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市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

  一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。


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2018-08-14 君は市議になって一体何をしたいのか?

君は市議になって一体何をしたいのか?


あまり知られていないことだが、来年の統一地方選挙に向けて減税日本名古屋市議員候補を発表した、その中で6名の「新人(?)」議員が含まれている。

豊田 薫(中区)
河本 有子(守山区)
澤田 仁実(港区)
前田 恵美子(瑞穂区)
佐野 勉(中村区)
中川 敦史(中川区)

敬称は付ける気にならない。

およそ地方議員国会議員など、間接民主政治を支える制度を担うものには、いくつかの素養というものが必要なはずだ。その中で、信任を託された有権者にはウソをつかないという事と、その前提として正しい情報を公開する事、そして有権者の判断を聞くという事(何も、有権者の判断に従えとは言わない、その意見を聞くぐらいの度量を備えるべきだという事)などは当然の事柄だろう。

ブログでは、公職者には敬称か役職名を付けるようにはしている。それはその当人への敬意ではなく、それを選んだ人々を「恐れる」からだ。(公共空間で表現行為をするときに、この恐れを失うものは表現者、発言者としての資格がないだろう)

しかし、有権者にウソをつく者には、その資格がない。
市民にウソをつく者には市会議員市長としての資格を認めることはできない。

ブログはそう断じてきた。
伝聞ではなく直接、ウソを見聞きした段階で当ブログはそのウソツキを公職者とは認めない。

今回、減税日本は来年の統一地方選挙市議候補として、「3期目」の候補を公認している。
2011年の市議選の際に減税日本の一次公認者は「誓約書」を書いている。
その文面には、任期を「2期8年までとする」と明記されている筈だ*1

次の5名はこの「誓約書」を反故にして「3期目」の立候補をしている。

田山 宏之(北区
鹿嶌 敏昭(西区
浅井 康正(名東区
大村 光子(昭和区
鈴木 孝之(天白区

この5名は、この食言の経緯を説明する責任があるだろう。

そもそも、先の新人6名についてもそうだが、あなた方は何がしたいのだろうか?

議会改革?

ブログでは何度も指摘しているが、議会改革を市政の課題にするのは、ラーメン屋が厨房の衛生を売りにするようなもので、商売を舐めている(だから、あの人は画廊を潰しているんだろう)
議員報酬を半減する程度で議会改革ができなかったことは明白で、河村代表が言ったように「市議報酬が800万円になれば市民がこぞって市議会議員になる」などという現象は2015年には起きなかった。

そもそも市職員の報酬を人事委員会の勧告を無視して引き下げようとしたり、議員報酬を下げようとするのは、縮小均衡論でしかなく、「豊かさはお金の形で貯め込めると思っている病(やまい)」「緊縮財政病」でしかない。

キミのお金はどこに消えるのか

キミのお金はどこに消えるのか


トマ・ピケティの「21世紀の資本」を読めとは言わないが、せめて「キミのお金はどこに消えるのか」ぐらいは読んでおいていただきたい。

議員報酬議論も、名古屋市における減税政策も、こうした経済学的な観点から見ればナンセンス以外の何物でもない。さらに、減税日本におけるこの議員報酬の主張には欺瞞性がいくつもあるが、それについては稿を替えよう。

また、君たち減税日本市議候補はまた「市長を助ける」として、現在市長の最も力を入れている政策*2である名古屋城天守木造化に賛成するのだろう。市議選の間、有権者に街頭や会合で「名古屋城は木造化するべき」とでも訴えるつもりだろうが、チト伺いたい。
あなた方は「木造天守」と呼ばれるものが、どのような姿であるか承知しているのだろうか?
歴史的資料である「金城温古録」や「昭和実測図」では漠然とした外形図しか示されてはいない。
(なんでも本丸御殿建設の際、昭和実測図の示す大きさに矛盾があり、設計において障害が出たという)
その詳細を知っているのは事業者である竹中工務店名古屋市の担当職員だけだ。
また、文化庁に提出しようとして拒否されたと言われる「基本計画」についても、それがどのような物であるか、君たちは知っているのだろうか?
これら情報は一般市民には公開されていない。
こうした情報公開が為されていないこと自体が異常な事だが、君たちはその異常な状態においても、それを推奨するのだろうか。それは、有権者に目をつむって裏書をするようなものではないのだろうか。
自分がよく承知していないような事柄を、良く推奨できるものだ、無責任な行為ではないのか?

さて、今の名古屋市政は異常だ。

名古屋市議会基本条例


名古屋市議会には「名古屋市議会基本条例」があり、その第4条は「市民参加の促進、市民の多様な意見の反映」を謳っている。その4には議会報告会の開催を義務付けているが、名古屋市、河村市長は開催していない。条文には「議会活動に関する情報を積極的に公開するとともに、市民の意見を把握して、議会活動に市民の意見を反映させる」といたって民主主義的には当たり前のことをうたっているが、これが守られていない。河村市長民主主義が嫌いなのだろう。(減税日本党内を見れば、民主主義が嫌いな事が良く判るだろう)

追記:「議会報告会」の話題を出すと、減税日本および支援者は「市議が自費で行えばよい」と主張する。そして少なくない市民が、市長が開催予算を付けないのであれば、市議が負担するなり政務活動費から持ちよるなりして対応すべき。という意見も聞く。
しかし、私の主張は違う、条例で定めた以上、それを守るのが民主主義だ。形式主義は民主主義ではないが、民主主義は形式を守るべきだ。議会報告会議論における法理の軽視が、市職員の給与における人事委員会勧告無視や、名古屋城木造化に対する文化庁文化財保護法、建築基準法、消防法、ハートビル法の無視、軽視につながっている。民主的な公職者は、憲法をはじめ法律、条例を遵守しなければならない、それらを尊重しなければならない、それは国民との約束であるからだ。そうした条文、条項を軽視するものは、国民有権者を軽視するに等しいと理解するべきだ。
口から出まかせで、各種条文、条例をないがしろにする者には、公職者たる資格は無い。


