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  □これまでの日記一覧

2006-07-31

[] 意味がなくって悲しい

それにどんな意味があるのか、と問われることは何だか悲しい。特に、その「意味」の意味が「価値」である場合にそう感じることが多い。

たとえば、ピアノを習っている私が発表会に向けて練習をしているところに「ピアノなんて習って、何の意味があるの?」と問われたとする。私はそれが楽しいからだ、と答える。すると、その人はこう言う。「じゃあ、発表会なんてする必要あるの?」

ああそうか、ブログでもいいや。「なんで日記書いてるの?」「楽しいからかな」「じゃあなんでそれをwebにあげる必要があるの?」

私がこの日記のことを知人にいわない理由のひとつは、その問いに答えるのが面倒だからだ。もちろん、私にとっての意味や価値を答えることは簡単だ。友人が相手なら、納得してもらうことだってそんなに難しくはないだろう。

じゃあ、なぜ「どんな意味があるの?」と問われることが悲しい、もしくは鬱陶しいのか。

まずは、問う人にとっての「それ」には価値がないのだということが伝わってくるから、だと思う。意味を問われるということで、ああ、この人は私のピアノにも日記にも、興味はないのだなぁ、ということを再確認する。でも、それは確かに切ないことではあるけれど、そのことは私にとっての意味や価値を損ないはしないだろう。

本当に悲しいのは、自分の中でわけもなく魅力的だったそれに、他人にもわかる意味や価値を探してしまうようになることだ。そしてやがて、共通言語としての意味や価値を通して評価されることが、目的になってしまうことだ。

もちろん、評価されることを否定しているのではない。ただ、それを目的に行動するということは、評価されなかったときに、それまでが無価値になるという「錯覚」を起こさせるもののように思う。つまり、私はそれを「錯覚」だと思う。

生きる意味

それでも心の中に自分を越える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。

三島由紀夫のインタビュー(id:ichinics:20060723:p1)より

ないわけではない、とか、曖昧な言い方をするなよ、と思いますけど、ともかく「心の中に自分を越える価値を認める」ということが三島由紀夫にとって切実な目的であったことは確かだろう。そして、もしかしたら、三島由紀夫は自らの死をもってしてその考えを世に知らしめるということを夢見ていたのではないか、と思う。

それが成功したのかどうかはわからない。ただ、彼が優れた作家でなかったなら、これほど多くの人にその死が知られることもなかったのではないかと思う。しかし、その切実さは「他者によって認められること」なしには無価値だったのだろうか。そもそも「自分を越える価値」が認められなければ、生きていることは無意味なのだろうか?

そんなことはない、と私は思う。生きていること、それ自体に意味はない。種の存続なんてのも、それを意味としてとらえるなら後付けでしかない。それは多くの人によって支持されている意味であり価値だけれど、種を存続しなかった/できなかった人生を無意味にする力はない。なぜなら、意味や価値なんてものはもともとなく、そして後からいくらでも見つけることができるものだから、と、私は考える。

ただ、意味もなく意味が欲しくなることはある。その意味が「生きる意味」になって、人が生きる上でのガソリンのような役割を果たすこともある。だから、意味を失うことでうろたえたり、悲しくなったりすることもある。

でも、それは自分だけで手に入れることができるものなのだから、失うことを恐れる必要はないんじゃないかって、思う。

今日が終わっても 明日がきて

長くはかなく 日々は続くさ

意味なんかないね 意味なんかない

今にも僕は泣きそうだよ

『BABY BLUE』fishmans

この曲を聴いていると、泣きそうなのは、意味がないからのように思える。でも、それが悲しいのか嬉しいのかはわからない。そして、ずっと聴いていると、これははじまりの歌のようにも聴こえるんだった。真っ白な場所に、陰影をつけて、それを真っ白に戻す。その作業のどちら側がはじまりかなんて「私」にしかわからない。生きる意味とかも。

関連

「意味」なんてないんじゃないか/ id:ichinics:20060306:p2

[] 日記の読み書き

最近日記の更新ないなぁ、と思っていた人が、グループ日記に移行(というか頻繁に更新するのはそっちに移行)していたことを、偶然、何かのきっかけで知ったりする。で、またアンテナ入れたりRSS入れたりして、見始めるのだけども、これがもしかして近しい人以外に見られたくなくて移行したのだったら、もうしわけないなぁと思うのですけど、考え過ぎでしょうか。

はてなを使いはじめて一年くらい経った頃、書くことないなーと思う日はなくても、たまに、こんなこと書いて、読んでくれる人に申し訳ないなぁと思うこともでてきて、そろそろ私は何を書くのか、考える頃合いなのかなぁ、と思ったりしたけれど、相変わらずの気分次第で、最近はアクセス解析もリンク元くらいしか見なくなった(日々ほとんど変動がないし)。ただ、書くことないなーと思う日がないのは、つまりたいていのことが書けるからで、それは明らかにここをリアル知人に教えていない(ごく少数の人をのぞいて)からだとは思う。

会ったことのない人の日記を楽しみに読んで、会ったことのない人に向けて(向けて書く、というのは未だに気恥ずかしいのだけど、やっぱりそれは向かってるんだと思う)日記を書き続けて、不思議だなぁと思うこともあるけれど、だからといって味気ないことはなく、書くのは相変わらず楽しい。だから特に書くことの意味とかを必要とはしていないんだけど、でもやっぱり、人の文章を読んで、すごいなぁ、と思うたびに、私もあんなふうに、面白い、すてきな、味わい深い、文章が書いてみたいと思ったりする。

というわけで、私は人の文章を読むのがとても好きで、前にはてな100質に「読む4:書く:6」と答えたことがあったけれど、最近は少なくとも5:5くらいの割合になっているような気がする。そして、やっぱり好きなサイトの閉鎖は悲しいんだった。

2006-07-30

[] 芸術って何だろう

若冲展を見ながら、妹が「昔には画家として活躍した人が多かったみたいだけど、今はあんまり画家っていないよね」というような意味のことを言っていて、私は何かちょっとひっかりつつも「確かに絵そのものを売買するってのは少なくなったのかなぁ」というようなことを答えた。

で、答えてはみたけど、それは何かあんまりにも適当だったので、今からさらに適当なことを書きます。

「昔には画家として活躍した人が多かったみたいだけど、今は画家ってあんまりいないよね」というのが本当だとして、もうちょっと考えてみると、今はいない、というより「絵」の役割が様々なものに引き継がれているということなのかもしれない、と思った。例えばインテリアとしての屏風。

屏風といったら、今は間仕切りの意味合いの方が強いかもしれないけど、光の加減を調節して見る、という展示室を見ながら、広い畳の部屋で胡座をかいて、屏風を眺めるということが、きっと山に登って一息ついて景色を眺める時のような、娯楽であり得たんだろうなと思った。で、そんな魅力的な絵を描ける絵師が人気を集めたんだろうし、そういった意味では、きっと「画家」は今のデザイナーとかの役割に近かったんだろう。

とすると、ファインアートとして括られる絵画は、もともとは「装飾」であって、工芸品より後に出てきたものなのかもしれないし、とすると現在「実用性」を目的として製作されている工芸品やイラストが後からファインに区分されるということもあるのかもしれない。あー、もしかして、それを意図的にやろうとしたものがポップアートとされるものなのかな。

ともかく、それじゃあ日本で「ファインアート」とされるものは「今はない」んじゃなくて、もともと工芸品を主体として芸術/文化が成長してきたのが日本で、ファインアートという区分そのものが曖昧/もしくはないのかもしれない。

それはそれで面白いと思うのだけど、しかし何にでも「実用性」を(第一に)求めるのはつまらないなぁという気もしていて、ただ眺めるだけで娯楽として成り立つというような「絵」との暮らし、そうやって生活と結びつくような美術というのに、惹かれるものがあるんだけど、それを単純に受け手側からとらえるなら、例えば、お気に入りのグラス、とか、洋服、とか、絵本、とかそういうものでも良いのかもしれない。言葉にできない「いい感じ」。その最も根源的なもののひとつが景色なのかもしれなくて、この感じ、家にいるときも味わいたいなぁーっていうのが風景画のはじまりだったんじゃないかと、そこで屏風ですよって、ぐるりと巡ってかえってきた。

以上は何の調べものもしないで妄想しただけのことなので、実際の美術の歴史はどうだかわかりません。そして、作り手側から見たら、また全然違うのだとも思う。

[][] ダブルハウス榛野なな恵

ダブルハウス (YOUNG YOUコミックス)

ダブルハウス (YOUNG YOUコミックス)

ゲイバーで働くマホと、エリート家族から独り立ちして暮らす藤子の物語。「額ブチ」から抜け出した者の生活、というのは、榛野なな恵さんの作品に共通するテーマなんだと思う。

「私はずっと金ピカの額ブチの中にいたの。でもその中の絵はとっても貧弱だってことに気がついたんです。絵を描き直すために額ブチははずさなきゃ。今はその作業中なんです」

「そんなに恵まれてる人は数少ないの。ほとんどの普通の人間は額ブチがなきゃ生きてけないの。寄り所が必要なのよ」

そうやって藤子の言葉に反論したマホも、結局は男の額ブチにも女の額ブチにもおさまりたくないと感じている。彼女たちの生活は、まず「今を楽しむ」ことに溢れていて、読んでいてとても楽しい。全部で3話しかないのがとても残念。続編があればいいのになぁ、と思います。

「今 流通しているロマンスの75パーセントくらいはシステム維持のためのでっち上げって気がする」

「システム? 何の?」

「種の存続」

っていうのがちょっと面白かった。

それから第三話はマホの同僚のココの物語なんだけど、これもすごくよかった。有り余る愛情を世界に向けるお話。「風に舞いあがるビニールシート」と重ねて読める。

[] 夕暮れ

ぬるい空気をかき分けて、自転車を走らせる。すれ違う人から、風呂上がりのにおいがする。銭湯の傍には牛乳屋さんがあって、両手で瓶を抱えた子どもを追い越し、私はペダルを踏む。うなぎやさんの手に、煤けた赤いうちわが見え、通り過ぎた路地からは祭り囃子、前にはしん、とした住宅街が広がっている。その暗闇の中にそびえる緑色の輪郭に沿って発光する巨大な箱は、ゴルフ場、いわゆるうちっぱなしというやつで、私はそれに足を踏み入れたことがない。いつ見ても人気がないので、スポーツ施設というよりは、時間軸のずれた異空間のようだな、なんてことを、小学生の頃に考えたことがあるけれど、今みてもやっぱりそう思うし「魍魎の函」を読んでイメージしたのも、銀座のDiorのビルを見るまではこれだった。私はこの道を、もう何回通ったのだろう。駅前のスーパーで買い物を、新発売の北海道バターしょうゆ味を買いしめて、終わらせた帰り道、お祭りはもう終わっていて、浴衣姿の人が群れをなしてゆらゆらと流れていた。金魚の尾ひれのような帯と、その腕に巻かれた発光する輪の緑色が、目の端を通り過ぎる。

2006-07-29

[]  若冲と江戸絵画展@東京国立博物館

ichinics2006-07-29

こちら(http://d.hatena.ne.jp/./jakuchu/)にて解説を読みながら、楽しみにしていた展覧会。やっと行ってきました。

伊藤若冲だけでなく、江戸琳派の画家たちの絵が数多く展示されていて、どれもとても魅力的だった。精密で迫力があって大胆な作品が多い。見せ方も工夫されていて、とても楽しい展示でした。

特に素晴らしかったのが、光量を変化させながら見せてくれる展示室。公式サイト(http://www.jakuchu.jp/special/)でもフラッシュで再現されたものが見れるけど、ちょっと画像が小さくてわかりにくい。実物はもっとぐっとくる。個人的には「柳に白鷺図屏風」でのものが良くって、光の当たり方によって絵の印象がからりとかわるのが面白かったです。絵と暮らすというのはそういうことなんだなって思った。いいなぁ。

特に気に入ったのは、中住道雪「松竹梅群鳥八十八寿之図」(http://f.hatena.ne.jp/./jakuchu/20060619090136)。これは別の展示室「あなたならどうみる? ジャパニーズアート」のコーナーに展示されていたものです。鳥好きとしてはたまらない作品だった。

それから、鈴木其一の「群鶴図屏風」(http://f.hatena.ne.jp/./jakuchu/20060630113020)絵。鶴の表情がかわいらしい。どことなく馬場のぼるさんの絵を思い出したりして。あと、長沢芦雪の「白象黒牛図屏風」(http://f.hatena.ne.jp/./jakuchu/20060628095933)の、牛の傍らにいる犬がすごく気になります。何度も見てしまう。犬?

混雑していたけど、金曜は8時までやっているとのことで、ゆっくり見れました。ついでに常設展の埴輪や縄文式土器なども見た。日本の歴史は長くて短い。

[] RAZORLIGHT「UP ALL NIGHT」

アップ・オール・ナイト

アップ・オール・ナイト

昨年のMUSOアワーズでも評判のよかったレイザーライトのデビューアルバム。最近出たセカンドも評判良いみたいなので、とりあえずファーストから買ってみた。

イギリスのバンドだと知らなかったら、NYのバンドだと思ったかもしれない、というくらいストロークスっぽいのだけど、そもそもはストロークスがイギリス的なバンドだったのだし(人気が出たのもイギリスが先だった)、彼等の登場後の流れも中心はイギリスだろう。それくらい彼等の登場はインパクトがあったんだなぁと思う。

ともかく、70年代のガレージを下敷きにした、キャッチーで物語のある楽曲がそろっているという点で、このレイザーライトはその系列にきちんとそっている。手堅く格好良いアルバムという印象で、「Rock N Roll Lies」をはじめとして、ライブで聴いたらきっと盛り上がるだろうなぁという曲に溢れているし、人気があるのも頷ける。

ただ、このバンドにしかない何か、のようなものはまだ見えないし、よくも悪くも色や癖がないように感じる。あと全体的に展開がもたつく感じが気になるので、ギターとドラムがもう少しバランスよくなるといいのになーと思いました。

まあ、完成度が高いだけに欲張ってしまうとこもあるので、セカンドに期待します。ボーカルの人いわく「新作は10倍良い」*1らしいし。彼はビッグマウスぶりで有名だけども、その辺りもまあ勢いがあっていいなと思う。リアムみたいだ。ただ1stが「ボブ・ディランのファーストより良い」ってのはないなぁ。というかなぜディランと比較したかったのかがわからない。

個人的には、ここ数年に出てきたイギリスの新人バンドの中で一番好きなのは、フランツでもカサビアンでもArctic Monkeysでもレイザーライトでもなく、断然BLOC PARTYだなー。頭抜けて格好良いと思う。

[] 梅雨明け

フジに行ってる人からメールがきたりして、フジロックいいなぁーって、そればっかりです。サマソニは行くことにしたけど、フジいいなぁ。

スパゲッティブームはまだ続いていて、特にペペロンチーノにはおやつに作ってたべたいくらいはまってる。何といっても時間がかからないのがいい。唐辛子じゃなくても、ニンニクと何かって組み合わせが気に入って、ここのとこそればっかり。トマトが美味しい季節なので、今日はニンニクとトマト。

救いのない話よりは、救いのある話のほうが好きだ、という当たり前すぎることを思う。でもその救いだって、結局は自分で描かなければいけないものなので、自分のやりたい範囲でしか描けない。そしてそのやりたいことをできる状況にあること、それが幸せっていうことなんだなぁ。今さらだけど。

2006-07-28

[][] ブレイブストーリー

面白かった! RPGゲームのような「ルールのわかりやすさ」と、丁寧なアニメーションと、宮部みゆきらしいメッセージとがバランスよく配分された豪華な作品でした。原作は未読なのですが、あの分量をこのサイズの脚本にまとめあげ、しかもテンポよくみせてくのはすごい。

今年の夏休みアニメーション映画3作品「ゲド戦記」「ブレイブストーリー」「時をかける少女」(見たのだけですが)の中で、最も(従来の)ジブリ的なスタンスにある作品だったと思います。つまり子供と大人が一緒に行って安心して楽しめる安定した作品。(個人的に一番良かったのは「時をかける少女」だけど)

特に「ブレイブストーリー」と「ゲド戦記」は題材とテーマがかなり被っているので、どうしても比較して見てしまったのだけど、これはもう、圧倒的に「ブレイブストーリー」の方がエンターテイメントだった。笑えて、泣けて、わかりやすい。若干伏線に疑問もあったけど(ミツルが最初に魔法を使う場面など)、それはまあストーリー展開を優先してのことだと思うし、個人的にはあまり気にならなかった。それよりも、主人公の親の離婚や、友人の家庭環境など、重いテーマをあつかいながらも、終盤での解決の仕方がとても丁寧に描写されているところに好感を持ちました。

CGが得意なGONZOらしく、それが過剰な場面と生きている場面が目立つのだけど、珍しく(?)キャラクターをマットに描いているので、万人受けしそうだし。途中挿入歌を流しながら旅の道中をあらすじ的に描く場面とかも気になったけど、「ドラえもん」映画でもよく使われる手法で、やっぱりはっきりと「子供向け」大作なんだろう。

GONZOファンにはどうかなーと思いますが、アニメーション映画大作としては良作。声優も、常磐貴子さん以外は(すみません)良かった。

[][] 虹ヶ原ホログラフ/浅野いにお

虹ヶ原 ホログラフ

虹ヶ原 ホログラフ

浅野いにおの新境地、と言って良いんだろうか。ミステリというかサスペンスというかホラーというかSFというか、新しいことをやろうとしてる感じがひしひしと伝わってくる。これはきっと、構成して、壊して、組み直して、という過程をきっと何度も繰り返して練り上げられた物語なのだろうし、その真摯さはやはり浅野いにおだな、って思う。

ただ、「構成」の複雑さに対し、物語の芯が少し分かりづらかった気もする。構成上「隠している」場面が、感情移入の妨げになっているような気もして、そこがちょっと乗り切れなかった。あと、現在と過去が入り交じったお話なので、キャラクターの見分けがつかなくなると厳しい。

でも、読み終えてすぐに読み返したくなる、読みごたえのある作品だった。

それから、全体的に、何かっ「ぽさ」を感じてしまうお話でもあった。なんだろうなぁ、「GOGOモンスター」とか、もしくはパク・チャヌク監督映画のような雰囲気。ぽいんだけどそのまんまじゃなくて、すごく不思議なバランスに着地している作品だった。

2006-07-27

[][] 時をかける少女

ichinics2006-07-27

大好きなマッドハウス作品であるのに加えて、公開前から評判のいい作品だけに、すーっごく期待して見に行きました。会場内からも、期待感がもやもやとわき上がってるような雰囲気。こんなの久しぶりです。

そして映画がはじまって、冒頭数分間はわりと冷静に、これから何が起きるのかなどを考えながら見ていたんだけど、いつのまにかそんなことすっかり忘れて、ただ物語をおっていた。

物語に引き込む大きな力となっていたのが、まずその美術だと思う。教室に貼られた時間割、黒板の落書き、日直の仕事、掃除の風景、鞄の中身。それらのさりげないカットが、主人公の通う学校の空気を形作っている。確かに「今」を描いているはずなのに、鼻先をチョークの匂いがかすめ、階段を上る時の、あのひんやりとした風も、理科室のなぜか黒い机も、準備室の頼りないドアも、すべてが今ここにいる私の手の届くところにあるような気がする。

そして、私の記憶ともしっかり繋がった世界の中で、主人公が浮かび上がる。走り、笑い、短絡的に行動する彼女の気持ちの動きは自然で共感できるフックも多く、ラフさを残した絵柄(「海がきこえる」を思い出した)にも共感できる。が、ここでもっとも効果的だったのは主人公の演技はもちろん、声が大きかった(たぶん、ほかのキャラクターより大きめにとられていたように思う)ことだと思う。その声によって、常に一人称が意識できることが、物語に引き込むもうひとつの力だったように思う。

そしてラストまで一気に駆け抜ける。主人公と同じように焦って、困って、どきどきして、泣けた。彼女の泣き方がまた、素晴らしかった。

映画が終わると、もうあの頃には戻れないんだなーってことに少しだけさみしくなるけど、つまりこの映画自体が、観客をタイムリープ(この映画でのそれは「今のまま」過去に上書きされる)させる効果を持っていたってことなんだろう。と、たぶんいろんなところで言われているだろうけど、そんな作品でした。

すばらしかった。たぶんこれから何度も、見返すことになる作品だと思う。

ぜひたくさんの、アニメ好きでない人にも、見てほしい作品だと思います。

IMAOIMAO 2006/07/27 22:26 世代的には大林版も大好きなのですが、コレも観に行きます!

ichinicsichinics 2006/07/28 00:40 大林監督版とは全く違うアプローチなのですが、ちゃんとつながっている部分もあって、あちらのファンの人にも楽しめる作品だと思います。かなりおすすめですよー!(断言していいのか(笑))

2006-07-26

[][] ディエンビエンフー西島大介

ディエンビエンフー (100%コミックス)

ディエンビエンフー (100%コミックス)

IKKIで続編が始まるので、その前にと思って読む。サウンドトラックを聴きながら。

多くの場合、本当の戦争の話というものは信じてもらえっこない。

すんなりと信じられるような話を聞いたら、眉に唾をつけたほうがいい。

真実というのはそういうものなのだ。

往々にして馬鹿みたいな話が真実であり、まともな話が嘘である。

何故なら本当に信じがたいほどの狂気を信じさせるにはまともな話というものが必要であるからだ。

ディム・オブライエン「本当の戦争の話をしよう」(訳:村上春樹

冒頭に掲げられたディム・オブライエンの言葉に対し、著者は『「本当の戦争の話」がありえないのだとしたら、「馬鹿みたいな嘘」ばかりを描いてみよう。もしかしたら、意外とまともな戦争の話になるかもしれない。』とあとがきに書いている。

