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  □これまでの日記一覧

2007-01-31

[] もつ鍋会

ストーブつけなくてもいいくらいだった昨日の朝と、吐く息、はたけ、 そら、みんな白い今日との、どちらに裏切られた気分なのかなんてのはさておき、鍋とかいいすねぇ! と思った今日が待ちに待った「もつ鍋会」だなんてなんておあつらえ向き。なのに、スミマセン間違えました、とか、今日発送、とか、で、文句いってやるぞと乗り込んだら「さむかったでしょうー?」なんて、矛先かわされて、上司がちょっこしきれる。慌ただしいーな、と思ったら待ち合わせ時間を過ぎていた! ので小走りで向かった中目黒のもつ鍋屋さん。かけつけ一杯ね。うまー。 キャベツうまー。もつやわらかー。辛くしちゃう? おじやにしちゃう? なんてまあとにかく潔く食べまくって満足してちょっとしたイライラとかすぐ忘れる。ごちそうさまして外出たときの、ひえた空気とあったかい顔。

[] 「やってくる」存在

他人、つまり自分ではない「人」の存在を知っているとはどういうことだろう。

目に見える人。触れることができる人、は、いることを知ることができる、とする。ではTVにうつっている芸能人はどうだろう。実際に見たことはなくても、画面の中で動いているのを見れば、その人は存在する、ということができる? それでは二次元はどう? なんていったら笑われるだろうか。では、例えば小説家はどうだろう。覆面小説家。編集者以外は誰も顔を見たことがないその人物の書いた物語は確かにここにある。読んだ。面白かった。この小説家はすげえ! というときの小説家は、存在している?

私は、している、と思う。

それはなぜだろう。その確信の根拠はなんだろう。

たとえば、その小説家が編集者本人だったり、なんてのはありそうだけど、猿が叩いたタイプライターによるものだったりしたら、そりゃ動揺するだろうし、でもそのことで小説家の存在はゆるがないような気がする。それは「私の心の中にいる」、とかそういうことではなくって……と否定したいけど、つまりはそういうことなのかもしれない。というか、それはその存在が、自分の意識に配置されているということで、そのいみでは、満員電車で「触れあう」人々よりも、例えば漫画の登場人物((それを作者という個に集約させることもできるだろうけれど)の方が、よっぽどリアルに「やってくる」存在のように感じる、し、少し前にどこかで、ブログを読む時そこに「人」を見るのはどうかみたいな話を読んだことがあったのけれど、そのエントリの内容は別として、それは見るかどうか以前にあるんじゃないのかなと思う。ただそれは定義するということではなくって、実はぜんぶうそでした! とかいうことがあったとしても、それは新たにやってきた情報なんじゃないか、ということ。

けれど、そうやって「配置」される/されていることに気付くまでには、ある程度の過程が必要な気もしていて、これはこのごろ考えている「言語」の話につながるはずなのだけどまだよくわからない。

2007-01-30

[][] いつか王子駅で/堀江敏幸

いつか王子駅で (新潮文庫)

いつか王子駅で (新潮文庫)

タカエノカオリエリモジョージキタノカチドキ…、耳慣れない「名馬」の名前が並び、それに導かれるようにして「残菊抄」から再び「菊花賞」へ。例えばそんなゆきつ戻りつをたどりながら、しかし私はそこに出てくる名詞のほとんどを知らないでいるのに、不思議と知らないということに戸惑いもなく、読み進めることができるのは、堀江さんの文章が心地よく目に馴染むからなのだと思う。

主人公の目線がたどるのは、王子駅、尾久駅、荒川線の沿線で、あの辺りにはほとんどいったことがない私も、たぶんあのもんじゃ屋、それからあのあらかわ遊園が登場する下りでは、まるでその場にいるかのように、ゆっくりとまばたきをして、一日のゆっくりとした流れを感じている。

だからこの小説は、本を閉じた後も肌に触れている。この主人公のように生活したいと思うし、たとえ知らない名詞ばかりだとしても、私はきっとまた回遊魚のようにそこへ戻り、彼の話に相づちをうつだろう。

f:id:ichinics:20070130011327j:image:h150

[] くもりの遊園地/いつか王子駅で

はじめてあらかわ遊園に行った日は、さむくて、くもった日だった。園内をぐるりとまわる小さな機関車は、運転手さんの丸い背中で視界が塞がれていて、曇りでも見晴らしのよい観覧車などに比べると、そう面白いものでもなかったのだけど、突然その背中がはじかれたように伸び「おい」と列車の向こうに話しかけ、競馬の話をしはじめたのがつよく印象にのこっている。あれが菊花賞だったならつながるのに、と思ったが、そうはうまくいかない。くもりの、さむい日だったということは、たぶんきっと、サツキショウってやつだ。

町を歩くことに、とても熱心だった頃があった。近所から都内、近郊都市から海外へ。新しい道を覚えるのと同じくらい、同じ道を繰り返し、風景を覚えるのが好きだった。

当時、すでに多くの友人は働いていたし、だから平日の昼間なんて誰に会うこともなく、つまりはほぼ毎日一人でうろうろし続けていたわけだけど、それはすごく楽しくて、ほとんど取り付かれていたといってもよくて、出かけていって、そこに立てば、はじめて知ることがあると思っていたし、その予感が裏切られるということはなかったような気がする。驚くべきことに。

いまでも私の地理感覚というのはその頃に歩いたたくさんの道に支えられていて、風景の記憶とともに、その背景にあった季節まで濃厚に思い出すことができる。というより、その季節になれば、風景もゆらりと立ち上がるような感覚に近い、かもしれない。

あんな日々を送ることができたのは、仕事をやめて、次の仕事が決まっているという挟間の時間が三ヶ月近くもあったからだったのだけど、思えばわたしは、いつかあの時間をもういちど過ごしたいと思いながら、今を働いているような気がする。

あらかわ遊園に行ったのも、ちょうどその頃のことで、今日写真をあさって見たら、今よりずいぶん幼い顔した妹の写真がたくさんでてきた。「いつか王子駅で」にでてきたもんじゃを食べてる写真もあって、見ようによっては主人公の連れであった咲ちゃんのように「あっは」と笑っているように、見えなくもない。

つい3、4年前のことなのに、もうずいぶん昔のことみたいだ。

f:id:ichinics:20070130011325j:image:h200

[] 毒吐き

もう長いこと愛読している殊能さんの日記*1は、料理とか毒舌とかなにやらグっとくる部分が多々ありつつ、携帯でアンテナ見るのが好きなわたしには時間を問わず1日に数回は更新してくれるところもたまらないポイントだったりします、そもそも自分は人のたんたんとした日記、とかTV見て一言、とか思いつき、とかを読むのがすごく好きなんだなぁ、と思う。特に今日の「オレは住みたくないね、あんなとこ」なんて、思わず電車の中でほくそ笑んだりした。やっぱ好きだこのひと、と思う。

で、私は毒舌が好きなのかっていうと、たぶん好きだ。けど、でも苦手な毒舌ってのもあって、そういうのの差が、よくわからない。よくわからないけど、それはやっぱその毒舌を発する際の引き受け方? とか思ったけどそれも何かちがう。たぶん「文章」として受け取るときのそれは結局、言葉遣いなのかもしれない。とも思ったけどそれもどこか違う。ただ、そこがわからないから、私はうまく毒吐けないんだってのは、あってる気がする。

2007-01-29

[] 脳と癌

昨日「世界一受けたい授業」を見た。と、ついこの間も書いたのでなんだか毎週見ている気分だけど、別にチャンネルをあわせているわけではなく、たまたま、夕食時にそれがついていることが多いというだけで、それでも今日も最初にでてきた脳の話が面白くて、だから見ればなんかしら、興味をひかれることのある番組なのかもしれない。かなわかんないけど。

ともかく、脳の話で印象にのこったのは、有名人の名前(女性)と、ぱっとビジュアルが浮かぶような名前ではない名前(男性)をランダムに見せていって、さて男性の名前と女性の名前、どっちが多かったでしょうか? という質問にたいして瞬間的に「女性」と思うのはビジュアルが浮かぶ名詞のほうが記憶に残りやすいから、という話だった。なるほどねと思いつつ、だとしたら、ビジュアルイメージのない言葉の優先順位というのはどのようにして決定されるのだろう? それから、例えば想像でしかないビジュアルイメージというもの(夢で見たとか想像したとか)は、視覚イメージとして記憶されるのだろうか? とか考えてたのだけど、話はそっちに向かわなくて残念。

番組はそこから、例えばニュースなどで大きく報じられる火事や自然災害で亡くなるというケースより実はお風呂場での事故のが多いんですよみたいな話もあって*1、ここで驚いたのは、死因をパーセンテージで表示した場合、「癌」がだんとつトップであるということだった。たしか1年で10万人のうち250人とかだったかな? そんなに多いと思わなかった。それでも、癌への特効薬みたいなものが未だに開発されていない、というとこには未承認薬とかいろんな問題があるのだろうけど、それにしても癌、か。うちは癌家系なのよねということを思い出しつつ、夕食を終えたのでそれ以降は見てない。

[] にちようをむだにしてしまった!

今日は映画見にいくつもりだったのに、早起きして片づけもするつもりだったのに、起きたら昼過ぎで、夜は家族の誕生日で云々なので、なのでもうだめだ、と思って布団の中でごろごろと漫画(↓)読んでしまった。欲求に抵抗しないことの気持ち良さったらないね。なんてあらたな発見したつもりになってみても、一日の短さは短さとして実感できて、次の日曜まではあと一週間もあるのだねということにせつなくなる。

[][] それでも町は廻っている石黒正数

それでも町は廻っている 1 (ヤングキングコミックス)

それでも町は廻っている 1 (ヤングキングコミックス)

メイド喫茶に行ったことのない作者が描くメイド喫茶漫画。といっても普通のメイド喫茶ではなくて、というかそもそも普通のメイド喫茶って何って話ですが(じつはいちどだけいったことがあります。正直よかったよ…。マリみての日だったんですけど…(略))、ここで描かれるのは主人公のおばあちゃん(?)がメイド喫茶を勘違いしてはじめた、メイドの格好をしたメイドではないひとたちがいる喫茶「シーサイド」(あれ? それがメイド喫茶だっけ?)

物語は、シーサイドでバイトをする主人公、歩鳥を中心としたドタバタコメディです。のんびり笑って読める。そして歩鳥のキャラクターもいい。大野さんみたいな友達もいい。数学の先生も氷室先生(某乙女ゲーの)みたいでいい。

ただ、これを買ったのはポップに惹かれたからなのですが、それが第二話の表紙のイラストで、そんで私てっきり「アベノ橋魔法商店街」的なSFだと思って読みはじめてしまい、少々面食らいました。でもギャクに軌道修正して読んだら面白かったよ。ゆるい気分にぴったり。

*1:という話をBSE関連で読んだことがあるけどどこだったか忘れてしまった。

2007-01-28

[][] 「放浪息子」/志村貴子

放浪息子 (1) (BEAM COMIX)

放浪息子 (1) (BEAM COMIX)

放浪息子」が描くのは、女の子の格好をしたい男の子[ニトリくん]と、男の子の格好をしたい女の子[高槻くん]と、その友達の物語。これが、今まで見たことのないような形で、でもきっと少なくない人の、わたしの中にもある拘泥に触れるような物語で、読みながらずっとどきどきしていた。あの、性別が決定されるということに対する戸惑い、とか、恐怖。それは今でもたまに思い出すし、うまくいえないままで、ある。

自分は性差についての話とか、あんまり好きじゃないんだけど、この作品はその部分におおらかに踏み込んでいて、やっぱり志村貴子さんはすごいなぁ、と胸がいっぱいになってしまうのだ。

そして、少年少女のやりとりも、いちいちすばらしい。「青い花」とあわせて読むと、人物の配置が重ねられて面白かったりもするんだけど、今日はとりあえず「性別」について。

 見られることで分けられる

女の子の格好がしたい、という欲求は、はたして女の子になりたい、ということと同じなのだろうか。その前に、女の子になりたい、というのは、どういうことなのだろうか。

私は、性別とは、何もつきあう異性の対称としてあるわけではないと思っている。特にこの物語がはじまるのは、小学生時代なので、そこにはまだ、指し示す性欲はおぼろげにしかないからだ。

例えば4巻にでてくるエピソードにこんなのがある。

お姉ちゃんと共同の部屋を使っている修一は、お姉ちゃんの友達が来ると自分が部屋を使えない、ということに対して不満を持っている。そしてある日、その不満をぶつけるのだけど、その時、自分が悲劇のヒロイン気分を味わっていることに意識的なのだ。ロマンチックを求めて家出を試みたりもする!

この心理は女の子特有のものにも思えるけれど、だからといってこのニトリくんが女の子の心理に精通しているわけでもないだろうし、意図してそうふるまっているわけでもない。それは生まれ持った感受性であって、女の子の格好がしたいというのもまた、なんでかよくわからない欲望なのだろう。

だからこの物語で描かれる、女の子の格好がしたいという欲求は、女の子として「見られたい」ということだと思う。

もう一人の主人公である、高槻くんという女の子は「青い花」でいえば、杉本先輩と重ねることができるだろう。ただ先輩の「女の子はめんどくさいよ」という女の子であることへの否定は、巡って彼女が最も女の子的であることを示していたような気がするけれど、そこはとりあえず保留。

ともかく高槻くんもまた、恋愛のこととかよくわからないまま、女の子を押し付けられることに抵抗している。女の子として扱われるということは、女的なものに自分が属してるってことにされることであって、それは精神面ではなく見た目で決まってしまうことだからだ。

つまり二人とも、自分にあらかじめ与えられている性別への抵抗として、異性の服装に惹かれるのだと思う。他人の目線がなければ、そんなのは倒錯でもなんでもない。少なくとも小学生時代はそうだろう。でもここで、恐るべき第二次性徴がやってくる。4巻のおわり、5巻から、彼らは中学生になってしまった。

 「女の子ばっか被害者かよ」への共感に似たもの

私がこの漫画を読もうと思ったのは、はてブで知ったこの「負け組日記」さんの文章がきっかけだった。

「女の子の方が肉体的にも精神的にも大人になっていく。」という言葉を思春期の頃に繰り返し繰り返し聞かせられて、僕は敗北感や劣等感を抱き、そして自分の性に対する不当な扱いを受けている気がした。「女の子ばかりが成長に戸惑うのかよ、男の子だって戸惑って苦悩するじゃないか」と言いたくても言えなかった。なぜなら僕は女ではないので、女の子の戸惑いがどれほどのものであるか知ることが出来なかったから。そして、このような事を言おうものなら必ず「男の子の戸惑いがどんなものか説明しろ」と言われる事が目に見えているからだ。女の子の体の変化と異なり、男子の体の変化は性欲と密接に絡む。だからその戸惑いについて述べる事は、自分が抱いている身勝手な願望と日々の絶望について語らなければならず、そんな事を告白する事は恥辱の限りを尽くすのに匹敵する行為と言える。だから僕は、ぐっとその言葉を飲み込んで、釈然としない想いでぶすっとし続けなければならなかった。

http://genki01.cc.hokudai.ac.jp/reo/diary/?date=20051224

もし仮に、女の子の方が肉体的にも精神的にも先に大人になるとしたら、それは性別が体に現れるタイミングの早さによるものなんではないか、と思うけど、それより私がこの文章に惹かれたのは、私はそれについて思春期に繰り返し繰り返し聞かされて、「男の子ばかりが子どもでい続けることを許されるのかよ!」と思っていたからだ。

でも5巻でニトリくんが、「そのうち声変わりして、ヒゲも生えてくるって…」と話す場面を読んで、すごくすごく悲しくなった。「そうしたらもう、女の子の格好が似合わなくなってしまう」という絶望は、なにも女の子の格好をすることだけでなく、男の子にも同じような戸惑いはあるのだということを改めて思い知らせてくれるものだった。

「負け組日記」さんの文章で指摘されているように、女の子の成長にまつわる戸惑いをあつかった作品は多いけれど、確かに男の子の異性への興味というものは得てしてコミカルに、あっけらかんと描かれることが目に付く。ただ(男ではない私は)、そういった作品を読むと、どこかで性別を理由に共感することを拒絶されているような気分になって、うらやましいような、かなしいような気持ちになることがあった。対して女の子の葛藤を描いた作品を読んでも、共感する部分はありつつも、女としての振る舞いを規定されるのは嫌だなとか、女ってめんどくさい、というか、女とか男とかめんどくさい、とか、女の自虐はなんで笑えないのか、とか思っていたのですが*1、そういうのはちゃんと男側にもあるんだってことを(当たり前すぎるのかもしれないけれど)感じて、うれしかった。

そして「放浪息子」は、確かに、与えられる性別について、戸惑いためらう少年少女を平等に、抱きしめるような物語だと思う。自分が何であるか、というのは、自分次第でいい。これは性別についでだけじゃなくて、見られる/区別されるということから、もっと解放されてもいいんじゃないのっていうおおらかな優しさに、わたしはたまらない気持ちになる。

放浪息子(5) (BEAM COMIX)

放浪息子(5) (BEAM COMIX)

*1:このへん→id:ichinics:20050419:p4

reo_kashiwazakireo_kashiwazaki 2007/01/29 00:29 負け組日記のかしわざきです。

今まで読んで来た女性による「ダメイブ」(「女の子ばっか被害者かよ」) に関する言及の中で、このエントリーは最も僕が「釈然としない想いでぶすっとし」なくても済み、「ようやく真っ当な (というより自分の意図が適切に伝わった実感が持てる) 反応を得た」と感じられるものでした。素晴らしい言及をありがとうございます。

ichinicsichinics 2007/01/29 02:24 かしわざきさん、はじめまして。
「ダメイブ」は最初に読んだときからずっと気になっていた記事で、というのも、特に上に引用させていただいた部分をきちんと言葉にされている文章をはじめて読んだような気がしたからなのですが、やっと(「放浪息子」を読んだので)言及させてただくことができてよかったです。
何より、元記事を書かれた方に「自分の意図がで季節に伝わった実感が持てる」と言っていただけることは、本当にありがたいことです。コメントいただけて本当にうれしいです。

reo_kashiwazakireo_kashiwazaki 2007/01/30 00:07 ichinics さんの日記をざざーっと読ませていただいて、映画・コミック・アニメ、および関連分野へと手を広げる範囲が、あまりに僕のそれと似ている事に「なんなんだこの人は……」と絶句しつつ、かような人であれば意図を汲んでくれるのも不思議ではないのだろうと奇妙に納得しております。

ichinicsichinics 2007/01/30 01:02 かしわざきさん、こんばんは。ほんとは、もっと的を絞りたいと思う気持ちと、手は広げっぱなしでもっと掘り下げたい欲とで自分でもまとまらないままなのですが、どれも大好きなんですよね。でも、そういう部分に共感していただけるととても心強いです。私も楽しみに読ませていただきますね。

2007-01-27

[][] リトル・ミス・サンシャイン

あちこちで好評価だったので、わくわくして見にいったんですが、やー楽しい映画だったな。

「勝ち馬/負け犬」が口癖で成功論の出版を夢見る父親と、ヘロイン常用で老人ホームを追い出されたおじいちゃん、ニーチェマニアで願かけに沈黙しつづける息子ドウェーンと美人コンテスト出場を夢見る娘オリーブ。恋人にふられて自殺未遂をしたことで一家のもとで暮らすことになるプルースト学者の伯父。そして家族をまとめようと孤軍奮闘しつつストレスのたまりまくっている母親。そんな一家の集う食卓は確かにいたたまれないもので、ドウェーンは伯父に「ようこそ地獄へ」なんてメモを見せる。

物語は、オリーブに舞い込んだ「リトル・ミス・サンシャイン」という美少女コンテスト出場権をきっかけに、アリゾナからカリフォルニアまでおんぼろバスで旅をすることになる道中を描いたものです。

一家は確かにバラバラなんだけど、それをまとめてるものはなんだろうね、ということを映画を見ながら考えていた。気があわなかったり、相手を傷つけることをつい言ってしまったり、尊重という名の無関心だったりは、見ていて切なくなったりもするのだけど、それはきっと、あのおんぼろハスに手こずるようなものなのだと思う。

仕方ないなぁ、と思いながらも、目的地があれば力をあわせることができる。そもそもがバラバラなのだ。それを互いに認めあうことで、はじめて気付くこともある。長い付き合いだっていうのにね。

混沌とした内面を持つ登場人物が目立つ中、幼いオリーブだけは天真爛漫であるように見える。しかし「口先ばっかり」とおじいちゃんにむかって力なく笑うオリーブを見た瞬間、こう、胸がしめつけられるような気がした。オリーブが小太りの眼鏡っこであることは、美少女コンテストに登場する女の子たちとは異質な存在として描かれているということでもある。でも監督はたぶん、この場面に惜しみなく力を、そしてオリーブへの愛を注ぎまくったんだろうなと思った。彼女のかわいらしさは、ミスコンの価値観とは別の次元に燦然と輝いている。

あと、この映画は音楽もとてもよかった。サントラ売ってるかなと思ったけど見なかったな。サイトを見ると、デヴォーチカというバンドが挿入歌を歌っていたらしい。「僕の大事なコレクション」でも「How It Ends」という曲を提供していたバンドで、この曲の別ヴァージョンが本作でも使用されていたとのこと。探してみよう。

[] 「この質問に答えると願い事が叶います」

今日、友達からきたメール。どこかで見たことある心理テストの最後に、この質問を10人に送ると願い事が叶う、と書いてあって笑った。こころがせまいなー。どうせだったら送らなくてもかなえてくれればいいのにね。

まあともかく、こういうのがはじまると、共通の知人でなくても同じの届いてたりするのがネットワークすごいなと思うところです。

メールは送りませんでしたが(そもそも願ってないし)いちおう、心理テストはやってみた。

3番に書いた名前があなたの好きな人です、とか、世の中だれもが恋してると思うなよ…なんて思いつつ、まあそれなりにそれなりな結果がでるのがよくできてるなと思うところで、

私の好きな人をあらわす曲は「MANGA SICK」、叶わぬ恋の相手をあらわすのが「ばらの花」、現在の状況は「自問自答」、私の人生は「IN THE FLIGHT」ですってよ。

これ10年くらい前にバイト先でやったときは人生「ワイルドサイドを歩け」だったのに、ずいぶん弱気になったもんだわ。

 また、いつか

また行方不明になってしまった。

ということに、もう驚いたりはしないぞと思ってるし

そう希望すると書かれていたような気がするけど

私はやっぱり、また、を期待しちゃうかもしれない。

だって今回の復活だって、すごくうれしかったし?

