2009-04-20
[文献]著作・編集・執筆「書目」一覧。
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2004年4月20日 『日本アナキズム運動人名事典』発行。
『日本アナキズム運動人名事典』(内容案内、項目の一部にリンク)
2008-03-08 1925年3月8日「古田大次郎、村木源次郎「逮捕」記事解禁
2006-09-02 1923年 朴烈、四谷の布施辰治弁護士を訪ねる
1923年9月2日
朴烈、四谷の布施辰治弁護士を訪ねる
2006-08-31 1925年 古田大次郎獄中手記より「如何なものになつたろう……」
1925年 8月31日 火曜日 晴
古田大次郎獄中手記より「如何なものになつたろう……」
「…何ぼ僕が空想家だつて、見す見す破滅に陥るやうな道には行きはすまい。」
2006-08-30 1925年 古田大次郎獄中手記より「死刑囚の心理状態……」
1925年 8月30日
月曜日 晴 古田大次郎獄中手記より「死刑囚の心理状態……」
(藤井教誨師から聞いた話を記憶のまま引用)
普通の死刑囚の心理状態は、先ずこんなものださうだ。こゝに救ふと言つたのは、
少々言葉を濫用し過ぎたやうなものだが、要するに、非常な煩悶と恐怖に陥って
ゐる囚人を、何とか諦めさせ、忘れさせ、そして出来るだけ安らかに死なせてやる、
そのことを言ふのだ。…
2006-08-29 1908年 赤旗事件第判決公判
1908年 8月29日
赤旗事件第判決公判
『熊本評論』31号 1908.9.20
<悲壮なる最後の法廷> 二面
「錦輝館赤旗事件の判決言渡しは8月29日午前11時服部検事立会、島田裁判長に依り言い渡された。判決左の如し
重禁錮2年6月罰金25円 大杉栄
同 2年 20円 堺利彦
同 山川均
(註 控訴するも原審のまま)
同 森岡永治
同 1年6月 15円 荒畑勝三
同 宇都宮卓爾
同 1年 10円 大須賀さと
(註 控訴審で執行猶予が付く)
同 村木源次郎
同 佐藤悟
同 百瀬晋
同 1年 2円 小暮れい
(但し5年間刑の執行猶予)
同 徳永保之助
(但し5年間刑の執行猶予)
無罪 管野すが
無罪 神川まつ
…寒村荒畑勝三君は、猛烈疾呼して曰く『裁判長!』裁判長は稍々青味勝ちたる顔を仰て寒村君のを一瞥した。寒村君は猛獅の吼ゆるが如く、
『裁判長! 神聖なる当法廷に於て、弱者が強者の為に圧迫せられた事実の、明瞭となりしを感謝します、何れ出獄の上御礼を致します』…
次で大杉君も亦『裁判長!』と疾呼して何事をか言わんとした、然し驚愕の色を眉宇に浮かべたる裁判長は、『今日は言渡しを仕た迄だ、不服があれば控訴せよ』
と言い棄てて去んとする。茲に於て大杉君は『無政府党万歳!』
と叫んだ他の同志も我劣らじと『無政府党万歳』を連呼した。…』傍聴席には60余名の同志が列席し、新聞社席には都下の新聞記者及幸徳秋水、坂本克水、徳永国太郎、等の諸君が着席して居た。
佐藤悟君は例の蛮声で、『是が所謂法律だ吾々は唯だ実行!!実行!!』
大杉君は、呵々大笑して居た。非常に感情の興奮する時、吾等は彼の此の哄笑を聞くのである。曾て本郷平民書房楼上に於て、金曜講演迫害事件の有た当夜、同志の一人がユートピアの話を仕て臨検警部の講演中止、集会解散を食った時、呵々大笑したのは大杉君であった他人が血涙を振って憤る時に、哄然として大笑するのが大杉君の癖である、吾等は彼れの此の哄笑を聞く毎に、悲憤の涙が零れる。堺君は幸徳秋水君に。『社会党の運動も是で一段落だ、折角身体を大事に仕手呉れ』と言いつつ、相顧みて一笑した、ああ寂しき一笑、無限の感懐に満ちたる一笑。
