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2006-02-28

[] 会話の正解を想像することと俯瞰は違うかも

他者もまた「自分(私が自分であるのと同じように)」であるということへの気付きや想像力というのはとても大事なものだと思う、ということをあちこちから考えてみようとしたり心掛けていたいと思っていたりするのだけど(出来ているかは別として)、それはとても、何というかわりと大きな視線のことであって、これが直接面と向かって接する人相手だと、何かちょっと違うような気もする。うまく言えないけど、なかなか視線が持ち上がらない(俯瞰しにくい)ものだったりもして。

それは、ちょっと前に「会話に正解はあるのかな」という文を書いた時にもやもやしてたところに近いんだけど、「思いやる」ことと「空気読む」ことと「疑う」ことって、もしかしてすごく近いことなんじゃないだろうか。特に、ちょっとお互いに好意があったりする間柄だったりすると、そういうことがごっちゃになりやすい気がする。

でもそれは、得てして相手に「自分が」どう思われてるかという想像から派生するものであって、相手の気持ちを想像することとはちょっと違うのだけど、なかなかそこまで冷静になれなくて、「どう思われたいか」という部分が入ってきてしまう気がする。それはつまり、自分の感情(もしくは利害)に引っ張られてしまうということなんだろうし、自然なことだ、と思う。

* * *

けど、個人的にはなんとなく、その感情に引っ張られるのが嫌だなぁ、という気持ちがあって、なるべく目の前にあるものだけでいいじゃないかと、そう思いたい気持ちが強いのだけど、それは別に「感情に引っ張られる」ということに反しない。

つまり、例えば、自分がこのくらい好きだからと言って、同じ量を返さなくてもいいよ、と思ってたいなぁってことで、自分が同じ(くらいの)量を「期待すること」とは切り離していたい。でもそれは同時に、だから自分も同じ量は返さないよ、というエクスキューズなの? ということを伴っていて、でもだからといってその中心にある「好意(目の前にあるもの)」が損なわれるわけではないんだよ、っていう感じ。

だから逆に気を許してるはずの相手に、型通りの言葉を言われたりしたらそれはそれで「えー」と思ってしまう

っていうのはそういうとこを抜けて、まあお互いに、お互いをわりと気に入っているということを承知、了解している、はずよね? という間柄(それも友達・恋人・上司部下同僚といろいろな関係があるけども)の時には割と言葉に裏が無いことが多い(個人的には。察してほしい、ってことはあるにしろ)。のに、言葉に暗喩(正解)を読み取ろうとされると、ちょっと「えー」ということなんだろうか?

自分で書いたのによくわかんないんだけど、つまり、この場合の「えー」は、その正解を読み取ろうとすることが、時によって「思いやり」「空気読む」「疑う」のどれにもなりうる可能性があるということかもしれない。(ただし、それも全て、ある感情の動きとか思考とかをラベリングした言葉に過ぎない、というとこをまた忘れちゃいけない)

* * *

ただ、ここですっかり忘れられてるのが、最初に書いた「俯瞰」のことで、「AさんがXという事柄について何を感じているか」ということを、俯瞰的にイメージする際にはAさんに自分を代入しているのだけど、「Aさんと私」の関係を俯瞰しにくいのは、そこに私を私の外から見なければならないという視点があるからなんだって話をどこかで読んだような気がするけど、そうなんだろうなと思った。なので、「目の前にあるもの/もしくは関係性」については、相手を信頼するしかないんじゃないかな。思考停止っぽいけど、雰囲気を大事にするしかないというか。(ただ、その関係性も「絶対」ではないから、歯車噛み合ってますか? ますよね? という確認*1が必要になったりもする。)

そして、そうすることによって、初めてAさんにも私にも関係ないXについての話(相手にとってのXが何であるか)という話ができるようになるんじゃないかとか思う。

* * *

で、結局またまとまってないですが、要するに私は「X」の話がしたいんだろうなと思う。机上の空論を楽しみたい。でもそこになかなかたどり着けない。視点が定まりにくい。

でも、空論ってのは、俯瞰の訓練になるんじゃないかと思ってて、そんな訓練いらんといわれてしまうかもしれませんが、私はそれが好きみたい。というか、読書や映画をみることや音楽きくこと全部私にとってはその一種だ。でもだからといって重力を伴う会話を軽んじている訳でもない。そんなの軽んじられない。むしろそれが本番なのかもしれない。コミュニケーションてその辺がややこしいなと思います。考えにくいなー。

* * *

「な気がする」ばかりですが、これらは主に、「沖で待つ」の引用文を切欠に考えてるので敢えて迂回してる部分はたぶんそれです。Xというのは、ここでは相手のHDDの中身(「沖で待つ」では秘密)を想定している。「X」が何であるかということでなくて、「X」というものを持つことそのものについて考えたい。ということだと思うたぶん。