というわけで、自分はできるだけ相変わらずを目指そうと思った。

この反応も相変わらずだけど、感傷っていうより、ナイーブなのは嫌いじゃないのです。

某 2007/01/27 22:33 初めてコメントいたします。
見当違いだったら申し訳ないのですが…僕は先日「行方不明」になったある場所(と、ある方)を通じて、こちらを読ませていただくようになったのでした。どうしても「残念」という気持ちが拭えないのですが、深海へ潜った鯨が呼吸をするために再び浮上してくるのをゆっくり待とうと思っております。……ええと…全っ然見当違いのこと書いてたら恥ずかしいのではてなidではなく匿名で失礼します。

ichinicsichinics 2007/01/28 03:19 某さん、はじめまして。たぶん、某さんの期待と私の期待は、同じものなのではないかと思います。…なんて、こんなふうに語られることを嫌ってるのかなぁ、と最近は感じていたんですが、でもやっぱりそういうところを含めて、信頼していたというか好きというか、私が相変わらずを目指そうと思ったのは、浮上してきた後に「相変わらずだなー」と思われたいからっていうのもあって…、という気持ちを、届け、と思って書きました。
往生際が悪いとこ見つかっておはずかしい限りですが、同じように思っている方にコメントいただけたのはうれしいので、いつか気がむいたらidおしえてほしいです。

2007-01-26

[] 放蕩三昧 

現在絶賛志村貴子ブーム中なので未読だった「放蕩息子」をとりあえず1巻買って読みはじめたら、これがもう!! ってくらいすばらしくって、お昼休みにまた本屋行って2、3巻(しかうってなかった)買って、帰りに喫茶店寄って読んだら身悶えするほど面白くて、その足でまた本屋寄って、でも4巻しかなかった…! のを帰りの電車で読みながら帰宅しました。明日は5巻を買うんだ。そして読むんだ。

赤い髪をからかわれたら

まずは相手を石盤で殴ること

そのあと先生に こってり

しぼられることも

忘れちゃならない

「放蕩息子」2巻p182

このワンシーンで、今まですきじゃなかった「赤毛のアン」のイメージがかわってしまった。

5巻読みました。で、まずびっくりしたのが登場人物紹介で…

息子じゃないよ 放 息子だよ

これ読むまでずっと「放蕩」だと思ってたよ…!

放浪息子(2) (BEAM COMIX)

放浪息子(2) (BEAM COMIX)

[][] め〜てるの気持ち/奥浩哉

め~てるの気持ち 1 (ヤングジャンプコミックス)

め~てるの気持ち 1 (ヤングジャンプコミックス)

奥さん新刊。

15年間引きこもり続けている主人公が、若くてかわいい「母親」と暮らすことになる、というお話。「八神くんの家庭の事情」にひきこもり設定を加えた感じというか。

で……。この母親、はるかはめちゃめちゃいい子でかわいくて、一方主人公は、経験値(?)がないだけに空回り暴走してしまう、というラブコメになっています。

とりあえず1巻は、父親いい人なのに、息子が父親のこと思う場面がないのがさみしいなぁ。でもきっと彼の成長物語になっていくのでしょう。

GANTZと同時連載って大変そうだけど、今まで奥浩哉作品で外れたと思ったことないし、GANTZ同様、続きを楽しみにしてみます。

[] 言語と自由意志

  • 「言語の使用はかならず規則を越えていくもの」というのは、言語の使用は常に「そうでなかったこともありえた」を含む、ということなんじゃないかと、とりあえず今のところは解釈してみた。そして、「意味」というのは常に、後からやってきて、言語の使用を定着させる/可能性を収束させるもの、なのではないだろうか。(id:ichinics:20070119:p2

ということを先日考えていたのだけど、ここで『「そうでなかったこともありえた」を含む』と書いたのは、「そうでなかったこともありえたと「感じることができること」を含む」だよなぁと思った。ややこしいけど「後からやってくる」という感覚に近いのは後者だった。そして、だからこそ人は「自由」な意志の元に行動していると感じることができるのだと思う。

たとえば。100という数字が出るまでにどのくらいの計算式のパターンがあるのかわからないですけど(数学全く駄目です)、そのわからなさよりずっと複雑なパターンで人は言葉をマッピングし貯えていて、常に増え続ける情報を整理しながら、今ある局面を実践している。そしていったん通り過ぎ、現れたものについては、ヒトはそれを情報として矯めつ眇めつ、様々に判断することができるので100が出るまでの全てのパターンを描き出すことだって、実は可能だったりするのかもしれない。そして、その特性こそがヒトに意志の存在をほのめかすのだと思うのだけど、そのときすでに、つねに100という数字は越えてしまっているのだ、というのが限界なんじゃないだろうか。次に何が足されるかは知ることができないけれど、それはあらかじめ決められている。ただ、100があった、ということだけはわかる、というような。

そして「言語」もまた、どれだけの言葉があるかはわからないけれど、ある言葉しか使うことができない、という限界はどうしてもある(ような気がする)。

ただ、仮に100までの全ての計算式が並べられたとしても、そのどれを辿って100を越えたのかも、次に加えられる数字が何なのかも、わかることはできないんじゃないだろうか。そして万が一できたとしても、それは過ぎてしまってからだろう。

だから、もし仮に(仮にですよ)「時間が、その中身にあるものに何の影響も与えず繰り返す」ということがあり得たとすれば、全ては永遠に同じ結果を出し続けるような気もする。

ただ、そうすると時間とともに現れた「意味(というか認識)」もゼロに戻ってしまうだろう。ということは、過ぎてしまうからこそ、100にいたる複数のパターンを見いだすこともできるし、シンボルとして使われた言葉の「意味」が現れるのと同じように「今これを選んだ」/「しかしそうでなかったこともありえた」と感じることができる、ということだろうか。そしてその錯覚もまた、過ぎてしまえば計算の結果である、ということ?

精神が脳に干渉するのではなく、脳のある部分が他の部分に干渉し、それが精神状態に反映されるだけなのです。そしてその過程はただの物理現象に過ぎないので、予測不能とは言えど決定論的です。

http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20070125#1169659470

個人的に、自由意志ある、と思いたい気持ちはあるんだけど、michiakiさんのこの文は脳とかよくわかんないながらも、そうだよなぁ、と思ってしまった。

でも今回だらだらと書いたのは、言語関連で考えていたヒトと動物の違い、とされているところに、この自由意志があると思ったりすること、があるのではないか、ということを考えたかったのです。そろそろ整理してみたいなぁ。

michiakimichiaki 2007/01/26 01:59 こんばんは。さきほど地下6Fに辿りついたみちアキです。とらっぽい奴を倒した。

言語が自由意志(を感ずる心)を生んだのかも、って観点は、おおーと思いました。「○○をやらなかった」というのは行為と言えるのか、って思ってたんですが、やっぱりそうは言えないですよね。そこらへんもう少し考えて、そのうちまた別の切り口から書いてみます。

ichinicsichinics 2007/01/26 23:34 とら突破おめでとうございます。っていうかいーなー。たぶんきっと私がはじめる頃にはmichiakiさんの「ひととおりクリアしました」エントリがあがってるんでしょうね…。
>言語が自由意志(を感ずる心)を生んだのかも
って、私もおおーと思いました。そう書きたかったなー。いつも書いてるうちに混乱してくるので、そうやってシンプルに言い表せるようになりたいです。あ、あと、山登りの話、いいなぁと思いました。

2007-01-25

[] Into The Blue Again/The Album Leaf

Into the Blue Again (Dig)

Into the Blue Again (Dig)

ひとつ前の4th(たぶん)アルバムではシガーロスやMUMのメンバーが参加したりもして、一躍日本でも知られるようになったThe Album Leaf。私が初めて聴いたのもその時のアルバム「In a Safe Place」でした。

The Album Leafは、アメリカ・サンディエゴ出身のジミー・ラヴェルによるソロプロジェクト。元Tristezaというバンドの人らしく、そちらは聴いたことないんだけど、ハードコアから音響に移行した人らしいと知ったときにはちょっと意外だった。でも、確かHSHとかもだし、モグワイとかも? で、ハードコアと音響/ポストロックっていうとまったく違うジャンルにも思えるけど、実はアーティスト側にとっては自然な流れなのかもしれないなと思う。逆のパターンはあまり聴かないけれど、想像するとかっこよさそうだ。例えば65DAYSOFSTATICとか、ベクトルはそちらむきかな、と思ったり。

今回の「Into The Blue Again」は、ほんとにアゲインというか、それ以前のプライベ?トな空気に帰ってきたようなアルバムで、でも少し、広さや温度がかわっている。

モグワイのような派手さはないものの、日々の生活によりそって気持ち良くさせてくれるような、音。ポストロックと呼ばれたジャンルはもう既に熟年に達しつつあるような気がするけれど、ジャンルに捕われず、音に対する作り手の誠実さが伝わってくるようなアルバムです。朴訥な歌声にも、好感がもてます。

[] 町で見かけた議論/問題までの距離

駅前は帰宅ラッシュで、散らばっていくサラリーマンと、大学生やら部活帰りの学生服の輪が、あちこちで人の流れを割る。会社帰りの7時過ぎ、買ったばかりの漫画を読もうと思って喫茶店に入ったのだけど、やがて、だんだんと大きくなる声に、背後のソファ席で男の子2人が言い争っていることに気が付くと、気もそぞろで読書どころじゃなくなってしまった。

A「お前がそれでいいならいいんじゃん?」

B「は? なにそれ? いいならいいんじゃんならさいしょからいわなきゃいいんじゃん?」

A「や、だってそう思ったのは事実だし」

B「だからそれは誤解だっていってるじゃん」

A「だからお前が誤解だってことでいいなら、いいんじゃん?」

B「………」

背中で聞いていた私も思わずゴクリノと息をのんでしまうような張りつめた空気。

議論になって、お互いに譲らなくても解決をみることはできると思うけれど、片方だけが議論からおりてしまうと残された方は非常に切なく、ときとしてそれは怒りにも転じるんだなということを思った。

彼らの会話の「誤解」ってのが何なのかは結局わからなかったんだけど、この前の会話の雰囲気から察するに、AがBになんらかのダメ出しをして、Bはそれに反論してんだけど取り合ってもらえないという感じだった。

例えばこの題材が、A・B双方から等しく遠距離にあるような「問題」、 例えばカフェオレカフェラテの違いとか(それもそれで重要かもしれないけれど)だった場合は、どちらかが「いいんじゃん」といって議論を終わらせたって、それほど波風たたないだろうなと思う。

が、物事を自分の問題として捉える範囲というのはそれぞれであり、その範囲の違いが口論の原因になることもあるのよなと思ったりした。私も、例えば「一般化」することに無頓着な話題などにはカチンときたりすることはあるし、でも、それに噛み付いても不毛であったり、私が「例外」を代表するようないい方になってしまうことにためらったりもする。

2人が沈黙している間、私は、たぶんBの目的は既に、Aの意見を覆すことではなく、Aに意見を認めてもらいたいだけなのだろうな、とか考えていた。が、私が再び読書に戻ろうとしたとき、Aが空気をかえようとしたのか、少し大きめの声で笑っていった。

A「なんだよ、そんなマジんなんなよ。たいしたはなしじゃねーし」

あーあ、と思った。Aが席をたった折に少し振り返ってみると、おちつかなげに体をゆするダッフルコート姿の背中があった。

Aが帰ってくると、2人は無言のまま、もしくは小声で何かいって、店を出ていったのだけど、何というか、こういうやりとりをいなすこと、いなされることって、社会に出ると、いちいち感情を波立たせるのも面倒だしね、とか思って避けてしまうものだけど、そのうち、波にのれなくなるだけで、どう解決すればいいのかっていうのは、いまだによくわからないなと思った。こういう本番を目の前にすると(盗み聞きだけど)、会話を動かすのって1人じゃできないのだなと思う。……他人の会話でいろいろ考え過ぎですが。

2007-01-24

[][] セクシーボイスアンドロボ ドラマ化

黒田硫黄さんのブログで知りました。

日本テレビ4月スタートのドラマ「セクシーボイスアンドロボ」

http://www.sanspo.com/geino/top/gt200701/gt2007012400.html

というわけで、松山ケンイチさん主演でドラマになります。松山さんがロボ。放送時間は火曜の22時。…とりあえず第一報。続報はまたおいおい。

面白いドラマになるとよいですね。製作に関わる全ての方に声援を送ります。

http://kurodaiou.blog57.fc2.com/blog-category-7.html

おー意外だ。黒田硫黄作品がドラマ化とは。

ニコは誰だろうなぁ。なんていっても七色の声だから、声がきれいで、でもボーイッシュ、って難しいなぁ。5、6年前ならああいう元気な役はだいたい杏ちゃんだったけど、もうちょっと違うだろうしな。

[] Rage Against The Machine復活??

id:xavi6さんの日記で知りました。

Rage Against The Machineが復活って!!

コーチェラうらやましすぎる。この(http://www.coachella.com/)メンツって! そしてJesus and Mary Chainの名前も!

………いやいやいや。

あーでもいいなぁ。こんなのってないよなぁ。私も見たい。日本にも来てほしい。

Rage Against The Machineを聴くと、まあ単純かもしれないけど、こう、血湧き肉踊ります。これなんていえばいいのかなぁって思ってたら偶然、id:tokyocatさんの引用されていた文にしっくりくるものがあった。紹介されている本にも興味があったので、前文含めて引用させていただきます。

そして、

前々から勧められていて、とうとう行き当たったのが、この一冊、

田川建三『イエスという男』

いやまいった、これは、本当に凄い本だ。(でもまだ少し)

以下のインタビューにあった「素晴らしい」の形容を思い出した。

http://inf.ifdef.jp/interview-yom-1.html

yomoyomo あるミュージシャンが「良い曲」と「素晴らしい曲」を定義していまして。「良い曲」とは、それを聴いてリズムを取りたくなったり、恋人と楽しいことをしたくなるようなもの。一方で、「素晴らしい曲」とは、それを聴いて警官をなぎ倒し、街に火をつけたくなるようなものだそうです(笑)》

http://d.hatena.ne.jp/./tokyocat/20070123

この定義に沿うのであれば、Rage Against The Machineの音楽は、まさしく「素晴らしいもの」だよなと思う。【追記】:引用文の「あるミュージシャン」についてはぜひこちらを → http://d.hatena.ne.jp/./yomoyomo/20070125/ratm びっくりした!!!

参考

http://www.cdjournal.com/main/news/news.php?nno=13992

クラウデッド・ハウスも再結成なのか!

[] 心のベスト10 第1位

なんと友人Nさんが北海道土産に買ってきてくれました。しかも2袋! ありがとうありがとう!

