スティーヴィー

ichinics2006-03-06
監督:スティーヴ・ジェイムス

「フープ・ドリームス」の監督として知られる(私は未見)、スティーヴ・ジェイムス監督は、大学生の頃、妻の勧めで、スティーヴィーという少年の更正を助けるビッグ・ブラザーとなる。
数年後、映画監督としてのキャリアを築くため、監督はシカゴへと移り住むのだけど、そのとき「正直ほっとしていた」という告白から、映画は始まった。
そして10年がたち、監督は再びスティーヴィーの住むパモーナという町を訪れる。彼等が離れていた10年の間にスティーヴィーは幾度も軽犯罪を重ねていた。そして彼は母親から「見捨てられた」と感じており(そしてそれは一定の意味において事実だ)、養護施設にいれられ、そこでも虐待をうけた、ということを監督は知る。そして彼を被写体に映画をとることで、スティーヴィーを理解しようとするのだけど、長編映画をつくるチャンスに恵まれた等の事情から、再び2年間のブランクがあいてしまう。
そしてその期間に、スティーヴィーは親戚の少女に性的虐待をした罪に問われていた。
* * *
この映画では、監督自身も被写体となって、その内にある矛盾にまでカメラが向けられている。
とても、たくさんのことを考えさせられる作品だった。映画にはスティーヴィーの家族を中心として、たくさんの人が出てくる。皆それぞれの言い分があって、いい所も悪い所もある。それはスティーヴィーにしてもそうだ。彼は犯罪者、なのだけど、ただ助けを求めているだけなのに、というところが、あまりにも明らかに「見えている」。でも映画の途中で、「彼は「罰」を克服することで、ルールが「無視できる」と気付いてしまった」という言葉があって、その裏と表しかない感じが、すごく恐ろしいなとも思う。
だからこそ、人は少しずつ、距離を置きたがる。映画全編を通して、ずっと彼の味方に見えていた存在すらも、守るものができると、彼を遠ざける。それが「ひどい」とは言えない。ほとんどの人はみんな、自分の生活が一番大事なのだ。だからといって、彼にとって、ただ刑務所に入れられることが必要とも思えない。隔離することよりも、彼に必要なこと、を求めながら映画は進んでいく。
スティーヴィーには彼女がいて(その彼女がまた名言を連発するのだけど)「彼にはだれか見本となる人が必要なの」と言っていた。きっとそうなんだろうなと思う。でも、誰かの「見本」となるなんてことは、個人にとっては重荷なのだろうなとも思う。でも見本にはなれなくても、彼を「理解」できるというただ一点において、彼女はスティーヴィーから離れられない、と言う。その言葉を心強く思うとともに、だからといって、スティーヴィーを見捨てていい理由にはならない。そんな葛藤が見えるようでもある。でもそれは私の中の罪悪感なのかもしれない。
良心とそれに向かい合うことを辛いと感じる本心との自己矛盾、欺瞞、葛藤、それでもやれる限りのことはするという覚悟、それらの代表としてカメラの前に身をさらしている監督の真摯さにうたれる作品でした。ドキュメンタリーってすごいよ、としみじみ思ってしまった。
「フープ・ドリームス」も見ようと思います。
公式サイト → http://www.moviola.jp/stevie/

 「意味」なんてないんじゃないか

例えば何か、映画や小説とかそういうものを、撮りたい、書きたいと思うのはなんでなんだろう、という話を昨日映画を見た後に友達と話した。
それが「楽しいから」か、「誰かに何かを伝えたいから」か、「自分を理解してほしいから」なのか。
「楽しいから」、だったら「書くだけで楽しいなら人に見てもらわなくても良くない?」になってしまう。
「誰かに何かを伝えたい」だとしたら、そんな伝えたいメッセージをお前は持っているのかということになってしまう。それを解らせる必要があるのか? って聞かれたら、ないかもしんないし、ある、としても自分がやるよりもっと良いやり方してる人がたくさんいるのも知っている、かもしれない。その葛藤を越えてくのは結構重いけど、それでも、と振り切れる、もしくは最初から気にしないでいられるなら、心強いことだろう。でも私にはちょっと無理っぽい。
「自分を理解してほしいから」というのが、私としては一番実感できる感じなのだけど、そんなこといったら全て自慰行為になってしまう。誰か一人に理解されること、ではだめなんか。だめじゃないかもしれない。それで充分かもしれない。それは信じる、信じないの領域の話だけども、信じられるならそれでいいかもしれない。でもそれだけじゃ満足できないってのもあるかもしんない。
でも、そういう葛藤を全部無視してもある、何か自分の中から取り出したいっていう気持ちはなんなんだろうなと思う。でもそれはあるところにはあるし、あるのならやってみたい。それを取り出してみることが、無意味だ、とは言えないというか、意味ないとか意味あるとかって何でしょうか。価値?でもそれって誰が決めるの?流通するかしないか?とか考えはじめるととまりません。
でもとりあえず、知りたいものは知りたい、でいいんじゃないだろうか(ということにしたい)。そして、その対象が自分自身ってことだってあるわけです。でも、その対象が他人って場合には知りたくても知れないという状況のが多かったりもして、だから人はソレについてすごく悩んだりするのかなと思いました。
と、こんな支離滅裂な文章書いてるのも知りたいものは知りたい、の上で自問自答してる感じなんだと思う。あー、もう、とか考えてたら凹んだんだと思う。吹っ切って身軽になることだけがいつも最良なわけではないんだろうな、とか思ったりします。
* * *
そんなことをだらだら考えていた今日、うわー!と思ったのが、今読んでる「ヴィトゲンシュタイン入門」(入門したいんです)の中に引用されてた一文で、

歴史が私にどんな関係があろう。私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。私は、私が世界をどのように見たか、を報告したい。『草稿一九一四 - 一九一六』より
ヴィトゲンシュタイン入門』(p25)

これ言えるってすごいなぁ、と思って感動したのです。
並列に書くのもおこがましいんですけど、でも報告されたくない、と言われてもやっぱり、それを報告したい、という気持ちが私にもあるんですよね。…って全然意味合いは違うのかもしれないけど。という弱腰が日記のタイトルが疑問形になりやすい原因です。