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2006-02-05

[][] エリ・エリ・レマ・サバクタニ

ichinics2006-02-05

監督:青山真治

西暦2015年、世界中に「感染した人を自殺という方法で死に至らしめる」ウィルスが蔓延し、それは「レミング病」と呼ばれていた。

冒頭の海で押し寄せる波が大写しになるのを見て、あぁ、これはもしかしたら、あの「ユリイカ」と繋がっているお話なのかもしれない、と思った。かつての「梢」と続がっているように思える「ハナ」という役が、同じ宮崎あおいという女優さんで描かれていることを見ても、何らかの意図があるように思える。

山は、高速度撮影で近づいてくる大津波のようでもあり、行く手を塞ぐ開かない古城の大門のようでもあった。だから梢は、死ぬのが恐い、と生まれて初めて思ったのだし、その感覚はどちらが長く息をしないでいられるか、兄と並んで水を張った洗面器に顔を沈めた時の息苦しさにとてもよく似ていた。

(文庫版「EUREKA」p7)

そして「ユリイカ」でその焦点が「視覚」にあったのに対し、今回は「音(聴覚)」に扉があるのか、と思いながら見ていたのだけど、そういってしまっていいのか、今もよく分からない。

ただ、この映画で一番面白かったのは、中原昌也演じるアスハラと浅野忠信が演じるミズイが廃校のような場所で音を構築していく場面だった。台詞のある場面は、すべて嘘くさく感じてしまった。そしてそれは、もしかしたら、全てが「現実ではない」からなんじゃないかと思った。

もう、皆死んでいる。もしくは、生まれてさえいない。全ての存在は、何か(例えば培養液に浮かんだ脳のようなものが)見ている「夢」なんじゃないか。

私が、いる、とはどういうことなのか。レミング病のウィルスは視覚に寄生するという設定だったけど、見ている風景(今まで、見えていた風景)が自分の意志の外にあるということは、そんなふうに、自分の意志すらも、自分の「外」にあるということを暗示しているのではないか。そして、その断絶を知ったときの感覚を「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」という言葉に置き換えたんではないかと思う。

ただ、1つ難点を言うならば、ユリイカでの「風景」のような圧倒は今回の「音」にはなかったと思う。当たり前だ。人工物なんだもの。ただ、あそこで扱われる「音」が、いわゆる有機的なものではなく、「ノイズ」であるということは、物語にとって大切な鍵になっている。

しかし音を奏でる、ということは、表現することだ、と私は思う。音は耳からだけでなく、皮膚感覚としても伝わる。その感覚を、彼等は求め、音に触れあうことで、繋がる(有機体となる)んじゃないだろうか。何にか。それは、たぶん「生」にだと思う。

海を目の前にした、ミズイかアスハラのどちらかが(ちょっと失念)「勝てねえなぁ」とつぶやくシーンがあった。それは、海がまた、圧倒的な「生」だからなんじゃないか。あまりにも使い古された表現だけど、全ての命の源、とかって海にすべての責任を押し付けるのは物語としてどうなんだと思うけど、でも、やっぱり海は圧倒的だ、と思う。

だんだん何の感想なんだかよくわからなくなってきた。確かに、語りにくい映画ではある。言葉を必要としていない映画だと思う。でも不思議と、考えてみたくなる。

 *

映画が終わって灯りがつくと、数人が苦笑し、数人が「何だこれ」といっていて、外にいた人すらも「音きいてるだけでキツそう」といっていた。たぶん、そんな風に意見が分かれる映画だと思う。とりあえず、エンタテインメントとは言いにくい映画だ、と私は感じました。

しかし、言葉でも映像でもないところに物語を構築するという試みはとても面白かった。たぶんテーマとしては小説にした方が、ずっと「わかりやすい」お話になるはずだ。しかしこれは、「映画」という目に見える事実として表現して初めて成り立つテーマだったんじゃないか、と思う。

そして、共感する、ということは、その「音」ように間接的なものなんじゃないだろうか。例えば上に引用した文の中にある「兄と並んで水を張った洗面器に顔を沈めた時の息苦しさ」のように。だから、この映画がまったく面白くない、と思う人の中には、そんな「息苦しさ」にカテゴライズされるものが見当たらなかったということなんじゃないかと思う。そして、たとえ見当たるものがあって、重ねるものがあったとしても、それはまた監督の意図するところとは違うかもしれない。近いとしても、完全に重なるなんてことは、あり得ないのだ、と思う。だからこそ、あの終盤のライブシーンがドラマになるのだろう。

最後に蛇足ながらネタばれの疑問点を書いておく。

映像で見ている限り、私が音より圧倒的に感じてしまったのは「記憶」だった。あの百葉箱を開くシーンを見て、やはり全ては夢で、リアルなのはあそこにある記憶だけなんじゃないかと、そんな風に思ってしまった。まさか中原昌也さんの顔を見て泣く日がくるとは思わなかった。でも、それはもうほとんど条件反射で、そのことがまた、不思議だなと思った。

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