いつも心のベスト10 第1位は、こんなポテトチップスでした。カルビーの「北海道バターしょうゆ味」。おいしいねーほんとにねー。

パッケージ裏に「地域に根ざした定番の味!」て書いてあるの読んで、反射的に「地域に根ざさなくていいのでもっとふつうにかえるようにしてほしいです…」と思ったんだけど、でも、今日読んだこちらのエントリ「うどんこ天気-鮭フレーク狂い」を思い出して、私とバターしょうゆ味の遠距離愛(片思いですが)が続いているのはこの距離ゆえなのかしらとかおもいました。まあ足かけ20年ですよ。

参考胸焼けエントリ

マイライフ・ウィズアウト北海道バター醤油味

2007-01-23

[] 2007年本屋大賞

2007年本屋大賞のノミネート作品が発表になってた。

『一瞬の風になれ』/佐藤多佳子(講談社)

『失われた町』/三崎亜記(集英社)

陰日向に咲く』/劇団ひとり(幻冬舎)

『風が強く吹いている』/三浦しをん(新潮社)

『鴨川ホルモー』/万城目学(産業編集センター)

終末のフール』/伊坂幸太郎(集英社)

『図書館戦争』/有川浩メディアワークス

『名もなき毒』/宮部みゆき(幻冬舎)

『ミーナの行進』/小川洋子(中央公論新社)

『夜は短し歩けよ乙女』/森見登美彦(角川書店)

http://www.hontai.jp/

本屋大賞第1回(2004年)から、4回目の今回まで、連続でノミネートされてるのは伊坂幸太郎だけで、しかも前回は2作もノミネートされていたってすごい。大賞をとるより、コンスタントに佳作を生み出し続けてくれる方が、まあ、ファンとしては嬉しくもある(でもしばらく新作出てないんじゃないかな。そろそろかな)。

でも『終末のフール』(id:ichinics:20060413:p1)はこれまでの伊坂作品の中では、もっとも「本屋大賞」向き(?)だと思う。し、私も大好きな本だから、今度こそ、と思うけど。でも惜しいことに、出たのが前すぎるんだよな。

なんて、私がノミネート作品の中で読んだことあるのは「終末のフール」と「図書館戦争」だけです。新刊読めなくなってきてるなぁ…。でも、その2冊とも、どちらもすごく面白かった。「ミーナの行進」と「一瞬の風になれ」は信じられない事に…まだ積んである…。早く読みたいんだけど、なんかこう気分があるじゃないですか。あるんですよ。こういうの読みたい気分、ってアタリをつけて次に読むの決めるんだけど、なかなかな。だめだな。

今はいろんな人の日記で見かける森見登美彦さんの『夜は短し歩けよ乙女』が読みたいです。見かけるっていっても大絶賛を見かける訳じゃないんだけど、気になる感想が多くって。

というわけで4月の発表を楽しみにしています。

参考までに

[][] わたしを離さないで/カズオ・イシグロ

わたしを離さないで

わたしを離さないで

ぜひ読んでみて、と言われて手に取った。はじめてのカズオ・イシグロ作品。ひとことでいえば、すごく面白かった。

とりあえず、この物語を読むには、できる限り前情報がない方が良いと思う、と一応前書きしておきます。

私がこの物語を楽しめたのは、「前情報がない方がいい」ということを知っていたので、だからこそミステリを読むような心持ちで読みはじめたことで、物語にうまく「のれた」からだと思う。

この物語は終始主人公の一人称で、回想として語られ、だからこそ肝心なことがかなりの間隠されているし、やがて、全ては失われてしまっていることもわかる。私はそのミステリ要素を楽しみ、切なさを存分に味わった。ただ、これにのれない人もいるのは容易に想像できる。だから、この作品が、これほどまでにヒットしたのは、もしかしたらロマンスとして受け取られているからなのかもしれない。雰囲気としては、村上春樹ノルウェイの森」と近いものを感じる。

私は「わたしを離さないで」を読みながら、“ページをめくるのがとまらないくらい面白い”と思った。それは、そのSF的な設定はもちろんのこと、主人公と、常に集団のリーダーである友人ルースと、その彼、という三角関係のパワーバランスにあったと思う。物語を牽引する駆け引きに継ぐ駆け引き。ハラハラするようなやりとりと、それを冷静に描く未来の視点の違和感が、SF的な設定ともよく噛み合っていた。

続きを読む

[] Google@NHKスペシャル

そういえば昨日、NHKスペシャルGoogle特集(特集?)を見た。

思ったのは、世の中いろんな商売があるんだということ。それから、アメリカでの使われ方(として番組の描いた像)が、日本でも受け入れら れるかっていうと、なかなか想像しづらい。そもそも、情報を得る手段として、インターネットを入り口に選ぶ人の割合っていうのが、かけ離れているように感じる(それが実際どのくらいなのかも興味があるな)。

番組でもちょっと触れられてたように、日本では携帯が占める割合が予想以上に大きいみたいだ。自分も先日、携帯コンテンツを作る仕事をしている人から、中高生はクレジットカードを持っていないので、通話料と一緒に請求される携帯ショッピングを活用しているという話を聞いて、なるほどと思ったりもした。

それと同時に、携帯では通話/メールのみ、パソコンはほとんど使いませんて人もまだまだまだ多い。そして、そういった人たちの間で、文化の断絶というか、それに近いものが生まれている/くるような気もする。

番組の醸し出す雰囲気は何か非常に演出的で、結局経済の話だったけど、恣意的な存在になったら、それはつまんないだろうなぁって気もする。出来る事は具現化したいという方向に働く力と、山の神様が怒る…というような封建的な存在の戦いが、とか思いましたがそれは映画の見過ぎかもしれない。

[] 表参道の Marquee Moon

表参道駅(たぶん半蔵門線のホーム)で鳴る、発車のベルというかブザーの音を聞くと、いつもTelevision の Marquee Moon のイントロを思い出してしまう。たった1音なのに、しかも音違うかもしれないのに、その音におされて歩幅を広げてしまう自分がいる。

はじめてこれを聞いたときは、イントロとラストのユニゾン(?)にしびれたもんだったけど、今聞いても相変わらずしびれる。かっこいいということは、なんてかっこいいんだろう。

http://www.youtube.com/watch?v=5bMC8DloyJU

ShipbuildingShipbuilding 2007/01/23 21:14 こんにちは。本屋大賞は走る小説のどちらかかもしれませんが。そんなことより!世界樹の迷宮を手に入れました。やり始めました。たしかに寝転がってWiz。ウイズの面白さふたたびかも?みたいなもしかしたら面白いのかもしれない味をかみしめています。書いてくれてありがとうでした。

ichinicsichinics 2007/01/24 01:18 Shipbuildingさんこんばんは! 走る小説って「一瞬の」と、もうひとつはどれなのでしょう? …と、そんなことより!!!世界樹手に入れられたのですね。わーうらやましい!実は私はまだなのですよ。どこいってもないのでアマゾンにお願いしてるんですけど、届くのは2月らしいです。でも、Shipbuildingさんがそうおっしゃってくださるなんて、書いたかいがありました。私もはやくやりたいです。

ShipbuildingShipbuilding 2007/01/24 10:27 もうひとつのは、三浦しをんですが、個人的にはどうせなら、おそらく知名度も売上げも低い鴨川ホルモーが択ばれると嬉しいですが、
さらにどうせなら本屋大賞の規約をしりませんが、カズオ・イシグロを候補に入れてほしかった。「わたしを離さないで」は読めばたいていの人にとって忘れられない小説になると思うわよねえ。はともかく!世界樹の迷宮はウイズではなかったけど。寝転がって3DRPG。というコンセプトに納得です。単調なもぐり系がはまれる人は見も心もひたすら地下に沈みます。ちなみにわたしはたまたまヤフオクで量販店よりは高いけど定価よりは安く買えました。

ichinicsichinics 2007/01/25 00:37 『風が強く吹いている』も走る小説なのですね。実は私、三浦しをんの作品は、まだ一作も読んだことないのです。なぜか食わず嫌いのままで(ってそもそも食ってないので嫌いにもなれるはずがないのですが)。
ちなみに、本屋大賞は、日本の小説限定のようです。「わたしを離さないで」は、私が買ったのが13刷だったので、相当売れてるのだと思われますが、あの記憶をそれだけたくさんの人が読んだ、というのは、なんだかぞくぞくしますね。…というわけで! ってわけでじゃないですが、Shipbuildingさんの台詞にはやいこと納得したいです。DSはやっぱり寝転がってやるゲーム機ですよねと思う。

2007-01-22

[] よしながふみ志村貴子

よしながふみの「愛すべき娘たち」第3話についての「やさぐれ日記暫定版」さんの文章を(昨年のものですが)、コメント欄の追記(こちらも興味深いです)があったおかげで改めて読みかえしました。

けれど、オレがどうしても若林の非の打ち所のない造型に納得がいかないのは、彼女が「人を愛すること」の矛盾を受け止めず、宗教にその帰着を求めた点である。別に宗教がイカンと言っているのではない。しかし、この結末には、そもそも「人を愛すること」じたいが、見方を変えればれっきとした一つの暴力であり、同時に不特定多数の「特別に愛されなかった誰か」を生み出す酷薄なエゴである、という認識を背負おうとしていないように感じられ、それはよしながの作風が内にも外にも潔癖さを描こうとするが故の限界点に思えてしまうのだ。作中では対照的に描かれる生き方だけど、若林が選んだシスターという道も、第4話に登場する牧村という女性がたどる転落と相似であるように、オレには思える。

http://d.hatena.ne.jp/./headofgarcia/20060918

この物語については、昨年もスタジオボイスでのインタビュー関連で考えたことがあります(id:ichinics:20060811:p1)。その時は、インタビュアーの「僕は単純に、自分がこのまま幸せになってしまうのが突然怖くなったんだろうという読みをしていたんです」という発言に違和を感じたのだった。

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

もちろんどんな「読み」も自由だし受け取り方に正解はない、というのを最初に書いておきますが、

私にとってあの物語は、自身のエゴに悩まされる女性のものではない。むしろ、人を、人がするようには「愛せない」ということに気付いてしまった女性に救いの手を差し伸べるものだったように思うし、インタビューで語られていたことも、そのように読んだ。

4話に登場する牧村についても、あれは確かに転落と描かれているけれど、どちらの作品からも感じるのは「もう戦わなくていい」という赦しに思えます。そして逃げることを選べない者にもきちんと視線を送るバランスのよさ。よしながふみの作品は、常にマイノリティに寄り添った物語であるがゆえに、潔癖だと感じる。というのは今日「少女漫画的日常」さんで引用されていた「フリースタイル」のインタビューを読んで思ったので孫引きになりますが引用。

「頑張ればなんとかできると、いくら少年漫画を読んでも思えない人たちのために、その人たちがどうやって生きていくかってことを、それは恋愛だったり、っていう、それぞれの形で答えを少女漫画は提示している。」

http://d.hatena.ne.jp/./nogamin/20070121/1169349190

ただ、マイノリティであることへの罪悪感というか、赦されることを望むことは、それを悪とみなすことなのか、とか、そもそもマイノリティなのか? とかそういうところに引っかかりがあって、確かにその潔癖さを物足りないと感じている自分もいる。

「女」というカテゴリと戦うことだけが少女漫画のテーマではないし(もちろん/そしてそういう作品も面白いんだけど)、自意識を意識するようなループ、マイノリティであることへの「負い目」みたいなものを軽くこえているものなんじゃないかって予感を、私は志村貴子さんの「青い花」に感じている。女の子同士の恋愛を描きながらも、その背徳感のようなものにはほとんどスポットをあてず、「好きになること」の気持ち良さが描かれる。そしてそれが自己憐憫やら自己愛やらであってもビクともしない衝動に、魅力を感じてしまうのだ。

そして逆に、男であることの負い目とか? 「男」というカテゴリと戦うような漫画はあるのかって気にしちゃうところが、まだカテゴリに捕われてるなと思ってしまうのですが。「ハーツ&マインズ」などはそれに近かった気がします。でもあんまり思い付かないので、あったら読みたい。

参考

青い花」の感想 → http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20070112/p1

「ぼくは、おんなのこ」の感想 → http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20070111/p1

[] おひとりさま問題

女の子が「一人で牛丼屋に入れない」というエピソードが出てくる漫画だかドラマだか小説だかをずいぶん昔に見たことがあって、当時はそのどこに葛藤があるのかずっとわからないでいた。

最初にやってた仕事が交代休憩だったせいかランチ一人は当たり前だし、むしろ昼食は読書の時間でもあるので一人推奨なのはいまもかわらない。映画も一人で見にいくことが多い。展覧会とかもそう。

でもライブだけはなかなか一人でいきづらいなと思っていた。そもそもライブなんてめったにないからこそ、同じアーティストが好きな人がいれば誘うのが当然のように過ごしてきたけれど、ここんとこ、回りに(そのアーティストを好きな人が)誰もいないということが続いて、そして今までそういうのにつきあってくれてた人もいなくなったので、どうしたもんかと思っていた。

そこで昨日、大学時代の友人にその話をしてみたら、みんな当たり前のように「一人で行っている」と答えていた。

とはいえそれはほぼ男性の意見で「一人で行くと好きなときに帰れる」「日程の調整をするのがめんどくさい」などという忙しさによる理由がほとんどではあったけど、ちょっと勇気づけられて、これからはそのへん気にしないことにしようと思った。まあ若干いいのか? という気もしないでもないし、できればライブはそのライブを楽しめる人同士で行きたいなという希望はあるんだけど。

でもなんでためらったんだろうな?

で、そこから派生して、一人でどこまで行けるかみたいな話をしていたら、「東北の女一人旅は断られる」という話を聞いたのですが、これはほんとなんだろうか? 南ならOKなのか?

というわけで、今年こそ(今年こそは!)鳥取へ行きたいと思います。植田正治美術館にいって砂丘みて魚食べてハワイの海を見るんだ。

[] はてな夢日記/電飾・薔薇・不思議な兄弟

今日の夢は、どれも断片的で、自分はでてこない。映像を見ているようなのに手触りがある感じ。でも誰のなのかわからない。

下北沢の南口商店街を歩いている。その奥の、王将のあるあたりから「これからライブがはじまります」というアナウンスが聞こえる。その周辺の、派手な電飾が際立つのは、街灯の明かりが消えているからなのだと思う。

歩きながら南口商店街のを抜けたところで、風景は現実のそれとは違うものとなって、今立っているところが、崖の突き当たりにせり出した場所であることを知る。せり出した踊り場から見渡せる町並みは真っ暗な海のようで、その水平線に、ゴリアテのように大きな船が浮かんでいる。その奥に大きなクジラが縦にうかび、開いた口から空飛ぶ機関車がこちらに向かってやってくる。機関車の窓にはたくさんの人々の顔があり、あああれ乗りたかったね、といいながら空を見上げている。

古い鉄筋コンクリート建てのマンション。壁のひび割れから薔薇が生えている。窓から手を伸ばして、隣の家の壁から生えている蛇口をひねり(便利だなぁ、でも水道代は隣の家の人が払っているんだったら悪いな、と思っている)、顔を洗う。下へと滴り落ちる水は、はり巡らされた白いコードを濡らしていく。いったいここは何階なんだろう。

不器用な夫、厳しい妻、がなぜか編み物教室に通っている。ものすごく貴重な糸を夫が無駄にしてしまい、妻が怒り狂う中「先生」と呼ばれる女性はそれを巧みに修復していく。

帰宅したところには夫の兄と姉がいて、妻が夫の不祥事を喧伝している。弟を責める兄と姉。カメラは兄と姉を追い、姉が泣き出し、兄がそれを慰めている場面を映し出す。

ichinicsichinics 2007/01/22 22:35 nogaminさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
>『青い花』が女の子であることの負い目を超えているように見えるのは、男の子が入ってこない関係だからこそなのではないでしょうか。
うーん、確かにそうかもしれませんね。ですが、ここで「こえている」と感じたのは、少女漫画にはいわゆる「自分語り」といわれてしまうような逡巡をあつかったもの、例えばメインストリームにある恋愛至上主義を斜に構えてみてみたり、とか、友人関係にしてもそういうカウンター的な要素を持った両極端が多いように感じていて、でも「青い花」は、恋愛って気持ちいいよね、ということを敢えて「痛み」と向き合うこと(読者にとっても)以外で描いている感じがしたんですよね。うーん、うまい言葉が思い付かないんですが、私はその辺の軽やかさにぐっときました。
あーでも、そういえば、「ぼくは、おんなのこ」の中にあった美しい母を持つ女の子の物語のラストと、「愛すべき娘たち」を重ねても面白いかもしれませんね。
ともかく、よしながふみさんは少女漫画の評論家(?)としても非常に 優秀な人なんだろうなと、インタビューを読むたびに感じます。 シスターという選択肢については、スタジオボイスのインタビュー(常に出家が念頭にあった、という)で解決した気になってしまったんですが…。個人的にはあれが「失踪」だったとしても、納得はいったと思うのです。

nogaminnogamin 2007/01/23 13:05 >スタジオボイスのインタビュー
これをまだ読んでませんでした・・・そのあたりの考えが書いてあるのですね。ぜひ読んでみます。
よしながふみさん、本当に言葉も達者ですよね。(というか理屈っぽいのかもしれないけど、それがマンガの才能を損なうことにならないところがすごい)
>私はその辺の軽やかさにぐっときました。
私も同感で、その感覚を否定するものではないですが、ではなぜ女の子同士でかかれなければならなかったのか、のあたりにやはり何かを感じてしまうのです・・・。

ichinicsichinics 2007/01/24 01:09 >スタジオボイスの〜
わ、失礼いたしました、そうかnogaminさんが引用なさってたのはフリースタイルでしたもんね。なんかこんがらがっておりました。よしながふみさんのインタビュー自体は短かったですが、機会があったらぜひ見てみてください。
>ではなぜ女の子同士でかかれなければならなかったのか、のあたりにやはり何かを感じてしまうのです・・・。
そうですね…。いくつか考えられると思うのですが、まずひとつは、かつて少女漫画のメインテーマであった「初恋」の空気を描くには、もう異性愛では表現できなくなってしまったからではないか、と私は感じます。
それから、異性愛というものは、ある程度多くの人が自分の感情として体験したことがあるからこそ、それぞれに一家言あって、だからこそ物語の引力が一所に集中させにくいというか。
たとえばふみの先輩への感情は、あれが男性の先輩に対してのものだったら、自分以外の人を思って涙を流す様を「かわいい」と思えるような展開に疑問を覚える人もいるのではないかと思うのですが、あこがれに近い同性愛というフィルターをかけることによって、共感のできるワンシーンになっていると思います。とはいえ私にはあの感情を何といえばいいのかわからないのですが、それは独占欲とはまた少し違うものなのでしょうね。
「なぜ女の子同士か」ということについては正直あまり考えてなかったのですが、もう少し整理して考えてみたいです。

nogaminnogamin 2007/01/24 10:18 それこそ
>異性愛では表現できなくなってしまった
というichinicsさんのお考えがズバリ言い当てていらっしゃるのではないかなぁなどと思いました。
で、私も『青い花』、すごく好きなんです。やり取りの一つ一つを、ドキドキしながら読むことができるところなど本当にすばらしいと思います。絵もきれいですし、幸せ気分になります。

ichinicsichinics 2007/01/25 00:11 nogaminさん、どうもです。
異性愛で表現できなくなってしまった、と言い切ってしまうのもちょっとためらわれるのですが、それは漫画の問題、というよりは世の中の空気とか、そういうものも絡んでるのかもしれないですね。「青い花」を読んでいると、ふみの恋よりも先輩の恋のほうがファンタジーに感じられてしまって、そういうとこも、どきどきします。
って! なんだか長々とまとまらない話につきあわせてしまって申し訳ありませんでした。ともあれ『青い花』については、まだ続いている漫画ですし、今後を楽しみにしたいと思います。

2007-01-21

[] 言葉の手前、沈黙

例えばこうして日記を書くにあたって、ある引力に従うようになる、ということは書くことがうまくなったということではなく、言葉が、自分の意志するところから離れていくことであるような気がする。

自分の中にマッピングされた言葉の全容を見ることなどできないのだから、常に言葉は追い求めるものであり、形作られた瞬間に光のあたったそれは、思い描いていたはずのものとはまったく違う、ということもあるだろう。そもそも思い描くものを形作るなどということが、可能なのかもわからないのだけど。

意味は光ではなく、影にあるのかもしれない、という人の言葉に、私は逆らうことはできない。

しかし、そのように並べられた言葉をみてはじめて、私はその向こう側にある沈黙を想像することができる。

その気配を、どうにか言葉につなげてみることで、現れるのはまったく別のものなのかもしれないけれど、その場においては、できる限り、自分の引力に逆らうようにして、目を凝らさなければならないと思う。ここにも沈黙はある。

[] いつでもぼくらをよろしくたのむよ

今朝雪が降ってた。風花みたいな弱々しい雪だけど、雪だーと思ってたら二度寝してしまった。今日は大学時代の友人と新年会で、早起きして用事すませてから映画みてから行くつもりだったのに、二度めに起きてからはなんとなくだるくて結局待ち合わせぎりぎりになってしまった。不覚。

奥まった店でアジア料理など食べていると、大学時代のそのまま延長線上にいるみたいだけど、なんだかんだ、みんな大人になっている。丸くなる。少人数でしゃべるときの親密さとはまた違う、大勢ならではの感傷みたいのがあって、例えば、中には年に1回くらいしかあわないひともいるのだけど、このペースが続いたとしても、あと何回、会えるんだろうねとかそんなことを思う。

楽しかったので、つい終電を無視してはしごしたら、結局タクシーで帰るはめになり、もうこんな時間だ。

聞いたことやしゃべったことみんな、お酒が入った後では曖昧なんだけど、タクシー待ちながら並んでたあの人が「そう言えば今朝、雪が降ったよね」といったのは、しっかり覚えている。