そして、ここにあるのはもう「馬鹿みたいな嘘」ばかり、なはずなのに、ティム・オブライエンの描いていた戦場の空気に、すごく近いと感じられる。こんなこともあんなことも、ねえ、あり得ないよねえ、と肩をすくめるその人そのもののような、リアルさがあって参る。いや、本当はきっと違うのだ。けど、それを読む、そこから遠くにいる、私の視線に似ているのだ。

そういえば、ティム・オブライエンは『僕が戦場で死んだら』の中でこう書いていた。(感想→ id:ichinics:20050706p3)

恐怖はタブーだった。もちろん、恐怖について話すことはできたが、肩をすくめ、にやっと笑って、しようがないという態度をはっきり示さなくてはならなかった。

プロローグに記された1973年の結尾(Coda)に至るまで、これからどのような物語が描かれるんだろう。

「ここは……? 天国?」

「バーカ 地獄だよ!」

ところで、私が買ったこの漫画には、DJまほうつかい&AENさんによるイメージアルバムがついていた。(AENさんて、と検索してみたら、どうやらCOMMUNE DISCのレーベル・オーナーさんらしい)

これがすごくいい。そもそも本人が作ってるんだから、イメージはぴったりだし、素材の選び方、並べ方、どれをとっても、サウンドトラックとして作品と一緒に走る気持ち良さがある。

特に印象的だったのは、トイピアノを使った終盤の曲。トイピアノの音がすると、すぐパスカル・コムラードを思い出してしまうんだけども、「ピアノが下手なフランス人」から「おやすみ、おばあちゃん」へ続く過程にグッときてるうちに、こういう音について何かいおうとすることがばかばかしくなってきてしまう。すごく気に入った。

ところでAENさんについて調べてるときに「Yabemilk」というミュージシャンが「トイトロニカ」と紹介されてるのを見て、これもきいてみたいなー、と思ってる。

[][] ビッグコミックスピリッツ 2006年/34号

ホムンクルス
ようやく話が動く、と思ったら11月まで休載とのこと。うーん。テンポが遅すぎるな。
闇金ウシジマくん
窮鼠猫を噛む。うまくいってくれ。
団地ともお
ともおタイムリープするの巻。
美味しんぼ
ポーランド料理ピエロギの作り方「マッシュルームをみじんにしてバターで炒めておく。タマネギもみじんでバターで炒め、さましてからパン粉を入れて混ぜ、マッシュルームを加える。塩胡椒して味をととのえ、皮(小麦粉を練って薄くのばし、まるくくり抜いたもの)につつんでゆで、パセリとバターをのせて食べる。うまそう。焼いても揚げてもOK。
バンビ〜ノ!
野上さんの過去編ラスト。いい話だ…。しかし伴は買いかぶり過ぎではとすこし思う。

2006-07-25

[][] 「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」/本谷有希子

読み終えた瞬間、思わず「すげー」とつぶやいてしまうような、勢いのある小説でした。構成とか、小物とか、やっぱり舞台っぽいなと思ったら、これが「劇団、本谷有希子」の第一回公演作品だったらしい。しかし小説用に大幅改編されているとのことで、舞台版のあらすじなどを見た限りでも*1、かなり違っています。

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ

東京へ出ていた姉、澄伽が、両親の葬儀に帰省してくるところから物語ははじまり、狂いはじめる。なぜ彼等は澄伽を恐れるのか、そして澄伽はなぜ東京へ戻らないのか。それらの謎が、少しずつ明かされていく過程で、同時にそれぞれの登場人物たちの個性というか、輪郭がくっきりと浮かび上がってくる。

最も明確に対比されているのは、澄伽と義理の姉、待子だろう。

「あたしは特別な人間だ」と確信し、その美貌を武器にのし上がろうとする姉はひたすら鬱陶しいが、同時に「観察される」対象でもある。

逆に待子は生まれてこの方不運続きなのだが、全てを諦めながらも、どこか前向きである。

堕ちていく者と最初から堕ちている者、そして第三者として居る「観客」の残酷さ。その3箇所から描かれる力強い線が交差する様はまるでキャットファイトだ(そんないい方していいのか)。

視点が予告なく移る場面が多いので少し読みづらいことと、言葉の重ね方がスピード感を損なっているという難点はあるものの、爽快さすら感じさせる幕切れのせいか、読後感は充実していた。プロットにはテクニック、文章には力技を感じる、といったら偉そうだけども、とにかく面白かった。

しかし、この作品において、もっとも効果的だった演出は装丁に山本直樹を起用したことではないだろうか。ほんと、装丁のイメージ通りの作品で、さらに装丁がイメージを膨らませてもいる。

映画化も

本谷有希子さんの、芥川賞候補作「生きてるだけで、愛。」が映画化されるそうです。こちら(http://www.nikkansports.com/entertainment/cinema/p-et-tp1-20060709-57806.htmlに載っているあらすじを見ると、「腑抜け〜」と設定が似ているな。

映画化されるのは「腑抜け〜」でした。そりゃにてるはずだ…。

[][] 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 1〜5話

SAC週間をはじめました。

「世の中に不満があるなら自分を変えろ、それが嫌なら耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせ、それも嫌なら… 」

第1話:公安9課 SECTION-9

第1話の冒頭に出てくる有名な台詞なんだけど、押井守監督版と比較すると、そのまんま受け取って良いのかなぁ、と思う。確か最後の方に「私たちの正義以外に従うものはない」というような台詞もあったはずなので、その辺忘れずに見ようと思う。しかし面白いです。そしてタチコマはかわいいなぁ。SACではタチコマが家出する回が好きだった気がする。

見てる途中にコーヒーいれに台所行ったら、コンロ付近に大きめのクモが出た。「タチコマだと思えばかわいいはずだ」と思ったけどむりだった。じーっと眺めてみたがどいてくれないので、湯をわかすのはあきらめて、冷蔵庫の麦茶を飲むことにする。

2006-07-24

[][] さんさん録 2巻/こうの史代

さんさん録 (2) (ACTION COMICS)

さんさん録 (2) (ACTION COMICS)

息子一家と同居する「参さん」を主人公にした物語の第2巻。

息子と、嫁と、孫と暮らしながら、だんだんと「家族」になっていった参さんの主婦ぶりも板についてきたところで、おしいことに完結。

表紙カバーを外したところにある絵に行き着くまでが、2巻の中心だったように思います。

亡くなった妻の残したノート「奥田家の記録」が出てくる回数は減ったけれども、それくらいに、参さんが亡き妻の知恵や思いを自らの身に付けたということなんだろうな。

1ページめから「うわ このじいさん地味ー!」といわれてしまうような参さんの生活は、実は私のそれとそれほど違わないような気もして、これは私が晩年を生きているのか、逆なのか、わからないですけれども、でも結局、ずうっと「はじめて」のことはあるんだろうな、と思う。

ところで乃菜が計算問題を解くときの考え方(買い物のほう)は私の思考回路と全く同じで、これは駄目なのか…と今さらながらに思った。

1巻の感想 → id:ichinics:20060315:p1

[] 534日

空気は冷たいのに、少し運動すると暑い。夕食には唐揚げを食べた。

今度は中学生の頃のスケッチブックが出てきて、今よりもずっと丁寧に絵を描いていたあの頃がすこしうらやましいと思う。それと一緒に、授業中にまわしていたと思われる手紙の束もでてきたのだけど、差出し人の名前をみても誰だかさっぱりわからず、しかもたぶん自分宛であるはずなのに、呼びかけられている名前に見覚えがない。あだ名って謎だ。

ところで今日は私がこの日記を書きはじめて534日めみたいだ。何でもない日ばんざい。

わたしはときどき、まるで他人事のように文章を書いているけれども、ここにあるのはすべて、いつだって自分にとって切実な問題だ。

しかし切実であるということは、今、現実に判断を迫られているということではないので、実用的でないことを考えることに意味なんかないのなら意味はないのだけど、わたしの意志ってなんだとか、この物語はどうやって終わるのかとか、そういうことを考えるのは充分くたびれるし満足しないから面白い。

でも、ときどき、何したかったか、忘れてしまうので、わたしはもっと自分に厳しくしたい。

わたしに話せるのは個人的な物語だけだ。

昨日はいろいろ書いてみたけど、三島由紀夫の言っていることはよくわからない。

2006-07-23

[] 三島由紀夫のインタビュー映像をみて

「思想とかは共感しないですけどね、でもね、そこまでして何かを伝えようとした、という事実が衝撃なんですよ、俺には。しかも伝わらなかったんだから、衝撃の二乗ですよ。別に俺は、あの事件に詳しいわけじゃないですけどね、きっと、後で、利口ぶった学者や文化人がね、あれは、演出された自決だった、とか、ナルシストの天才がおかしくなっただけ、とかね、言い捨てたに違いないんですよ。でもね、もっと驚かないといけないのはね、一人の人間が、本気で伝えたいことも伝わらないっていうこの事実ですよ。三島由紀夫を、馬鹿、と一刀両断で切り捨てた奴らもね、心のどこかでは、自分が本気を出せば、言いたいことが伝わるんだ、と思ってるはずですよ。絶対に。インターネットで意見を発信している人々もね、やろうと思えば、本心が届くと過信しているんですよ。今は本気を出していないだけだってね。でもね、三島由紀夫に無理だったのに、腹を切る覚悟でも声が届かないのに、あんなところで拡声器で叫んでも、難しいんですよ」

『砂漠』p200/伊坂幸太郎

『砂漠』の登場人物、西嶋の言葉を読んでから、三島由紀夫の自衛隊市ヶ谷駐屯地での演説のことが頭にひっかかってた。

はてブで知ったyoutubeの動画(http://www.youtube.com/watch?v=tzz1-ppIjOg)には、その三島由紀夫が自衛隊駐屯地にいる場面とそこで訴えた言説に繋がるだろうインタビュー映像もついていて、興味深く見たのだけど、まあ、結末を知っているからこそ、なんだか切ない。

このインタビューでは、どうやら何かの本(「??」の部分)について話しているみたいなんだけど、そこが聞き取れない。【コメント欄にて『葉隠』だと教えていただきました。sasakiriさま感謝です】そのうちなくなるかもしれないので以下がインタビュー部分(聞き取りなので間違ってるとこあるかもしれないけど)。

武士は普段から武道の鍛錬をいたしますが、なかなか生半可なことでは戦場の華々しい死なんてものはなくなってしまった。そのなかで汚職もあれば斜陽族もあり今でいえばこのアイビー族みたいなものも侍の間で出できた時代でした。

そのなかで「葉隠」の著者はいつでも武士というものは一か八かの選択のときには死ぬ方を先に選ばなければいけないということを口をすっぱくして説きましたけれども、著者自身は長生きして畳の上で死んだとあります。そういうふうに、武士であっても結局死ぬチャンスをつかめないで死ということを心の中に描きながら生きていった。そういうことで仕事をやっていますときに、生の倦怠といいますか、ただ人間が自分のために生きようということだけには、いやしいものを感じてくるのは当然だと思うのであります。

人間の生命というのは不思議なもんで、自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬというほど人間は強くないです。というのは人間はなにか理想なり、なにかのためということを考えているので、生きるのも、自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると死ぬのも何かのためということが必ずでてくる。それが昔言われた大義というものです。そして大義のために死ぬということが、人間の最も華々しい、あるいは英雄的なあるいは立派な死に方だと考えられていた。

しかし今は大義がない。これは民主主義の政治形態というのもが大義なんてものはいらない政治形態ですから、当然なんですが、それでも心の中に自分を越える価値が認められなければ、生きてることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。

三島由紀夫にとっての大義、が何だったのかはわからないけれども、ここには明らかに「死」に向かって生きているという感覚がある。仮に武士とはそのようなものであったとして、武士がいた時代の、武士以外はどう考えていたのだろうか。華々しく死ねるというチャンスがあったら、それに飛び込んでいったのだろうか。

「華々しく死にたい」という気持ちは、今の感覚でいえば「死んだ後に何かを残したい/覚えていて欲しい」という心に近いのかもしれないけれど、この気持ちが、私にはどうもわからない。……なんて言ったら女にわかってたまるかよ、返されそうだけど、ただ、その「死」は死後を見てるのか、自分の「生」の結末として捉えているのか、そこに興味がある。

三島由紀夫の場合は、「生」の結末であったのではないかと思う。そして彼は「自分のためだけでなく、なにかのために生きたい」という言葉の帰結として『諸君は武士だろ』と語りかけ『諸君のなかに一人でも俺と一緒に立つやつはいないのか』と声を張り上げたのではないか。

もう少し自分の感覚に引き寄せて考えてみると、「なにかのために生きる」ということは、つまり「自分の価値/意味」を、外部に保証されたい、ということなのかな、と思う。その外部が客観的な自分の目線であることもあるかもしれないけれど、自分の存在理由として、何か明確で強固なものを求める。それは同時に、なにかによって生かされたいということでもあって。

例えば「誰かのために生きる」ということにも、愛や対抗や奉仕や、様々な形がある。だから、その気になれば、意味を見いだすことなんて簡単だろうけれど、簡単には満足できないのは、やっぱり人は自分のために生きているからではないのか。

腹を切る覚悟でだって、人の心を動かすことは難しい。それでも伝えたい「自分」のために生きることで、いつかそれを理解してくれる相手にこそ、生かされることができるんじゃないかと夢見る。そんな風に感じるのは、ちょっとロマンチックすぎるかもしれないけれど、何と言うか、「意味」や「価値」というのは厄介だな、と思う。

[][] グリーンヒル古谷実

グリーンヒル(1) (ヤンマガKCスペシャル)

グリーンヒル(1) (ヤンマガKCスペシャル)

怠け者大学生、関口がある日であった女の子に一目惚れしてバイククラブに入るところからはじまるお話。基本的には、そのクラブのメンバーを中心とした連作短編のような構成になっている。

ヒミズ』や『シガテラ』に行く前の、ギャク漫画家としての古谷実タッチが残っている作品でもあるんだけど、この『グリーンヒル』は軽そうに見えるからこそ重い。『ヒミズ』で潜る寸前の逡巡、拘泥に満ちた作品だと思う。

作品中でもっとも悲惨な人物として描かれるリーダーは、日々訪れる「イヤなこと」を忘れて、開き直っているように見える。「これはもーしょーがない! 守るモンないからね!! もちろん得るモン激減するけどね〜!!」そんなふうに、開きなおりつつも「サクの中に入りたいのに入れない」ともがくリーダーとは逆に、関口は自分のことを「サクの外に出られない臆病な子羊だ」と考える。どうやら長いらしい人生に対し「要するにだ オレが思うに人類最大にして最強の敵は“めんどくさい”だ」ということを悟り、立派な大人になりたいなぁーと本気なんだか冗談なんだかわからないような態度で呟く。

この関口と彼女の関係は、『シガテラ』での南雲さんと荻野くんに続いていて、荻野はちゃんと「つまらない大人」になった。そう考えると結局古谷実はあっちもこっちも拒否しているのかもしれない。

ヒマで腐りかけてる奴に限って「人生」とか「生きる目的」とか大そうなことを考えちゃうだろう?

という言葉はそのまま自分自身に対するツッコミのようで、でもじゃあその目的って何なんだよ、というところを古谷実はずっと描いてるんじゃないかと思う。「そんなものはない」って、もう『僕といっしょ』で描かれてたけども、そうやって逃げ場を潰していくモグラたたきのようなとこが、読んでいてすごいなと思うとこでもあり、恐ろしくもある。

グリーンヒル(3) (ヤンマガKCスペシャル)

グリーンヒル(3) (ヤンマガKCスペシャル)

ヒミズシガテラid:ichinics:20050917:p1

sasakirisasakiri 2006/07/23 09:11 こんにちは、はじめまして。三島が言っている本の題名は「葉隠」だと思います。「自分のためだけに生きることはすぐに飽きてしまう」というのはわからないでもないかな。でも大義のために生きる、とか死ぬ、とかはわからないですねえ。

ichinicsichinics 2006/07/24 01:46 sasakiriさん、はじめまして。なるほど、確かに話の流れを見れば『葉隠』ですね。ありがとうございます!
『葉隠入門』を読めば彼の大義が何だったのかもう少しわかりそうな気もするのですが、「死を思うことで生きる」はずが「大義のために死ぬ」になっていくのが、どうも、もやもやするところです。

2006-07-22

[][] LIVE FACTORY 721@ZEPP TOKYO

ザ50回転ズ/真心ブラザーズPOLYSICS向井秀徳アコースティック&エレクトリック/KEMURIエレファントカシマシ渋さ知らズ

http://www.fujitv.co.jp/FACTORY/index2.html

フェス並に豪華メンツでしかも激安のライブ。向井秀徳目当てではあるものの、全体的に楽しみにしていたのですが…いろいろあって、開演時間に間に合わず、到着したらインターバル中。演奏順知らなかったので、まあ向井は終わっちゃったかもなと思ったら、始まったのは向井アコエレでした。セーフ!

向井秀徳アコースティック&エレクトリック

今日はみたことない青いギターをお供に登場。クレイジーデイズやデイズオブ猫町などを次々に演奏。eastern youthの「ささやかな願い」のカヴァーもありました。相変わらずギターの音が美しい。ちくしょう、格好良いなぁ。

ロックトランスフォームド状態におけるフラッシュバック現象、と繰り返す曲が(タイトルわからないんだけどそのまんまがタイトルかも)すごくよかった。(ここで映像とともに聴ける→http://www.if-fukuoka.com/040229/play.cgi?id=469)風景を描写するところからはじまり、描かれた残像に、音が直接触れるような感触。でも言葉が私の想像を妨げるようなところがなく、それはつまり同化させる音ではなく個々にあることの力強さを描いた音のように思う。そして、それができるのは何よりも向井さんの声の良さに核があるんだろうな。第一音から発音が良いので歌詞がとても聞き取りやすく、だからこそ頭の中にイメージが出来やすい。うん、まあ、好きなんだ。

KEMURI

いつのまにか大ベテランバンドになってしまったケムリ。久々に聴いたけど、相変わらずクオリティの高いライブだなぁと思いました。こういうバンドが元気で活躍しつづけてくれるってのはうれしいことだ。

エレファントカシマシ

ライブを見るのは初めてなのだけど、先日「冗談を休み休み言いたい」さんのこちら(http://d.hatena.ne.jp/./shokou5/20060701)の感想を読んでから、エレカシのライブ見てみたい、と思っていたので嬉しいタイミングだった。

そんで、すごい格好良かったです。エレカシは「ガストロンジャー」が出た頃までは(CD屋にいたので)よく聴いていて、好きではあったのだけど、その魅力は今になってやっとしみるところがあるということだろうか。CDで聴くのとは全く違う、場内へ真剣勝負をしかけるような宮本さんの歌にはグッとくるところがある。「悲しみの果て」や「今宵の月のように」などのヒットソングには今聴いても普遍的な美しさがあるけれど、その反面「デーデ」や「ガストロンジャー」などでの強烈なアジテーションが心地よい。「金があればいい/友達なんかいなくても」うう、と身じろぎてきなくなるような。

死ぬときがこの毎日ときっとおさらばっていうことなんだから、それまで出来うる限り、そう出来うる限り己自身の道を歩むべく、反抗を続けてみようじゃないか、出来うる限り。

胸を張ってさ、そう

ビートルズの「Oh Darlin」ぽいメロディの曲がすごく良かったんだけど知らない曲だったな。

渋さ知らズオーケストラ

楽しかったー!