名古屋城の基本設計(どのようなものを作るのかといった仕様)や基本計画(どのように作るのかといった情報)が市民に公開されていないこの異常性も、この議会報告会を開かないという異常性に通じている。

名古屋市は完全に市民をないがしろにして、勝手な行動を取ろうとしてる。これは民主主義の姿ではない。(こういった姿を、河村市長の「いとこ」という人物は「私らは、選挙に勝ったんだからこれでいいんだよ、負けた方が文句を言うな」とおっしゃった)

さて、ここからぐっと具体的に、名古屋市政の歪みをお示ししたい。

河村市長は2009年、自らの市長選マニフェストとして「減税ナゴヤ 庶民革命脱官僚」という文章を公開していた、この4には「冷暖房のいらない街ナゴヤ」という政策がある。「緑の回廊、水の回廊、風の道」を作るとしている。

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今年のこの夏の暑さ、これが何も河村市長の政策のせいだなどと言うつもりはない。地球の気候変動の影響によるものだろうとは理解できる。しかし、それにしても、または、そうであればこそ、こうした「冷暖房のいらない街」という政策がちゃんと実現していれば、人々はもう少し楽に生活できたのではないのかと思うと残念でならないし、実は市長はこういったマニフェストなど忘れてしまって、真逆の政策を取ろうとしている。または既にとっている。市民にも相談なく。

いま、名古屋市は栄の中心地、久屋公園の北部を改造しようとしている。
道路を潰し、植栽を大幅にカットするようだ。

この計画は東区中区の周辺住民の間で問題ともなっている。

しかし、私が疑問に思うのはこうした公表された計画以前に、市民への説明や了解が碌に無い中で、すでに久屋公園の木々が伐採されている事であり、さらにその理由と推測されるものだ。

しばらく前に私は、久屋公園、テレビ塔の南側、池の周辺を歩いていて違和感を感じた。「木が少なくなっていないか?」と思ったのだ。
それで池の周辺を歩いてみた。

以下の写真がその時私が撮影した真新しい「木の切り株」だ。

f:id:ichi-nagoyajin:20180814143826j:image


f:id:ichi-nagoyajin:20180814143956j:image

調べてみると、平成26年12月25日提出の「都市活力向上特別委員会資料 都心部まちづくりについて」という資料に行き着いた。


(4)久屋大通りの再生社会実験の実施

「良好な樹木環境の整備」として「一部分で、樹木の間伐や植樹等の改良(テレビ塔エリア)」とある。

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f:id:ichi-nagoyajin:20180814144038j:image

「イ.主な社会実験の実施箇所及び時期」との図があり、ここには池(さかえ川)の周辺への記述はない。



名古屋市中土木事務所に情報公開を求め次のような図を得た。

f:id:ichi-nagoyajin:20180814144203j:image

真ん中でくねっているのが池(「さかえ川」)であり、その左側の大きなバツ印のある四角がテレビ塔、右側の横に寝た「凸」の字形の構造物は「もちのき広場」(名鉄瀬戸線栄町駅に通じる地下空地)になる。

番号は植えられている木々を表し、緑色の丸で囲んであるものは伐採剪定*3された木、赤い丸で囲んであるものは切り倒された木になる。

私が違和感を感じたように、池周辺、特にテレビ塔近辺ではすべて切り倒されているようにも見える。
(185、186,110、99,83,280,100,150,188,92、テレビ塔に接する南側のブロックは15本の内10本が切り倒されている)

f:id:ichi-nagoyajin:20180814144231j:image

これは「一部分で、樹木の間伐や植樹等の改良」と言えるのだろうか?
また、市議会においては、上記の委員会で資料が提出されているようだが、市民に何らかの説明はあったのだろうか?

最後に、私が最も違和感を感じた場面をご覧いただこう。
もちのき広場の北側にこうした「舞台」がしつらえてあった。

f:id:ichi-nagoyajin:20171224113446j:image

そして、ここからテレビ塔がなんの障害も無く見通せる。

私が訪れたのは昼間だったが、夜になればテレビ塔がライトアップされ、この舞台に立ってアングルに工夫を加えると、テレビ塔が「ライトセーバー」のように映るらしい。
映画の宣伝タイアップに使われたのだろう。

そうしたイベント企画や企業の為に、市民の共有財産であり、大切な市の環境、「緑の回廊」を構成するべき植栽を切り倒してしまったのだろうか?

市民との、議論も無く?

市長マニフェストも無視して?



追記:もし減税日本市議として選挙に出るのであれば、こうしたこども騙しの嘘に無関心になれなければならない。こうした民意無視を気にせず「民主主義」を唱えられる面の厚さが必要となる。
さて、さきほど地震があったようだ。静岡県西部でマグニチュードは3.9
中部地方地殻の活性が高まる前兆でないことを祈りたい。

こうした防災に対して、名古屋市はこの10年ほど完全に手を抜いている。
そればかりか危険な箇所に対して対策しないまま開発を進めてもいる。
こうした影響がどのように出るのか、私は危惧をしている。

冷酷なようだが、私はこれに責任を持たない。
本来責任を持つべきは、そうした事に無責任な人物と来ている。

もし君が「市長を守る」と主張して選挙を戦うのなら、一度、そのご本人が、この防災や市民の生命、安心、安全についてどう考えているか、それぐらい質してみた方が良いだろう。

そして、その発言について、もちろん、裏取りの調査もしてみるべきだろう。
その結果、それでもまだ支援できると思えるのであれば、私は何も言わないし言えない。
そうした行動も起こさないのであれば、


・・・・ともに滅べと思うだけだ。

*1:この「誓約書」がどうなったか、という一事をもってしても、減税日本なる集団が公党を詐称する資格がない事が判る

*2:失笑以外の何物でもない!