2007-01-20

[] ファイアーエムブレム新作@Wii

任天堂は18日、Wii用ソフト「ファイアーエムブレム 暁の女神」を2月22日に発売すると発表した。同ゲームは、キャラクターを育てるロールプレイング要素と、戦術を立てて戦うシミュレーション要素を併せ持つ。チュートリアル機能も充実しており、シリーズを初めて遊ぶ人でも楽しめるという。価格は6,800円。

いまいち何をやればいいのかわからないでいたWiiに予想外のファイアーエムブレムがくるっていうのはうれしい。けど、正直Wiiで? という気もしないでもない。というか、あのコントローラーでシミュレーション? というのが想像しづらい。

ただ、リンク先を見ると今回のマップ画面は高低差があるとのことで、これはまるでタクティクスオウガの再来。というわけで買うことは決定しました。

あとは戦闘がアクションじゃないことを願う(FEでそれはないと思うけど)。

ちなみに今日も4件はしごしたけど「世界樹」は売り切れでした…。ワリオばっか。

[] Bonnie "Prince" Billy/The Letting Go

Letting Go

Letting Go

Bonnie "Prince" Billy名義では三年ぶり、で、何枚目のアルバムなんだろうな。

この人のアルバムは集めるのがなかなか難しい(情報があんまりないのにたくさんでている)のだけど、いつ聞いてもどれを聞いても、ウィルの声があればそれが戻ってくるところの音だったりする。

Bonnie "Prince" Billy兼ウィル・オールダム、そしてパレス・ブラザーズ。そしてブラザーズの弟ポール・オールダムはこのアルバムにもちゃんと参加しております。どういう基準で名義を使い分けてるのかは実は良く知らなくて、初来日の時にはBonnie "Prince" Billy名義だったような気がする(そしてポールもちゃんといた)けど、やったのがBonnie "Prince" Billyの曲だけだったのかはよくわからなかったし。ただ、そのこんがらがった感じもまた魅力なのは確かです。

なんていってしまったらまるでいつも同じみたいだけど、しかしこの「The Letting Go」はすこし、毛色が違います。カウボーイ、アイスランドへ行く、といった風情のアルバムで、つまりアイスランドで録音されています。なんと初の海外レコーディングだそう。

ライナーにはビョークシガー・ロスらとライブをやり、「拘束のドローイング」のサントラにウィル名義で参加したことなどが切っ掛けなのではないかと書いてあり、プロデュースはそこで出会った(のではないか)とされるヴァルゲイル・シグルドソンさんが担当されています。

また、パレスブラザーズの二人とともにダーティースリーのジム・ホワイト、それからドラッグシティのレーベルメイトであるフォーン・フェイブルズのヴォーカル、ドーン・マッカーシーと、ベス・オートンのツアーでギターをひいていたというエメット・ケリーが参加して、なかなか分厚い音になっている。

ウィルの声は柔らかくかすれていて、その、微かに転がすような歌い方は、ボリュームをしぼって聞くよりも、ヘッドフォンでじっと聞くのに適している。そこまではいつものアルバムと同じなのだけど、今回はそこで背景を彩る音色の多彩さに気付かされ、それがアルバムに奥行きを与えてもいる。どんどん引き込まれる。

例えば「Lay and Love」で鳴らされる、リズムマシンのふらふらとただよう感じは、まるでアイスランドの氷が溶ける音みたいじゃないか。なんて、もちろんそれを見たことはないのだけど、ドーンの静ひつな声の質感が、みたことのない幽玄な景色のイメージを膨らませてくれる。そして、ウィルの声がイメージを受け止める。初めて見たとき、プリンスのでかさと気さくさに驚いたのを思い出した。

f:id:ichinics:20070120013753j:image:h150

[] LOWニューアルバム

USインディー・ロックの潮流のひとつ、スロウコアの代表的バンドとして日本でも人気を博するミネソタ出身の3人組、ロウがニュー・アルバム『Drums & Guns』を3月20日にUSでリリースします!2年ぶりのリリースとなる本作は、前作『The Great Destroyer』に引き続きインディー・ロック界の名匠=デイヴ・フリッドマンがプロデュースを担当。

http://www.bounce.com/news/daily.php/9619/headlineclick

来日キャンセルになったのを未だに引きずってるのですが、それももう二年くらい前の話だった。前のアルバム(id:ichinics:20050223:p1)もいまだにiよくきいてるし。新作はうれしいニュースです。そして今度こそライブ見たい。

[] 暗闇と光

ベッドサイドのライトの電球が切れたので、夜が暗い。今まではライトをつけて寝ていたのに、今は暗闇のなかで、手探りで布団をかぶる。電気を消した瞬間に夜が降ってくるようで、なぜか息をひそめてしまう。

カーテンをめくって、白っぽい月の光に照らされたとなりの家を見るとつい「雪が降っている」と確信する。少し手を伸ばし て、くもったガラスをふいてみれば、屋根は黒々として、雪などないことがわかるのだけど、雪が音を吸い込むときのあの感じは、この暗闇によって作り出されているのかもしれない。などと思いながら、眠る。

今年の冬、東京に雪は降るだろうか。それより私はまだ、雪を楽しみにしているのだろうか。

2007-01-19

[] Comments Of The Inner Chorus/tunng

たぶんどこかで紹介されていたのだろう。アマゾンのカートに入りっぱなしになっていたのを、あれこれなんだっけ、と買ってみて、届いて聞いてみたら、これは!! と嬉しくなった。こういう音を前にしたら、すごく良いです、としか言えない。そして好き。

アコースティックギターと電子音で紡がれる、ささやかだけれど、広がる音。基盤はブリティッシュフォークなのだけど、そこにサンプリング音や電子音が絡み合うことによって、風景が動き出す。でも飛行機や電車の速度じゃなくて、バスの一番後ろの席に座っているときのような、安心。そして曲間に顔を覗かせる不安。でもいつしか暗がりを抜けて、見知った場所に出るときのような、緊張と弛緩のバランスが、いかにもブリティッシュフォークです。でもストレンジ。定義しようとするとするりと逃げる、流れ自体に意識を感じる。

早速1stアルバム「Mother's Daughter And Other Songs」も注文しました。早く聞きたい。この2ndはバンド編成になっているけれど、tunng(タン)は結成当時からたぶん1stまで、マイク・リンゼイさんとサム・ジェンダースさんのユニットだったそうです。どんな音なんだろうなぁ。

すごく良いです。そして好き。

Comments of the Inner Chorus

Comments of the Inner Chorus

[] 意味は後からやってくる

「言語の使用はかならず規則を越えていくものだと思います。」

先日(id:ichinics:20070115:p2)、このようなヒントをwoofさんからコメントでいただいて、しばらくそのことについて考えていました。…言葉について考えるのは、タマネギの皮をむくことににている…とかもやもや脱線しつつ、でも、むしろ逆回しで、タマネギの芯から皮が重なっていくところを思い浮かべる方がイメージに近いと思う。永遠のタマネギ。

まず、この前の「1+2= 」という式に3を書きたくなる気持ちというのは、その「+」とか「=」の規則を知っているからだと思う。「なんで3を入れたの?」と問い返されたらいろいろ説明してみることもできるけれど、最終的には「だってそう教えられた/そのように使われているから」と答えるだろうし、そうやって身につけた「規則」だ。

その意味で「+」はまず、インデクスとしてそこにある、といえる(のかな?)。そして、「+」の意味は、その使用法であるだろう。

でもその使用には、「+」という記号が、前後の数を加算するためのものであるという解釈がある。そして、その解釈は、必ずしも共有されているものではないし、常に「そうでなかったこともありえた」という可能性を含む。

少し戻って、最初に考えはじめるきっかけになった「東京猫の散歩と昼寝」さんのインデクスとシンボルの話を思い出してみる。

動物の交信はインデクスにすぎないが、人間の言語はシンボルとして働く。

この箇所を読んだとき、それでは「インデクスとしてしか使わない」という状態はどういうことなのだろうか、と考えてみたのだけど、それはいまだにイメージできないでいる。ただ、

  • 「動物の交信がインデクスに過ぎないとされるのは、記号同士が結びついて使用されないからなのだろう(と思われる)。だとしたら、インデクスとしての使用をシンボルとして解釈するのは、常に客観である、ということなんだろうか?」(id:ichinics:20070113:p1

この「客観」というのが、つまり後からやってくる「意味」なんじゃないかって、思いはじめている。(たぶんインデクスとしての意味は動詞の「mean」でシンボルの場合は名詞の「meaning」になるような気がするんだけど、この場合は後者 そのまま「指標」「象徴」でよかった)。

親猫が子猫を呼ぶ声がインデクスであるのは、それが「そうでなかったこともありえた」を含まないからなのではないか。

しかし、インデクスとしての記号も、シンボルとして結びつく記号も、その解釈は常に後からやってくる。そして、言葉をシンボルとして使うのが仮にヒトだけなのだとしたら、後からやってくる「客観」を自ら持つのも、もしかしてヒトだけなんじゃないかと思うのだ。つまり、猫の呼び声に、言外の意味はない、のは、それを「思わない」からなんじゃないか。

「言語の使用はかならず規則を越えていくもの」というのは、言語の使用は常に「そうでなかったこともありえた」を含む、ということなんじゃないかと、とりあえず今のところは解釈してみた。そして、「意味」というのは常に、後からやってきて、言語の使用を定着させる/可能性を収束させるもの、なのではないだろうか。

逆に、仮に「+」の意味を説明しようとしたところで、いくら言葉を重ねても、それ以上説明ができなくなる所に突き当たる。それは複数の規則が複雑に絡み合ったシンボルであり、そもそも「その規則を守らなければならないというルールなんてない」からだ。。

その限界がタマネギの完成なんではないかと思う。しかし限界があるということは、その先にも「何かがある」ということを示している。そして、それが独我論を否定するものなんじゃないか、と思ったけども、そういう解釈は安易すぎるのかもしれない。それは過去にあるようだけど、同時に先に、未来に? あるような気がするのだ。

言語の「意味」についてはもうちょっと整理して考えてみたい。

ところでwoofさんのコメントで知った「クワス算」という言葉については、まだ調べられていません。というかgoogleに聞いたら二番目にここが出てくるのは問題だと思った。

[] あらすじ/意味がかくされているということ

リンク元に「華麗なるギャツビー あらすじ」、という検索ワードがガンと増えたのですが、読書感想文の季節だったりするのでしょうか。私の感想はちゃんとあらすじ書いてないので参考にならないと思うというかギャツビーの見どころはあらすじではないと思うのでその辺難しいだろうなと思いました。でも、面白かったので読んでみればいいと思う。感想文のあとでもいいから。

ところで、わたしが今読んでいるのは、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」だ。これをおすすめしてくれた友人と明後日会う予定なので、それまでに読もうと思っているのだけど、すごく面白くてどんどんページが進んでしまい、進むのがもったいないと思うくらい面白い。そして、この本の場合は、あらすじを知ってしまったらきっと読む楽しみが損なわれるだろう。というのは、どこかの感想のさわりに書いてあった(のですぐ読むのをやめた)のだけど、確かにその通りだと(まだ読み終わってないけど)思うし、そう書き記してくれた人に感謝してもいる。

「あらすじを知ってしまったら楽しみが損なわれる」と思うのは、この物語にとって「隠されている」ということが重要なテーマになっているからだ。言葉が繋がっていくところにある、その意味は、後から押し寄せてくる。

インデクスからシンボルへ、というのは、その使用と意味をつなぐ経路のややこしさ/長さ/タイムラグ、みたいなものなのかもしれない。

woofwoof 2007/01/20 03:49 言及していただいてなんだか恐縮です。「そうでなかったこともありえた」という懐疑は、未来から現在の言語使用に向けてなされることもありますよね。プラス記号の意味は、そういった懐疑論者によって上書きされる可能性に常に開かれていることを、クリプキという哲学者が『ウィトゲンシュタインのパラドックス』の中で言っています。飯田隆さんの『クリプキ』という解説書もあります。これは、よくある「読んでみては?」という話ではなくて、ichinicsさんのエントリがクリプキの議論にとてもよく似ていてびっくりした、ということです(笑)

woofwoof 2007/01/20 03:55 あと一言だけ。本名(本id?)が恥ずかしくて偽名で投稿していますが、いつも愛読させていただいてる者です。きちんと名乗らないでごめんなさい。

2007-01-18

[][] ハーツ&マインズ+ザ☆ライトスタッフ/いましろたかし

コミックビームやコミックCUEに掲載された、比較的最近の作品しか読んだことがなかったのですが、「初期のいましろたかし」をなんとなく買って読んだら、すごく面白くてびっくりした。

BOXや単行本中に著名人の推薦文がこれでもかと載っていて、そういうのってちょっと身構えてしまうものだけど、読みはじめたらまったく気にならない、というかそれだけ思い入れるのも素直に納得できてしまう、賛辞の嵐にもさざ波すらたたないオリジナリティがあった。隙がない。あとがきに「僕は名誉も欲しいので、オリジナリティのある漫画を描きたかった。/初期作品には、そういう気持ちが強く出ていると思います」と書かれていたけれど、それを紙の上に実現できるというだけですごいし、大ヒットするタイプじゃないかもしれないけど、名作として定番になる魅力があるのに、なぜこれが今まで絶版だったのか、読みながら不思議で仕方なかった。そのことについては、あとがきで狩撫麻礼が「ここにはディズニーランドもSMAPもないからだ」と書いているけれど、「残る」漫画はそれを持ったものであるわけでもない。きっとタイミングの問題だったのだろう。

「ハーツ&マインズ」と「ザ☆ライトスタッフ」はどちらも短編の連作で、複数の登場人物が繰り返し登場する構成になっている。根っからの善人なのにうまくいかない男、一生懸命さが空回りする男、男らしさにこだわりすぎたり、自己嫌悪したり、「なんでだ!」とのたうちまわったり。

それを1コマであらわしているのが、トイレで「死にてぇよぉ」と唸っている男の部屋のドアには、ウサギが「OPEN!!」と書いた板を持ったファンシーな表札がかかっている、という第一話「モルタルパーティ」にでてくるくだりだと思う。そのウサギはその後も繰り返し画面にキーワードとして描かれ、そのたびに胸がもやもやする。

そしてその部屋の主、山下のところに弟が訪ねてくる「ジャスティス2」がすごい。

「のん気なこと言ってんじゃねえくそったれ! ぶっ殺すぞ手前ッ」

ここで泣かせておいて、次の『84’男おいどん』は「そのうち面白いことあるって」「あって欲しいですよ」とまとめてるのもいい。何だこの絶妙さ。

例えば、つげ義春の「無能の人」が、一種のファンタジーとして読まれている(ように感じる)のは、あの彼岸な感触と、たぶん今ではもう、その時代背景を思い描きにくいということにあるのかもしれない。しかし、いましろたかしがこれほどリアルに読めるのは、かろうじで体験した時代のせいだけでなく、たぶんその笑いにある。確かに、身につまされる話も多いんだけど、それでもちゃんと笑えるのは、登場人物がみんなそれぞれ必死だからだろう。そこに生であることを感じ、だから安心して感情移入して、泣いたり笑ったりできるのだ。

楽しくなくったって そうとも!

俺は平気だ!

「こんにちは」p392

といって筋トレした直後に布団に突っ伏して泣きだす素直さには、滑稽さだけでない、自らを省みざるをえない切実さがあって、こう、ぐっと、いう気分になる。

[] 「世界樹の迷宮」欲しい!

会社帰りに買いにいったら売りきれ…。別の店に行ったらそこでも売り切れ…。今日は朝から「夜は「世界樹の迷宮」やるんだー」とか思ってたのに大誤算だ!

DSの新作ってそういう勢いなんでしょうか? それともWizardryファンがそれだけ多いってことなのかな。

いずれにせよ、しばらくやれないのかもなぁということがわかってガックリです。

toukatouka 2007/01/18 18:38 ファミリアが生産中止のニュースを聞いたとき感慨深いものを感じました。「釣れんボーイ」と「ラララ劇場」もおもしろいですよ

ichinicsichinics 2007/01/19 01:45 toukaさんこんばんは。いましろたかしの本は、たしかtoukaさんのところに書かれてたのを見てから気になってたんですよ。「釣れんボーイ」と「ラララ劇場」も読んでみます。
しかしバブルってほんと自分に関係なかったなーと読みながらしみじみ思いました。

whistlemanwhistleman 2007/01/19 01:53 「ラララ」の前に「トコトコ節」を読まれたほうがいいかもしれません。

ichinicsichinics 2007/01/19 02:05 whistlemanさんこんばんは。早速読んでみます。3冊とも今普通に買えるんですね。ありがたいことです。楽しみがふえました。

2007-01-17

[][] 「エスケイプ/アブセント」/絲山秋子

エスケイプ/アブセント

エスケイプ/アブセント

この本には「エスケイプ」と「アブセント」という2編が収録されている。「アブセント」の主人公について書くと、「エスケイプ」のネタばれになってしまいそうだけど、つまりは「袋小路の男」と「小田切実の言い分」みたいな関係の2編だ。

「エスケイプ」の主人公は元左翼の活動家。活動をやめる決心をして、これから旅立つぜ、というところから物語がはじまる。ほとんど主人公の一人語りで続いていく文章はテンポよく、小気味よくアジるその感じはどこか、theピーズの音楽に似ている。『サマー記念日』あたり。絲山さんはほんとにピーズが好きなんだなぁと思う作品で、それがなんか嬉しい。

でも。そういう楽しみを抜きにしても、これはすごく、力強い小説だった。「エスケイプ」における「アブセント」の存在がわかるところなんか、ぞくぞくするね。設定にっていうんじゃなくて、展開の巧みさというか、説得力みたいなものに。

子供はいいよ。子供はきもち悪くないからな。

おれには女も男もどっちもきもちが悪い。ま、おれ自身も多少、きもち悪いし、ね。

なんで大人ってドライでソリッドじゃないのかな。なんで生なんだろう。なんでやわらかくてぬるついてくさいのだろう。肉体も精神もそうだ。そういうことを考えるとおれは耐えられないきもちになる。p75

そうだよそのとおり。ぐんにゃりって、耐えられないきもちになる。でも、

悪いな、おれは必死だよ。でも必死って祈ることに少しはにてないか。/p100

泣かせんなよなーと思って読み終えた「エスケイプ」と、「アブセント」のラストは、裏表になっていて、そのことにもまたぐっとくる。心強い小説でした。

[][] トップをねらえ!

トップをねらえ2! (1) [DVD]

トップをねらえ2! (1) [DVD]

すごい! おもしろかった!!

GAINAX20周年記念作品として制作されたOVA全6話。

1988年に制作された「トップをねらえ!」の続編なんですが、そちらは未見。未見なのに続編を見てしまったのを今すごく後悔しているところです。が、独立したお話なので、単品で見て意味がわからないところはないです。が、肝心の場面で「トップをねらえ!」のラストの予測がついてしまうので、やっぱり順番に見たかった…!

