本」は外来文化に晒され、それを受け入れつつ変容してきた。

 日本古来の「かんながらのみち」やら「和魂」など、具体的に説明できるわけがない。
 *1


 形を変え、変容していくものが「日本」である。

 実は「日本」だけではない。およそすべての国は、変容していく。

 なぜなら、国や国家、それに民族といったものは「後付け」の概念でしかない。
 人間や社会(集団)が先に有って、それらがよりよく在る為にでっち上げられた道具が国や国家や民族と呼ばれるものであるに過ぎない。

 人間や社会(集団)の為に国や国家、民族があるのであって、その逆ではない。
 人間や社会(集団)を犠牲にする国や国家、民族などというものがあるとするならば、それは本末転倒の錯誤でしかない。*2


 自然界の生存ルールは「弱肉強食」ではないと述べた。
 「弱肉強食」という原理は刹那的に過ぎるのだ。

 「今、この時、ここ」という限定された環境下での優劣を問うのが「弱肉強食」や「市場原理主義」という幼稚な、子どもでも理解できる原理だ。

 しかし、生物(種)も、人間集団(国家)も、常に変化する環境に囲まれている。

 「今、この時、ここ」で最適な形質が、十年後にも有効であるとは限らない。

 つまり「弱肉強食」という原理が生存競争の中で有効でない理由は、「時間の評価に耐えられない」からに他ならない。

 これを勘違いして「弱肉強食」や「市場原理主義」を信奉する日本企業は増えている。

 つまりいたずらに「生産性」を追求し、「効率」を追求することに血道を上げる企業だ。

 企業が追求する「効率」は「今、この時、ここ」における最適でしかない。
 将来的な市場や社会の変容にそれが耐えうるのか、それは疑問だ。

 実際、ちょっとした天災ですぐに操業に支障を来す企業トヨタ)もあれば、重大な社会の変化に対応して批判を受けながらも貴重な社会インフラを安定的に供給し続けた企業中部電力)もある。


 ここで必要なのは冗長性であり、多様性である。
 ところで、「日本」という国土は安定性、安全性には欠ける。古来から天災に晒されて、そうした天災すらも考慮して社会インフラを形成してきた。*3

 そうした意味では「カントリーリスク」が無いわけではない。しかし、それに対応した冗長性や多様性をもった社会インフラが残っている。この優位性を生かせば、人口減少社会においても、アジアにおいてそれなりの位置を占めることはできるだろう。(この社会的インフラの優位性に気が付き、ちゃんとアセットマネジメントを行える政府が続けばだが、例えばおおさか維新政策は愚かなことに、こうしたインフラを手放そうとしている)

 しかし、今の日本(の有権者)は全く逆を向いているだろう。

 日本有権者、それも大多数を占める無党派層と呼ばれる人々が、行政政府に求めるものは、「行政改革」という行政の縮小であり、歳出削減である。*4


 さて、ここで前回の質問。
 「お金の価値はいつ生まれるのか」お答えはいただけましたでしょうか?

 「Modern Monetary Theory(以下では「MMT」と表記します)」の中に 「Taxes drive money 理論租税貨幣観)」という考え方がある。

 The Basics of Modern Monetary Theory – alittleecon

 これを妙訳してくれている。
 Modern Monetary Theory の基礎 - Togetterまとめ

 ここでお金の価値が生まれる瞬間が明確に示されている。

 理論的には、誰でも貨幣を発行できる。問題は受け取ってもらえるか。政府貨幣による納税を国内居住者に課すことで貨幣は受け取られる。貨幣納税を強制されれば、居住者は納税のため、貨幣を稼がなくてはならない。租税によって、通貨に対する需要が生まれ、通貨価値が確実になる。

Modern Monetary Theory の基礎 - Togetterまとめ

 納税にまつわる強制力が否応なく貨幣通貨)に対する需要を生み、貨幣の価値を生み出す。

 
 この「MMT」という観点から見ると、税収や借入(公的債務)が政府支出を賄っている訳ではない。話は逆で、政府支出を行うことで貨幣流通し、租税という形でこの貨幣に価値が与えられ続ける。