*3:指摘を受け修正

2018-08-03 箒で掃き出して海に沈めてやりたい

箒で掃き出して海に沈めてやりたい



衰退している国は偶然衰退しているのではなく、衰退すべくして衰退している。

東京医科大学入試試験において女性受験者の得点を操作し、男性受験者に有利な判定をしていたと伝えられている。
聞くところによると、東京医科大学ではアドミッション・ポリシーにない減点が行われていたために、今回の不正が顕在化できたが、他の大学で「面接重視」であるとか「評価の多様性」といったような、判定そのものの客観的正当性評価が難しい制度を導入している大学では、性別による差別が行われていたとしても問題視されない可能性もあり、私大医学部におけるこうした性差の問題は、東京医科大学だけの問題ではないとの指摘もあるそうだ。
まず、枝葉の議論として、大学のアドミッション・ポリシー多様化とは何かという議論もある。
現在、少子化する社会において、逆に私塾産業は花盛りだ。どんな地方に行っても学習塾は存在し、夜遅くまで子どもたちが集まって勉強している。学歴受験が重要なこととして扱われ、子どもにかける「教育投資」が重視されている結果だろう。学校における教育指導要領に準じた総花的な授業とは異なり、時には特定の学校の出題傾向にまで特化した私塾における授業には、「投資」するだけの効果があると考えられているのだろう。しかし、この「効果」とは何に対してのものなのだろうか。それは「教育」ではない、単なる「受験」に対する「効果」であり「学歴」取得に対する「効果」でしかない。

衰退している国は偶然衰退しているのではなく、衰退すべくして衰退している。

人間を形成するものは記憶であり知識だ。ヒトが、それぞれの個性を現す様々な発想にも、その根底には、既存のヒトの模倣や基盤となる知識が必ずある。それがなければ発想などというものは、歪んだ妄想や脆弱な思いつき程度にしかなれない。人格の発露ともいうべき発想の形成に必要な知識というものは、多様性が必要なのであって、一人の人間の中で混在する多様な記憶や知識の連関、創発が、豊かな発想を生み出し、人格ともいえる姿を形成する。
受験という一点に向けて特化された知識(受験テクニック)には、こうした創発の機会が乏しい(無いとは言わない)

特化、先鋭化した組織の先にあるものは、緩やかな死だけだ。衰退している国は偶然衰退しているのではなく、衰退すべくして衰退している。

そしてかわいそうな事に、こうやって「受験戦争」という選別にわが身を置いた子どもは、やがて、いかんともしがたい「壁」を感じることとなる。受験という特化したノウハウを「買う」事が出来るのであれば、その「投資」額によって効果は比例する。それは当然の市場原理の帰結だ。であれば、自分よりもより「投資」した者がより「効果」を納め、勝ちぬくことは予め予見可能である。そして受験競争において、勝者は一握りの者たちのためにあるのであって、残りの大多数の者は敗者にしかなれない。
つまりここにおいて、あからさまに「投資」額と「効果」の差。「金を持った奴の勝ち」という現実に突き当たる事になる。(いわゆる、「格差の固定化」「階級の世代間移転」を味わう事になる)

受験」のさらにその先にある「学歴」においては、もっとあからさまな迂回路が用意されており、そこにおいては「公正な競争」すらない。いわゆる「学歴ロンダリング」がまかり通っても居る。(ありがたい事に、私は名古屋市会を注視することによって、この具体的で先鋭的な事例に出会えた。碌に論理学も理解できなくても、東大大学院生となれるのだ!ビックリだ)

こうした信憑性に乏しい「学歴」や「肩書」に今の社会は左右され、結果としてきわめてあやふや議論がまかり通り、怪しげな結論、決定がなされている。

その一例として、竹中平蔵が挙げられるだろう。「経済学者」としての実績は乏しく、非常に信憑性が低い(基本的な計量経済学について、理解していないのではないかという発言すらある)そして、そのキャリアパスにおいても怪しげな部分が見られる。(処女論文について、剽窃が疑われたり、母校一橋大学における博士号審査に落ちてみたり)挙句の果てに「wikipedia」では次のように述べられているようだ。

日本経済成長に対して、多くの提言を行っているが、実際に彼の主張によって日本経済が回復した事実はない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/竹中平蔵:title]

日本経済を回復させられない「経済学者
患者を助けられない、医者。家を建てられない、大工

つまり、プロではない。竹中平蔵キャリアパスには一橋大学慶応大学が含まれるのだろうが、そうした環境から、「プロの経済学者」が生まれなかったのだとすれば、その大学教育は失敗であるという事だろう。

衰退している国は偶然衰退しているのではなく、衰退すべくして衰退している。

受験はヒトを選別することはできない。それだけではヒトを選別することができないのであるから、私は本来大学など「全入」させればいいと思っている。その代わり卒業選別は厳しくすればいい。大学に「入った」ことを示す「学歴」など何の意味もない(「○○大学中退」という「学歴」など意味がないと思っているが、昨今では、そこそこ意味を持つそうだ)しかし、大学全入を受け入れるほどの環境が整わない。その為に選別を行うのであるとすれば、その基準は入試の得点のみによるべきだろう。恣意的なアドミッション・ポリシーによる選別は、当初思われているように多様性など生み出さない。そこで評価される価値観は、現在、その大学を構成する者たちが認める価値観なのであって、それを次世代の構成員に押し付け再生産するだけなら、その価値観大学という社会を多様性に乏しい環境に落とし込む。結果として多様性に欠ける組織は緩やかな死を迎える以外ない。

以前、このブログでも述べたが、私は「大学」という存在は、社会の為の機関ではないと思っている。
もう少し正確に言うと、大学とは「今日の社会」を補強する存在であってはならない。
明日の社会を形成する、そのリーダーを生み出すのが「大学」の機能であって、リベラル・アーツとは、「明日の社会を形成するために、今日の社会を破壊する」謂いでなければならない。ところが現在、日本という社会おいて、大学に求められている機能は、「企業における即戦力人材育成」であるとか「産業と連携して貢献できる研究」というようなものであり、「現在の社会」を踏み越える事はマイナスとされる。こんな環境で、社会を変革するダイナミズムなど生まれないし、社会は徐々にその境界線を縮小していく以外になくなっていく。つまり、特化、先鋭化した組織の先にあるものは、緩やかな死だけであり、衰退している国は偶然衰退しているのではなく、衰退すべくして衰退しているのだ。

東京医科大学の例を言えば、私立医大とは、すなわち付属病院と連携して医療サービスを提供している企業と捉える事が出来、経営者はその企業構成員に対してより効率的な働き方を求める。その論理的帰結が男性受験生の優遇であり、女性求職者の排除なのだろう。それは、医療の労働現場が過酷であり、女性医師(女性労働者)の「婚姻離職」や「産休」が、会社としての東京医科大学の「生産性」を減速させる要因と捉えられているという事だ。

こうした「生産性」を求める企業東京医科大学だけではないだろう。日本の社会においては平均的に見られる風景であるように思える。そもそも企業というのは「生産性」を求めるべきなのだろうか?それが至上命題なのだろうか?

