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  □これまでの日記一覧

2006-06-30

[] べきだ、は、ずるい?

ルールは守るべきだ、というのは、守らないのはずるい、ということなんだろうか。

善悪の二種類に分けると混乱することも*1、ずるい、ずるくない、で考えると、場の協調圧力(?)みたいなものがわかりやすいかもしれない。

そして時に、守らなかった理由(対価)によって、ずるくなくなることがある。例えば高価なものをただで手に入れることをずるい、という。でも、それに対価(例えば、遺産相続という理由や窃盗に対する罰や抽選などいう平等性)があることによってずるくなくなる(ような気になる)。

労働の対価としての給料とかも同じか。とすると、これって何とか主義なのかもしれないけど、ともかくその対価の基準は曖昧だけども、どちらが「より多く」払ったかとか、皆が払いたくない場合に、払った人がルールの外に出る感じとか、ずるさが多数に供給されることによってずるくなくなるとか「つりあう」ことを求める(ように感じる)のって何でなんだろう。

そして、善悪でも同じだけど、ずるい/ずるくないと「言っている」のは誰なんだろう?

そこでは常に「何か」を媒介にして向き合っている集団と自分がいる。そして自分がその当事者の場合、「何か」を見るのか集団を見るのか。集団を見る方が「抑止力」になると信じられているような気はする。でもそれはあくまでも「抑止」のためであって、その価値が自分にかえってくる問題だとしたら、「ずるい/ずるくない」は考慮に入れる必要があるんだろうか。ないんじゃないのかな。ただ、自分の自分のための価値判断が曖昧な場合は参照するのもいいと思うけど、もしかして、その逆、つまり「ずるい」ことを望んでした場合に感じる集団との違和を罪悪感と呼ぶのかもしれないって思って、それはなんか違う、ということをいいたいんだった。うまいこと言えないんだけど、これは集団のそれでなく、だから何も抑止しないということ。

[] 擬態語

コックさんをしている友達がいて、と書き出したとこでコックって、と思って検索したところそれはオランダ語らしいです。そこはかとなく文明開化の香りがしますよね、というのは関係なくて、ともかく料理人をしている友達と話してると、たまにメニューの名前がネタになるのですが、私はとにかく、擬態語とくどい説明の入ったメニューが大好きで、たとえば「にしんのさくさくパイ包み−新鮮なにしんの腹に発芽玄米と空豆のリゾットを詰めました−」とか「サーモンとアボカドのしっとりテリーヌ−この季節特に脂ののった○○産のサーモンを使用し、アンチョビゼリーをのせてさわやかに−」とか、「魚介とバジルのスパゲティ−酸味のきいたバジルソースと、エビのプリっとした歯ごたえをお楽しみください」とか(メニューはフィクションです。あり得ないかもしれない)、とにかくそんな感じで、たぶんイメージしやすいのが好きってことなんだと思います。で、中でも特に好きな食感が「カリッ」と「サクッ」とおいしいだったりして(でもスコーンは私の中では「サクッ」ではない。むしろボリッとザクッと)、友達にも「あんたの好みはカリカリとかサクサクばっかり」だと言われるくらい、サクサクカリカリ最強だと思ってた。

なので、『「カリッ」とか「サクッ」としたものが嫌い』という言葉を読んでびっくりしました。味覚だけでなく食感にも!なにが!

ちなみに私は高野豆腐とかの食感がこわいんですけどあれはなんでしょうか。「ジュワ」かな。「ジュワ」と書いたとたんにおいしそうな気がしてきた。

[] ひぐらしのなく頃に解目明し編」終了

すごかった。たとえこれが完結編だったとしても私はすごかったというと思う。あんなにあちこちに鍵があったのに、わたしはまんまと引っかかったし引っかかってよかったと思う。個人的にはすっかり引っかかる方が楽しい。

目明し編」は、こわいけど切ない話だった。ひぐらしはだいたいどのシナリオも切ないけど、これをやってから今までのシナリオのことを(特に綿流し編を)思い出すと、なんかやるせない。

そして、やっぱりよくできたシナリオだなと思う。いろいろすっきりしたとこはあるけど、謎も増えた。

ちょっと恩田陸作品っぽい雰囲気があるかな、と思ったりしたけど(『麦の海に沈む果実』とか)あんまり伝わらないかもな。

mikkmikk 2006/06/30 09:48 食べ物の擬態語、ワクワクしますよね!「スイーツ オノマトペ」というお菓子のレシピ本ご存知ですか?絵本仕立てでカワイイですよー。ちなみに私、高野豆腐煮たの、大好きです。じゅわあああ。。。

ichinicsichinics 2006/06/30 16:35 「スイーツ オノマトペ」あまぞんで見てみたのですけど、かわいい本ですねー。大雑把なのでお菓子はあまり作れないんですけど、惹かれます。
高野豆腐は、あの噛んでも噛んでも…な食感が苦手だったのですが、既に食わず嫌いになってると思います。なんだか久々に食べたくなりました(笑)

2006-06-29

[] 時をかける少女試写会

絶叫機械+絶望中止:確かに話題性は大切だけども。】にて知りました。

『時をかける少女』ブロガー試写実施!30名様ご招待!

http://www.kadokawa.co.jp/tokikake/index.php?cnts=info

ものすごく行きたいんですけど、ここは応募資格にある「映画またはアニメのブログサイト」に入るかどうかがわかりません…。それから1日平均アクセス数って。わかるの前提なのですね。わかるけど。アクセス数で弾かれるのとかちょっと切ない。

まあ、だめもとでとりあえず応募してみようかなと思います。ちなみに「時をかける少女」楽しみアピールは以前にもしております(id:ichinics:20060613:p3)まあ「パプリカ」のがとか言ってますけど。

しかし7/15からの公開だったら、マスコミ試写だけでもある程度はブログで宣伝されるだろうになぁ。

[] 日本以外全部沈没

これも映画化するんですね。知らなかったー!

筒井康隆の短編小説「日本以外全部沈没」を、河崎実監督(『いかレスラー』など)が映画化。監修に実相寺昭雄さんというのが気になります。

「日本以外全部沈没」は小松左京さんの「日本沈没」(もうすぐ映画公開の)のヒットを祝う集まりで、星新一さんが題名を考案、小松左京さんの許可を得て執筆されたというもの。

スピリッツで連載してる漫画読んじゃってるけど、やっぱ両方原作読んでみたいな。

公式 → http://www.all-chinbotsu.com/

2006-06-28

[] 「それも またよし」と呟く

空中キャンプ(id:zoot32)さんの、「嫌われ松子の一生」の感想を読んで。

映画の感想は前にも書いた*1けど、「嫌われ松子の一生」は、川尻松子という女性の転落人生を描いた小説を、コメディタッチで映画化したものだ。原作はまだ読んでいる最中なのだけど、映画とはかなり温度差があって、別物のように感じる。原作を読んで「悲惨すぎて笑っちゃった」と監督は語った。確かに悲惨な話だ。しかし原作を読んでいると、映画版の脚本は、より「松子の自業自得」に見えるようにアレンジされていたんだとわかる。だってそのほうが「わかりやすい」もんね。

彼女は確かに不運だったし、ばかだったと思う。でも、それはあくまでも第三者の視点であって、松子にとっては笑い事ではなかったんじゃないかって、そこがどうしても気になってしまうのだ。というか私が松子だったら、きっとそう思う。

そもそも、彼女の不幸とは何だったのか。むしろ幸せは何だったのか。その質問に、松子はどう答えるだろう?

わたしは不幸を感じたとき、こうおもう。「これもまたよし」と。そしてきっと松子も、いろいろな局面で、これもまたよし、と感じていたにちがいない。不幸は、きっとさまざまな受け取り方ができる。これもまたよし、と不幸を受け止めたとき、すこしだけ風景がちがって見えるはずである。

空中キャンプ:まげてのばして ─ 映画「嫌われ松子の一生」を考える

「これもまたよし」という言葉で思い出すのは、「ジョゼと虎と魚たち」のワンシーンだ。あの映画の中で、ジョゼは今の幸せが、いつか自分の元を去っていくだろうことを感じ、「それもまたよし」と呟く。あれはジョゼの強さだったと思う。自分しか頼りにならないのは知ってる、大丈夫、最初から孤独だった。でもちゃんと幸せも知ることができて、よかった。そういう諦めと覚悟の入り混じった肯定だったように思った。

しかし映画の松子にそれが言えただろうか? 私はそうは思えない。そして、もしそれを言えていたなら、松子はもっと自分を肯定して「うまれてすみません」なんて言わずに、生きられていたんじゃないかと思ってしまう。

同じ失敗を何度も繰り返しながら、彼女はずっと自分が何を欲しいのか、見えてなかったんじゃないか。私にはそう感じられた。ほらそこに、あるのに、っていう感じ。私はそれがかなしかった。

もちろん、映画を見た人それぞれに、それぞれの松子像があると思うので、これは私の印象に過ぎない。そしてその印象も、まだうまくまとまらない、もやもやした部分があるのだけど、それは原作を読みながら、ゆっくり考えようと思う。

ただ、どんなに花や歌でコーティングしても、悲惨を「笑っちゃう」ためには、松子自身が笑えるように描くしかないんじゃないかなと思う。松子自身が「これもまたよし」と、そう言える場面があればよかったのにと私は思う。もしくは、もっともっと身勝手にふるまって欲しかった。

そして、私の人生も「またよし」と言えるのは私だけだ。そして、松子じゃない私は松子の人生を判断できない。ただ、見ていて落ち込んだり悲しくなったりするのは、彼女の中に自分を見るからなんだと思う。

この落ち込み感は何かに似ている、と思ったら「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」を見たときの感じ(id:ichinics:20050618:p1)だった。

[][] 公開中と近日公開の見たい映画

最近忘れがちなので

公開中

GiNGA
フェルナンド・メイレレス監督のブラジルサッカードキュメンタリー。そんな面白そうなのやってたなんて知らなかった。渋谷Q-AXにて6/30まで。:公式→http://www.ginga-cinema.jp/
初恋
公開中:公式→http://www.hatsu-koi.jp/
メタルヘッドバンガーズジャーニー
予告見てたら行きたくなった。公開中(シネアミューズ):公式→http://www.metal-movie.com/
ニューヨークドール
new york dollsのアーサー・ケインをモチーフにした映画。シネセゾン渋谷にて公開中:公式→http://www.nyd-movie.com/
花よりもなほ
見る気満々だったのに、なんとなく気が進まないままきてしまった。どうしようかなぁ。公開中:公式→http://kore-eda.com/hana/

近日公開

ローズ・イン・タイドランド
かなり期待してます。7/8公開:公式→http://www.rosein.jp/
美しい人
ロドリゴ・ガルシアによる9人の女性の群像映画のようです。この人はずっとこのスタイルだなぁ。7/1ル・シネマにて公開:公式→http://www.elephant-picture.jp/utsukusii/index.html

BOW30映画祭

それから7/15からは日比谷シャンテ シネに通いたいです。

mikkさんのところでまとめられていて知ったのですが(こちら→http://d.hatena.ne.jp/./mikk/20060526/p1)すばらしいラインナップで、どういう時間割で見るか選ぶのも楽しいです。

タイムテーブルを見ると、結構厳しいかもだけど(「エル・スール」は朝10時からの一回だけとか…)、でもなんとかなるだろうと思う(夏休みだし?)。

公式→ http://bowjapan.com/bow30/index.php

[] 夏の準備

夏向きにワンピースを買った。よく見ないとわからないんだけどかわいい柄で、自己満足できる感じがいい。ワンピースとあわせてマニキュアも買う。

でもほんとは、数カ月前に見た黒地の裾に花柄が入ったコットンのワンピースを買わなかったのを後悔していて、試着もして着にくいと思ってやめたんだけど、でもやっぱりあの柄がよかった。でもできればあの柄で違う形が良かった。一目惚れって、本気だってわかるまでにずいぶん時間がかかるから困る。あの生地売ってないかなぁ。作れないけど。

それからヒールを何足か修理に出した。とても丁寧に仕上げてくれるお店があって、もう何足も出しているのですっかり顔なじみになってしまった。鼻めがねのおじさん。

週末は髪切ろうかな。あ、ザゼンのライブもだ。

mikkmikk 2006/06/28 09:38 BOW30映画祭、楽しみですよねー。なんか興奮して一気にアップした記事を記して下さってありがとです。
そうそう会社休めないしお金かかりすぎーと悩みつつ、計画考えるのも楽しくってイイですよね、ふふふ。

ichinicsichinics 2006/06/28 19:07 mikkさんこんにちは。私は日々谷にはあまり行かないので、この企画はmikkさんが触れてくれなかったら知らなかったかもです。ありがとうございます!
計画たてるのほんと楽しいですよね。よりどりみどりで、迷います(笑)

IMAOIMAO 2006/06/28 21:58 おばんです。
「嫌われ松子」については僕も大体同じ意見なのですが、要するに
松子という人物(キャラ)を中島監督が理解し切っていない、もっと平たく言うと愛してない、という印象を感じています。
良く判らないけれど、映像と音楽の力で押し切っちゃえ!みたいなノリを感じて僕はかなり居心地悪かったのですが・・・監督が理解していないキャラをいくら主演女優に理解させようとしても、それは伝わらないし、観客にもそれは無意識に伝わるものではないでしょうか?
同じ様に不幸な女の話、例えば「行動はバカでも気持ちが判る」様な人物の映画、ケン・ローチの「レディバード・レディバード」の様な映画と比べると明らかに人間を食った表現が僕には辛かったです。
ま、それはともかくBOWシリーズもまたやってくれるのは良いのですが、一体いつ観にいけというのでしょうかねー^^

ichinicsichinics 2006/06/29 02:34 IMAOさん、どうもです。うーん、どうなんでしょうね。題材もですが、原作ものの映画ってそういうとこ難しいなと思います。行動はなぞってても描写が異なれば意味も異なってしまいますしね。かといってケン・ローチのような視線はエンタテインメント作品にはむかないのかもしれないし…(どちらも好きですが)。とりあえず今原作読んでいる最中なので、感情移入しすぎなのかもしれません(笑)

2006-06-27

[][] 「あゆみ」と「ナナカド町綺譚」/須藤真澄

須藤真澄週間です。

あゆみ (Beam comix)

あゆみ (Beam comix)

デビュー作を含む、単行本未収録作品を集めた短編集。1984年から2000年の作品までおさめられているのにもかかわらず、その世界観にブレがないのがすごい。特に興味深いのが「全国博物館ルポ」と題されたカラーシリーズ。思わず住所をメモしてしまいそうになりましたが、これは須藤さんの妄想の産物だとのこと。連載されたものはほかにも幾つかあるそうなんですが、どうせなら全部見たかったなぁ!

それから「100、101」と題された「幽霊が見える青年」を主人公にした2話も好きです。高野文子「ふとん」や大島弓子作品の、たとえば秋日子を思い出すようなお話なんだけども、須藤さんらしいひょうひょうとした雰囲気が、いい。最後に収録された「ほな」も秀逸です。

ナナカド町綺譚

ナナカド町綺譚

星形の、七つ角のある町を探険する少女の物語。「あゆみ」に収録されてる「フラワーバスケット」に登場するアメデオ君が実験君として登場します。

同時収録の「アメイジング・プレイス」は、建設中の「家」に集った人々が一夜限りの「家族」になるお話。

どちらのお話も、独特のリズムで、出てくる人みんな自分勝手なようで、おかしくて、それがほっとする。80年代の作品がSF/ファンタジー寄りだとすると、この辺は「すこしふしぎ」な感じです。

[][][] ひぐらしのなく頃に祟殺し編〜2巻

こわかった…。綿流しの日以降の展開はまさに怒濤の勢いで、読みごたえがありました。ゲームやってたときに一番印象的だった場面は、漫画版だとわりとあっさりしていたんだけど、そういうとこふくめて割と客観的に読める。

しかし三四さんこわいわ…。それから魅音さんがどんどん巨乳になっていくような気がするのは気のせい? (ネタばれ? 自主規制:というかあれはほんとに魅音なの?)あとがきに書いてあることとかも、解が進んでない私にはすごく気になります。しかし、この分厚さでこの値段って安い。

ひぐらしのなく頃に 祟殺し編 2 (ガンガンコミックス)

ひぐらしのなく頃に 祟殺し編 2 (ガンガンコミックス)

今「目明し編」をやっているので、復習にもなっていいです。なんかすごい「えっどういうこと?」って思うとこがたくさんあるんですけどどうすればいいんでしょうか。今までまったくその存在を重要視してなかったヒトがもしかしてすごい重要だったんじゃないかという気がしてきた。うー、気になる! というか今日「目明し編」終わるつもりだったのに、意外と長くて断念した。明日こそ。

[][] ビッグコミックスピリッツ 2006年/30号

ホムンクルス
連載再開。「わかりやすいのと…わかりにくいホムンクルスがいる!!」とのことだけど、どう展開するのかなぁ。とりあえず伊藤のホムンクルスの謎ときをするみたいだ。
電波の城
引き続き天宮の過去編。「春と修羅」を朗読する場面があるのだけど、まともに読んだことないんだよなぁ。読もうかな。
ハクバノ王子サマ
どうすんのー!
中退アフロ田中
田中自己啓発に目覚めるの巻。夢越さんがいいです。かなりいいのでこれからも引き続き登場するような気がします。でもどうやって?
ボーイズ・オン・ザ・ラン
久々ちはる登場。手作り弁当いいなぁー。
バンビ〜ノ!
子どもにいじられる伴の巻。てか逆ギレしなくてほっとした。
fine.
元彼女をまるで怨霊のようにとらえるこの主人公。こわいわ。あの彼女もこわいけどお前がこわいわ。と思ってしまう毎回。

[] 曇天

新宿へ行く。都庁のそばを通る。ビルは好きだけど地上で高層ビルに囲まれる圧迫感はどうも気持ちわるくて、ヘッドフォンかぶってザゼンの威を借りて心強くなる。未だにオフィスカジュアルってものを着れない私は、高層ビルに馴染まない。いろんなことを断る馬鹿丁寧な自分の口直しに、タリーズでコーヒーを飲んでから、帰宅。帰り道はキセルの「サマタイム」。夏に行く旅行のことを考えている。遠くに行きたいと思いながら、同時につかまっていたくて、そんな矛盾した気分はいつまで続くんだろう。

私はずいぶん長い間「話せばわかる」というようなことを信じていた気がするんだけど、それは話してわかりあった気になってたことがあっただけで、実はそれがわかりあってなかったってことに気付いてしまった。とうとう、やっと、さよならだ。さみしいようだけど、この辺のこと、もうちょっとうまく言葉にできれば、いっそすがすがしく手を離せる。

2006-06-26

[]  再会する音と耳の意志

i-podやを使いはじめた頃はアルバムごとに聞く方が多かったのだけど、最近はフォルダをつくるか、シャッフルで聞くのがほとんど。そしてそれが気に入ってからは、i-tunes上にある音も、だいたいシャッフルで流している。

考えてみれば、今まで自分のもっているレコードの全ての曲からランダムで曲を流す装置なんてのはなかったわけで、するとシャッフルの良さっていうのは、知っている曲に、改めて曲に出会うチャンスをくれることなのかもしれない。あれ、これ何だろうって思って、改めてタイトルを見て、こんな良い曲あったっけ、って思う。

それは昔に比べて1枚のアルバムを丁寧に聴くということが少なくなったからなのかもしれないけど、偶然の力を借りて出会いをやり直した曲というのは、不思議とその後も長くつきあえる存在になったりすることが多かったりもして。

今日の再会はThe Postal Serviceの『GIve up』国内盤ボーナストラックに収録されている「There's Never Enough Time」。もともと好きなアルバムだったけど、この曲を取り出して聴くと、アルバムの文脈から外れていたのだなと思う。特に歌の扱われ方についてそう感じるのだけど、他のトラックが外へ開けていく感じを持っているのに対し、この曲のイメージは2D。柔らかな強さがあって、シングルで聞こえるときのほうがずっと響くところがある。

やわらかなエレクトロビート。そこにそっと乗せられたヴォーカル。ここでの歌は、重なっていくビートのひとつとしてある。やがてギターの音と出会うことで物語の展開を予感させて、さらに重なるカッティングが新しい風景を見せる。そして言葉が意味を持つ。重なった線路はまた分岐していく。途切れる。そんな物語を見る。

in due time.

we'll finally see

there's barely time

for us to breathe.

この言葉の意味を考えてみると、POSTAL SERVICE*1は一応、この一枚のアルバムで終了だったのかな、とも思えるんだけど、その辺の事情は全然知らない。出来るならもっと聞きたい。

ギヴ・アップ

ギヴ・アップ

ランダムに再生されている音楽を聴いていて「見つける」感じはちょっとどきどきする。そして、もしかしたら、そのときの自分にとって心地よい音がどんなものなのか、耳の意志みたいなものが焦点をあわせるのかもしれない、なんて思う。

たぶん、今の自分にとって心地よいのが、こんな懐かしい未来の音みたいなものなんだろうな。

[] 後味の悪い映画メモ

日刊良スレガイド:後味の悪い映画 より

まとめ見てたら気になるのがいくつかあったので、個人的なまとめメモ。

「後味の悪い映画」と言っても、捉え方はそれぞれで、おおまかに言えばハッピーエンド以外。特に多く見られるのが「物語に救いがないなどの理由で後味が悪いけど良かった映画」と「結末に納得いかなくて後味がわるかった映画」。でもコメントから推察するしかないので、賛同者多かった順にメモ(計算は適当です)。見たことあるのには印(◇)つけてみたけど、私は本とか映画とか、印象に残った場面は覚えてても、結末ってだいたい忘れてしまうから、後味悪かったかどうかも?っていう感じだ。「 」はスレッド内の意見。◆は特に見たいもの。

続きを読む

*1The Postal ServiceDeath Cab For CutieのBen GibbardとDntelのJimmy Tamborelloのサイドプロジェクト

IMAOIMAO 2006/06/26 06:26 いやー、こうして見るとちゃんと憶えている映画って結構少ないですね^^僕としてはこの中で一番後味悪かったのは『ダンサー・イン・ザ・ダーク」かしらん??
多分後味の悪い映画の傾向として、作り手が登場人物達の感情を無視してしまう様な気がします。

ichinicsichinics 2006/06/27 02:50 私はどれでしょうか…強いていえば『時計仕掛けのオレンジ』かもしれませんが、後味悪い、と思うことってあまりないんですよね。最近だと「嫌われ松子」とかでしょうか。
でも上記作品に多い後味の悪さって、言い換えれば「印象に残る」もしくは「引っかかるところがある」ってことだと思うんですよね。「納得いかない」系は、確かに登場人物の感情を無視してると感じられるものも多そうですね。

2006-06-25

[] パーソン論から、私が「あってしまっている」ということまで

いつも愛読しているid:kaienさんのところで続いている「something orange:妊娠・中絶は殺人か」という連載を興味深く読んでいます。その1のエントリから、その後いろいろ派生して、なんだかちょっと偏った話題になってしまってるようなのだけど、個人的には「殺人か」と問われれば殺人だという意識を持っていたいけど、だからといってそれが無条件に「悪」であるとは思わない、という意見です。それ以上は今のところ言葉に出来ない。

私が気になっているのは「妊娠・中絶」問題からは少し離れて、パーソン論の部分です。

つまり、生まれたばかりの赤ちゃんは自己意識要件を満たしておらず、パーソンではない。従って、生存の権利を主張することもできないということになります。こうして、胎児殺しはおろか、嬰児殺しまで正当化されることになってしまうのです。パーソン論、恐ろしい子!

http://d.hatena.ne.jp/./kaien/20060616/p2

kaienさんのところでは、このパーソン論は

したがって、あるひとがどのような能力をもっているのかを客観的に測定するということは理論上不可能ということになります。一歩まちがえばパーソン論は、たんに胎児や脳死患者といった「邪魔者」を都合よく始末するためのロジックに堕してしまうでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/./kaien/20060617/p1

と批判されています。

パーソン論と、それに対抗する考え方をこちら(http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/ethics/theme4.html)のサイトから引用します。