 つまり、政府を賄うものは納税者ではない。

 よく、バカな運転者交通違反などした際に「俺は年間何百万と納税しているんだ、お前ら警察官を何人か雇える額だぞ」などと訳の分からないくだをまくが、こうした考え方は根本的に間違っている。

 公務員納税者の為にあるのではない、全体の奉仕者なのであって、それは納税の有無に左右されない。

(「納税者の為の政治」が実はいかに間違っており、危険で醜悪であるかは後述)


 こうした観察もある。
 3.近年の米国の部門別バランス―ゴルディロックス、世界金融危機、財政のパーフェクトストーム|Tout ça pour ça

 政府収支と民間部門収支、さらに貿易収支は常に足し合わせればゼロになり、その国が貿易収支においてプラスマイナスゼロであったのなら、政府収支が赤字であれば民間部門の収支は黒字になり、民間部門赤字になれば政府収支は黒字になる。というものだ。

 今の日本は国や地方の政府部門は膨大な赤字を積み上げているが、それは民間部門の黒字(企業内部留保)に移転しているにすぎない。

 この観点からすると、政府の歳出を削減し、財政を健全化させれば、政府収支は黒字に転換するのだろうが、同時に民間部門赤字に転落するのだろう。


 「MMT」の考え方から言えば、「財政再建」や「均衡財政」など枝葉末節議論に思える。そしてそれは現実をよく反映している。

 「MMT」の観点から政府に求められるものは「雇用」だ。
 その他の事はセクタ間のバランスであって重要ではない。焦点は実物資源であって貨幣ではない。

 こうした考え方は高橋是清や55年体制下の自民党税制調査会のメンバーなどの意見に近い気がする。

 「経済」を単なる「金勘定」と捉えるのではなく、「経世済民」の方策と捉える考え方は、実物資源社会資本も含む)とセクタ間のバランスに目を配り、完全雇用と安定した社会を目指した55年体制下の自民党経済政策そのものだろう。

 それを壊したのは、小泉元首相の自認する通り、小泉竹中改革だ。
 竹中平蔵の言葉を聞いていると、彼には「経世済民」の思想などなく、経済を単なる「金勘定」と理解しているように思える。そして決定的なのは雇用環境を破壊し、完全雇用を否定した事だ。(これによって「少子高齢化」は深刻化し、地域コミュニティーは破壊されている)

(追記: 「世界で一番派遣会社パソナが活躍しやすい国」へ竹中平蔵氏肝いり派遣法改悪-若者は「貧しさをエンジョイしたらいい」(竹中氏)、皆フリーターにし「オーディション型雇用」で「人材派遣が日本の基幹産業に」(南部パソナ代表) | editor )


「均衡財政論」は人口に膾炙しやすい。国家財政家計に例える誤謬は今に至るも繰り返されている。(貨幣貨幣であるから価値があると無条件に信じて疑わない非文明的な態度だ)

 そして社会的資源は有限であるという言葉も説得力を持つ。
 古くは「ローマクラブ」における「成長の限界」が持て囃されもした。

 いまだに主張される「均衡財政論」。やれ「税の負担を軽減させるために、行政改革を行う」だの挙句の果ては「首長議員職員給与を切り下げて行政支出を賄う」などというバカで空虚発言もみられる。(東京都知事選挙でもこうした言葉を発する内の一人が最多得票を得ている)

f:id:ichi-nagoyajin:20120114103802j:image:w640:left ここにあるのは、ナチス・ドイツ優生思想プロパガンダポスターだ。

 「60000ライヒマルク この遺伝患者に生涯これだけの負担が社会にかかります。同胞のあなたのお金です」

 つまり「納税者の為に、社会の負担となる遺伝患者を排除しましょう(殺しましょう)」というポスターだ。そして、実際にナチス・ドイツはこうした遺伝患者、先天性疾患の罹患者を虐殺、排除した。