私には違うように思えてならない。

企業運営において「生産性の向上」をターゲットとして組織を構築しようとすれば、その為の大前提は何か?
それが忘れられている。

企業を効率化して「生産性を向上」させようとすれば、その大前提は「今の社会の姿」を正確に知る必要がある。「今の社会の姿」を正確に理解し、それに企業の姿をより高くフィットするよう再構築することが、企業を効率化して高い生産性をもたらすということになるだろう。

しかし、こうして高度にオプチマイズされた組織は脆弱だ。
社会の環境変化に耐える事が出来ない。

「明日」莫大な収益を上げる事業は「今日」においては研究開発費を食うだけのお荷物かもしれない。

そもそも企業は「生産性」を上げるためにあるのではない。個別な効率化、生産性の向上を否定しているのではない、企業の目標として、このような小項目を挙げる事が誤りであると考える。企業の目的を「生産性の向上」であるというとすれば、それは山に登ろうとする時に、道順も無視して足元だけに集中して「一歩一歩、着実に歩け」と言っているように聞こえる。「一歩一歩、着実に歩け」と言われれば聞こえはいいが、ルートも無視した「着実な一歩」は遭難に向けての「着実な一歩」でしかない。

企業が目指すものは「収益」である。

企業とは、ヒト、モノ、カネという経営リソースを使って、収益を上げる装置であって、「生産性」とはその部分的な一つの指標でしかない。

企業とは「業(なりわい)を企(くわだてる)」ことであって、構成するヒト、とモノの所有者、カネの出資者が生きていける事が目的である筈だ。

ここまで考えてみると、「企業が<今の社会>に特化して、効率化し、社会情勢が変化して存続が叶わないのであれば、その企業が潰れ、別の企業に移行していくだけでデヴィッド・リカードの言うような『比較優位論』は成立するのであって、社会は高い効率のまま推移するのではないか?」という反論を受けそうだ。

自由貿易論理的裏付けリカードの「比較優位論」は誤って理解されている。比較優位論が成立するためにはその「コスト」ともいうべき産業調整のコストはゼロと考えなければならないし、完全雇用状態が続かなければならない。空想的で非現実的な前提に立たなければ比較優位論は成立せず、自由貿易の優位も立証できない。そして現実には、自由貿易は様々な問題を引き起こす。

社会が全体として、企業を選別してまでその生産効率を追求しようとすると、企業は存続期間を短くするだろう。
つまり、雇用不安定となる。そして、現に今の日本の社会は、企業の平均存続期間は短く、非正規雇用などの制度改革によって「柔軟」になった雇用はより一層不安定となっている。こうして社会全体で「生産性」を求め続けた結果が、何を生みだしたかといえば。

「失われた人口ピラミッドの3つめの山」だろう。(生みだしたというよりも、生みださなかった事を生みだした)

少子高齢化文化の変化ではない。若者の生き方が変わったためでも、ましてやLGBTの存在というような問題ではない。20代の若者にとって、5年先の自分の就労状態が想像できないのであれば、どうやって婚姻し、家庭を持ち、子どもを産み、育てるという事が出来るだろう。子どもを産み育てるための、10年から20年にわたる経済的安定と、その経済的安定をもたらす雇用の安定、社会保障がなければヒトは安心して子どもを産み育てようとはしない。できない。

ここで「失われた人口ピラミッドの3つめの山」の原因は「女性の社会進出にある」という反論がありそうだ。

そこで、東京医科大学の話に戻る。

医療の現場で医者の労働条件過酷だそうだ。医師は常に不足し、過重労働で賄っているとも聞く。
こうした中に女性が入ってきて「婚姻による離職」や「産休」を取られたら、その穴をどう埋めるのか?そのためにも、そうした不安の無い男性を採用するというのだ。ここに論理の飛躍、欠落がないだろうか?

そもそも医者の過重労働と、その絶対数の不足が問題なのではないのだろうか?
医療現場の人員配置というものは、ほとんど国の制度によって設計されているのではないのだろうか?医療設備、入院用の部屋の広さやベットの仕様看護士の配置や設備の条件、さらに医師の人数も、保険適用に叶うように配置されているように仄聞する。つまりは、医師の過重労働も絶対数の不足も、その原因は制度設計にあるのであって、なぜそこまで制度が過酷なのかといえば、ここでも「効率化」や「生産性」が求められているからではないのだろうか?

そこに居る人間よりも、制度や数字自体が自動運動してしまっているのではないのだろうか?