会場から湧きあがるかのような音の幕開けにぞくぞくする。「渋さ」のライブを見るのは初めてなのですが、噂にはいろいろきいていて、実際目の当たりにしてみたら、こりゃやばいわと思いました。何といってもあのハレとケの入り混じる舞台演出と即興を中心とした音の楽しさ。特にサックスのソロではRETURN TO FOREVERの「ラ・フィエスタ」をぶわっと思い出した。そして後半部はとにかく盛り上がる。楽しい。言葉が思い付かないがとにかく楽しかった。もうちょっと小さいとこでぐちゃぐちゃになりながら楽しみたいと思った。

詳しくはこちら(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E3%81%95%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%BA

見れなかったバンドは残念だけど、でも大満足なライブでした。8/1(26:43 - 27:43)にフジテレビでダイジェスト版を放送するようなので、ぜひ見ようと思う。

[] あの公園で

真っ暗なライブ会場の中「緑の葉っぱに差し込む、夕暮れの赤い色だけを思い出していた」という言葉を聞いて私が思い出したのは、あの町の、図書館の隣にあった、猫の額くらいの、という表現が好んで使われそうな小さな公園のことだった。入り口以外の三方向を図書館、民家、大木に囲まれているので慢性的に日当たりが悪く、そのせいかいつ見てもだれもいない。ひっそりと色あせていく赤いすべり台と青いペンキが剥げてまだらになったベンチとが不機嫌そうに顔をつきあわせている光景は「ファーストキスは公園で」なんて漫画によく出てきそうなシチュエーションでもあり、そのちょっとした背徳感を覚える薄暗さがよけいに、人を/とくに親子連れを、遠ざけているのかもしれないなんて当時中学生だった私は思った。生意気にも。

しかし私がその公園を思い出す時、真っ先に浮かぶ残像は、夏の西陽が丁度その大木から差し込んだときに見せる、あの模様のことだ。

その公園は私の通っていた中学/高校の最寄り駅から少し歩いたところにあり、当時図書館に通うことを趣味にしていた私は、その隣の図書館もまた愛用していた。確か中学三年生の夏だったと思う。夏休みに入る前に返却しそびれた本を持って、一人でその図書館へ行った。

クーラーで涼みながら、つい雑誌などを読みふけっていると、いつのまにか夕刻になってしまった。慌てて荷物をまとめて図書館を出る。夏休みのうきうきした足取りで、でも宿題がなぁ、なんてちっぽけな悩みを抱えて、足を踏み出して、すぐに気がつく。あれは図書館の入り口にまで届くほどの大木だったのだ。

陰影だけでなく夏の濃い緑色がそのまま広がったような模様を辿ってそれを見上げる。触れる私の足や腕までにしみ込みそうな濃い影。ああそうか、この大木は図書館より民家より公園より、昔からここにいたんだなぁ、なんてことを考え、私はひどく充実した気持ちになった。

が、そんなことはすぐに遠くに行ってしまった。何しろあの頃の私には新しく知るべきことがいくらでもあったし、思い返すべきことは少なかったのだ。

そして夏休みあけに、また本を借りに図書館へ行った。何も気付かずに通りすぎて、図書館へ入り、出て、ようやく気付いた。公園が明るい。なぜなら大木がなくなっているからで、その場所にはアパートが建設中だった。空色に塗り直されたベンチには、カップルが腰掛けている。その光景は、とても健康的だった。

その時に焼き直されたセンチメンタルな/薄暗い公園の残像を思い返しながら「ロックトランスフォームド状態におけるフラッシュバック現象」を聴き、私はいつからこんなに「思い出す」ようになったのだろうと考えていた。

[] 自問自答

言葉にならない感情を、考えることをしたいと思う。

それは問いを発することでもあり、問いに答えることでもあり、つまり、ほとんどの場合が自問自答だ。私はこう思う。なんでだろう。その繰り返しなんじゃないのか。どこかからやってきた「答え」があったら、まずは「なんで」と訊いて/考えてみたい。なんでなんでなんで? なんでなんでって訊きたいんだろう。

でもそれはほとんど自分の中で交わされる「なんで」だ。人の言うことに対して「なんで?」と思うこともあるけれど、別にその人の考えを変えたいわけではなくて、私はこう思う、を、いつも用意していたい。でも自分の中だけだと、どうしても見えない部分もあるから、人と話をして、新しい角度からの「なんで」のきっかけをもらえるのは、ありがたい/うれしい、と思うし(もちろん興味ないこともあるけど)、それに答えるための言葉が自分にないなぁと痛感して愕然とすることもある。

きっと、結論するのが目的じゃないんだろうな、と思う。でもいつかは、自分の中に答えらしきものが見つかるときがくるかもしれない。でも、それはそこまで考えた過程こそが考えの輪郭なのだろう。だから、それは自分にとっての答えでしかなくて、それで十分なのだ。

社会のルールと、自分の問いへの答えを探すことは別物なんだから。

shokou5shokou5 2006/07/23 02:08 はじめまして。shokou5@kyotoです。『遊覧日記』はブログを始めた頃からいつも楽しみに読ませて頂いていたので、エレカシのライブ・レビュー、楽しんで頂けたようで光栄です。FACTORY、ほんとにすごい面子ですよね。京都に用事がなければ是非とも行きたかったイベントなので羨ましいです。フジのダイジェスト必ず見ようと思います。どのバンドもライブでこそ、ですけれど。
OhDarlinまんまの曲は1st『エレファントカシマシ』に入っている「やさしさ」だと思います。よかったら新譜と合わせて聴いてみてください。

ichinicsichinics 2006/07/23 02:32 shokou5さん、はじめまして。エレカシのライブレビューは、最初に拝見したときにものすごくうらやましくなったので(笑)、今回見られて良かったです。CDで聴くのと、ライブで見るのとでは、こんなにも印象の違うバンドだったんだということが、うれしい意外さでした。今度ぜひワンマンライブに行ってみたいと思います。
そして「やさしさ」のタイトル教えて下さってありがとうございます! この説明で分かってくれるなんですごい。早速きいてみますね。

2006-07-21

[] だめに決まっているじゃないか、と答えることの危うさ

世の中には、議論することそのものが、無意味でむなしい問題というものがある。それはたとえば、人には自殺をする権利があるのか、また、人を殺すのはなぜわるいのか、などであり、わたしはこうした議論を真剣におこなっている者を見るたびに、なにやら憂鬱な気持ちになるのだった。(略)こういった問いを発することが、なにやら重要で、真摯である、とでもいいたげな態度がいやなのだ。

「空中キャンプ:自殺なんかしたらだめに決まっているじゃないか」

そういった問いはここでも何度かあつかってきたので、私も「いや」に含まれるのだなぁと思うとちょっと悲しい。私は「空中キャンプ」さんの文章のファンだし、こうやって反論めいたことを書くのは心苦しいような気もするのだけど(何だそれは)、でもそれはやっぱり、「だめなものはだめ」ですむだけの問題じゃないと思うのだ。もちろん、そう考えることは自由だけど、その問いを切実に発した人に対してそう答えることはしたくない。

例えば「人を殺すのはなぜわるいのか」という問いに対し、だめなものはだめ、と答えるなら、なぜこの国には死刑制度があるのだろう? 社会に順応できない極悪なやつは殺してもいい? でも、殺人を否定する人間がそれを判断するということには矛盾はないのだろうか?

社会のルールをやぶったものへの罰としてもっとも有効なものが「死」であるというのはおかしい、と私は思う。しかし一方で、たとえば家族が被害者となったことで、加害者を殺してやりたい、と願う遺族の気持ちも想像はできる。私も同じ立場に立たされたら「極刑を望む」と言うかもしれない。

ただ、もしも、真に道徳的な感情を育てようとするならば、それは禁止されているからしてはならないのではなく、心から、命を尊ぶということを教えなければならないのではないだろうか。(そして「だめだからだめ」も本来その延長線上にあったのではないか?)

私が生きるために、食べ物となる動物や植物が死ぬ、という構図が最も身近なものだろう。私はたくさんの生き物の犠牲の上にある。そう考えると気持ちが滅入る。滅入るということすら偽善めいているような気がする。殺してはいけないではなくて、私はもうたくさん殺してきたのだ。

自殺についても、だめだから、しちゃいけないから、が有効な相手もいれば、それが逆に追いつめることだってある。権利がある、と思うだけで、それは今でなくてもいいのだ、と思える人だっているだろう。

だめだからだめ、というだけでは留められないほどの人がそれを(本望ではなかったとしても)望んでいる現状があるからこそ、だめだからだめ、以外の言葉や道筋や物語が、必要とされているんじゃないだろうか。

その言葉として、私には今のところ、あなたにいてほしい、ということ以外に思い付かないし、つまりそれは万人に有効な言葉ではないのだけど、考えていきたい、と思っている。

もちろん、考えなくてはならないからではないし、唯一の答えを探しているわけでもなく。

実際に言えることなんて「まあとりあえずうどんでも食べよう」くらいかもしれないけどね。

参考

「自殺してほしくない、けど、権利はあると思う」

「死刑制度は犯罪抑止力があるかどうかじゃなくて」

[] てきとう料理

「米と麺とパン、この先どれか一種類しか食べれないとしたらどれ?」なんていう質問をされればいつだって「米」と答えるくらいライス大好きっ子であるところの私ですが、いつも好きなものしか作らないのでいい加減レパートリーが頭打ち状態であり、じゃあ何か目新しいもの、と思い立ち、ここんとこパスタ(ゲッティ)を開拓しようと思っている。スパゲッティ。村上春樹ファンの一人としてはパスタソースの数十種類くらいマスターしてなきゃなのかもしれないけど、そういえば今までミートソースしか作ったことなかった。というか家でミートソース以外のスパゲッティを食べた記憶がない。

うちの食卓にパスタがほとんど登場しない最大の理由は、わりと大家族で(四人兄弟)、それぞれの食事時間がバラバラであることから、常に「つくり置き」のできるものがメニューとして優先されてきたということだろう。それは例えば煮物汁物揚げ物和え物やらで、すると主食が米の食事に偏り、よって私を含め、兄弟の全員がライス派になったのだと思われる。だからそもそも「麺」って選択肢があんまり浮かばない。

でもまあ外食をすればパスタも食べるし、むしろ好きだ。それでいざ作ってみたら、これが結構面白い(ってやっと思うようになった)。

昨日は茄子ととり肉のトマトソース。今日はカルボナーラ(アスパラ入り)。ソースを作って、混ぜるというのは、要するに丼ものと同じ原理なんだなぁなんて勝手に納得したので、もっといろいろやってみようと思う。

michiakimichiaki 2006/07/24 01:42 こんばんわ。
うちの23日のメインのエントリの後半部分は、この21日のエントリを受けて書かれたものです。「だめなものはだめ」しか言えないオトナに「あっかんべ〜」をするものであります(笑)

ichinicsichinics 2006/07/24 02:26 こんばんは。どうもです。
やっぱり苦々しいものでしょうか(笑)というかこの話だけでなくて、もしかして考えとか態度とかには実利(影響?)がなきゃいけないのか、もしかしてそのへんがそもそも違うのかなぁ、と考えてます。オトナが相手にしてくれなくても、遊んでるのがコドモなのかもしれないですけど。

2006-07-20

[] ゲームとしての私

人生を何かに喩えるとき、「ゲーム」という比喩はわりと一般的なように思うけれど、そこに暗喩されているものは共通していないのではないかと思う。例えばそれを「遊び/フィクション」ととらえるのか「ルール」ととらえるかで、意味合いは大きく異なるだろう。

それでも、その多くは、人生の「意味」を軽くするために「しょせん」ゲームだと言わせる意味合いで使われることが多いだろうし、そう考えることが人を楽にすることも、あるかもしれない。

もちろん、論理や理性は、ゲームから出られる。

だから、人生はゲームだと「考える」ことができる。

でも、情動や直感や無意識は、ゲームから出られない。

だから、どんなに人生はゲームだと「考え」ようとしても、人生はゲームじゃないと「感じ」てしまう。

http://fromdusktildawn.g.hatena.ne.jp/./fromdusktildawn/20060719/1153306583

fromdusktildawnさんのこの文を読んで、納得するとともに、それこそが(私の思う)ゲーム的だと私は思った。

前に書いた文(id:ichinics:20051221:p2)で、私は『長年自分という人間と付きあってみても、どうもこううまく自分を扱えないところがあって、そういう時にふと、RPGを現実でやっているような不自由さを感じたりすることがある』と書いたのだけど、そこで言いたかったのは、要するにリセットもロードもできない環境でそれをするということは、ここまで育ててしまった「私」を今後もプレイし続けなければならないということで、私はそれを不自由に感じる、ということなのだった。

私は「私」が直面する選択肢を選べない。そして選んでしまった後に「あっちのがよかったかなぁ」と思ったりする。しかし私には「私」しかいないので、間違いかもしれない選択肢をそのまま進まなければならない。私には「私」が進むべき「より良い」道が見えることもあるけれど「私」はそううまく成長してなくて選択肢自体が出現しないこともある。

どんなゲームだよ、と思うけど、それが私のイメージする「不自由なRPG」だ。

そしてその不自由さの多くは「感情」に起因している。恥ずかしい、面倒くさい、悲しい、例えばそんな感情によって、目の前に見えている何かを経験できなかったとき、私は「私」を不自由だと感じる。なんでこの「私」なんだろう、と思う。しかし「私」のことを考えてあげられるのは私しかいないので、とりあえず、これまで育ってきた「私」の偶然の選択を、肯定しようと考える。

しかしもちろん、このゲームは不自由なばかりではない。例えば、私の意志と「私」の行動が一致したとき(それは多くの場合「意志」の方が後にくる)、もしくは「私」の行動が私の予期していなかった「よいもの」を見せてくれた時、私は「この人生で良かった」なんてことすら思わずに、その時を存分に味わうことができる。

何が価値か、それは私の意志(というか経験則?)が決めることだけど、それは少し考えてみればすぐに「このゲームの意味」というところへたどり着いてしまう。危険だとわかっていながら、つい窓の外を覗き込んでしまった私は、これまで支配したいと考えていた「私」こそがほとんど唯一の意味だったと知る。

しかし「よいもの」はいつだって「私」からやってくる。そして、意志がそれに価値判断をくだそうとすることすら鼻でわらってしまえるような充足は、いつだって更新される可能性を残している。素晴らしいことに。

そして私は、私もまた「私」を頼りに生きているということを知り、ゲームの内と外に居ながらにして手を繋ぐ。

つまり「私」は私の希望だ。なんて、そんなふうに考えた方がこのゲームも楽しめるんじゃないのって、今のところは思う。

根拠がゆるゆるなので、つい「私」を不自由に感じたりすることもあるけれど、そんなときに私が頼るものの一つが、音楽なんだと思う。頭でなくて音に動かされている自分に気付くとき、毛穴から入り込んだ音が全身を駆け巡って言葉でなく色だけが見えるように思う時。「私」が私から逃れてイメージを泳ぐ瞬間を快楽だと感じ、改めて手を繋ぐ場を作ってくれる。

そんな音楽が、このゲームのサウンドトラックになっている。

と、改めて考えてみたら、そのゲームこそがこの前読んだ『「私」のための現代思想』(id:ichinics:20060710:p1)で書かれていた「物語」なのかもしれない。

でも、このゲームという喩えは、私の思い描いている「物語」であるという側面以外に、私そのものだというイメージがある。さっきゲームの内と外、と書いたけど、外というよりは輪郭って言葉のが近い。

なんて書きながら、私はまだ、私と「私」を明確に分ける言葉を持ってないんだけど、それはなんだろな、客観と感情、みたいな感じです。ああ、ばかっぽい言い方だ。

[] そして不自由な「私」

ここ数日、プラモデル作りにいそしんでいる。工作は子供の頃から好きだったけど、細かいところでおおざっぱなのも相変わらずで、細かい部品をなくしてしまったり、筆が滑って塗り直しになったり、そんなことを繰り返しながらちょっとづつ作っている。

絵を描いたり、文章を書いたり、プラモ作ったり? そういう何かを作る作業をしていると、よく感じるのが上に書いた「私」の不自由さだったりする。

今でもよく思い出すのが、大学の卒業制作でのことだ。大学で映像制作を選考していた私は、卒業制作で、カメラ脚本編集などなど、全てを自分一人でやろうとして、失敗した。私には向いているパートと向いていないパートがあって、それを全てねじ伏せようとしたのがごう慢だったと今は思うし実際コントロールできなかった。もうあの作品は見返したくもない。けれど、その時の経験が、自分に向いていて/心地よいと感じることへ多少の道筋を作ってくれたのだとも思う。

プラモデルを作っていると、どう考えても美しいものはできそうにないと思って、自分の手先が憎らしくもなるけれど、でも、この作業をただ楽しいと思っている自分もいるんだよねと思う。そして、いつもより少し、手間をかけてみようと思う。

向いてないなと思ってやめとくのも、それでもやってみるのも、どっちだってできる。でも、楽しいと思いながらやれることの方が「私」はうまく動くようになる気がする。だから「もっとうまくかければいいのに」と思いながらも、私は相変わらず文章を書く。たぶんここじゃなくても。とりあえず書くことにおいては、その出来上がりの良し悪しを別として「私」はわりとうまく動くし、それはそれが好きだからだ。

勉強だって、学生の頃より、今の方がずっと楽しいと思えるのは、きっとそれなんじゃないかな。意味なんて後からいくらでもやってくる。たぶんね。

[][] ビッグコミックスピリッツ 2006/33号

ボーイズ・オン・ザ・ラン
いよいよ「宮本」化してきた。話だけじゃなくて、同僚の男性とかそっくりなとこ見ると、意図的なんだろうな。
ホムンクルス
頭がい骨に開いている穴を見せようとする場面がいたい。ところで、昨年出たスタジオボイスの「最終コミックリスト200」を今さら読んでるのだけど、そこにのっていた「ホムンクルス」の短評が、すごくて、というか全く意味が分からなくてすごい。三田格さんて人はどんなひとなんだ?
美味しんぼ
美味しんぼでもたまには美味くて安いもの。豚のバラ肉丼(カリカリになるまで炒めたバラ肉をご飯の上にのせてフライパンの油もかけて大根おろし&お醤油たっぷりで食べる)ってのと、納豆飯(みじんにした納豆と、大根の葉の塩揉みをみじんにしたものをご飯とまぜあわせ、よく焼いた塩鮭をすり鉢ですったものをふりかけて食べる)ってのが手軽でおいしそうだ。
闇金ウシジマくん
フーゾクくん編も新たな展開へ。大学生のモコに言い寄るしつこい先輩がついに客として来店。次号どうなるのか。
DAWN
最終話。惜しいなぁ。「資本主義に代わるイデオロギー」は、結局欧米主導の経済から脱却することでしかないのかって、その辺まだまだ見せられるとこはあるんだろうけど、いかんせん画面に叫び声が入り乱れ過ぎていたし、客観的な視点もなかったのが惜しい。主人公は最後までほんとの意味でのピンチに陥らなかったし。最初は面白かったんだけどな。

2006-07-19

 アンテナ

ずいぶん長いことアンテナの調子がわるいみたいで(アンテナ日記みると復旧したみたいだけど)まだ調子わるい。そういうときはRSS使えばいいんだけど、はてなRSSは私の使ってるブラウザだと崩れるので使いづらいし、携帯でアンテナ見てるので、ないと不便/というかつまらない。アンテナのない時代があったなんて!

[][] 風に舞いあがるビニールシート/森絵都

森絵都さんの大人向け、は『いつかパラソルの下で』*1が、良かったんだけど何となく個人的にしっくりこなかったので、どうしようかなぁ、と思っていた。でもchibamaさんの感想(http://d.hatena.ne.jp/./chibama/20060627)を読んで、やっぱり読もうと思って買ってきました。ありがとうございます。読んで良かった。

風に舞いあがるビニールシート

風に舞いあがるビニールシート

『風に舞いあがるビニールシート』は短編集なのだけど、全ての作品が、それぞれの「価値観」をモチーフにしている。ある人はそれを発見し、またある人は守り、探し、隠している。読んでいると「価値観」というものは、その人にとっての「足場」であり、それを抱えるということは人を強くも弱くもするのだな、と思う。

「(略)なにを基準に生きればいいのかわからなくて、いうも誰かの物差しを借りてばかりいた。恋人とか、友達とか、両親とかの考えに頼って、ぶらさがって……」

「犬の散歩」p93

作品の雰囲気はそれぞれ違うのだけど、主人公たちはみな誠実なのが、森さんらしいな、と思います。

特に印象的だったのは、巻末に収録されている表題作。国連難民高等弁務官事務所で働く女性が主人公の物語で、その設定と過去と現在を行き来する話法は少し「ナイロビの蜂」を彷佛とさせる。

人の命も、尊厳も、ささやかな幸福も、「風に舞い上がるビニールシート」のように、簡単に吹き飛ばされて、もみくちゃになってしまうフィールドで生きる夫と、フィールドに出る覚悟は自分の中のどこにもないことを知っている妻。

好きなものを腹いっぱい食べて、温かいベッドで眠ることができる。それを、フィールドでは幸せと呼ぶんだ/p232

そうなんだって、わかってるけど、というところで逡巡する主人公の気持ちがとても真摯なもので、恥ずかしながら途中でちょっと泣いてしまった。そして最後の数ページがもったいなくて、すこしづつ、読んだ。

どの短編も、読み終えた後の余韻まで、じっくり味わえる作品集だったのだけど、『DIVE!!』の森さんの作品か、と思って読むと、違和感はあると思います。別物だと思って読んだ方がきっと楽しめる。むしろ別ペンネームにしてしまっても良いんじゃないかと思ったり。

[] 田中達之さんはほんとすごい。

前に書いた*2STUDIO4℃のFLUXで公開されてた新作が、結局見れなくて(ボーダは対象外だったので)もしかしてと思ってyoutubeみたら、あった。あっちゃったよ。で、見ちゃった。ごめんなさい。

だけど、すごい。森本さんのももちろんだけど、田中達之さんはほんとすごい。何だこれは!!!!! と思って10回くらい連続で見た。すごい。その世界観はいつもの感じで、私はその「感じ」が好きすぎるわけで、それがそのまま動いてるって興奮する。もしかして全部一人で作画してるんじゃないかと思う。

それがこちら!!

ぜひ完全版にしてDVDで発売してほしい。

田中さんについては、もう三年くらい前に予約した画集がまだ出ないんですが(そういや渋谷のツタヤにその件についてのコメント付きポップがあった)、まあ、待ちますいつまでも、と思った。

もうすぐ「陶人キット」も「GENIUS PARTY」で公開されるし(id:ichinics:20060326:p1)、うれしいなぁーと思ったら、「GENIUS PARTY」の公式が消えている…。STUDIO4℃のサイトにも情報ないし、なんだかちょっと心配です。

ただ、『鉄コン筋クリート』の方は公式(http://www.tekkon.net/site.html)も更新されていて、トレイラーも見れます。12月23日公開!!