 驚くべきことに、こうした考え方は今も、この日本においても生きている。

 考えてみてほしい。知的障害者を生かしていて何の得があるか?まともな仕事もできない、そもそも自分だけで生活することができない。(略)つまり平時においては金食い虫である。

 (略)そんな状況では国民税金が無駄に使われるのがオチである。無駄な福祉費を使わなくて済ませることが国家に対する重大な貢献となる。だからこそ植松が言うように障害者はいなくなるべきなのである。

 (略)日本を良くするためにも(略)少しでも負担を少なくするためにも正しい政策を実行しなければいけない。そしてそれに逆行する政治家正義の鉄槌を下さなければならない。

重度障害者を死なせることは決して悪いことではない: 愛国を考えるブログ

 重度障害者を死なせることは決して悪いことではない: 愛国を考えるブログ


 ナチス優生思想から一歩も出てはいない。

 国民税金は無駄に使われている訳ではない。まず、それは職員などの雇用を生み出しており、彼らの生活(消費)は経済を生み出しているのだ。

 先に述べたように、彼ら障碍者を含めたすべての国民の為に国、国家があるのであって、その逆ではない。「MMT」という経済原理からいってもこうした優生思想は間違っている。

 残念なことに、上記のブログは「自民党のサポーター」らしいが、自民党にも異なる意見もあることは取り上げておこう。

 思うこと|野田聖子オフィシャルブログ「ヒメコミュ」Powered by Ameba




 小泉竹中改革が生んだデフレ経済縮小均衡の社会が、この日本経済を、社会そのものを縮小させている。人々はこの縮小に息苦しさを感じている。
 竹中平蔵が破壊した雇用は(そして、雇用を破壊したおかげで竹中の会社(人材派遣業/口入屋)は活況を呈し、竹中自身は高額の報酬を得ている)この社会の息苦しさに、将来の不安を加えている。

 法人税の軽減は企業活力など生まない。
 逆に、漫然と内部留保課税対象利益の計上)を積み上げさせ、企業から投資意欲や起業活力を奪い、企業運営は企業の運営ではなく、資産勘定、利益率の追求のみに邁進する経営者を生み出している。

 国家間の法人税競争などない。法人税を下げなければ、企業が海外流出するのであれば、タックスヘブン(企業課税の事実上ゼロ)の存在と、それでも国内に残る企業説明がつかない。国家間の法人税引き下げ競争などに参加する必要はない。逆に国際的な傾向は、こうした脱税行為に対する対策であって、そうしなければ、国家の持つ貨幣発行権そのものが脅かされる。


 国民の圧倒的多数は無産階級である。

 有資産階級がどの程度の課税負担をしているか、注目すべきだ。

 そして、政治とは(納税者の為の物ではなく)この無産階級の為のものであると知るべきだ。圧倒的多数の無産階級連帯し、再配分を求めるべきだ。*5

 野党民進党共産党社民党)が選挙に勝てないのは、彼らが国民無党派層)のニーズを把握していないからだ。

 国民無党派層)は、政党に対して懐疑的だ。政党は自分たちだけの「既得権」を守るために活動していると無党派層は見ている。そして彼らは政府と自分たちは、対立概念であると考えてしまっている。(自分たちの実入りの少なくない比率は、政府支出から来ている事に気が付いていない)

 野党政権を取りたいのであれば。

 政府国民無党派層)の利害は一致する、それを一致させるのが政党政治家の役目であると宣言すべきだ。

 再配分を主張すべきなのだ。

 「政府の責任国民完全雇用である」と力強く宣言すべきだ。

 「高齢者生活政府の責任である」と力強く宣言すべきだ。

 縮小均衡の均衡財政論や、貨幣の価値を盲信する市場原理主義*6から決別すべきだ。


 若者に、希望をもって明日を考えさせ。
 老人に、安心をもって明日を憂えさせない。

 そんな政府を再建するべきなのだ。


*1:それが具体的に説明できるとする者は、すでにその段階で自己矛盾している。言挙げしようとする段階で「かんながらのみち」を踏み外しているのだ

*2:しかし、こうした錯誤は古今東西を問わず数多く起っている。人間の知性の限界というものだろう

*3:この辺りは、松岡正剛の「フラジャイル」辺りを参照

*4:相変わらず

*5:いま、この時の資産の配分は、必然ではない。単なる偶然による歪でしかない。市場原理など気まぐれな女神でしかないのだ。人間の英知はこの気まぐれな女神に抗うべきだ。