結局のところ、「国の借金」を錦の御旗に掲げる、財政均衡論者が、まわりまわって今回の問題の真犯人という事になりそうだ。

・・・財政均衡論者

もう、日本中財政均衡論者を箒で掃き出して海に沈めてやりたい。

子どもにツケをまわさない」とはよくも言ったものだ。
彼等の思い込み、または有資産階級であるなら、その資産を守るために、国そのものを亡おうとしている。
それが「財政均衡論者」だ。

財政の為に国民が居ると思っているのだろう。

なんだかなぁ加藤寛竹中平蔵高橋洋一、そしてちょっと毛色は違うが池田信夫
見事なまでに正解の逆を張ってくれる。彼らが「ハン」と言ったら「チョウ」に張って置けば倉が建つ。


小泉竹中構造改革以降、この国は「構造改革」を続けてきた。
財政均衡論を掲げ、その「健全化」を企図してきた。その結果がこの「失われた20年」だ。

改革派」というのは始末に負えない。

改革真理教の教徒から見ると、日本の苦境は改革のせいではないと映るようだ。
苦境を脱するための改革が、苦境の原因であるわけがなく、その苦境の原因は改革が充分でないからという事になるようだ。

もっともっと一所懸命改革し、子どもも生まない、女性は社会に進出し(しかし受け入れず)、格差は拡大させ、若者は明日に希望を亡くし、100円で買えるアルコール9%の飲料に浸り、国は観光を産業の軸に据え(観光産業が国の軸になっているとすれば、その国はたいてい、貧しい国であるという事実に気が付かない)ヒトの生き辛さなど耳を貸さず、もっともっと改革すれば、改革の神が「均衡財政」「財政の黒字化」という「ヴァルハラ」を示してくださるのだ。V8!V8!

呆れかえる、こんなものは狂気だ。

政治の文脈において、なにか一つの事柄が成立すれば、バラ色の社会が訪れるなどというのは、必ず誤りであって、そういった扇動者の言葉は信じてはいけない。
民衆による国王の放逐、
植民地の独立、
民族の自決、

地方自治体の中央政府からの独立、
減税政策?

こんなものは、すべて「毛ばり(C渡辺美智雄)」にすぎない。

なんでも、大阪市学力テストの結果が、2年連続で全国最下位となったらしい。
大阪維新の会は、この学力テストの向上のために、教師の評価基準に口を出し、民間から校長をひきいれ、私塾バウチャーをバラまいたのではないのか?
それでいて、結果がま逆となったのであれば、自分たちが進んでいた道順が間違いだと気がついてもいいのではないのだろうか?(まあ、間違った道を進む集団のリーダーというのは、おのれの過ちに気が付かないものだ。私は、暑い夏の日には映画八甲田山」を見るが(今年はすでに2回見た)あの過ちは今でも日本社会のあちこちに散在している)


衰退している国は偶然衰退しているのではなく、衰退すべくして衰退している。


財政均衡論者が道を指し示してくれる。
彼らが行こうとする方向の逆に行けば、まだ希望は有るかもしれない。

公務員給与を削減し、無駄を省け! → トマ・ピケティも指摘するように、公務員給与の引き上げは、国内における可処分所得の上昇を意味し、流動性の向上に有効に効く。国家支出は無駄な支出ではなく、国内産業の売り上げの原資だ。

法人税を下げ企業の海外流出を止めろ! → 法人税率の上昇は、課税対象利益の圧縮というインセンティブを生む、法人税率を上げれば企業はうかうかと利益を計上できず、その利益投資人件費に回す。投資人件費が高まるという事は、ほとんど直接消費の拡大を意味する。
逆に、ここまで財政出動し、日銀過剰流動性を上げているにもかかわらず、GDPが上昇しない理由は、企業において、法人税率の引き下げが、課税対象利益を圧縮するインセンティブを損ない、結果として、純益配当金を上昇させる結果となっているからだ。本来、ヒト、モノ、カネを再投資して、さらなる収益を上げるべき企業にカネが滞留しているという事は(そして、滞留した資金の使途を経営者が思いつかないとすれば)それは経営者無能を意味する。

日本はまるで畳の下にカネをため込んで死んでしまう老人になってしまったのか?

人口ピラミッドに示された「失われた第3の山」は本来であれば結婚し、家庭を持ち、子どもを産み育てていた若者。がそうした生活をおくれていないという事になる。竹中平蔵はこうした若者の生活を破壊し、彼らをワンルームマンションに追いやり、孤独生活を強い、明日をも知れない登録派遣の仕事で追いたてて「生産性」を求め、疲れ果てさせ、老いさせていく。そこで失われたものは何なのだろうか?

それは「人口」などという統計の言葉ではない。人間が本来追求し、手にすることのできる「幸福」そのものではないのだろうか?若者が好きな人と出会い、婚姻し、家庭を持ち、子どもを生み、育てる。そうした人々の当たり前の「幸福」を踏みにじっているのは財政均衡論者であり、「生産性」を至上命題と思っているバカどもだ。

真っ当な議論もなく教条的財政均衡論を言いたてる狂信者。私が箒で掃き出して海に沈めてやりたい。というのは、非常に抑制の効いた言葉だと思うのだが間違っているだろうか。


2018-06-25 名古屋城についての事実確認と現状の推測(4)

名古屋城についての事実確認と現状の推測(4)


まず、虚心坦懐に伺いたい。

名古屋城天守を木造化することに、あなたは心躍るものを感じますか?
それが素晴らしい事であると思いますか?
そこに一片のためらいは感じませんか?

この問いかけへの回答、それがこの問題の根底に眠る問題だ。


その前に直近、判明した事実について指摘しておこう。

1.市民との議論を隠ぺいし、民主主義を圧殺する「民主主義破壊、発祥の地ナゴヤ!」

名古屋市民オンブズマンが開示請求した資料によると、本年1月に開催された名古屋城説明会の質疑応答について、名古屋市竹中工務店の回答部分について非開示とするそうだ。

名古屋城説明会 市・竹中応答部分議事録作らず アンケートへの返事も作らず : 市民オンブズマン 事務局日誌
http://www.ombnagoya.gr.jp/tokusyuu/goten/index.htm#180601
http://www.nagoya.ombudsman.jp/castle/180620.pdf

特に名古屋市は会場で明白な「虚偽発言*1」をしているので、議事録が作れないのかもしれない。

しかし、公式ホームページで次のように明記している。

※市民向け説明会やシンポジウムでの質疑応答、会場で配布したアンケートへのご意見などにつきましては、後日こちらのページに掲載します。

名古屋市:名古屋城天守閣木造復元「市民向け説明会」・「シンポジウム」(観光・イベント情報)

なぜ、名古屋市は市民にこのような明白な「嘘」を付かなければならないのだろう。

特に、最終日「シンポジウム」においては、満足な質疑応答の時間がないにもかかわらず、減税日本の支援者(名古屋市民でも無い)の発言を認め、市民の発言機会を奪っている。
2018-01-28 名古屋城天守閣木造復元「シンポジウム」
それでも会場運営の都合を考慮して、「アンケートに質問を書けば必ず回答する」という市当局の発言を信じて、アンケートに質問項目を書いているのだ。
そうした約束を守らないのであれば、今後、こうした機会で市当局の都合など聞く必要はない。当方の納得いくまで会場を利用させていただいて、質疑応答に付き合ってもらうまでだ。当然だろう。帰してしまったらこうやってごまかされてしまうのだから、回答が得られないのなら帰す必要はないだろう。(こうやって、暴力には暴力が蔓延るのだ!)