ともかく。「トップをねらえ!2」は、すごく楽しいアニメでした。

宇宙へ行くことを夢見る少女ノノが都会に出る場面からはじまり、バスターマシンを操り宇宙怪獣と戦う「トップレス」のラルクと出会うまでが第1話。

「トップレス」は一種の超能力の持ち主のことで、この力を持っている者だけがバスターマシンを動かすヒーローになれる。トップレスの能力は一時的なものであり、いつかは「あがり」を迎えることになる。「あがり」に怯え、妬み、拘泥する者たちの切なさ。そして、追うものと追われるものの逆転。「ピンポン」におけるペコとスマイルの関係に近いものがこの物語にもあって、それをガチンコで解決するところがこの物語の最大の見所のひとつになっている。

それから、この「トップレス」のワードが、まあ想像通りのアホな展開を呼んだりもするわけですが、その展開にも、不思議と感動してしまうような清々しさがあった。

古典的なドタバタと、今のアニメの感じとが絶妙なバランスを作っていて、小ネタをちりばめ笑わせつつ大筋にはしっかりとカタルシスをもってくるところなんか、うますぎてくやしくなるくらいだ、しかも絵柄が破綻しない。すげー。こんなの見ちゃったら贅沢になっちゃうよと思った。

分量もちょうどよく「もっと見たい!」って思うくらいで、でもやっぱりもっと見たいんだけど。というか、だいたい劇場版一本くらいの時間なんですね。と思ってふと劇場版あったのかなって検索してみたら、昨年末に合体劇場版てのが公開してたらしい!!!全然しらなかった。DVDでもうすぐ発売らしいです。フィギュアつくのか…。

でも何よりときめいたのはキャラクターのかわいさでした。美樹本晴彦さんデザインのキャラクターも印象に残ってるけど、今回のキャラデザは貞本義行さん。ただ、フューチャービジュアルってたぶん未来っぽい何かのビジュアル(そのまんま)のデザインでokamaさんが参加されてるんですが、実際の絵柄はむしろokamaさんに近い雰囲気です。とくにニコラとか。okamaさんによるイラストがながれるエンディングもいい。制服もかわいいんだ。裾広がりの手足とかいいな。イラスト集ほしい(ところでエンドロールの最初の方にでてくる絵の着彩が(というかokama展にもあった)高河ゆんぽいなと思った。あの髪の毛のタッチとか)。

…という個人的な好み以外にも、例えば、ラルクをお姉様と呼ぶノノのがでかいっていうのも、心理バランスをうまく表現してて、気が利いていると思いました。いいアニメです。

トップをねらえ!」を見たら、また見る。

参考

WEBアニメスタイル」:鶴巻和哉が語る『トップをねらえ2!』秘話 第1回 旧『トップ!』はオタク否定の作品だった?

http://www.style.fm/as/13_special/mini_060921.shtml

キャラクターデザイン特集

http://www.style.fm/as/02_topics/top_051102.shtml

2007-01-16

[] 2年と、今年の目標

えー。

はやいもので、でも、やっと、でもない、あーそんくらいだよね、なんて具合に、はてなで日記を書きはじめて、2年がたちました。

書いたねー、結構。せっかくだから何エントリ書いたか数えてみようかなって、思ってすぐあきらめたんだけど、たぶん1800前後くらいあっ て、おいおいお前さーと思った。うん。たしかに数と数の間にはいろいろある。

なんで日記を書くのか、ということについて私はながいこと、書きたいという欲だけでいいんじゃないのと考えていて、ここに書くということでムリをした覚えがない。それでもまぁ、2年もたてばちょっとは別の欲もでてくるだろうと思っていたんだけど、やっぱり不思議とそんなにない。居心地も良く、これはこれで、けっこう気に入ってる。もちろん、いろんな人の日記を読み、私もこんな文章が書きたい、とうらやましく思うことは日常茶飯事であり、自分の文章に嫌気が差すことはあるけれど、それでもやっぱり、書くことは好きだ。

私がここに書くのはほとんどが感想文です。本や漫画や映画や音楽や、誰かの文章についての、感想文や反応を書くのは、それがわかったからではなくて、私がそれをどう受け取ったのかをわかるためだと思う。自問自答、だったらまだいいけど、答えが見つかってないことの方が多いから、自問自問たまに答くらい。自問のジャンルは雑多だし、かといってひとつのジャンルについて掘り下げているわけでもなく。読んでくれる人のことを考えれば、もっと傾向があったほうがいいのかなと思ったこともあったけど、いまだにひとつところにまとめてしまっている。好きなことを書き散らかしている。

ただ、2年間、ほとんど何のかわりもないように見えるこの日記にも、嬉しくなるような出来事はちゃんとあって、それはほとんど「読まれた」ということについてでした。

だから、正直にいえば、やっぱりちょっとは期待してるんだと思う。ゼロだってわかってたら、そもそもネットにあげてないだろうし。でも、見てくれてる人がいるということを書くモチベーションとして頼ってしまうと、へこむだろうしそしたら書かなくなりそうだし、でも書きたい欲はあるので、それをモチベーションとしないできた、というか考えないでいたんだと思う。うーん。弱気なのか卑屈なのか、いい感じではないですけど。

でもたまには、読まれることを意識して書こう、と思ってこれを書きはじめたんだけど、そうすると急に恥ずかしくなるのね。こういうのは2年経ってもまだ慣れない。

というわけで、長々と言い訳がつづきましたが、

この日記が2年も続いたのは、やっぱり、ここを読んで下さってる方のおかげです。いままでありがとうございました。いつも励みになっています。そして今後ともよろしくお願いしたいです。

「イチニクス遊覧日記」は当分、こんな感じで更新されていく予定です。ここの節操のなさが外からはどう見えるのかわかりませんが、なにかあってほしいなと思うし、いつか、そういうものをかけるようになりたいな、と思うのは、むしろ他の人の文を読むことがモチベーションだってことなのかもしれません。

ともかく、今年こそ、もうすこし潔さみたいなものを身に付けたい。それが今年の目標です。

そして3周年(あるのか?)には、もっとシンプルなこと書いてみたい。

 

ちがう、そうじゃなかった。

いつもこころがけていようと思っていたことを、すっかり忘れていた。

「富士日記」をつけはじめる前に、武田百合子さんが心構えとしていた3点のこと。

「自分に似合わない言葉、分からない言葉は使わないようにしよう」

「キライな言葉は使わないでいよう」

「美しいという言葉を簡単に使わないようにして、それがどんなふうに美しいのかを書こう」

もっとちゃんと、見よう。ムリしないとか言ってたら、どんどん鈍感になるだけだ。そろそろ武田百合子さんの本を読み返そう。

michiakimichiaki 2007/01/18 02:18 祝2周年。お疲れ様です。自分もまだ当面いろいろ書くのではないかと思うので、まだしばらくお付き合い?ください。

ichinicsichinics 2007/01/19 01:39 どうもです。michiakiさんの「いつまでブログとかやってんのか」を読んで、自分はいつまでやってんのかなーと考えてみたらちょっと動揺した、というのが上の文だったりします。きっとそういう季節なんだと思います。

2007-01-15

[] ラグタイムおおはた雄一

ラグ・タイム

ラグ・タイム

おおはた雄一さんの2ndアルバム。この「ラグタイム」はいくら聴いても、流れていく感じが気持ち良く、考え事をしているとき、そして何も考えてないときとかによく選ぶ(主にi-podで)音だったりします。

1stアルバムでは弾き語り中心だったのが、この「ラグタイム」ではゲストによるギター以外の楽器と、インスト曲が増えている。でも言葉のある曲とない曲との間に隙間はない。音楽にのせられた言葉と、その意味の間をつなぐ回路がすこくシンプルで、頭の中をさらさらと流れていくような感じ。歌詞を理解しなくても耳に触れた単語の残像が曲と寄り添っている。

三曲目に収録されている、映画「パリ・テキサス」でも使われていた民謡「Cancion Mixteca」などを聴くと、ジョン・ルーリービル・フリゼールのギターを思い出したりします。体と楽器がなじんでいるみたいだという驚きとあこがれ。

かつて年間200本以上もライブをやられていたというライブの人であるのに、私は未だおおはたさんのライブを見たことがないのです。が、来月キセルと一緒にやるらしいので、やっとアンテナにライブ情報がひっかかり*1見れることになりました。楽しみだ。あと今月末には新しいマキシがでるみたいだし。あ、そのまえに去年でたアルバムもだなあ。時の流れは早いです。が、このアルバムはそれだけ長い時間を経ても、おんなじ温度で流れる。

[] 言語を使用する際の二つのルール

哲学にまつわる話や、例えば文学作品の批評などで時折出会うのが「それは○○だ/○○ではない」といった言い回しで、その○○には哲学者や作家の名前が入るんだけど、私がわからないのは、そういった発言は、そこに書かれていることや言われたことを理解し、その理解が他者に共有されうると信じて発されるのだろうか? ということだった。例えば「1+2= 」という数式の最後に3と書き込むことと同じように、文章にも正解の読みというのがあるのだろうか、という疑問。

今日、先日書いた文(id:ichinics:20070113:p1)の続きを考えていて、その疑問に、答えが見つかりつつあるような、気がしている。説明できるかはわからないけど。

まず、私は今日、先日の問題を考える続きの手がかりとして飯田隆さんの「ヴィトゲンシュタイン」を読みはじめました。再読なので、キーワード検索のような読み方だけど、それでも新鮮な読書だった。

  • 「だとしたら、インデクスとしての使用をシンボルとして解釈するのは、常に客観である、ということなんだろうか? /その客観には。主体(思いや考えの主として)を客観視するということも含まれているとして、そう考えてみると、やはり「自由意志」というのはなくて、ある、と解釈する客体だけがあるということ?」

たった2日前だというのに、何をいってるのやら、な疑問文だけれども、もういちど整理してみると、

まず、言語という記号は「記号どうしの結びつき」によって意味を獲得するとする。「結びつき」とは、言語が使用される際の法則である、と思われる。では言語を使用する際に「法則を用いる」とはどういうことだろうか? ■今わたしが考えている限りでは、それは「1+2= 」の最後の空白を3と埋めるようなことではないかと思う。それは経験のようなものに支えられた、もしくは学習した振る舞いであるといえるだろう。■しかしその時、「振る舞いに従うこと」と「その振る舞いの背景に思いや考えがあると捉える」するのは別の側面にあるのではないか?

というように疑問が流れていった。そして、まずは「振る舞い/法則に従うこと」とはどういうことか、と考えてみた。そこから、どうやら言語を使用する際の法則には、2種類(仮に論理と物語、とする)あるんじゃないか、と思えてきた。

  • これを、私の「考えたり感じたりしていること」における重力が「論理」という「結びつき(の法則)」であり、〈記号どうしの結びつき〉によって生まれる「意味」に影響する引力が「物語」である、ととらえることはできないだろうか?

この疑問については、以下の部分で書かれていることがわかりやすかったです。というかこの文の手助けで疑問が言葉にできた。

いまウィトゲンシュタインの見解を認めて、言葉の意味を理解していることが、その言葉を正しく使えることであるとしよう。しかし、その「正しく使える」ということは偶然の産物であってはならないだろうし、また、自分の意図と無関係に生じる消化活動のようなものでもありえないだろう。つまり、言語を理解しているひとの言語的振る舞いは、単なる規則性を示すものであってはならず、そのひとが意図的に規則に従うことによって可能となる振る舞いでなくてはならない。よって、あるひとがある言葉を理解していると言えるためには、その言葉をどう使用すべきかという規則を知って、それに従っているのでなくてはならない。ここまではウィトゲンシュタインも認めると思われる。ただ、問題は、「規則を知っていて、それに従う」ということがどういうことかである。そして、ここでも「規則を知っていて、それに従う」ということを心の状態に帰着させようとする強い誘惑にたいして戦うことが、ウィトゲンシュタインの主要な仕事となる。/p240

言語という記号が、記号同士の結びつきによって「意味」を獲得するということ。その獲得とは言語の意味、というよりは「意義」というほうがしっくりくるように思う。安易な言い換えは危険だと思うけど、私はそのようにとらえた。もし、言語が「何を指し示しているか」の「何」の部分が意味である、とするならば、それはインデクスとして使用される場合だろうし、記号と対象の「結びついている状態」が意味である、と言えるだろう。

「規則を知っていて、それに従う」ということを心の状態に帰着させず、ただ「結びつく」という規則によって意味は獲得される、とする。ただ、ここで「心の状態」とされたものがないわけではないのは私も知っているし、それが言語が使用されるにあたって、影響を及ぼすことがあるのもまた事実だ。ただ、それは必然ではないヴィトゲンシュタイン*2の言っているのは、そういうことなんじゃないかと思う。

例えば「にんじん」という言葉に最も近くマッピングされている言葉が「すき」である人もいれば「きらい」である人もいるし「馬」である人もいる、というように。

つまり、言語という記号を「結びつかせる」者としての「私」は、もうひとつの法則として存在する。これを先の疑問の言葉を使って整理すると、

  • 言語を使用する際には規則がある(論理)
  • そしてその規則の実践は、言語を使用する者の規則に基づく(物語)

と言えるんじゃないか? じゃないかっていうかそんな気がする。

ただ、後者の法則は、言語の外にある。つまり言語を使って説明することができない。常に「それ以外」のものだ。

つまり、言語と世界との対応を可能とする「私」はいつまでたってもそのどちらからもはみだした存在であり続けるのである。したがって、「私」は世界の一部ではありえず、「私」は言語によって名指されうるものではない。

よって、次のように言われる。

 五・六三二 主体は世界には属さない。それは世界の限界である。/p108

ここで言われている「私」とは、最初に書いた疑問、

  • しかしその時、「振る舞いに従うこと」と「その振る舞いの背景に思いや考えがあると捉える」するのは別の側面にあるのではないか?

ここで「振る舞いの背景」として思い描いたもの、だ、と言えるかもしれない。しかし、それは背景であるというより、『意味』を見出すものとして、後からついてくるもの、なのではないだろうか。

自由意志云々の話をだしたのはこの「後から」にひっかかったからだ。

  • 言語を使用する際には規則(A)がある
  • (A)の実践は、言語を使用する者の規則(B)に基づく
  • ただし(B)は、(A)の実践によって形作られる

というのがいまのところの考えだと思う。なんかすごく当たり前のようでややこしいですが、ポイントは、私には(B)という「私の言語」しか使えないということだ。つまり、私は「私の言語」を通して、「私の世界」に触れる。ここで私は、「私の言語」を「主体」、「私の世界」を「自我」と言い換えることができると思っている。

意味はあるままにあるものだ。そして私は「私の言語」を通し「私の世界」に触れることで、それを捉え、理解する。意味とは(A)の実践である。ならば、それは常に「あってしまってから」のことなのではないかと思える。

では、その「ある」とは何なのか。

あー、なんかまた混乱してきちゃったな。なんだこの迷宮は。日をおいて考えた方がよさそう(書きながら考えるからいけない)。

ところで最初の疑問。「文章には正解の読みがあるのか」という疑問についてだけれど、たぶん、それはあるのだろう。「1+2= 」に3を記入したくなるのと同じような形で、複数の世界でその結び付け方が規則として支持されているならば、あるといってよいのではないか。

ただ、なぜそこに3を記入したのか、という内的な要因が必ずしも一致している必要はないし、例えば4と記入する行為に意味を見いだすことも、できるのだと思う。前者は「足し算」にマッピングされ、後者は「計算ミス」にマッピングされるというように。それはどちらも「私の正解」でしかないけれど(そしてそれを「正解の読みはない」と言うこともできるだろう/混乱してきた)。

ただし「求められる正解」を導きだすことが言語を使用できるということだとすると、それが求められているということを判断するのは何か、というところが問題になってくる。つまりは「私の言語」もまた、言語という大きな規則に従っているということなのだろう。たぶん。

ウィトゲンシュタイン (現代思想の冒険者たちSelect)

ウィトゲンシュタイン (現代思想の冒険者たちSelect)

ちなみに今日引用した文は全てこの本からのものです。

*1:やる気がないのかもしれないけれどそれはすきじゃないとは≠なのですというあてのない言い訳

*2:ウィなのかヴィなのか迷うけどヴィのがしっくりくるな

woofwoof 2007/01/15 11:13 こんにちは。いつも楽しく拝読してます。
さて、言語の使用はかならず規則を越えていくものだと思います。少なくとも後期のヴィトはそう考えていると思います。内心ではある規則に従って言語を使用しているにもかかわらず、同時に、また別の規則に従っている可能性を完全に否定することができない(たとえば3も4も正解であるような世界)、それがクワス算ですから。(ある規則体系にとっての)正解は、つねに(前者を無矛盾的に包含しうる)別の規則体系によって裏切られる、ということです。

ichinicsichinics 2007/01/15 13:18 woofさんこんにちは。はじめまして。コメントありがとうございます。
実は、コメントいただいてるのにきづかずに後半追記してしまったのです…たぶん意味はそれほどかわってないと思いますが、失礼しました。でもこんな混沌とした文を読んで下さったなんて、ありがたいです。
「クワス算」という言葉は、たぶんはじめて聞きました。帰宅したら調べてみようと思います。でも、そういう矛盾をまとめる言葉がちゃんとあるのですね。
でも、だとすると「今ここで求められているのは、この規則体系にとっての正解である」と判断するのは何なのでしょうね? というか「同時に、また別の規則に従っている可能性」を疑うのは何なのか? 自分の中で混乱しているのはその辺な気がします。
このことについては、もうちょっと辛抱強く、考えてみたいと思います。

2007-01-14

[][] 僕の大事なコレクション

監督:リーブ・シュライバー

原作:ジョナサン・サフラン・フォア

以前「空中キャンプ」さんが絶賛されていた(http://d.hatena.ne.jp/./zoot32/20060501)のを読んで、見たいと思っていた作品。

とても良い映画でした。

ユダヤ系アメリカ人である主人公のジョナサンは家族にまつわる品物、落書きや下着やら入れ歯やら、を集めているコレクター。ある日、祖母から祖父の写真を「あなたのコレクションに」と受け取ったことで、その写真の謎を解明すべく、ウクライナへ旅立つことになる。ウクライナでジョナサンを待っていたのは、「ユダヤ人嫌い」なのにユダヤ人のルーツ探しツアーを請け負うガイドを営んでいた祖父と、その孫でアメリカかぶれの通訳アレックスだった。

物語は一見すると、ジョナサンのルーツ探しのロードムービーなのだけど、ウクライナ人の祖父と孫にとっても「見つける」ための旅になる。

その旅の過程は、主にアレックスとジョナサンの異文化コミュニケーションに彩られていて、これがとても面白い。人が出会うっていうことの素晴らしさは、知らないということを知ることの大切さを示すものでもある、と思った。

ジョナサンは、なぜコレクションするのか、と問われ「忘れないために」と答える。しかしこの映画を最後まで見ると、それだけでなく、コレクションはつながるためにあったのだ、と感じる。アメリカへ帰った、空港でのジョナサンの視線をたどると、そこにはたくさんの、つなげることのできるピースがちりばめられていることがわかる。すごいなぁ、世界、と思った。きっとジョナサンもそんなことを考えていたんじゃないだろうか。

この映画は、ジョナサン・サフラン・フォアの小説『Everything is Illuminated』を映画化したものだそうです。邦題は「コレクション」に焦点をあてているけど、そのまんま「すべては解明された」の方がよかった気がするな。

私は未読なんですが、原作はユーモア小説とのことで、DVD特典に収録されている未公開シーンを見ると、最初はもっと原作に忠実に映画化するつもりだったのを、シフトチェンジしたのかな、と思ったりしました。笑える場面が結構カットされてて、惜しい。でも結果的に、コミカルなんだけど、きちんとメッセージもある、絶妙なさじ加減の映画に仕上がっていたと思います。ちょっとアキ・カウリスマキっぽくもある。ただ、祖母のお葬式の場面など、未公開の中には、ラストへつながる伏線も多数あるので、DVDの特典は必見だと思います。

[][] ラーゼフォン 多元変奏曲

2002年に放送されたTVアニメーション「ラーゼフォン」を編集&シーン追加して制作された劇場版。

前々から見たいなと思ってたんだけど、これはちょっと、劇場版単品で見るのはきびしいかもしれない。場面の展開は急だし唐突すぎて不思議だし、何も説明されない登場人物が多すぎる。特に、この作品は「音」がテーマとなっていたはずなのに、劇場版だとそのへんが曖昧だったのは残念だった。久遠とかほとんど出てこない。久遠といえば、

樹「君がキスして彼女(久遠)の目を覚ますんだ!」

綾人「あなたがやればいいじゃないですか」

樹「やれるものならとっくにやってるさ!」

といって無理矢理キスさせる場面は(大意*1)あまりにも唐突で思わず笑ってしまった。本来ならぐっとくる場面なはずなのに、説明がないとおかしみがでてしまうのだなと思った。