[][] ジブリゲド戦記」について

先々週あたりに、試写会で見てきました。

公開前なので感想書いていなかったんだけど、ブクマ見ていたら早くも酷評に流れているので驚いた。

確かに子供が見て面白い映画じゃないだろうなぁ、と思う。そしてあんな大きな宣伝をされるような華やかな物語でもない。もっと慎ましやかな作品だった。

それでも私は「良い」と思った。その理由を何度か書こうとしてるんだけど、これがなかなかうまくいかない。

[一応畳みます]

続きを読む

chibamachibama 2006/07/19 05:36 TBありがとうございます。イチニクスさんの書評を読んで、ああそうそう、そんなことを感じながら読んだなあと、うれしくなりました。なんというか、感覚を共有できたような気持ちになりました。DIVE!!読まれたのですね。森さんの作品に対する評価も、なんだか似てるかも(笑)

ichinicsichinics 2006/07/20 01:44 chibamaさん、こんばんは。こちらこそ、chibamaさんの感想のおかげで読むチャンスをいただけたようなもので、なんだか嬉しいです。「DIVE!!」は大好きな作品なんですよ。ほんとに夢中になって読んだ、まれにみる幸せな読書体験でした。あれから、オリンピックでも真っ先に飛び込みを見るようになったのですけど(笑)なかなか放送してくれないのが残念です。

2006-07-18

[][] はなればなれに BANDE A PART

監督:ジャン=リュック・ゴダール/1964年

シャンテ・シネにて

ゴダール映画をこんな風に楽しんでみれるとは思いもよらなかった。いい加減な犯罪と三角関係を中心とした物語に主軸はあってないようなもので、ただその場のやりとりを見ているだけで楽しい。しかし時折ハッとするような言葉や表情が垣間見え、それについて考えているうちについ物語から置いていかれそうになる。繰り返して見たくなる作品だった。

最も印象に残ったのは、やはりカフェで「計画」を練る場面。「何もすることがないなら一分間黙ってみないか?」とフランツが提案してはじまる1分間の沈黙ゲームでは、映画の背景音自体が消えてしまうことで、観客もまたそのゲームに巻き込まれてしまう。しかしそれもまた「飽きた」という一言によって唐突に途切れる。そして音楽がかかり、三人はダンスをはじめる。三人が一つになって踊る場面は楽しいが、ナレーションによって、それぞれが考えている( )の中身が知らされ、彼らが「はなればなれ」であることが暗示される。そしてフランツが抜け、アルチュールが抜け、オディールが残る。席に戻れば三人がぐるぐると、席を入れ替えながら恋の駆け引きが続いている。

三人が手を取り合ってルーブル美術館を駆け抜ける場面、「急げ! 死ぬにはまだ早い」と相棒フランツに呼びかけるアルチュール。随所にちりばめられた、まさに若者映画といえるようなきらめきは、くやしいくらい格好よく、そしてとても「映画的」だ。しかしそれは「嘘」というのではなくて「物語がはじまる」というナレーションから、ラストシーンまで、意図され続けていたことなのだろう。それは例えばオディールという一人の少女が夢見た逃避行だったのか、なんて考えてもみる。

しかしアンナ・カリーナの美しくかわいらしいことといったらない。

はなればなれに [DVD]

はなればなれに [DVD]

この映画のことは、作品のファンであるタランティーノが「BANDE APART」という名前でプロダクションを興した、という逸話で名前だけ知っていた。しかしカフェでの会話やダンスの場面などなど、タランティーノがここから受けている影響があちこちに見られるのが面白かった。

[] proverb/Nagoya marimbas/CITY LIFE:Steve Reich

Proverb / Nagoya Marimbas / City Life

Proverb / Nagoya Marimbas / City Life

proverb

女声ソプラノと男声テナーが交互にそれぞれのパートをかけあい、オルガンとビブラフォンが支えていく静ひつな音。

ところで、ソプラノによって繰り返されるテキスト「How small a thought it takes a whole life! − [Culture and value]」はヴィトゲンシュタインによるものらしい。このCDを買った頃は英語のライナーなんて読む気にならなかったし、それが誰かもわからなかっただろうけど、なんかちょっと嬉しい。今調べてみたら、ライヒは大学でヴィトゲンシュタインを研究していたとのこと。なんだかとても腑に落ちた。

Nagoya Marimbas

タイトルの通り、2台のマリンバが演じるかけあいが美しい作品。同じフレーズが繰り返されることが少ない作品で、音が重なり、離れ、すぐにまた近付く様子は、2匹の蝶を思わせる。しかしその演奏風景を思い描くと、軽さというよりは緊迫感を伴なう超絶技巧であることが伺える。マリンバの持つ、水の流れるようなイメージが涼やかで耳に心地いい。

CITY LIFE

アンサンブルとニューヨークの街の音/声が掛け合いを重ねることで「都市」が浮かび上がる。5つのパートで構成されているのだけど、第一部以外は緊迫した風景が続く。そのサンプリングのせいなのか構成による物語性によるのか、個人的にはサウンドトラックという印象が強い作品なので、ぜひ街中で聞いてみたい。もしくは小説を読みながら、だったら何が良いかな。SF?

暑くて仕方ないので、何か涼しい音…ミニマル・ミュージゥク? と思って昨夜久々に聴いてみた。けど、このアルバム自体はライヒの作品の中でもミニマルから遠いものである(ように思う)し、あまり涼しくはない。

[] How small a thought it takes a whole life!

そうだ、と思う。お前に何がわかる、と言う人もいるだろう。何かを言葉にするなら、もっともっと深く潜ってからにしろ、と言う人もいるだろう。そしてそんなことに何の意味があるの、と言う人も、全部わたしの中にいる。

それらの言い分は正しい。けれどその正しさもきっと、彼らから見れば間違っているのだろう。

A → Eまで歩いた日々の記録で、本当に価値があったと思えるのはCの日1日だとしても、それはA → Eという流れの中にあって、もうAには戻らない。それなのにありもしないXの話。XがAの後なのか前なのか、それすらもわたしとかれらとの見解は異なり、またそれは全く別のXについてなのに。

[][] 天然コケッコー映画化!/「アヒルと鴨のコインロッカー」も!

くらもちふさこさんの「天然コケゥコー」が映画化されるそうです*1。くらもちさんの作品が映画化になるのは、そういえば初めてですね。

監督は「リンダ リンダ リンダ」の山下敦宏さん。

しかも、そよちゃんは夏帆さんです! うわー。文春文庫のキャンペーンガールだった方ですね(id:ichinics:20050917:p4)。

最近、漫画原作映画多すぎない? って思うけど、これは期待しちゃうな。

大沢君を演じる岡田将生さんってどんなひとなんだろう、と思って検索したら*2「アヒルと鴨のコインロッカー」も映画化される*3って知ってびっくり。うーん。

IMAOIMAO 2006/07/18 01:13 この頃のゴダールって、正に映画狂って感じで、おちゃめで可愛くて良いですよね。アンナ・カリーナへの愛おしさにも満ちてるし。
正直最近のは、ちょっと独りよがりすぎる傾向もあるけど、でも今でも「ハッと」する様な瞬間があってやっぱりこの人天才なんだなー、と思っちゃいます^^

kissheekisshee 2006/07/19 01:28 『はなればなれに』、大好きです。ゴダールが大好きなひとにはそれほど評判が高い作品ではないのかもしれないけれど、なんともいとおしさにあふれた作品ですよね。
ルーブル美術館をただ走り抜けるだけのシーンも、好きですね。
だいぶ昔に、この映画の感想を書きました。よかったら、ご覧ください。
http://freett.com/fizzpop/music/60s/bande.html

ichinicsichinics 2006/07/19 03:55 >>IMAOさん
そうそう、おちゃめ、ですよね。時折「映画」に対する皮肉のように見えたりするとこもあるんだけど、でもやっぱり映画が好き、というゴダールの若さも感じる作品でした。あと、とにかく言葉遣いがすてきでした。

>>kissheeさん
ほんと、すてきな作品でした。でも、学生時代に見ていたらきっともっともっと大好きな作品になったんだろうなと思うのが少し残念です。kissheeさんの感想にもありましたが「はかなくて短い季節」はまさにあのルーブルを走り抜ける場面のようにあっと言う間なんだなーとか、そんなことを思いました。

2006-07-17

[][] レザボア・ドッグス

イタリアスーツ男か…という訳で*1久々に見た『レザボア・ドッグス』(別にイタリアではない/ということに見始めてから気が付いた/英語なのに!)。タランティーノ作品の中では一番好きな映画かもしれないです。

レザボア・ドッグス [DVD]

レザボア・ドッグス [DVD]

「裏切り者は誰か?」というシンプルな筋なんだけど、テンポの良さと会話の妙で最後まで楽しんでみれる。まあ全体的に血だらけなんだけど、深刻な状況の中で繰り広げられる混乱してるときのむちゃくちゃな言い合いとその言葉のはしばしから鮮明に浮き上がってくるキャラクター造形こそがこの映画の魅力だと思う。

前に見たのは大学生の頃で、それからしばらくは「ホワイト」とか呼ばれたいなんて言い続けてた。この「互いを色で呼びあう」という設定にはポール・オースターの『幽霊たち』を思い出します。んで、「ピンク」役のスティーブ・ブシェーミがまだ若くて、格好良いんだ。

ちなみに「レザボア・ドッグス」はチョウ・ユンファ主演の『友は風の彼方に』が元ネタらしいですが未見。あの「銃を向けあう場面」の格好良さが好きな人(自分です)にはジョニー・トー監督の『ザ・ミッション』がお勧めです。1対1とか5人で一斉にとか、いろんなパターンの銃構えが見れる。

[] 過去になる

掃除をしていると、いろんな紙が出てくる。

部屋の中のあちこちに、例えばノートの間や古い鞄のポケットなどに、ごっそりメモが挟まっていたりする。今はほとんどこの日記にまとめ書きしているけど、長いこと、紙切れに文を書いてはポケットにしまう、というのが癖というか習慣だったのだ。まさにチラシの裏

ともかく。今日見つけたメモの中に、中学生の頃、旅行中に書いたものがあった。言葉遣いも字も、今とほとんどかわらないんだけど。

10時間飛行機の中で過ごした。ホームアローンを見た。アップルジュースプリーズと言ったら7upが出てきた。バッファロー行き。隣の席は外国人のおじさん。プラムをくれた。サンキューと言ってみたが聞こえたかはわからない。

外国は広い。道を通っていると見渡す限りが緑。土地がありあまっているってかんじ。広い広い! 地平線が見えちゃうくらい。

「聞こえたかはわからない」というところが思春期というか内気な感じですね。聞こえるように言えばいいのにね。

これはシカゴを通ったあの時(id:ichinics:20060624:p1)のものなのだけど、ここに書いたこと、全部覚えているなぁと思う。やはり一度文字にすると、記憶の像が定着するのかな。

逆に、人の書いた文章は、時間をおいて読むと全く印象の違うことがある。

昔もらった手紙やら何やらも、ちらほら出てきたのだけど、その時は遠回しに見えたものが、今はまっすぐに見えたり、憧れてた人のレコード評の中に、口癖を見つけたり。そうやって言葉が「文章」になるくらい、長い時間が経ったということなのだろう。

時間というのは、そうやって思い返されることで、まとめて「過去」になるのかもしれない。

だとしたら、こうして毎日のように日記を書いたりするのは、一日ごとにデータ保存してるようなものなのだろうか。でも実際、ここに書いている日記には具体的な出来事はあまりないし、基本的には事実をもとにしたフィクションのようなものだ。それじゃあ、あと数年後、これを読み返すときの私の記憶は、どこに焦点をあわせるんだろう。

[] 月刊アフタヌーン 8月号

蟲師
「日照る雨」この季節にぴったりのお話だった。気持ちの良い雨って、しばらく体験してないような気がする。
謎の彼女X
「わたしと“絆”で結ばれてる人がわたしの“よだれ”をなめたら―― その人の身にも何かの異常が起こるはず……」おーこれってもしかして「鏡の法則」? と思った。よだれ云々は設定です。
ナチュン
都留泰作さん新連載。大脳の一部を失った数学者が残したビデオ。それを見た学生は「人工知能」つまり自意識のある機械の作り方を発見してしまう…というところからはじまるストーリー。今回は、それを自らの発見にすべく、まずはビデオの撮影に沖縄へ向かう、というところまで。まだどんな作品になるのか読めないんですが、彼は「何」に気付いたのかってとこにそそられます。
プ〜ねこ
二巻買い忘れていた…。あしたかうこと。
ヴィンランド・サガ
マガジン→アフタヌーン移籍でそうなる予感はしてたけど、やっぱ1、2巻は大型化して出し直すらしい。書き下ろし4コマ付き。で、3巻は10月23日発売とのことー。
宙のまにまに
天文部、夏合宿、で、何を連想したのかがやっとわかった。
神社のススメ
最終回。大団円でした。蘭陵王(らんりゅうおう、と読むらしい)っていう舞を踊るんだけど、見てみたいなぁって思った。
EDEN
『僕達の「これから未来はもっと良くなる」という想いが/いつの間にか地球規模で行き詰まってしまった中で/「世界」の残酷さに耐えられず/「社会」の中で幸福を得られず/「神様」を信じる事も出来ずに/「無駄死に」していく者達の魂をどうやって救う?』 魂か。
水中花/斉藤千柳
四季賞春準入選作品。シンプルな線なのだけど、画面はにぎやかであたたかい。既に完成された絵柄。都会の女の子が田舎の従兄妹と過ごす数日のお話で、この間読んだ衿沢世衣子さんとか安永知澄さんの雰囲気にちょっと近いかな。それぞれのキャラクターがとてもかわいらしいし、転換点となる場面の美しさなどの印象に残る構成も含め、とても気に入りました。これからが楽しみ。

*1:昨日読んだ「クマとインテリ」内のジェラートを巡る短編がタランティーノっぽい、と思って。

2006-07-16

[][] 「FIGHT SONG」の我々と肯定への抵抗?

相変わらずメタルについてだらだらと考えている。今まで知らなさ過ぎたので、とんちんかんなことをいい続けてるような気もしつつ、今までジャケットだけしか知らなかったレコードたちに性格付けしていくのは楽しいし、それがかっこいいなら聞きたいなーというわけで。

今日は「メタルヘッドバンガーズジャーニー」のなかで少し触れられていた「反キリスト」というモチーフについてちょっと思ったことを。

反キリスト、悪魔崇拝、などのイメージはデスメタルなのかと思っていたのだけど、ちょっと検索してみると、デスメタル自体に特に定義のようなものはなく、デスボイスで歌ってさえいればデス、という表現をあちこちで見る。

反キリスト教、悪魔崇拝といった傾向を色濃く打ち出しているのはブラックメタルのようだ。ヴェノムが出したアルバム「BLACK METAL」がその始まりとされているが、ジャンルとして注目を集めるようになったのは映画にも登場した、ノルウェーのメイヘム以降の流れらしい。このひとたちは(映画で見ただけですけど)半端なく恐いので調べる勇気ないです。キーワード[ブラックメタル]が詳しい。

ただ、それらのバンドのファンが全て悪魔崇拝主義者なのかといえば、それは違うだろう。ブラックメタルについては、あまりにも実感が湧かないので(聴いたことないし)、もう少し手近なマリリン・マンソンについて。

2001年のサマーソニック、千葉マリンスタジアムで見たマリリン・マンソンは衝撃的だった。

照明が落ち、暗い穴のように見えるアリーナ席から響いてくる「FIGHT!FIGHT!」というかけ声。私は友人たちと、「まあ見てみるか」程度の気持ちでスタンド席に座っていたのだけど、見渡せばスタンドにいる人たちも多くが拳を振り上げながら「FIGHT!」と声を合わせていて、まるで何かの集会にきてしまったような居心地の悪さを覚えたし、正直ちょっと恐かった。しかし、いざ曲が始まってみると、フックありまくりで格好良いロックンロールだ。(雰囲気としては、このライブ映像に近い → http://www.youtube.com/watch?v=PXGSCQXjyfM

and I'm not a slave to a god that doesn't exist.

and I'm not a slave to a world that doesn't give a shit.

[Fight song]

「俺は実在しない神の奴隷じゃない」なんて歌詞が、こんな攻撃的でノリの良い曲に乗ってるということ。残念ながら英語ができない私には、彼のアジがさっぱりわからなかったけど、とにかくその音の渦に巻き込まれる感じは気持ちよさそうだった。

その「気持ちいい」は、『メタルヘッドバンガーズジャーニー』からの言葉を借りれば、「我々」になることの気持ち良さとも言えるだろう。

マリリン・マンソンといえば、「Antichrist Superstar」というアルバムタイトルからも反キリスト教主義者とみなされ、バッシングの矢面に立たされることの多いバンドであることでも有名だ。実際に彼/彼等が反キリスト教主義者なのかどうかはわからない。ただ、少年時代の逸話などを見聞きする限りでは、彼がそれを疑い、その疑いが「I wanna grow up/I wanna be a big rock and roll star/[LunchBox]」と歌うまでのモチベーションになったのだろうことは想像に難くない。そして、音の快楽だけでなく、むしろそのような彼の意志にこそ共感するファンが多いだろうことも。

Look at me now/got no religion.

Look at me now/I'm so vacant.

Look at me now/I was a virgin.

Look at me now/grew up to be a whore.

And I want it/I believe it.

I'm a million different things/And not one you know.

Hey, and our mommies are lost now.

Hey, daddy's someone else.

Hey, we love the abuse.

Because it makes us feel like we are needed now.

But I know/I wanna disappear.

[I want to disappear]

メタルヘッド〜」の感想でも引用したインタビュー(リプレイスメンツと比較してた人の)に「メタルファンに顕著なのは「帰属意識」だ」という言葉があった。その流れで考えると、つい「反キリスト教を打ち出したバンドが築こうとしているのは新しい宗教なのか」と思ってしまうのだけど、そこは注意が必要だろう。ブラック・メタルについてはなんともいえないけれど、とりあえずマリリン・マンソンの場合はもう少し個人的なところに足場があるように感じられるし、そこが魅力でもあるのだろう(と私は思うし、例えば上に引用した「I want to disappear」の歌詞の繊細さなんか、ちょっとぐっとくる)。

アメリカでのメタル非難は、「加害少年はマリリンマンソンを聴いていた」なんて報道を例に見ると、いわゆる「ゲーム脳」問題に近いのかもしれないが、「反キリスト教」という部分がクローズアップされるのは、従来の倫理観を脅かすものとしてとらえられているということだろう。宗教を信仰することに馴染みの薄い日本ではちょっと想像しにくいかもしれない。特に最近は「宗教」が批判される際に「集団」を批判する意味合いを伴っていることが多いように感じるんだけど、もしかしたら、だからこそ、日本ではメタルや強烈な主張をもったバンドが浸透しにくいのかもしれない、なんて思う。そして逆に浸透している/するとしたら、それは宗教が生活に根付いていないことによって、歌詞の意味が伝わりにくいからなのかもしれない(大雑把ですが)と思う。そして日本語で出てきたそれはきっと「宗教っぽい」と非難されることだろう。

確かにライブ会場で「Fight!」のかけ声を聴いた瞬間、私は「集会」みたいだと感じ、居心地が悪い、と思った。そしてそれはたぶん、何か禁欲的な自制に基づいていたような気がする。もちろん音楽の受け取り方は自由だし、そこに宗教を連想するのも笑うのも単純に音を楽しむのも嫌悪するのもありだ。

そして今ここで、私が思うのは、「宗教」がひとつの倫理であるならば、「宗教/集団」を肯定することは「個人」を否定することではないのかもしれないということだ。

それは「集団」が先にあるのではなく、想定されている「敵」を共有する/していると思い込むことによって形成される「我々」だろう。「共有」は時に間違いを引き起こすこともある。しかしそれなくしては動かないことがあるのも事実だ。個人というものが、自分にとってより良い世界を求めるものであることと、それは矛盾しないとも思う。

たとえわれわれが自分の見解のすべてが真理であると思うほど狂気じみているとしても、われわれはそのような自分の見解だけしか存在しないことを望んではいない。どうして真理の独裁と全権が望ましいことなのか、私にはわからない。真理は大きな力を持つというだけで、私には十分だ。真理は戦うことができねばならず、敵対者を持たねばならない。そして、われわれは時にまた、真理から逃れて不真理のうちで安らうこともできるのでなければならない。『曙光』五〇七

メタルヘッド〜」を見て、私が一番強く感じたのは「嫌われ、非難されている」ことが確実に求心力のひとつになっているということだ。それがつまり敵の共有ということなのだけれども、そこで目指されていることは、メタル的な価値観が社会に適用されることなのではないだろう。むしろ常に抑圧される側であり続けることで、魅力を保ち続ける、ということができているように見えたのだ。錯覚かもしれない。しかし時にはキリスト教信者が悪魔崇拝をやってみせたりということが許容されているのは、その悪魔崇拝が目指すところが反キリスト教を「実現すること」そのものではないことは明かだろう。

例えば「Fight song」に身を任せることの気持ち良さは、自分の中にある(抑圧される側の)鬱屈した怨恨感情に響くからなのだろうけれど、音に求められているのはその感情の「場」として存在することなのかもしれない。個人の感情を重ねられる場所であり続けるということ。だが、それを力として行使することで、抑圧する側となり、価値を転倒させてしまったら、それはまた別の存在になるだろう、と、ちょっと混乱してきたけど、ともかく、反社会的な面白さというのは、それが社会に適用されてしまったら、その魅力も失われかねない。

じゃあ、例えばこれはどうだろう。

状況が悪くなればなるほど作品は尖ると思うので、アニメは一度死んでしまう方がアニメのために良いんじゃないかなと思います。だから政府のアニメ支援なんて全く余計なお世話っていうか。支援されるより、規制される方がまだマシなんじゃないでしょうか? パンチラ規制の方がまだ良い。パンチラ規制されても、まだ何かやれる。パンツを隠す絶妙なアングルの発明とか。そういう考え方の方が好きですね。

「土曜日の実験室」p124

極論かもしれないけど、一理ある、と思った。そして、その方が面白いんじゃない? って思う自分も、いるんだよなぁ。ルールがなきゃゲームはつまらないけど、ルールがあるからゲームが面白いわけではないというか。複雑なようだけど、たぶん、目指すべきところは、たどり着くところじゃないんだろう。全てが肯定されてしまうことへは、疑いをもたなきゃいけない。

[] 暑すぎる

暑すぎて頭がまわりません。

もっとまとまりのよい、メタルな文章を書いてみたいと思って試行錯誤したけどもちっとも浮かばないので相変わらずだらだらと書き続けてるけど、結局のところ何が言いたいのかというと、ちょいオタは違うだろうということだった。そうなの? いやいや。どうかなぁ?