集計し、公表するとした市民の発言、意見を圧殺することは暴力だ。(すでに、市当局は私たちの意見を委員会報告から削除するという操作を行っている)約束を守る、手続きを守るという事は、行政事務の執行自体を守ることの筈だが、すでにそのレベルすら守られていない。

暴力を持って、横暴を持って、民主主義を破壊しているのは、誰だ!

この件は名古屋市会において、うかい春美議員が個人質疑で質している。
また、私も担当部署に事実関係について聞いており、今週半ばまでには善後策について回答が得られる(はずだ、名古屋城説明会当日の録音は市当局内に残っていると回答しているので、議事録は作成可能の筈だ。この回答までごまかされたら・・・(以下、略))

追記(6月27日):
名古屋城管理事務所から入電
市民説明会では録画があるので発言は記録されている。
議事録は作る。
とのことだった、いつ頃までにできるのかとの確認に
時期については再度回答させてほしいとのことだった。
また、シンポジウムのアンケートについても回答を作成するという事だ。
その際、回答ができるできないに関わらず、主観的にアンケート判別し、公表しない物があるのはよくない。とりあえず、アンケートは全て公表し、回答できるものについて回答も公表すべきと申し入れた。
こちらの公表時期についても再度回答とのことであった。


2.またまた怪しいシミュレータ

毎度おなじみの怪しいシミュレータがまたまた出てきた。

名古屋城天守閣木造復元に向けた調査業務

いわゆる名古屋城天守にかかる約505億円の費用について、名古屋市民の負担を求めない、市税を使わないとしていることから、その収支計画について求められた当局が、またまた「あそこ」にお願いしてシミュレータを作ってきたわけだ。

ちょっと、面白い事に気づかされる。
平成21年の「減税シミュレータ」の報告書では社名と作成日が表紙に大きく明記されている。(普通はこうした体裁をとるだろう)
http://www.city.nagoya.jp/zaisei/cmsfiles/contents/0000075/75298/houkokusho.pdf

ところが平成26年の報告書に社名は出てこない。
http://www.city.nagoya.jp/zaisei/cmsfiles/contents/0000075/75348/houkokusho.pdf

そしてこれについて
2015-02-16 減税検証シミュレーションに対する疑惑
という指摘があったからかどうかは知らないが、検討プロジェクトチームに有識者を加えて平成29年に再度シミュレートしてみると、1128億円が霞と消えてしまったわけだ。

2017-11-18 霞と消えた1128億円

で、今回の資料を見ると、やはりタイトルに社名も作成日も書かれていない。(素直だね)
とくに、社名も変わったばかりで、傷を付けるわけにもいかないんだろうなぁ、などと思ったりする。

このシミュレータについて3つ指摘したい。

1.「人口は、国立社会保障人口問題研究所の全国の将来人口推計結果を反映」としている。それを参照すると、平成27(2015)年に12,709万人だった人口は、平成77(2065)年には8,808万人と減少する。(中位仮定)総人口において69%が減少するにもかかわらず、来場者はそれほど減らないとすると、実質では144%の来場者増が期待されなければならない。一般的に観光地というものは陳腐化すれば来場者は減る傾向を見せるにもかかわらず、このように「自然増」するシミュレーション結果になった理由は何か?

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2.姫路城は今回改修を行っている。総工費は約30億円だそうだ。前回改修が行われたのは昭和36年だそうで、おおよそ50年に一回、30億円程度の改修が必要と考えられる。ちなみに姫路城の大天守延床面積は2,409平米で、名古屋城のそれは4,564平米だ。こうした修繕費についてはこの収支に含まれていない。「10年ごとに修繕を実施。(市の予算を4回に配分)」としている。つまり、すでに公約を破って市民に負担を求めている事にならないか?

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3.職員人件費について、現状ベースの人員配置を想定しているが、市長は身障者対応として介護職員の配置を約束している。これが考慮されていない。また、石垣調査について調査センターの設置も議論に上っているが、こうした人員の考慮も無い。

こうした疑義を述べたうえで、このシミュレータが正しいとしても、基本推定で収支結果が15億円の赤字で、低位においては65億円の赤字ときては、事業を止めるべきだろう。

まあ、どうせ当局は「精一杯努力する」とか言うのだろうが、仕事において努力なんぞして当たり前で、結果を出さなければ事業は成立しない。現に今、例えばこのシミュレータが言うように「民間活力によって収益が図れる」というのであれば、その「活力」(冷笑)をもった「民間」*2を連れてきて、出資させるべきだろう。それができていないのであれば「努力が実を結んでいない」(嘲笑)民間が乗らないのは、収益性が乏しいからだ。こんな話、深夜のファミレスでやっていたら「怪しい儲け話」扱いされる。(嗤笑)


さて、といったところでこの名古屋城天守木造問題。いや、もう「河村城騒動」と名を替えよう。
いつまでも「名古屋城天守」として、その名に泥を塗ることは無い。

「河村城騒動」の根源を覗くと、こうした事業の進め方における反民主主義的な在り方も、収支計画におけるいい加減さも、表層的な事であってどうでもいい。私は「河村城騒動」で次に述べるような良識が、名古屋において「犯されている」と感じられてならない。そしてその主犯は名古屋市長 河村たかし ではあるが、それを利用しようとした「河村城騒動」に肯定的な事業者や中日新聞は共同正犯だ。

あなた方は、自分の何の為に、何を犠牲にしているのか?