いろんなところで言われているように、「ラーゼフォン」はエヴァに似ているところが多い作品です。でもそれはあのエヴァの設定が、既に定型になってしまったということなんだろうな。ただ、ほかにも「ほしのこえ」を思い出すような場面や、個人的に気に入った劇場版オリジナルのエンディングは「時をかける少女」をモチーフにしているのかなとか思ったり、いろいろと既視感を覚える場面の多い作品ではあります。が、そういうのが好きな人は楽しめる映画だと思いますし、私もこういう設定は大好物。でも、やっぱり劇場版単品で見るのは厳しいだろうな。

ただ朝比奈との日々、そして悲劇へのシークエンスは、すごいです。そしてそのインパクトが強すぎて、はるかが若干かすんでしまったような気すらする。

[] DEAN&DELUCA

DEAN&DELUCA*2さんがよく通るところにあって、そそられまくりまくっております。ケーキもおいしい。アップルパイも!二種類あって!昨日はにんじんケーキ食べたけどこれも素朴でおいしかったなぁぁ。それから、そこで売ってるアラボンヌー*3さんのアーモンドボールのクッキーも、おいしいかったです。はぁー。食べ物って楽しい。

[] 「すこし不思議 藤子・F・不二雄SF短編シアター」

「酔拳の王 だんげの方」さんで紹介されてた「すこし不思議 藤子・F・不二雄SF短編シアター」をyoutubeで見ました。すごー。

「ひとりぼっちの宇宙戦争」と「宇宙船製造法」のリンク集

http://d.hatena.ne.jp/./dangerous1192/20070113/p2

とくに「宇宙船製造法」は、藤子・F・不二雄SF短編の中でも印象に残ってた話で、アニメははじめてみたけど、あらためてすごい面白いなぁぁ、と思った。この短い時間の間にも伏線が効果的に配置され回収され楽しませてわかりやすく伝えきる。「藤子・F・不二雄SF短編」の魅力を凝縮したような作品ですね。監督は望月智充さんだった。

「幸運児」もあります。

http://www.youtube.com/watch?v=GirX5X2se4s&NR

http://www.youtube.com/watch?v=mvu-FGKBRac&NR

これと一緒に放送された「おれ夕子」も見たいなぁ。

*1:台詞は記憶で書いてるので正確じゃない

*2http://www.deandeluca.co.jp/

*3http://www.alabo.jp/index.html

2007-01-13

[] 言語の使用、意味はどこに生まれるのか

「東京猫の散歩と昼寝」さんの「言語について素朴に考える(1)」という文章を興味深く読みました。すごくおもしろかった。まだ続くらしいので、続きを楽しみにするとして、

今日はその記事を読んで思い出した、同じくtokyocatさんの昨年の記事について考えていた。

さてしかし、言葉を使って何か書いたりしていると、論理ばかりでなく、どうももっと別の何かにも強く引きずられているなあと感じることがある。何に引きずられているのか。それを「物語」と呼びたいことがある。

(略)

さてさて。猫やコウモリが「考えたり感じたりしている何か」があると言えるように、私たちが「考えたり感じたりしている本来の何か」があるとしたら、それは言語に変わるとき少しズレを生じるのだろう。言い換えれば、私たちの考え方や感じ方が言語という型枠にハマってしまうということ。でその言語は言語で、論理や物語にハマっているという面白い構図。

http://d.hatena.ne.jp/./tokyocat/20060909#p1

この文章で示されている疑問が、今回の「言語について素朴に考える(1)」につながっているような気がして、おおー、と思った。もちろん、それは私の読者としての視点にすぎないのですが、この文章を読んだ後に私が「自由意志」絡みでずるずると考えていた、「この生に意味をつける言葉が意志なのだとしたら、言語を持たずに生きるとはどういうことなのだろう。/言語なしにどうやって「意志」するのか。」id:ichinics:20060920:p2)という疑問にも、糸口のようなものが見えたように感じられた。

例えば、

言語は現実の世界と直接結びついてはいないのだ。むしろ仮想の世界を作り上げると言ったほうがいい。記号の原理として改めてそれに向き合い、不思議な気がした。これが1つめ。

もう1つ。言語という記号は、インデクスからシンボルへと転じることで対象との結びつきが希薄になった。しかしそれと同時に、記号どうしの結びつきというものが初めて生じた。しかも、その結びつきは複雑であり、記号が働くうえで決定的な役割を果たしている。

http://d.hatena.ne.jp/./tokyocat/20070110#p1

この2点が先に書かれていた「物語」や「論理」に近いのではないかと思う。私の「考えたり感じたりしていること」が〈記号どうしの結びつき〉に引きずられ、〈記号どうしの結びつき〉もまた「複雑かつ厳格」なルールに基づいている。

これを、私の「考えたり感じたりしていること」における重力が「論理」という「結びつき(の法則)」であり、〈記号どうしの結びつき〉によって生まれる「意味」に影響する引力が「物語」である、ととらえることはできないだろうか?

うまく言えないんだけど、思いや考えというものが、言語という枠組みに入れられることによって「制限」されるように、言語もまた、私の思いや考えに意味付けられる…つまり、記号どうしの結びつきというのは、その記号を使う者の歴史(類語辞典のような/仮想の世界?)に左右されるのではないか。

そしてその歴史が「物語」という引力になって、意志を意味にかえていく。

考えていると何十もの入れ子構造に見えてきてくらくらするな。

でも、ここで気になるのは、人間である私が言葉をインデクスとしてのみ使用するとき、そこに意志のようなものはあるのだろうか、ということだ。

母猫が子猫を呼ぶ時、そこには「子猫に来てほしい/子猫に何かを知らせる」のような目的はあるだろうし、それは意志と言えるかもしれない。でも、そこに子猫に対する感情のようなものを見るのは呼び声を「シンボル」としてとらえていることになるのかな。

ただ、動物の交信がインデクスに過ぎないとされるのは、記号同士が結びついて使用されないからなのだろう(と思われる)。だとしたら、インデクスとしての使用をシンボルとして解釈するのは、常に客観である、ということなんだろうか?

その客観には、主体(思いや考えの主として)を客観視するということも含まれているとして、そう考えてみると、やはり「自由意志」というのはなくて、ある、と解釈する客体だけがあるということ? もしかしてこれが前に引っかかってたままの(id:ichinics:20061014:p1)『言語ゲーム』なのかな?

混乱してきたので、tokyocatさんのつづきを楽しみにしつつ、時間をおいてもうちょっと整理して考えたい。

【追記】

ちなみに引っかかっていたのはこの部分です。

しかしながら「主体としての自我」の存在は否定されます。なぜなら、自我とは「『私』という言語ゲーム」の中で発生する「機能」でしかなく、そのとき「主体」とは「『私』という言語ゲームを行っている何か」となるからです。『世界をよくする現代思想」p187-188

「主体としての自我」が否定されるって? と思っていたんだけど「『私』という言語ゲームを行っている何か」と自我(思いや考え)は別、ということか、とか。再読しつつ考えてる最中です。

2007-01-12

[][] 「青い花」/志村貴子

昨日の「ぼくは、おんなのこ」で気持ちが盛り上がったので「青い花」を再読しました。すばらしいな。一気に読むのと、連載で読むのとじゃやっぱり違うよなぁ、とか、しみじみ思ってしまった。

青い花 1巻 (F×COMICS)

青い花 1巻 (F×COMICS)

青い花」は女の子の、おもに女の子に対する恋と友情を描いた物語。

青い花」で描かれる女子校の日常、そして女の子どうしの関わりの道のりは、いたるところにいつか見た断片がちりばめられていて、読んでいるとまるで、忘れていたものを掘り起こされるようで胸がつかえる。

もちろん、現実はこんなに美しいものではなかったけれど、それはまだ自分の生きている場所を把握していない頃の、そんなことを意識すらせずに何かを信じているような「自分」と、世界との齟齬に出会う日々だった。

「入る部決めた? 部活」

「いえ 入る気ないから」

ブー ウチは全員なんらかの部に所属しなくちゃいけないんですーー」

例えば冒頭のこんなやりとりも、旧友に再会する母のちょっと濃い化粧も(p34)、今思えば何ということもないのに、ちょっとした寝癖みたいに、気になって仕方なかった。

そして、人を好きになるということ。

私の通っていた女子校の、特に中学の頃は、女の子が女の子を好きになるということは、わりとよくあること、だった。「よくある」というのはつまり、わりと普遍的な、誰にでも理解できる感情として、特別扱いされていなかったという意味だ。

ただ、そのほとんどは一過性の「流行」みたいなものだったので、「つき合っている」人っていうのはそれほどいなかったけど、卒業式でボタン下さいとか(ブレザーだけどね)、バッジ下さいとか、そういうのはおおっぴらだった。

独占欲やら憧れやら友情やら自己愛やらの入り交じった感情として、みんな誰かを好きになりたいと思っていた。「好き」という気持ちを定義するために、好きになる相手を探しているみたいだった。

青い花」で描かれる恋を見ていると、あの頃の雰囲気を思い出す。

ふみの恋が、疑似恋愛だ、といいたいわけではない。相手が同性であったり、例えば「先輩」の初恋のように、相手が教師であり姉の婚約者であり、と障害があればあるほどのめり込みやすいのだろうけど、志村さんの描く物語は、ここでもやはりこちらの予想するところとは軸をずらし、その葛藤についてはほとんど触れられない。

ふみの熱にうかされたようなあの視線は、ひたすら真摯で、嘘をつく余裕なんてない。でもそれは、どこまでも「物語」であって、つき合うという「現実」を夢見てはいても想定していない、一方的な欲望だったりもする。先輩の泣く姿を見て、思わず「かわいい」と漏らす場面なんて、ぞくぞくする。

ああいうのは、あの頃だけだ。あれは何というんだろう。

この感じは前に読んだ「のはらのはらの」(id:ichinics:20060619:p1)にも似ていて、BLを好む人というのは、あの「物語」の感じを求めてるのかな、とちょっと思った。でも男の子がこれに感情移入することがあるのかっていうのは、わからない。

何か他人事みたいに書いてしまったので、私がその頃どうしていたかというのを告白しておくと、私は小学校の頃から好きだった男の子のことを中学行っても好きで、通学時に見かけるだけでお祭りみたいな、そんな感じでした。今となっては苦笑するしかない。中学ではショートカットというだけでもてました。そしてその過程で、あの男の子を好きでい続ける自分も、こんな感じだなと思ってしまった。

だから私が「青い花」を読むことで、思い出すことの多くは、長いことフタをしていた、戸惑いというか、齟齬だったりする。

でも私は、この物語にでてくる人たちのことを、いとおしいと思う。そしていつのまにか、長いこと恥じていた青さみたいなものを、まぶしく感じるようになっていることに、気付かされもした。

「女の子はめんどくさいよ」p128

今の「少女漫画」をあまり読まない私が言うのもおこがましいけど、たぶん「少女漫画(を好きな「私」)」は長いこと、この先輩の台詞と近い場所にあったと思う。女の子を否定することで「自分」を否定し続けるような同族嫌悪の連鎖。

この「青い花」は、その言葉を解放するものに、なるような気がしている。

青い花 2巻 (Fx COMICS)

青い花 2巻 (Fx COMICS)

[] お菓子計画

スナイダースホワイトファッジばっかりヒイキするのもなと思って白まとめ買いの際に黒も一袋買ってみた。で、食べてみたら、これもなかなかおいしかったッス。外国のチョコ特有の、なんてのか、ちょっとキャラメルっぽいミルクチョコでコーティングしてあって。で、「あまいねー!」からしばらくして「岩塩!」てくる。このタイムラグが絶妙すな。ホワイトファッジの方が濃厚で好きだけど今後は白3に対して黒1くらいは購入してみっかと思った。すてきお菓子計画。

でもですよ、私は基本甘い国でなくてしょっぱい国にいるハズなんですよ。愛!夢!ポテトチップス!なのに最近鳴かず飛ばずでねぇ…。ローソン限定のヤマヨシバター味がヒットだったけど(ヤマヨシなのにポテトが厚かった)1回買っただけでそれ以降見かけないし、ヤマザキ厚切りポテトはたぶん地元のコンビニで買い切ってしまって以降ないし、新発売ラッシュもとまってしまいカルビーは守りに入った。あとはもう新じゃがシーズン到来をまつばかりです。

フレーバーも大事だけどさ、結局は芋の味と、揚げ感だと思う訳ですよ…。

toukatouka 2007/01/13 22:29 「女の子はめんどくさいよ」と言って歩いていく杉本先輩が求めているものが、なんていうかなー、高校時代、学生服のまま本屋で買って読んだ「耳をすませば」や「緑の頃私たちは」の感触とシンクロしてすんげーせつないです

toukatouka 2007/01/13 22:42 あ、文意がつながってないか。「女の子はめんどくさいよ」と言って女の子から少し距離を置いたところに立つ杉本先輩の立ち位置が、反対側からやってくる、男なのに少女漫画を読んでいる(いた)私の立ち位置と重なるように感じて、都合よく美化することができてせつないです。だから私はあまりこの話を女の子同士の恋愛とは読んでないのかもしれなくて、杉本先輩は私の理想形かもなあと思ってます

ichinicsichinics 2007/01/14 01:39 「緑の頃私たちは」!!すごい、あの作品大好きでした。確かに杉本先輩の抱いているだろうものは、あの感じに近い、ような気がしますね。そして、その「女の子から少し距離をおくこと」で自分と他人を区別する先輩の感じが、自分にはいたくもあり、でも「青い花」はそれを否定とは違う形で、打ち破ってくれる物語なんじゃないかと期待しています。すごく自分勝手な読みですが。ただ、女の子同士の恋愛を描きながらも、女の子同士の恋愛がテーマにならないってとこが、やっぱり志村さんの漫画のすごいとこで、好きなところでもあります。

2007-01-11

[][] ぼくは、おんなのこ/志村貴子

ぼくは、おんなのこ (Beam comix)

ぼくは、おんなのこ (Beam comix)

はじめて「敷居の住人」を読んだ時には、志村さんの漫画のテンポに少し戸惑ったりもしたんだけど、Fで「青い花」を連載で読みつづけるうちに、なんとなくなじんできたような気がする。

さらりと読めるのに印象に残るというか、特に大仰なメッセージとかがあるわけじゃないけど、ひっかかるコマがあったりするこの感じ。とっつきにくい作風ではないんだけど、この戸惑いは、例えば「ぼくはおんなのこ」に集められている短編を読むと、あーこれだよね、と思う。

あれ、ここで終わるの? って急に放り出されるときの、ふわっという感じ。でもそれがいいんだな。

表題作の「ぼくはおんなのこ」は、ある日突然、男は女に、女は男になってしまった、という世界のお話。インパクトのある設定だけど、でもその設定自体は揺るぐことなくただ事実としてあって、でもだからこそラストが気持ちいいものに感じられる。

「楽園に行こう」もそう。中学校に教育実習生としていっている主人公が、中学生とイロコイ沙汰な話で、その設定時代に引力があるし、なんか面倒に巻き込まれそうな予感もあるのに、話の軸はよそにある。で、その軸がだんだんとずれていきながら終わってしまうんだけど、余韻はやっぱり気持ちいい。

で、最後まで読んでいくと、この気持ち良さはぜんぶ、自己肯定であるなと思いあたるわけですが、でもね、そのささやかさとか、嘘のなさとかに、なんかこうぐっとくるものがある。

美しい母、平凡な父の間に生まれた主人公の結婚を描いた「少年の娘」でも、母の美しさを真ん中に、軸は少しずつずれていく。そして主人公の肯定は、何も否定しないまま、やっぱり肯定にたどり着く。別に何がかわったわけでもないんだけど、その過程には説得力があって、私はやっぱりぐっときてしまうのだった。

そういえば、この漫画が出た頃「最近出た、白い表紙に人が立ってる表紙のやつが面白かった」といわれて書店にいったら、戸田誠二さんの「生きるススメ」と並んでて、どっちだよ、と思ったんでした。そしてどっちもよかった。

敷居の住人」感想(http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20050919/p1

[] 摂取する読書

日々インプットを続けていれば、そりゃ当たり外れもあるし、私の主観なんだからそういうもんだ、と思うけど、好きも嫌いも思わずに読み終えることが続くと、ちょっと心配になったりもする。あれ、わたしなにも感じなくなっちゃったのかな、とか。

だから、そのような折に「おおー」と思うものに出会うと、すごく嬉しいし、それは、おなかがすいてるときの食べ物は数倍おいしいってのに似てる。そういう出会い方をした作品は数割増で印象に残ったりするものだけど、それは、そのような主観とか自分の感情とかと密接に結びついたものの方が、吸収されやすいということなのかもしれない、とも思う。

[] アメリカンダンスアイドルにはまっている

以前わくわくしながらみていた「アメリカンアイドル」のダンス版。

個人的にはダンスのが面白くて、毎週わーわーいいながらみております。

アメリカ各地でオーディションして勝ち抜いた人が、ペア組んで勝ち抜いて、今*1ラスト10人。今まで組んでたペアがばらけて、くじ引きでペア組んで2種類のダンスとソロを踊る、という形式がはじまったところです。

それぞれ得意なジャンルがあるんだけど、毎回踊る演目はやっぱりくじで決められて、社交ダンスからコンテンポラリー、HIPHOPまでいろいろやる。

これがやたらときめくんだよなー。特に今回は、今までのペアと離れて初めてってことで、なんか切ないものがありつつ、新しい魅力が発見されたりもして。ってまったく説明できている気がしませんが。

好きなのはベンジー(正当派エンタテイナーって感じ/何を踊っても楽しい/山寺さんのようだ)、トラヴィス(真面目/ジャンプが美しい)。ドニエル(ベンジーとベストコンビだった/気だてが良く表情も良い/何でも踊れる)も好きだけど怪我が気になるな。でも前回のアイヴァン(若い/手足が長い)とアリソン(キュート/素直なダンス)のコンテンポラリーも良かったし、今回トラヴィスと組んだハイディ(前へ前へ!な努力の人)も新鮮だった。

何より今回は、コンテンポラリー初挑戦のハイディ(勝ち気が弱気になってる状態)がほめられたときのトラヴィス(真面目)の「な、いったとおりだろ?」って台詞に萌え死ぬかと思った。

ダンス見るのってたのしーなー!

追記@2007/01/23 TOP6以降の予想

アメリカンダンスアイドルで検索してきてくださる方がたくさんでびっくりしてます。たいした情報なくて申し訳ないです。

下にコメントいただいたアリソンとトラヴィスのお別れダンスは確かにドキドキしましたね。ときめいたよ。おいアイヴァン(ペアだったんだし)そこでいかなくていーの?と思ったんですがワースト2だけが立ってる状況でしたしね。ライアンよりトラヴィスと仲良かったってことかと勝手になっとくしました。

ともあれ、明日はいよいよTOP4ですよ(アメリカでは終わってるわけですが、ネタバレ見ないように気をつけてます)。

で、そろそろ男女混合戦になるんじゃないのかなって予想しています。

現在残っている中で「勝ちそう」な人って考えると、

  • 女性:ドニエル/ハイディ/ナタリー
  • 男性:ベンジー/トラヴィス/アイヴァン

男女別だと、左端(ドニエル/ベンジー)が1番でこの順番。

でも、男女混合だと、

  1. ベンジー
  2. トラヴィス
  3. ドニエル
  4. ハイディ
  5. ナタリー
  6. アイヴァン

かなと思う。

とりあえずベンジーはだんとつ。彼は優勝すると思うしして欲しいな。

でも2位は女の子じゃないと思うんだよな。ここはトラヴィスだと思う。

ドニエルとハイディは接戦になるだろうな。特に、今後誰とペアを組むかによって全然かわってくると思う。ハイディはくじ運いいし、TOP10になってからめきめき新鮮さを増しているし。でもドニエルも怪我してたの忘れるくらいふっきれた感じがするし。ここも楽しみです。なのでTOP4はこの四人かと。

アイヴァンも手足の動きが美しくてすごく好きだけど、いかんせんテクニックが足りなく思えるとこもある。ナタリーは最初からすごすぎて、少し新鮮みが薄れてしまったのが残念。

というのは全て私の勝手な妄想ですが。

さてどうなるでしょうか? 明日が楽しみだな!

