市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

学校給食の無償化(いわきメソッド)

名古屋市市長選挙に立候補しようとしているいわき弁護士は、減税政策を止めて、その財源を利用し、学校給食の無料化を行おうとしているそうだ。現在、5%減税(0.3%減税)でバラ撒かれている税金は約120億円。この内の約46億円で、名古屋市内の全小学校の給食は無料化できそうだ。

河村減税では、個人法人を分けず、納税額に対して一律に「減税」をしているので、その政策は個人よりも法人、低所得者よりも高額納税者の方にあつく働き、所得の再配分どころか、格差の拡大になってしまっている。

(なぜ、行政の縮小という、市民サービスの劣化を引き起こしてまで、名古屋市内の巨大黒字企業に、わざわざ減税をしなければならないのか意味が判らない。河村市長は「納税者の政治」「納税者に感謝する」と述べているが、そもそも税という制度自体理解していないのではないのだろうか)

所得によって減税比率を操作できないというのであれば、減税以外の方法で所得補助を企図すればいいだけで、各種補助金の拡充や施設整備だって意味があるだろう、それを「減税制度」にこだわって、所得配分を考慮しないのは、河村市長自身の制度設計の甘さ、考えの浅さに有った事は明白だ。

・・・そもそも初期のマニフェストには「金持ちはゼロ」と明記していたのだからね。

小学校給食の無償化は、子育て世代に直接届く政策であり、十分、所得の再配分に資することになる。

一部では、学校給食費の滞納が問題になっているとも聞く。
これは、子どもの貧困という問題でもあり、雇用や賃金を含め、小泉構造改革以来、民主党自民党の隔てなく、縮小均衡論を振り回してきた現代政治の貧困の問題でもある。

(一時は、世界第一の経済大国と言われた日本において、「昭和枯れすすき」の如く、小学生が給食費を滞納して悩むなんて話題が復活しようとは思わなかった)

小学校の給食費滞納には様々な背景があるようだ。勿論、貧困もあるだろうし、「昭和枯れすすき」「昭和エレジー」風の「子どもの給食費を酒代に替える親」なんて姿もあるのかもしれない。

また、経済的には十分支払い可能であるにも関わらず「滞納児童にも同様の給食が提供されているのであれば、正直に給食費を納めることは不公平ではないのか」などと、滞納を決め込んでいる者も居るようだ。

いずれにしろ、子どもに悪い影響を与えかねない問題をはらんでいる。

子どもにとって(実は、どんな生物でも)食物が与えられるか与えられないかは、自己肯定の大きな前提であろうと思われる。

学校給食と言う現場において、自分に対するその費用が賄われていないという構図は、それだけで子どもの自己肯定感を棄損する。逆に、給食の無償配布という形で、社会が子どもに対して食を与えるという構図は、子どもにとって、社会が、自己の存在を肯定しているのだというメッセージとなるだろう。

この政策は是非実現するべきだ。

しかし、いわき弁護士に言わせると、この給食無償化は、子どもに対する政策だけにとどまらない、地域そのものを活性化させる政策であるというのだ。どういう事か、いわき弁護士は無償化された学校給食は、誰に対しても提供できるのではないかというのだ。

いわき弁護士が想定するのは、ニートや引きこもりと言われるような人々だ。
そうした人々に、学校給食という形で昼食を提供し、地域の小学校に来てもらおうというのだ。

勿論、この時、そうした来訪者に対応するのは学校関係者ではないだろう。
学校関係者だけではただでさえ負担が重いといわれる現在の学校現場に、さらに負担を強いることになる。

区役所の職員や地域のボランティアを配置して、こうした来訪者に備える、そして昼食を摂ることで、様々なコミュニケーションをはかり、困難を抱える若者と、将来の道を模索する契機となるかもしれない。

当ブログで以前提案した(当ブログは、文句を言っているだけではなく、「対案」も示しているつもりだ)「地域のコミセンなどを利用した『地域避暑』」の仕組みも、こうした交流の機会を狙ったものだ。

また、新政会の提案していた「地域支援員制度」もこうした地域の再活性化の方策だ。

減税日本ゴヤからは、こうした「地域委員会」に代わる、地域活性化の為の方策と言うのを聞いたことが無いのだが、いったいなぜなんだろうね)