この文書の当初の問いかけをもう一度行おう。


名古屋城天守を木造化することに、あなたは心躍るものを感じますか?
それが素晴らしい事であると思いますか?
そこに一片のためらいは感じませんか?


「ヴェニス憲章」を根拠とすれば、木造天守と現コンクリート天守に価値の相違は無い。
或いは、木造天守と現コンクリート天守のどちらが良いと感じるかは、きわめて主観的な話題であり、議論の俎上には上りにくい問題かもしれない。そして、民主主義はそうした問題にこそ、公平でフェアな議論を求めるのであり、その議論を受けた民意の在り処こそ実現すべき政治的目標とすべきだ。

木造天守にも価値はあるだろう。(私には理解できないが)
そして現コンクリート天守にも価値は有る。

すでに述べたように、名古屋市文化庁に提出した保存活用計画において「本質的価値」を独自に定義、現コンクリート天守の存在を無視している。

2018-02-04 「特別史跡名古屋城跡保存活用計画(案)」における欠落

また、先日批判した「木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針」において「過去の天守閣と今回の木造復元の同一性について、歴史的な分断を感じさせない復元を成し遂げる事が、事業の価値を決定づける大きな要素となる」と言っており、オリジナルが焼失した歴史的事実や、現コンクリート天守の存在について、意図的に隠ぺいすること(「歴史的な分断を感じさせない」)が事業の価値と明言している。*3

2018-06-19 名古屋城についての事実確認と現状の推測(番外)

次のヴァイツゼッカーの言葉が予言のように響く。

 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

 (リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領 1985年5月8日 ドイツ連邦議会における追悼演説。「荒れ野の40年」より)



私は昨今の「ネトウヨ」と呼ばれる者(その最悪の現出は「在特会」という差別排外主義を明言する者たちだ)を研究する中で、彼等の「視野狭窄」に気が付いた。

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実はこうした「視野狭窄」は「ネトウヨ」だけの問題ではない。いわゆる「左翼・市民運動」の中でも、こうした視野狭窄は見られる。また、日本だけでなく、ヨーロッパにも見られる傾向であり、米国のトランプ政権など、こうした「視野狭窄」の結果生まれた政権であると思われてならない。こうした「視野狭窄」が生まれる原因については欄外にメモしておく。*4この「河村城騒動」も視野狭窄の結果であり、彼/彼らの視野には現在、厳然とある名古屋城天守は見えていないようだ。(将に「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」だ)


木造天守復元という事で、掛川城や大洲城の事例を持ちだす人々がいる。
掛川城や大洲城の事例が参考にならないのは、その事業規模があまりに異なる事だ。建築物の大きさとしても全く異なるし、それに伴って事業費も文字通り桁違いだ。そしてその負担も公費ではない。
そしてなにより、掛川城も大洲城も、すでに天守建物が失われた状態からの復元であって、名古屋城のように曲がりなりにも天守がすでに復元されている状態では無かったわけだ。(復元がコンクリートでは駄目だとか、木造にすべきだというような主観的価値観を押し付ける行為はそれ自体が幼稚ではないか?、などというと、「なら、コンクリートが良い」というのも主観ではないのかという反論が来るだろう。そうだ主観の押しつけだろう、では、立て替え代金は木造化を主張する人々が支払えば良い。公費に頼るな。とでも応えておこう)


ここで、決定的な視野狭窄は「現天守に愛着を持っている人々」の意見が全く考慮されていない事だ。

少なくとも、昭和34年、市民の発意と寄付によって再建された現コンクリート天守を破壊するのであれば、そうした現天守に愛着をもっている人々をも納得させられる説明が必要な筈だ。

2万人アンケートで示された理由は「耐震改修をしても40年しかもたない」という根拠のない、また誤った意見だった。(「耐震改修」は建物の寿命に直接かかわる改修ではないことはすでに指摘した、そして先行する大阪城の事例である耐震改修+長寿命化が効果を上げている事も)

こうした子ども騙しによって現天守が破壊され、昭和34年当時の「民意」が無にされる。

そうした先人の事績が「意味の無いことと」「ゴミ」*5として廃棄される。

こんな歴史を軽視する姿勢も無い。こんな文化を心得ない態度も無いだろう。

名古屋城天守を「歴史的文化財」と看做すとすれば、その歴史の中に厳然とある「第二次世界大戦」という事実、「名古屋大空襲」という記憶。そして戦後復興期の「名古屋城天守復元」という思い出。ヒトによっては、自身の思い出であるかもしれないし、自分の父や母、祖父や祖母の思い出かもしれない。そうした思いを無視して進められる「歴史文化事業」とはなんなのだろうか。その「歴史」が真っ当なものであると言えるわけがない。

仄聞するに、この「河村城騒動」に熱心なグループに「旧町名を復活させる」運動をしている人々もいるらしい。ちょっと前に流行った「昭和ノスタルジー」や「三丁目の夕日」的な復古主義、懐古趣味なのだろうか?

・・・・まったく大きなお世話だ。

町名変更に伴って、その街の過去を消し去っている場所もある。
現代では有り得べからざる過去を、その町名に背負わされていた場所もあるのだ。

過去の記憶というものは、都合の良いものばかりではない。
そうした重い過去まで、彼等は背負う覚悟があるのだろうか?