山川君は、毫も興奮の状が容貌に現われて居無かった、静々笑って、悠然として、も出て行った、ああ痩せたる彼れの後姿!!三ヶ月有半の牢獄生活に、青春の血潮を涸渇されたる彼は、今や再び苦き経験を繰り返さんとす、ああ恐ろしき監獄の烈寒………………
看守は十四名を牽いて撻外に出した、長き広き廊下に溢れたる群衆は、愁いと笑をもて目送する、同志の或者は再び万歳を連呼した。而して『ああ革命は近けり』と、声高々に歌うたいつつ。
大いなる運動、大いなる活動は、茲に時期を劃した、歴史は更に次の頁に移らねばならぬ。如何なる頁か、其は唯だ為政者の自由なる想察に任せる!!(有生)
2006-08-28 1919年 大杉栄ら、『労働運動』刊行の準備
1919年 8月28日
28日午後2時より大杉栄、荒畑を初め山川、吉川、服部、近藤憲二、和田久太郎、中村還一の八名集合し
山川は大杉、荒畑の交渉顛末を陳へて大杉より一応の謝罪を為さしめ更らに大杉の発行せんとする雑誌労働運動の資金其他の方法を協議せるか発行に要する準備金三百円は大杉より支出し(大杉は既に大石七分より借入れ約ありと云う)保証金一千円は高利貸より借入るる筈なるも大杉にては到底貸与するものなきを以て吉川守国、服部濱次、両人にて責任を負うこととなり而して雑誌表面の関係者として大杉栄、伊藤ノエ、近藤憲二、和田久太郎、中村還一の五名となし山川、荒畑等は裏面にありて援助することとなれり而して実際運動として来る9月1日より「北風会」を改称して「平民結社」と名つけんと主張せしもありしか警視庁の干渉あるへしとして「労働同盟会」となすことに決し三章位の綱領を以て近藤憲二、和田久太郎、中村還一の三名をして主宰たらしめ更に荒畑勝三の「労働研究会」は二、三ヶ月の訓練を為したる後之に併合し一大結社となすことに決定したりと云う追て北風会組織変更に付いては各同志へ既に通告状を発しありて9月1日例会席上協議するものの如し又当日堺利彦出席する通知あるも大杉との打合上出席を断わりたる由
2006-08-27 1914年 大杉栄、『近代思想』廃刊 1922年 自由労働者同盟生る
■1914年 8月27日
大杉栄 <大久保より>『近代思想』9月号
「いよいよ廃刊号を出す事となった。……僕等の新しい雑誌は『平民新聞』と名づける事にきめた……しばらく来なかった下痢と風とに襲われて了った。そして13日から19まで寝て了った。20日の朝は、起き上がって書き始めようと思っていたが、こんと。は保子が風にかかって起き上がれない。僕は早速参考書を10冊ばかりりカバンにつめて葉山へ出掛けた。しかし葉山の3日間は、只大体の筋をつくったのと、………僕の論文集『生の闘争』が9月中旬に新潮社から出る。……同じく9月中旬、新潮社の新潮叢書の一篇として、僕の翻訳ダアインの『種の起源』が出る。それから、これも9月中旬頃、実業之世界社の新智識叢書の一篇として、僕の翻訳ギュスタヴ・ルポンの『物質非不滅論』が出る。…本月16日発行の『第三帝国』に僕の『欧州大乱と社会主義者の態度』が載った。そして『第三帝国』は、僕の外に2,3の原因はあったそうだが、発売禁止になった。………」
■1922年 8月27日