おまけ ↓ ベンジーソロ映像

D

*1:日本のFOXチャンネルの進行で

2007-01-10

[][] 「PLUTO」と「わにとかげぎす

PLUTO」4巻は画面が基本おっさんばっかりな巻だった。毎回カメラを切り替えつつ話が展開しているので未だに「冒頭」を読んでいるような気分になるんだけど、実はもう4巻。今回は、ようやく天馬博士が登場したところで終了。

PLUTO 4 (ビッグコミックス)

PLUTO 4 (ビッグコミックス)

わにとかげぎす」は待望の第2巻。1巻を読んだ時点では「トーンが明るい」とか書きましたが(id:ichinics:20060909:p2)急転直下暗黒へ。でもこの上原という男は少しヒミズの住田に似ているような気もして、もうちょっとよく見てみたくなる。

あんな大金目にして……「おおっ すげえ!」って思って……反射的に「ほしい」ってなっちゃったんだけど……………結局……別に……いらねぇなぁ………

「もういいっすわ」といいつつ、自分の死後を気にするってどういうことなのか。気になるけど、でも2巻はめちゃめちゃ気になるところで終わってしまった。

わにとかげぎす(2) (ヤンマガKCスペシャル)

わにとかげぎす(2) (ヤンマガKCスペシャル)

PLUTO」も「わにとかげぎす」も、それぞれの王道展開になだれこんでいる巻だったと思う。

[][] JOANNA NEWSOM&smog

ShipbuildingさんのところでJOANNA NEWSOMが来日、という話を知って、もしかして、と思って見てみたら、またsmogさんと一緒にいらっしゃるようです。

2月25日(日)

東京・渋谷 オ・ウエスト(03-5784-7088)

出演:ジョアンナ・ニューサム、スモッグ guest:ヒネモス

開場 6:30pm/開演 7:00pm 前売り 3,500円/当日 4,000円

前回(http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20051028/p1)と同じく東京はO-West

…ってあれはもう一年以上前のことなのか! あらら。

オペラシティでやるJOANNA NEWSOMのソロ公演は売り切れてしまったみたいなんだけど、これは 明日一般発売、のようです。 今日だった!

ふたりとも見たい、し、チケットとっちゃおうか。

[] 今日の小学生

「ボクはジクジクせめるのがすきだからさぁ、そのコンボじゃないと。あとやっぱレッドジャッカルでバルキリアスにいどみたいよね…え? ああ、持ってるよ。いやスケルトンバイスじゃないけど。モデル違い?」

半ズボンの制服きた眼鏡の小学生がものすごい早口で語り合っていた。なんとなくいやらしい攻め方がお好みだということはわかったんですが、いったいなんの話だ?

……と思って検索してみたらデュエルマスターズというカードゲーらしい。未知だ。まじっくみたいなかんじ?

2007-01-09

[][] となり町戦争/三崎亜紀

となり町戦争

となり町戦争

となり町との戦争がはじまる。

僕がそれを知ったのは、毎月一日と十五日に発行され、一日遅れでアパートの郵便受けに入れられている〔広報まいさか〕でだった。

という書き出しではじまる物語。

この冒頭で既に現れているように、戦争がお役所仕事としてこなされる様はシュールで、最初は「本当は戦争なんておこっていないんじゃないの?」と思いながら読んでいた。しかし、それは「見えない戦争」が実際に起こっている湾岸戦争以降の今を意識して描かれた物語だからこその設定なのだろう。

その設定自体は興味深いのだけど、私はこのとなり町戦争に最後まで戦争を感じられなかった。それは自分が傷を負うまで戦争に巻き込まれていることを理解できないという現実への物語だからなのかもしれないし、そもそも「感じられない」ということこそを描いているのかもしれないけれど、実際にいなくなった人がいるのにも関わらず、その存在感はうっすらとしたまま、なのが寂しい。

それでも僕は、「僕の意志」として、「変わらぬ日常」を生きようと思う。誰かの死によっても変われなかった自分のままで生きようと思う。こうした、変わらぬ日常のその先にこそ、戦争は、そして人の死は、静かにその姿を現すのだから。p194

その姿を現すところまで、読みたかったと思う喪失感こそがこの物語の魅力、なのかもしれないけど。

ただひっかかるのは、ヒロインだ。終盤の「これは業務のうちじゃないよね?」という台詞に思わず吹いてしまった私はきっと夢がないんだろうなぁ。綾○かと思った。

[] 「神」を信じることは、その実在や宗教を信じることとは違うのかもしれない

僕は基本的に科学を信用していて、神とか霊魂とかはある種のファンタジーだと思ってます。

しかし信者の人というのは、神や霊魂の実在を信じているのですよね(ここがもう違うのかな?)。宗教によって違いはあるでしょうけど、だいたいは

  1. 人格的な神:人々をいつも見守って(監視して)いて、罪を許したりさばいたりする
  2. 霊魂:肉体の死後も残存して、成仏したり天国に行ったりさまよったりする

の両方または一方の実在が前提となっていて、これを根拠に「よく生きる」ことを説いているんですよね?神サマが見てるから、あるいは、あの世や来世で報われるから、そのためによく生きるべし、と。

http://d.hatena.ne.jp/./good2nd/20070106/1168076907

たぶん、この記事を書く際にイメージされている宗教はキリスト教なのではないかなと思うので、私もそれをイメージしながら書きますが、ひとえにキリスト教といっても様々で、でもその多くはキリストが(歴史的に)実在したことは信じていても「神」の「実在」を信じてはいないんじゃないかと思う。というか、そのような形で人間に捉えられないものとして神をおいている、はずだ。と私は理解している。

例えば、多くの人が、地球に人間が生きていて、科学があって、という状況を日々当たり前のように生きているわけですが、じゃあそれはどこからはじまったのか? ブラックホールがなんたらとか、銀河がとか、そもそも人間の体の仕組みとか、感情とか、あーもーわけわからないけど、これって奇跡なんじゃないの? というバランスで成り立っているものを「神」という存在を置くことで支える/感謝しているのがそもそもの宗教、なんじゃないかと思う。

そしてたぶん、「罪を許したりさばいたり」とか死んだら霊魂になって「天国に行ったり」というのは、長くて短い歴史の中で、人間が超越的な存在としての神を利用し、あみ出した「ルール」なのだと思います。

ただ、それがこれほどまでに長いこと信じられてきたのは、もちろんそこにそれなりの説得力があったからで、例えば日本における山岳信仰などは、土地と共存して生きてきた人の知恵でもあるし、キリスト教における「汝の隣人を愛せ」などというのは、人と人がうまくやっていく上で効果的なルールであり、例えば隣人の迷惑おかまいなしに行動する人に対し、直接手を下すことなく「天罰が下ればいいのに…」という気持ちをうまく消化するものとして作用したんじゃないだろうか。(言い過ぎか?)

ただ、この「ルール」の方が先に立つと、話がややこしくなる。神が死ぬ。肝心なのは、宗教はあくまでも人間が作ったもので、神が作ったものではないということだ。だから、「天国に行ける」から「神を信じる」では順序が違う(はずだと私は思う)。

科学やらが進歩する過程で、いろんなものを疑い、謎を解明しようと進んでいく中で、割り切れない行き止まりの先にあるものが「神」のようなものなんだと思う。いつかはもう少し先まで行けるかもしれない。ただ、いつだって残る可能性がある。そしてそれに支えられて今があるのだということに、単純に感謝する気持ちを私は「信仰」だと考える。そしてもちろん、それは無条件降伏ではないです。私は科学者ではないけれど、解き明かせる部分があるなら見てみたい、とも思っている。

さて、もうひとつ「霊」の方。上の記事を知ったmichiakiさんのエントリを引用してみます。

たとえばさ、ぼくが公園で空き缶を拾ってくるよ? で、あなたに「今からコレがお前の神様だ。毎日20分ほんとうに心からコレにお祈りしなさい。サボると死ぬ」って言っても、んなワケあるかーッ!!でしょう?

http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20070107#1168110039

「なワケあるかーッ!!」ではあるけれど、例えば旅先で拾ってきた石、とか、それこそ空き缶とか? 端から見ればゴミにすぎないモノをすごく大事にするということはあるよねと思う。これの何が違うかといえば、やっぱり他者から押し付けられたルールか否かってことかなと思うんですよね。

というより、亡くなった人を思うときは、霊としての実在よりも実在したということを思う感覚に近く、形として変質したことを意識することはほぼない。箱を開ける前にも後にもいられるような感覚なんだけど。

「神」も「霊」も、信じる対象の《実在》よりも、信じちゃってる気持ちがあるかないかだけなのかなと思います。もちろん、それは信じるから生まれるのではなくて、もっと感覚的なところであると思ってるかどうか、なのかなぁ。その辺ぼんやりだけど。だから、まず先に「信じなさい」があると、フィクションとしてしか届かなかったりするのかなと思った。

ただ、同じくmichiakiさんのエントリにあったこの部分

もしぼくが神サマだったらw「神サマが見てるからいい子にする」人たちは、あまり優先度たかかないかなぁ。

ここはちょっと判断できない、と思う。先に「ルールが先にくるのは順序が逆」と書いたことと矛盾するようだけど、「良い」とされている振る舞いとか、そういうのって、完全に自分の中から湧いて出てくるわけではないような気がするし、「Aさんのことが好きだからAさんにとっていいことをしたい」という気持ちと「Aさんに好かれたいのでAさんにとっていいことをしたい」という気持ちの区別が私にはなかなかつきづらい。そして、その場合どちらが「本当」とかあるのかなって思うんですよね。なのでここはまだ保留。

参考

約一年前に話題になってたこのエントリを読み返したりしました。

http://iwatam-server.dyndns.org/column/47/index.html

http://iwatam-server.dyndns.org/column/50/index.html

2007-01-08

[][] ヨイコノミライきづきあきら

ヨイコノミライ完全版 1 (IKKI COMICS)

ヨイコノミライ完全版 1 (IKKI COMICS)

ヨイコノミライ」を読んだきっかけは、IKKI本誌で完全版刊行記念の広告など見て面白そうだと思ったからでした。でも読み切り(id:ichinics:20060807:p1)がわりととっつきやすい話だったので、読んでびっくりもした。

ヨイコノミライ」は、ある高校の漫研が、そこに集う「夢でいっぱいのおたく」たちを「潰して」しまおうと画策する女の子(青木)の介入によって分裂していく様を描いたもの。この青木の画策は、「サユリ1号」などとも重ねられるし、漫画にトラウマがあるとほのめかされる設定は、IKKIで連載していた「G戦場ヘヴンズドア」を彷彿とさせる。「げんしけん」と同じくおたくサークルものではあるけれど、物語の雰囲気、特にラストの展開などを見ると、むしろ熱血漫画道ものなんだなと感じる。

しかし、この漫画の見所は、何といってもそのキャラクターの強烈さにあると思う。そして最も強烈なのは、「編集者志望の主人公」でも「異分子かつトラウマ持ちの青木」でも「感想と批評の区別もつかない自称批評家」でもなく、青木に「現実が直視できないオカルト少女」と称される平松さんだった。

彼女が現実を自分の都合の良い方へと解釈し、力技でねじまげていく様は圧巻。そしてぐったりさせられる。しかも後味が悪い。

イタさというのは多かれ少なかれ誰にでもある/というか他人から勝手に見つけられるものであり、何も特別なことではない。私だって存在の耐えられないイタさを感じて布団をかぶりたくなるような出来事は掃いて捨てるほどあるけども、面倒なので出来る限り忘れている。

たぶん、自分のイタさを笑えない/客観視できなかったことが、他人から見たイタさになりやすいのだと思うけど、客観を意識すること/しすぎることは、卑屈さとも紙一重にある。単に卑屈さが悪い、とも思わないんだけど、それが前提になってしまうと、つまらないなと思う。

特に登場人物の一人である「自称批評家」の彼については、個人的にもぐっさりくる部分がありつつ、それでもあのような語りをする人のことが嫌いだとは思わない。もちろん、押し付けられるのはいやなんだけど、持論をまげずに展開させる人の話は面白い。例えば「げんしけん」にて大野さんが「ホモが嫌いな女子なんていません!」と言い放つのを読んだときは、賛成反対以前にすがすがしいなーと思ったのと同じように、振る舞い自体を(青木がしたように)否定する気にはなれない。

そもそも、振る舞いに正解があるわけではないだろう。ただ、そこには日々改訂されていくルールがあるだけなのだと思う。ルールは破ってもいいけど、それには覚悟が必要で、覚悟がないと傷付くこともある。無理矢理まとめるとこんな結論にいきつくけど、それがどんなものなのか、私にもよくわからない。

ヨイコノミライ」における作者の視点は、一貫して、「夢見がちなおたくたち」の傷をえぐりながらも、決して登場人物たちをあざける方向に向かわず、傷の側に立っているように感じる。しかしそこには卑屈さもない。それは登場人物(特に平松)が他者の視線を意識する場面を「描かない」ということで強調されている。つまり、誰にどう見られたいという欲望ではなく、「自分だけの世界を守りたい」という欲求。この点で平松は「ヤサシイワタシ」におけるヤエとは異なっている。だから外側からは入り口が見つからない。

「さよならテリー・ザ・キッド」さんの「ヨイコノミライ」感想(http://d.hatena.ne.jp/./hurricanemixer/20061103)に、父親を張飛と呼ぶ俺少女の話があったのですが、それを読んでたら、私の中学の同級生で、自分が義経の生まれかわりだと主張していた子のことを思い出してしまった。ある日突然「よう!久しぶり」と私の肩を叩き、同じクラスであるのに久しぶりとは何事かと思ったら、その時の彼女には義経がおりてきており、「見知った顔がいると思えばお前(私)はなすのよいちではないか」とか云々。もちろん私だけでなく、クラス全員で源平合戦主要登場人物勢揃いしていた。あれから十年以上経った今では単純に面白い状況に感じるんだけど、当時はやっぱりちょっと怖じ気づくとこがあったのはひとえに彼女の本気さによる。

ヨイコノミライ」における平松さんを見る気分は、あのときのぐったりというか無力感に近い。

しかし彼女が平松さんと違ったのは、とにかく絵がうまかったことだ。そして最近、本屋に行くと義経の彼女と同じ名前(漢字違い)の漫画家を見かけるようになった。確かめるつもりはないけど、あの子だったらちょっとうれしい。

ヨイコノミライ」ラストの有栖川と平松の対比を絶望と見るか希望と見るか。読む人それぞれの感想があると思うけど、ともかくそれは背中あわせにある、と思った。夢は漫画家。漫画家は夢だ。たとえプロになれなくたって、書いたり描いたりすることの楽しさ、上達することの面白さっていうのは経験できるだけですばらしいことだと思う。そういう感想も抱けるという点で、やっぱり「ヨイコノミライ」は、熱血漫画道漫画だと思うのだ。

ヨイコノミライ完全版 4 (IKKI COMICS)

ヨイコノミライ完全版 4 (IKKI COMICS)

[][] ネギま!?OPのいろいろ

体調最悪、で、今日は一日家でyoutube巡りをしてました。主に「酔拳の王 だんげの方」さんのリンク集を片っ端から見ていたのですが。

そこで知ったネギま!?OP+ブラックラグーンOPのMADがすごい好きだと思った。何度みてもいいなぁ。基本は同じ映像なのに、音楽次第で雰囲気がかわって見えるのも面白いですね。

ネギま!?OP+ブラックラグーン

http://www.youtube.com/watch?v=mERsE_Yr-TM

ネギま!?OP+Cowboy Bebop

http://www.youtube.com/watch?v=ngzYfe_tno0&NR

ネギま!?OP+ひぐらしのなく頃に

http://www.youtube.com/watch?v=5NNyrYOkEM4

ネギま!?」は、はじまった頃に少年マガジン脱落しちゃったので、ほとんど読んでないんだけど、なんか読みたくなった。MAD見る限りではなんかバトロワな感じだけど、そういう話じゃなかったはず(たぶん)。

それからブラックラグーンつながりで、こちら(http://gilcrows.blog17.fc2.com/blog-entry-1063.html)のロベルタも面白かったです。笑顔が。キバヤシに似ている。

2007-01-07

[][] 買い物/mochi CREAM

また買い物にいきました。セール好きだな。うん。確か人込みとか嫌だーと思ってた時期もあったはずだけどね、今年はわくわくが勝ったよ。割引大好き。だって庶民だもの。

新宿はこの前行ったので、今度は渋谷へ。とはいえパルコ1ざーっと見て、またジャーナルとか見たくらい。もうそんな混雑してないし春物とかも見れて満足しました。やっぱ春がかわいいよなー。すぐ終わっちゃうけど。妹とあれこれ言って盛り上がりつつ、最後にまんだらけ行って渋谷終了。

今日は帰りに寄ったデパートで、mochi CREAM(http://www.mochicream.com/)というお菓子を食べました。大福のようなお菓子で、柔らかい餅の中にいろんなフレーバーのクリームが入っているというもの。陳列棚は遠目に見るとマカロンが並べられてるみたいで(というかマカロン?と思って寄ったのだけど)プリンとかマンゴーとかナッツとかいろいろそそられる味がある。私はクリームチーズ味を食べたんだけど、これは普通にあんことクリームチーズで和菓子みたいだった。けどおいしかったです。クリームチーズ&あんこ大好き。

[][] パイレーツ・オブ・カリビアン

遅ればせながら、初めて見ました。キースが出るらしいと聞いてから気になってたんだけど、あの話はその後どうなったんでしょうか。

超娯楽大作が見たいと思って選んだんだけど、期待しすぎたのか、今ひとつ盛り上がれなかった。ディズニーランド「カリブの海賊」で見られる愉快で飲んだくれな感じを予想してたんだけど、以外とラブロマンスだったのにも「あれっ」と思ったが、食い足りない感じはむしろ、アクションのテンポが全体的にゆるく、殺陣の振り付けも少々古くさく感じたのが理由だと思う。ディズニー絵で思い浮かべると違和感ないんだけども、生身の人間が二人で棒持って敵三人串刺し! とかコメディとリアルのどっちつかずに感じ反応に困る。それから、ディズニー映画にしては悪役のキャラクターが弱い感じがしたのも残念。フック船長とかジャファーとかそういうアクの強さはすべてジャック・スパロウ独り占めだったが、あの破天荒さがブラックパールの海賊たちにも欲しいと思った。欲張りか。

良かったのは、普段は生きてる人間の姿でいる海賊の姿が月明かりによってかわる場面。これが何度も繰り返されるのは楽しかったです。

[] はてな夢日記/洪水、噴火

港町の坂の下を歩いていたら、大きな地震があって、海を見るとよどんだ色の波がぐわっと押し寄せてくるところだった。右往左往する人々。私は街頭に捕まって第一波をしのぎ、ずぶぬれのまま坂道を駆け上がっていったのだけど、道に敷き詰めてあるレンガがガゴッと音をたてたと思ったら熱くて濃度の高い液体が吹き出し、太ももを火傷する。振り返ると、再び、先ほどよりも高い波が押し寄せている。私は足を引きずりながら、坂の上にある民家に助けを求める。寝たきりのおじいさんと、おばあさんが暮らしている家で、全ての部屋が小さく、蜂の巣のような形で互いにつながっていた。おばあさんが救急箱を出して火傷の手当をしてくれている。その肩ごしの窓から、坂の下の風景は見えないのだけど、再び大きな揺れがあり、隣の部屋にいるおじさんが不安そうな顔でこちらを見る。どうしよう。どうしようか。