*6:まるで、畳の下に札束をため込みながら餓死する孤独な老人のようだ

2016-08-06 植松聖容疑者がすぐ隣にいる可能性

植松聖容疑者がすぐ隣にいる可能性


 相模原で悲惨な事件が起きた。
 私はこうした逸脱が発生すると、被害者被害者家族の立場より、加害者が何を考えていたのかが気になって仕方がない。そして時には自分自身の中にある加害者と同じ要素や考え方、または加害者と自分自身を隔てている壁の薄さに愕然とする。

 ちょうど「葛城事件」という映画が公開されている。
 映画『葛城事件』公式サイト (映画のサイトだけあって、動画が再生され、音が鳴る可能性があるのでリンク先に飛ぶ際にはご注意を)

 元は演劇のためのフィクションだが、作者で監督の赤堀氏は「附属池田小学校事件」「土浦連続殺傷事件」「秋葉原通り魔事件」「池袋通り魔事件」など6つの実在無差別殺人事件をモチーフにしたと述べている。

 「家族という地獄」という言葉が付けられるだけあって、家族という濃密な人間関係の中で、常に起こりうる破綻を描いているともいえる。


 日本でも続発する連続無差別殺人米国欧州でも起きているテロ

 こうした背景には自己への肯定感が得られない若者が、自己を投げ捨ててしまうという「自殺の変形としての無差別殺人」という構図があるのかもしれない。(作中でもこうした考え方が示されて作者は一考を求めているように見える)

 こうした構造については赤木智弘氏が貴重な論考を述べている。

 新自由主義と基礎自治体の首長、など。 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争タブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる「持つ者」の傲慢であると受け止められるのである。

「丸山眞男」をひっぱたきたい

 若者が逸脱を起こし、社会を変えていくという姿は、一端では肯定されるべきものなのかもしれない(勿論、無差別殺人などの暴力にまで至った逸脱は肯定することなどできない)。また、ドストエフスキーなどもそういった姿を描いているところなどを見ると、「持たざる若者の逸脱」については、単に今日的な課題なのではなく、常に社会に内在する問題なのだろう。
 (戦後民主主義は、この若者のモチベーションを上手に解消してきたように思えるが、それにつては論点がずれるのでこの程度で)

 しかし、今回の相模原のケースは、これまでの無差別殺傷事件とは少々趣が異なる。
 それをやはり赤木氏が次のように指摘している。

彼のことを昔から知る人達はこう話しているようだ。

 「明るくて」「おとなしくて」「人に優しくて」「親切」「気に食わない人にはキレやすい」(*3)

 記事には「残忍な犯行と繋がらない友人たちの印象」とあるが、僕にはこのいかにも優等生的な印象が、この犯行とぴったり繋がるのである。つまり彼は何事も自分の思い通りにできると思っていたフシがある。

 ここ数年、ネットでこうした人をよく見かけるようになった。「◯◯民族を追い出せば日本は良くなる」「◯◯スピーチ禁止すれば日本は良くなる」「あの党がなくなれば日本は良くなる」こんな言説ばかりを主張している人たちがいる。実際、容疑者のものらしきTwitterアカウントには、そうしたうわずった言説でお金を稼ぐ人たちがたくさんフォローされていた。

 こうした言説を見ていると、さも自分が行動することによって、日本を良くすることができそうな気分になる。だからそうした人たちは人気がある。彼らを真似して安直な言説に希望を見出す人は少なくないのだ。彼もそうした類の人に見える。

相模原の事件は親切心によって引き起こされた

 
 現代の日本には誤った優生思想がはびこっている。渡部昇一の「神聖なる義務」( 参照問題やら。

 石原慎太郎の一連の発言だ。
 障害者に対して石原慎太郎都知事が言ったと思われること全文 - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