じっとしてるだけで暑い。夏大好きーとか言っちゃってたけど、このじっとり湿ってしかも暑い。空気重いってのには正直参ります。しかも私の部屋にはクーラーがない。なのでこれからクーラーのきいた喫茶店に読書でもしに行こうと思います。

[][] クマとインテリ/BASSO

オノナツメさんの作品で読みたい、と思ってたのは出版社がなくなったかで手に入んなくて、7月28日に復刊されるのを待っています。(コチラ→http://spn03068-02.hontsuna.net/article/1730629.html

クマとインテリ (EDGE COMIX)

クマとインテリ (EDGE COMIX)

なので裏表紙の[『イタリア男、スーツ、眼鏡』がテーマの小粋なCOMIC]という言葉に苦笑しつつ、「クマとインテリ」を読んでみました。面白かった。

確かにイタリア男スーツ眼鏡で、属性が全てなところから「何か」を見つけてくお話が多いです。

ところで些細なことなんだけど「でもお前チョコレート好きなのにな」「チョコは喰うよ/ケーキとかジェラートでチョコ味は苦手で/なんか」って言葉にとても共感。わたしもーチョコ好きだけどチョコ味食べないー。とかどうでもいい相づちうちたい。

2006-07-15

[] 「SUPERFLAT MONOGRAM」/細田守さんについて

ichinics2006-07-15

私が初めてLOUIS VUITTONの店に足を踏み入れたのは、その店舗で上映されていた映像をもっとよく見たいと思ったからだった ―― って書くとなんだか語弊があるけども、とにかくその映像には、それまでまったく興味のなかった/というか縁もなかったヴィトンのお店の、中にまで入らせてしまう引力があった。

その映像は村上隆さんのキャラクターを使ったアニメーション映像で、5分程度の短いものだったように思う。携帯電話を持った女の子が、LOUIS VUITTONのお店の前でパンダに飲み込まれて、不思議の国のアリスみたいに冒険する物語。色の強い色彩で描かれる「不思議の国」と、「現実」の淡い色彩が印象的だった。女の子のキャラクターもかわいくて、でも作り込まれてないさり気なさがあって、これはほんとすごいアニメだ、と感激した私は、お店の中にいるお客さんたちに怪訝な顔をされながらも、繰り返し、それを見たんだった。お客さんたちはみんなアニメには興味がなさそうで、これをここで流すなんて、もったいないなぁ、と思ったのを覚えている。

映像の最後の場面は、窓の外に見える表参道で、こことそこが交差するみたいな、ちょっとこそばゆい感じにわくわくしながら、私は「村上隆ってすげーなぁー」と思っていた。

そう、私はつい最近まで、あのアニメーション映像を監督したのは村上隆だと思ってたんだった!

そんなわけないじゃん、疑おうよ自分、と思うけど、うん、なんかあの頃はアンテナ折れてた。なので、「土曜日の実験室」を読んで一番びっくりしたのはこの部分だったんだ。

細田守がヴィトンのプロモ映像という特殊な場でしか作品を作れない状況はかなり不幸です。誰よりアニメファンにとって不幸。

『土曜日の実験室』/p119

なんだってー! と思って検索。まじだ。そしてこれは丁度ハウルの監督交代直後のことだったんですね…。(と、ジブリをイメージすると、「ポータブル空港」はこの作品のタッチとかぶるなぁ)

しかし今日はいよいよ「時をかける少女」が公開され、絵コンテ集も発売となる(これはもう書店に並んでたけど)。ファンにとってはとても嬉しい展開だと思います。この勢いで、「SUPERFLAT MONOGRAM」もDVD化されないかなぁ。ちなみに「SUPERFLAT MONOGRAM」のキャラデザは「デジモンアドベンチャー」劇場版の第1、2作で細田監督と組んだ中鶴勝梓さん。音楽はFPM田中知之さんでした。なんてこった。

細田守さんのお仕事については、コチラが詳しいです(http://www.blueridge.gr.jp/~seeba/hobby/mhosoda.html

ところで以前書いた(id:ichinics:20060629:p1)「時をかける少女」の試写会、どうせ見にいくし、と思って結局応募しなかったのですが、行った人の日記を薄目で見ていると(見てからちゃんと読むつもり)なんだか大絶賛のようで、いよいよ期待が高まります。

[] ザ・ワールド・イズ・マイン「真説」発売決定!

ザ・ワールド・イズ・マイン」の感想(id:ichinics:20060531:p1)はじつはまだ書いてる途中なんですけど(ん?)、なんとコミックビーム編集部から全5巻にて発売となるそうです。しかも

どーせ新たに出すなら、著者が不満に思ってる個所を描き直しちゃえ!!ってんで、126ページに及ぶ描き直し&新たに49ページ加筆しちゃったんですわ!! んで、特にラスト近辺は相当変わっちゃったんで、タイトルも変えちゃおうってことで『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』となったのであります!!

コミックビーム8月号 p502]

とのこと。うわー。というか後半の巻にはプレミアもついてたそうで。知らなかった。買えてよかった。読み比べが楽しみです。

1、2巻が8月末発売予定。

「の残滓」さん経由(http://d.hatena.ne.jp/./kokko3/20060712#1152706188)でこの話を知って、ついビームを買ってしまいました(三宅乱丈さんの新作目当てでもあり)。後半の巻は、つい最近もブックオフなどで見かけたのですが(私は中盤の巻で苦労した)、真説出てからのが出回るかなぁ? 微妙なところ。

個人的には宮本の方が集めるの苦労して、結局愛蔵版と単行本入り交じって集めたので、ぜひ宮本も再販して欲しいです。

2006-07-14

[][] デトロイト・メタル・シティ1巻/若杉公徳

昨日長い感想(id:ichinics:20060713:p2)を書いた「メタルヘッドバンガーズジャーニー」をなぜ見に行こうと思ったかというと、実はこの漫画を読んだからだったのでした。確かどこかで映画と漫画を同時に紹介されているひとがいたんだけども…。(追記:こちらでした → http://kizurizm.blog43.fc2.com/blog-entry-1445.html

デトロイト・メタル・シティ (1) (JETS COMICS (246))

デトロイト・メタル・シティ (1) (JETS COMICS (246))

デトロイト・メタル・シティDMC)」は、悪魔系デス・メタルバンドのボーカルが、実はスウェディッシュポップ好きのゴボウ男(作中注:軟弱な男)で…というギャグマンガ。ほんとはメタルなんてやりたくないのに、といいつつ、つい天性の悪魔的パフォーマンスを繰り広げてしまう主人公の二重人格ものとしても楽しめる。

ここで描かれるデス・メタルは「笑える」んだけど、これがデス・メタルファンから怒られることはないだろうなーというか、その辺のさじ加減が少し不思議だった。けどなんとなく、これは自虐なのかなぁという気もする。漫画が、というよりはメタルのメンタリティに自虐が含まれるというか、自虐はメタルを呼ぶというか。

メタルヘッドバンガーズジャーニー」の最後の方で、ボーカルの人(スレイヤーの人だったような…)が『カトリックの信者でありながら「神は俺を救わない」と歌うことについてどう思うか』と訊かれ、苦笑する場面があったけども、そこで何というか、メタルはエンタテインメントでもあるんだなと思った。つまり「ぶっ殺してやる」というのはほんとじゃないですけど、そういう気持ちがあることは肯定して解放するような感じ、なんていったらつまらないと思いますけど、その辺を受け入れる懐の深さが、映画でメタルファンの言ってた「ヒップホップも聴いたけどしっくりこなかった…」というとこに響くのかなと思いました。やはり、そこで描かれる生き様に共感できるかどうかなんだろうな。バンドと共闘してると誰かもいってたような。

ところで、DMC主人公の好きな音楽ジャンルはスウェディッシュポップなのだけど、日本でスウェディッシュ・ポップがはやったのは結構前なので時代設定も90年代後半なのかもしれない(アメリがずれるけど)。しかしスウェーデン含む北欧といえば、昔からメタルが有名だった地域だ。もしかしたらスウェーデンの若者にはクラウザーさんのようなアンビバレンツを感じる人も多かったかもしれない。だからこその設定かも、とかむりやり考えたりした。

ともかくDMCは面白かったです。大人気みたいだし、そのうちCDとか出るような気もする。そんでマキシマムザホルモンがやったら面白いんじゃないかと思ったけど、意味合いがかわりそうだな。でもデスメタルってどんな曲調なのかがよくわからない。歌詞で分類?

あと気になる点といえば、DMCは三人編成のバンドで、ギターはクラウザーさん一人なのに、クラウザーさんがギター弾いてないシーンが多いこと。いやまあ、いいんだけど。

ついでにデトロイトといえばこれ。「メタルヘッドバンガーズジャーニー」ではメタル開祖の一組に入れられてました。前のめりロック。

Kick Out the Jams

Kick Out the Jams

[] リヴァース発言

WEEZERのリヴァース・クォモがMTVで「僕たちは終わっている。再びアルバムを作るかは定かでない。どうしても必要ならば別だが」と発言して憶測が飛び交っているらしいです。(こちら→ http://www.barks.jp/news/?id=1000025359&m=oversea

マット脱退後に流れた解散説を思い出します。グリーン・アルバムまでどれほど待たされたことか、と思うと心配ですけど、今回はむしろ結婚によるモチベーション喪失なのかしらと思うとこもあって、だとしたら庵野監督みたいだ、と少し思う(すみません)。

[] 直木賞芥川賞発表

芥川賞伊藤たかみさん「八月の路上に捨てる」(文学界6月号)、直木賞三浦しをんさん「まほろ駅前多田便利軒」と森絵都さん「風に舞い上がるビニールシート」。

森さんの受賞作はちょうどいま読んでいるところです。「DIVE!!」をはじめ、好きな作家さんなのでうれしい。

しかしこのニュース(http://www.asahi.com/culture/update/0713/021.html)を読んで一番びっくりしたのは伊藤たかみさんが角田光代さんのだんなさんだったことだ…知らなかった。意外というわけじゃないんだけど。

[][] IKKI8月号/スピリッツ32号

 

IKKI 8月号

ぼくらの
キリエ編、終了。キリエ編はちょっと、いろいろ考えさせられることが多かった。そして彼の出した結論についても。
あいらぶ日和
表紙の「このサインしたら『大好き』ってこと」っての見て「メロイックサインだ…」と思ってしまったメタル脳。親指ちょっと違うけどな。
金魚屋古書店
「漫画は作家のものだけど、雑誌は編集長のもの」そうなのか。編集者はどこに。
シルバラ
ジョージ朝倉さんの読み切り。ある写真家の元に突然現れた「娘」との旅のお話。すごく良かったです。ジョージ朝倉さんの作品の中で、一番ぐっときたかもしれない。野蛮で図々しくしかし繊細で優しい。
乙女ウィルス
今回は部活を引退する高校生のお話で、久々にストレートな感触。この人の作品は、このくらいのテンションがちょうどいいなと思う。
フライングガール
思いでの詰まった缶詰のお話。しみじみうまいなぁ。
太る犬/ちからヒロシ
第20回イキマン受賞作。全く展開を予想してなかったので、驚いた。結末を読んでからだと、タイトルバックの絵柄が悪趣味にすら思えるけど、それもまあ、作戦なんだろうな。次回作にも期待。

ビッグコミックスピリッツ 2006/32号

日本沈没
D計画編・終章。これが導入部だとすると、とても丁寧に描かれていて感情移入しやすいなと思う。原作…と思いながらここまできちゃったけど、どうしよ。
電波の城
天宮がサッポロFM時代に起こした事件をさぐる回想編。地獄の貴婦人とまで言われる天宮はほんと今まで見なかったタイプのヒロインで先が気になる。
バンビ〜ノ!
今回は野上さんの回想。コラムページには自家製リモンチェッロの作り方が。「皮をむく→皮をアルコール度数の高いウォッカに漬ける→1〜2週間おく→水とグラニュー糖を1対1(1がウォッカの量と同じ程度)で火にかけてシロップを作る。→漬込んだ皮を取り除いたものと、シロップをまぜあわせる。」
ボーイズ・オン・ザ・ラン
ガシャポンおたくに絡まれてる田西を救う青山。青山の後輩のキャラが、なんか見たことある感じで、いい感じにむかつく。そして田西とガシャポンの男は友達に、なるのか?

2006-07-13

[] さよならクレイジー・ダイヤモンド

ichinics2006-07-13

私にとって、サイケデリック・ロックの象徴といえばシド・バレットだった。サイケ〜プログレに興味をもったのも、ピンク・フロイドの1st『夜明けの口笛吹き』が切っ掛けだったし、あれを超えるサイケデリック・ロックはないとも思う。

その辺りの音に食傷気味になり遠ざかってからも『帽子が笑う…不気味に』や『その名はバレット』はよく聴いていた。完成度はそれほど高くないかもしれないけど、シド・バレットの持つポップさがよく出たアルバムだと思うし、その独特の歌詞はやはり魅力的だ。特に『タコに捧ぐ詩』の歌詞なんて、ファンタジー小説かマザーグースかって具合。

シド・バレットはミュージシャンに愛されたミュージシャンでもあった。1stにはソフト・マシーンのメンバーやデイブ・ギルモアやロジャー・ウォーターズが参加、2ndではギルモアとリチャード・ライトがプロデュースを担当しているし(ロジャーには断られたわけだけど)、彼が隠居生活を送るようになってからも、ラブコールは絶えなかったという。彼の脱退から7年後に発表された「あなたがここにいて ほしい(Wish You Were Here)」はその象徴のような曲だろう。

シド・バレットが精神を病んでピンク・フロイドを脱退し、その後音楽シーンから姿を消してしまったことの正確な理由はわからないけれど、なんとなく、ニック・ドレイクのことが頭の中で重なってしまう。

勝手ながら、シドの晩年が穏やかなものであったなら良いなと思う。

→ http://www.bounce.com/news/daily.php/8346

[][][] 「なぜ“メタル”は嫌われ、非難されるのか」

メタルヘッドバンガーズジャーニー」を見た。

ヘヴィ・メタルの歴史は長く、かなり多くのコアファンを擁しているわけだけど、スポットを浴びることの少ない音楽ジャンルでもあり、メタルファン以外には全体像をつかみにくいジャンルだと思う。

この映画のジャンル分けで「メタルに属すバンド」の中には個人的に好きなアーティストもいたけれど、ジャンルとしてのメタルに興味を持ったことがなかったので、この映画はとても面白かったし参考になった。とはいえ、筋金入りのメタルファンである監督の「ファン」としてのスタンスが強く全面に出ているので、1意見におさまっているという感触は否めないけれど、その視野の狭さもなんだか好印象。

「あの夏はSLAYERを聴いてたなー、なんてことはない(ロブ・ゾンビ)」

映画はメタルの歴史、音楽、ファン、ファッション、男性的であること、歌詞など、様々な部分にスポットをあてながら進む。

いろいろと興味深い発言をしていたのが元ホワイトゾンビのロブ・ゾンビ。メタルファンの息の長さと、そのファッションにも現れているコミュニティ性をとても冷静に語っていた。映画中に見せられるチャート式のジャンル分布図を見て、メタルに含まれるジャンルが多いことを意外に思ったのだけど(グランジやミクスチャーも入ってたような/そうなの?)、映画を見ている限り、アーティスト同士、ファン同士、その広い分布図の中に属しているものに対する「仲間意識」のようなものが感じられ、さらに意外に思う。実際どうかはわからないけど、しかしそのような団結力が、逆に排他性を生み保守的になる一因なのではないかとも思ったりした。ではその団結力とは何か。

『スミスやリプレイスメンツを聴く奴は「俺は人とは違う」と思う。孤独を愛する。しかしメタルファンは「俺たちはおかしくない」と言う』というようなことをインタビューで答えている人が(誰か失念したが)いた。これはもっともだなーと思ったのだけど(そして私はどちらかというと前者に属する音楽を聴いてきた)メタルというのはどうやら「俺たち/我々」の音楽であるようだ。「あの夏はSLAYERを聴いてたなー」なんてことがなく、半永久的にファンであり続ける、というのはファンとしてもミュージシャンとしても幸福なことかもしれない(ちなみに私のレコード店時代の上司にもアイアン・メイデンファンがいたが、その好きさはまるで「生まれつき」で、たぶんファンをやめることはないだろうと思われた。)。しかしだ。監督は「メタルがなぜ嫌われるのか」ということをテーマに映画を撮っているし、たぶんメタルファンとしてメタルの素晴らしさを伝えたいという思いがあるのだろうが、例えば、メタルがヒットチャートの上位を独占し広く受け入れられるということは同時に「あの夏はメタルだったなー」というファンを増やし、消費されていくということだろう。だとしたら、むしろメタルは今までそうならないで「生き延びてこられた」ということを喜んでもいいんじゃないか、と思ったりした。

メタルにはダサさが必要

メタルファンの人に喧嘩を売るわけではないのですけど、メタルは意図的にマイノリティであり続けようとしているジャンルなんじゃないかと思う。だからむしろ、「おしゃれになったら負けだと思ってる」んじゃないか。「抑圧されている」という状況が(実際はどうかわからないが)むしろ求心力を生んでいるんじゃないか? キャッチーでポップで商業主義的な音楽は、うまくいけば広いがどうしても薄まる。コアな人気のクオリティを保つためには、常にカウンターであり続けるのが理想だと思うけど、それはなかなか意図してできることではないだろう。しかし、たぶん、プロモーション事情なども絡み、音楽ジャンルとしてのメタルは「(スタイルとして)保守的な/ダサさ」の残るものだけがメタルと呼ばれ、他ジャンルに属すことのできるもの(グランジ、ミクスチャー、ハードコア、サイコビリー、etc)を切り離してきたと思う。それが逆にジャンルを生き延ばす原因になったんじゃないか、と思った。

また、その反社会、反宗教的な歌詞について、メタルが青少年に悪影響を与えるとされ、非難を受けている場面も出てきたが、私はここでつい「ゲーム脳」のことを考えてしまった。どちらも暴力的表現が多い(とされている)ところで共通点があるかもと思ったがそれはまあおいとく。ただ「叩かれる」ということがよりファンの団結力を強めるということも、あるのではないかとも思う。

ただ、ここでさらに意外だったのが、ブラック・メタル(ノルウェー)の人たちはとりあえず除き、意外と歌詞に重きを置いていないような発言をしているアーティストが多かったことだ。重きを置いてない、というのはちょっと違うけど「俺の意見」というよりは「メタルの意見」を歌詞として選択しているような印象を受ける人もいて(これも誰か忘れた)、それもまた「我々/俺たち」の音楽だからなのかなと思う。

なぜメタルファンはコアなのか

しかし「カウンターであること」や「排他的であること」が保たれているように感じるのは、その歌詞にある反宗教的な部分云々やファッションの特異性なんかよりも、それが劇場型の音楽だからなんじゃないかと思った。

映画の中に、いくつかライブシーンが出てくるのだけど、これがまあ、とにかく楽しそうなんだよな。アイアン・メイデンのブルース・ディッキンソンが、メタルのヴォーカルとして、会場の一番奥にいるファンにまで届くように歌う、というようなことを話していて「ライブがうまくいくと、会場が縮むような気がする」と言っていたんだけど、これはすごいことだと思った。そしてちらっと映った映像だけで、そのヴォーカルは全く好みではないけども、ライブ会場にいたら鳥肌がたつだろうと思った。

エモーショナルなヴォーカルというのは、その曲の好悪を越えて胸をうつところがある。ブルース・ディッキンソンのようなハイトーンでオペラ的なヴォーカルが特徴的なメタル(それがメタルだと思ってた)が好みじゃない私も、例えばレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンSystem of a Downロブ・ゾンビがかっこいいと思うのは、そのパフォーマンスの熱によるところが大きい。サマソニで見たマリリン・マンソンは恐かったけどすごいライブだと思ってその後アルバム買ってしまったし。ちなみにハイトーンだけどもJUDAS PRIESTもかっこいいと思う。サバスやZEPはもちろんのこと。

たぶんきっと、ライブ会場で音に参加することに意義がある音楽というのは、長生きするのだと思う。

メタルといっても、まあきっといろいろだ

メタルを通らないできた音楽ファンとしては、この映画でその魅力の一端でも知ることができてよかったと思う。楽しかった。しかし音に関する掘り下げ方は、ちょっと物足りなかったかもしれない。チャート出すなら、それらのスタイルにどんな違いがあるのかちゃんと説明して欲しかった。

私がなぜメタルをたぶん意図的に遠ざけてきたのかといえば、まずはジャケットのイメージと(これはホラー映画が好きとかそういうのとつながるのかなぁ?)、そのイメージがテクニック重視に思えた点だったと思う。この映画を見る限りでは、その原因はエディ・ヴァンヘイレンにあったというようなニュアンスだった。あの速く/高音の/長いギターソロ。特にクラッシックの旋律のあれが苦手なんだけど(それはオルガン苦手にも通じてます)、メタルファンの中で、特にヘヴィ・ロックを好む人たちにとってテクニック系(ヴァン・ヘイレンをその括りに入れていいのかはわからないけど)ってどう受け取られてるんだろうとか、そういうとこもっと見たかった。インギ様とか、北欧メタルとか、そういやノータッチだったけど、どうなんだろ。「あれはメタルじゃない」とかっていがみ合うメタルファンも見たかったなぁ。唯一異端ぽく紹介されたのが、グラム・メタルだったけども、これもさらっと流してたしなぁ。

「なぜ“メタル”は嫌われ、非難されるのか」

この映画での、この問いに対する答えは、正直凡庸に感じた。

今まで遠巻きに見ていたメタルというジャンルと「なぜ“メタル”は嫌われ、非難されるのか」というテーマを比べてみたとき、思い付くのはやはり、「嫌われ、非難される」ことが求心力のひとつになっているからなのではないかと思う。

「メタルなんて聴いちゃって、気取ってる」とは言われないこと。好きだからこれを選んだと言えること。それが団結力を生むのか。どうか。もうちょっと見聞きしてみたい。

参考

Dirk_Digglerさんの、こちらの感想(http://d.hatena.ne.jp/./Dirk_Diggler/20060630#p1)がわかりやすくとても面白かったです。上で疑問だったグランジ周辺のこともきちんとフォローされていた。