SOL (Sanctity of Life) 倫理:SOL=生命の尊厳

生命 (特に人の命) は無条件に尊いとし、以下の3原則に従う考え方。

  1. 人為的に人の死を導いてはならない (正当防衛を除き殺人は許されない)。
  2. 第三者が、ある人の命の値うちを問うことはできない。
  3. すべての人命は平等に扱われなければならない (人の命の価値を比較してはならない)。

よって安楽死、中絶は殺人に該当するとし、脳死者の臓器摘出も認めないものとされている。

QOL (Quality of Life) 倫理

QOLには2種類の意味がある。ひとつ (絶対的評価としてのQOL) は「生活の質 (内容)」という意味で、医療現場で患者の生活機能ができるだけ保たれ、人間らしい生活を続けられることを指す。

もうひとつ (相対的評価としてのQOL) は「生命の質」という意味で、人の生命の価値を「人格」という相対的なものとして、評価・比較可能とする。=人格 (パーソン) 論

「パーソン論」における人格
人格のあるヒト (カタカナ表記するヒトは動物種としての人間)=ただのヒトでなく「人」/人格のないヒト=ただのヒト

「人格」の要件

  1. 自己意識がある。苦痛を感じることができる。
  2. 欲求や目的を持つ。
  3. 最低限の認識能力 (記憶、期待、信念) を持つ。
  4. 問題解決能力としての理性を持つ。
  5. コミュニケーション能力を持つ。
  6. 本能、強制以外の自分の意思で行為する。
  7. 大脳皮質機能がある (1〜6の要件を生物医学的に表現したもの)。

他、いくつかネット上で読めるものを参照しただけだけど、パーソン論で扱われる「人」と「ヒト」との分け方にはちょっとこじつけめいたところがあり、これを「基準」として使用することには、あやうさを伴うように感じられる。

ただ、前者QOL倫理にしても、確かにそれは理想に近い考えなんだろうなと感じられるけれど、それをそのまま実践すること(他者に強制すること)にはどうしても矛盾や犠牲がつきまとうし、この倫理が法制化に適用されるのは危険だとも思う(自分にとっても)。

誰でも当事者になりうる問題だけに、個人的には当事者以外がその善悪を語ることは難しいと思うのですが、それを言ったら世の中全てが語り得ないものになってしまうし、だからこそ社会としては「善悪」から離れて、使用出来る判断の「基準」を作らなきゃいけないのだろう。そしてそれは画一的なものではなく、実践の例を鑑みて改善されていくものであればいいのになと思うのですが、実際はその基準が善悪になってしまいがちなのでしょう。

ところでこの倫理について考えるとき、人はどの視点により近い場所に立つのだろう? 判定される側か、する側か。

例えば中絶の場合、そこにいる「当事者」の筆頭は胎児であるはずです。しかし、胎児の視点に立つ、ということは難しく、だからこそ「パーソン論」というものが出てきたのだろう、と考える。

胎児の視点

私はかつて、堕胎されるかもしれなかった「ヒト」だったようです(と産まれてから聞いた)。母親が私を妊娠中に風疹にかかったことが原因で、医師から堕胎をすすめられたらしい。

優生学的見地にたつ人工妊娠中絶について

妊婦の風疹:先天性風疹症候群 (白内障、心奇形、難聴を伴う。知能障害も多い) になる可能性があり、風疹流行の年には中絶が数千件増える。実際の胎児の風疹感染率は20%程度。

http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/ethics/theme2b.html

ただ、上記の発症例は、特に妊娠初期の感染によって起きることが多く、私の母の場合は後期だったこともあるのか、実際生まれてみて育ってみた私には、とりあえず危惧された障害はありませんでした。それについては本当にありがたいことだなと思っているし、それと同時に、私を産む覚悟をしてくれた両親にはもちろん感謝している。それでも、実際に私がその立場に立ったとき、確実に両親と同じ道をたどれるかはわかりません。また、似た立場に立っている人に対し何か意見するつもりは全くないです。ペリュシュ判決のような例もあるし、たぶん医学的な進歩によって解決されることが一番良い問題なのだろうと思う。私に言えるのは、予防接種の大切さくらいです。

ただ私は、両親には私を産まない選択もちゃんとあったなと思うし、その場合には責められるような立場にたたされなければいいなとも思う。その点ではパーソン論というのにも有用性はあるのかもしれない。罪悪感の軽減、なんて言ったら不謹慎かもしれないけど(そして、その軽減は日本よりもキリスト教圏に住む人の方が、より切実に求めていることだろうなと思う)。

なんてことぜんぶ、これは私が今あるから考えられることなんですよね。

それでは、私はいつから私だったんでしょうか。

前に「私が私であるということ」(id:ichinics:20060127:p2)という文を書いたときに、「機械の意識の有無を判定する方法について」という質問について考えていたことも、この辺なのだけど、

自分が「意識がない」とされる存在だったとして、「意識あるってば!」と主張しても信じてもらえない存在だったとして(ここら辺もうすでに胎児の話は関係ないです、一応)。

意識の有無を判断する存在は相対する他者なのかもしれない、と思う。もっといえば、人物Aが信じている限り、その他全員が否定したとしても、その対象は存在する?

「私が今あるから考えられる」というのはつまり「我思う故に我あり」です。しかし胎児だった私は、たぶん思ってなかった。我なかった。そのとき、私を存在させていたのは、例えば両親の「我思う」だったんじゃないか。

この回り道でようやく、昨年書いたこれ(id:ichinics:20051009:p3)の続きを考えられるような気がした。そしてその日に引用していたmichiakiさんの文章が、改めて好きだな、と思ったので改めて。

それは、ほんとうは、「ないこともできた」のです。でも、「あってしまっている」。このことこそが、まずなにより驚くべきことであり、きちんと気付くべきことである、とMは考えるのです。「何か」の中に存在するすべてのモノやコトや概念や関係は、人間の歴史や恋や愛や”死んだり死なせたり”や、真偽や善悪や美醜や、普通の人が問題だと思っている全てのこと、幸福も希望も、そういったあらゆるすべては「何かがある」ことの上にしか成り立たないからです。

http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20050930#1128090049

ここから、もうちょっと考えを進めてみたいなと思う。ここまでは整理です。ゆっくり。

michiakimichiaki 2006/06/25 10:47 たまに見るとなかなかいい文章ですね(笑)。
ここらへんの話、「記憶」が絡んでくると思うんですよ。ichinicsさんが眠っている間は我ないのかとか。

kissheekisshee 2006/06/25 14:23 パーソン論、まさにぼくが卒論であつかったテーマです。正確に言うと、重度の障害をもって生まれてくる/きた子どもの命を絶ってよいか、というテーマだったのですが、その一環で、パーソン論をあつかいました。
基本的に、パーソン論を批判する立場で文章を書いていたのですが、そのとき感じたのは、パーソン論というのは、一見して感じる嫌悪感ほどには、単純に批判できるものではないなということでした。
ちなみに、この問題の基礎文献としては、ピーター・シンガーの『実践の倫理』という本があります。参考までに。

ichinicsichinics 2006/06/25 23:44 >>michiakiさん
いい文章ですよね、と思います(笑)
じゃあ、眠ってる間の「記憶」はどこにあるんだろ、とか考えていたら、あの培養液に浮かんだ脳とか、脳がアンテナ(アバウトですが)という話を考えるきっかけにもなりそうです。どこから手をかけていいのかって感じですけど。

ichinicsichinics 2006/06/25 23:47 >>kissheeさん
そうだったのですか。なんだか曖昧な知識のまま中途半端なことを書いてしまって、恥ずかしいのですが、どんな論文を書かれたのか、とても興味があります。
デリケートな問題ですが、制度としての基準を必要としている問題だけに、もっと考えられるべきことなんだろうな、と思います。教えていただいた文献も、ぜひ読んでみたいと思いました。

2006-06-24

[][] シカゴ育ち/スチュアート・ダイベック

短編と掌編で構成された、一冊のスケッチブックのような小説。

ここにあるいくつかの掌編は、別の本に収録されていた際に読んだことがあったのだけど、一冊の本として読むと、まるで印象が違う。様々なタッチで、色で、様々な表情が描かれているけれど、そのどれもがシカゴという街の姿を描いたものであるという点で繋がり、共鳴しているかのようだ。

ここでは風景も思いも全て映像のように克明に描き出されている。そして私は、その「眼」こそが作者の素晴らしさなのだと思う。彼の眼を通過することによって、時間も場所も混沌の中で一枚の絵となり、そこには生き物のような街があらわれている。

シカゴ。中学生の頃に一度、日程調整だかで一泊だけしたことがある。特に予定もなかったので、何もないビル街を歩いて、地下食堂でタコスを食べた。そしてたぶん翌朝にはバスで空港へ向かった。工場ばかりの街だなと思ったのを覚えている。

あの街のどこかに、これらの風景もあったのだろう。そしてタコスを食べるかわりに、美術館へ行き、ホッパーの『夜ふかしをするひとたち』の絵の前で足を止めることもできたのかもしれない、などと思う。

カウンターに、三人の客が座っている。彼らは何かを待っているように見える。何かがはじまるのをではなく、終わるのを。そして僕にはわかっていた。目を開けたら、何の違和感もなく、僕もそこで待っているだろうと。「夜鷹:時間つぶしp122」

あるいは通り過ぎて聞く車窓の恋人たちに手を振り、教会をめぐり、暑さに文句をいい、通気口から聞こえてくるピアノの音に耳をすましている。街はすべての登場人物を飲み込んで、物語の中に包み込む膜のようなものなのかもしれない。何の違和感もなく。

訳者の柴田元幸さんが「いままで訳した本のなかでいちばん好きな本を選ぶとしたら、この『シカゴ育ち』だと思う」と、そう言ってしまうのもわかるような気がする、とても魅力的な作品集だった。

ナイトホークスについて、あまり関係のない話 → id:ichinics:20050310:p1

[][] 天国島より/須藤真澄

1989〜1991頃に発表された作品を中心とした短編集。

「永遠」と「時間の枠」を前にした小桃の選択を描いた表題作が2編。あこがれる、という気もちについて、改めて考えたり。それから「コーヒー・カンタータ」は自分が誰かの夢の中の登場人物にすぎないとしたら? ってお話。ラストが良い。コーヒー飲みたいなぁ。この辺りの、SF/ファンタジー系列の須藤真澄作品がとても好きです。それから「上方漫遊記」というエッセイも面白かった。大阪いきたくなった。串カツ食べたい。

後半は「ゆず」のお話。多分この辺が初出かな。

kissheekisshee 2006/06/24 22:26 スチュアート・ダイベックの翻訳は、柴田先生にしかできない仕事だと思います。ポール・オースターは、柴田先生が訳さなくてもどなたかがいずれ訳したと思うのですが(実際、『シティ・オブ・グラス』は別のかたが訳されてますし)、ダイベックは、きっと東京の郊外育ちの柴田先生にとって、とても共感できる、琴線にふれる作家だったんだろうなあと感じます。「郊外感」が、とても近い作家だったのだろうなあと。

ichinicsichinics 2006/06/25 01:57 柴田元幸さんの「いちばん好きな」という言葉を最初に読んだ時には、「そんなこと言ってしまっていいのかしら」なんて思っていたのですが、Uブックス版のあとがきを読んで、なんとなく腑に落ちたような気がしました。「シカゴ育ち」は長く愛読できそうな本で、私もとても気に入っています。

2006-06-23

[][] やさしい生活 再

昨日kissheeさんに教えていただいて文庫本コーナーを見たらばしっかりありました。で、とりあえず『イッツ・オンリー・トーク』のみ読了して、昨日の映画の感想(id:ichinics:20060622p1)を書き直そうと思った。

というのも、あの映画は、原作とは全く違うものだったのだと思ったからだ。それでも、絲山さんの雰囲気と地続きに思えたことを否定するのではない。

例えば『逃亡くそたわけ』での花ちゃん、『ニート』に登場するキミと、『イッツ・オンリー・トーク』での祥一は、ほとんど同一人物に思える。そして彼等と対をなす主人公の立場は、優子のイメージに集約される。

小説での優子は、しっかりしている。貯金暮らしではあるが、やりたいことはちゃんとあり、自分で選択もしている。いとこの祥一の面倒を見て、してほしいことをしてほしいという。

しかし、映画の優子は揺れている。休息を必要としていて、ただ誰かにそばにいてもらうことを求めている。たぶん、映画での優子を見る目線は、監督のものでもあり、脚本家のものでもあったのだろう。物語はかなりアレンジを加えられているけれど、それも絲山さんの複数の作品を読んだ上でのことだったのだなというのが、これを読んだ後だとよく分かる。そして、その目線を委ねられていたキャラクターが祥一だったのだろうかと思う。彼のキャラクターは、原作のものとかなりかけ離れていて、むしろ原作での優子の要素と、例えば『袋小路の男』での小田切と、両方の要素を持っていると思った。だらしないけれど、優しい。

そんな優しさが、小説にもちゃんと含まれているのだけど、それを拾い集めて、それが頼りになることを見せる。そんな映画だったのだと思いました。

イッツ・オンリー・トーク (文春文庫)

イッツ・オンリー・トーク (文春文庫)

[][][] デスノート 前編

コミック原作の映画、というのにあんまり期待しないようにはしてるんですが、それでもやっぱ期待してしまうところはあるわけで、でも残念ながら始まって10分もたたないうちに、実写である必要はなかったんじゃ? と思ってしまいました。えっと、実写にしたら新規読者が開拓できるとかそういうメリットはあるのかもしれないし…。隣の席の男の子は「漫画も読んでみようかなぁ」と言っていたので、原作未読の人には面白いのかもしれないけど、原作好きな人にはどうなんだろうなぁ、というのが正直なところです。

個人的には、こちら(http://movie.maeda-y.com/movie/00744.htm)の感想にほぼ異論はないです。残念。

特に残念だった点は、はじまって10分くらいのところで登場するリュークリュークがフルCGというのは聞いていたのですけど、とにかく動きが不自然に堅すぎる。そして声が、中村獅童さんらしいのですけど、なんだかイメージと違う。予告を見た時点ではそっくりだ、と思ったLも、確かにかなり見た目は近付けているし、漫画版での構図や仕草を再現した場面も多々見られたけれど、コスプレだなぁという感じ。やっぱり漫画的なキャラクターというのは実写にすると無理があるということなのかもしれない。そしてライト役の藤原さんも、キャスティングは良かったと思うんだけど、脚本のせいか、あのカリスマ性がなくなっていた気がする。結構いっぱいいっぱいに見えた。

上のリンク先でも書かれていますが、原作はモノローグ中心で進むのに対して、映画では伏線的な部分がほとんど見えないので、いろんな出来事が突然に思えるし状況を操っているはずのライトが状況に翻弄されて見えるのがもったいない。特に、終盤のミスディレクションのショットは反則だと思うし(だってあれは完全に物語の外に向けてのミスディレクションだ)。

そういえば

実写化ニュースを知った時に書いてたキャスティング妄想(id:ichinics:20060124:p2)、そういえばおひょいさんだけ当たってた。

[][] 桜蘭高校ホスト部@新スパイ大作戦

確か中学生の頃に再放送をしていた「新スパイ大作戦」が大好きで、特にフェルプス君に夢中だったのですが、そう言えば私はあんな風に、キャラクターの特技がはっきりとしているチームワークもの(ゴレンジャーとかもそうですけど)が好きなのだなぁとしみじみ思い、そういや「ホスト部」もそうなんじゃないのと思ったので、「こんなパロディがあったらいいのにー」という妄想を書いてみる。何の役にもたたないけど。

  • ジム・フェルプス
    • IMF二代目リーダーにして白髪のダンディ。お茶目な一面もあり。
      • → 鏡夜…って思ってしまうのはつくづくボスというか黒幕キャラなんですね(フェルプス君は別に黒幕ではないんですけど)。
  • ニコラス
    • 変装の名人にして語学堪能。たぶん色男な設定。吹き替えがフリーザでポロリの中尾さんだったのが印象的だった。
      • → キング。やっぱ色男だし、語学堪能だし、ここで何か問題が起きて残りメンバーが解決というのがいつものパターンになりそう。逆にここがハルヒだと、嫌々女装(?)させられてというのがいつものパターンか。
  • グラント
    • 電子工学の天才。
      • → 双子。確か双子のハッカーってのがなんかの小説にあったような気がするし、ときめくし。
  • マックス
    • 肉体派。銃器の扱いにも長けている。
      • → モリ&ハニー、まあそうなるよね。
  • ケーシー/シャノン
    • 紅一点
      • → ハルヒ、と思ったけどここがキングでも良いわけで、そういう意味ではアリス編がダブルキャストだったのはなるほどなと思う。あーでも、この位置にハニー先輩ってのもいいなぁ。

2006-06-22

[][] やわらかい生活

ichinics2006-06-22

監督:廣木隆一 原作:絲山秋子

廣木隆一監督の作品では、この作品と同じく、寺島しのぶ主演の「ヴァイブレータ」が良かったので、結構期待して見に行った。そして、期待どおり、良い作品でした。

本当は原作読んでから、と思っていたのだけど、なかなか書店においてなくて(まあアマゾンで買えばいいんだけど)結局未読のまま見にいってしまった。でも、絲山さんの作品にある感触と、わりと地続きで見られる映画だったように思うし、それは「ヴァイブレータ」を見た時にも赤坂さんの雰囲気に近い、と思ったのでこの監督は原作の空気を画面へ取り出すのがうまい人なのかもしれない。見ているうちに、これはもしかしたら、短編連作だったのかな、と思ったけど、それは読むまでの楽しみにとっておくことにしよう。【読んだ→id:ichinics:20060623:p1

物語の主人公、橘優子は、両親と友人を失ったことをきっかけに躁鬱病をわずらい、遺産で細々と「好きなことだけして」暮らしている。デジカメで写真をとって、銭湯へ行って、トマトジュースを飲んで、絵を描いて、眠る。時々人に会って、気持ちがざわざわして嘘をついたりもして。優子は人の気持ちに敏感な人のだと思う。だからこそ、何気ない言葉に傷付いたりする反面、他人をただ受け入れることができる。

物語の主軸となるのは、従兄弟である祥一との関係。彼は離婚寸前の家庭を放り出して東京へ出てきて、優子の部屋に居候するのだけど、鬱になった彼女をしんぼう強く看病する場面が、なんというか自然で良かった。この役は豊川悦司さんで、私は中学生の頃から豊川さんが大好きなのですが、かといって全作品を見るほど大好きというわけでもないんですけど、この役はかなりのはまり役だったと思います(『LOVE LETTER』や『顔』での雰囲気に近いと思う)。カラオケで尾崎豊を熱唱する姿や、女ものの寝間着から伸びる有り余る長い手足や、いんちきくさい方言や、全てがなんだかいい感じ。そして豊川さんは阿部サダヲさんに似ているなぁとしみじみ思いました。

ストーリーに関する感想は原作を読んでからにしようかなと思うのだけど、ひとつだけ気になったことは、これを見る人は優子をどう思うのだろう、ということだった。

優子が送る生活は、社会から離れた、いわば休憩のようなものだ。そしてそれは、人生として正しい、と私は思う。しかし、女性が年をとりながら、社会を離れ、一人で暮らす、ということは、わりと難しく、しかも批判されがちなような気もして、でもそれは男性もそうなのかもしれないけど、すみませんがんばれません、というときもあるわけで、なんというか、社会ってめんどくさいなぁとか、そんなことを考えたりした。

むかしむかし、あるところにうどんという名前の金魚とそばという名前の金魚がおりました。二匹はそれとなくしあわせに暮らしました。……おしまい。

という台詞が、いいなぁと思った。それとなさ。

[] 街の人

映画は新宿で見たのですが、場内に新宿の有名人であるところのタイガースのおじさんがいた。あのひとは私が新宿の予備校に通ってた頃から新宿にいるのだけど、同じ人なのかなぁ。見かけるとちょっと安心する。下北沢にもそういう人が三人ばかりいて、やっぱり見かけると安心する。

映画見た後は友人とビール。ビールおいしい。

[][] FEEL YOUNG 7月号

サプリ
佐原編スタートってことかな。そしてドラマ化決定だそうですねー。主演、藤井役は伊東美咲さんで荻原さんが瑛太さんで…すごい月9だなと思ったらほんとにフジ月9だった。見るかなぁー? でも柚木が白石美帆さんてのはあってるなと思いました。
お針子マチルド
「すてきな生活はじまる」(表紙の文)といわれても、結婚して三歳児になるということが許されるのかどうかということろで、そんなのファンタジーでしかないような気がして、この漫画を読んでるとなんだか…そんなのってあるのでしょうか。けど「やわらかい生活」と構造は共通のものがあるようにも思う。うーん。まあ、結局うらやましいのかもしれない。どうだろ。
キャンディーの色は赤
魚喃キリコさんの、前回のがエッセイだとしたら、今回が作品版になるのかなという感じの、短編。なんだかちょっと、大丈夫かなぁ、と思う。
にきび
最初は読み切り短編だと思ってたのに、いつのまにか長編な展開になっていて、しかも結構面白いです。にきびあんま関係なくなってきた気もするけど。
再婚一直線!
と題してお嫁修行漫画を連載していた安彦麻理絵さんが、今回「再婚すんだよねー」という衝撃告白。漫画だなーと思った。

[] NOと言いたい

相変わらずcapsule*1を聞いていて、特に朝の通勤時間とか、気分盛り上げたいときにはこのアルバムを重宝していたりするのですが、2曲目、アルバムタイトル曲でもある「FRUITS CLiPPER」のイントロが、ブレイクで「Are you crazy?」と尋ねられるとこから始まるのがときどき気恥ずかしい。そんで不意にこれに「いいえ!」と答えたくなってしまうときがあって、そういうときは「もり下がってる?」と聞かれたって「お前はnormalか」と聞かれたって「好き?」だって「嫌い?」だってNoといいたいんだよなぁとかまで考えた頃合いに「大嫌いっていわないで〜」という歌詞がはじまるので、頭の中を読まれているような気分になる。

*1id:ichinics:20060607:p1で感想書いたやつ

kissheekisshee 2006/06/22 03:17 絲山秋子さんの原作、先月文庫化(文春文庫)されたので、そちらは比較的手に入りやすいかと思います。

ichinicsichinics 2006/06/22 03:20 そうだったのですか! どうりで単行本の棚を見てもないはずです(笑)芥川賞とった後なのに重版してないのかなぁ、と思ってたのですよね。ありがとうございます。早速買ってきます。

touka3touka3 2007/08/26 19:14 原作は題名が違って「イッツオンリートーク」ですね。買ったまま置きっぱなしにしてたのを今日仕事中に(ヒマがあいたので)読みました。デビュー作だとは全然思えないくらい文章が上手くて超驚きました。最近の小説ってあんまり読んでないんですけれども、みんなこれくらい上手いんでしょうか?

ichinicsichinics 2007/08/27 00:50 映画もよかったんですが、原作は映画と全然印象が違っていて驚きました(http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20060623/p1)。絲山さんの小説は、どれもかなり好きです。ほんとに文章うまいですよね。今では芥川賞作家だもんなぁ。私は「袋小路の男」から読んだのですが、これもかなりよかったです。

2006-06-21

[] 目指すべき世界とはどんなものなのか

「ココヴォコ図書館:ホモ・エコノミクス」というBさんのエントリを読んでちょっと思ったことを書いてみます。以下強調と引用はすべてこのエントリからのものです。

まず、「僕のいうことは基本的にはすべて僕だけにとって妥当な見解です」という前置きの文章がとても好きで、これを私の前置きにもあてはめつつ。

Bさんのエントリは「今日本では毎日100人もの人が自殺している」という状況を鑑み、「こんなにも毎日人が自分で死ぬような社会が、どうして立ち行くのだろう? どうして否定されないのだろう?」ということを、感傷から離れて考えようとしているものだと私は読みました。少し前に、自殺問題関連のニュースを切欠に自分が書いた文を読み返してみたのですが、あれはあれで本音だけど、自分がいかに近視眼的であるのかを思い知らされたような気がします。