<自由労働者同盟生る> 毎朝未明から『人市』が東京の方々にたつ。数千の労働者が羅漢様のように突っ立って労働力の取引をする。……イワユル『立ちん坊』自身の固い団結を作るろうぢゃないかと云う話しは、毎朝突っ立つ『人市』の『たまり』での、何時からかの、宿題だった。その話は次第に熟して行った。数度の協議の後、8月27日に富川町の四畳半ぽっきりの家で、各『たまり』からの20数名の発起人の手によって、ここに後記の宣言、綱領、規約をもつ『自由労働者同盟』が成立した。富川町の坂野兄弟、堀川久、三河町の南、石山、中濱、伊串等の諸君や、鮮人の孫、白武、の両君などが、中堅だ。思想団体にも出入し、アナーキの色彩の濃い人達だ。かくて組合は成立した。が、其の活動は今後に見なければならぬ。………本誌にもテツ公が信越の監獄部屋の事を書いてる。……(幸力)
宣言………自由労働者組合
綱領………
規約………本同盟は、富川町部、花町部、三河町部、朝鮮部よりり成り当本部を深川区富川町21番地に置く。『労働運動』第7号 1922.9.10
2006-08-26 1925年 古田大次郎「獄中手記」 そろそろ皆に、お別れを告げねばな
1925年 8月26日
古田大次郎「獄中手記」
そろそろ皆に、お別れを告げねばならぬ。これから書く手紙は多分僕の最後のものとなろう。…考えると淋しい。
2006-08-25 1925年 古田大次郎「獄中手記」 死ぬ時も晴れた日であつてくれ
古田大次郎「獄中手記」
雨の日の淋しさを前には好んだが、今はそれを堪へ難いものと思ふやうになつた。それだけ心が弱くなつたのだ。
矢張り、いつも晴れた青空を見てゐたい。死ぬ時も晴れた日であつてくれ。
松谷弁護士来訪。…
2006-08-24 1908年 中国のアナキスト、日本の朝鮮支配、帝国主義を厳しく告発
2006-08-23 1927年 サッコ、ヴァンセッチ処刑される
1927年8月23日
サッコ、ヴァンセッチ問題と其の波動
全世界の視聴を集め、全労働者階級の猛烈な示威を捲き起こしたサッコ、ヴァンセッチ両君の死刑執行は、口惜しくも八月二十三日の夜半、民衆の激怒と陰惨な凝視の中に執行されてしまった。この姑息にして横暴極まる米国政府に対して、たとえサッコ、ヴァンセッチ両君を葬らるるとも、踏み躙られた全世界の民衆はこのまま忘却はしないし、米国政府の弾圧に対する反抗運動は向後も猶猛烈に継続されるであろう。全国の労働者階級諸君! ××と破壊をもって報復したる吾等の祖先の行動を想起せよ。
2006-08-22 1908年 赤旗事件第二回公判荒畑寒村証言「大杉栄と共に暴行を受ける
1908年8月22日
堺利彦証言、荒畑寒村証言「大杉栄と共に暴行を受ける」
『熊本評論』30号 1908.9.5発行
<赤旗事件公判筆記(承前 金曜社旧同人筆記)>
公判第二日 8月22日 一面三面五面
一面
午前……検事の論告………
8月22日午前9時東京地方裁判所に於て古賀検事干与、島田裁判長により開廷、朝来より傍聴席に押寄せた来りし群集は約四百名と註されり。前回は法廷なりしかば、此の日は控訴院第一号大法廷にて開廷さる、群衆中には麹町署等より派せられたる刑事巡査多数傍聴し居たりき。14名の被告人は例の如く元気なる面持にて、微笑しつつ入廷せり。
管野、再弁明、「……予審調書には全く跡方もなき事を羅列せり。然も其事たるや到底、病身の自分には出来難き犯罪事項なり。自分が社会主義者なるの故を以て罪の裁断を受くるならば、甘んじて受くべし。然れども、巡査の非法行為を覆わんが為めに、犯罪を捏造して入獄を強いんとならば断じて堪ゆ可らず」云々
証人大杉保子君、事件当時の訊問を受く
午後 弁護士及被告の弁論
四婦人の弁護士井本常作氏の弁論あり曰く「…無罪の判決を与えられん事を乞う」……………
卜部喜太郎氏の弁論あり
「本件は社会党員と巡査の旗取りに初りて、又旗取りに終れりと云うべし。至極事件は簡単なり。既に被告等は赤旗の掲揚に対して、禁止命令に接せずと云い証人の巡査十三名も何れも禁止命令を知らずと云う、唯だ一名大森巡査が禁止命令を発せしと云うも真偽疑わし。先刻証人に喚問されし横山巡査は、兎角神田警察署を代表して証人に出廷せしならんが、予審廷とは全く相違せる不得要領の証言をなせり。……