少々前、文科省が「ゆとり教育」を打ち出した際に、文科省寺脇研宮台真司が「教育に地域コミュニティの力を利用する」とのたまわっていた。私たちは「すでに地域にはそのような力は無い」と反発をしたが、結果として私たちの主張が正しかった事は明白だ。当時から「地域コミュニティ」など、絶滅危惧種であって、いまは、それが深刻化している。

(そして、名古屋においては見事に8年間、議論が停滞している。このまま河村市政が続けば、失われた8年間が12年間に伸びるだけだ)

私が考えるに、なぜ、現代においては「地域コミュニティ」が成立しないか。
個々の住人が、単なる「人口」になっているからだ。
「住人」があまりに少ないのだ。

そして、住人が住人たるには、地域の中に共通していられる「場所」が必要となる。
地域にはそれがない。

以前は、街の喫茶店や居酒屋がそうした機能を果たしていた。
商店街などなら、商店主が出入りする居酒屋や、小料理店という物があり、そこが地域のコミュニティを形成していた。

地域の診療所の待合室や、喫茶店という存在も地域住民が毎日のように顔をあわせ、挨拶を交わし、会話を行う場だった。

こういった喫茶店では、座席と座席の間にはパーテーションは無く、全員が全員の客と顔を合わせる事が出来た。

これが例えば、現在の「コメダ」などでは成立しない。
まだ、一部の「コメダ」では名古屋の従来の形式を踏襲しているが、多数の店において、個々の座席は個室化して、座席のプライバシーが確保されている。

プライバシーの尊重と相互交流は非常に困難な問題であり、そのバランスを図ることは困難だろう。
たぶん、正解などは無い。

この学校給食の無償化に伴う、給食の拡大提供にしても、様々な問題に突き当たるだろう。

現在の学校は、防犯上、閉鎖する方向性にある、そこに無条件で来訪者を受け入れようとすればその管理は大変だろう、全市で小学校は261校ある。区役所は16だ、1区役所当たり単純計算でも17人程度の人員が必要となる。

地域のボランティアにはぜひ参加願いたい取り組みだが、ただでさえ負担の重い区政協力委員にこれ以上の業務を積み上げるのは酷というものだろう。しかし、場合によってはセンシティブな問題もはらむだけに、ボランティアと言っても無条件に受け入れるわけにもいかない。

また、この想定のように、ニートや引きこもり、未就労や未就学の若者の対策の為に給食提供を行うといった場合、それは年齢制限できるものだろうか。

すでに「限界引きこもり」という言葉があるように、30代、40代の引きこもり、未就労者も少なくないようだ。

もしそうした未就労者を受け入れるとしたら、街を徘徊している住居不定者は受け入れないとできるのだろうか。

(彼らも行政の手を届けなければならない対象には違いない。
河村市長は、「金シャチ横町の建設」と理由をつけて住居不定者のシェルター事業を閉鎖したが、それに代わる施策は打たれていない、若宮大通りにはまた、不法占拠の小屋が出現しているが、こうした不法占拠は、その背景に不法な労働法制があるのではないかと思えてしまう)

また、もっと高齢者。
独居老人が訪れたら。

現在、独居老人に対しては様々な給食事業が展開されている。
しかし、そうした制度ですくい取れなかった人々もいるだろう、そうした高齢者が、この学校給食の無償提供拡大を受けにきたなら、どのように提供すべきなのだろう。他の政策との整合性はどのように図られるべきなのか。

たぶん、議論すべき課題は多々ありえる。
現場において問題も発生するだろう、しかし、問題は、発生しない事が素晴らしい事ではない。
問題を隠ぺいし、あたかもない事のように扱う事は社会正義に反する。

ニート、引きこもり、住所不定者、独居老人の問題は、こうした社会的「隠ぺい」に遭っている問題といえる)

問題を顕在化し、それを議論し、解決策を模索する。
それこそが公共の在り方であろうし、あるべき政治の姿、自治の姿だろう。

「いわきメソッド」ともいうべき、学校給食の無償化と、その拡大提供。

それによって、新たな「地域コミュニティ」が再生されるなら、非常に興味深い事だ。



追記:これ面白い

 まとめよう、あつまろう - Togetter

作った人は肯定的に作ったつもりなんだろうけど、
こうして今見ると、キッチリネガティブキャンペーンのようになっている。