まず、「自殺」という行動に至る感情の考察として、この部分はとても参考になる。

「自殺」という言葉の底辺に淀む感情は、自らへの憎悪、自己存在への憎悪というよりは、自分を圧殺する外部への憎悪であって、その憎悪の表象として自殺を選ぶというのは、ある程度理に適っているように思えます。

直感的な感想ではあるけれど、確かに、そのような傾向はあるだろう、と思う。だとすると、自殺は停止/離脱であると同時に、最後の自己顕示だといえるのかもしれない。

ただ、「自殺をはじめとする多くの諸問題に対して、心理的な重みを伴った「共感」を形成」し得ないとして、なぜそれが「し得ない」かという理由に、裕福であること、余裕があること、を挙げることには違和感があります。しかし、裕福であり、余裕のある側の人間が、深刻さの渦中にいる他者に対して共感を示すとすれば、それは「自己陶酔を満たすためのポーズに過ぎ」ず、そのような、いわばおざなりの共感で問題が消費されていくことが、この社会を継続させているというのも、薄々は理解できる。矛盾しているようだけど、そもそも「共感できる」と考えること自体が誤りなのだと私は思う。たとえそれが「憎悪」に基づいていても、理由はそれぞれだ。そしてそれは他者が推し量ることのできるようなものではない。つまり、たとえその理由を明らかにし、共感することができたとしても、それは問題の解決には結びつかず、自己陶酔欲を満たすことくらいしかできない。

そしてそのような社会の中にいる人間は、多くの自殺者を眺めて、自分の存在に悩みながらも、その社会全体を否定し改革するだけの気力をもてないままに、飼いならされています。

この気力のなさ、無関心は確かに私の中にもあり、むしろ気力をもつことを諦める方へ引き寄せられそうにすらなる。しかし、そのような力のなさ、あきらめへの憧れこそが様々な「憎悪」の行き着く先であり、直接の引き金となるのではないか、とも思う。

Bさんは、「こんなにも毎日人が自分で死ぬような社会が、どうして立ち行くのだろう? どうして否定されないのだろう?」という問題に深刻さを感じつつ、結局どこか他人事にしか感じられない理由を「多くの鬱陶しい問題を抱えつつも、僕の毎日が経済的に問題が無いからです」と書かれていた。そして段落の後にこう続けている。

すなわち、経済的な条件が整って初めて、人間的なる「上部構造」であるところの知的生産が出来るということです。そのことをしたぬままに、いくら「文学だ」とか「心の豊かさだ」と言ってもはじまらない。あるいは共感だ、世界平和だと理想を唱えてみても仕方が無い。僕らは、ある面ではクレバーにならないといけない。つまり、「経済」について真剣に考えないでは、僕らは文学やら音楽やらあるいは政治すら、考える意味がないのだと。

私個人の感覚を書いておくと、私が「毎日多くの人が自ら死を選択する」という社会の状況に深刻さを感じつつ、結局それが他人事である理由は、私は絶望していないからです。そして、それをさらに突き詰めて考えてみると、私自身が属している共同体(人間関係や責任やしがらみ、といってもいいですが)があるからのような気がします。もちろん経済的にたいした問題がない、というところも重要です。しかし、それが失われたとしても、前者に執着できれば、私は後者を改善しようとするでしょう。しかしその逆はわかりません。それは私が貧困を知らないからかもしれないけれど、もし全てのしがらみから解放されたら、頼るべきところは経済の延長線上にある文化しかないだろうなとは思う。でも、果たしてそれでどのくらいもつものなのか。

私はたぶん「経済」とは何なのかがわかっていないのだと思います。だからかもしれませんが、私はここで疑問に思ったのは、日本における「自殺」の問題と「経済」の問題を結び付けることです。因果関係はあるだろうと思います。しかし、人が社会を憎悪し、その憎悪の表象として自殺が選択されるとき、引き金となるのはむしろその選択をとめるものがないということなのではないでしょうか。それは例えば「可能性」のようなものでもいいのだけど。

もう少し個人的な、無責任な想像を書いてみます。例えば大多数が等しく貧しいような社会に生まれた場合、生きることの第一目的は「生き延びること」であったりするのではないでしょうか。そして、まあまあ満ち足りた社会に生まれた場合、生き延びる権利が容易く保証されているかのように見える社会に属している場合、人は「生きる目的」などというものを手に入れようとするのではないでしょうか。そしてむしろ、その目的の満たされなさや、社会への不満(例えば格差への憎悪)が、知的生産と呼ばれるものを産むのではないでしょうか。知的生産という言葉は私のボキャブラリーにはないので、ここで私が想定しているのはカウンターカルチャーのようなものです。60年代のそれというよりは、例えば、労働者階級の音楽であったパンクが支持されることで、バンド自身がが階級をのぼってしまい、その動機を失うというジレンマのことを考えたのだけど、かといってそれは維持されるべき動機なのかどうか。どこに視点を置いて考えるかによってまったく異なるだろう。

ただ、そこまで考えてみると、全ての人が等しく満ち足りた社会などというものが不可能な案件であるのと同時に、それを目指す中で様々な解釈として生まれてきたものを私が受け取ってきたということがだんだんわかってくる。

そして、ある程度の満ち足りた生活を送っているものが、ある日それを続けられなくなるという状況に陥ったとして、手をのばしつかむことの出来る場所のなさが引き金となることは容易に想定できる。私はその「場所」に共同体や文化のようなものを見ていますが、それは極めて個人的な問題なので、社会問題として扱ってどうこうできる問題ではないとも思います。

そこで個人としてではなく、社会として出来ることといえばシステムの改善しかなく、それが考えられるべき「経済」なんじゃないか。社会が見るべきは引き金ではなく、状況の方なのではないか。Bさんのエントリはそういうことを言いたいのではないか、と思った。

「ユートピアは存在しなくとも、目指すべき世界であることに間違いはない」とユリカンも言っていたけれど*1、それを目指すことが可能性にはならないだろうか、なんてちょっとこれも他人事できれいごとのようだけど、思った。

だから私はBさんのこの文章に希望にも似たものを見るのだと思います。

僕らは弱い人間であることを自覚すべきです。そして、「どうしたって人を助けたり、自分よりもしんどい人間に共感したりは、究極的に不可能なのだ」ということを自覚する。その上で、僕らに出来うることは、場当たり的な感傷をとりあえず横において、クレバーになることではないでしょうか。アジ演説に亡国論、不安をあおるだけの終末論からは身を離すべきです。それらは深刻に考えているように見せかけて、実は単なる自己主張であり、党派主義や選民思想の変形でしかありません。僕らはそのような言説から身を引き離して、この国や世界を成り立たせているシステムである「経済」なかんずく、「資本主義」とは一体何なのかについて、各人で出来る限り理解を深めることが必要なのではないでしょうか。

もしかしたら、憎悪もまた、その先の新しい秩序さえ期待できるなら「つかむべき場所」として誰かの力にはなるのかもしれない、と思う。

正直、私にとって世界は広すぎて、社会と自分のことを考えるといつも混乱する。いつだって欲しいのは、もうちょっと先まで行きたいと思える何かで、それが安定供給されればいいなと、思う。しかし供給されないことで、社会を憎悪できるかというとその自信もない。私には怒りが足りない。ないわけじゃないんだけど、そこへエネルギーを使うことを諦めてしまっている。でも、それは私個人の世界でのことであって、それもまた今ある社会に支えられてるということには、何か矛盾したものを感じる。よくわからない。もっと考えたい。

とにかく思うのは、かしこくなりたいなぁ、ということだ。

[][] CLOSER/JOY DIVISION

上の文を書いていて改めて聴いてみようと思った。それだけで直接には関係してないのだけど。

Closer

Closer

1977年にワルシャワデヴィッド・ボウイのアルバム「ロウ」からの引用らしい)として結成され、同年「ジョイ・ディヴィジョン」とバンド名を改める。70年代のパンク・ムーヴメントから生まれたバンドであり「ポスト・パンク」という名でカテゴライズされることが多いけれど、私はパンク周辺には非常に疎い。なにしろほとんどが生まれる前のことだということに驚かされるのだけど、でももうちょっと知りたいなと思っている歴史だ。

ともかく、その発端にあるマルコム・マクラレンやピストルズに「労働者階級の社会への批判、反発」という衝動があるとして、ポスト・パンクと呼ばれるJOY DIVISIONにあるのはもう少し内省的な衝動であるといって差し支えないだろうと思う。そしてアティチュードとしての要素が強かったパンクという現象が醒めた目線で見られるようになった70年代の後半、79年にファースト・アルバムを発売したJOY DIVISIONの登場には、音楽的な革新性に基づくドラマがあったのだろう。残念ながらリアルタイムでそれを体験していない私にとって、それは文献と想像でしか知ることのできない状況なのだけど、改めてこのアルバムを聴いていると、イアンを失った後のNEW ORDERは、確実にジョイ・ディヴィジョンの延長線上にあったのだと思う。

この「CLOSER」は、制作された直後にヴォーカリストであるイアン・カーティスが自殺したという、そのことを交えて語られる運命からは逃れられないアルバムなのかもしれない。でもこれは、なんて格好のいい音楽なんだろう。特に「Means To An End」から「Heart And Soul」の流れにはぐっとくるし、踊れる、と思う。

しかし、ラスト2曲ではがらっと雰囲気が変わり、特に少しづつ降りていくようなイメージが恐ろしい「THE ETERNAL」の風景に、私は「私は、ただ、もう対処することができない」というイアンの言葉を思い出してしまったりする。

子供のように泣く この数年でぼくはすっかり年をとったのに

子供たちと共に ぼくは時間を無駄にすごしている

背負わなければならない重荷 しかし心の教養が

その不幸な取引を 呪詛のように 受け入れる

[THE ETERNAL]

映画『Control』はその後どうなってるんだろうな。キャスト決定のニュース*2以来音沙汰がないけど、そろそろなんじゃないかなぁ。

[][] 夏のアルバム

監督/演出:佐々木昭一郎

フィンランドの短い夏を舞台に、日本人の少年がある少女と出会い過ごす日々を描いた作品。少女キルシーに聞こえる氷が砕ける音が、彼女の恋や夏の風景の背後に流れる。瑞々しい作品だった。

アキラの自転車での旅の場面も、フィンランドの人々との会話によってテンポ良く描かれていて、楽しい。アキ・カウリスマキ作品のおかげなのか、フィンランド語の語感はとても耳に馴染んでいて、聴いていてなんとなく意味が分かるような気がするから不思議だ。

2006-06-20

[][] 凪渡り及びその他の短編/高浜寛

凪渡り ― 及びその他の短篇 (九竜コミックス)

凪渡り ― 及びその他の短篇 (九竜コミックス)

様々な男女の交わる風景を描いた短編集。それぞれは独立した物語で温度差もあるのに、長い物語を味わったような読後感がある理由はきっと、書き下ろしで収録されている冒頭の「introduction」にあると思う。

欲望と、エゴと、乾いた無関心と、執着とが描き出すその物語はまるで蜘蛛の巣のように繊細だ。そしてどことなく、初期の(といってしまっていいものか)吉田修一の中編小説を思い出します。

特に気に入ったのがアパートの壁越しにやりとりをする「Hygro-45」と、その関係が最後まで明かされずに描かれる「水いらず」。「水いらず」はすべてのやりとりが素晴らしく、とても切なくて喉が詰まるような気持ちで読み終えた。

メモ

HPはいつの間にかなくなってる?

高浜寛さんのブログ → http://takahamak.exblog.jp/

[] その言葉のチカラってのはどんなものなのか

「言葉に救われた。 言葉に背中を押された。言葉に涙を流した。言葉は人を動かす。私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言朝日新聞

今回のCMは、前回と同じく「言葉のチカラ」をテーマにしていますが、「言葉には人を救ったり、勇気を与えたりするポジティブな力もある。だから、朝日新聞は言葉の力を信じている」と、朝日新聞社の決意を再び伝えます。

前回が感情的で残酷でときに無力なネガティブさだったので、今回はポジティブをということでしょうか。ううーん、なんだかちょっと言い訳めいているような。

「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも、私たちは信じている、言葉のチカラを」

これが前回。前もいろいろ書いたけど(id:ichinics:20060201:p3)結局、感情的であることからは逃れられないみたいだ。

確かに言葉によって人が救われたり動かされたり背中を押されたり涙を流したりすることはあるだろうし、それはときに残酷で無力かもしれない。しかしそれは言葉のもつ力というよりは、むしろ発する人間の感情の力ではないのだろうか。言葉が単体で力を持つ時、というのは、それはもう感情というより、装置というかフィクションの域にあるような気がする。

そしてそのような「言葉のチカラ」というのは、ジャーナリストに求められていることなのかな? 違うような気がする。

考えようと思ったけど、まとまらない。

とりあえず私は、朝日新聞がどうこうというより、この一連の広告が好きじゃないみたいだ。

[][] ビッグコミックスピリッツ 2006/29号

今週はあまり動きなし、かな。

cherry
連載再開。うーん。
電波の城
天宮のFM時代の過去が明かされていく。おもしろくなってきた。
バンビ〜ノ!
まず客を知れの巻。アモーレですね。
テレキネシス
パットン大戦車軍団。
ハクバノ王子サマ
繋いだ手の描写に葛藤が現れてる感じが良いです。
中退アフロ田中
飯ごうで炊いた御飯うまい。

2006-06-19

[] サッカー

「昨日はおしかったよねー」とか突然言われて「え?」と思ってもこの時期はだいたいサッカーの話なので注意しなきゃと思った。サッカーは好きなのでワールドカップもわりと見てるけど、特に思い入れはなく、日本戦もいちおう見た程度。でも今日の面白かった。とかいうとおこられたりすることもあるのでこれも注意。クロアチアの最初の交代で出てきた選手(たぶんオリッチさん)が最近どこかで見た飲んだくれキアヌに似てると思った*1。好きなチームはイタリアです。そういや前の前のワールドカップの頃は友達の家でウイイレをやりまくっていて、未だにサッカー見る時の脳内はウイイレだったりするんだけど、そのときも選手の名前とか知らないとおこられたりしたことだなぁというのを懐かしく思い出した。

[][] のはらのはらの/雁須磨子

いつも楽しみにしてるラシさんの日記で紹介されてたので(コチラ)、読もうと思った漫画。ありがとうございます。読んでよかった。

のはらのはらの (ミリオンコミックス)

のはらのはらの (ミリオンコミックス)

読んでいる間、ずーっとどきどきしていて、それは西戸崎に感情移入しているんだか、彼を応援しているんだかよくわからない気持ちだったのだけど、ただ確かなのは、そうだ、恋ってこんな感じ、っていうことだった。

好きなひとの一言一言を反芻して、どきどきして、うれしくなって、でもうれしくなってもいけないと反省したりして。それは関係が男同士じゃなくったって、おんなじで、これはきっと葛藤をわかりやすく見せる装置のひとつなのかもしれない。

全速力で逃げたいと思いながら、でもほんとはなりふりかまわず好きっていいたいし、いわせたくて頭がぐるぐるする。こわくて、自分は頭がおかしいんじゃないかとか結論のでないことを考えて、でもちょっとだけ、触れてみたいと思ったりしてさ。

大事に読みながら、またすぐに読み返して、糸島が西戸崎をじっと見るたびに、頭の中はおおさわぎだった。私の頭はおかしいのだろうか…。

雁須磨子さんの漫画を読むのは、はじめてだったんだけど、大好きなかわかみじゅんこ(西目丸)さんと関連が…というのはどこかで読んだことがあって、検索してみたら、なんとかつて一緒にサークルをやっておられたということです(こちらで知りました → http://fortomorrow.jugem.jp/?eid=69)。うわよみたいー。

トーンの使い方とか、髪の毛の書き方とかが、似ていると思う。お話の感じも、ちかいとこはあるけど、雰囲気が違うんだよな。ミントといちごミルクみたいな。でも、うん、どっちもすきだ。

[] blemish/David Sylvian

JAPANはほとんど聞いたことがないのだけど、そのヴォーカリストであったデヴィッド・シルヴィアンの声が、私はとても好きです。雨の日のビロードみたいな声。その声をじっくりと聴きたいときに、一番いいのがこのアルバムだと思う。

ブレミッシュ

ブレミッシュ

デヴィッド・シルヴィアンはJAPAN解散後も活発に活動しているアーティストであり、最近(でもないけど)では、アニメ版「MONSTER」のエンディングテーマを歌ってたりもしました。試行錯誤と実験を繰り返すかのようなその音楽活動は、衝動というよりは冷静な判断によって選択を続けているという印象はあるものの、カテゴライズするのは難しい。たとえば坂本龍一アート・リンゼイブライアン・イーノらとの関わりから彼の傾向を見ることもできるだろうけど、まあ、カテゴリーなんてのは店でCDを陳列する際にのみ考えれば良いことだ。

とにかくデヴィッド・シルヴィアンの武器はなんといってもその声にある。どんなトラックにのせようとも、その声があるだけで、包括される世界がある。

「blemish」での極めてミニマルな楽曲は、アルバム単位で聴くと、色合いの変化に乏しいようにも思うけど、例えばi-podをランダムで聴いているときに、不意にこのアルバムからの楽曲がながれると、どきっとするあの感じ。無機と有機、モノクロとカラーのような相反する情景の鮮烈さとでも言えばいいんだろうか。

同系色でまとめられたアルバムを聴きたい時は、一つ前の「Dead Bees On A Cake」を。

ちなみに、このアルバムには、昨年亡くなったギタリスト、デレク・ベイリーとのセッションがいくつか収録されています。そのうちの一曲#7から#8への流れがこのアルバムの白眉であるように思う。

cdefgcdefg 2006/06/19 17:41 こんにちは。のはらのはらのは、今まで読んだ中で最も好きな雁須磨子さんの作品でした。
といっても、私は裕福でないので、雁作品、まだ全部は読んでいません(ぼちぼち…)。
ichicoさんとは反対に、かわかみさんの本を読んだことがないので、そのうちぜったい読もうと思います。
オノさんもさいきん気になる作家さんです。すごくしゃれた作品を描かれますね

ichinicsichinics 2006/06/20 00:36 こんばんは。ラシさんの日記、いつも大事に読んでます。「のはらのはらの」おかげで読むことができて、とても好きな作品になりました。ありがとうございます。ほかの作品も、きっと読んでみようと思います。
かわかみさんの漫画もすてきなので、ぜひいつか。ちなみに私は「銀河ガールパンダボーイ」がとくに好きな作品です。オノさんの作品もつい先日やっと読んだのですけど、なかなか本屋さんになくって、でもこれからの楽しみがあってうれしいようなきもしてます。

2006-06-18

[][] 「ヘブン…」/鈴木志保

「世界の果てのゴミ捨て場」に住んでいる女の子と、ゴミ捨て場に新しくやってくる様々なものたちの物語。

世界の果てのゴミ捨て場での日々は、静かで、ひんやりとして、でも日だまりのようでもある。その安心は、自らに価値を見いださないことへの赦しなのかもしれない。

ああ、いいなあ紙キレ

とるにたらない

燃やしたら消えちゃう

あたしたち

たかがそんなものなのね…

傷つけるものなんてなにもない、私だけの世界。行進し続ける将軍とカモミールのように、その世界は円環を描き、いつまでも終わらないように思える。

でも、それが終わる瞬間は、ただ目を開くことだったり、する。でもそれはぜんぜんさみしことじゃなくって、と思えるバイバイの笑顔が、よかった。そして、誰かの記憶の墓場としてあった「天国」のようなその場所は、通り抜けた後も、自分の一部としてあるのかもしれない、なんて考えた。

ヘブン…

ヘブン…

しかし鈴木志保さんが月刊プリンセスで連載しているなんて、全然知らなかった。偶然書店で見つけたんだけど、『船を建てる』の人だって最初わかんなかった*1。久しぶりに純度の高い「少女漫画」を読んだような気がして、その感覚は少しくすぐったい。少女から遠くなってしまった私には、もうその世界を外側からしか見ることができないのかもなと思うし、そこに引き寄せられそうになることは、少しこわかったりもする。でも、鈴木志保さんの描く世界は、やっぱり、やさしい。読んでいると、時々泣きそうになったりもするのだけど、そんなのを笑うような自意識も、どうでもよくなるような開放感がある。この人の描く言葉、構図は独特で、漫画というよりは絵のついた詩のようだ。

「ヘブン…」を読み終えて最初に思い出したのがカポーティの『遠い声 遠い部屋』だった。少年も、少女も、中に詰まっている成分が違うだけなんじゃないかなぁ、とか。

キラキラと銀色に輝きながら、その女は彼に向かって手招きをした、彼は行かねばならないことを知っていた――恐れず、ためらわず、彼はただ庭の端でちょっと立ち止まっただけだった。彼はふとそこで、何か置き忘れてきたように足をとめ、茜色の消えた垂れ下がりつつある青さを、後にのこしてきた少年の姿を、もう一度振り返って見るのだった。

『遠い声 遠い部屋』

[][] もやしもん1〜3巻/石川雅之

もやしもん」、人気だよねぇ、と思いつつ、石川雅之さんの漫画は『週刊石川雅之』しか読んだことなくって、そのせいで良くも悪くも「つかみ所がない」イメージがあったのでなかなか手に取らないでいた。読めば面白いんだろうなと思いつつ、内容が想像できないと手に取るのも先送りになる、のか。どうだか。

もやしもん(1) (イブニングKC)

もやしもん(1) (イブニングKC)

で、ちょっと前にようやく1〜3巻をまとめ読みしました。

肉眼で菌が見えてしまうもやし農家の息子、沢木が主人公。農大へ入学するところからはじまって、まあまったりと日々が流れていくわけですけど、読んだ後はちょっと世界が違って見えるすごい漫画です。違って見える、とはつまり、菌が見えるような気分になるってことなんですが(影響されやすいタイプです)、「こういうとこには菌がいるんだね」とか、スーパーなどで買い物をしていても「かもされだ」なんて。自然と考えてしまってる。前からそういう意識はあったのだろうけど、あのかわいい菌達のおかげで嫌悪感が減った気がする。地球すごいと思います。これの影響で農大受験者が増えたりとかしそうだなぁ。

少し前、知人が「もやしもんの三巻を読み終えるのに2時間半かかった」と言っていて、そのときは「ながーい」と思ったのですが、たしかに「もやしもん」を読むのには時間がかかった。私も通算したら1冊2時間くらいかけてたかもしれない。もったいないので大事に読もうと思うし、1ページ内の情報密度が濃い。登場人物紹介も毎回違うし、おかげでだんだんと菌の名前も覚えられちゃったりします。

もやしもん(3) (イブニングKC)

もやしもん(3) (イブニングKC)

三巻ででてきた「世界一臭いスウェーデンのニシンの缶詰」シュールストレミングというのをちょっと食べてみたいと思った。でも世界一臭いってどれ系の匂いなんだろうなぁ。ドリアンは無理なんだけど、くさやはいけるから大丈夫かなぁ。ともあれ発酵食品は大好きです。(でもウジ入りチーズはないわと思った)

あともやしもん読んでると、日本酒飲みたくなるので、ここんとこ飲み屋では日本酒ばかり注文しています。ダメだったはずなんだけど、イメージの力ってすごいね。こちら(http://www.kinosake.jp/kamosuzo.html)では今年も「純米吟醸生酒かもすぞ」が発売されるそうです。のみたいー。

[][] 恋愛は面倒

「『恋』は瞬発力。相手の愛情、時間、興味、肉体、その他あらゆるものを自分に向けたい、手に入れたいというパワフルな欲望。『愛』は持続力。相手に何かしてあげたい、優しくしたい、助けたい、守りたいというパワフルな感傷。相反するがごとき互いの『恋愛』を、力の限り当事者同士ぶつけ合って、くれぐれも他人に迷惑をかけないように致しましょう」

『恋愛的瞬間』第五巻

『恋愛的瞬間』を初めて読んだのはたぶん大学生の頃。吉野朔実さんは大好きな漫画家さんなのだけど、最終巻のカバーそでにあったこの文を読んだ時、ぼんやりとした違和感があった。ちょっと前にそれを思い出して、久々に取り出してみてみたのだけど、うん、やっぱり違和感はある。そしてそれはたぶん、最後の一文「力の限り当事者同士ぶつけ合って」というとこにあるんだと思う。私はたぶん、それが面倒なんだろうな。