とてもそうは思えない。能天気で一面的な「ノスタルジー」に浸っているだけだ。

町名というものも、重層的なものであって多面的なものだ。
彼等はその中の一面だけを切り取っているにすぎない。主観的な好悪で「町名」という公器をおもちゃにしているにすぎない。幼稚な運動だ。(もし、これらの口車に乗って町名変更すれば、公費、私費、どれほどの費用がかかるのだろうか)

重層的な街の記憶の中で、一部の人間がノスタルジーを感じ、受け入れられる過去だけを選別するとすれば、それは立派な歴史改ざんであり、歴史修正主義だ。

歴史修正主義者の醜悪なところは、自らの視野狭窄に気付きもせず、他人を踏みつけにして、悪びれない事だ。

足を踏んでいる者には、足を踏まれている者の痛みは判らない。


視野狭窄は、それが行政の長であれば破滅的に醜悪となる。

「減税によって名古屋に企業、人を呼び込む」

つまり、周辺市街の富を名古屋が奪って、それで地域は活性化し、豊かになるのだろうか。
名古屋だけの事に視野を狭めてはならない。

議員報酬、職員報酬を減額して市民によりよい福祉を行う」

現実はどうか、議員報酬を半減してもその効果額は6億円だ(800万円×75人/至極簡単な計算だ!)

追記:6億円でもまとまった金額だと思う人も居るだろう。
なら、基本設計費として支出された8億4千万円はまとまった金額ではないのだろうか?
まだ名古屋城天守の必要とされる仕様が確定していない段階で、基本設計完了として8億4千万円を支払ってしまう行為はどれほど重要なのだろうか。リコール署名まで集めてこの議員報酬の正常化に抗した人々は、この違法な基本設計費の支払いには口を噤むのだろうか!
それは公平な態度と言えるのか!
*6

名古屋市の総予算は約2兆円。どの程度の効果があるのか?
言葉に捉われてはならない、現実を直視するべきだ。

視野狭窄に陥ってはならない。

平成の今の名古屋市民は、昭和34年の名古屋市民に、どのように「河村城騒動」を説明すればいいのだろうか、釈明すればいいのだろうか。

他人を踏みつけて自分の夢を実現することは善き事なのか。



追記:
雑な「修復」が文化を破壊する。

「修復」で彫刻が台無しに スペインの教会で
スペイン北部の教会は、16世紀に作られた木彫りの聖ジョージ像の清掃を美術教師に任せた後に、このことに気付いた。

「修復」で彫刻が台無しに スペインの教会で - BBCニュース

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2012年にはスペイン北東部ボルハで、イエス・キリストの壁画が「修復」作業によって大きく改変され、世界的な話題になった。

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追記:

ジャパン・オペラ・フェスティヴァル2018 名古屋城野外オペラ「トスカ」
オペラに関心のある方なら一度は耳にしたことのあるジャコモ・プッチーニの名作「トスカ」。1800年6月、ローマの恐怖政治を背景に繰り広げられる、美しくも儚い恋の物語。
今回の「TOSCA」は本場イタリアから一流の演出家・歌手・オーケストラ・合唱団・舞台スタッフをお招きしての公演となる。舞台は名古屋城天守閣前。日本の3大名城である名古屋城天守閣を借景とした美しい舞台から、滅多にみることのできない本場のオペラを、最高のステージでお届けする。

ジャパン・オペラ・フェスティヴァル2018 名古屋城野外オペラ「トスカ」 | イベント | 名古屋観光情報公式サイト 名古屋コンシェルジュ



2014-06-17 南京事件に対する法的に認定された事実、客観的事実

*1:虚偽発言の一例は、私が「名古屋市天守の長寿命化について検討を行ったのか」という問いかけに対して「行った」と発言した部分だ。そのような予算措置はされていない。つまり、根拠のない虚偽発言だ。まさか担当者が「長寿命化の本を読んで、これ出来たらどうだろうかと考えた」事をもって「検討した」とでも回答するつもりだろうか

*2:別名「バカ」

*3:驚く事に、この文章は「天守閣部会」に提出された資料だそうだ。こんなレベルの文章。中学生でも及第点をもらえそうもない作文、を弄ぶのが、現在の「天守閣部会」の文化レベルなのか?これで「有識者」?

*4:人間が一生に触れられる情報にはおのずと限界がある。インターネット以前においては、こうした情報は印刷物によって得られるものだったのだろう。そしてそうした印刷出版物は両論併記などを基本的スタンスとしていた(文芸春秋など)か、購入する段階ではその論旨の方向を把握できておらず、読んでみて初めて自分の意見と真っ向異なる事を知ることが多かった。こうした傾向はしかし、活字によって自分とは異なる意見に触れる機会が得られたという事だ。しかし、インターネットが発達すると、ヒトは従来以上の情報に触れることができるようになり、選別も容易となった(本とは違ってただのコンテンツであれば読んでいる途中で自説と異なれば先に進まなくても痛痒感は無い。なにせタダなのだから)。こうした場面で、ヒトは自分が信じる意見、理解しやすい考え方に傾きやすい。自分の思っている事と異なる立場の意見とは距離を置こうとするし、自身の意見を否定するような物には触れることすら嫌がる傾向がある。結果としてヒトの思想は、自分が当初思っていた方向に固着しがちとなる。その方向性は右だろうが左だろうが関係がない。例えばインターネット上で「南京大虐殺 嘘」というような検索を行えば、所謂「南京大虐殺」に対する否定論が呆れるほど提示される。その中にはすでに「南京大虐殺否定派」の人々ですら信じていないような事柄についても、もっともらしい文章で、もっともらしい体裁で表示されている。中学生程度が読めばコロリと騙されることだろう。(右だけではない例として「トリチウム 危険性」で検索しても同様に怪しげな文章が山盛り出てくる)こうした洪水のような情報の中で必要な事は、何でもかんでもすぐに信じてしまわない事だ。自分を含めて、自分が信じている事についても疑問を持って当たる事だ。自分に疑問を持ち、内部的に反省する。こうした内省の姿勢が無ければ学習は進まない。学習とは自我を変遷させる事であって、自我に固執することではない。自我に固執するものは、視野狭窄に陥りやすい。自身の存在を脅かすような事実を見たくないのだ。内省性に開かれているものは常に新しい知見に反応でき、自我の変革を楽しむこともできる。しかし残念なことに、ヒトは自我が大切なのであり、そこに安穏と固執していたい。その結果としても視野狭窄に陥りやすい。

*5:最近では「上のコンクリートが邪魔だ」と発言したそうだ

*6:臍でも噛んでろ!