2006-07-12

[][] ヨコハマ買い出し紀行芦奈野ひとし

連載は途中で脱落してしまったので、完結したらまとめ読みしよう、と思ってたのを、やっと。

ヨコハマ買い出し紀行 1 (アフタヌーンKC)

ヨコハマ買い出し紀行 1 (アフタヌーンKC)

私の中には、もう長いこと、この黄昏の世界での時間が流れてるような気がする。少しだけ。それを「とっておき」の場所にしちゃいけないなと思いながら、私はこの世界に憧れる。

この数年で世の中も随分変わったわ

時代の黄昏がこんなにゆったりのんびりと来るものだったなんて

私は多分この黄昏の世をずっと見ていくんだと思う

ヨコハマ買い出し紀行』は、温暖化(のようなものだろう)*1が進行し「年々海が上がってくる」という黄昏の世界を舞台にした物語だ。しかし、その世界に悲愴さはなく、ゆったり、のんびりしている。

終末のフール』という本を読んだときも*2、同じようなことを思った。「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?」という一言。変わらないってことは分かっているのに、リミットが「定められていない」というだけで、なぜこんなにわかりにくく感じるのだろう。

ヨコハマ買い出し紀行』の主人公アルファさんはロボットだ。アルファさんは人と同じように食べて、笑い、泣いて、眠るけれど、外見は年をとらない。

マッキちゃんはタカヒロと時間も体も

いっしょの船に乗ってる

私はみんなの船を岸で見てるだけかもしれない

第45話「みんなの船」 /6巻

その「年をとらないこと」についてのアルファさんの気持ちが現れているのが、たとえばこの台詞だったと思う。しかしやがて一年間の旅から帰宅した場面には、こんな台詞がある。

るすの間の話を聞いた

ココネが4回来ていたこと

おじさんが足にケガしてしばらく歩けなかったこと

私の知らない毎日がほんとにあった

きのうまでの一年間がじわじわひとかたまりに

過去になっていく

うまれてはじめて

ひとつ齢をとった気がしている

第81話「一年空間」/9巻

とても印象に残っている場面。そして、彼女はリミットが決まっていなくても、それを見据えることはできるのだということの象徴のように感じる。

この物語での世界は、たしかに終わりかけている。けれどそれはいつだって、いま私がいるここだって、同じことで、終わりはちゃんとくる。でも、それが「いつ」かわからない限り、この世界は行き止まりを先延ばしにすることを、やめられはしないだろう。それでも、私にとって、この物語で描かれる世界の晩年は、ひとつの理想だ。

世界にしろ個人にしろ、命というものは「最後かもしれない燃料を一滴も残すものかとあせるように走るように泣きながら回る[第124話「鼓動」/13巻]」プロペラみたいなものなのだと考えるとき、私は自分のそれを、毎日を無駄にしたり味わったりしながら、大切に使いきりたいと思う。そしてそれは「とっておく」ことじゃないんだなって、よく思い出す。

終わりを考えることは、決して後ろ向きなことではない。いつから終わりはじめるのかなんて、たぶん誰にも決められないからこそ、それは考えられるべきだ、とすら思う。

私はそれについて、いつかもっときちんと言葉にしてみたい。

ヨコハマ買い出し紀行 (14) (アフタヌーンKC (1176))

ヨコハマ買い出し紀行 (14) (アフタヌーンKC (1176))

この最終巻での最後の言葉は、この物語のはじまりとつながって、きちんと閉じている。読み終えたあと、空のターポンから地上を見ているもう一人のアルファさんのことを考えていたら、「みんなの船を見ているだけ」と感じているのはアルファー室長なのかもしれない、って思ったりしたけど。あそこでの生活も、きっと止まってはいないだろう。結論はないけど、すべてがただある感じが、この漫画のすばらしいところだと思う。

[][] ヨコハマEIZONE

ヨコハマつながり。

みなとまち横浜の開港の歴史香るレンガ造りの倉庫や建物と映像が融合した新しい空間が広がる「ヨコハマEIZONE(エイゾーン)」。

2006年7月22日(土)〜30日(日)

http://www.y-eizone.jp/index.html

エイゾーンってどうかと思うけども、なかなか面白そうです。デジスタの歴代入賞者による展示上映会やら東京藝術大学大学院映像研究科の学生作品やいろいろ。

「横浜の過去、現在、そして未来をCG映像を駆使して映し出す(YOKOHAMA-ARC)」*3なんていうのもある。

*1:作品中では言及されてなかったと思う

*2id:ichinics:20060413:p1

*3http://digitalcamp.net/xoops_html/

2006-07-11

[] 伊豆半島旅行

高校時代からの友人が海外へ行ってしまうということで、数人で送別旅行に行きました。といってもまぁ、いつもの顔ぶれにいつもの車で、運転できない私はいつもの助手席で眠らない係(つまりなにもしてない)。

f:id:ichinics:20060712002301j:image:h150 トンネル好き。

最初に行ったのはどこかの吊り橋。吊り橋渡ると恋に落ちるらしいと聞いたことがありますが落ちたでしょうか。高いところ苦手なので渡れないかと思ったけど、意外と頑丈な吊り橋だったのでそんなにどきどきしなかった。腰はひけてたけど。

f:id:ichinics:20060710160538j:image:h100 こんな吊り橋で、

f:id:ichinics:20060712002035j:image:h150 足下こんな(腰ひけ状態で撮影)。

f:id:ichinics:20060712001931j:image:h150 f:id:ichinics:20060712002116j:image:h150 昼食とデザート。

夜は温泉宿にとまって、風呂三昧。ひとつの風呂はできたばかりでよかったんだけど、あとの露天が……梅雨の露天は危険だとわかった。天国と地獄なみ。

翌日は下田へ。

f:id:ichinics:20060712001746j:image:h150 誰もいない海。

f:id:ichinics:20060712001849j:image:h150 下田といえばペルリさん。

伊豆にはいくつか不思議観光施設があるのですが、下田で通りかかったのはこちら→*1。入場せずにのぞいただけだけど、まあ、なんとなく想像はつく。

f:id:ichinics:20060712002302j:image:h150 外から見るだけならまあ。

メインはずっと行ってみたかった下田海中水族館です。初めて行ったんだけど、とても雰囲気の良い水族館だった。HP*2にはライブカメラも完備しております。水族館大好きです。とくに回遊魚が好きです。

f:id:ichinics:20060712002300j:image:h150 きれー。

f:id:ichinics:20060712002259j:image:h150 エイはかおがかわいいです。でも目じゃなくて鼻らしいです。

この水族館は水槽は少ないけど、いろんなショーをやっていて海の中でイルカと泳げたりもします(こんかいは未体験)。ショーの中では、アシカショーがよかった。おねえさんもかわいかったし。

イルカ見るともう「さようなら、いままで魚をありがとう」を思い出してしまう。

f:id:ichinics:20060712002728j:image

ちなみにこの写真で飛んでいるのは、カマイルカのトット、だったと思う。

水族館のあと、再びひたすら走って東京へ。振り返ってみると、ひたすらだらーっとした旅行だ。もう少し暑くなったら、今度は泳ぎにいきたい。

2006-07-10

[][] 「私」のための現代思想/高田明典

私たちが直面している「問題」は何でしょうか。もちろん、私とあなたの「問題」は異なっているはずです。この本は、それぞれの「私」が直面している問題を、自分で解きほぐす手助けとなることを目指しています。[p20]

というような趣旨の本。

帯には『自殺には、「正しい自殺」と「正しくない自殺」がある』なんて書いてあって、興味をそそられる(?)んだけど、読み終えてみると、この議題については、その動機(もしくはこの本を手に取る動機)がわりと限定された/というかそれを持っている人むけに書かれている印象を受けた。

基本的に「私」について考えている3章まではとても面白く、しかし若干の出来過ぎ(うたぐりぶかい)を感じながら読んでいたのですが、そこに〈他者〉の視点が入ってくる後半にはすこし違和感があった。なんで違和感を感じるのか。ちょっと整理してみようと思う。

ちなみにこの本はid:michiakiさんにおすすめしていただきました。感謝。以下の感想には〈物語〉の部分はあまり触れてないけど、ほんとはそこが一番面白かったので、それについては別途考えたい。というか考え中。

「私」のための現代思想 (光文社新書)

「私」のための現代思想 (光文社新書)

第2章で、私たちは〈世界〉に投げ出され、その中で何らかの〈物語〉を遂行しながら生きていく存在であるとして、まず「仮面」の話がある。そして、ハイデガーの『世界劇場』という概念をモチーフに、「対象化された(他人の目を通して把握された)自己」の下にある「現存在(仮面をつけていない、本来的な自己)」が役割を演じることを苦痛に感じているのならば、まずその脚本を疑う(?)ところからはじめるべきだ――なぜなら『〈物語〉の遂行は、「その行動によって、ある時点での〈世界〉を、別の〈世界〉へと変化させること」が目的[p114]』だから、と説明する。

著者は〈物語〉のゴールを「得る物語」と「逃れる物語」に分けて考える。「得る」のほうはうまく説明しづらいけど、「逃れる物語」とはつまり、「逃れられない」と考えることによって辛さを感じ、そこから逃れるための〈物語〉ということだと思う。

つまり、はっきりとは書かれていないけれど「逃れる」ことはいつだってできるので、「逃れる物語」としての自殺はそもそも「正しくない」ということなのだろうと思った。そして「得る物語」こそが、世界をより正しく、変化させるものなのだ、と。この辺りは面白かったので考え中。もうちょっと。

ただ、ここでなんとなくひっかかったのは仮面の下の自己(現存在)の捉え方が、あまりにも漠としたものであるということ、むしろ役柄なしには存在できないもののようにとらえられていることでした。それはなぜなのか、後半を読むとなんとなくわかります。

「私」の捉え方について、第三章ではヴィトゲンシュタインが出てきます。ヴィトゲンシュタインについて書かれたものは永井均さんの本と、飯田隆さんの本を読んだばかりなのですが、ここで高田明典さんが『「私的言語」が存在しないということは、「独我論」が成立しえないということと同義です。[p130]』とあっさり説明されていて、説明する人によってまったく印象が違う(もしくは私の受け取り方がそもそも間違ってる)んだなぁと思った。まあ、とりあえずそこはおいておいて、この本では「超越確実性言明」という『「無根拠」にあなたが信じ、主張することしかできない言明』の束が〈私〉の構成要素であるとしている。そして以下の部分で説明されている

私たちはその内部に「到底引受けることのできない何か」を抱えている存在です。アガンベンはそれを「生理学的な生そのもの」と表現しています。

(略)

そのとき「私」の内部には「引き受けられないものとしての生そのもの」と「引き受けられないと感じている主語としての何か」の二つの要素が存在しているのだと考える必要があります。[p123]

この「引き受けられないもの」を《私》とし、主語としての何かである〈私〉と〈身体〉の重なる部分に、おいているのが、この本における《私》のようです。いろいろあってややこしいけど、無理矢理図解するとこんな→[〈私《〈私〉》身体〉]の[ ]全体が「私」であると。

そして、〈他者〉の存在によって《私》は輪郭を持ち(本では境界と書かれている)その輪郭を内側から規定するものが「超越確実性言明」外側から規定するものが〈他者〉である(p164)。ここがこの本の中核であるような気がします。

そしてこの構図は先の「対象化された自己」が〈私〉、その下にある「現存在」が《私》という関係に当てはめることができる。すると、現存在が漠然としたものに思えたのはつまり、そこに〈他者〉を必要としているという考えが下敷きとしてあったからなのだとわかります(たぶん)。

そのなかで私たちは孤独な闘いを続けつつ、同じように孤独に闘っている〈他者〉の声を受け取ることができます。そのとき私たちは「ともに闘う」決意を、孤独の中で確認することができます。(略)そうすることで私たちは〈他者〉にその存在を引き受けてもらい、それによって《私》という存在が確実なものとなり、また、その存在の強度を増していきます。そのような〈他者〉の存在に触れたとき、私たちの魂は少しふるえます。

それは、私たちが〈他者〉と「ともに闘う」ことによってのみ、「正しくある」ことができるということを意味しています。[p212]

何かすてきな感じではあるけど、「それは〜意味しています」がわからない。もちろんここでいう「正しさ」は「個人の正しさ」なのだけど、私のイメージをこの本での公式にあてはめるなら、他者によって描かれる輪郭は〈私〉の方で、それを覆うものとして現存在があるように思うんだけど、それをどう説明すればいいのかがわからない。ただ、上記のような「声を受け取る」ことは、あると思うし、あって欲しいと思う。しかしそれがなければ《私》が在れない/そもそもない、とするのは違うように思う(この本ではあれない、と言っているわけではないと思うけど)。うーん。でも、それを言ったら、私的言語の部分から、現存在が成り立たないといわれそうなのだけど、そこらへんのイメージの仕方がそもそも違うみたいだ。うー、なんかもどかしい。もっといろんな言葉を覚えたいので、言語についてはもう少しいろんな人の本やら読んでみたいと思う。

追記

一晩寝たら何か違う気がしてきた。

ここでの〈他者〉は、そうか、たとえば〈私〉が何か思ったとき、言葉でその輪郭をとらえるということは既に、〈他者〉の存在を意識しているということだったのかもしれない。そしてその意識が《 》の境界を作るってのが「言葉の意味は使用である」で言われてることなのかも。

「存在を引き受けあう」というのがまだよくわからないので、もうちょっと。

[][] 探偵儀式1、2巻/清涼院流水大塚英志箸井地図

探偵儀式 (1) (角川コミックス・エース)

探偵儀式 (1) (角川コミックス・エース)

流水先生の本は、読んだことない(舞城版「九十九十九」のイメージのみ)なのですが、箸井地図さんすきなので買ってみた。

JDC(日本探偵倶楽部という半分公営探偵組織)のメンバーが「探偵儀式」への招待状を手に,

ある孤島に集まり、そこで謎の事件が……! というのが一巻。警視庁捜査一課JDC担当刑事笹山徹がBDC(ボランティア探偵団?)のメンバーとともに、その謎をとこうとしたところ、新たな事件が……! というのが第二巻。ショウビジネスと化した探偵という職業対壮大な謎っていう、なんだか大風呂敷なとこがけっこう面白いです。ちゃんと謎が解けるのかちょっと心配だけども。

ところで、メフィスト周辺の作家ってあんまり読んだことないんだけど内輪名がよく出てくるイメージがある。この漫画も編集者の名前がめじろ押し&N月R太郎とか。『百密室』ってのは確か九十九十九でもネタになっていたような気がするけど、法月さんは関係あるのでしょうか…?

探偵儀式 (2) (角川コミックス・エース)

探偵儀式 (2) (角川コミックス・エース)

はまぞう見たら3巻出てた!なー。

[] 夏

f:id:ichinics:20060710033244j:image:h100

19時、新宿。焼き肉を食べに行く。大きなくしゃみが聞こえて、振り返ると美しい異国の男の人が「ゴメンナサイ」と会釈して、私の目をじっと見る。新宿にはたくさんの人がいる。見とれる私の横で、友達の声が今すれ違った人が、アイドルの人だったと言うが、その名前をきいても、彼が10代だった頃の顔しか思い出せないでいて、それを確認しようと振り返ると、あの異国の人はまだ立ち止まって鼻をかんでいた。チェックのシャツを無造作にチノパンにたくし込んだその細い腰が心もとない。

19時半、歌舞伎町。焼き肉屋に入る。他愛もない話で笑い転げる。ビールを飲み、マッコリを飲む。どぶろく、という言葉の由来を考えながら、初めてマッコリを飲んだのは、もう一年近く前のことだったと思い出す。彼の顔がもう思い出せない。人の顔を覚えるのが苦手な私は、彼の顔を思い出す方法として、その太いまゆげからイメージするという方法をあみ出したのだけど、それすらもう効力がない。おぼろげなおでこの印象が目の前をちらついて、私はふと手を挙げる。うすピンクのマニキュアをしていたあの日、私の手を、あの人は見ただろうか。はじめて握手をしたときの感触の方がよっぽど鮮明で、でもそれは何か違うと思う。

22時、歌舞伎町。コーヒーを飲みにいく。数えきれないほどの回数その前を通り過ぎたのだろうけれど、意識することすらなかった道路を渡って向こう側の店は、扉を開けると驚くほど広く、清潔だった。女の子たちの制服がストイックでかわいらしく、これからはきっと、新宿に来るたびにこの店にくると勝手に誓う。黒いスカートと白いエプロン。人の歩幅は右足と左足で違うので、障害物のない場所を歩き続けるといつのまにか円を描いているという話を聞いて、いつもなら恐ろしいと思うところなのに、それもいいかもしれない、と感じる。砂漠に行きたい。

23時15分、新宿。話したりないので、喫茶店をはしごする。バーベキューをしよう、という話になって、数年前、多摩川のかわらで七輪を囲んだ時のことを思い出す。今度はちゃんとしたのをしようと言う。

0時、新宿駅。またねと言ってさよならする。電車に乗って、電車を降りて、気持ちがいいので歩いて坂道を下る。「There's Never Enough Time」を毎日聴いている。皮膚の下をなでるような音がくすぐったい。「in due time」がそのうちに、という意味だというのはこの曲で初めて知った。道路の真ん中でヘッドフォンをはずすと、右も左もずうっと真っ暗で音がない。ジジ、と街灯のうなり声が漏れて振り返ったとき、これは夏だ、と知った。この夏にはあえるだろうか。誰に、と問う声に、そのうちにね、と答える。

2006-07-09

[] 本棚

部屋の掃除に行き詰まってる。

未読本の山が処理しきれてないのだから、買わなければいいのかもしれないけど、まあ、買うし。

読み終えた本から処分していけばいいのかもしれないけど、気に入ってる本は手もとにおいておきたいし。

小説以外は折り目つけながら読むので、古本屋でもひきとってはもらえないだろう。

図書室のある家にすみたい。

円形の部屋をぐるりと囲む天井までの本棚。突き当たりに窓があって、小さなテーブルと椅子がある。そうだな、未読本の棚を一つ作って、買ってきたのはそこに入れて、読み終えたら本棚に並べるのがいい。梯子をかけて。

なんて、私がそんな図書室を手に入れることはきっとないだろうから、現実的に考えて、何か策を考えなくちゃいけない。

やっぱり、妥協できるのは、読み終えた本から処分するということだろうな。よっぽどのお気に入りだけ、手もとに残すこと。

[] Time Being/Ron Sexsmith

これはすばらしいアルバムだ。時代を問わず、いろんな人の傍で毎日を過ごし、聴く人の気持ちに寄り添ってくれる音楽だと思う。籠るでもなく、解放するでもなく主張するっていうのでもない、「歌いかける」という感触の音楽を作るひとというのは実は少なくなっているのかもしれない。雨でも晴れでも朝でも夜でも、しっくりくる足下のしっかりした音と、はかないようでいて、ぶれない、甘く、優しく、心強い声。

Time Being

Time Being

「Time Being」は、カナダのシンガー・ソングライター、ロン・セクスミスのメジャー7作目となるアルバム。プロデュースを担当したのは、初期の3作品を手掛けたMitchell Froom。きわめてシンプルな楽曲、演奏にのせた、ロンさんの歌声が映える素敵な作品になっている。スティーブ・アールがプロデュースの四作目「Blue boy」が今までのベストだったのだけど、(「Thumbelina Farewell」が最高に好き/でもこれ確か珍しくロンさんの作曲じゃないかったような/後で調べる)塗りかえられたかもしれないです。

そして、久々に、読書の友にしたいアルバムだなと思った。

来日公演も決まっているそうなので、これはぜひ行きたい。10月5日に Shibuya DUOにて。イープラスの7/21からの抽選に申し込むかな。

[][] 世界の終わりの魔法使い西島大介

はじめて西島大介さんの漫画を読んだときは、そこに何が書いてあるのか、読めても読めてないような感じがして、どうも居心地が悪かった。つまり読み間違うことが許されないような雰囲気、っていうのをうっすら感じてしまうんだけど、それでもつい手にとって、漫画としては安いものではないのに、買って、読んでしまうのは、たぶんそうやって戸惑うのが楽しいのかもしれない。例えば「怒れる主人公」と「どうでもいいという準主人公」という立ち位置が描かれる時に、その怒りに共感しづらいことで、なんというか、自分の温度の低さを思いつつ、しかしそこに映るのがAなのかBなのか、裏表でためらってるような読み心地は懐かしく、結局はそういう屈折した魅力を感じてるのかもしれない。どうかな。

世界の終わりの魔法使い (九龍COMICS)

世界の終わりの魔法使い (九龍COMICS)

世界の終わりの魔法使い」は、町で一人だけ魔法を使えない男の子と、魔法使いの女の子が出会うお話。舞台設定や人物配置は演劇っぽいなと思う。サーフボードで空を飛ぶ場面(エウレカセブンを思い出したけど、こういうのって何かに出てくるんだろうか?)などは読んでて楽しい。

この作品でわからないのは、「魔法で作られた世界で生まれる魔法じゃ行けない場所への方法」って、それこそが魔法のような気がしてしまうんだけど。っていうところ。誰かに解説してほしい。

でもこの後に描かれた「アトモスフィア」のことを考えてみると、あーもしかして、この人はずっと「一連の作品」を描いているのかもなぁ、と思う。でもそれに名前を付ける前に、もうちょっと想像してみよう。

でも私は、怒り/諦観/赦し、以外の部分を採りたいなぁ。とりあえず今日は。そこんとこはもうちょっと考える。

ついでに

世界の終わりの魔法使い」の各話タイトルに使われてるローリング・ストーンズの楽曲一覧。「夢から覚めて」以外は全てブライアン・ジョーンズ時代のストーンズなので、西島さんはブライアンが好きなのかなぁと思う。