恋と愛という感情と恋愛はまた別物だよなと思うし、その定義については、この文に書いてあることと私の思うそれはほぼ同じように思う。ただ、上の文で二度も「パワフル」という言葉が使われているように、それはかなりの力がいることだ。そして、一度始まった恋愛がうまくいかなくなるのは、その力の均衡がとれなくなるからなんじゃないか、と思う。ただし、それはつり合っていなければいけないということじゃなくて、お互いにとって心地よいバランスを探りあって保てるかどうか、ということのような気がするけど。

そして私の「違和感」は、「当事者同士」というとこから、相手がいなければそれは恋でも愛でもないのかな、と疑問をもったからなんだけど、そこはたぶん誤解だった。

ここに「当事者」という言葉があるのは、対象のない恋や愛はないからなのだと思う。だから例えば、友人や家族や人以外のものに対しても、恋や愛(引用文の定義で)はあるし、それは受け取るだけでも、発するだけでも、交換していても恋であり愛だ。

ただ、「恋愛」の場合は、それを関係として成立させるために、力の均衡が必要になる。こっちの出力が100でも相手が0だったら成り立たないとか、そういうことなんだと思う。何をいまさら、だけど、自分一人で成り立たないものを抱えるって、こわい。

もう私に同情しないで

私をかわいそうに思わないで

私は それを 私が愛している人にだけ許したい

『恋愛的瞬間』第20話

そしてその力の均衡とは「許す/許される」ということからはじまるのかもしれない。

私は、人に干渉されたり干渉したりするのがあまり得意ではないので、自分の欲求や干渉を相手にぶつけるということにためらいを感じるのだけど、でもどうしてもそれをしたい、と思う相手がいることもある。まあ一回それが許されてしまうとずるずると要求してしまうようになる、ということもあったけど、でもやっぱりどこかで歯止めがかかって「力の限りぶつける」なんてことは難しい。そしてその状態で力の均衡を保つなんてことはさらに難しい。

その関係性に巻き込まれたい、という欲求もあるといえばあるけれど、私にとっては、そのハードルを越えてもまだそれ(恋愛)をしたいと思う相手がいることの方が珍しく、さらにその相手がそれを許してくれるなんてことはさらに珍しいだろう。

そう考えているからこそ、私は誰かを恋愛対象として好きになることがあんまりないんだろうなぁと思っていたんだけど、でも違うのかもしれない。それはやっぱり勝手に現れる感情であって、目の前にあるからこそ、面倒なのはわかっていてもためしてみたくなるのかもしれない。

恋愛的瞬間 (5) (マーガレットコミックス)

恋愛的瞬間 (5) (マーガレットコミックス)

*1:まあそれは久しぶりだったのと、主人公がアシカじゃないからだと思うけど…

2006-06-17

[][] すべての物語はあなたのためにある

人力検索はてなで気になってた質問。

小説が好きな方、嫌いな方。

私は基本的に小説というものを読みません。

理由は(1)表現が回りくどい。(2)ある程度読んでつまらないと思った作品だと、それまでの時間が無駄に感じる(3)立ち読みして面白そうなのか全く判断がつかず、買う(借りる)機会がないからです。

例外として、歴史小説・自叙伝・ノンフィクションといった事実に基づくもの(知的好奇心を充たしてくれる)、シドニーシェルダン(表現が簡単、すぐ読める、単純に面白い)は大好きです。

小説が好きな方、嫌いな方はこんな私をどう思いますか?(好きな方は上記(1)〜(3)の理由についてどう思われますか?)

又、小説を読むことでパーソナリティーに与えるものって何だと思われますか?(例えば感情表現が豊になる等)

最後に、「この一冊はお薦め」というのがあれば、是非、ご紹介願います。愚問ですいませんが。

http://q.hatena.ne.jp/1149898573

なぜか回答が開けないので(私のブラウザの問題だと思うけど)他の方の回答はトラックバックだけしか見ていないのですが、ちょっと私も答えてみたい。

まず、一番の疑問は、映画や漫画は好きなのかなぁ、ということです。フィクションが嫌いなのか、小説という表現手法が嫌いなのかによってかなり違うと思うけど、ここではたぶん後者だと推測します。そして、この質問者の方の文を読む限り、文章を読むことが嫌いという訳ではないんだろうなと思います。そして、歴史小説、自叙伝、ノンフィクションは好んで読む、という部分から、役に立つ/立ちそう、なものが好きなのだろうなと推測します。この場合の「役に立つ」は自分の知識が増えるとか、そういうことかな。で、それがなぜ小説ではだめなのか、というと、それが「事実に基づいてないので情報として信用に足らない」印象を持っているということでしょうか。それでもシドニー・シェルダンは読まれるということなので(私は読んだことないのですが、エンタテインメントですよね?)たぶん「とっつきやすくて」「面白い」と感じられれば満足を得られるのだろうと思います。

――と、以上の推測を前提に考えてみます。あくまで推測なので、質問者の方の意図とは異なるかもしれませんが。

表現が回りくどい。

小説というのは事実を書いたものでなくても、その本の著者にとっては、ドキュメントであり得るものだろうと考えています。ドキュメンタリーにしろ、物語にしろ、そこには真実が含まれているはずだ、と私は思います。そして小説の場合、それは例えば物語の中で説明しなければあらわせない感情だったりする。

例えば「私は大切にしていたAを無くして悲しい」と書くことと「Aを無くしたことで、私は自分の一部が失われたような気がした」と書くことと「Aが無くなってはじめて、私はそれが自分にとってどんな存在だったのかを知った」と書くことと。どれがいい、とかそういうことではなくて、その時の気持ちに一番しっくりくる(と考えて作者が選んだ)表現がそこには選ばれているはずだ。

私は基本的に、小説というのは読者のためにあるものだと思っています。物語を受け取るときに、そこに書かれた感情は読み手のものになりうる。回りくどい、と感じる表現のものもあるだろうけれど、その回り道にこそ意味を見いだせる物語もあるはず。その基準はそれこそ人それぞれですけど、そういった作品に巡り会うことが、その後の読書というものに対する意識を変える部分はあるんじゃないかと思う。

ある程度読んでつまらないと思った作品だと、それまでの時間が無駄に感じる

確かに、私も十代の頃は、読む速度が遅かったせいか、そう感じることが多かったように思う。特に読書感想文とか、自分の意志でよんでいるわけじゃない本については。

でもそれは、核心を語るための地盤づくりだったりすることが多いですし、そもそも物語というのは、多少の例外を除いて、最後まで読んでみなければその全貌は量れないと思います。でも損した気分になるのが嫌だなぁと思う場合は、やはりある程度好みにあった作品を手に取る必要があるのかな。食べたいのは肉なのか野菜なのか魚介類なのか、とかそういう感じに。なので、

立ち読みして面白そうなのか全く判断がつかず、買う(借りる)機会がないからです

これも、ある程度自分の好みを知ってくれている人にお薦めしてもらうのがいいんじゃないかなと思います。まあもちろん無理して小説を読む必要はないのですけど、例えば趣味が合いそうだ、と思う人のブログでお薦めされてるものを買ってみる、とか、尊敬する人の愛読書を読んでみる、とか。ある程度内容に期待できるものなら、途中までつまらなく感じられても、「期待値」に後押しされて読みおえることができるのではないでしょうか。

又、小説を読むことでパーソナリティーに与えるものって何だと思われますか?(例えば感情表現が豊になる等)

もしかしたら、この質問をされた方は、小説の価値を「パーソナリティに影響を与えること」に見ているのかもしれません。もちろん影響を受ける部分はあると思いますが、それは物語によって様々でしょう。でももしかしたら、そのように「何かを受け取ろう」として読むことこそが、物語から意識を遠ざけてしまうのかもしれません。

音楽を聞いたり、絵を見たり、映画を見たり、旅行をしたり、そういったことと同じように、物語はまず「ただその中に入る」ものだと思います。そして親密な読書というのは、例えば自分の思考回路というものに行き詰まったときに、違う角度から光を当ててくれるものだったりする。

小説の役立て方

でも小説を読むことが「役立つ」なぁ、と思う瞬間もある。まず、言葉を覚えるということ。自分のボキャブラリーを増やすだけでなく、他人がそれを使うとき、それがどんな意味/ニュアンスなのかを推し量る材料としてストックできる。また、様々な状況における人間の心理のシミュレーションとしてとらえるということ。共感できなければ自分だったらこうする、などの思考シミュレーションとしても「使用」できるんじゃないでしょうか? また、そういう意味ではノンフィクションや自叙伝のほうが「事実」である分、嘘を含んでいる可能性はおおきい、のかもしれません。(ん?)

最後に、「この一冊はお薦め」というのがあれば、是非、ご紹介願います。

最初の推測を参考に考えると、読みやすいミステリーがいいのかな。だとすると定番ながらアガサ・クリスティの作品などは、最後まで読めば、読むという労力に見合ったカタルシスを提供してくれる作品が多いと思う。敢えて一冊挙げるなら「そして誰もいなくなった」。*1

また歴史小説やノンフィクションのラインでも、小説寄りのものはたくさんあるので、その辺から手を付けるのも良いかもしれません。ぱっと思い付くのは、カポーティ「冷血」や、梁石日血と骨」、遠藤周作「沈黙」などかな。

物語が好き

私は小説が好きです。でも全ての人にとって、なければ生きていけない、というものではないだろうし(でも物語は必要だ、と思います)だから読まない、という人がいるのもわかる。ここに書いたことも、小説を好まない人から見れば「表現が回りくどい」のかもしれないけど、

例えば、物語というのは、話しかけてくる存在のようなものだと思う。本を開いたとき、その本は私だけのために語りはじめる。それを最後まで聞くのも、聞き流すのも、つまらないと思うのも、自分次第だ。ただ、世界中に眠っているはたくさんの物語は、すべてそれを読む人のためにある。その中にはきっと、私に/あなたに開かれるのを待っているものだって、あるんじゃないかなと思う。

[] KKP「TAKE OFF〜ライト三兄弟〜」@本多劇場

作/演出/出演:小林賢太郎ラーメンズ

出演:オレンヂ(フラミンゴ)/久ヶ沢徹

二回目行ってきました。(前回 → id:ichinics:20060604:p1)。あらすじを知っているにも関わらず、やっぱり面白い。ストーリーはシンプルすぎるほどにシンプルで、伏線もあってないようなものなのだけど、三人のやりとりだけで、これほど面白く見せられるというのがすごいなぁと思う。GBLの時も思ったけど、小林さんは久ヶ沢さんといるととてもリラックスして見えて、なんというか、等身大な感じだ。ラーメンズの公演では、役者でありプロデューサーであるという構図が見えかくれするのだけど、この「TAKE OFF」では一人の役者として舞台上にいるのを感じる。

自分が小林賢太郎というクリエイターに求めているのは、やはりラーメンズの本公演で見えるあの切れ味の鋭さなのだと思うけど、この公演はまた別腹という感触で、今回もとても楽しい時間を過ごせた。

カーテンコールでのあのスタンディング拍手はやっぱりいいな。自分を含めた観客席の楽しい気持ちは、ちゃんと舞台の上にも届いてるんだなぁと思う瞬間だった。

[] 楽しい食事

仕事の後に、二回目の「TAKE OFF」を見に下北へ行く。

舞台の後、何か食べようということになって、居酒屋へ。下北で働いてたときよく行ったお店なのだけど、真ん中にキッチンがあって、二人連れだとだいたいキッチン前のカウンターに通される。そして、席の前に立つ料理人さんがいろいろと世話をしてくれるのだけど、それがやたらと感じが良いお店なのだった。

飲み物の追加を聞いてくれるタイミングとかも絶妙だし、ご飯もおいしい。特に好きなのがクリームチーズ豆腐にはちみつかけてパンにのせて食べるやつなんだけど、パンがなくなったところでサッとクラッカーとか出してくれたのには感動した。おいしいというとうれしそうに笑ってくれる。オーダーしたものが遅れてると、合間のつまみをサービスしてくれたりもして、それがまたおいしい。

舞台の感想などを話しながら、ビール飲んでお腹いっぱいで、店員さんたちはみんな楽しそうに働いていて、やっぱいい店だなぁと思った。同じ店が吉祥寺にもあるんだけど、あっちではカウンターに座ったことない。

帰りには何故かヤクルトまでもらって、飲みながら帰宅。うれしかった。

*1:次点は「アクロイド殺し」だけど、これは人を選ぶかもしれない

2006-06-16

[][] 春・音の光 〜川(リバー)スロバキア編〜

監督/演出:佐々木昭一郎

イタリア編、スペイン編とづづいた「川(リバー)」シリーズの3作目で、先日見た「四季・ユートピアノ」の延長線上にある物語。中尾幸世さん演じるピアノ調律師のA子がスロバキアの人々とのふれあいを通して音を見つけていきます。「音の日記」として綴られる台詞が、きらきらしてる。

「四季・ユートピアノ」と同じく、ここでも具体的な「物語」が描かれるわけではない。ほとんどの役柄は現地の人(たぶん役者ではない)によって演じられるのだけど、中尾幸世さんを含むスタッフと彼等との関わりがそこにちゃんとあるのだということが、伝わってくるように思う。フィクションであり、ドキュメントであるということの面白さが持つ力というのは、横で見ていた母親が最初は「ねえ、これ何? どういうことなの?」とうるさく言っていたのに、しまいにはにこやかに「音楽っていいわねぇー」とためいきをついていたことなんかにも表れると思う。物語にとって、それがほんとか嘘かなんてことはどうでもいい。ほんとを見るか、嘘を見るか、そのどちらかでいいのだと思う。

このドラマに流れる空気は懐かしく、ついつい顔がほころんでしまう。いつのまにか音に耳をすましている。音は人と人とをつなぐ。例えば歌として、踊りとして、記憶として。そんなことを考えながら見た。特に最初の方にあった、ピアノの連弾の場面が好きだ。音が重なる感じにぐっときて、久しぶりにピアノに触りたくなった。もう弾けないだろうけど。

ところで、この作品ではチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」が印象的な使われ方をしている。CMのイメージがこびりついていて好きじゃなかったのに、やっとこの曲はこんなに素直な、美しい曲だったんだなぁと思えた。

[] 絶望先生4巻

さよなら絶望先生(4) (講談社コミックス)

さよなら絶望先生(4) (講談社コミックス)

ででた。

毎回カバーを外して小森さんにしかられるのが楽しみだ。

恵方巻の回で木津さんが千里眼で「自分の背中が見えました」と言う場面があったのだけど、そういえば今日見てた「春・音の光」にも「線路をまっすぐ行くとどこにいくの?」「うーん、自分の背中が見えるよ」と言う場面があって、それ見ながら弟が「第二宇宙速度で地球から飛び出しちゃうよ」と言っていて、この子は…と思ったりした。

[][] 図書館の水脈/竹内真

図書館の水脈 (ダ・ヴィンチ・ブックス)

図書館の水脈 (ダ・ヴィンチ・ブックス)

村上春樹好きならぜひ」と、友人におすすめされて読んだ。「トリビュート村上春樹」シリーズの中の一作。竹内真さんの作品を読むのはこれがはじめてです。

同シリーズで出版された古川日出男さんの「二〇〇二年のスロウ・ボート」*1の時にはあまりトリビュートであることを意識しないで読んだのだけど、この作品は、その企画を聞いたときに思い浮かべるイメージに近い感触の物語だった。

村上春樹海辺のカフカ』に導かれて旅にでた主人公たちは、旅先の四国で思わぬ偶然に巡りあう。本が人生を変える……。すべての本への感謝を込めて書かれた、本好きのための物語。(帯より)

物語は、作者の分身と思われる小説家の一人称で語られる場面と、ワタルとナズナというカップルのやりとりが三人称で語られる場面とが交互に描かれることで進んでいく。その二つの視点は、やがて重なるのだけれど、そこに至るまでの道のりが、私にはどうも説明的に過ぎるように感じられてしまった。まるで、実際にそのとおりであったことを、説明されているような気持ちになる。

例えば、この物語には、様々な本が登場するのだけど、それらの本を登場させる必然性は正直あまり感じられない。その本の説明はされるのだけど、登場人物たちがそれを読み、何を考えたのかがあまり伝わってこない。ワタルとナズナの章はともかく、一人称である小説家のパートにそのような部分が多いように感じられて、特に重要な鍵となるはずの物語、小説家である主人公が「作家になるきっかけとなる本だった」と語るそれについても、その内容は解説されても、主人公がそれを読んでどう感じたのかがよくわからない。

『オアシス』という本もまたキーワードになるのだけど(竹内真さんの作品にも同じタイトルのものがあるので、それ、なのだろう)、その作品を「作家となるきっかけとなる本」を書いた人に読ませるという場面でも、それがどのようにして書かれた話なのかは語られず、相手がそれをどう読んだのかもよくわからないままだ。たぶん、この小説家に、作者本人が重ねられていなかったなら、そこでそれは語られたのだろうと思うし、もっといえば、ここで手渡される物語は、たまたま図書館にあったそれだとしても、「作家になるきっかけとなる本」へ向けて書かれたものであった方が物語としては山場になっただろうと思うのに、そうしなかったのは「現実」に引っ張られているからなのではないか、と思った。考え過ぎかな。

物語の中に小説がモチーフとして使われるのであれば、欲しいのはあらすじではなくて、それを読んだ人がどのように感じたか、という部分だと思うんだけどな。と、そのあたりに物足りなさを感じる作品でした。

読み終えた後で思ったのは、村上春樹が好きな初対面の人と、ひとしきり話をしたような気分だな、ということだった。好きだ、ということは伝わってくるし、そのつながりの不思議さ、かけがえのなさにも触れられるようには思う。そしてたぶんそれを地下水脈にたとえているのだろうなとも思う。でもそれなら、そこを目指して走る物語が読みたかった。

そして純粋にトリビュートとして描かれるのであれば、徳富蘆花村上春樹についてほぼ同じ分量を割かれているように思われるのも不思議だし、井戸のくだりでノルウェイについては挙げられていないとこや、図書館に泊まる、ということが「海辺のカフカ」とつながっているということも文字にはされていないという点、甲村図書館を意識してのことだと思うのだけど、小説家の名前が「甲町」であるということに指摘がない点、etc、消化不良に感じた。うーん。

でも、トリビュートだけ読んであれこれいうのもなんかなと思うので、同じくおすすめされた『カレーライフ』という作品も読んでみようかな、と思う。

 リンク元とか

リンク元とか検索ワードとか見るのは楽しいので結構見てるのですが「あー、それ書いたけどその検索語じゃ見つからないかも…」とか「それはないですごめんなさい」とか、検索してるひとにいえないのが歯がゆかったりする。「人の名前+写真」とかもよくあるのだけどイメージ検索じゃだめなのだろうか…。

それから「これ検索してくるひとやたら多いなー」と思ったらドラマ化でした、とかリンク元から知ることもよくあるのですが(「サプリ」とか「CAってお呼びっ!」とか)、最近気になっているのが、ヒミズは何かあるんでしょうか? ってことです。

ずいぶん前から「ヒミズ」で検索してくるひとが多い(たぶん一番多いリンク元はこれだったりする)のですが、何があるのかむしろ知りたい。

ゆきだるまゆきだるま 2006/12/12 12:48 今、またスカパー!やケーブルで視聴できる「日本映画専門チャンネル」で、佐々木昭一郎作品が放送されてますよ。
映像や音楽がとても綺麗で、独特の雰囲気の作品なんですよね。私も大好きです。
今月に全16作品放送して、来年1月からも毎週放送するらしいです。
川三部作以外の作品も、もしまだご覧になったことがなかったら見てみて下さい。お奨めです。

ichinicsichinics 2006/12/13 01:01 再放送うれしいです。情報ありがとうございました!

2006-06-15

[][] ぶらんこ乗り/いしいしんじ

ぶらんこ乗り

ぶらんこ乗り

いしいしんじさんの、2000年に発表された初めての長編小説。

久しぶりに読み返したのだけど、ああそうだ、いしいさんの文章を読むときに感じるのは、この壁みたいなものだったと、やはり久しぶりに感じたので、それはいしいさんの作品ならではの感触なのだろう。

『ぶらんこ乗り』は姉と弟を取り巻く世界のお話。大切に、誇りに思っていた弟のいる世界が、自分のいる世界と違っていってしまう過程を、弟の書いたお話を辿りながらお姉さんが回想するお話。違ってしまう、その決定的な瞬間については、初めて読んだときと同じように、今回もぞっとしたので、具体的には書かないでおく。できればあらすじとか読まずに触れて、驚きを感じることが、この物語を読む上では必要なことなんじゃないかな。

いしいさんの描く物語は、やさしい、と思う。しかし、例えば子供の頃に読んだ絵本の中にあった忘れられない何かのような、そこはかとない「こわさ」の影がしっかりとあって、独特の印象をのこす。そのこわさは、ひんやりとした壁のようでいて、力強い。ストーリーに、というのではなく、そこには何か私に見える世界とは別のものが息づいている。そんな気配がある。いしいしんじ作品を、宮沢賢治という人の物語と重ねたくなるのは、きっと、その辺りに理由があるのだと思う。

私はこの物語が、こわい。ただ、それは遠ざけたいということとは違って、あの、向こう側に引っ張られる感じを、それが引き止められない感じを、思い出してしまうからなんだろう。

この弟のことはとても好きだ。彼と一緒にぶらんこに乗ってみたかった。犬の名前もすきだ。

私も幼い頃、庭の木にぶらんこを作ろうとしたことがあった。その木の枝を、樹木医である叔父のすすめによりつい先日切り落としたのだけど、そこにはなんとまだ作りかけのぶらんこの残骸が残されていた。申し訳ないことをした。

[] 罪悪感なんて役に立たない

罪悪感の話。またか、という感じですけど、もうちょっと。

11日の文(id:ichinics:20060611:p3)へいただいた反応を読んでまず気付いたのは、私はたぶんmichiakiさんの書かれていた『「自分は世界の悲惨を知りつつ何もしない」と「自分は良い人間」は両立しない』というところから、後者をあきらめたい場合に(あきらめるもなにも、すでにそのとおりなのだけど)、厄介な「罪悪感」はどうすればいいんでしょうかって、訊きたかったんだと思いますってことだった。やっと気付いた。そこへ突っ込まないところが優しいなぁ、と思いつつ、たぶんmichiakiさんは自分の興味がなければスルーして下さると思うので、懲りずに自分にとっての罪悪感の正体を考えてみようと思う。

先日のエントリで、ぼくは、罪悪感を感じる背景には「自分は良い人である、という認識」があると言いました。あえて「認識」と書いたのは、それはあくまで本人の認識であって実際とは異なる場合もある、ということを言いたかったからです。そこをichinicsさんは、自分は良い人ではないとちゃんと知っていて、しかし良い人になりたいという夢を諦めきれない場合もあるのではないか、という。

「で、みちアキはどうするの?」:罪悪感について(まだ途中)

うん、反論してみたものの、ここであえて「認識」と書くところが、私がmichiakiさんの文章/考えを読むのが好きな理由でもあるような気がします。でも、ここで、私が「夢」と書いたのには、自分でも見えてなかった前提条件があったみたいだ。

例えば先日のエントリ(id:ichinics:20060606:p1)で書いたこれ。

例えば、私が私しかいない状況で、「この子だけでも今助けられるじゃないか!」と思うとしたら、それはその子を助けたい、という気持ちよりは、見捨てたことで罪悪感を感じ続けたくないからなのだろうと思う。あくまでも私にとって、だけど、そこはきっと永遠に覆されない偽善なんだろうなと思う。そういう意味で、私はもしかしたら、神(のようなもの)を信じているのかもしれない。

この「神(のようなもの)」というのが厄介なのですけど、「良い人になりたいという夢」というのはつまり、どこで何をして何を考えていても、見られている、という感覚に基づいているみたいです。(つまり「私しかいない状況」でも、見ている第三者があるという感覚/悪いことをしたらバチがあたる、というような)

つまり、たとえ行動しても、しなくても、罪悪感はある。助けたとすれば、それは自分の「良い人になりたいという夢」のためであるということに対して。助けなければ「夢のために努力できない」自分への失望として。でも、この例でいう「この子」にとっては、そんなことはどちらでもいいことでしょう。問題は行動があったのかどうかだけです。

ただ、ここでは「その相手は見ず知らずの相手であり、私以外に誰もいない、つまりその相手を見捨てても、見捨てなくても、誰も知らない」という状況を仮定しています。理由は先ほどの「神(のようなもの)」の視点について考えやすくするためです。(相手が知人の場合は神の視点がその相手になる、かも)

普段の私は、世界に「悲惨」があることを、忘れて生活している。『毎度毎度罪悪感を感じる(=良い人になりたいと願う自分に気づかされる)』なんていうこともなく、それなりに毎日を楽しく暮らしている。その辺りは前に書いた「自分にできることよりも、自分が実際にしてもいいと思うこと、そして実際に行動することの範囲はものすごく狭い」(id:ichinics:20060606:p1)というように理解しています。

ここで「罪悪感を感じないことに罪悪感を〜」なんて言うと、それこそ無限スパイラルみたいになってしまうし、上にリンクしたエントリで書かれているこの部分

そういう、自分への影響がゼロである「悲惨」、心が動かず従って行動にも移らない程度の「悲惨」の場合においては、人はあえて罪悪感を感じようとしなくてもいいんじゃないかなぁと思うんですが、どうでしょう?