 (この記事は当時の「今」を誠実に追及している事は理解できるが、石原慎太郎理解する上では「時系列を切り取っている」に過ぎない。

 増田寛也を担ぐ石原慎太郎【佐藤優】絶対に誰も指摘しない東京都庁の闇の金 - 親子の言葉 (熊本に水俣病視察に訪れ、患者らが手渡した抗議文について) - 【政治を読む】TVメディアは政治を歪め国民に信じ込ませてきた

 ここに示されたような、環境庁長官時の舌禍事件を踏まえないと、都知事となってからの府中療育センターの発言は正確に理解できないだろう。)


 保守右翼でもない、ウヨクとも言えない。単なる排外主義者国粋主義者はすぐ短絡的に「優生思想」に飛びつく。何故か、簡単だ、バカだからだ。

 この世の中が「弱肉強食である」と誤って理解しているのだ。バカだから。(誤ったことに確信をもって信じ、疑いもしなければそれは「バカ」と表現する以外にない)


 今回の事件を契機に次のような優れた論考に出会えた。

<質問>
(略)自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。
でも人間の社会では何故それが行われないのでしょうか?
(略)今日の社会では弱者税金だのなんだので、生かしてます。
優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのですか。
今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。


ベストアンサーに選ばれた回答 mexicot3さん (2011/6/118:19:42)>


自然界は「弱肉強食」ではありません(略)虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています


自然界の掟は、(略)種レベルでは「適者生存」です
この言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)(略)

生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります

人間の生存戦略は、、、、「社会性」

高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する
個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄可能性を最大化する、、、、という戦略です

どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました

生物の生存戦略としては大成功でしょう(略)

「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ
あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です

遺伝子によって発現されるどういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません
だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです

(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)


アマゾンジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね
ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです

その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです

だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです
闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです


我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンス生存戦略だということです

弱者を抹殺する。不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂けれ... - Yahoo!知恵袋


 石原はへぼ文筆家として「ああいった生に意味はあるのか」なんて中二病的な疑問を持つ前に、現代生物学システム工学でも覗いてみれば良いんだろう。自分の考えがいかに浅はかで薄っぺらいか判ろうというものだ。


 しかし排外主義者はトコトンバカで困った人たちのようだ。
 こうした排外主義を社会全体で再考すべき出来事に突き当たって尚、排外主義を補強しようとする。

  新しい歴史教科書をつくる会・藤岡信勝さんが相模原殺傷事件でも人種差別デマ「植松聖容疑者は在日」を - NAVER まとめ

 藤岡信勝といえば、南京発言問題の際に、河村名古屋市長発言支援する為にわざわざ駆けつけた人物だ。

 自由な議論で南京を語る会? - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 南京の真実国民運動




 貴重な論考を引用していたりしている間に紙幅が尽きたようだ(この部分を要約しようと試みてこの文章を書き初めてからすでに一週間が経ってしまった)

 
 この社会は「弱肉強食」の競争原理に晒されている訳ではない。(これについては後に補う)
 人間は群れをなす生き物として、社会性を生存のための戦略に据えてきた。
 ここで重要なのは多様性である。

 しかし、こうした多様性を受け入れず、排外的な言説が今の社会でははびこっている。

 日本だけではない、ISISを生んだ背景やトランプ米国大統領として受け入れられる背景に同じ「勘違い」が、現代人に社会を歪んで理解させている。

 この「勘違い」を克服することが社会を真っ当に理解し、再構築する鍵なのではないかという観測をもつ。

 現代人は一体何を勘違いし、それが、なぜ、こういった排外的な社会を作ってしまったのか。
 そして、そういった排外性を克服し、人間の社会が多様性を取り戻し、人間らしい社会を再構築するためには何が必要なのか。

 次回に続きます。

 ヒントは「お金の価値はいつ生まれるのか」

 現代人はこれを勘違いしている。