美しさ、の続き

「大きな物語への不信」は、一時的な現象であると考えることも可能ですし、結局のところ「知性・理性」によって「理想的な社会を構築するしかない」というところに立ち戻る可能性は皆無ではありません。しかしその場合は「人間の知性や理性が。十分に信頼に値するものである」という確信に裏打ちされていなければならないと言えます。この「確信」は美しいのですが、間違っている可能性もあります。もちろん、「人間の知性や理性にたいしての疑念」は、醜いのですが、「正しい」可能性もあります。もちろん「最も好ましい」のは、「美しいものが正しい」ことですが、もしもそうでないとすれば、私たちは「美しくて間違っているもの」と心中するか、もしくは「醜いが正しいもの」と共に生きるか、という選択を迫られることになります。どっちも「イヤ」なのですが、この文脈の議論の限りではどちらかを選ばなくてはなりません。もちろんですがハーバーマスは「人間の知性・知性への信頼の回復」によって「よりよい世界を構築できる」と考えているわけですので、この議論のステージからは外れてしまっています。ローティがハーバーマスを批判するのは、その意味においてです。
「世界をよくする現代思想」p165

例えばここで「知性・理性」が十分に信頼に値するものである、という確信が「美しい」とされているように、美しさというのは、ある種盲目的な、疑念を排除したものであるように思う。
そうであればいいと思う。愛国心という言葉にしたって、愛されるということは「美しい」ことかもしれない。しかしそれは正しさではないし、強制されることでもない。何かの「美しさ」だって、そうだ。
そして国や社会が求めるべきものは、正しさ、なんじゃないだろうか。正しさを求めるためには、常に疑念をもたなければならない。盲目的に正しいと信じてしまったら、それはもう信仰なのではないか。
引用文とはあんまり関係なくなってきてしまった、けど、そんなことを考えてる。続きは帰ってきてから。