については、その通りだと思います。だからこそ、普段の「罪悪感たち」は、全て「罪悪感すら抱かないなんて!」という1つの罪悪感(というか自分の悪さ)にまとめられているように思います。ただ、その罪悪感もまた私の場合は、表に出さない感情も「見られている」という感覚に基づいているみたいだ。

「良い人になりたいという夢」とは何なのか。それは「良い人になりたい」ということではなく、「良く見られたい」ということなんじゃないだろうか? しかし、その「神(のようなもの)」の視点は、改めて考えてみれば自分自身の客観に過ぎないような気もする。だとすると、自分で自分に「良く見られたい」とはどういうことなのか?

この先は自分の中の、あんまり触れたくない部分みたいで、なかなか考えがまとまらないのですが、例えばキリスト教でいう「良い人であれば天国にいける(大雑把ですが)」という考えと同じような構造だと思います。つまり、私はそこに、なんらかの見返りを期待している。そして、良いだろうと思われるどんなことをしても、それが純粋な気持ちではないことに、ほんの少しではあっても罪悪感を感じる、ということだろうか。罪悪感ってのとはちょっと違う。でも他に適当な言葉が思い付かない。

そして「良い人になりたいという夢」とはつまり、ほんとうに、こころから、たまたま結果的に相手にとって良かっただけの行動を、自ら望んでしてみたい、ということなのかもしれない。例えば空腹時にご飯を食べて美味しい、と思うように、自分のしたい、と思うことが、たまたま美味しかった、というような? なんなんだそのわがままは、という感じですが、そういう瞬間てのは、たぶんあるんじゃないかなと思う。

だからやっぱり、目の前にその状況が現れたとき「自分が罪悪感を感じたくないので、できる範囲でできることをする」もしくは「行動せずに罪悪感を感じる方を選ぶ」というどちらの行動をとったにせよ、それがその時望んだ行動なのだから、結果的にそれが最良の行動ではなくても、その時の判断を悔やむなんてことはしたくない/しなくていい、ということに近づけたいんだと思う。

まとめると、満足しろよ私! ってことかな。例えばシルバーシートを譲ったら老人扱いするな、と怒られた、とかいうときに、カチンときてしまったとしてもそれはまた別件と考えよう、なんて具合に。どうなんだそのたとえ。

しかし、行動ってのは望んでするものだろうか? というところを考えはじめるとまたずれていくんだけど、とりあえずこの客観(自意識ともいうみたいです)が厄介なんだなと思った。

そしてもうひとつ。一連の罪悪感についての話を書く間に、頭にあったのはIKKI7月号に掲載されていた「ぼくらの」鬼頭莫宏)での切江と田中の会話だった。この回のは全編ぐうの音も出ない感じで、何回読んでも、考え込んでしまう。

あなたは好むと好まざるとにかかわらず、もうすでに生命の犠牲の上にある。だからそのことに感謝して、その犠牲の上にある自分を有効に使いなさい。

この業と責任は生まれた時から避けることはできないから。

それでも甘えた生き方をするとか好きで生まれてきたんじゃないとか、そんなことを言うようなら自ら死ぬべき。その甘えた自分の犠牲になる生命を少しでも減らすために。

「ぼくらの」第31回「切江洋介」3より

一応誤解を招かないように補足しておくと、これはある特殊な状況下のお話で「戦っても戦わなくても死んでしまう」という状況に置かれた少年に対し、戦うことを促すためにかけられる言葉です。

この物語でのやりとりについては、もう少し考えてみたい。

2006-06-14

[][] ZAZEN BOYS@ZEPP TOKYO

ichinics2006-06-14

約二か月ぶりのMATSURI SESSIONに行ってきました。

駅を降りると磯のにおい。ランドマークともなる観覧車のふもとにZEPP TOKYOはあるわけですが、3rdアルバムでの印象的なモチーフが「warter front」だっただけに今回のザゼンボーイズ@お台場はおあつらえ向きなロケーションだったと思う。今回も相変わらずの迫力と音圧のライブだったのですが、大箱のせいか、撮影が入っていたからか、わりとひとつひとつの曲で区切った構成のライブだった。走らない重めの速度。

昨年の日比谷を彷佛とさせる、町田のヤンキーのソロから「SI・GE・KI」で幕開け。今日はフロア中盤でのんびり見るつもりだったのだけど、2曲めの「USODARAKE」でギブアップしてステージ前へ走る。女の子ばっかりのエリアだったのでそれでもばっちり見える。

MCのたびに「お台場ッ」と繰り返す向井さん。ギターベースドラムが間の手を入れるこのテンション。今日はとくに松下さんのドラムが冴えてた気がします。大箱でスピーカー前に行くと、どうしてもベースとかは潰れて聞こえちゃうんだけど、松下さんのバスドラはやっぱすごい圧力で、首の後ろに直接触れられる感じ。そしてスネアの上で跳ねる。

中盤に「自問自答」を持ってきて、小休止。「終わりかと思ったでしょう?」というMCが入り、後半は「RIFF MAN」やらでスパート。今までハードリカーで使ってた『移民の歌』(ZEP)をここで入れたり。あああーって歌いたくなる。

今回は、前のAXでのライブ(id:ichinics:20060421:p1)の延長線上に進化した曲がいくつかあったような気がして、特にあれ、弥次喜多の時に場面かわるときに使ってたリフから入るインストが気になった。それから「COLD BEAT」は以前フェイドアウト/インで演奏されてた部分が、ブレイクを重ねて締めるアレンジで今回のツアーは統一されてるみたいだ。私がこれを最初に見たのはたぶんファクトリーのライブ。ファクトリーといえば、あそこで久々にやった「You make me feel so bad」を今日もやったのがうれしかったな。

後半「KIMOCHI」を聞きながら、これはもう何度聞いても完璧にすばらしい曲なのだけど、その大きな部分を占めるカシオメンのギターについて考えていた。時間を刻むドラム、動くベース。押さえ気味ではあるけれども感情的なヴォーカル、そしてあのギターは、まさしく伝えようとして、伝わらない、思うようにならない頭の中を掻きむしりたくなるような衝動で、まさしくそれは伝えたい「気持ち」の輪郭を描く音なんだった。

アンコールはAXで気まぐれにやったかに思えたヴァン・ヘイレンの「JUMP」(思い出した)をやってから「半透明少女関係」。「JUMP」は他の町でも演奏してきたんだろうか。かなり上達(というかフルコーラス思い出したみたい、というか)してて、ヤンキーがとにかく楽しそうにやってたのが印象的。

楽しかった!

ついでに

JUMP -- Van Halen

2006-06-13

[][][] 四季〜ユートピアノ〜

ichinics2006-06-13

監督/演出:佐々木昭一郎

本当に、素晴らしい作品だった。私はこれを見たことを、きっと忘れないと思う。

この作品で描かれる、ひとつの音と季節を巡る、榮子という少女の物語は、ドキュメンタリーのような、物語のような、夢のような、不思議なリズムで描かれるのだけど、そこにある風景の断片は、確かに私の中にも、あったような気がする。光の速度でやってくる思いが。

初めて聞いたピアノの、ダイヤモンドのような、Aの音。やがてピアノ調律師となった榮子はAの音叉を片手に、自然の中に、町の中に、たくさんの音を見つけていく。音が、体の中で鳴ることを知っている。榮子が調律するピアノの傍で音に合わせて男の子が言う。「赤、緑、虹色!」そう、音には色がある。

なんて美しい映像だろう、と何度も息を飲んだ。波打ち際を走るA子、列車に乗せられたピアノを見送るA子、サーカスの場面、Cの音で調律する友人の、別れ際のフレームアウト。印象的な場面はたくさんあって、そのどれもが記憶の隅で光るような気がする。

本編放送後にあった日本映画専門チャンネル独自のインタビュー佐々木昭一郎さんと「四季〜ユートピアノ〜」他の作品で主演された中尾幸世さん、佐々木監督の作品でカメラを担当された吉田秀夫さん、葛城 哲郎さんの四名)にて、その製作過程の一端をかいま見ることができて、これが70年代の当時にどれだけ画期的な作品であったのか、多少ではあるが伺い知ることができたように思う。例えばタルコフスキーや現在ならダルデンヌ兄弟、また日本では是枝監督など、佐々木監督の作品イメージは多くの監督のそれと比較することも出来る。でもこの作品にある生々しさは、今までに感じたことのないもののように思う。中尾幸世さんの存在、そして言葉、周囲の人々との関わりのすべてが、私がいる現実とは違う/でも繋がっている場所での、ドキュメントのように思えるのだ。例えば小説を読んで、その物語が私の頭のなかに、ある、ときのような。

そしてカメラ。インタビューの場面でも使われていたけれど、主人公に寄り添い、走り、見つめるその視線は、まるで物語を読んでいる時に思い描く風景のようだわと思った。

まだ何回か放送されるみたいなので、ビデオにとっておきたい。

この作品を見るきっかけを下さったIMAOさん(id:IMAO:20051223)に感謝します。

[] ビッグコミックスピリッツ 2006/28号

表紙&綴じ込みグラビア
堀北真希×黒木メイサをシノヤマキシンがという写真集の予告みたいなグラビア。いいです。いいよ! 写真集ちょっとほしいかも。
日本沈没
災害が起きた後の人々の心理状態を解説する言葉が興味深い。「日本の首都圏という社会は言いようのないストレスを誰もが等しく呑み込み合う事を暗黙条件として、この出来事をぎりぎりの所で”他人事”に留めたのである。」 たぶん、天災だからこそなのかもしれないけど、今現在もそれはあるような気がする。そういうのはむしろ本能的なものなんじゃないのかなぁ。
ハクバノ王子サマ
暗闇の中で云々。いいと思います。この先のことは知りません!
中退アフロ田中
お役所仕事にムカつく田中の巻。車を運転する人はぜひ。平日に来いってのにムカついたことのある人もぜひ。
バンビ〜ノ!
与那嶺しゃんに教えを請う伴の巻。
Quojuzコジューツ
え、もう最終回? ううん、登場人物が魅力的なわりに柏木さんならではのドロドロがなかったような気がするな。新作は来春だって。ずいぶん先だなぁ。
闇金ウシジマくん
彼に貢ぎまくる杏奈に対し、瑞樹が不安を抱くまで。あんなにやる気なかった杏奈が前向きだからこそ、この先の展開を思うとこわい。
fine.
この作者の人は斉藤に恨みでもあるのだろうか、というくらいヒドい扱いに思える。
オメガトライブキングダム
桜印警備隊の「覆面」には「匿名性」という効果がある。「自分が見えないというだけで、これだけ力が出るというのは…意外だ…」 そういう話になっていくのか。

[][] パプリカ/ケモノヅメ 覚え書き

パプリカ』はいつから放送開始だろーと思ってマッドハウスのHPとか見てたら、なんか勘違いしてたみたいで、WOWOWでやるのは湯浅政明監督の新作『ケモノヅメ』の方だった。これ↓ちょっと行きたいな。

ちょっぴりだけど先に見せます『ケモノヅメお披露目会』

日時:6月16日(金) 18時30分開場 19時30分開演

会場:LOFT/PLUS ONE(東京・新宿)

http://www.style.fm/as/02_topics/top_060601.shtml

ちなみにロフトプラスワンでは明日はGONZOのイベントあるみたいだけど(http://gonzonight.kt.fc2.com/)これも面白そうだなー。4℃だったら行くんだけどな。ゴンゾはなんとなく敷居が高い(なんでだ)。

で、『パプリカ』は筒井康隆監督の2作品を劇場版でということだったのね*1。今年の夏公開の『時をかける少女』ももちろん楽しみですが、やっぱ今敏監督の『パプリカ』が早くみたい。今さんの作風にもあっていると思うし、期待しています。

IMAOIMAO 2006/06/13 07:00 こんにちは。
『四季・ユートピアノ』気に入られたみたいで、僕も嬉しいです。
良く言われる様に、映画や映像作品は観られて完成する、と思うので
この人の作品がこれからも観る人が増える機会が増えて嬉しいです。

ichinicsichinics 2006/06/14 02:02 ほんとに、とても好きな作品になりました。見て良かったです。たぶんIMAOさんの感想を読んでいなかったら、今回の放送にも気付けなかったと思うので、感謝しています。

IMAOIMAO 2006/06/14 08:32 もし宜しければ、中尾幸世 出演の『夢の島少女』や「川」シリーズもオススメです。先程、ニュープリント版『夢の島少女』を観直して改めてその素晴らしさに打たれました。思えばもう20年近く前に偶然NHKで観た「川の流れはバイオリンの音」の衝撃以来、この作家の作品を追い続けています。今僕は映像業界の隅っこにいるのですが、それだけに佐々木昭一郎の様な、「本物の才能」というのはいわば突然変異の様なモノなのだな、と感じます。

ichinicsichinics 2006/06/15 01:02 そうですね、できる限り見てみたいと思ってます。「川の流れはバイオリンの音」は、実は大学時代に授業で見たことがあったのですが、その時は確か部分だけだったので、恥ずかしながらいったいそれがどんな作品なのかわからないままだったのです。あらためて出会えて、ほんとに良かった。見たものはまた改めて感想かこうと思います。

2006-06-12

[] 今昔バトン

kissheeさんにいただきました(id:kisshee:20060611:p1)。ありがとうございます。今回は「今昔バトン」。たぶん今も昔も、そんなにかわりはないと思うのだけど、昔の自分て客観的にしか覚えてないんですよね。不思議。

では早速。

あなたは昔何系でしたか?

系でいえるのは文系くらいだと思う。音楽とか趣味に関しては何系って言えばいいのかなぁ? 音楽雑誌はロッキング・オンからMLからレコードコレクターズまで気になった特集のを買う感じ。漫画はマガジンジャンプモーニングから花とゆめまで学生時代はメジャーどころをいろいろ読んでいた。映画も中学生の頃は雑誌で情報収集してた。スクリーンやロードショーが懐かしい。そんな感じで趣味は昔から節操ないけど、ファッション誌で続けて買っていたことがあるのはそういやオリーブだけだ。うん、ああいうのにあこがれてた。これも懐かしい。

中高生時代は「趣味のあう友達」というのが学校内に居なかったので系統ってのを意識したことがなかったのかもしれない。

あなたは昔何か習い事をしていましたか?

水泳を一年くらい、バレエを一瞬、ピアノは7年くらい。でももう弾けない。

今と昔、一番変わったと思う事

昔の自分がどう考えていたのかがわからないくらい、考え方が変わったなーと思います。それは考える内容が、ではなくて、自分は自分しかいないんだなって思うようになった。うまくいえないけど。

あと、最近は昔より邦楽を聞き、邦画を見るようになった。意識してるわけではなく、気になるものに日本のものが増えた。

今と昔、変わらないと念う事

ひとりでいるのが好きなこと。もちろん、友達と過ごすのも好きだけど、中学生くらいから映画はひとりで見にいってたし、喫茶店などもひとりで入る。

あと読書が好きで、運動は苦手なこと、かな。不器用です。

一番のトラウマ

一番はちょっと…ですが、んー、女子校だったので女子校的ないろいろはトラウマって言えるかもなぁ。物語として読むのは好きだけど。

なりたかったもの

子供の頃は漫画家とか幼稚園の先生とか。中高では映像撮りたかった。あと学者。

妄想編だと、老後は地中海の小島で新しい名前で職人として働きながら一匹の犬と暮らして、80歳になっても自転車で坂道を疾走するってのが夢だった。それから、カリフォルニアの農園で好きな人とオレンジを育てながら暮らすんだけど、恋人が音楽の夢をあきらめきれなくて家出しちゃって数年、ある日オレンジを収穫しながら、ラジオから流れてきたのは彼の歌声だった・・・ってシチュエーションも夢だった。なんだろうなそれ。

失態

店員時代に万引き犯を巻き添え食らった被害者だと勘違いして庇ってしまった件については、未だにもと上司にからかわれます。

今と昔の異性の好み

ほぼ変わってないです。

大事にしてる事があって、他人の意見も尊重していて、でも大事にしてることについてはプライドの高い人っていうのに弱い。あと、褒めたときに嬉しそうな顔されるのにも弱い。

外見は、男女問わず笑った時に目も笑う人が好きだな。「相好を崩す」瞬間というか。

出来るならあなたの昔の写真を

これはまあいいか。

過去を知りたい五名様

うーーん。たまには回したい、と思うのですけど、これもなんか照れくさいのでパスします。どなかた拾って下さる方いらっしゃいましたらぜひ。

 アルパカ

アルパカがかわいい。昨日テレビでアルパカがサッカーしている映像が流れてて、それ見てときめいた。アルパカかわいいよ。だきしめたい。

http://images.google.com/images?q=%83A%83%8B%83p%83J&ie=Shift_JIS&hl=ja

[] 雨の速度

f:id:ichinics:20060612030747j:image:h150

友達とドライブに行く。走る車の窓を伝う雨は、見始めるとついつい夢中になってしまう。タン、がったい、がったい、スピードあげて、流れる。あっちも、こっちも。梅雨の空気が苦手だけど、雨の音は気持ちいい。

だいじょうぶだよ、って一言が欲しくて、ずうっと言い訳をしている。結局、背中押してほしいだけなんだよねぇって言い合って、笑う。

ほんとは嫌いなもののこと、ちゃんと嫌いっていっても安心だし、好きなもののこと、好き勝手話してもただ好きの部分だけで了解するから、ついつい長話してしまって、最後は慌てて別れる。

[] 恋愛SLGって

好きなキャラクターがいなくても盛り上がれるものなんだろうか。例えば乙女ゲーといわれるようなのをいくつかやったことがあるけども、結局盛り上がれたのはGSのみな気がする。GSは妹とわーわー言いながらやるのが楽しかった。EVS効果もあると思う。2はどうなるのかなぁ。

GPMとか男女問わず好きなキャラクターがいると、いろんなシナリオ試すのも楽しくて遊び尽くした感じがするんだけど、あれは設定とシナリオが良かったのかもしれない。

シナリオが良さそうなのは、むしろ男性向けに多いみたいで、でも、それをやっていいものかどうか迷う。でも最近体験版やったらすごくぐっときたのがあったので、それはやるつもり(で、わくわくしつつこんなことを書いています)。

SLGはジャンル問わず好きなのだけど(特にタクティクス系)、好きな作品は少なくて、これは出会えてないだけなのだと思うけどどうなのか。ここ最近で一番面白かったのはFEの封印の剣なのですが、これはもうちょっとやりすぎたので、DSGBAFE出ないかなぁ。

【追記】

予習?

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://chat.2log.net/s4913/archives/blog508.html

kissheekisshee 2006/06/13 00:13 バトン受け取っていただいて、ありがとうございます。
なりたかったもの妄想編がおもしろかったです。
ぼくは男子校でしたが、男子校的トラウマは、特にないですね。

あ、テレビのアルパカの映像、ぼくも見ました。ちなみに、アルパカに似てると言われたことがあります。なんだそりゃ…。

ichinicsichinics 2006/06/13 01:23 アルパカに似ているだなんて! kissheeさんはきっとかわいいんだと思います(笑)アルパカの映像は、あれ何の番組で流れてたんでしょうか? 一瞬だったのでわからなかったのですけど、あービデオにとっておけばよかった…と思うくらい今アルパカブームです。
ちなみに女子校的トラウマというのは、なんというか、異性がいないからこそのなんか、という感じで巻き込まれると少しタイヘンでした、がうちの学校だけかもしれません。

2006-06-11

[] Elephant Shoe/ARAB STRAP

なんだかやたらと男の子たちに人気があるけれど、女の子にはいまいち人気ない、というものはいくつかあって(もちろん逆も)、性差というものが具体的にどのようなものなのか私にはよく分からないのだけど、例えば女の子特有の楽しみや悲しみがあるのなら、男の子特有の拘泥や葛藤というものもやはりあるのだし、たぶん、それらの作品はそういった「琴線」に触れるのだろうと思う。

例えば『マイ・プライベート・アイダホ』という映画が私の思うそれに近い。リヴァー・フェニックスのファンだった私は、公開当時、劇場へ見に行ったものの、そこで何が語られているのか、どう受け取ればいいのか戸惑うばかりで、記憶に残っているのはあのラストシーンの唐突さだけだった。ただ、以降のガス・ヴァン・サント監督の映画には好きな作品が多いので、今見直してみればまた違った感想を持つのかもしれない。しかし、驚いたのはそれから数年後、大学に入学して、仲良くなった男の子たちの多くが、あの作品を特別に思っているということを知った時だった。「女の子にはわかんないかもね」と彼らは口を揃えて言った。

そしてこの「Elephant Shoe」も、そういった作品の一つだった。このアルバムが発売された1999年当時、私はレコード店でアルバイトをしていた。同僚の男性たちが絶賛するこのアルバムを、私も「いいな」とは思ったものの、何がそんなに違うのか、よくわからないでいた。歌詞を読んでも、なんのことやらだった。

でも、久しぶりにこのアルバムを聞いて、わかっていなかったのは私のほうだったんだと思った。ここにある憂鬱と倦怠と緩やかに首を締められるような心地よさは、例えばデビュー当時のブライト・アイズや、トム・マクレーの世界観とも重なる部分がある。しかし、このアルバムが、それらの作品とは一線を画し、男性(私の周囲の)にとって特別なものとして感じられた理由と、それが私に届かなかった理由は、この疲労の中にある怒りや、捻くれた攻撃性のようなものにあるのかもしれない。そしてそれは、「健康だ」といわれていた当時の私が、もういないということを思い出させる。なんてね。

今、俺の金曜日は色々使い道があるのさ/何が起きたか忘れて最低な言い訳をでっちあげる/武器もたいした動機もいらない/俺のプレイステーションに/ちょっとビールがこぼれてればいいのさ

"The Drinking Eye"

「Elephant Shoe」は、エイダン・モファット&マルコム・ミドゥルトンによるユニット・バンド、アラブ・ストラップの3rdアルバム。「露悪趣味」と評されることの多かった彼等が生み出した柔らかな夢のような音楽。ミニマルなリズムトラックと光るギターの色。そしてエイダンの声は濃密な霧を思わせる。

日に焼けたコットンのカーテン。そこから差し込む光と、部屋を舞う塵。枕に顔を埋め、目を覚ますのを待っている。耳の奥に聞こえてくる心臓の音。ラストトラック#11から#1に戻る時に、そんな光景が見えるように感じる。

Elephant Shoe

Elephant Shoe

[][] シグルイ1巻〜6巻

漫画:山口貴由 原作:南條範夫

昨年各所で話題だった「シグルイ」をやっと既刊分読み終わった。オフとかで気長にそろえればいいかーと思ってたんだけど、1巻だけ見つけて読んだら続きが気になっちゃってつい大人買い。表紙が裸祭りなので外で読むのは恥ずかしかったんだけどつい電車で読んじゃった。

なんていうんでしょうかこの異次元。

うわぁーざんこくー、と思いながらも、圧倒的な強さを期待しちゃうし、右も左も「狂気」なのに、さらなる狂気を期待して読んでる。だいたいの物語を読んでいるときは主人公がピンチだと「あああ」と心配になるけど、シグルイの場合は、次はどんな窮地があらわれるのかしらとか思う。内臓や筋肉が曝け出されることに最初は「ぎゃー」とか思ってたのに、だんだんごく当たり前のように「うむ」とか思ってる自分がいる。

とりあえずすごいなと思ったのは「見せ場」となるシーン(二輪のシーンとか)に、ほとんど擬音が使われていないこと。そのせいか、よけい映像っぽいというか生々しさがあって印象にのこる。二輪の最後とかかっこいいですよね!