兎に角被告等が錦輝館の門を出るや、巡査の如き帽子を被り、巡査の如き制服を着け、然も巡査の如き洋剣を吊りたる一隊の暴漢、突如として現われ出で、行きなり被告等の所持せる赤旗を奪取せんとせり、被告等は大いに驚きて是と極力争いしも多数の為め遂に敗北して警察署へ引き摺れ行かれたりとせよ…
堺利彦「検事の論告に依れば、被告は社会主義者なるが故に厳罰に処せよとの請求なりしが、若し、社会主義者なるが故に罰せらる可きなれば、被告等は甘んじて刑に服すべし。然れども法律には『社会主義者となるものは罰すべし』と云う名文も見受けず。……被告の考える処に依れば、無政府主義も社会主義も、其の内容に依って同一なりと思う。或者は便宜上社会主義と云い、或者は無政府主義と云う。然るに内容に論及せられずして厳罰に処せよとは奇怪の事なり。日本の文壇に於ても既にニイチエ、トルストイ等の無政府主義の思想伝播せられ居れり、若し内容を究めず『直に無政府主義』という語を罰す可くんば、是等文壇の作者も罰せられざる可らず。
堺君は更に
「検事は、余が旗の製作及持込みに関係せしが如く論告せられしも、其の論告たるや如何にも窮せられたる論告なり。彼の『革命』なる旗は余の宅に保存しありて由緒ある旗なりと云われしも、余は彼の旗の製作にすらも関せず、若し由緒ありとせば、其は余の六歳に成る愛児が、常に大道を携え歩きて、何等故障なく警官の前を通過せりと云う由緒を有するのみなり。亦検事は神川マツ子君が、仲裁と称して旗を奪取せり、と論告せられしも、実際仲裁と云う事は、今日迄?々行われ居たるなり、現に山口義三君を上野停車場に迎えし時の如きも一大騒擾ありて、石川三四郎君が警官と同志の間に絶えず仲裁の労を取られしは事実なり。……」
次で寒村、荒畑勝三君は立てり、曰く
「…判官諸公、巡査の証言に依れば、三本の旗が一時に錦輝館の門を出で、一時に禁止命令を受けしが如くあれどもも、全く虚言なり、……………余等が神田署に引致せらるるや巡査の態度は俄然として一変せり神田警察は吾等を便所に行かしめず、食事をも供給せず。茲に於てか吾等は巡査を罵倒せり、同じ平民階級に在りながら、其の味方を苦しめんとする各巡査等は、一人一人吾等を引出して殴打し、若くは頭髪を引張れり、殊に彼等は大杉君を引出して両足を持ちて床上を引き摺り、長き頭髪を引張て頭部及び各所に数箇所の負傷をなせしめたり、大杉君は是に対して医師の診断書を求めたり、然れども警察医は宜し宜しと答えたるまま遂に診断書を与えざりき。裁判官!斯くの如きの暴力に抵抗したるの故を以て罪に問わるべくんば、余は喜んで罪に服すべし』悲壮激越の調、満廷を圧し、声涙共に降るものなりき。」
2006-08-21 1927年 自連、黒連、サッコ・ヴァンゼッティ死刑反対運動
1927年 8月21日
■自連、黒連、サッコ・ヴァンゼッティ死刑反対運動
「サッコ・ヴァンゼッティ」に関して『自由連合』1968年8月掲載