そう思ったところで目が覚めた。こんなパニック映画のような夢を見るのは、珍しい。けど、明け方に地震があったらしいから、そのせいかもな、と思う。

2007-01-06

[] 怒ることって期待することに似ている

昨日「怒る」ということについてぼんやり考えていたのは、友達の女の子が「元彼の働いてる店に遊びに行ったら、そのことを元彼と共通の知人に怒られた」と話していたのがきっかけだった。

これまで話を聞いている限りでも、その知人の人はすこしふしぎなので気にしなくてもいいよと思うのだけど、彼女はわりと真に受けてしまうタイプのようで、けっこうへこんでいた。しかも「たぶん私が怒ったら関係が切れるので怒るに怒れない」という。

自分に置き換えてみると、そのすこしふしぎな人を説得しようとも思えないし、かといってそのSFさんのいうことをいちいち真に受けるのも面倒だ。ちなみに彼女が元彼の店に行くのは、そこが自分の元勤務先であるからで、べつによりを戻したいとかでないことは私も知っている。だから彼女が悩むことなんてないんじゃないかと思ったのだけど。

でも、考えてみたら、数年前の私だったらきっと、彼女と同じように考えこんでしまっていたのかもしれない。というか彼女ほどやさしくないので、むしろ、ムカついていたかもしれない。そして最近、というか結構長いこと、私は怒ってないんじゃないのかなと思ったのだ。

そしてそれは寛容さではなく、無関心さだと思った。

彼女が悩むのは、その知人の人とも仲良くやりたいからだ。その期待が彼女を悩ませるし、たぶん知人の人も、彼女のことを思う気持ちが空回りしているだけなのだと思う。

確かに、悩まないですむこと、怒らないですむことは気楽だ。特に他人とのコミュニケーションにおいて、期待する範囲が狭いほど、摩擦は少なくなる。

例えば昨日、営業職の友人が「社会に出て、利害関係が絡む他人とばかり知り合うと、本音の話とかしない方がうまく回る」という話をしていた。それも、相手に(商売以外の関係を)期待しないということに近いと思う。

でも彼が言っていたのは、「だから、やっぱ社会に出ると友達の大切さとか痛感するよな」という話で。くさいこというなぁ、と思ったのだけど、例えば私がこの人にムカついたとしても、怒るかどうかはわからないけれど、改善しようとはするだろうし、そもそもムカつけるということは、相手の話をきちんと受けるということなのだと思った。そして改善したいという気持ちは、仲直りしたいし、できるだろうなという安心感と期待のもとに成り立っているのだ。

他者との関係だけに限らず、期待するということはエネルギーになる。

そもそも、摩擦がなければ、つるつると滑って先にも進めないじゃないか、ということを考えて、もちろん摩擦は怒りだけではないけれど、怒りだって案外「悪」ではないんじゃないのと思ったのだった。

[] 賽殺し編終了

やっと「ひぐらしのなく頃に礼」買ってきた。新シナリオ2本+『目明し編』おつかれさま会が収録されてると聞いて、楽しみにしてたんだけど、早速『賽殺し編』をやってみたら、これが想像以上の満足感だった。このシナリオ好きだなぁ。というかこれでラストでもいいくらいのきれいなオチだと思った(まだ『昼壊し編』があるけど)。そういや最初はホラーだと思ってたのが懐かしい。

賽殺し編』は『罪滅し編』以降が「げんしけん」だったのが「ヨイコノミライ」になってしなったような心地悪さというか、あの大団円の後にいきなり冷や水を浴びせられた感があって、そこがすごく良かったです。それは物語の中身がというよりは、やっているこっちの気分としての話なんだけど、そこをぐりぐりとこじ開けられるような感触が、ぞくぞくするというか、いい。とか思う自分はちょっと意地が悪いのかもしれないし、そういう意図の込められたシナリオではないのかもしれないけど、いいものはいい。今まで傍観者で、傍観者ではなくなると決めた後も傍観者的な立場にいた梨花の見え方が、シナリオ次第でこうもかわってくるのかと思った。

もちろん、どちらの世界がが良いということではないし、この「ひぐらしのなく頃に」というゲーム自体が、そういうことに向かってると思うんだけど、最終的には、その揺るぎなさを感じたシナリオでもありました。

ほんと、楽しませてもらった。できればもう一回ふいうちでレナの「嘘だッ!」見たかったけどな。

というわけでこれから続きやります。ひぐらしデイブレイクもやっとけばよかったー。

[] 「ひぐらしがなく頃に礼」終了

「嘘だッ!」が聞きたいとか書いてその数分後には聞けてわらった。

昼壊し編』は、部活っぽく気軽にやれるシナリオで楽しかったです。わかんないネタも多かったけど(麻雀ルールしらないしな)、雰囲気は楽しめる。特に鷹野とレナのが面白かったですよ。

あーとー、「目明し編」お疲れ様会は「再録」て書いてあるけどやったことない。罪滅しと一緒に入ってるのやったから入ってなかったのかどうなのかわかりませんが、わー鬼畜! と思いました。確かにこれを「目明し編」直後にやったら台無しなような気もしないでもない。面白かったけどな。悟史もようやくキャラが掴めた(嘘)。

で、「ひぐらしのなく頃に礼」のお疲れ様会もあり。

しみじみと「ひぐらし」には楽しませてもらったなーと思いました。正直、最初は自分がこのゲームをこんな楽しめるとは思ってなかったです。貸してくれた方も意外だったんではないでしょうか。でも、おかげでどこにいけばこういうゲームがかえるのかも学んだし、そもそもサウンドノベルとか、こういうシナリオを楽しむタイプのゲームの面白さってのはひぐらしで初めて知ったようなものだし。

あー楽しかった。プレステ版も楽しみです。

michiakimichiaki 2007/01/07 00:57 あけましておめでとうございます。レスしないままにもう賽を終えられてしまいました(笑)。あれはやっぱり、いいシナリオですよね。
2日の文章は、でもあれ終わりのほう、いちどエントリ登録してから多分10回くらい手を入れてます。こうしたほうがもっとぐっとくるかな?とかって。そんなもんです。でもときどき書きたくなるんですよね。

ichinicsichinics 2007/01/07 02:32 「賽殺し編」はひぐらしの中でもお気に入りのシナリオになりました。たぶん私は、ちょっと凹まされるくらいが好きなんだと思います。釣られるのは照れくさいけど釣られるのは楽しいというか。まあ普通の人なので、あんまりひどいと落ち込みますけどね。
なのでぐっとくるのも「くるかな?」があってもなくても、ぐっとくるのが楽しいです。それでも、2日のエントリは読んでいて若干悔しい気分になりました(笑)。ほんと、いつも楽しみに読ませていただいてます。

2007-01-05

[] 芥川賞直木賞候補作発表

今回のを見ると、前回の候補作*1は異色作揃いだったなと思う。どっちかというと本屋大賞みたいだった。

それにしても、相変わらず本読めてない。この中で読んだの「その街の今は」だけだ。

そのくせ不粋に想像してみると、芥川賞はそれでもそろそろ、星野さんか佐川さんかなぁと思う。直木賞は、荻原さんか、北村さんか。佐藤多佳子さんも好きだけど前回が森絵都さんで少しかぶるしなと思った。

「図書準備室」「植物診断室」とタイトルが微妙に重なってるのが気になる。

で、ふと1年に読める本の冊数を考えてみたら、仕事以外で読むのって、せいぜい月に4冊程度で、そしたら年にたった50冊程度しか読めないのかって計算になって、愕然とした。

[] そらに知ろしめす

今日は仕事初めでした。

初日だというのに打ち合わせやら取材やらが入っていて、出たり入ったり、慌ただしくしていたら、電車乗り間違えたり、注文と違う昼ご飯が運ばれてきたり、移動の間に携帯で日記とか書いてみたら間違って消したりとか、幸先の悪いことが続いたけれども、仕事後に集まった友達との新年会はやたら楽しくて、そこでもやっぱり食後のお茶こぼしたり、トイレ開けたら人が入ってたり、上がりがまちでこけたりしたけども、でもとりあえず楽しくて、じゅうぶんに酔っぱらって車にのせてもらって帰り、おろしてもらったいつものコンビニで、いつものおっちゃんがいつものようにあんまんをくれて、世はすべてこともなしだわと意味の通らないままにつぶやき、久しぶりのヒールで暗い夜道をかつかつと鳴らしながら、今日の朝、この道にさしていた日差しの濃さを思い出してみる。

そんないちにちでした。

[] 怒る怒る怒る

とくに怒る理由なんてなくても、きっと、怒ることはかんたんで、でもなんで遠巻きにしているかというと、それがかなり多くの燃料を必要とする作業だとわかっているからだろう。んー、パス、なんていいつつ、実はちょっと、そのエネルギーに後ろ髪をひかれてる。

ぼんやり、平和、はしあわせ、だし居心地も良くて満足。だけど、息切れするとわかっていても、走ればちょっとは気持ちいいし、対岸の花火の美しさにつられる、ようなもので。

たぶん、怒ることって期待することに似てる。

積んであった「子どもたち怒る怒る怒る」を読もうと思ってたのに、なぜか鞄には「となり町戦争」が入ってた。ので、怒る気分のまま戦争に突入。「三丁目が戦争です」みたいな感じかと思ったけど、今のところはそんなことなかった。でも、こういう設定が好きなんだよなと思う。ガンパレとか?

[] 最近どう?

どこの映画館でだったか、東京スカパラダイスオーケストラのドキュメンタリー(なのかな?)映画の予告を見た。

「最近どう、何してるの、仕事は、最近どう」みたいな問いかけが繰り返されるんだけど、もしかしたらそんなに繰り返してないのかもしれないけど、すごく、何回も繰り返されてるような気分になって、だんだんと眉間のあたりに息苦しさが溜まる。あの台詞の文脈を確かめるためにも、映画をみたいと思った。

他にも名台詞が満載で、予告編なのに何度も思い返してしまう、フックのある予告でした。

http://www.skapara-movie.com/index.html

2007-01-04

[] 冬休み終了

長かったような、短かったような、よくわからない感じなのはほとんど引きこもっていたからなのですが、そんなだらっとした冬休みも、今日でおしまい。

最終日だし、いい天気なので、布団干したり、洗濯したり、本棚いじるのに明け暮れていたら、いまさら持ち帰った仕事があることを思い出して、あわてた。

でも明日いったらまた三連休だそうですよ。うれしい。明日は会社帰りに買い物してから、新年会の予定。

[] 本棚

大掃除の続き、というか、本棚の入れ替えをまだやっていて、今日やっとひと段落した。うれしいので(とはいえまだまだ汚いし照れくさいのでちっこい)写真を貼ってみます。

f:id:ichinics:20070105020500j:image

この本棚は作り付けで、奥が深いので前後2列並んでいます。全部で7段の3面。写真にうつってるのは上から2段目〜4段めの左面と真ん中半分。

で、何を入れ替えていたのかというと、ここの本棚には、既に読んだ本だけ並べることにしてるんだけど(積ん読対策のはずが、あまり効果を発揮してない)、もう長いこと最近読んだ本が本棚に入らない状態が続いておりまして、そこで、もう読み返さないであろう本については処分し、最近読んだのを並べるという作業をしていた訳です。なので目の前にある本の大半はこの日記に感想書いた本だったりするなと今思った。

左面には少女漫画と女性作家と村上春樹関連(翻訳もあわせるとすごい量)。中央面には頻繁に読み返す本と男性作家と海外の小説、写ってない右面には青年誌コミックと保存雑誌などが並んでます。できるだけ同じ作家のものはまとめたいので、背の高い本は奥に入れて、奥が見えるていどに前に並べてある、つもり。

ってそれより、別の棚に並んでるのもまとめるつもりなのに、もう既にいっぱいになってしまったのが困りものだ…。元CD屋としては、好きな作家の本は面展とかしたいなと常々思っている訳ですが、まあ無理だよな。これ入れるためにフィギュア棚を潰したのにな…。というかあのフィギュアたちはどうしよう…。

とか悩むのが実は結構楽しいんですけど、なんかいろいろ考えなおさなきゃなとは思う。

でかい地震がきたら確実につぶれる、というのはもうわかりきってるのでよいです。

[] ブラブラ節

高田渡/五つの赤い風船

高田渡/五つの赤い風船

今年こそは本当に うんと働くぞ

そして ああして こうもする

そのいきどまりの大晦日

なった なった なった なった

大晦日が 正月になってまた

おめでたくブラブラ

「ブラブラ節」

というフレーズを思い出して、三が日はこればっかり聞いてました。「自衛隊に入ろう」などの代表曲が多数収録されている、「五つの赤い風船」とのスプリット盤でありデビュー盤。

高田渡の音楽は「明治・大正時代の演歌を基盤にしている」と書かれていたのを読んだ事があって、このアルバムにも唖蝉坊の曲がいくつか収録されているんだけど、それでもこれはたぶん当時の「今」の空気を描いていたのだろうし、その独特の皮肉を交えて描かれた歌詞は、21世紀の今にもそのままあてはめることもできる。ぼくとつとしたメロディーと、「あきらめきれぬとあきらめる」といった言葉を飄々と唄う声は、そこに漂う絶望の匂いも、すがすがしく、やがてぽかぽかと、暖かいものにすら感じさせるのだった。

さがしたけれど どうしてもないよ

夢でひろった お金がない

「事だよ」

スタジオ収録盤なので、お客さんの反応もちらほら入るのが楽しいです。

2007-01-03

[]  2006年振り返り漏れ

Shipbuildingさんの2006ベストを拝見して、大事なことを忘れていたのに気付いた。2006年夏の四季賞をとった市村春子さんの「虫と歌」だ。

感想メモには、どうしても比較したくなってしまう高野文子さんのことくらいしか書いていなくて、自分の節穴さにガックリきてしまうのだけど、あの別冊はあの後、何度読みかえしたかわからないくらいで、今はもうあのラストシーンと、季節の感覚が、目にはっきりと思い浮かぶくらい、だ。

確かにその技法には高野さんの影響がはっきりとあるのだけれど、それをものにしている人というのははじめてみたような気がするし、それよりも「虫と歌」という作品に対する印象を長く長く続く細くてきれない糸のように引きずっているのは、あの物語がとくべつなものだったからだ。

あれは2006年だったか。もうずっと昔に読んだ作品みたいな気がする。

こちらの感想が詳しいです → (http://www.h2.dion.ne.jp/~hkm_yawa/kansou/mushitouta.html

[] 三が日の出来事

1日はおせちを食べて、近所の公園に甘酒をふるまわれに行き、弟はといざらすへ、私は大掃除でまとめた古本を売り、また仕入れてきた後、弟が買ってきてくれたWiiに感激する。つまり、正月があっという間だったのはすべて、Wiiにあけくれていたせいです。

2日は新宿へ買い物に。毎年のこととはいえ、すごい人だった。どこもかしこも混んでいて、マックやエクセにも行列ができているくらい。それなのに、どこかしんとしているのが、正月特有の空気だなと思った。目当てのお店をぐるりと回って、セーターとかセーターとかセーターとか買った。ワンピースも買った。あ、と、化粧品も新調した。ひととおり回った後、小田急屋上の喫茶店で休憩。どよんとした空を眺める。人気のないオフィスビルの窓が寒々しくて、その直線すらぼやけている感じがした。そして帰宅してWii

そしてもう3日。今日は積んであった漫画を読んだり、Wiiやったり。本棚をあけたので、好きな本を全面に並べたりして喜びました。そして、正月休みにやるつもりだったあれこれを思い出して、愕然として今に至ります。

[] Wiiいろいろ

Wii【メーカー生産終了】

Wii【メーカー生産終了】

かえないと思っていたWiiが買えたことにより、今年の正月はWiiに明け暮れてしまったのですが、はじめて触ってみた感想としては、これはなんかもう、新しいおもちゃだなと思う。

コントローラーは予想以上に使いやすいし、センサーの反応もセンサーを意識しないでいいくらいいい。ガンバレットのガンコンのことが懐かしく思い出された。

でも今のところは、この機能をいかしたゲームというのはある程度ジャンルが限られる気がするので、作るほうが難しいんじゃないかって気がします。弟が同時に大神買ってきたんですが、むしろあれをWiiでやりたい。

ソフトはとりあえず「はじめてのWii」と「エレビッツ」を購入しました。

はじめてのWiiWiiリモコンチュートリアルのようなつくりなのですが、これが予想以上に楽しくて、卓球とビリヤードに打ち込んでいます。卓球とか、ラケットに玉があたるとリモコンから「カコン」て音がするのが気持ちいい。振動の感覚も良い。

エレビッツは、ゲームショーでデモプレイを見て、やってみたいと思ってたもの。電気の元となる生き物「エレビッツ」をリモコン操作で捕まえるシューティングゲームみたいなかんじなんだけど、予想以上にあっさりと終わってしまうゲームでちょっと物足りなかった。リモコンで動かせるカメラ操作はとてもスムーズ気持ちいいんだけど、長時間やると画面に酔う。

ほかにやりたいソフトは、ゼルダくらいで、ゼルダを買うか、何かを待つかで迷い中。

エレビッツ

エレビッツ

ShipbuildingShipbuilding 2007/01/04 11:11 あんな適当なものを読んでくれてありがとうです。そういえばあ。とわたしも思い出したものをコソコソ書き足したりしています。何にしろダニエル・ジョンストンのことを書き忘れていたし。イカとクジラもよかったし。
はともかく、イチニクスさんのゲーム感想を読みつつ、プレステ2の調子が悪いので3を買うべきか思案中。Wiiは、あのリモコンを動かすわたしが恥ずかしい。という自意識過剰なんですが、ううん。いっそxbox?

ichinicsichinics 2007/01/05 10:59 Shipbuildingさんのまとめには、思い出されることや新しく教えてもらうことがたくさんあって、楽しませてただいてます。あと、前にダニエル・ジョンストンのことを書かれてるのを読んでから、かれの音楽を聞くときに、Shipbuildingさんの文章思い出したりもしていて。また来日してくれたりすると良いですね。こんどこそは私もゆきたいです。
ゲームはですね、私の感想なんてあてにならないというか、ほんと適当なことしか書いてないのですが、とりあえずWiiリモコンは思ったより恥ずかしくないですよ。CMみたいに動くことはまずないです(ほっとしました)。でもまだあんまりやりたいゲームがないんですよね。PS3も良いんですけど、機能を使いこなせる気がしないので、何も今買わなくても良かったかもなぁ、と、ちょっと思ってます(買ったのは弟なんですが)。結局、今のところやりたいゲームはほとんどXboxかPS2だったりするんですよね。
何か間違ったかもしれません…。

2007-01-01

 あけましておめでとうございます

三が日をすぎてのそのそと動き出すなんて、なんたるだらしなさであることか、と、今日になってやっと思いました。今年はほんと、あっというまの正月だった。

正月は、1年の中でも一番好きな季節です。

31日が終わっていくときの、いろんなことが帳消しになるような感覚と、1日の朝の、日差しが透き通って見えるような、静けさ。

もちろん、そんなのは若干の環境の変化による、ただの錯覚なんだと思います。でもそれなら、この真新しさは、何も特別なことではなくて、毎日感じてもいいことなのかもしれません。

そういえば、子どもの頃は、いつだって毎朝が、果てしない1日のはじまりでした。そして、1日の終わりには、いつだってやり残したことがあった。

なーんもかわんないなと思う。あけましておめでたい毎日。それを再確認する正月。なのかもしれないなと思います。

これを読んで下さった方も、そうでない人も、通りすがりの方も、どこかにいる人も。今年が良い年になりますように。

ここには、今年もまた、日々の記録を書きためたいと思ってます。