つまり超本気は限りなく狂気に近く面白いということかと思う。

シグルイ 1 (チャンピオンREDコミックス)

シグルイ 1 (チャンピオンREDコミックス)

余談ですが、南條範夫直木賞受賞作『灯台鬼』を学生の頃に読んだのだけど、これの原作も同じ人だと知ってちょっとびっくりした。『灯台鬼』もかなり恐かった記憶があって、でもところどころ「羅生門」とごっちゃになってる。読み直そうかなと思ったら絶版なのね。家にあったかなぁ。

[]  罪悪感について/未整理

先日の罪悪感についての話に、michiakiさんから応えていただいた文章があって、その後すぐ書きかけた文があったのだけど、その後のmichiakiさんとこの流れを読んでたら、あーなんかたぶん論が緩いのは私だよね…とかビビって間があいてしまいました。でも懲りずに続きを書く。引き合いに出し続けてて申し訳ないです>みちアキさん。

だから、そこに罪悪感があるとき、自分が罪悪感を感じているときには、「自分はよい人間である」という認識と、「行動するべき場面で、しないことを選択した」という事実との両方が、必ずあるはずです。

http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20060607#1149613370

確かに、私が「揺れる」ことにうっとうしさを感じるのは、その「揺れ」が罪悪感という影となって纏わりつくからなんだろうな、と思う。

しかしそれは「自分はよい人間である」という「認識」なんだろうか? それを光に喩えるならば、それは理想でしかなく、そこにたどりつきたいと願いながらも進まずにいることを選択するのは「諦め」なのかもしれない。かといって、罪悪感を感じている時点で、悪人にもなりきれていない、つまり「良い人」になる夢を諦めきれない。

「自分は良い人間」なんて認識は、偽りの光ですよね。だって自分から「私は善人です」なんて言われても、そうですかと受け入れられるわけはない。そんなの、周囲の人間が決めることでしょう。

むしろ「良い人間」だと思われたいから、罪悪感を感じるのかもしれないな。しかし一旦良い人間になってしまったら、それを続けなければならない。これは結構大変なことだ。だってそもそもが「良い人間」ではないのだし。だからこそ私は、ある特定の人に対して善人であろうと思う時には「覚悟」がいるような気がするんですよね。でも「良い人でありたい」と思う気持ちは本当でも、「良い人である自分」は偽りだよなぁってところでまた罪悪感が影を落とす。

例えば私がmichiakiさんを酷く傷つけてしまったとしますよね? そこで私はきっと、なぜそうなってしまったのか考え、どうにかして、許してもらおう、と行動するでしょう。でもそのときには「良く思われたい」という下心のようなものもやはりあって、傷つけてしまう行動を取る方が私にとっては自然ことなのかもしれない。相手にとっての自分が、本当は「良い人間」な訳ではないのに、そう見せようとしている。そこに落ちる影も、罪悪感なのかもしれないなぁと思う。

でも、前に書いたこと(id:ichinics:20060517:p2) と重なるけど、その「行動」は「嘘」でも、その嘘をついてしまう気持ちには、 嘘がないはずだ、と思います。 そしてそこが「そのまま」なんじゃないのかなぁ、と今日のエントリを読んで思いました。

2006-06-10

[][] 向こう町ガール八景/衿沢世衣子

向こう町ガール八景

向こう町ガール八景

アックス』や『コミックH』に発表された作品を中心とした短編集。

いつも乗る電車から見える、まだ行ったことのない向こう町。

そこに住んでいる8人の普通の女の子のお話です。

という帯の言葉がいいな、と思って購入。

作品中に出てくる女の子たちが、みんなそれぞれ魅力的で、でもどこが、というのがうまく言えない。特に何かを決定するような物語ではないんだけど、ただそこにいて、でも、いろいろある。そして楽しい。という感じなんだよなぁ。

どの話も終わらせ方が独特で、笑えるのもあれば余韻を残すものもあり、なんだか印象に残る。

「こさめちゃん」の頃の小田扉さんの雰囲気にちょっと近いかもしれない。

[][] アフタヌーン7月号

一回買い逃してからしばらく買ってなかったのだけど、久々に。9月号から黒田硫黄、10月号から小原慎司さんの新連載、だしね。ただ、アフタヌーンはコミックスで買ってるのが多いので、間あけちゃうと読むのもったいないなぁ。

げんしけん
ついに最終回!「げんしけん」評で今日読んだ記事→(http://blog.livedoor.jp/moepre/archives/50090667.html)が面白かった。
もやしもん出張編
というか広告? ほんとに出張で今出てるイブニングにこれらの人は出ていないらしい。
おおきく振りかぶって
「マウンドに立ってる間は/自分がそこに確実にいるわけだ」こういうシーンは繰り返されてもグっとくるな。
謎の彼女X
植芝理一さんのいつの連載がはじまってた。絵柄、というか線が変わった?
無限の住人
「不死力解明編」が遂に完結。次々月には久々の読み切り、その後「最終章」に突入とのこと。とうとうか…。
宙のまにまに
結構好きなのですが、男性誌には珍しい絵に思えるんだけどでも、どことなく恋愛シミュレーションゲームを彷佛とさせるのはなんでだろう。夏休みで部活だからか。
世界の孫
いつの間にこんな話に?

[] 活字メディアとwebと文章

はてなブックマークで知った記事。

 出版業界の原稿料相場については、ご存知ない方が多いと思いますので、ちょっと説明しておきましょう。この業界では原稿料を400字詰め原稿用紙一枚の価格で計算します。

 だいたい、400字詰め原稿用紙一枚あたりの価格で5000円が相場です。この価格ですら、ここ30年ほど値上げがなく、ライターたちはブーブー言っております。よほど幸運な人を除いて、生活が成り立たんのであります(略)。

みなさん、さようなら。ブログ連載から降ります。 烏賀陽(うがや)弘道の音楽コラム

以前、原稿を買っていただいたときに、1枚2000円という具体的な価格を言われて初めて、文章で食べるというのはキツイんだなとしみじみ思ったことを思い出した。だって単純計算で月20万をかせぐのに100枚書かなきゃいけないってことになるし*1。でもまあ取材を必要とするようなフリーライター(週刊誌などを想定しています)の場合は違うんだろうなと思っていたのに、この記事を読んで、プロでも5000円なのか、とびっくりした。もちろん出版社によるとは思うけど、烏賀陽さんの経歴*2を見ると、これを上回るところは少ないだろうとも感じる。

ただ、これは雑誌の話なので、書籍としてまとめる予定のある原稿の場合は、雑誌掲載時にこの値段でも、書籍になった際に入る印税でどうにか割にあう仕事になるのかもしれない。その辺はわからない。

しかし記事で書かれているように、一度値下げしてしまえば、「じゃあウチも」と言われることは確実にありうるだろう。原稿には「定価」のようなものがなく、しかも納品した後に金額を提示されるなんてのはよく聞く話だ。(参考1 → たけくまメモ:出版界はヘンな業界

そして今回のブログ連載での健康料は「400字詰め原稿用紙に換算すると、5枚。一枚あたり何と1000円を切っていた。」らしい。それでも、烏賀陽さんはインターネットメディアというものに希望を見いだしでいたからこそ、「価格破壊」ともいえる稿料で仕事を引き受けたと書かれています。しかしやがて「そのインターネットメディアが立ち上がりつつある今だからこそ、驚愕の低価格原稿料を定着させてはならないのです。」と考えるようになり、結局は契約満了で延長はせず、というのが今回の記事を書かれた背景のようです。

もちろん、web媒体での原稿料と印刷媒体の原稿料を天秤にのせるのは難しいとも思う。売り上げのほかに広告収入のある雑誌媒体に比べて、web媒体というのは直接的なお金に結びつきにくいものに感じる。よって、予算もそれほどにはとれないだろうから「編集者」もいないかもしれない。そもそも文章というのは、その「質」を計りにくいものだし、webでは無料で供給されているものが多すぎる。

大手出版社を含め、活字メディア業界はいま、ヨレヨレであります。やれ雑誌が廃刊したの出版社がつぶれたのと、クラい話題しかない。そんななか、ぼくが希望を失わずライターを続けているのは「ライティングという作業だけは、絶対に機械化できない」ということを信じているからです。

確かに「新雑誌創刊」で売って(大手の場合は、主に広告枠を、なのかな)、その影で廃刊、てのもよく聞く話だしな…。うーん。難しい。webの場合はさらに、それを支える収入源から考えなければ、原稿に対価を払ってプロに任せるという媒体が増えることも難しいんじゃないだろうか。

どちらの場合も、やはりしわ寄せは受注者側にくるだろうし、それがゆくゆくは発注者の首をしめる、ってことになりそうだ。出版の場合、イメージとしては[雑誌/新聞が売れなくなる→でも広告枠は高い→じゃあ別の媒体に広告打つか→広告枠値下げ→予算削減→原稿料値下がり→最初に戻る]こんな感じなんだろうか…。

個人的には印刷物が好きだし、少部数の書籍でもきちんと刊行されるようになるには、出版界がもっと活気づいてくれなくちゃ、と思うんだけど、なんとも難しい話だな。もう少しweb媒体と住み分けができるような方法はないんだろうか。

(参考2 → たけくまメモ:【レジュメ】朝カル「ブログ論」の「出版の耐えられない軽さ」の箇所に問題提起がいろいろある)

*1:まあそれはプロじゃないからなのかもしれないし、単純にお金に換えておしまいになるものでもないわけだけど

*2http://www.ugaya.com/

2006-06-09

[][] 『LOVE』/古川日出男

LOVE

LOVE

私はまだ既に刊行されている古川日出男作品のすべてを読んではいない。だからまだ、断言しちゃだめだ、という気持ちもあるのだけど、でもやっぱりこう思う。古川日出男の言葉は「音楽」にとてもよく似ている。言葉のイメージと、リズムと、音を鳴らす複数の登場者が絡み合い、時には競いあいながら一つの空間を作り出す。そこに描かれる先を見るのではなくて、瞬間ごとに開けていく風景を感じながら、ステップを踏む。それがとても楽しい。

そしてその文章は、ロックンロールだ、と思う。ロックの定義は多々あれど、ここで重ねているのは、その「衝動」が「解放」に結びつく感じ。物語は常に地に、町の中にある。そこに様々な物語の断片がちりばめられている。それは私も知っている町であるはずなのに、まったく違う顔をしているように、見える。でもちゃんと、繋がっている。全部。そして、

そして、現在[いま]だ。午前十時五十三分は過ぎたね。きみはデスクにいて、平静を装ってコンピュータのディスプレイをにらみ、でも頭を抱えそうになっている。頭蓋骨がギチギチ言って割れそうなんだ。なにかが出てきそうなんだ。あふれて、デーモンみたいな生物[いきもの]が、ギチギチギチギチ、バカン、て。頭痛薬がほしい、と真剣に思ってる。なにも考えられないと思ってる。でもつぎの瞬間、考えてる。僕は誰だ? 僕はどれだ? 名前は? 悲しかった。そう、ボーイは真剣に悲しかったさ。この世でどんなことが最高に悲惨かって、自己喪失ってやつだろ。だからボーイは確認をはじめる。頭蓋骨をギチギチ言わせながら、自己確認だ。僕はただ愛がほしいだけなんだよ、とボーイは言う。恋愛体質なんだよ、とボーイは言う。ただそれだけなのに、許されないんだよ。だから戸田慎を殺して、だから分裂して。

「ワード/ワーズ」p233 [ ]部分はルビ

例えばこの箇所で描かれている破裂寸前の頭蓋みたいに、ここにある物語たちはいまにも本の外へ飛び出しそうにうごめいている。そんな物語を、読んだことがあっただろうか?

f:id:ichinics:20060609013329j:image:h150

ちなみにこれは先日の三島賞受賞作でもあります。黒田潔さんによる表紙イラストもきれい。巻末には謝辞としてサウンドトラックとなったらしい音源も記されていたので(しかもイメージにぴったりだ/number girlの名前もある!/1話目の「二刀流」はもしかしたら向井アコエレにヒントがあるのかもしれない)、今度はそれらを聞きながら読みたいと思う。できれば外で。

個人的には古川さんの受賞はほんとうにうれしい。先日トークショウを見にいってますます大好きになってしまった(画像はそのときいただいたサイン)、私にとっては珍しく「本人」にも興味をもっている作家さんなので、佐々木敦さんのブログにあった、CSで古川さんのドキュメンタリーを撮っているという話も*1、楽しみにしてます。どこでやるのかなぁ。

[] ところで

いくら私が手放しで絶賛しているからといっても、この先に生み出される作品の全てを愛せるだろうと確信しているわけではないし、同時にもし好きではない作品があったとしたって、その先に書かれるものも確実に好きでないとは限らない。

とはいえ評論をやっている人にとっては断定的な書き方というのは仕方ないのかもしれないし、私もそういった評論を楽しみに読んだりはするのだけど。

いしいしんじの作品は一冊しか読んだことがないが、以後、この人の小説は読む必要なしと判断した。その理由は福田和也が選評で書いているのと同じで、「技巧のたしかさ」「ゆるぎない世界の呈示」はあっても「読者を脅かすことのない『安全さ』」が「退屈」だからである。

【海難記】Wrecked on the sea-三島賞選評

これはプライヴェートな文章に近いのだろうけど、それでも「三島由紀夫賞」は作品に対して贈られる賞なのだから、作品名(『ボーの話』)も挙げずに(そして、もしかしたら読んだ「一冊」はそれではないかもしれないのに?)「なぜ読む必要が(自分にとって)ないか」の理由を他者の選評と重ねて書けてしまうというのは残念なことだ。仲俣暁生さんは音楽も本の好みも自分の好みとかなり通じるところがあるなぁと常々うれしく思っていたのだけど、当然ながらあわないものもあるんだなぁということを実感した。まあこの先はわからないですけど。【追記:しかし勝手な期待ですね】

でも、例えば、その「安全」さが読者を脅かすような物語、というのもありそうだから、ちょっと探してみようかな。あ、でもそれは現実の方にありそうだ。

[][] IKKI 7月号

ドロヘドロ
はすっごいおもしろいんですけど、一か月あくと何やらわからなくなるので単行本に切り替えようかなと思う。もう昔のことわすれちゃったよ!
鉄子の旅
meets?高橋留美子
あいらぶ日和
だめだ…。聞いてて面白いものとつまらないものがあるのは「のろけ話」も同じなのだけど、これはなんというか、そのカップル以外にはわからない話が前提としてある気がする。なんで電卓カチわるのかとかエリ?とか。心が狭いのか。
金魚屋古書店
「イケメンが漫画を語る違和感」そう?
フルーツ
第一巻でましたね。買おう。今回は「アフリカの林檎」という歌手のお話。うん、良い話だった。ラストシーンだけがちょっと気恥ずかしいけども。
フリージア
実写化情報アリ。主人公(叶ヒロシ)は玉山鉄二さんらしいです。玉山さんがしゃべってるとこをたぶん見たことがないんですけど(あんまTV見ないので)、どうかなぁ。ヒロシの無気味さがないような気もしないでもない。
STOROBO LIGHTS/足立和律
読み切り。よくある話のようでいて、それとは男女が逆に描かれているのがおもしろい。スーパーカーの「Storobo Lights」を思い出したんだけど、ざんねん、手もとにないや。
フライングガール
夢の中に入ることができる機械の話、かとおもいきや「どこからどこまでが夢なんですか?」!!
ぼくらの
今回はすごく考えてしまう話だった。最近ちょっと悩んでたことは、これを読んだことも一因だと思います。まだ考えはまとまらないけど、これは別エントリで書く。
土星マンション
落下物監視人として「外」に暮らす女性のお話。

[][] 今晩は

夕食

無印の「好みの濃さで飲むスープ」は粉末で分量が調節できるので料理に使いやすい、というのがウリなようなのだけど、普通にスープとして飲んでもおいしい。

今日はそれのトマトスープでチキンライスを作ってオムライスにしてみた。もともと塩分が足りなめなスープなので、しっかりめに味付け。トマトの風味も濃くないので、「トマト味」が好きな場合はトマト使う方がいいかもなぁ。でもパスタソースとか作るのにはよさそう。

TV

TVでつげ義春原作「紅い花」*2と、ビデオに撮ってもらった「チルドレン」を見る。「チルドレン」は短編連作長編なのだけど、基本的には「チルドレン」と「チルドレン2」を中心にした物語だった。大森南朋さんの陣内が良かったです。映像も良いんだけど、ところどころ画面が暗いのが気になった。あと眼鏡が光り過ぎていてたぶんあれは狙いなんだろうけど、何を狙ってるのか謎だった。あ、ドラマの中ではほとんど出てこなかった陣内を加瀬亮さんがやってたのも良かったなぁ。つづき作ってくれないかな。地上波で。

ネット

「シュレーディンガーの猫」って聞いたことはあるけど「それって「シュレーディンガーの猫的なあれでしょ」みたいな文脈ばかりで何やらさっぱりだったのだけど、これ(http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwjs.htm)読んでもその謎っていうか、あらすじを知らないんですけど、と思ってたらキーワード見て解決した。→「シュレディンガーの猫

でもわかったのはストーリーだけで、文脈からイメージしてた謎(それは「いつ」おこるかというような)と粒子の話がどう関係あるのかわからないなぁ。

ところで、この例え話をしたら「猫がかわいそう!」とかいう反応したりされたりとかそういう話はどこかにあるはずだと思ってグークルさんに聞いたらたくさんあった。

→【追記】上の人気記事について言及されてるとこをいろいろ見てみたら、いろんなとこでエヴェレット解釈ってのが引き合いにだされたのであとで何か調べる。どっかできいたことがあるようなないような。あ、「物理学やってないとムリ」みたいなのは聞こえてないふり。ほんとはちゃんと理解してみたいですけどね。

IMAOIMAO 2006/06/09 07:55 どもどもです。『紅い花』は佐々木作品の中ではイマイチなのですが、もしよかったら中尾幸世の出ているシリーズを観てみて下さいな。

ichinicsichinics 2006/06/10 01:46 そうかもしれないですね(笑)今回の特集では、できる限りいろいろ見てみようと思ってます。12日には特番もありみたいだし。もし、これだけはっていうおすすめ作品があったら教えて下さい!

IMAOIMAO 2006/06/10 02:50 好みもあると思うのですが『四季・ユートピアノ』と『夢の島少女』を観るとこの人の資質が結構判ると思います。

IMAOIMAO 2006/06/10 03:27 参考になるかどうかわかりませんが、何回か思いつくままに
書いてみた事があります。ご興味あればリンク辿ってみて下さい
http://d.hatena.ne.jp/IMAO/20060526

ichinicsichinics 2006/06/10 03:38 ありがとうございます! そうそう、以前IMAOさんの感想で、これは見たいなぁ、と思ったのがあって、それが「四季・ユートピア」でした。これは絶対見ようと思います。

2006-06-08

[] どうして私はこんなところで

今日はなぜか急遽接待飲み。昨日相当ショックな出来事があって落ち込んでる最中だったので、まったくそんな気分じゃなく「 完 全 に 」気乗りしなかったのですが、あいにくそういう場では最後まで素面なタイプなので、同僚の暴言などに慌てつつも、飲み後のラーメンまでつきあって帰宅。疲れ過ぎて泣きたい。

飲み自体は楽しかったと思う。いい人だったし、話も面白かったのだけど、とにかく気乗りしないので自分が分裂するかと思った。あーあー。

ちなみに主な話題は2ちゃんについてなど。私に聞かれても…だけど、それにしても、おじさんたちはいろいろ誤解をしているなと思った、あとは、なんかバブルの話。

 引力

昨日の続きでperfumeの音源使ったすてきフラッシュ

http://www.youtube.com/watch?v=t-SASoX7510

[] 晒しても好き?

好きだってすごく言って欲しいんですけど、いざそう言われると信じられなくて「なんで!?」「どこが!?」と反発してしまう。だってあなたは自分の何を知っているというのか? ほんとうの自分を知ったら離れていってしまうのではないのか? というような怖れがあるんでしょうね。そして、「これでも、そう言ってくれるの?」って自分晒しが始まるわけです。

http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20060606#1149603603

これが前に書いてた「手を差し伸べられてもふりはらってしまう沙都子の心理」なのかなぁ? と思ったりした。いちいち細かくててすみません。だけど、この気持ちはすごくよく分かるような気がします。

でも、例えば、自分が「これは最悪だろう」と思っているものが、他者に対してもそうである、とは限らない。逆の立場から考えてみれば、自分の中にある「最悪」に似たものが、相手の中にもあったとしたら、それはそれで(複雑な気持ちだとしても)マイナスよりはプラスの要素として受け取るんじゃないだろうか。もちろん、似た要素がまったく無かったとしても、自分が好きな相手が、自分に「晒してくれた部分」っていうのは、それを原因として好きを損なったりするものじゃないように思う。

最近なんとなく、好悪の感情は(それが対人でも対物でも趣味でも)善悪という前提を越えるのかもな、とか思うし、だから、今あるAさんの「好き」を損なうようなもの、というのは、もっと意識されない部分/もしくはAさんの側、にあるのかもしれない。

例えば、michiakiさんの場合では、(と、わかったようなことを書くのはためらわれるのだけど)、自身が受け止める側として「好ましくない」と感じるようなことは、そもそもやらないし、やりたくないのではないかな、と思う。当然すぎるかな? でも「自分は世界の悲惨を知りつつ何もしない」と「自分は良い人間」が両立しない、ということを疑うことができるのは、やはりそれを無視することを自分が許さないからなのではないかな、と思うし、「なんで!?」「どこが!?」と反発する部分は、それが見つけられているということでもあり、その時点で既に、赦されているのかもしれない。

だから露悪趣味っていうのには、むしろその「悪とか毒とか」の奥にある、嘘のない/でも矛盾しているかもしれない部分を、見透かして欲しい願望っていうのも、あるのかもなぁ、と思う。それもまた勘ぐり過ぎてる気はするけど、私がそれをするときは「ある」かもな。

まあ、夢見がちな話なんですけど、そもそも「好きだ」って言ってほしいのも、別に不特定多数に求めているものではない(はずだ)し。

ただ、一番難しいのはむしろ、それを返す覚悟をしたうえで求めるってことかもしれない。

2006-06-07

[] capsule/FRUITS CLiPPER

FRUITS CLiPPER

FRUITS CLiPPER

先日お店でかかっているのを聞いて一耳惚れ。これはなんだろうと思ってナウプレイング棚をみてみると、スタジオジブリポータブル空港(「空飛ぶ都市計画」/原案&音楽:中田ヤスタカ×絵コンテ&監督:百瀬ヨシユキを見て以来*1、気になっていたcapsuleの新作でした。中田ヤスタカさんとボーカルのこしじまとしこさんのユニットらしいのですが、音源をちゃんと聞くのははじめてで、サイトとかみたらやたらとお洒落感がただよっていて、なんか、ビックリした。過去アルバムのジャケットとか見たら、ずいぶん長い間手にとらないでいた感じだ。ピチカートの位置?