8月21日。その夜、築地小劇場は満員、場外にあふれたデモ隊と場内の叫びとが呼応した。40名の弁士は次々と中止と検束の中に「サッコ、バンゼッチを無条件に釈放せよ」の抗議が緊急可決され、マサチュセッツ州知事フーラーに送られた。10時散会、場内外一丸のデモとなって、約千人、アメリカ大使館に向かい、警官隊の抜剣までした圧力に抗して、先頭は米大使館に達した。石川三四郎らがそこで検束された。その翌朝に、東京印刷工組合に集合した各団体代表から5名をえらんで米大使館に昨夜決議した抗議文を携えて行き、サスベリイ書記官に手交、帰途日比谷署に検束。同日朝日新聞に記事の誤正を要求した13名も一斉検束。右抗議の決議は次の言葉で締め括られていた。《われ等の要求は全日本、全世界の要求である。貴下の慎重なる措置は、必ずやこの要求に添うて誤りなきことをわれ等は確認する。》 国際弾圧防衛委員会 関東黒色青年連盟 文芸解放社 反政党新聞社 農村運動連盟 東京瓦斯工組合 サラリーマン同盟 純労働組合 芝浦労働組合 関東総合労働組合 関東労働組合自由連合会
■「革命劇以上の演説会」横倉辰次『銅鑼は鳴る、築地小劇場の思い出』より
この日は入場定員を無視して千人以上の聴衆が入場した上に同数ぐらいが場外に溢れて劇場を取り巻いていた。…主催者の一人ある後藤学三が舞台に駆け登り「このような抗議集会を屋内でしても意味がない。諸君、街頭へ街頭へ」と絶叫したのがキッカケになり待機していた千人あまりの聴衆と警官の間で乱闘となり、警官を押しまくった聴衆と合流した。そして待機していた警官隊と正面から揉み合いとなった。警官隊は騒動の拡大を恐れたし群集の銀座方面への流出を防ごうと懸命であった。この時、橘あやめが、紺絣の筒袖に鳥打帽子という男装でいたのを発見したポリ公が検束しようとしたのをかばって鋭いメリケンをくわせた者がいた。これが見事にきまって警官の顎にかけたベルトが千切れて空中高く舞った。上したポリ公が抜剣した。これがキッカケで警官隊と群集の間に乱闘が起きた。…乱闘は続き双方に多数の怪我人を出した揚句、数十名の検束者を出し、それを奪還しようとする者との間に更に激しい乱闘が起きて、さながら市街戦を思わせる激突、騒動となり、芸術の殿堂である築地小劇場の入り口の階段は鮮血に染められた。この日、群集の一部はポリ公の阻止を排除して米国大使館へ雪崩れこんで抗議した。
■「日本における抗議運動・サッコ、ヴァンゼッティ」
http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/sacco-vanzetti.html
2006-08-20 1925年 古田大次郎獄中手記より「愈々秋だ。……」
1925年8月20日
古田大次郎獄中手記より
「愈々秋だ。淋しいが、心は益々落付いてゆく」
2006-08-19 1925年 古田大次郎獄中手記より「山崎今朝弥弁護士批判」
1925年 8月19日
古田大次郎、獄中手記
「晴。運動場の隅に生えてる雑草──ほんの二、三本だが、その雑草が、雨の降る度に、眼に見えて大きくなる。」
山崎弁論批判
「僕を真実に知り、そして愛してくれるならば、弱い僕に力を与えて安らかに死なせて貰ひたい。徒に生命を助けようなどと骨を折るのは、僕を真実に愛してくれてるのではない。その意味で僕は、十五日のあの山崎弁護士の弁論に不満を持つ。」
2006-08-18 1923年 大杉栄、自由人社で講演
1923年 8月18日
新山初代「自由人社で大杉栄の仏国行の話がありましたので、朴興坤と聴きに行きました。」
2006-08-17 1913年 大杉栄宅にてシンヂカリズム研究会が開かれる
2006-08-16 1926年 朴烈の兄、東京に着く
1926年8月16日
朴烈の兄、ムンギョンより朴廷植、息子を伴い東京に着く
2006-08-15 1919年 大杉栄、北風会に出席
2006-08-14 1908年 幸徳秋水 翌日からの赤旗事件公判傍聴のため東京に戻る
2006-08-13 1918年 大杉栄、京都に向かう
1918年 8月13日
大杉栄、京都に向かう