  • 一人ぼっちの世界/Get off my Cloud:「DECEMBER'S CHILDREN」収録
  • 魔王のお城/Citadel:「Satanic Majesties 」収録
  • 夢からさめて/Coming Down Again:「Goats Head Soup」収録
  • 邪魔をするなよ/Doncha Bother Me:「Aftermath」収録
  • 眠りの少女/Who's Been Sleeping Here?:「Between the Buttons」収録
  • 2000光年のかなたに/2000 light years From Home:「Satanic Majesties 」収録
  • この世界に愛を/We Love You:「Through the past, darkly」収録*1

*1:「All you need is love」のお返し(?)にジョン&ポールが参加していることで有名だったりする

2006-07-08

[][] シャーリー/森薫

「エマ」はほんと面白いよ、と友人におすすめされたので、その前ふりで買ってみた。

シャーリー (Beam comix)

シャーリー (Beam comix)

好きな雰囲気です。小椋冬美さんとか、榛野なな恵さんを彷佛とさせる上品であったかい雰囲気の作品。

カフェを経営するクランリーの家にやってきた13歳のメイド、シャーリーを主人公としたお話が5話。このシャーリーがとにかくかわいくて、はじめてメイド服を着たときの、うきうきした感じとか、もうたまらないです。いいなぁー。あとがきも面白くて、「なんというか見えないところで喜ぶ子ってかわいいよなーと……それがメイドだったらもっとかわいいよなーと……」というメイド愛に忠実な様がすてきです。メイドいいわ(いまさら)。

それから5歳の当主に仕えるメイド、ネリーが主人公のお話と、変わり者の旦那様に仕えるメイド、メアリが主人公のお話が各一話づつ収録されているのですが、これも良かった。とくにメアリの話は人物のキャラクター、ラストの余韻も含めて好きなお話です。

この勢いでエマも読もう。

[] 江國香織×古川日出男リーディング&トークショー@青山ブックセンター

この前行った古川日出男さんのトークショーが良かったので再び。

今回は。各自の作品を読まれて、その後お互いの作品を読む、という構成でした。

まず最初に、江國香織さんが「ウェハースの椅子」を読まれました。江國さんは、とてもすてきな人だった。ハスキーなんだけどやわらかな声をしてて、朗読が気持ちいい。江國さんの小説は、いつから読んでないかな。子供が主人公のシリーズは好きだったのだけど、私はどうも江國さんの描く「恋愛」が苦手で、いつからか読まなくなっていた。でも久しぶりに江國さんの日本語をきいてたら、やっぱりいいなぁ、と思ったりして。

古川さんの自作朗読は「ルート350」のバッハと物語卵のリミックス。物語卵の、とくに吉祥寺鏡戦争の下りは、読書してる時には気付かなかった発見があった。

間のトークは、どちらが仕切ればいいやら、と戸惑っておられる時間が長かったような気がする。まあ、この会の発端になったトリッパーでの対談で語り尽くしてしまったということなのかもしれない。「僕は場から語りはじめ、江國さんの作品ではだんだんと場が見える」というようなことを古川さんがおっしゃっていたけど、うん、どうだろうな。比較って難しい。

そして古川さんによる「すきまのおともだちたち」からの朗読。面白かった。未読なので、初めて聞くお話だったってこともその面白さの一因かもしれないけど、古川さんの朗読も、楽しませてくれた。

江國さんが読んだ古川さんの作品は「LOVE」からの抜粋。やはり江國さんの声、いいなぁと思う。今日は全然寝てないのでちょっと眠くなっちゃったけど、ラストへの畳み掛けるようなリズムに、ぞくっとする。

最後、お二人が自分達の作品は正反対だけど、とても似ているということを話していて、そうか、と思ったのだけど、正直その辺はよくわからない。わからなくてもいいや、と思った。作者同士が出会い、共鳴するということはきっと、作品にあらわれてはじめて、読者にとって意味のあることになるのだろうし。江國さんの作品から長らく遠ざかっていた私にとっては、また出会うきっかけをもらったことで、十分だったと思う。

ところで、青山ブックセンターのこういう会に行ってよく思うのが、会場に編集者の人が多いなということなんだけど、今日は会場が狭かったこともあり、まるで担当編集者の会合みたいだった。まあそれも仕事なんだってのはわかるけど、ABCの人が話しているのに、全く聞いてないで挨拶交わしてる人とか、挨拶しているトリッパーの編集の人が知り合いだと言って、挨拶中なのに大声で名前読んだり(?)とか、がっかりさせられる。大きい会場だったら、そういうの楽屋でやるんだろうけど……。今まで行ったABCのイベントがわりと雰囲気良かっただけに、今日は後味悪かった。

2006-07-07

[][] DEATH NOTE 12巻(完結)

漫画:小畑健 原作:大場つぐみ

最終回を迎えたらしい、と聞いてから心待ちにしていた最終巻。

ほんと面白い漫画だった。これをリアルタイムで(途中から単行本に移行しちゃったけど)読めてわくわくしたし、ありがとう作者さん、と思う。

DEATH NOTE (12) (ジャンプ・コミックス)

DEATH NOTE (12) (ジャンプ・コミックス)

【以下ネタばれ気味】

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[][] マフィアとルアー/TAGRO

マフィアとルアー (DNA comics)

マフィアとルアー (DNA comics)

TAGROさんの漫画は、ファウストでしか読んだことなかったのですが、最近就寝のお供にしていた「土曜日の実験室」で

浅野いにおにも通じる青さと痛さを内包しながら、絵柄は純度の高いオタ絵。(略)新世代青春モノの可能性と、それが主に同人誌でしか発表できなかった限界とが同居している。

「土曜日の実験室」西島大介

と評されているのを読んで、この作品集を知り、読みたいなと思った翌日に偶然見つけて購入。そういう「運」てうれしい。

で、読んでみたのですけど、浅野いにおというよりは、ひぐちアサ寄りかなぁと思った。それは自意識が表に出るときの感じ、の差だと思うんだけど、でもこの作品集を読んでいて思うのは、「フィクション」を描いている冷静な演出と、紙一重のところで葛藤しているとこまで見せようとする、露悪趣味(私個人の好悪とは別に)と、その両方をもっている人なんだなというとこだった。この作品集でいえば、前者は「マフィアとルアー」後者は「LIVE WELL」そしてその間に位置するのが「R.P.E.」なんじゃないかと思う。その触れ幅の好みは読者それぞれだと思うけど、私はこの人の描く「フィクション」に近い作品の方が、好みかもしれない。

ともかく、この「マフィアとルアー」は、作者のいろんな面を見れる充実した短編集だと思う。

自分のようにクズのような人生経験しか持たない人間でも、この二次元記号の放送塔にセント=エルモの火を灯せないものかと考えてしまうのだ。重い腰を上げ、いざ机に向かった時は。

商業だろうが同人だろうが同じ思いで描いている。だから堂々と売る。

あとがきより

こういうあとがきを読むと、グッときます。素直に。

[] お酒こわい

昨夜は友人の地元で飲みだったのですが、結局7軒もはしごして朝になっていた。

思えばその子と二人で飲みに行くのははじめてだった。終電なくなった三軒目くらいで、友人が何かと席を外して電話をかけていることに気付く。「女の子ふたりで飲んでまーす」という声。なんだそれ。含む私? と訊くと「おごってくれるから大丈夫!」というハイテンション。もしかしてもう酔ってるんだろうか。明日仕事だし、今夜は友人宅に泊まるって話で来たんだけど、人見知りだし、正直さよならして漫画喫茶でも行って寝たかったのだけど、あいにく手持ちの現金が心もとない。そして続々と増える面子。どんどんグラスを空ける友人としらふな私。見知らぬ男性(かなり年上の/いわば会社の上司みたいな/たぶんいい人たち)の仕事の話になれば「でも●さんががんばってるの知ってますよ?」「●さんが悲しいのはいや……」みたいなトークとタッチ!手をのばしてタッチ。うけとりたくないため息の花盛りです。逃げたい。逃げたい。ここは逃げていいはずだ、と思いながら、6軒めでは友人だけが出来上がってしまったので自然としらふ同士で語らっていたら、寝てるのかと思ってた子が「●さん、■(私)とはなすときだけなんか優しいーずるーい」とか言い出す始末。こわ! タッチ継続中。そして唐突な「えーじゃあわたしと結婚して?(上目遣い)」

――私には酒の場の「ノリ」みたいなものがよくわからないのですけど(というか苦手/わかんなくていいもの!)、あーこういうのかぁ(何が)とか思った。キャッチしといたほうがいいのかリリースしてやった方がいいのか、私には判断できない。でもまあ苦笑して流すしかない。で、6軒め出た後には唐突な「おうどんたべたい」。あり得ない。吐くよ?君が。で、案の定。まじで勘弁して下さい、と思う。銀行さえ開いてたら帰ったのに!!

そして明け方、友人をタクシーに送り込んでから帰宅。会社いきたくないとか思いつつ今日ははずせない日だったので出社。そして昼頃きたメールが「昨晩の記憶が全くないんだけど」で、まあ、笑います。飲むと別人てのはほんとにあるんだなぁ。

まあ、良かった点といえば、お酒がおいしかったことくらいか。

michiakimichiaki 2006/07/12 01:28 自分のブログのコメントへのレスばかりか、人のブログへのコメントまで遅れております。「マフィアとルアー」持ってますよ。大都社から出てる単行本がすごいですが、お薦めはしません。

ichinicsichinics 2006/07/13 04:34 すごいって言われるとちょっと気になりますけど題名を見る限り、ちょっと構えてしまいそうではありますね。でも「R.P.E.」のような感触のものはもっと読んでみたいです。作者がつらそうだなとちょっと思ったりもするのですが。

2006-07-06

[] THE ERASER/THOM YORKE

5月11日に発表され、7月11日に全世界同時発売となる Radiohead のフロントマン、トム・ヨークのソロアルバム。(日本版/asin:B000FZEZPQ の発売は7月5日)

The Eraser

The Eraser

正直、それほど期待してはいなかった。ちょっと聞くのがこわいような気もしていた。しかし一旦聞いてみると、それはやはり好きな音で、これを出そうとしたトムの気持ちが、なんとなく想像できるような気がした。

『The Eraser』は Radiohead のアルバムといっても違和感のない作品だ。ただ、新作ってイメージではなく、『KID A』から『Amnesiac』へと続いた時期のアウトテイクのような印象で、それはプロデュースにナイジェル・ゴッドリッチを起用していることからも明確に意図されたことなのだろう。むしろ、当時トムが作曲/もしくはイメージしていたものの中で、バンドに向かないという理由で録音されなかったものを、ソロ作品として完成させたのがこのアルバムであるように感じる。実際の作曲時期などはわからないけれど、あの連作で「やりのこしたこと」があったのだろうなというのは、当時の混沌を思い出せばなんとなく想像がつく。そしてそれは「ソロ名義」でしか消化できないというのが、今の Radiohead の現状であり、誠意なのだろう。

『Hail to the Thief』で Radiohead は既に新しい扉へと向かっている。そして彼らは常に革新的であらなくてはならないという宿命のようなものを背負ったバンドでもある。(でもそんなの、ほんとにあるんだろうか?)

しかしこの『THE ERASER』にある、コード進行の独特さ(特にベースラインが特徴的)、ヴォーカルのスタイル、音の使い方、そういったもの全て、Radiohead のオリジナリティなのだ。それがほんの少しさみしくもあり、でもやっぱり、私はこの音と声が好きなんだなと思う。

「ピラミッド・ソング」を思わせるピアノが印象的な#1「The Eraser」にはジョニーが参加している。マットな打ち込みが気持ち良い#6「Atoms For Peace」ではトムの歌声がほんのりあたたかく、舞い上がるようなファルセットにぐっとくる。この人の声はやっぱり特別だ。

そして、このアルバムをきいて、ますます Radiohead の 新作が楽しみになった。これを「レディオヘッドとしてのエレクトロニカへの未練をリセットする」作品だと見るなら、そこにはやはり「動物化した音」の次の展開があるんじゃないかって、期待してしまうから。

[] ブログの閉鎖

ここ最近、ブログの閉鎖について言及されているところをいくつか読んで、前に書いた「終わり方」という文のことを思い出した。あのときいただいたmichiakiさんのアドバイス(?)を、今もわりと意識してたりするんですが、そういうとこも含め、今の自分の何割かは、いつも読ませてもらってるブログやサイトの文章から受けた影響でできてるってことなんだなぁとか改めて思う。

ただ、「終わり方」に書いた気持ちは今もあんまりかわってない。あれを書くきっかけになったサイトのことは今もよく思い出すし、もしかしたら別idで復活してたりするのかもなーとか思うけど、あったとしても見つけられる気がしない。ということは、ブログ/サイト閉鎖にまつわるさみしさには、この人がもし新しい場所で新しいものを書きはじめても、私に知るチャンスはないだろうってことも含まれてたんだと思う。遠いなぁーということを、改めて思い知らされる感じ。

だから、要は「転校しちゃったあの子のことが好きだった」とか、そういう感傷なんだと思います。話しかける勇気はなかったけど、あの子が笑ってるの見るだけで楽しかった……なんて、自己完結した片思いすぎてちょっとひどい。

ただ、この一年半くらいの間には、新しい場所を教えていただけたこともあったし、思いきって話しかけてみれば、そういう可能性もあるんだなぁっていうのは個人的にとても嬉しい発見(体験?)だった。

でもまあ、要するに私の意識は相変わらず受け手側なんだ。そして実際自分がなんらかの形で閉じよう/終わらせよう、と思ったときのことを想像してみると、なぜ自分の意識が受け手側なのか分かったような気がする。それもまたよしです。

[] ニュース、雨、試写会

ichinics2006-07-06

それは現実に起こりうる、という可能性は「実感」しにくい。むしろ、起こった後にしか感じられないことなのかもしれなくて、窓の外の雨のほうが、よっぽどリアルに思える。それが当然なんだろう。

わざわざお気に入りの傘をさして出かける。ヘッドフォンをしても、雨の音が聞こえる。

試写会で「ゲド戦記」を見た。感想は後日あらためて書くと思うけど、期待以上に良い作品だった。でも私はどうやら原作を途中までしか読んでないみたいだ。ちゃんと読んだら、もう一度見にいくかもしれない。

本屋に寄って、またいろいろ買う。鶴田さんが表紙の日本沈没のアンソロジー(?)はどうしよ、と思ってやめた。中身ちょっとでも見れればいいのに。

2006-07-05

[] 『鏡の法則』は法則じゃないような気がする

あちこちで話題になってる『鏡の法則』というのをブクマで知って読みました。[こちら

言及されているブログをいくつか見てみると、どうやらこの本らしいんだけど引用なのかどうかがよくわからない(いいのか?)。

で、上記ブログのほうに掲載されてる話は、「息子がいじめられてて悩む→心理学に詳しい経営コンサルタントの人に相談する」というところからはじまる。そして「心理学に詳しい経営コンサルタント」の人はこうアドバイスする。

あなたに起きている結果は、『自分の大切なお子さんが、人から責められて困っている』ということです。考えられる原因は、あなたが『大切にすべき人を、責めてしまっている』ということです。

『あなたがお子さんに責められて困ってる』なら因果応報とか「ひとのふりみてわがふりなおせ」っていうようなことにあてはまるよくある話になるんだけど『お子さんが責められてる』のが「あなた」の結果になってるので何か新ジャンルのような気がする。そこに書いてあること全部、息子がいじめられていることとは何の関係もない。

だからこれは本来、息子と「あなた」の関係性に問題を見ているはずで「息子さんの気持ちになって考えてみてください」って言ったら素直に聞き入れないだろう相手を煙に巻きつつ誘導っていう話なのかもしれない。

ただ、煙に巻かれたまんまに見える「あなた」は、いつか息子に「あなたがいじめられなくなったのは、私がその原因を許すことで取り除いたからよ」とか言いそうな気がするんだけどな。そして息子に問題が起きたときに「私にちゃんと感謝してないからだ」と考えたりするのではないか。「法則」にしてしまうということは、そういうことのような気がする。

父親と主人と息子に毎日『ありがとうございます』を100回づつ唱えて「それでもまた問題が起きた」ら、この「心理学に詳しい経営コンサルタント」は何のせいにするんだろ。ありがとうを200回にするとか?

 ほんとっぽいのスイッチ

そういえば結構前に、友人があのスピリチャルの人のことを「あの人はほんものだと思うよー」と言ってて、とはいえ私はテレビあんまり見ないので、説明されてもよくわからなかったんですが、前世とか霊とか、そういうのでトラウマ解決するんだったかな。そんなふうにあらすじを聞かされるとどうしても「えー」と思ってしまうんだけど、それで救われる人がいるならいいんじゃないのとは思う。宗教もそう。

例えばそれが「超能力」だろうが「手品」だろうが、どちらでも「それを信じた自分」だけが重要なんだと思うんだけど、それで救われた人たちはどうなんだろ。「仕掛けがあっても救われたことにはかわりないんだからいい」と思えるのだろうか。

なんとなく、そういうのが「ほんとっぽい」とされる基準てのは、自分以外にあるような気がして、なんだかなぁと思う。その意味を考えて納得したり共感したりすることと、他人の考え(法則)に従うこととは全然別ものだと思うんだけど、それもまあ私の法則か。

[][] ビッグコミックスピリッツ 2006年/31号

CAとお呼びっ!
巻頭インタビュー三人のインタビューなのに、表紙に西田さんがいないのはなぜなのだろう…。
ハクバノ王子サマ
展開が遅すぎてだんだんイライラしてきた。でもコミックスで読む分にはそんなことないのかもしれないけど…。どこか修羅場を期待してる自分がいるなぁ。
中退アフロ田中
「好き」とは何かについて考える田中の巻。
魂語録
今回「瞳子」だった。でもなんでよりによってこれなんだろう。
団地ともお
人の話を聞かないともお。「あらー、お母さんに叱られちゃった?」と問う近所のおばちゃんにむかって「笑い事じゃねー!!」と叫ぶともおがいい。たしかに。
ボーイズ・オン・ザ・ラン
宿敵青山と意図せぬ対面。やるかやられるか。ボクシングはじめてから話のテンポが良くなってきて楽しいです。
アグネス仮面
最終回。なんかもったいない終わり方だな。二十数年前の話だったなんて知らなかった。

2006-07-04

[] 動物化した音 − Richard D. James Album について−

久々にプレイヤーにのせる。このアルバムを最初に聴いてから、もう10年も経っているというのに、この気持ちよさが色あせていないことに驚く。全ての楽曲に思い入れがあるのだけど、特に「4」「Corn Mouth」「Girl/Boy Song」「Milkman」は素晴らしい完成度だと思う。そして10年前の発表時すでに、このアルバムは大絶賛で迎えられていたのだという状況を思い出すと、時間がとまってる、なんていいたくなるし、実際とまってるのかもしれない。私の中で、テクノ/エレクトロニカへの興味は津波のようにやってきて、あっという間に去って行った。とまってるのは私だ。

Richard D James Album

Richard D James Album

かといってテクノ周辺の歴史にまったく不勉強な私にはこのアルバムについて語る言葉を持っていないのだけど、最近寝る間際に西島大介さんの「土曜日の実験室」をぱらぱらと読んでいて、その中に収録されているコラムを読んだら、なんとなくわかったような気分になってしまって。

萌えな音というのは、九〇年代のテクノが終わり「テクノで世直し」や「ベッドルームから世界へ」というスローガンが消えた後に、「この音が気持ちいいからすき」というだけで聴くことが許されてしまう、音響派エレクトロニカと呼ばれるジャンルにこそふさわしいのではないか?

(略)

東浩紀動物化するポストモダン』にならえば、エレクトロニカという、九〇年代テクノ以降の状況は、電子音楽における動物化だったのではないか?

動物化する電子音楽 われ発見せり」ISBN:4900785342より

「Richard D. James Album」は九〇年代の作品ではあるけれど、個人的にはエレクトロニカの中でも、音響、ポストロックが広く受け入れられ求められていった流れの中にあるように感じていた(そしてそれは九〇年代以降というよりは九〇年代後半から21世紀の初頭にかけてのことだと思う)。もちろん、それは私の個人的な感覚でしかない*1。ただ、最初そう考えていたときは、このアルバムにある乱調の美というか、攻撃的な音の中に見えるノスタルジーに後のエレクトロニカを重ねていたような気がするのだけど、この「Richard D. James Album」を含む Aphex Twin の音楽には、そういった物語の共有/文脈に属すことを拒絶するようなところがあるのも確かだった。そして、まあ「気持ちいいから」というところへたどり着くのだった。

例えばフロア向きの音楽が繋がりや解放をイメージさせるのに対し、ここにある要素、たとえば高速ドラムンベース現代音楽的なアプローチと時に安っぽくも思えるシンセの絡ませるやり方は、聖と俗を行き来しながら常に閉じる方向へ向いているイメージだ。内側に圧力をかけることで弾ける手前の風船のような緊張感と浮遊感を共存させ、内面という世界を映し出す。

しかしそれは意図して描かれた物語ではないように思う。重要なのは、やはり音が気持ち良いということ。そしてそれだけを理由に聴くことが許される音楽。

現代音楽はこの先に何を見るのだろうか? もう見えてるの?