ともかく、とりあえずこのアルバムを聞く限りは、フロア向けハウス、テクノ路線と、トイポップのような可愛らしいボーカル入りトラックの二系統に別れる構成なのかなぁと思ったりした。そしてそこがBASEMEnt JAXXから毒気を抜いた感じだと思ったりした。サンプル少なくてすみません。でも、このレトロフューチャーな音づくりはとっても好み。チープになりすぎないギリギリな感じがうまいなぁと思う。

で、私はこのアルバムではボーカル入りの方が好きです。特に#3#5#10が最高。

空飛ぶ都市計画」は一つ前のアルバムに収録されてたらしいので、そっちも買わなくちゃと思った。

ちなみに

コメントでperfumeの話をふっていただいたのでついでに書くと、perfumeの曲では「Computer City」と「引力」が大好きです。てゆうかありえなーい。

[][] 『リストランテ・パラディーゾ』/オノ・ナツメ

リストランテ・パラディーゾ (f×COMICS)

リストランテ・パラディーゾ (f×COMICS)

以前、友達に「眼鏡老紳士だよ!」といわれて、なんかピンとこないまま、でも絵は好きなんだよねぇ、と思っていたオノ・ナツメさんの作品を初めて読んだのは今IKKIで連載している「さらい屋 五葉」なのだけど、あれには老紳士でてこないので友人のトキメキは理解できないまま、最近出たこの本を読んでようやく、あーなるほどねぇ、と思ったりしました。

とにかく、作者の老眼鏡紳士愛に溢れた作品で、はじめは「老眼鏡紳士?」って思ってた私も一話目ですでにクラウディオにめろめろでしたよ…。(めろめろって久々に使った!)どのコマを見てもすてきすぎる。でもツンデレのルチアーノも好きです。妹にニコレッタににてるといわれて髪切ってよかったーとか思ったよ(たんじゅん)。

ただ、これほどまでに作者の好みが全面にでているのに、ちっともそれがわざとらしくなく雰囲気がとてもいい。絵柄も好みだし、お話も上品。他のも読もうと思う。

[][] ビッグコミックスピリッツ 2006/27号

巻頭グラビアの人が右向きと左向きで全然別人みたいでびっくり。こういうフックのある写真てグラビアならではだよなぁとか思う。なんのことやら。

ハクバノ王子サマ
不自然すぎる江ノ島デート(遠足下見)
気まぐれコンセプト
これ→ Д これデーって読むんですね。知らなかった。女子高生も使うのか。
バンビ〜ノ!
お得意の逆切れ伴の巻。ばってん…。
ラストイニング
第105話。驚く幼い頃のポッポの顔が、漫画の祟のレナかと思った。
ボーイズ・オン・ザ・ラン
これは、かわいいなぁ。深呼吸するとこ。花沢さんが描く女の子はどんどんかわいくなる気がする。でもこのさきこの子と巡り会って、ボクシング初めて、ゆくゆくはちはるとこの子の間で揺れるって展開、だったら相当長編だな。
闇金ウシジマくん
この芳則の会話の自然さがすごいなぁ。さらにゲームしてるときの顔がこわすぎ。こんな人ほんとにいるんだろうなぁ。杏奈はまるで松子だな…。
現在官僚系もふ
この作画の人はもふのキャラ設定を女子向けにしているのでしょうか。
オメガトライブ
キングダムまた面白くなってきた。リセット願望が求心力となるっていうのは、興味深いな。
DAWN
読んでると口の中乾くような気がする。
Just THE Live Note!
東本昌平さん久々の登場、と思ったら続きはYAMAHAのHPでのことです。うーん、東本さんの絵はほんと大好きだし、めちゃくちゃ上手いと思うんだけど、バイクが好きすぎるな。ううん。バイクもの以外も書いてくれればいいのに…。
fine.
サイトウとのなれそめ編。上杉…。

msrkbmsrkb 2006/06/07 02:10 中田ヤスタカ仕事ということでPerfumeも聴いてみてください!

ichinicsichinics 2006/06/07 02:43 Perfumeいいですよね! 確かにmsrkbさんの好きそうな感じだ(笑)。私もアルバム出たら買おうと思って待ってます(まだでしたよね?)。

kissheekisshee 2006/06/07 03:29 オノ・ナツメさんは、もともとボーイズ・ラブな作品から出発したかたなので、作品によっては…ですが、『La Quinta Camera』が特におすすめです。でも、小さい出版社から出ている本なので、大きな本屋に行かないとないかもしれません。

ichinicsichinics 2006/06/08 02:10 kissheeさん、こんばんは。kissheeさんのところでもたびたびオノ・ナツメさんのお名前は拝見していたのですが、ほんと、良い感じでした。『La Quinta Camera』早速探して読んでみますね。おすすめありがとうございます。

2006-06-06

[] 矛盾だらけ

昨日書いた文(id:ichinics:20060605:p1)はちょっと乱暴だったと思うので、もう少し付け足す。

あそこに書いたことは私の中でよく問われることであって、それなのに結局私はいつも楽な方に逃げていてそれを改めようともしない、というのは前にも書いたことがあるんだけども、いつまで経っても私は揺れっぱなしなのだった。

例えば先日、私の友人の親戚が住んでいる地域で、大規模な災害があった。私は少しためらって、でもやっぱり友人に連絡をとった。幸いなことに、友人の親戚は無事だったという。良かった、と思った。被災者はほかにもたくさんいるのに、私は良かった、と思った。でもそれはその親戚が無事だったことにではなくて、たぶん友達にとって、悲しいことが起きなくて良かった、ということにすぎず、無事だとわかれば解決した気持ちになってしまう。相変わらずのいつもどおりの調子で、日記だって書き続けられる。そのような利己的な自分にはもう慣れた。うぇー、と思うけど、慣れた。自分にできることよりも、自分が実際にしてもいいと思うこと、そして実際に行動することの範囲はものすごく狭い。

映画の途中で、主人公は二度、「目の前で苦しんでいる子供」を救うチャンスが訪れる。一度目は主人公は、「全員を助けられない」というロジックで放っておき、二度目は「この子だけでも今助けられるじゃないか!」というロジックで助けようとするが、結局それは果たせない。どちらのロジックも、すべての言説がいつでもそうであるように、半分間違っていて半分あっている。よく後者のロジックの現前性というか緊急性というかそういうものが強調されて、「目の前で苦しむ人間を助けるのは人間の自然の感情だ」というけれど、助けたとしてその後の面倒は一体誰が見る?

http://anotherorphan.com/2006/06/post_292.html

Bさんのこの文章は「ナイロビの蜂」という映画の感想として書かれたものなのですが、この映画の感想を読んで、私は、私がこの映画を見ながら逃げようとしていたところをさらけ出されたような気がして、痛い気持ちになるのと同時に、それでもいつかそんなチャンスが巡ってきたら、と想像するのは、なんて傲慢なことなんだろう、という気持ちと、行動の由来なんて重要なことではないんじゃないの、という気持ちとで揺れていて、さらに、その葛藤が全て自分の中で行われているということ。どんな結論を出しても、結局それが自己満足の空論にしかならないこと。最終的にはいつも、その限界にうんざりするんだった。

だから今目の前にないことを思ってくよくよしてないで、出くわしたその瞬間に、判断すればいいじゃないかということでとりあえずの決着をつけて、また瞬間ごとにくよくよと揺れる生活が続くわけです。

「自分は世界の悲惨を知りつつ何もしない」と「自分は良い人間」は確かに両立しないし*1、それなら後者を捨てたいと思う。でもこの罪悪感っていうのは、どこから湧いてくるんだろう? 私は結局、その罪悪感から逃れるために自分の悪を受け入れたいのだと思うのだけど、そもそも許されたいのかどうかもよくわからない。というか、許すのって誰だろ?

例えば、私が私しかいない状況で、「この子だけでも今助けられるじゃないか!」と思うとしたら、それはその子を助けたい、という気持ちよりは、見捨てたことで罪悪感を感じ続けたくないからなのだろうと思う。あくまでも私にとって、だけど、そこはきっと永遠に覆されない偽善なんだろうなと思う。そういう意味で、私はもしかしたら、神(のようなもの)を信じているのかもしれない。

そして、こうやって揺れっぱなしの私にとっては、自分で自分を肯定出来ている人というのがとてもうらやましいというか、興味があるというか憧れるというかまぶしく感じたりするときがあるのでした。それなのに、時折、そこに揺れを見ようとしていることに気付いて、申し訳ないなぁと思うのが、昨日の文だった気がします。

それにしても、こういうこと書くとすっかり愚痴になっちゃうのがだめだなーと反省したので、しばらく自粛する。

kokovokokokovoko 2006/06/07 14:04 こんにちは、Bです。リファありがとうございます。あんなことを書いておきながら僕はこう思うのですが、icinicsさんが引用してくださった僕の文章は、自分で書いておきながら間違っていると思うのですね。誰もが徹底的に正しいわけでもなく、また徹底的に強くあれるわけもない。そういう人はごく少数なわけであって、そうすると僕の言い様は裏を返した強者の理論、選民思想です。つまりそれをする資格のある優れた人間だけが、他者を救う権利があるんだという。これを敷衍していくと、ビル・ゲイツなんかが売名と自己満足のためにやっている慈善事業こそが、慈善の名前に値するなんて極論になりますよね。人間の感情の問題なのではなく、人間の資格の問題なのだと。この時、人を救うという行為は極めて資本主義的な条件の下に縛られざるを得ない。つまり、「金持ちだけが人を救える」と。でも金持ちの慈善ほど、嫌味なものはないのを僕らは知っています。
 僕の言った事は、多分神様しか出来ないことの一つだと思うのです。すべてを善に出来ないのならば、何もしないほうがいいというような。それは多分、人の道徳ではないように思うのです。僕のあの感想はそういう意味で、間違っていたように思います。

ichinicsichinics 2006/06/08 01:56 Bさん、こんにちは。こういうとき、トラバ飛ばそうかどうか、いつも迷うのですがノでも、コメントいただけて良かったです。
Bさんは「間違っている」とおっしゃいますが、それでも私は、Bさんの書かれていたことは、もっともだなと思うのです。もちろん、コメントでいただいたようなBさんの逡巡はしっかりと伝わってくる文章だったのですが、それでも「覚悟」は必要だな、と。
例えば、全てを善にすることができなくても、たった一つの善によって、自分の悪を覆すことができるのではないか、そんな下心が、私にはあるように感じます。そして、とても言いにくいことなのですが、私はどこかで、そのチャンスを待っているのではないか、と、思うことがあります。それはつまり、自分を救うための偽善であり、つまり「金持ちの嫌味」と全く変わることのない思いです。
しかし、その由来がどんなに醜いものであれ、助けを求めるものに対して手を差し伸べるということが、ためらわれる理由はないようにも思うのです。(あの映画の場合とは想定している状況が少々違うのですが)だからこそ、罪悪感がある、というか。
もう少し、考えてみたいと思います。といいつ、考えてる暇があったら、何かすればいいのにーという自分の罪悪感を無視しているのですけどね。

2006-06-05

[][] クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ

監督:水島努

リアル鬼ごっこ(リアルな設定の鬼ごっこ。借金取りとか離婚を迫られるとか)をしている最中に廃墟と化した映画館「カスカベ座」を発見したしんのすけたちが、何故か映画の中に入り込んでしまって…というお話。

毎度のことながら、やっぱクレヨンしんちゃんの映画は面白いなぁーと思う。

西部劇映画の中に迷い込んでからの物語はベタなんだけども、伏線消化の仕方が丁寧で分かりやすく、しかも随所にギャク、パロディ、ブラックユーモアそして嫌みのない人情話を散りばめることで退屈させない。

しかしクレヨンしんちゃん映画シリーズでの特筆すべき見どころといえばやっぱりその「動き」で、今回もラストの戦闘シーンはほんと息をのむほど楽しかった。

だってさ、ロボットがね、すごいフォームで走ってきて目からダーってマシンガンで乳首がビューってロケット砲でかんちょうしたらオナラで飛んだんだよ! しんのすけたちはパンツが虹色に光って変身するんだよ! なんて具合に次の日学校でネタばれ満載の解説をしてしまいそうだ。

物語の方での見どころは、しんのすけの恋かな。お相手のつばきちゃんがもう、すごいかわいくて、しかも声が大好きな齋藤彩夏ちゃんなんだよねぇってだけでビデオもってて良かったと思います(あ、この前レンタル落ちの買った)。最近ようつべさんのおかげでずっと見たかったあずまんがweb大王見れて(web版はちよちゃんの声が彩夏ちゃんなのです)大満足。ごめんなさい。ありがとう。

[] 世界は全て裏表?

こういうのうまく言い表す言葉が既にあるんだろうけど知らないのであらすじから書くと、例えば、人物Aが困っている時に、手を差し伸べるBと見て見ぬ振りをするCがいるとする。すると、BとCに対する評価は、それぞれ背反する側面を持ってしまう。Bの場合は、例えば「手を差し伸べる善人」と「Aを憐れむことによってAを貶める悪人」であり、Cの場合は「手を差し伸べることさえしない悪人」と「Aを憐れんだりはしない、他者のプライドを重視する善人」。大雑把な話ですけど、こういう「価値」についての見え方っていうのは、考えはじめると本当にややこしくてうっとうしい。うっとうしいので、基準があるといいよねという話になって、ケースバイケースの基準を作る。

ただそれは集団の基準であって自分の基準とは矛盾することも多いので(ですよね?)、それなら判断しなくてもいいはずだ。例えば上のルールだったら、善悪を判断できるのは本来「A」だけなんじゃないか。だから、A自身がBとCのどちらを憎みどちらを愛するか、という選択をすれば構図は単純になる。しかし世の中には基準というものがができてしまっているので、外野(客観)は率先して判断する側に回る。たとえAが判断をためらっても、判断はくだされ、BとCのどっちが善か悪かということでAにとっては「憎むべき」対象は複数になり、愛す派を巻き込んで憎むという行為に流れる……ということはよくある。さらに善と悪とのどちらを憎んでどちらを愛すか、というとこでもまた分かれる。なんでなんだろう? 参加することに意義があるせいか、あるいは保留はバランスが悪いからか。とにかく多数派や少数派に別れていくことで判断は出来上がり、消費されていく。

だけど、ここで「憎むべき」としているのは何か、というのを考えると、それは「基準」そのものだったりしないだろうか。基準を作った側が作られたそれに左右されている?

そして、そういうとこまで考えてしまうと「基準」ではなく「自らの基準」というのを追い求める個人という立場がでてくるわけですが(だと思うのですが)、これを保つのはたぶんとっても難しい。揺れてしまうことが多いと思う。だって、単に利己的であろうとしているだけ、処世術として基準にあわせている「フリ」をしているだけ、無関心なだけ、としても常に判断する外野はいるので、意に反して振り分けられることがある。それにも無関心を貫くことはできるのだろうけど、そうすると、その振り分けは次第に偏ってしまう。悪側に偏れば非難され善側に偏れば期待される。そして非難を退けなければ、潔いとされたりで「善」へ偏り「期待」を裏切れば、偽善だとされ「悪」に偏る。うっとうしさの終わらない物語。しかし、それから逃げようとすることは、根本であったはずの「自分の基準」を裏切ることになる。

だけど、自らの基準を追い求めるということは、判断しないこと、つまり自分が判断する際には常に「A」でしかあり得ないということなのかもしれなくて、だとしたら「自らの基準」に伺いを立てるなんてこと自体がそもそも矛盾している。というか、たぶん「基準を作り出す」ことは可能でも「基準に捕われない」でいることは不可能に近いんだろうな。作り出された時点で、基準は基準として勝手に判断をはじめる「外野」になるからだ。でも私は、やっぱり価値の外側にも善悪というのはあるのかもしれない、と思う。わからないけど。好悪とか?

と、話がずれたのですが、michiakiさんのこれを(http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20060604#1149352351)を読んでいて思ったのが、たとえ悪側に偏っても善側に振り分けようとしないところが潔いなぁ、と、そういえば私も思っているかもってことだった。そして、だからこそ善側に偏りスパイラルからは抜けられないのかもしれないと思う(しかし例えば、その逆に偏らせることは、そもそもやりたくない事だったりする?)。だけど、ちゃんと反対はいて、でもそっち側もきっと「土俵に乗ってくれない」ということで逆に夢中にさせてしまうのかもしれないなぁ、と思いました。

そしてそれは(普遍的な話として)、上に書いているようなうっとうしい「揺れ」をあんまり感じさせない相手には、本音というか裏のようなものを勘ぐりたくなるものだからなのかしら、と思う。ドラマというか。今回の場合は、言葉の輪郭を見る前に「裏」や「本音」があると思ってしまってるのかなと思ったけど、むしろそれが「ない」のかもしれないってことに怒ってるのかもしれない。

考え過ぎ? かもしれません、と断るのが嫌らしい、というより「これは判断じゃないですよ」という逃げなんですけど。

[] RETURN TO FOREVER/Chick Corea

Return to Forever

Return to Forever

70年代初頭、フリー・ジャズのカオスから新しい音が模索されていた時代に生まれた、後に「フュージョン」と呼ばれる音楽の最初の一歩ともなるアルバム。このアルバムを聴くと、それはアコースティックとエレクトリックの融合であったのだということを思い出す。

なぜ久しぶりにこれを聴いてみようと思い立ったかというと、このアルバムタイトルにひっかかるところがあったからなのだけど、これは「永劫回帰」と訳すよりは、チック・コリアにとっては「原点回帰」であったのだろうということが、ライナーを読むとわかる。そこはチック・コリア自身の著書『ぼくの音楽 ぼくの宇宙』からの引用でこう記されている。

「ぼくはもう、じぶんの音楽に、他人の影響をそれほど感じなかった。ぼくはわかったみたいな感じがしたのだ」

なるほどそうか、とわかったつもりになれるほど、チック・コリアの音源を聴いてはいないのだけれど、確かにこのアルバムには名盤と呼ばれるのふさわしい品格のようなものがあるし、また、フリー・ジャズというムーブメントを抜けた先にこの風景があるのだとすると、当時このアルバムが賞賛をもって受け入れられた理由は腑に落ちるように感じる。秀逸なジャケット・デザインに現れているように、このアルバムを聞いていると、まるで空を飛ぶ鳥の視点を借りているような気分になる。

それでも、やっぱり私がこのアルバムを好きになれないのは、ひとえにエレクトリック・ピアノの音が好きではないからだ。特にこのような曲調と音触でソロのエレクトリック・ピアノは生理的にだめみたい。演奏はすばらしいと思う。ライブで聴いたらきっと夢中になるだろうなとも思う。でもやっぱり、抵抗がある。そして、それは#3#4のフレーズがコマーシャルなどで多用されていることも一因かもしれなくて、だとしたら皮肉なことだなと思う。

メンバーは次の通り。

チック・コリア(elp)/ジョー・ファレル(fl, ss)

フローラ・プリム(vo, perc)/スタンリー・クラーク(b, elb)

アイアート・モレイラ(ds, perc)

私がこのアルバムで最も好きなのは#4の冒頭、スタンリー・クラークによるアコースティック・ベースのソロだ。そして曲全体を通し、このベースの音ばかりに耳を奪われてしまう。本当に本当にすばらしい演奏。そして#4後半にあるソプラノ・サックスソロの辺りではエレクトリック・ピアノもいい感じで聴ける。

2006-06-04

[] KKP#5 「TAKE OFF〜ライト三兄弟〜」@本多劇場

ichinics2006-06-04

 ◇

「LENS」以来、2年ぶりとなる「小林賢太郎プロデュース公演」。

ラーメンズ間連のことを書くのは、ずいぶん久しぶりな気がしますが(といってもmaru以来なんだけど)初めて舞台で見る「KKP」はとても楽しかったです。

ポツネン、maruは落ち着いた雰囲気かつ緊張感のある公演だったので、こんなふうに笑うのは久しぶりな気がする。楽しかった。

物語は飛行機オタク(小林賢太郎)と大工(久ヶ沢徹)と自転車で旅する青年(オレンヂ)の三人が繰り広げる、青春の日々(?)を描いたもの。

伏線やどんでん返しで「驚かせる」というよりは、芝居で「笑わせる」ことに重点を置いた脚本で、小林さんにしては驚くほどシンプルなお話だなと感じたのですが、そこがとても良かった。脱線した会話も物語の中に生きてくるような、幅を感じる舞台でした。特に「コントパート」「芝居パート」のオン/オフが気にならないっていうのは、小林さんと久ヶ沢さんが絡むお芝居では初めてだったかもしれない。

とにかく、見ているこちらも元気になるようなお芝居で、いいものを見させてもらったなぁ、って、笑いながら帰ってきた。

カーテンコールでの三人もとても良い笑顔でした。最後は立ち上がっての拍手合戦。楽しかった!

[][] 思い出せないアニメ、もしくは漫画

よく通る遊歩道の脇に、こぢんまりとした公園がある。公園といっても、そこにはベンチが一つあるだけで、街灯もなく背の高い木々に覆われているせいか、どんなに天気の良い日でもじめっとした薄暗さに包まれている。私は恐がりなので、幼い頃からほぼ毎日その脇を通っているにも関わらず、その公園に足を踏み入れた回数は片手に満たない。

今日、妹とそこを通りかかった際に、その場所の話になった。妹もその場所には気味の悪さを感じていたらしい。なんというか、足を踏み入れたら最後、時空が歪んで元の場所に戻ってこられなくなる感じ、という表現で同意しあったのだけど(これが素の会話というのもなんですが)、それと同時に、そんなお話を何かで知ってるよね、という話になった。

それは「気の強い姉と、小学生の弟が、パラレルワールドのような場所から出られなくなってしまうお話」で、二人が電話ボックスから自宅に電話する場面だけが印象に残っている。電話は鳴るんだけど、町には誰もいない、とか、そんな感じだったと思う。私は鬼頭さんの絵柄を思い浮かべていて漫画だ、と思ったのだけど、妹曰く「アニメだ」とのことで、結局思い出せないまま、まだ気になっている。

もう少し具体的なことが思い出せたら、人力検索を使ってみようかなぁと思ったのだけど、その電話ボックスのシーン以外はまるで浮かんでこないので、メモだけにしておく。むしろ書いているうちに、そんな物語ははじめからなかったような気もしてきたんだけど、妹の記憶にある描写とも辻褄があうのだから、あったのだろうとも思う。むしろ、これだけ噛み合ってる記憶が、実は「ない」とかだったら、よけいこわいかもしれない。

[] マンガの山からCDの森まで

ここ数日で、漫画を買い過ぎました。CDも買い過ぎた。

なので今日も帰宅してからずっと、買ったCD聞きながら、漫画を読んでたのだけど、ほんと、世の中には面白い漫画がたくさんあるね、と思う。

アンテナに登録している中だけでも複数のサイトさんで評判が良かった漫画(一応男性向けなので、買うのにちょっとためらった/カバーかけてもらう時に見えたカバー裏がちょっとアレで期待どおり店員さんに「え?」という顔で見られた)も読んでみたのだけど、うん、面白かった。久々に「あーマズい」と思いつつカタルシスを楽しんだ気がする。でも、ソレのことはが胸にしまっておきます。

CDでは、久々に持ってるのを買うという失態をやらかしてしまった。二重買い。店にいた頃、同僚の男の子がそれをよくかけていて、そのたんびに私は「これ好きじゃない」と言い、すると「何言ってるんすか、ちょうかっこいいじゃないすか」なんて熱弁をふるわれていたのを思い出したので買ったのだけど、改めて聴いてみても全然好きじゃないの。そろそろ好きになってるかな、と思ったんだけど、なってなかった。それについてはまた後日。

2006-06-03

[][] 嫌われ松子の一生

ichinics2006-06-03

監督:中島哲也 原作:山田宗樹

【ネタばれしています】

原作は未読なんだけど、予告を見る限りでは「不幸だった松子の人生は、それでもハッピーでした!」というノリのように見えたし、松子は「嫌われてない」らしいという情報だけは仕入れていたので、ハッピーな感触を期待して(「下妻物語」の思い出を反芻しつつ)、笑うつもりで見にいった。

でも見終わるとへこんでいた。すごく悲しくて怖い物語だと思った*1。映画自体はとても面白かったのだけど、それを「楽しんで見る」ということに対して、どうしても抵抗を感じてしまった。悲惨さをユーモアとして描くことに抵抗があるわけではない。ただ、映画の中にいる松子は自らに対してほとんど客観的な視線を持てていないということで悪循環に陥っているので、ユーモアとして描いてもそれは松子にとってはちっともユーモアではないというアンバランスさが切なく息苦しいのだ。松子は、他者からの「憐憫」や「同情」に、とても敏感な人に見えたし、だからきっと「ハッピーでしたね」といえば「そうよ」と答えそうな気がするのだけど、そこで弱音を吐けないことこそが、松子を取り巻いていた壁だったんじゃないかと私は思った。

病弱な妹ばかりが可愛がられるという環境で育った松子は、幼少期からずっと、父に振り向いてもらおうとあの手この手を尽くしていた。そこだけを見ると、松子は「健気な少女」なのだが、父の愛を手に入れている妹に対しては、彼女が松子を慕っているにもかかわらず辛くあたってしまう。それは多分、「持っているお前がおれに同情するな!」ってことだったのかなと思うのです。友達と疎遠になる場面も、たぶんそれと同じ。でもその逆にはまるで頓着しない。

その後、ある事件をきっかけに家出した松子は、幾人もの男を愛し、裏切られることになります。映画における「不幸」のほとんどは、その異性関係を指して描かれているといって差し支えない、と思う。そして最終的に、ある男が『松子の愛は神の愛だ』みたいなことを悟る場面があるのですけど、そこに突っ込みが入らないことで、なんだかよけい居心地が悪くなってしまった。ええ、そこきれいごとにして良いの? という感じ。

たぶん、松子が求めていたのは、父親からの愛なんだろうな、と私には見えた。松子は幼少期に父親に向けていたのと同じように、恋人たちへも、笑顔で機嫌をとり、自分を見ていてくれと願う。でも、それは同時に相手の男性を見ていないということではないのかな、とも思う。「神の愛」という言葉を引き継ぐならば、松子は『ドッグヴィル』でニコール・キッドマンが演じたあの「天使」にも似ている。誰かを愛する、試練に耐える、見てほしいと願う。それらの行為が全て目の前にいる対象への気持ちではなくて、自分へ投影されている。もしくは運命を司る「神」のような存在に対して向けられている。それなのに「松子は愛を与える女だった」というような描き方をしていたことについては、違和感があった。

ただ、ラストシーンは、松子が自分へ向けられていた「愛」(妹からの)に気付いたように見えたし、それは現在にいて松子の人生を回想している誰にもわからないことだろうと思ったので「彼女の人生は良きものだった」というのなら、それは松子の台詞であって欲しかった。

でもきっと、松子にとってはそんなことどうでもいいのだろうとも思う。

でも映画は面白かったのです。とにかく派手な美術も好みで、とくにCGで描かれる屋上の遊園地はすごくよかった。あそこのイメージボードのためだけにパンフ買ってしまいました。音楽もよかった。

キャストも豪華で、個人的には黒沢あすかさんがとってもよかったです。それから宮藤官九郎さんのDV男ぶりが相当恐ろしかったのも印象的。父娘間の描写にはかなり感情移入してしまって、父親役の柄本明さんが出てくる場面はほとんど泣いてたような気がする。

[] At War With The Mystics/Flaming Lips

At War With the Mystics

At War With the Mystics

少し前に出たフレイミング・リップスの4年ぶりの新作。彼らの音の中にずっとあったサイケデリックな色調がより、その全盛期である70年代寄りに近付いたような印象のアルバムです。冒頭の「The Yeah Yeah Yeah Song (With All Your Power)」なんかは、もろにミレニウム(60年代後半のカート・ベッチャーを中心としたバンド)を彷佛とさせるソフトロック。かと思えば2曲めはファンクだったり、バラエティには富んでいるのだけど、それらがちゃんとリップスの色で包まれているところに、キャリアを感じる。

個人的にはラストを飾る「Goin’On」が気に入っている。この曲で締めることによって、アルバム全体が落ち着いた雰囲気にまとまっている気がします。60年代後半の、ソフト・サイケが好きな人には特におすすめ。

ついでに振り返る

1983年から続くリップスの20年以上にもなる(!)遍歴を見渡してみると、ジャケットデザインで80年代、90年代、『The Soft Bulletin』周辺と、『Yoshimi Battles the Pink Robots』以降の4つの時期に分けられるような気がする。なんとなくだけど。

Clouds Taste Metallic

Clouds Taste Metallic

80年代の音源はほとんど聴いたことないので端折ると、90年代はガレージ寄りのエフェクト越しギターが虹色に輝くポップソングという印象。特に95年に出たアルバム「Clouds Taste Metallic」は大好きなアルバムで今でもよく聴いています。あの音を聞くと真夏の日差しを思い出す。ウェインのボーカルは溶けたソフトクリームみたいだし。なんて。私はこの頃のリップスがとても好きなので、今もこんなバンドがいてくれればなぁ、と思うのですけど、やっぱりどこにもいない。

Soft Bulletin

Soft Bulletin

転機となったのはやはり99年の『The Soft Bulletin』だと思う。ただ、その前の四枚組は(音が四つに分けられている)まともに聴いていないので何ともいえないのですが、あれは、なんか、おかしかったよねぇ? 四枚を一遍に聞くって普通出来ないしなぁ。でもいつか四枚一遍に聴けるチャンスがあればいいとは思うのだけど。

ともかく、『The Soft Bulletin』を初めて聴いたときの、感じはよく覚えている。いきなり風景が開けて、音の固まりが降ってくるような驚きと、音の洪水に流されながら、懐かしい風景をかいま見るような切なさと。あーこんな音は初めて聴いたな、と思った。そしてこんなバンドも、今はもうどこにもいない。

リップスは、ちょっと聴けばすぐピンとくる独特の音づくりなのに、アルバムごとに全然違うバンドみたいで、不思議。そしてどのアルバムも好きなんだけど、昔のアルバムが懐かしくなっても、その音はもう戻ってこない感じがして、少し寂しい。

 ちょっと切ない

最近やたらくる[bloog-ranking.com]ってとこからのトラックバックはなんなんだろうなぁ、と思ってたら、これ(http://i.hatena.ne.jp/idea/10275)なんですね。 初めてidea見た。キーワードもあるのか。

まあ私のとこはそんなに多くないので削除するのが面倒とかではないんだけど、トラバもらったらメールくる設定にしてるので、PCメール開いてこればっかりだとちょっぴりへこむんだよなぁー、って方がこまる。だって、普段からあまりトラックバックとかしたりされたりしないタイプなので(タイプ?)もらったらもらったでうきうきするんですけど(するんですよ)、最近はメール開いても「あーまたそれですか…」ってなるもんなぁ。

[][] ヘッドフォン

今朝i-pod用のイヤホンが再びちぎれたので、ヘッドフォンを買いに行ったんだけど、前にいろいろ調べてこれにしようって思ってたのがなんだったか忘れちゃったので、結局財布と相談で適当に選んでしまった。いつもそんな。で、近頃はあれ、白いヘッドフォンしてる女の子多くて、かわいいよね、いいなぁ、私も次は白にしようかなぁ、と思ってたのに、いざ見にいってみると自分が白いの買うのはなんかおこがましいっていうか自分「女の子」じゃないじゃんか、なんて変な自意識がわいたので結局黒いのにしたんだけど、まあ白より黒のが似合うし、音が聴ければいいし、と思って帰ってきたらこれ(http://www.banpresto.co.jp/japan/amuse/item/spz/43478.html)ですよ!

かわいい! ほしい! でもプライズコレクションてことは、普通には売ってないのかな。UFOキャッチャーなんてほとんどやったことないし、へたくそなので絶対とれない。東京は「こち亀ゲームぱ〜く」でしか扱ってないみたいなんですが(今のとこ)そんなのがあるってのも初めて知ったよ…。

ところでUFOキャッチャープロとかっているのかな? プロキャッチャー。千円でなんでもとります(キャッチャー代込み)みたいな。ないか。

*1:感触は、桐野夏生の『グロテスク』に近いと思った。

2006-06-02

[] 自殺して欲しくない、けど、権利はある、と思う

昨年1年間に全国で自殺した人は3万2552人で、前年よりも227人増え、8年連続で3万人を超えたことが1日、警察庁のまとめでわかった。

自殺、8年連続3万人超 経済が動機7756人

人が数になってしまうっていうのは、こういうことなんだなと思う。なんだか気が滅入る。そして、なぜ気が滅入るのかといえば、そこにあったはずの動機を、自分の中にあり得る可能性として、想像してしまうから、なんだと思う。

動機別の最多は「健康問題」で、前年比228人増の1万5014人で全体の半数近い。「家庭問題」は3019人、「勤務問題」は1807人、「男女問題」は809人、「学校問題」は233人と続いた。

こうやって分類するのは傾向を見るためで、っていうのはわかるんだけど、もしも自分や自分に近しいひとがここに分類されてたらと思うと、嫌だ。

少し話がずれますが、私は「死ぬ権利」っていうのはある、と思っています。もちろん、大切な人には自殺をして欲しくないし、自分もそのつもりはない。でも、だからといって自殺を含む「死」というものを完全にネガティブなものとしてとらえているわけではなくって、なんというか、一回きりしかできないことだから、とっておく、という感覚と、イコールではないけど、近い。ああ、語弊があるなぁ。

例えば、「人は生かされてる」という言い方を、よく目にします。

でも私は、「あ、死ぬかも」と感じた出来事を経ても(幸運なことに、私は助かったわけだけど)「生かされてるのだから生きるべきだ」へは行けなかった。罪深いことなのかもしれないです。でも私は、とても傲慢な言い方をすれば、生きているうちは生きていることを楽しむ権利がある、ということと同じように、いつでもそれをやめる権利もある、と思っています。だから、生きてたいということは、やめたくないなぁ、と思ってるってことに近い。やめたくない、と思えるのは、終わることを知っているからなのですが、同時に、やめられると思うことが、続けてもいいか、に繋がることもあると思うのです。だから、たとえ、何者かによって(例えば歴史? 遺伝子? 運命?)生かされている存在が私なのだとしても、その何者かに抗う力はある、と信じてたい。逆もしかりで、死にそう、というときに「死にたくない!」と思うのも、抗うことに、近いのではないでしょうか。

どうかな。私の気持ちは極端だろうか? わからない。でも生死にまつわる人の意見なんて、案外それぞれなんじゃないかと思うし、だからこそ、このニュースの「三万人」という数字の裏にも、いろんな人がいたんだというとこが気になる。

私は傲慢なので、このニュースを読んで、単純に、悲しいことだな、と思います。勝手かもしれないけど、上に書いたのは自分にのみ適用される感覚であって、自分以外の世界は、私が嫉妬するくらい幸せで満ち足りてて、うまく回っててくれればいいのになぁ、と思う。これは私の一番無責任な部分だ。もちろん、あり得ないことだし、あり得たとしても、それはつまらないことだろうなとも思うけど。

ただ、私がその「三万人」の中の一人だったとしたら、そこには「やめたくない」と思えなくなった何かや、その先にあり得たはずの何かがあったはずで、それを「経済が動機」なんてまとめられたら、嫌だなぁーと思ったんだけど、死んだ後はどうでもいいか、とも、思うな。でも、近しい人に誤解を与えたくはないなと思うし、もし私が残された側だったとしたら、その何かがあったことを、忘れないでいたいと思う。理解は出来ないとしても。

自殺対策を国や自治体の責務とし、与野党が議員立法による提出を準備していた「自殺対策基本法案」が今国会で可決、成立する見通しとなった。自殺対策を社会的な取り組みとして実施すべき課題と定め、防止策や未遂者・遺族への支援充実を掲げている。

(略)

法案では、自殺について「多様で複合的な原因や背景がある問題」ととらえ、事業主に対し心の健康を保つため必要な措置をとるよう求め、国や自治体、医療機関、学校も連携して対策にあたることとしている。

 国や自治体が行うべき具体策として、自殺防止に関する調査研究や人材の確保、精神科などの医療提供体制の整備、自殺する可能性が高い人を早期発見するシステムづくりをあげている。

自殺対策法案、今国会で成立へ

つまり『自殺について「多様で複合的な原因や背景がある問題」ととらえ』なんて、当たり前のこと過ぎない? ということかもしれない。

それにしても、この法案はどうなんだろ? 機能するのかなぁ。個人的には「自殺」をとめるよりも、執着できる何かがある方が「やめたくない」には近いと思うんだけどな。「今」がどうしようもなく嫌でも、もうちょっと先まで行ってみようかなと思える、何か。

あくまでも現時点での感覚なので、もう少し、別の角度からも考えたいです。

(参考/前に書いた「なぜ自殺をしてはいけないのか」 → id:ichinics:20051015:p2

[] 死刑制度は犯罪抑止力があるかどうかでなくて

「死刑制度は犯罪抑止力」があるかどうか、ということについてのこちら(「ダメなものはダメ」日記:ダメなもの「死刑は犯罪を抑止しない」)の記事を読みました。個人的には死刑制度は廃止した方が良い、と思っていますが、上記エントリでの主張が『なぜ死刑廃止論者は死刑の廃止とセットで厳罰化を主張しないのだろうか』というところにあるのだとしたら、「死刑は廃止して、厳罰化にすればいいのに」と思っているので基本的には同意です。まあコスト的な問題も絡んでくるので、「懲役数百年」とかは日本では難しいのかなとも思うのですが、勉強不足すぎて何も言えない。

ただ、気になったのが以下の部分。

たいていの人が死を恐怖するのだから、死刑が本能的恐怖を覚えさせ、以て死刑にも当然犯罪抑止力を期待できるとするのは説得力がないのだろうか。私を含め「死刑になるのは割に合わない」として殺人や強盗などの凶悪犯罪を思いとどまる人間や、「終身刑も嫌だが、死刑はもっと嫌」という人は十分多数派だと思う。

http://dassie-dame.seesaa.net/article/4310578.html

日本に言葉どおりの終身刑、というのがあるなら(現在の無期懲役は実質「無期」ではないので)私は終身刑のが嫌です。死ぬまで出られない場所で、いつ終わるか分からない人生を生きるなんて、想像するだけで最悪だ、と思う。それに最近では実際に「死刑を望む」と発言する犯罪者もいる訳で(そして宅間被告は早々に死刑執行された)、そこに偽りがないのであれば、彼等にとってもはや「死刑」は罰として機能していないとも言えるんじゃないでしょうか?

また、1984年の「半田保険金殺人事件」のように、被害者遺族が死刑を望んでいない、というケースだってある。*1 被害者が望まない死刑は、一体誰に望まれてるんだろう。もちろん、それがルールだ、というのはわかるんだけど…。

ともかく、犯罪抑止力として、機能するのは「死刑」だけではないし、個人的には、死刑以外の刑を与えることで生まれる可能性もあると考えてます。

この辺りはもっと審議して欲しいし、変わっていく余地がある問題だと思うな。

オウム真理教元代表・松本智津夫被告(51)の裁判の打ち切りが、再び東京高裁で決定した。弁護側は「ひどい決定だ」と憤ったが、事件被害者の遺族は「早く裁判を終わらせて」と求めた。

(略)

これに対し、棄却決定を聞いたある弁護人は、被告の治療が「さして意味があるとも思われない」と退けられた決定について、「治療の必要がないとは。ひどい決定だ。もちろん最高裁に特別抗告する」と語った。

http://www.asahi.com/national/update/0530/TKY200605300520.html

麻原裁判については、以前(id:ichinics:20060221:p2)書いてからも気になってはいて(とはいってもニュースを追ってただけだけど)やっぱりまだ複雑な気持ちだ。

それは以前書いた裁判所の判断に対する疑念とともに、どのようにしてあの犯罪が犯されたか、動機は何か、犯罪を犯したということについて、どう考えているのか。その当たりの事が、彼が死ぬ、ということによって永遠にわからなくなるからだ。

例えば動機などについては、言葉で説明できるようなものではないのかもしれないし、語られたことが真実であるかどうかなんて分からないだろう。でも、私はそれが本人の口から語られるなら聞いてみたい、と思う。

(参考→たけくまメモ:宮崎勤の死刑判決に思う

*1:『弟を殺した彼と、僕』/ISBN:4591082350

2006-06-01

[] 『Future Women』/M's

Future Women

Future Women

ネットラジオでかかってたのを聴いて気に入って買いました。でも、日本語の情報が全然ないので、どういうバンドなのかがよくわからない。海外のサイトとかをうろうろしてみたんですが、わかったのは、シカゴ出身のバンドで、たぶん今までに数枚EPを出してはいるけど、アルバムとしてはこれが初めてのようだ、というくらい。

それから、海外の評を見ていると、KinksやThe Who、T-Rexあたりと比較されていることが多いです。うん、確かに60年代〜70年代のサイケデリア〜グラムロックあたりの音を引き継いでる感じで、特にデヴィッド・ボウイには似てるなぁと思うとこが多々ある。でもクラッシックロック/リバイバル、という感じでもなく、エフェクトの掛け方なんかは90年代初頭のFlaming Lipsっぽくもあり(特に#7とか)、ガレージロックを少々野暮ったくしたかんじのアレンジ(ローファイ?)はなんとなく97年頃のBECK(#2)とかBlur(#10/アルバム「Blur」の頃の感じ)を彷佛とさせたり、つまり、いろいろ既視感を覚える(もしかしてリフぱくりましたか? と思うとこもかなりあるのだけど、まあ曲が似てるわけではないので)アルバムだなと思います。

でも結構良い。あともう少しの何かが欲しい感じだけど、それはジャケットがもう少し音をイメージさせるものだと良かったのにとかそういうことな気もする。音も、ここから、よりクラッシックに遡るのかどうかの分かれ道の手前にいる感じなので、できれば現代の方にきてほしいなと思います。期待。

WilcoClap Your Hands Say Yeah、Stephen Malkmus、Yeah Yeah Yeahsあたりと対バンしてたりするみたいなので(←アマゾン情報。訳できとうなので自信ないけど)その辺りが好きな人はわりと好みなんじゃないかと思う。あとJETとか。

[][][] ひぐらしのなく頃に祟殺し編〜/1巻

ちょっと前にコメントでおすすめしていただいたもの。やっと読みました。これ、買うまでにかなり探したんだけど、そこのとこについては下に別途書くのでとりあえず感想を。

なんか私が解説するものなんですが、『ひぐらしのなく頃に』は基本的には「一つの物語」であるはずの時間を複数のシナリオで描くことによって、その真相を推理する、というサウンドノベル形式のゲームです。ジャンルはサスペンス/ミステリーかな? シナリオごとにヒロインがかわり、起こる出来事も少しづつ変わります。たぶん、舞城王太郎の『九十九十九』みたいな、と言えばなんとなくニュアンスは伝わるのではないかと思う。(参考→ http://www.mayq.net/maijo9991.html)まあ『九十九十九』の方はJDCトリビュートというのが先にあって、私はそれを全く知らないので、今ひとつ全貌がつかめないとこもあるのだけど、ともかく、物語に物語が上書きされていく感覚が、にてるなと思った。

そしてこの「祟殺し編」は第三話。

三話だけで一つの単独のお話なんだけど、やはり他のシナリオと補完しあっている部分が多いので、ゲームをやったことがない人がいきなりこの漫画を読んだら、ちょっと説明不足に感じるとこはあるかもしれない。でも、まあ原作にないエピソードを加えるわけにもいかないだろうし(完結してないわけだし)そのへんが難しそうだなとは思いますが。

個人的には、登場人物たちがかわいいので満足です。特にカラーイラストのレナが良い。

ストーリーも、若干ゲームのシナリオと違ってるとこもありつつ(病院のとことか/ジジ抜きは確か第一話だったような? とか)沙都子がご飯作りにきてくれるとことか、見せ場を押さえてる感じ。(が! トイレの場面は圭一の長台詞のフォントが小さすぎてちょっともったいないと思った)

ところで…自分でもびっくりしたんだけど、魅音って「みおん」なんですね。ずっと「みね」だと思って読んでたよ…! 詩音は「しおん」て思ってたのになぁ。あと知恵先生は知恵名字なのね。あと梨花ちゃんの名字は「ふるで」なのね。「こて」だと思ってたよ。ふりがなショック。

2巻は6/22発売。

[] 書店ごとの漫画品揃えについて今さら気付いたこと

私が普段本を買う時に利用してる書店は中型の店舗が多い。家の近くと、会社の近く。途中下車すれば大型書店も行動範囲にはあるんだけど、行けばたくさん買っちゃうし、町中をうろうろする用がある日には荷物になるので、最近あんまり行けてなかった。アマゾンも使うんだけど、これは書店においてなさそうなのを買うときだけ。帰り道に喫茶店に寄って、買った本を読みはじめるのがとても好きなので、基本的には書店で買う。

そんなわけで、上に書いた「ひぐらし」の単行本を買おうと思ったときも、良く行く本屋をぐるぐるしてた。でも、よく見かけてたときは平積みでバーンとなったはずなのに(アニメ化の流れで)、近隣の中型書店では全滅。まあ住宅街やオフィス街では仕方ないか、と思って今日は下北に行ったのですけど、それは漫画を見たい時には下北のヴィ○ッジに行く癖がついてたからなんですよね。

でもヴィ○ッジにもなかった*1。そんで、他にも気になってたの(主にはてな経由で)を探してみたんだけど、ほとんどない。ほんとに今さらなんだけど、ヴィ○ッジの品揃えってかなり偏りがあるんだなぁ……と思ったんでした。

例えば、「よつばと!」はあるけど「あずまんが大王」はない(同じ漫画家さんなので、これはたまたまかもしれないけど)舞城王太郎はあるけど清涼院流水はない(たまたまかも(略))。「西洋骨董洋菓子店*2はあるけど今アニメやってる「桜蘭高校ホスト部」がない(たまたま(略))

まあこの例にもかなり偏りがありますけど、やっぱり店舗としてのフィルターはかかっているんだなぁ、と思う。その差はなんだろな…と考えたときに思いつくのは、なんとなく触れちゃいけない話題な気がするんだけど、サブカルって言葉で、例えばヴィ○ッジにおける漫画の品揃えがサブカルなんだとしたら(他は微妙)、漫画におけるサブカルはやっぱ漫画おたく(死んだ?)の中でも1ジャンルに過ぎないんだなぁとか思いました。

でもまあ確かにあそこの品揃えは私の好みには合ってるし、あまり知られていない作家の本でも大量に仕入れて売り出すあのやり方のおかげで知った作家さんも多く、感謝してるのもほんとう。そういうセレクトショップとしての書店は必要だな、と思うし、むしろ、もっといろんなジャンルでそういう取捨選択をしてある書店があればいいのになぁとも思う。

ただ、そういった場所に頼り切ってると、どうしても偏るので(まあ好みって偏りなんだけど)もっと無作為に探したい時には大型書店に行くべきなんだなと思いました。でもまあそうなると、出版社別になっちゃうのか。講談社小学館集英社の漫画なら、だいたいどこでも同じような感じであるんだけどな。

なんて言いつつ、結局「ひぐらし」が見つかったのはいわゆる中型書店でのことで、そこでもラスト一冊だったから、これはやっぱり単純にすごい売れてる(5刷だし。もしくは発売日から時間経ちすぎ)ってだけなのかもしれない…。もうすぐ2巻でるみたいだし、その頃には近所にもあったりしてね。あ、同じ店で「ホスト部」の8巻も買ったのですが1冊しかなかったです。(最新刊なのに棚差し!)

何故か店員にあからさまにじろじろ見られてこわかったー。

*1:当たり前っちゃ当たり前なのかもだけど

*2:よしながふみはわりとある

michiakimichiaki 2006/06/02 00:38 前回話が出たときに書こうと思って忘れてました。
知恵先生の元ネタは他のゲームのキャラなのです。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%A8%A5%EB
初めて立ち絵が出たときはカレー吹いた。

ichinicsichinics 2006/06/02 02:34 そうだったのですか…! なんだーうわー恥ずかしい。道理で設定が凝ってるなと思いました。(カレーイベントくらいかもしれませんが)

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