「Richard D. James Album」とZAZEN BOYS

ZAZEN BOYSの音楽は、録音されたもので聴くよりも圧倒的にライブの方がすばらしく、しかしだからといってレコードを否定しているわけではなくそれはあくまでも雛形だ、ということは前にも書いたけれど、しかしこう何度もライブに行っていると、彼等がインプロヴィゼーションを主体としたバンドのような錯覚を受ける。

しかしそれはやはり、緻密な計算と鍛錬と才能によって生み出されているのだということを改めて考える。多くの楽曲において、その呼吸は独特で、とらえにくい。しかしそこには、ここでしか体験できない生き物がいて、それに触れあうのがライブなのだと思う。それを観客を拒絶していると感じる人もいるだろうが、そこを覆うポップな楽曲もきちんと持っているのが向井秀徳という人だ。そしてそれは、格好良いというだけで、聴くことが許される音楽なのだと思う。

そしてこの「Richard D. James Album」にも、私は同じことを感じるんだった。もちろん、単に両方好きだからというのが大きいのだけど、乱調のようでいて緻密に計算された音。攻撃的な高速ドラムンベースにのせられたセンチメンタルなストリングス、声、おもちゃの音。この音にそれを重ねるのかという意外性を連発しているようでいて、それが見事にコントロールされたものである点。そして突き放すような音の後に折り込まれるポップな楽曲。ライナーで佐々木敦さんに「フザけてるのかも…」と評されている#4ですら、十年経った今では愛おしいポップさだ。

聴き込めば聴き込むほどに、おなかがすいたら何か食べたくなるのと同じように、次の音を無意識にたぐり寄せている。そして不意に、新鮮に聞こえる瞬間がやってきたりもする。それは自分の中になかった文法を、ほかの生き物と過ごすうちに学んでいくことに、似てるんじゃないかと思う。

[] 芥川賞直木賞候補作発表

芥川賞

  • 伊藤たかみ「八月の路上に捨てる」(文学界6月号)
  • 鹿島田真希「ナンバーワン・コンストラクション」(新潮1月号)
  • 島本理生「大きな熊が来る前に、おやすみ。」(同)
  • 中原昌也「点滅……」(同2月号)
  • 本谷有希子「生きてるだけで、愛。」(同6月号)

 【直木賞

http://www.asahi.com/culture/update/0703/001.html

芥川賞の候補作、5作品のうち、4作品までもが「新潮」に掲載されたものだっていうのが、すごい。すごいのか。すごいよ。

本谷有希子さんは「江利子と絶対」が面白かったので、その次のやつも、読もうと思って、でもまだ積んである。中原昌也さんの小説は・・・実はまだ読んだことがない。ちょっと微妙な思い出があり、手を付けるのにためらいがちだったのだけど、そろそろ読まないとと思う。

直木賞の方は、「砂漠」しか読んでないな。森絵都さんの新刊、読みたいのにまだ買ってない。新刊は本屋で買いたいので、あした、行けたら行こう。

[] 紅茶と猫の生活

仕事でお世話になった方から、LUPICIAというお店の紅茶をいただいた。缶をあけるとただよういい香りにうっとりする。コーヒー派なので、自分で紅茶をいれて飲むなんて久しぶり。今日はアールグレイをアイスティーにして飲んだのだけど、これがもう、とてもおいしくって、家族にも強制的に飲ませる。お湯で濃く出して、氷をたくさん入れて薄めるという横着アイスティーだけど、香りも上品だし、味もキリッとしてる。ミルクを入れるとさらにおいしい。あちこちにお店もあるみたいだし、紅茶以外にもいろんなお茶をおいてるそうなので、今度行ってみようと思う。価格も「マリアージュフレール」とかよりは、手ごろだそうです。

せっかくなので、週末にはスコーンでも焼いてみようかと思ったりしたけれど(形から入るタイプです)この暑さを思い出して却下する。

暑さといえば、猫にはやはり辛いらしく、うちのこも近頃外の駐車場でだらんと横になっていることが多い。呼んでも耳を文字どおり傾けるだけ。立て続けに5回くらい呼ぶと面倒そうに一括される。それは食事をせかすときとは、まったく別の声色で、そういうのも、20年間の生活の中で身に付けた作法なんだろうかとか考える。彼女(雌猫です)にとって、子供だったころの私と、今の私とが、同じ生き物であるということは、理解されてるんだろうか。猫の記憶、というのはどのくらい保存されるものなのかしらないけれど、経験によって蓄積される作法のようなものと、記憶とはどの程度結びついているのかも、そういえばよくわからない。

科学はもう知っているんだろうか?

*1:けど、わりと一般的な受け止め方なんじゃないかな、と思っている。音楽雑誌をほとんど読まないのでよく分からない。

2006-07-03

[][] SOCIETY OF CITIZENS vol.1@日比谷野外大音楽堂

東京事変

SOIL&"PIMP"SESSIONS

ZAZEN BOYS

行ってきました。野音ザゼンは前回も良かったのでわりとがんばってチケットをとった。でも一般発売はほぼ立ち見ばかりだったと思われます。行く前は東京事変主催のイベントっぽいし、たぶんザゼンは一発目だろうと思ったのだけど、逆だった。

東京事変

東京事変もですが、椎名林檎さんのライブを見るのは初めてです。しかも事変はアルバムもほとんど聞いたことがないのでどうしよ、と思っていたのですが、ソロ時代の曲もやっていて、おーと思った。ピアノとキーボード、ドラム、ギターが2本とベースって編成だったかな。たまにホーンも入る(と思ったら次のバンドの人だったみたいだけど)リッチな音づくり。ベース音があんまり聞こえなかったのが残念。

椎名林檎さんがバンドをやると聞いたときは(っていきなり昔話ですが)ブロンディみたいでいいなと(音は違うけど)思ったのですが、ライブで音を聞いてみると、ちょっと音の幅がせまいような気もした。椎名さんの歌い方と声は一聴しただけで認知できるような独特の個性があるので、彼女がいるだけで、その音は椎名林檎のものになってしまうようなところがあると思う。だからこそ、声にエフェクトかけるよりは、もっとアプローチやアレンジにバラエティがあればいいのになというか、もっといろんな人のプロデュースで聴いてみたいなと思うんだけど、どうだろ。ファンはあの楽曲のイメージ含めて好きなんだろうなと思うけれど。

SOIL&"PIMP"SESSIONS

全く知らない人たちだったのですが、楽しいライブでした。アジテーター入りのジャズ〜クラブジャズ。アジはちょっとなぁと思ったけど(「日本の音楽は負けてない」とか言ってた気がするけど、つい「音楽に勝ち負けがあるのか?」とか思ってしまったので/というか日本の音楽ってなんだ/とか考えるととまんないのでおいておいて)、音はついビバップ…とか思ってしまう感じで、もし会場で同じこと思ってる人がいたならお友達になりたいと思いました。

しかし残念ながら体力の限界気味だったので、とりあえずじっとして温存。

ZAZEN BOYS

テレビジョンなしで登場するのは初めて見た。疲労困憊だったはずなのに、いきなり元気になってしまう。

のっけからインプロ前開の「SUGAR MAN」を演るところがさすが。たぶん会場にいた人のほとんどが東京事変をトリだと思ってたっぽいのですが、そのアウェー状態をさらにアウェーへと追い込む向井が好きです。むしろアウェーでこそ輝くタイプのような気すらする。「SUGAR MAN」からの流れは、「USODARAKE」「Himitsu Girl's Top Secret」「SEKARASIKA」「COLD BEAT」「Friday Night」「RIFF MAN(移民の歌への展開あり)」だったと思う(うろ覚え)。あっという間だ。

やっぱりザゼンの音はめちゃめちゃクリアで、日々谷ならではの反響もきちんと吸収してタイトに絞り込むような演奏。向井さんのMCも相変わらずの名調子で、場内を巻き込んで笑わせていた。今日はハットをかぶってたんだけど、しょっちゅう落としてはかぶせてもらっていたのがおかしかったな。

アンコール

椎名林檎さんとの対バンとなると、やっぱり共演が期待されるのですが、それに応えるようにアンコール一発目は「CRAZY DAYS CRAZY FEELING」。中盤から椎名林檎さんが登場してコーラス部分を担当されてました。それからSOIL&"PIMP"SESSIONSのトランペットの人も一緒に登場して共演。

「安眠棒」も、と思ったのだけど二曲目で「KIMOCHI」。「僕らの音楽」で見た時(id:ichinics:20050709:p1)を思い出します。思えばあれが向井秀徳およびZAZENBOYSに夢中になるきっかけだったような気もする。

楽器がないせいか、椎名さんはなんとなく手持ち無沙汰そう見えた気がします。あんまり前にでるタイプじゃないのかな、と思う。ラスト、いつもはカシオメンなとこを、トランペットが締めくくる。これがとてもよかったです。トランペットの独演を聴くと、いつもちょっと切ないような気持ちになる。

次の向井は今月末のアコエレです。

[] お買い物→ライブ

早起きして、朝ご飯ちゃんと食べて、渋谷へ。

最初にさくらやを見たんだけど、DSliteはやっぱり売り切れ。土日ならわりとあるって聞いて、ちょっと前から探してるんだけど、ない。自分のDSは母親のものになりました。誕生日(1月)に脳トレをあげたのだけど、DS全然売ってないので、ライト欲しいしいいや、と思ったんだけどいつのまにか半年。ここまで手に入らないと意地でも欲しくなってくる。嘘、そうでもない。でも欲しい。

あーあ、と思いながらパルコとか見て、服買ったりして、またワンピース買って、でもなかなか良い買い物をしたなって満足して、ケーキ食べて、日々谷へ。

時間が余ってたので、有楽町のビックカメラものぞいたけど、DSはやっぱりない。歩き回ったせいか足が疲れてきて、野音に着いた頃にはへとへと。

でも結局ザゼンでは大騒ぎしてたような気がする。

帰宅して、晩ご飯はうどん。最近うどんづいている。昨日もうどんたべた。明日もうどん気分だったら生卵入れてぶっかけにしようと思う。

[] 理事長の陰謀?

どこかの学園の生徒が私。修学旅行から帰ってきたところから始まる。私のいるクラスは理事長に疎まれているという設定らしい。担任の先生は若い女性。

修学旅行から帰ってきて、先生がアンケートに答えて下さい、という。アンケートの内容は、「何月何日の何時から旅行に行ったか」に答えるだけのもので、もちろんクラス全員が同じ答えとなる。

こんなアンケートに何の意味があるのかと聞くと、先生は気まずいような顔をする。そしてふと、各クラスから一名づつ、別の場所(イラン?)で合宿をしている特待生がいることを思い出す。私たちのクラスからはYが参加している。

「Yもアンケートに答えるんですか?」と尋ねると、先生はもう預かっている、と答える。見せてもらったそれには、私たちが出発するより数日前の日付けが書いてあった。「これどういうことですか?」「Yさんたちは、その日に説明会があったのよ」「私たちの日付けと、ずれてますよね?」「そうね」

その会話から、私たちはなぜか、その日付けのズレを理由にY以外の私達全員が学園から追い出されることになるのがわかる(夢なので)。

「説明会の日から、出発の日までは、Yは私たちと一緒に授業をうけていましたよね? だったらこの解答用紙は嘘になります」「・・・」「Yが帰ってくるのはいつですか?」「明日の早朝よ」「それまでこのアンケート預かれないですか?」「・・・無理よ、今日理事長に渡さなくちゃいけないんだもの」「Yの分だけ、もらいわすれたとか言い訳できないですか?」「理事長か回収したものだから、無理よ」「じゃあウチのクラスの全員分集められなかった、とか」

先生はしばらく考え込んだあと、明日の朝、始業前に返してくれるなら、全員分を預ける、と言ってくれる。

私たちは礼をいい、Yの自宅に電話をかけ、帰宅したらすぐに電話をくれるように言付ける。

翌朝、Yは成田から直接学校へ向かってくれる。時間がかかる。私たちは屋上へ続くドアの前にある踊り場でYを待つ。たどり着いたYは、私たちの説明ですぐに何がおきるのか理解したようで、理事長の狙いはたぶん、Yの出発と私たちの出発のズレの間に何かが起きたってことにすることだと思う、と話す。

「でも、無理だよ。だって理事長にこう書けって言われたんだもん、変えたらバレる」「じゃあ、せめて説明会の日から、合宿に行くまでは学校に通ってたってのを書き添えられないかな?」「うーん、そうだね」と言いながら、Yは簡単な週間カレンダーのようなものを書き添えていく。それを預かり、私たちはクラスへ向かう。もう始業のベルが鳴っている。教室のドアをあける。理事長がいる。

そこで私たちはようやく、理事長の計画に気付く。

気付くはずなんですが、何だったのかが思い出せません。たぶん私を含めた数人とYを排除することこそが目的だった、みたいな。

屋上前の踊り場にはソファとかあってすてきなたまり場になってたのが印象的だった。

2006-07-02

[] Just Like The Fambly Cat/GRANDADDY

GRANDADDYの4thアルバムにして、ラストアルバムとなった作品。

解散を決めたのはこのアルバムを製作した後のことだったようですが*1、ほんとに残念です。

GRANDADDYは1992年に結成された、カリフォルニア/モデスト出身のバンド。中心人物であるジェイソン・リトルは元アマチュアスケーターとして活動をしていたけれど、怪我をきっかけに音楽の道を歩み始めたそうです。そのどこかなつかしく馴染みやすいローファイ・ポップは、1stアルバムから完成されていたように思います。

Just Like the Fambly Cat

Just Like the Fambly Cat

もしかしたら、その世界観は「GRANDADDY」というバンド名にあらわされていたのかもしれない、と思う。懐かしく、あたたかな電子音に縁取られたその曲たちは、数年後、おじいちゃんになった自分たちのための音なのかもしれない。

でも時間はあっという間に過ぎてく。

時代の、リアルな音、というものは、もしかしたら本当にあるのかもしれないと最近思うようになった。ネオアコがあって、シューゲイザーがあって、クリエイションレーベルがあり、なんて大雑把に思い浮かべるUKインディーの流れに比べて、アメリカは未だにつかみ所がない。重層的だけど確実な流れがあり、でもそれぞれが結びついていない。

そしてGRANDADDYは最初から、どこかはざまのようなところにいるバンドだったような気がする。ポラロイドカメラで撮った、遠く、でも柔らかな風景を思い浮かべる。もしかしたら、その距離感が彼等の立ち位置を難しいものにしていたのかもしれないけれど、音楽シーンなんて、もともと彼らにはどうでも良いことだったんじゃないだろうか。自分の生活のサウンドトラックとしての音楽としてそれはある。そして、だからこそ親密な音なのだと思う。

#7「Skateboarding Saves Me Twice」で一度終わり、#8「Where I'm Anymore」*2ではじまるような流れ。#14「This Is How It Always Starts」あたりが特に好きです。

ジェイソン・リトルは今後も音楽活動を続けると語っているそうだけど、まだ予定は白紙らしい。ただ、モデストからモンタナへ引っ越すというニュースもきいた。新しい場所での、新しい音を、また聴かせてくれればいいのにな、と思う。

[][] コーラス8月号

ハチクロ映画にまつわるインタビューでの、蒼井優ちゃんの写真がもうどうしようってくらいにかわいい。妖精か。

たまちゃんハウス
落語家シリーズ。今回は優秀な兄弟子白春について。器用すぎて可愛げがないけれど、そんな自分の性分を甘んじて受け入れる白春が良いです。
プライド
萌というキャラクターはこういう感じなのかと初めてわかった(途中から読んだので)。
PING★PONG
男子校チア部のお話なんだけど、未だに部員が何人いるのかよくわからない。でも主人公の「かわいい」男の子の一途な恋模様が楽しみです。
green green green
前号にも収録されていた「クローバー」番外編の、後半。前回の視点と逆の立場から描かれていて、おもしろかったんだけど、本編での事情を知らないので結末に違和感があった。
涙で癒され隊
すごいタイトルですが、榎本ナリコさんの「涙シリーズ」第二回。シリーズだったのか。で、これも前回主役だった女の子と出会う、おじさんの側が主人公。うん。
チェリッシュ
もう最終回だ。短期連載だったようですが、うーん、なんだかこれがミステリだったら反則技のような結末だなと思う。まあ。ミステリじゃないんだけど。誤解でしたオチというのは、それだけじゃ弱いよなぁ。
キャリアこぎつねぎんのもり
ロッカーのハナコさん」とのコラボレーション番外編。童子とハナコのやりとりがちゃんとそれぞれのキャラクターにあったものになっていてよかった。
ソルトクリークの秘密の夏
榛野なな恵さんのアガサ・クリスティシリーズ。お話はもちろん、きちんと毎日かわる女性たちの衣装を見ているだけで楽しい。しかもキャラクターによって選ぶ洋服の違いがきちんと出ていたりして、作者の洋服への愛情が感じられます。いいなぁ。かわいいなぁ。

*1:解散ニュースを聞いたときの日記 → id:ichinics:20060128:p2

*2:この曲、何かに似てるんだけど思い出せない

2006-07-01

[][] 嫌われ松子の一生山田宗樹

映画を見た後の居心地のわるさと、監督が「悲惨すぎて笑ってしまった」という原作はどんなものだったのだろうというのが気になって、読んでみることにした。

嫌われ松子の一生

嫌われ松子の一生

映画版は「笑える」ことを期待して行って笑えなかったのだけど、小説版のほうは、覚悟していたほど、悲惨な話ではなかったように感じた。映画での松子は第三者の視点から描かれていたことから、松子が運命に翻弄されるお人形のように見えたりもしたのだけれど、小説版は松子の一人称で語られる部分が多いことから、彼女が何を考え、行動していたのかが多少なりともわかるところが、読者にとっての救いだったのだと思う。

物語では川尻松子の殺人事件をきっかけに、彼女の甥、川尻笙が彼女の人生を追う現代のパートと、松子の回想が交互に綴らる。

彼女の転落の顛末については、映画版ともそれほど違わない。しかし、印象は全く違うのだった。

物語の核となる部分を、映画版では父親との関係に纏めている。しかしだからこそ、松子にとってかつての教え子であり最後の恋人となる、龍洋一との関係に重みがなくなってしまっているのだと思う。

「龍くんは、自分が何を言っているのか、わかっていない。あなた、先生の命を俺にくれって言ってるのよ。女に求愛するって、そういうことなのよ」p197

龍と再会し、ずっと好きだったと告白された後の松子の台詞に、松子の愛の形が凝縮されているような気がした。そして龍に意見し、殴られる場面。ここでの動機についても映画では語られないのだけど、裏切られたと感じ、殴られてもなお松子はこうつぶやく。

彼は約束してくれた。ずっといっしょにいると。わたしを愛してくれると。なにを迷う必要がある? 殺されてもいい。彼を信じて、ついていこう。それ以外の生き方は、わたしにはもう、残されていないのだ。p224

異性に対する思い込みと盲目こそが、美しく賢い女性であったはずの松子の転落の要因となるのだけれど、それはきちんと報われる可能性もあったのだ。でも松子は一途すぎた。信じすぎた。そして裏切られる。彼女にももちろん非はあるのだけど、彼女の不幸には、その運の悪さが大きく作用していると思う。つまり、転落は誰にだって起こりうるということだ。もちろん私にも。明日はいつだって未定だ。

でも、この小説は松子に感情移入することを主題としたものではないように思う。

冒頭で、彼女は殺されている。そして松子という伯母がいたということなどこれまで知らずにいた甥が、彼女の人生をたどる。ここが重要だったのだ感じた。笙は物語の終盤で、自分はまだ松子が最初に躓いた年齢にも達していない、と気付く。そして恋人の明日香にこう話す。

うん……何て言ったらいいのかな、ここにいる明日香は、生まれてから今までの、いろんな人との関わりや経験の積み重ねの上に、存在しているんだなって……俺の言ってること、わかる?」p332

松子にとって、ではなく、笙がこの言葉にたどり着くこと。「軽い気持ちで、からかってやろうと思って」殺されてしまった被害者の人生。それがこの物語の主題だったのではないかと思う。誰かについて考える。それは自分自身について考えることに似ている。

映画の感想

http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20060603/p1

http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20060628/p3

[][] ファミリーレストラン/雁須磨子

ファミリーレストラン (F×COMICS)

ファミリーレストラン (F×COMICS)

「のはらのはらの」が良かったので読んでみる。

こちらは「F」に連載されてたもののようです。題名のとおり、ファミリーレストランにまつわるお話。でもなんか不思議な雰囲気なのは、ファミリーレストランの「外」にいる彼女が最初から少し隠されているところなんじゃないかと思う。よく行くお店の、あの人、のような距離感で、その「お店の人」が日常と結びついている様がだんだんと透けてくるような構成になってるのが、なんか良い。

私が店員だった頃、狭い町だったので、休憩時間にほかのお店に行けば、さっきCD買いにきた人が店員だったりということがよくあった。お互いにそれに気付いていても、特に何を話すでもなく役割を交代するあの雰囲気が、私は好きだった。それは都会ならではなのかもしれないけど「特別扱い」の話を読んで、そういう気持ちを思い出したりした。

日常の、働くという行為の些細な部分を、特に言葉にするわけでもなくなぞっている感じが、雁須磨子さんの独特なのかもしれない。

[] 夏休み

寝違えたのか。肩が痛くて仕方ない。マッサージしてもらったらなおるかしらと思って、30分じっくりマッサージしてもらったのだけど、余計筋肉痛のようになって、参る。

いろんなことを片付けた。職場を変えたい、なんて愚痴ってたら、いいチャンスがやってきたので、突然だけど来月いっぱいで今の会社をやめることにした。乗りこなすのは面倒だったけど、でもどうにか決着してよかった。

ここにはあんまり書いてないけど、私は今の会社がきらいだった。きらい、と言葉にするとなんか重いんだけど、まあ、いろいろあったのだ。そして、今までが恵まれていただけかもしれないけれど、1日の大半を過ごす場所を好きになれないってのはほとんど初めてだったし、仕事自体はやりたかったことに近いので、自分次第でどうにかなるんじゃないかと思ったりした。

でもやっぱり、やめられて良かったと思う。

なんてこと全部、なんだか他人事のような気がするんだけど、幸い生活には困らなそうなので、夏の間はのんびりして、秋になったら考えようと思う。

というわけで、夏休みです。

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